誓い


「よし、完成」

テーブルに並んだ二人分の朝食に、どうしようもなく顔が緩んだ。今ここにはいないこの家の主は、おそらくまだ夢の中で、起きたらどんな反応をするか、楽しみでもあり不安でもある。もしかしたら余計なお世話だったかもと、そんなことも思ってしまって。

「そろそろ起こした方がいいかな…」

壁にかけられたシンプルな時計を見上げると、時刻は午前7時14分。家を8時半に出ると言っていたので、そろそろ起こしてもいい頃だろうか。男の人の身支度というのが、一体どれくらいかかるものなのか、いまいちピンとこないものの、少なくとも遅れるよりはいいだろうと、少し悩んだその末に、彼が寝ている寝室へ向かった。




「焦凍さん、朝ですよ」
「んー…」

眠たそうに唸り声をあげながら、閉ざされていた彼の瞼がそっと静かに開かれた。布団の近くに放り投げられたスマホを手に取り、焦凍さんは画面を見つめて、少し怪訝な顔をする。

「すみません、まだいつも寝てる時間でしたか…?」
「いや…そろそろ、起きる…」

気だるげな声でそう言いながら、彼はゆっくり身体を起こして、近くに座る私に向かって、はよ、と小さく挨拶をした。焦凍さんはそう言いつつも、しばらく俯きがちにぼんやりした様子だったが、急にハッと顔を上げ、私の方をじっと見た。

「あの…どうかしましたか?」
「実家みたいな匂いがする」
「実家、ですか?」
「もしかして、朝飯作ってくれたのか?」

キッチンとリビングから漂うその匂いに気づいたようで、彼は落とすように笑いながら、穏やかにそう問いかける。

「あ、はい…ちょっと早く起きちゃったので、昨日の残った食材で適当に…あの、余計なことだったらすみま」

そこまで口にしたところで、焦凍さんは私の腕を取り、そのまま自分の方へと引き寄せた。

「あ、あの、焦凍さん」
「今から俺は、ヒーローとしてあるまじきことを言う」
「は、はい…?」
「……あー、家に帰したくねぇ…くそ…」

絞り出すようにそう言うと、彼はその腕の力を強めて、強く私を抱きしめた。その言葉が耳に届くと、胸がきゅうっと締め付けられて、全てを投げ出してみたくなる。

「また、会いに、来ますから」

全てを投げ出してしまいたい。そんな気持ちを押さえ付け、ぽつぽつとそう呟くと、焦凍さんは腕の力を緩めながら、そっと肩を落としてみせた。

「いつだ」
「え…」
「いつ、来てくれるんだ」
「えと…木曜日の夜、とかなら…」
「ん。じゃあその日はなるべく早く帰れるようにする」
「は、はい…あの、でも…」
「どうした?」
「短い時間でも、会えればそれで充分なので…その、無理はして欲しくなくて…」
「それを言うならお前もだぞ」
「私、ですか?」

小さくそう問いかけると、彼は私の身体をすっと離して、頭に軽くその手を置いた。

「毎回飯作ったりとか、土産持ってきたりとか、別にしなくていいからな」
「でも、家にお邪魔してるわけですし…」
「いつでも来ていいって言ったのは俺だし、俺はなまえの顔が見れればそれでいいんだ」
「でも…なんかそれだと、私の気が収まらないと言いますか…」
「お前がそうしたいなら、もちろん好きにしていいぞ。ただ無理して頑張って、お前に"疲れた"って思って欲しくないだけだ」

焦凍さんの視線に、声に、言葉に、あぁすごく大事にされてるんだって、それをいつも実感する。まるでお日様に照らされたみたいに、気持ちがぽかぽかして、自然と笑みが込み上げた。

「なんで笑ってんだ。なまえ」
「あ…いえ…その、大事にしてもらってるなぁと、思いまして…えへへ…」

烏滸がましくもそう言うと、彼はぽかんと口を開けてから、照れたように笑ってみせた。もう一度その腕に引き寄せられて、自分の身体を預けると、規則的な鼓動の音が鼓膜を揺らす。それがとても心地良くて、それはとても、優しい音だった。







