シュガー・メルト・ラバーズ


「なんでそんな離れてんだ」

愛しい声が反響する。ちらりと後ろを振り向くと、彼はむすっとした顔で、こちらを真っ直ぐ見据えている。かき上げられた濡れ髪は、大人っぽくて色っぽいのに、浮かび上がるその表情は、まるで拗ねた子供のようだ。

「だ、だって…恥ずかしくて…」
「昨日も見たし、さっきも見たろ」
「そうですけど!そうじゃなくって!」
「どっちだ」

確かに彼の言う通り、すでに散々見られているし、今さら恥じらってみたところで、というのは一理ある。だけど。

「なまえ、こっち向けって」
「む、無理です…!絶対無理…っ!」

そういうことを経験したとて、一緒にお風呂に入るというのは、さすがに難易度が高すぎた。頑なに背中を向けたまま、出来るだけ身体を小さく丸めて、見える面積を少なくする。
しかしそんな抵抗は虚しく、がっしりとした二本の腕が、すっと肩越しに伸びてきて、そのままずるずると引き寄せられた。無駄な抵抗と分かっていつつも、もぞもぞと身体を捩ってみるが、焦凍さんは腕にぐっと力を入れて、私を完璧にホールドした。

「なぁ、こっち見てくれよ。寂しいだろ」

ぴたりと肌を寄せながら、鼓膜を掠めたその声に、身体が自然と小さく跳ねた。天然なのか、わざとなのか、彼の挙動の一つひとつに、どうしたって翻弄される。

「で、でも…」
「早く」
「じゃ、じゃあ…目、瞑っててくれますか…?」
「それじゃ見えねぇだろ」
「さっき見たんだから、いいじゃないですか…!」
「嫌だ。見たい」
「な、なんで、そんな…見たって別に、面白くもなんとも…」
「お前が可愛いから見たいんだ」

ぎゅっと後ろから私を抱き締めて、懇願するようにそう呟く焦凍さんに、思わず顔を俯かせた。あらゆる意味で、色々無理だ。ドキドキしすぎて死んでしまう。ここが彼の家のバスルームではなく、例え極寒の地であろうと、焦凍さんがそばにいるだけで、のぼせ上がってしまいそうだ。

こんなの絶対、私の方が好きだ。

彼は自分のことを、余裕も自信もない男だと言っていたが、その薄い唇から紡がれる甘い言葉の数々からは、少しもそれを感じさせない。まだ記憶に新しいはずの、余裕のなさをアピールするエピソードの数々が、私の聞き間違いだったのではないかと、そう思ってしまうほどに。
経験の差、というやつだろうか。かたや恋愛経験ゼロの、どこにでもいる大学生。かたやモデルや女優と噂になるほどの、人気若手ヒーロー。年齢差を差し引いても、見るもの聞くもの知っているもの、おそらく天と地ほどの差があるのだろう。

分かってはいた。けど ───




「がっかりしたか?」

ぼんやりとそんなことを考えていると、何を思ったか焦凍さんは、突然そんなことを口にした。

「え?」
「こんな奴で、がっかりしたか?」
「え、あの…なんでですか?」
「いい歳してこんなこと言って、お前のこと困らせて、全然大人じゃねぇから」

少し不安げな声色で、そう尋ねてきた焦凍さんに、思わず吹き出して笑ってしまう。今私が考えていたことと、全くの逆のことを言い出す彼が、なんだか少しおかしくて、なんだかちょっぴり、可愛くて。

「笑うなよ」
「ふふ、すみません。…ふっ」
「なまえ」

堪えきれずにもう一度声をあげると、焦凍さんは釘を刺すように、低い声で私の名前を口にした。恐る恐る顔を向けると、彼は先ほどよりも不機嫌そうな表情で、私をじっと見下ろしていた。

「ご、ごめんなさい。でも…悪い意味じゃないんです。なんか焦凍さん、可愛いなぁって」
「可愛い…?俺が…?」
「はい」
「男だぞ」
「知ってます」

私がそう口にすると、彼はいまいち納得出来ない様子で、首を僅かに傾けた。

「嫌でしたか…?」
「嫌っていうわけじゃねぇが…男で嬉しい奴は、あんまいねぇんじゃねぇか。たぶん」
「私は言われると嬉しいんですけど…男の人は嬉しくないんですね…」
「他の奴にはどう思われようと別にいいけど、好きな奴には、かっこいいって思ってもらえる方がいいだろ」
「それはもう十分、 ─── 」

もう十分、そう思ってます。

零れかけたその本音に、慌てて口を噤んでみるも、時すでに遅し。それはしっかりと彼の耳に届いてしまったようで、つい先ほどまでの不機嫌な顔はどこへやら、焦凍さんは口角を上げながら、嬉しそうに顔を綻ばせた。

「十分、なんだ?」
「いや、その、えっと…」
「なんだ」
「わ、分かってますよね…!?」
「分かってない」
「う、嘘ですよ!絶対分かってるじゃないですか!」
「俺の解釈が必ずしも正しいとは限らねぇだろ?」

彼はにやりと笑いながら、そんなことを口にした。ちょっと意地悪な笑顔にさえ、しっかりと胸がときめいてしまう。

「で。十分、なんだ?」

分からないなんて、絶対嘘。
この人絶対、確信犯だ。

そんなことは分かっている。分かっているのに逆らえない。惚れた弱みというやつは、なんて厄介なものなのだろう。

「か、かっこいいと、思います…」

絞り出すようにそう言うと、彼はそうか、と短く呟いて、私の頬に手を添えた。ゆっくりと顔が近づいてきて、たまらずぎゅっと目を閉じると、ほんの少しの間を置いて、そっと唇が重ねられた。最初は軽く、何度か口付けられた後、頭の後ろに手を回されて、徐々にそれは深く、激しくなっていく。

「ん…しょ、とさ…」
「もう一回、いいか?」

熱を孕んだその瞳で、じっと見つめられてしまえば、それを拒む選択肢はない。同意の意味を込めて、彼の首に腕を回すと、もう一度その唇が、私に向かって降りて来た。

私、また、この人に ───

抱かれてしまう。そう思った瞬間だった。互いのそれが重なり合う寸前、音が反響するその場所に、ぐううう、というなんとも間抜けな音が響き渡った。そして私は思い出した。そういえば自分が昨日の昼から、ほとんど何も口にしていなかったことを。

「ふっ、はは…っ、お前…本当に素直だよな。色々と…」
「わ、笑わないで下さい…恥ずかしくて、死にそうです…」
「身体見られるよりもか?」
「…っ、焦凍さんのばか…っ、へんたい…っ」

水中で手足をバタつかせ、暴れ回る私を余所に、彼はそれすらも楽しげに、喉の奥をくつくつと鳴らした。

「分かった分かった。とりあえず、なんか食おうぜ。俺も腹減ったから……ふっ」

焦凍さんは堪えきれずに、吹き出すように笑ってみせた。もしやこれはさっき仕返しなのだろうかと、ほんの一瞬思ったものの、こんなふうに笑ってくれる彼を見られるなら、それはそれでもいいかもしれない。そんなことを、思ってしまった。







「お。ぷつぷつしてきた」

少し離れたその場所から、涼やかな顔で可愛らしい擬音を呟く彼に、思わずくすりと笑みが零れた。

「こうなってきたら、ひっくり返します」

フライパンに落とした丸い生地を、フライ返しで裏返すと、きつね色に焼けたそれを見て、焦凍さんは小さく声をあげた。

「すげぇな。写真のやつみてぇだ」
「熱したフライパンを、濡れた布巾で一度冷ましてから生地を入れると、綺麗な焼き色になるんですよ」
「あぁ…さっきのは、そういうあれなのか」
「はい。新しい生地を入れる前に、その都度やるのがポイントです。フライパンが熱くなりすぎると、焼き色にムラが出来たり、表面が綺麗でも中が生焼けになっちゃったりするので…」
「さすがに詳しいな」