「で。どんなケーキにするかはもう決めてるの?」

手に取った買い物かごを手渡すと、ちーちゃんは私にそう尋ねた。

「それがまだ全然イメージ固まってなくて…結構時間かかっちゃうかもだけど、平気…?」
「今日はバイトもないし、暇だから大丈夫よ。けど意外ね。てっきりもうイメージ出来てるもんかと思ってたけど」
「うーん…私も、最初に要項見た時、パッといくつか浮かんだんだけど…どれもあんまりしっくり来なくて…」

初恋というテーマを目にした時、初めて頭に浮かんだものは、やはり彼の顔だった。それから間もなくして、頭の中にいくつかイメージも浮かんできたものの、どれもがありきたりすぎて、結局そこからの進展は今ひとつだった。

「なんとなくしっくり来ない時ってあるわよね。まぁゆっくり決めればいいんじゃない?まだ締切まで、結構日にちあるんでしょ?」
「うん。だから今日はひとまず色んな食材を見て、インスピレーションを湧き上がらせます」
「オッケー。じゃあ順番に回って行きましょ」

バスで20分ほどかけて、この近くで最も大きな業務用スーパーにやって来た。少しでも何か、アイデアに繋がるものに出会えれば。そんな気持ちを携えて。

「ところで、彼はコンペに出ること知ってるの?」

青果売場にずらりと並ぶ、色とりどりの果物を見ていると、彼女は唐突にそんなことを口にした。

「彼って、焦凍さんのこと?」
「そ」
「うん。知ってるよ。『頑張れよ』って言ってくれた」
「ほほう。それで、今回のテーマについてはなんと?」

にやりと含み笑いをしながら、ちーちゃんは私の腕を肘で軽くつついてみせた。もちろんその話はしているし、彼から反応もあったわけだが、さすがにその一連の出来事は、恥ずかしすぎて口に出来ない。

「え、えーっと…なんか話したような、話してないような…?」
「嘘つけ。めちゃめちゃ目が泳いでんじゃないの」
「いや、その…」
「あ、分かった。どうせあれでしょ。『お前の初恋ってもしかして』からの、『焦凍さんに決まってるじゃないですか』とかなんとか会話して、その後いちゃいちゃしてたんでしょ」

ほぼ当たっている見事な推理に、思わず肩がぴくりと跳ねた。それを肯定と捉えたのか、美人な幼なじみはさらに口角を上げて、してやったり顔で笑ってみせた。

「いいわねぇ。ラブラブで」
「ち、ちーちゃん…まさかとは思うけど…私の鞄に盗聴器とか…」
「つけるかいそんなもん!反応見りゃバレっバレなのよ!この恥ずかしバカップルが!!」
「ば、バカップルじゃないし…!」
「それじゃあ聞かせていただきますけど、彼女の初恋相手が自分だって知ったあの男は、あんたになんて言ったのよ」
「そ、そんなの覚えてないよ…っ」

もちろんそれは、真っ赤な嘘だ。忘れてなどいない。忘れるわけがない。射抜くような真っ直ぐな目で、それを口にした彼の顔は、ほんの少しだけ余裕がなくて、今思い出してもドキドキする。それをあんな間近で目にしたあの時の私は、どうやって息をしていたんだろう。

「覚えてない、ねぇ?」

含みのある言い方で、彼女は小さく首を傾げた。明らかに何かを察しているちーちゃんの視線に、どうにも恥ずかしくなってしまい、顔がじわじわと赤くなった。

「ちょ、ちょっとなんですかっ、その顔は…っ」
「このバカップルが」
「何も言ってないでしょ…!」
「顔が既に語ってんのよ。あんたは」
「う…っ」
「でもあれよね。なんていうか、くっつく前は色々ゴタゴタしてたけど、話を聞く限りは、至って順調な感じよね、あんたたち。付き合ってそろそろひと月くらいだっけ?」
「う、うん。明日でちょうどひと月だね」
「どれくらい会ってんの?」
「週に二回くらいかな…午後授業がない日とか、焦凍さんが午後から仕事の時とかに会いに行く感じで…」
「思ったよりは、結構会えてんのね」

焦凍さんの仕事が忙しいため、丸一日デートに行くとか、そういうことはなかなか出来ないが、彼が一緒の時間を作ろうとしてくれたり、仕事の合間を縫って電話やメッセージをくれるだけで、私はとても幸せな気持ちになれていた。