感心した様子で目を丸くする彼に、再び自然と顔が綻ぶ。調味料以外では卵と牛乳しか入っていない冷蔵庫を見た時は、さすがにどうしようかと思ったが、以前お姉さんが来た時に置いていったという、ホットケーキミックスを発見した瞬間、スーパーでよく見かけるその箱に、眩い光が差したように見えた。

「けど、なんか意外でした。焦凍さんがホットケーキ『食べたい』って言ったの」
「そうか?」
「半分くらいは、冗談だったんです。焦凍さん、甘いものをご飯として食べるイメージないですし」
「まぁ、実際そうではあるんだが…食材買いに行くのも面倒だし、それに甘いもんなら、ここに専門家がいるしな」
「あはは、まだまだ見習いですけどね。……ところで、あの、焦凍さん」

身に余るその呼び方が、擽ったくて落ち着かない。しかしそれ以上に落ち着かない理由が、実は別のところにあって。

「どうした?」
「その…さっきから、なんで私は撮られているんでしょうか…?」

先ほどからずっと気になっていたことを、ようやく彼に問いかけると、焦凍さんはスマホの画面から視線をずらして、不思議そうに私を見た。確かに彼が近くにいたら、集中して料理など出来そうにないのだが、一定の距離が保たれていても、これはこれでやりづらい。

「嫌か?」
「い、嫌っていうか…その、撮ったところで、別に大して面白くもないでしょうし、記録に残すようなものでもないかな…なんて…」
「そうか?結構面白いぞ」
「そうですか…?ただフライパンで、ホットケーキを焼いてるだけですけど…」
「人が料理するところは、普段見ねぇから新鮮だ。それにこうして残しておけば、いつでも好きな時に、お前が見れるだろ」

そんなことを口にした彼の方へ、パッと勢いよく顔を向けると、何か問題でもあるのかと、焦凍さんはそう言いたげな様子で、首を少しだけ傾けた。

「み、見るんですか…?」
「見るだろそりゃ。そのために撮ってんだから」

しれっと肯定してみせると、彼は再びスマホの画面に視線を落とした。こんな大して可愛くもない女が、ノーメイクでホットケーキを焼いている動画など、客観的にならずとも微妙なコンテンツだと思うのだが、焦凍さんはどことなく嬉しそうな表情を浮かべながら、そのままその画を撮り続けていた。後から彼が一人でそれを見返しているところを想像すると、少し、いや、かなり恥ずかしい。

「あ。赤くなった」
「そりゃあ…なりますよ…そんなこと言われたら…」
「はは、可愛い」
「ちょっと黙っててください…っ!」

少し強めにそう吐き捨てて、彼から思い切り顔を背けた。恋人同士というものは、これが普通なのだろうか。ドキドキするのにふわふわして、緊張するのに心地よくて、自分自身がよく分からない。
そんなことを考えながら、最後の生地を流し入れると、ふっと笑う声が聞こえた。ちらりとそちらに視線を送ると、既に焦凍さんの姿はなく、思わず小さく声を上げると、それを合図にしたかのように、突然背中に熱が触れる。その正体はもちろん、振り向かなくても分かっているが、ぎゅっと抱きしめられてしまえば、私の胸の高鳴りは、さらに大きくなっていく。

「もう、撮らないんですか…」
「十分撮れたから」
「そ、そうですか…」
「それと、実物の方が可愛いことに、今さらながら気づいた」
「…っ、もう出来ましたから食べましょう!一刻も早く!だから離れてください…!」

蕩けるような甘い言葉は、私を思い上がらせる。いとも簡単に夢中にさせる。それに溺れてしまったら、きっと私は抜け出せないから。

「ふ、そんなに腹減ってんのか?」
「いやまぁ、お腹は空いてますけど…って、そうじゃなくて…っ、ていうか焦凍さん、絶対分かってますよね!?」
「なんの話か、さっぱり分かんねぇな」
「もー!!」