「今のところ、不満とかも特になし?」
「ないない!不満なんて言ったらバチが当たるよ!焦凍さんいつも優しいし、すごく大事にしてくれるし…!」
「ふーん」
「あ、でも…不満じゃなくて、気になることがあって…」
「気になること?」
「焦凍さんって、私がどう思ってるのかを、すごく気にしてる感じなんだよね…」
「そりゃあ気にするでしょ。付き合ってんだから」
「それはそうなんだけど…なんていうか、いつも嫌じゃないか、大丈夫かって、聞いてくるの。すごい細かいことまで」

それが嫌だというわけじゃない。ただなんとなく気になっている。あれだけかっこよくて、きっと今までも色んな人と付き合ってきただろうに、どこか自信なさげなその言葉たちは、一体どうしてなのだろうと。

「あくまであたしの予想だけど、過去に付き合った相手から、何か言われたとかじゃないかしら」

私のそんな疑問に対して、彼女は少し上に目線を向けると、そんな考察を口にした。

「何か…って?」
「それは分かんないわよ。けど何考えてるか表情読めないし、女心とか疎そうだし、そもそも忙しい人だし、付き合うとなったら大変そう」
「そうかなぁ?そんなこと思ったことないけど…」
「自覚ないまま不安にさせて、相手の方からフラれるとか、すごいありそうな気がする」
「焦凍さんをフるなんて、そんな勿体ないことをする人が…!?」
「期待値が高ければ高いほど、裏切られた時の反動は大きく出るのよ」
「反動かぁ…」

それなら少しだけ、分かるかもしれないなぁ…。

私たちの関係にまだ名前がなかった頃、彼に裏切られたような気持ちになって、酷く落ち込んだことがあった。結果的にそれは私の勘違いだったわけだけど、あの状況がずっと続くのだとしたら、確かにそれは側にいる方が、かえって辛いことなのかもしれない。

「まぁ、今のはあくまで推測だけど、いずれにしろあんたのことは大事にしたいって思ってくれてるからこその言動だと思うから、そんなに深く考えなくてもいいんじゃない?」
「うん…まぁ、そうなのかな…」
「そうそう。…あ、ねぇなまえ、これ見てよ」

ちーちゃんが指差すその先に、そっと視線を動かすと、そこはやや季節外れの苺のコーナーで、あらゆる品種の真っ赤な苺が並ぶ中、彼女が指を指すそれは、淡い桃色をしているものだった。

「わ、これ、"初恋の香り"じゃん…!スーパーで売ってるのなんて、初めて見た…!」
「まさしくって感じの名前ね」
「白い苺が話題になったきっかけの品種なんだよ。これ。こんなところに売ってるなんて…!」
「白っていうか、どちらかと言うとピンクに近いわね」
「ほっぺがピンク色に染まるイメージから、この名前になったんだって」
「へぇ、さすがに詳しいわね」

珍しく感心した様子でそう言うと、彼女はそれを一つ手に取り、品定めするようにじっと見つめた。

「でもやっぱり仕入れ値が高いわね…審査項目の量産性っていう視点で見ると…」
「そうだね。量産品として使うには、ちょっと厳しいかも…限定10個、とかみたいなケーキならいいけど…1パック2000円はちょっと…」
「見た目とネーミング的には、すごくピッタリなんだけどね。見た目も目立つし」
「ね!あーでも、コンペに使わないにしても、これ食べたいなぁ…でもお財布事情が…今月ちょっとピンチだし…」
「それはあんたが、彼氏と会う度に新しい服を買うからでしょうが」
「だ、だって、今まで服なんてお店で時々見るくらいで、よそ行きのなんてほとんど持ってないんだもん…!」

どう頑張ったところで、私はアイドルのような可愛い顔にはなれないし、モデルのような抜群のスタイルにはなれない。そんな平々凡々な私を、彼は好きだと言ってくれるけど、それに甘えて何もしないのは、なんだか違うような気がしていて。

「服なんてそんなに気にしないでしょ。あの人は」
「それはそうかもしれないけど、せめて服くらいはって…」
「どうせ脱がされるのに?」
「な…!?」

しれっとそんなことを口にした彼女のせいで、顔が一気に熱くなった。その言葉にももちろんだが、それを受けてほんの一瞬でも、確かにそうかもしれないなんて、そんなことを思ってしまった、自分に対しても。