しれっと惚けてみせる彼に、その場で大きく声をあげると、焦凍さんはとても楽しそうに笑いながら、腕の中から私を放ち、いつものようにぽん、と優しく、私の頭に手を置いた。

「本物の方が、やっぱり可愛い」

そう呟いた彼の肩を、ぱしん、と軽く叩いてみると、焦凍さんは少し驚いていたが、そのまま私の腕を引き寄せて、ぎゅうっと強く抱きしめてくれた。

「可愛い。好き。すげぇ好き」

きっともう、手遅れだ。もう抜け出せなくなっている。彼に溺れて、満たされて、あとはゆっくり沈んでいくだけだ。

「…私も、大好き、です」

互いにじっと見つめ合うと、自然にちゅ、と唇が触れた。すると目線の下の方から、ぐーという呑気な音が、静かなキッチンにこだました。今度はどうやら彼のものだったらしく、焦凍さんは小さく声をあげると、少しだけ照れたような顔をした。

「……食うか」
「ふふ、はい。冷めないうちに食べましょう。あ、はちみつとバターがちょうどあったと思うので、借りてもいいですか?」
「あぁ」

バターとはちみつを上に乗せ、引き出しから取り出した二つのフォークを添えたお皿を、リビングのテーブルにそれぞれ運ぶ。ソファの前に腰を落とし、並んで一緒に手を合わせると、心がぽかぽかと暖かくなった。こうして誰かとごはんを食べて、同じ時間を過ごすことは、ほんの些細なことだけど、とても尊いことだと思う。それが大好きな人ならば、なおさら。

「どうですか?ホットケーキ」
「ん。んまい」

もぐもぐと口を動かしながら、そう呟いた焦凍さんの頬は、ぷっくりと丸く膨らんでいて、まるでハムスターみたいだな、とうっかりそんなことを思ってしまい、自然と口から笑いが溢れた。

「なんだ?」
「あ、いえ、えっと…おかわりあるので、たくさん食べてくださいね」

彼は小さく頷くと、フォークで切り取ったホットケーキを、次々と口に放り込んだ。私もかなりお腹が空いていたはずなのだが、清々しいほどの焦凍さんの食べっぷりに、自分の空腹まで満たされていくような気がする。

「ん」

ぼーっとそれを見ていると、あっという間にそれを食べきった彼は、再び口をもぐもぐさせながら、お皿をずいっと前へ突き出した。その光景を目にした瞬間、今となっては懐かしい、いつかの記憶が蘇る。

なんだろう。
ほんの一瞬、弟の小さい頃がよぎったような。

普段の大人っぽさからか、今まで全く意識しなかったが、そういえばこの人が、四人兄弟の末っ子だったことを、今さらながら思い出した。

「なまえ?」
「あ、すみません…っ、すぐ持ってきますね!」
「あぁ」
「牛乳まだありますから、持ってきますか?結構喉乾きますよね?」

そう尋ねると、彼は少しだけ考えてから、じゃあ頼む、と口にした。一度その場から立ち上がり、キッチンの冷蔵庫から牛乳を取り出して、棚から取り出した不揃いな二つのグラスに、それをたっぷり注ぎ込む。新しいホットケーキをお皿に乗せ、バターとはちみつを添えてから、それぞれ片手でお皿とグラスを持ち、また同じ場所に戻っていく。

「グラス勝手に使っちゃいましたけど…大丈夫でしたか?」
「あぁ。…今さらだけど、ありがとな。飯作ってくれて」

目の前に置かれたグラスを見つめながら、焦凍さんはそう呟いた。

「全然ですよ。むしろ、簡単なものですみません」
「美味かったぞ。気が向いたらまた作ってくれ」
「焦凍さんに食べてもらえるなら、毎日でも作りますよ」
「毎日?」
「はい。あ、もちろん例え話ですよ?毎日なんて飽きちゃいますし…気持ち的にはそれくらい全然出来ますって意味です」