「ななな何を言ってるんですかね!こんな往来で!!」
「往来って」

ぷ、と小さく吹き出しながら、ちーちゃんはとても愉快そうに、馬鹿にしたように笑ってみせた。

「やることやっといて、何今さら真っ赤になってんだか」
「いやなるでしょ…!!逆にちーちゃんは恥ずかしくないの…!?」
「毎晩電話する度に『好き』だの『愛してる』だのいちいち口にする方が、よっぽど恥ずかしいわよ」
「ちょ…っ、なん…っ!?」
「あんたのおばあさんが教えてくれたの」
「い、いつの間にそこ繋がってたの…!?」

思わず声を張り上げると、店の中にいた人たちが、一斉に私と彼女を見る。ちーちゃんは口の前にすっと人差し指を立てると、今度はやれやれといった顔を浮かべて、小さく一つため息をついた。

「別に個人的に連絡とってるわけじゃないわよ。こないだお土産用のケーキを買おうと思ってお店に行ったら、流れでそういう話になったの。誰かさんが彼氏の家であまーい時間を過ごしている間にね」
「おばあちゃんめ…余計なことを…」
「いやいや、こんな面白いネタを話すなって方が酷でしょ」
「ね、ネタって…」
「話逸れたけどさ、あの人は例えあんたがジャージ姿だろうと、変わらず大事にしてくれると思うわよ」
「そうかなぁ…」
「何よ。あたしの見立てを疑うわけ」
「め、滅相もございません…!」
「そ?ならいいのよ」

ふっと軽く笑い、彼女はさらりとそう言うと、ポケットの中に違和感を感じたのか、そこに右手をすっと入れると、中からスマホを取り出した。

「あ」
「どうしたの?」
「バイト先から電話。なんだろ」
「電話してきたら?私はおばあちゃんに頼まれたもの、先に取ってくるから」
「悪いわね。じゃあ、ちょっと行ってくるわ」

その場を後にしたちーちゃんの背中を見送ってから、私も一度スマホを取り出し、祖母に買ってきて欲しいと頼まれたものを残しておいた、メモ用のアプリを確認する。

「まずは粉物かな…」

一人そう呟いて、青果売場を後にしようとしたその時、ふとレジの方に目をやると、業務スーパーという場所にはあまり似つかわしくない、高級感のあるスーツをピシッと着こなした、背の高い男性が立っていた。ここからでは後ろ姿しか見えないが、すらっと伸びた長い足は、まるでモデルのそれみたいだ。

雑誌の表紙みたいな後ろ姿だなぁ…。

そんなことを思いながら、粉類があるコーナーの方へ行こうとしたところで、私はある違和感に気づく。一体どうしたことか、スーツの彼は買い物かごを持ったまま、その場から動こうとしないのだ。

もしかして、セルフレジの使い方が分からないのかな…。

辺りをきょろきょろと見回していて、困ったように立ち尽くすその姿に、それを見てしまったことに対するよく分からない責任感と、それとは別の"ある感情"が、普段絶対にそんなことをしないであろう、私の心を動かした。

「あ、あのー…」

そっと彼の背後に立ち、恐る恐る声をかけると、素早くこちらを振り向くその人物と、視線がぱちりとぶつかった。振り返ったその人は、彫りの深い顔立ちに、優しげな胡桃色の瞳が特徴的な、若い外国人だった。

が、がが、外人さん…!?

一瞬少し、いやだいぶ弱腰になったが、もう声をかけてしまった以上、さすがに引き返すわけにはいかない。

「め、めいあいへるぷゆー…?」

で、合ってるんだっけ…?
けどどうしよう。この後ちゃんと会話が出来るか ───

「日本語で構いませんよ。親切なお嬢さん」

あたふたする私の様子を察したのか、彼は非常に流暢な日本語でそう言いながら、胡桃色の瞳を穏やかに細めた。実際のところは分からないが、おそらく焦凍さんと同じくらいか、それより少し上くらいの歳だろう。

焦凍さんとはまた違った感じの、大人っぽさだなぁ。

そんなことを考えていると、私が何も言わないのを不思議に思ったのか、彼は小さく首を傾げて、どうしましたか?と私に尋ねた。

「す、すみません…っ、えっと…その、お、お会計なら…そこの機械で、出来ますけど…」
「え…そうなんですか…?」

私が指を差したセルフレジの機械を見つめながら、信じられないといった面持ちで、彼はぽつりとそう口にした。

「この機械が、会計をしてくれるのですか…?」
「はい。セルフレジと言って…自分で機械に商品をかざしてお会計をするんですけど……あの、もし良ければ、支払いの前まで私やりましょうか…?」

そう提案すると、彼は瞳をぱちぱちと瞬きさせてから、少し申し訳なさそうに、眉を下げて笑ってみせた。

「すみません。普段一人で買い物などしないもので…お願いしてもいいでしょうか?」
「はい。いいですよ。じゃあこれ、一旦お預かりしますね」

一度自分の持っていたかごを床に置き、その手で彼が持っていたかごを受け取って、セルフレジの真横に置く。かごの中から一つずつ商品を取り出し、バーコードをかざしていくと、後ろでそれを見ていた彼は、まるで子供のように声を上げ、私に向かって拍手をした。

普段この人、どんな生活してるのかしら…
まさかどこかの王族とか…

「お嬢さんは、この辺りにお住まいの方ですか?」

なんの根拠もない王族疑惑が浮上したところで、彼はそんなことを尋ねてみせた。

「すごく近くというわけではないですけど…まぁそこそこに近いですかね…そちらは…えっと…」
「出身はイタリアですが、今はフランスに住んでいますよ」
「日本には…旅行、ですか…?」
「一応は仕事で来日していますが…半分は、宝探しに近いですかね」
「宝探し…?」

おそらく比喩表現だろうが、その不思議な言い回しに、今度は私が首を傾げた。日本には仕事で来たと言っていたが、何を探しているのだろうか。

「ここにお金を入れれば良いのですか?」
「あ、はい…」

商品の読み込みを全て終え、それらを袋に詰めていると、彼は静かにそう尋ね、自身の財布からお金を出した。さすがにお金を入れる場所は分かったらしく、彼は躊躇うことなくそれを機械に入れると、自動で出てきたお釣りを手に取り、レシートと共に財布にしまう。

「あ、あの…」
「なんでしょう?」
「さっき言ってた"宝物"って ─── 」
「なまえ、お待たせ。思ったより長くなっちゃって…」

自分でもよく分からないが、なぜか妙に気になって、咄嗟にそれを訪ねようとした時、それを遮るようにして、よく知る声が耳を掠めた。声のする方に振り向くと、バイト先の人との電話を終えたらしいちーちゃんが、不思議そうな顔でこちらを見ていた。

「そちらの方は?」
「あ、えっと…」
「会計の仕方が分からず困っていたところを、彼女が声をかけてくださいまして」
「え、この子が?」

驚いたように目を見開いて、彼女は彼にそう問いかけた。目を伏せながらこくりと頷くと、フランスから来たという彼は、私に向き合い右手を出した。

「とても助かりました。どうもありがとう」
「い、いえ…大したことはしてないので…」

ちょっと照れくさい気持ちになりつつ、その手にそっと触れてみると、彼はまるで花を摘むかのように、優しく私の手を握った。

「あぁそうだ。もし良かったら、これを」

その手がすっと離れると、彼は思い出したようにそう呟いて、肩にかけていたシンプルなトートバッグから、まだ封が開けられていない小さなペットボトルを二つ取り出した。色んなフルーツがラベルに印刷されており、おそらく液体の色から察して、フルーツ入りの紅茶であろう。

「先ほど頂いたものなんですが、紅茶がお嫌いでなければ」
「い、いいんですか…?」
「はい。ぜひそちらのお嬢さんと一緒に飲んでください」

貰っていいのだろうかと、ちーちゃんに向けてこっそり視線を送ると、彼女は落とすように笑って、小さく縦に首を振った。

「じゃあ…いただきます…なんかすみません…逆に…」
「とんでもない。では、僕はこれで」

買い物袋を持ち上げて、彼はそう口にすると、軽く手を振りながら、軽やかな足取りでその場を立ち去る。結局あの人が探していたものがなんだったのか、それを聞くことは出来なかったが、ひとまず彼を助けることが出来たので、これはこれで良しとしよう。