何気なくそう口にすると、焦凍さんは少しの間を開けてから、カチャ、とフォークをお皿に置き、そのまま深いため息をついた。

「お前なぁ…」
「え、あの…私変なこと言いましたか…?」
「いや、そうじゃない。むしろ逆」
「じゃあどうして、私はため息をつかれたのでしょうか…」
「……知りたいのか」
「まぁ…はい。知りたいです」

そう言いながら頷くと、彼は私の頬にそっと手を添えながら、切れ長の綺麗な色違いの目で、射抜くように私を見た。

「え、えっと…?」
「お前が、可愛いことばっか言ってくるからだよ」

その言葉を、きちんと頭で理解する前に、焦凍さんは私の両肩を掴んで、そのまま床に押し倒した。カーペットの繊維が首筋に触れて、ほんの少しだけくすぐったいが、そんなことよりも、彼に押し倒されているというこの体勢が恥ずかしくて、顔がかあっと熱くなる。

「ちょ…っ、あの、待っ、んっ…」

私の制止を聞くことなどなく、彼は私に覆いかぶさり、私の唇に食らいついた。深くて長いキスの後、一度唇が離れてからは、啄むようにキスを繰り返されて、彼に口付けられる度に、身体の力が抜けていく。

「は、ぁ…しょうと、さ…」
「ん…?」
「あの…まだ、残って、ますけど…」

熱を孕んだその視線が、だからどうしたと言いたげに、私をじっと見下ろしていた。分かっている。そんな理由でやめてくれるほど、今のこの人は理性的じゃない。再び近づく唇が、触れるか触れないかのその場所で、ぺろりと下唇を舐められて、身体がぞくりと震え出す。そんな私を見た彼は、嬉しそうに目尻を下げて、薄い唇を開いてみせる。

「好きなもんは、食いたい時に食いてぇタチなんだ。覚えといてくれ」

彼は私の髪を指で掬い取り、あっけらかんとそう口にした。

「……焦凍さんの、えっち」
「お前にだけだよ」

もう一度頬に触れ、愛おしそうに目を細める。そんなふうに見つめられて、甘い言葉を囁かれれば、これから待ち受けるその運命に、逃れる術などありはしない。

「お前にだけ、だから」

耳元で、ダメ押しのように呟かれると、彼の太い首元に、自然と腕が伸びていく。それを同意と受け取ったのか、焦凍さんは私の頬に軽く口付けると、いただきます、と小さく呟き、貪るようなキスを降らせた。







肩越しに見える空に一つ、小さな星が瞬いていた。

「すみません。毎回毎回、家まで送ってもらって…」

申し訳なく思ってそう言うと、なぜか彼は不服そうな表情を浮かべながら、呆れたように息を吐いた。

「あんなことがあったんだから、当たり前だろ。本当は通学の往復だって、送っていきたいくらいなんだぞ」
「い、いやいや…!そんなことさせられませんよ…!」
「けど、また変な奴に絡まれたりしたら、すぐに電話しろよ。迎えに行ってやるから」
「そう言ってくれるのは嬉しいですけど…焦凍さんにはお仕事がありますし…さすがにそれは難しいんじゃ…」
「仕事中だろうが、地球の裏側にいようが、絶対行く。俺にとって一番大事なのは、お前だから」

きっぱりとそう言い切った彼に、顔が一気に熱くなった。昨日から数えて、これで一体何度目だろうか。ドラマや映画から切り取ったような、普通の人なら絶対に言えないセリフを、平気でさらりと言えてしまうこの人は、やはり只者ではない。