「なんか…服装もだけど、すごく紳士的な感じの人だったわね」
「そうだね。あ、はいこれ。ちーちゃんの分」

先ほどもらったペットボトルを、ちーちゃんに向かって手渡すと、彼女は軽くお礼を言ってそれを受け取りながら、にやりと怪しい笑みを浮かべた。

「な、何…?」
「あんたがお客さん以外の知らない人に、自分から話しかけるなんて、今日は雪でも降るんじゃないかしら」
「いやまぁ…実際かなり緊張したんだけど、なんかすごく困ってそうに見えたから…さすがに放っておくのも忍びなくて…それに、」
「それに?」
「焦凍さんなら、きっと助けるんだろうなぁって…思って…」

彼なら同じ状況になった時、きっとそうするんじゃないだろうか。あの人に声をかけるか迷ったその時、そんなことを思ったのだ。

「あんたにとってあの人は、本当に色んなことの原動力になってんのね」
「う、うん。まぁ…そう、だね」
「なんか、いいなぁ」
「え?」
「あたしも、幸せになりたいなぁ」

絞り出すようにそう口にしたちーちゃんの顔は、いつもと変わらぬ落ち着いた表情なのに、どこか少し寂しげで、いつも以上に大人びたその横顔に、胸がなぜか締め付けられた。

「なれるよ。ちーちゃんは」
「何よ、その上から目線。なまえのくせに」
「ち、違うよ!そうじゃなくって!だってちーちゃん美人だし、頭いいし、面倒見良いし、優しいし、それから」
「ふふ、何本気で焦ってんのよ。ばーか」

私の頭を軽く叩いて、彼女は私が床に置いたかごを、ひょいと軽く持ち上げた。

「ほら行くわよ。こっちの買い物も済ませなきゃ」

そんなことを口にして、ちーちゃんは私に背を向けながら、スタスタとその場を後にする。慌ててその背中を追いかけ、隣に並び歩く頃には、寂しげな横顔は消えていて、僅かに残った胸のしこりに、私は気付かぬフリをした。







『で、結局まだ何を作るかは決まってないのか』

鼓膜を震わす低い声は、相変わらず優しくて、そしてとても愛おしい。

「そうなんです。今さっきも色々スケッチしてたんですけど、なかなかいいのが浮かばなくて…」
『そういや前に家に来た時も、なんか描いてたな』
「これいいかもって、思いついた時に描かないと忘れてしまうので、いつも鞄に小さいスケッチブックを入れてるんです」
『なるほどな』
「ただどうにもしっくりこないので、今は没案のエベレストが出来上がりつつありますけど…」
『ふ、なまえの表現はいつも面白いな』
「そうですかね?」
『あぁ。聞いてて楽しい』
「ふふ、なら良かったです」

会話にひと区切りついたところで、焦凍さんは少しの間を置き、なぁ、と小さく声を上げた。

「なんですか?」
『もしお前さえ良ければだけど』
「はい」
『煮詰まってるなら、ちょっと出てこないか』

その言葉に、しばらく頭が追いつかなかった。

『なまえ?聞こえてるか?』
「き、聞こえてます…!えっと、あの、"出てこないか"って…?」
『俺今ちょうど、お前ん家の前いるから』
「え…!?」

その場にすくっと立ち上がり、部屋のカーテンを勢いよく開ける。目線をすぐに下に落とすと、いつもならこの時間はほとんど人が通らないその道に、見覚えのある黒い車が停められていた。彼が私の姿に気づいたからか、運転席の窓がゆっくりと開かれ、薄暗い車内からこちらを見上げる焦凍さんに、胸がとくん、と高鳴った。

「い、いつからいたんですか…!?」
『10分くらい前から。言っとくけど、ちゃんと車停めてから電話かけたからな』
「いえ…そこではなくてですね…」
『迷惑だったか?』
「ぜ、全然です!嬉しいです!…あの、そっちに行ってもいいですか…?」
『むしろ来てもらえねぇと、俺は虚しく帰ることになるから、そうしてくれるとありがたい』
「す、すぐ行きます!着替えるのでちょっとだけ待ってて下さい…!」
『ゆっくりでいいぞ。じゃあ一旦電話切るから、また後でな』
「はい!もう少しだけ待っててくださいね…!」

通話を終えるボタンに触れ、舞い上がる気持ちでクローゼットを開ける。次会う時に着ようと思っていた、水色のワンピースを取り出して、そくささとそれに袖を通した。既に試着してはいるが、一応鏡でチェックしてから、くるりと一度その場で回ると、裾のフレアがふわりと浮き上がる。その光景はまるで、今の私の気持ちみたいだなと、そんなことを勝手に思った。

ちーちゃんは、あぁ言ってくれたけど…。

髪をブラシで軽く梳かして、簡単にではあるものの、最低限のメイクもする。ほんの少しでも、悪あがきでも、大好きなあの人に、可愛いと思ってもらいたくて。

「いってきまーす…」

リビングの時計を見ると、既に時刻は23時を回っていて、我が家に門限はないものの、罪悪感は多少あった。それを誤魔化すかのように、誰もいないリビングに向かって、小さくそう呟いてから、私は家を後にした。




「すみません。お待たせしました」
「いや、思ったより早かったな。なまえ」
「もともと支度は結構早い方なので…」

車の助手席に乗り込みながら、そんな会話をしていると、焦凍さんは何を思ったか、私の顔をまじまじと見た。

「どうかしました?」
「もしかしてお前、わざわざ化粧したのか?」
「あ、はい…かなり簡単にですけど…」
「前から思ってたが、なまえは化粧しなくても良くねぇか?良い意味でそんな変わらねぇし」
「自分でもそんなに化粧映えしない自覚はあるんですけど…そこはいわゆる、乙女心というやつで…」
「乙女心?」
「好きな人には、ちょっとでも可愛いって、思って欲しいじゃないですか」
「そのままでも可愛いと思うけどな。俺は」

真顔でさらりとそう言う彼に、顔がじわじわと熱くなる。何度それを言われても、やっぱりどうにも慣れなくて、どうしたって心が舞い上がる。

「そんな、ことは」

調子に乗ってはいけないと、自分自身を制するために、ぽつりとそう呟くと、焦凍さんはくすりと笑って、私の頬にそっと触れた。

「そうやって、すぐ赤くなるとことか、すげぇ可愛い」

そうして紡いだ彼の唇が、ゆっくり私に近づいてくる。それを受け入れるように、そっと私が瞼を閉ざすと、ちゅ、っと軽くそれが触れ、焦凍さんはこつん、と額を合わせると、もう一度小さく笑ってみせた。

「さっきも聞いたが、迷惑じゃなかったか?」
「え…」
「急にこんな時間に来られて、嫌じゃなかったか?」
「ぜ、全然です!嫌じゃないです!!」
「なら良かった。明日も仕事だから、そんなに長くは一緒にいられねぇけど、お前の気分転換も兼ねて、ちょっとだけドライブするか」
「は、はい…っ」
「どっか行きたいとこあるか?」
「行きたいところ…えっと…」
「特になければ、俺が決めてもいいか」
「はい!大丈夫です!」
「じゃあ、車出すな。シートベルトちゃんとしとけよ」

彼に言われた通りに、助手席のシートベルトを私が締めると、焦凍さんは車のエンジンをつけてから、カーナビを少し操作して、これから行くであろうその場所を目的地に設定した。

「あ。そうだった」

もう間もなく車が出ようというその時、彼は何かを思い出したのか、近くに置いた鞄から、何かをそっと取り出した。

「どうしました?」
「これ、さっきコンビニで買い物したら、くじで当たったから、お前にやる」

焦凍さんが差し出したのは、色んなフルーツがラベルにプリントされ、透明感のある茶色い液体の入った、小さなペットボトルだった。そしてその既視感に、思わず私は声を上げた。

「これ…」
「嫌いだったか?」
「あ、いえ、全然嫌いとかじゃなくて…今日たまたまこれと同じものを別の人に貰ったので…」
「そうだったのか。すげぇ偶然だな」
「ですね…私もびっくりしました…」