私なんかより、この人の方がよっぽどだ。

夢の中にいるんじゃないかと、今でもそう思ってしまうようなこの状況で、さらに追い打ちをかけられて、どうしていいか分からない。

「私から言わせれば、焦凍さんの方が、全然威力が桁違いだと思います…」
「なんの話だ?」
「いえ、こっちの話です…お気になさらず…」

消え入るようにそう呟くと、焦凍さんはそうか、と短く返事をしてから、何かを思い出したように、あ、と小さく声をあげた。

「どうしたんですか?」
「これ、渡しとく」

彼はそう言うと、ポケットから何かを取り出して、それを私に差し出した。それに合わせて手を開くと、何もついていない銀色の鍵が、暗い車内できらりと光った。

「なんの鍵ですか?」
「俺の部屋の鍵」
「え!?」

唐突かつ、斜め上すぎる贈り物に、思わず声を張り上げた。まさかたった一日で、恋人から部屋の鍵をもらうことになろうとは、誰が想像出来ただろうか。

「いや、なんでそんなに驚いてんだよ」
「だ、だって…家の鍵ですよ…?いいんですか…?こんな大切なもの…私に…」
「あぁ。好きな時に来ていいぞ」
「す、好きな時にって…」
「連絡してくれれば、なるべく調整するようにするけど、別に勝手に来てもらってもいい。その辺はお前に任せる。けどまぁ、夜に来てもらうのが、一番会いやすいかもな。宿直を除けば、ひとまず家には帰るし…」

聞きたかったこととは若干ズレているのだが、どうやら彼は本気らしく、淡々と具体的な話を続けた。

「ほ、本当にいいんですか…?」
「だから、そう言ってるだろ」
「ま、毎日行くかもしれませんよ…?」
「どうぞ」
「えと…か、隠してるエッチな本とか、見つけちゃうかもしれませんよ…!?」
「そんなもんはねぇ」
「う、嘘だぁ…」
「嘘だと思うなら探してみろ。家中隈無く見ていいぞ」
「ほ、ほんとに持ってないんですか…?」
「そもそもの話、そんなもんなくたって、俺はお前で十分満ぞ」
「わー!!待って待って!!それ以上は言わないでください…!!」

おそらくだが、とんでもないことを言おうとした焦凍さんの口を、鍵を持つ方とは反対の手で、慌ててぱっと押さえつけた。彼はきょとん、とした表情を浮かべてから、その手を軽く掴み上げると、自分の方へと引き寄せて、そのまま私を抱きしめた。

「本当に可愛いな、お前は」
「もう…そうやって私で遊ぶの、やめて下さい…」
「遊びじゃねぇ。本気だ」
「そういうことではなく…!」

必死に私が訴えかけると、焦凍さんは落とすように笑って、私の頭にそっと手を置き、髪を優しく撫でてくれた。それを数回繰り返されると、声を荒らげたことがバカらしく思えるほどに、心がふわりと軽くなる。

あぁ、やっぱり好き。大好き。

そんなことを思いながら、その腕の中でじっとしていると、わずかな沈黙が流れたあと、焦凍さんは私の名前をぽつりと呼んだ。

「大事に、するから」

ほんの少しだけ、腕に力をぐっと込めて、彼は私にそう告げた。

「え…?」
「仕事柄、外で会ったりとか、あんま出来ねぇし、お前に心配かけたりとか、不安にさせたりとか…極力ないように頑張るけど、そういうこともたぶん…あると思う」
「……はい」
「普通の奴と付き合えば良かったって、そう思わせたりするかもしれないし、この間のデートの時みたいに、俺のせいで泣かせたり、嫌な思いさせたりとかも、するかもしれない」
「そんなことは」
「けど、本気だから」

焦凍さんはそう言うと、私の頬に手を添えて、自分の方へと向けさせた。暗い車内でも分かるほど、その目はとても綺麗で、とても強くて真っ直ぐで。

「本気で好きなんだ。お前が」

どうして、だろう。
この人は、どうしてこんなに真っ直ぐに、私を想ってくれるんだろう。

「だから、大事にする。お前のこと、不安にさせないように、努力する」

その言葉は、私に対してというよりも、むしろ彼自身が、それを自分に背負わせているような、そんな重さを、ほんの少しだけ感じてしまった。

「嫌です」
「え」
「大事にされるだけじゃ、嫌です。私も、焦凍さんのこと、大事にしたいです」

なんの力もなければ、これといった取り柄もない。だけどこの人を好きだと、大事にしたいと思う気持ちは、きっと誰にも負けないはずだ。

「そう、言われるだろうなって、思った」

ぽつりぽつりと呟くと、焦凍さんはくしゃりと笑い、目の前にいる私を見た。とても嬉しそうなのに、どこか泣きそうにも見えるその顔が、どうしようもなく愛しくて、自然と吸い寄せられるように、彼の薄い唇へ、自分のそれを重ね合わせた。

「お、まえ…っ、今、なにして…っ」

私の行動が予想外だったのか、彼はかなり慌てた様子で、自身の唇を右手で覆った。

「え、す、すみません…ダメでしたか…?」

恐る恐るそう尋ねると、今度は顔全体を右手で覆い隠しながら、焦凍さんは無言のまま、首を何度か横に振った。

「えっと…あの、焦凍さん」
「……なんだよ」
「もしかしてその、照れて、ますか…?」
「あぁそうだよ。他にあるかよ」

投げやりにそう吐き捨てた彼を見て、思わずくすりと笑みが零れた。

「何笑ってんだ。なまえ」
「いえその、なんか…嬉しくて」
「何が」
「焦凍さんでも、こんなふうになってくれるんだなぁって、思って…」

不謹慎かもしれないけれど、こうして彼が心を動かすその理由に、私という存在がいることが、なんだかとても嬉しくて。

「お前は何も分かってねぇ」
「え…!?」

焦凍さんはぴしゃりとそう言い放つと、ようやく右手を顔から退けて、私の頬を両手で挟む。

「自慢じゃねぇが、俺はお前に相当弱いぞ」

怒っているような、けれどどこか得意げに、彼は私にそう言った。

「そ、そうなんですか…?」
「そうだ。お前に『嫌い』って言われた時なんか、しばらく何してたか記憶にねぇぞ」
「……ごめんなさい」
「でも逆に、なまえが笑ってくれると、頑張ろうって、すげぇ思える」
「お、大袈裟ですよ…」
「大袈裟じゃねぇ。お前が笑ってくれんなら、なんでも出来るって、そう思う」

こつん、と額をあてながら、彼は穏やかにそう口にした。触れる手も、視線も、声も、全部全部優しくて、とても大切にされていることが、しっかり心に伝わってくる。

「……焦凍さん」
「ん?」

こんなに人を愛することは、きっともう、二度とない。
絶対もう、二度とない。

「好きです」
「ん。知ってる。俺も、好きだよ」

自然と顔が近づいて、互いの唇が重なり合う。確かめ合うように、何度も何度も口付けて、彼は私に、私は彼に、互いの存在を刻みつける。会えなくても、離れていても、いつでも思い出せるように。

「 ─── 電話」

ようやく唇が離れると、焦凍さんは唐突に、ぽつりと一言そう呟いた。

「え…?」
「寝る前に、電話してもいいか?」
「はい…じゃあ、待ってます…」
「明日もいいか?」
「はい」
「明後日は」
「ふふ、じゃあ明後日は、私がかけます」

笑いながらそう言えば、彼もふっと軽く笑って、そっと私を抱き寄せた。

「愛してる」

低く愛しいその声が、魔法の言葉を私にくれる。世界でいちばん幸せな女の子になれる、そんな不思議な言葉をくれる。

「私も、愛してます」

溢れる気持ちをありったけ込めて、自然と私もそう呟くと、彼は私の頬を撫で、薄く開いたその唇を、優しく私のそれに重ねる。まるで永遠のような、長い長いキスをして、名残惜しむように互いの唇が離れると、焦凍さんは小さく笑って、腕をもう一度ゆっくりと伸ばし、私を強く、強くその手で抱きしめた。


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2022.01.06

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