そんな話をしながらも、彼は手元のギアを操作してからアクセルを踏み、ハンドルをゆっくりと操作した。

やっぱり運転してるところ、かっこいいなぁ…。

「店のお客さんとかか?その飲み物くれたって人」

うっかり見惚れそうになっていたところに、彼はその話題を再開させ、さらに細かく私に尋ねた。

「あ、いえ…今日ちーちゃんと買い物に行った時に、セルフレジの使い方が分からなくて困ってた外人さんがいて、その手伝いをしたら、お礼にってくれたんです」
「年配の人とかだだったのか?その人は」
「いえ、若い男の人でした。たぶん焦凍さんと同じくらいかなと…」
「今どきセルフレジが使えねぇって、どんな生活してんだその男は。王族とかか?」
「ふふ、実は私もその時、同じこと思っちゃいました」

思わぬ思考のシンクロに、くすりと笑みが零れてしまう。そんな些細なことでさえ、なんだかすごく幸せで。

「普段一人で買い物に行かないって言ってたので、実際すごくお金持ちな方なのかもです。その人スーツだったんですけど、かなり高そうな感じしましたし…」
「本当にいるんだな。そういう奴って」
「そうですね。でも素敵な方でしたよ」

ちーちゃんも言っていたが、まさしく紳士という言葉を体現しているような、そんな感じの雰囲気だった。王族というのは半分冗談だが、育ちの良さそうな品の良さみたいなものは、確かにあったような気がする。

あぁいう人も、きっとモテるんだろうなぁ…。




「どこがだ」

ぼんやりとそんなことを考えていると、隣で運転していた彼が、ぽつりとひと言そう口にした。

「はい?」
「具体的に、そいつのどこが素敵だったんだ」
「そうですね…なんというか、話し方とかすごく丁寧で、物腰も柔らかい感じで…紳士的な感じの人でしたよ」
「ふーん」

具体的にと言われたので、その要求に応えたつもりだったのだが、彼はまるで関心なさそうに、そんな返事をひと言呟く。

あれ、なんか私、まずいこと言ったかな…?

「あ、あの焦凍さ」
「なぁ、やっぱそれ、俺のと交換してくれないか。まだ開けてねぇから」

私の言葉を遮るように、彼は赤信号になったそのタイミングで、ドリンクホルダーに視線を落としながら、不可解なことを口にした。

「別に私はいいですけど…焦凍さん、紅茶より緑茶の方が好きですよね?」
「あぁ」
「じゃあなんで…」
「ムカつくから」
「は、はい…?」
「それ飲む度に、お前がその素敵な方とやらを思い出すのかと思うと、すげぇムカつくから」

拗ねたように視線を逸らし、そう口にした彼の横顔は、なんだか少し幼く見えた。

今のって、つまりは。

落ち着いていたはずの顔の熱が、再び火がついたようになり、どうしていいか分からずに、ひとまず私も前を向いた。

「それはその…やきもち…的な…」
「他にあるかよ」
「そ、そんなの、全然、大丈夫なのに…」
「別に疑ってるとかじゃねぇ。単純にその男が気に入らねぇってだけだ」

不機嫌そうな彼に対して、正直なところ私の心は、浮かれに浮かれまくっている。普段落ち着いていてクールな焦凍さんが、やきもちを焼いている。私なんかに。

「おい。笑うなよ」
「ふふ、だって…」
「27にもなってガキだなこいつって、思ったんだろ」
「違いますよ。嬉しいなぁって思ってただけです」
「それだけか?」
「あとちょっとだけ、可愛いなぁ、とかも思いました」
「……毎度思うが、お前の俺に対する可愛いの評価基準は、まるで分からねぇ」
「そうですか?」
「いい歳した男が嫉妬とか、みっともないって思うだろ。普通は」
「普通がどうかは分かりませんけど…私は嬉しいですよ。同じなんだなぁって、思って」
「同じ?」
「私も時々、嫉妬というか、もやもやすることありますから」
「お前が?」

意外そうな声色でそう尋ねる焦凍さんに、軽く笑って返事をしながら、つい学校で最近起きたその出来事を、頭の中に思い浮かべた。

「焦凍さん、女の子の人気すごいから、学校の友達と話してる時とか、たまに話題に出ることがあって…こないだトーク番組に焦凍さんが出た次の日に、みんながショートのここがかっこいいって言い合ってるの見て…ちょっとだけもやもやしました」
「別にそいつらは、ただ適当に騒いでるだけで、俺が好きってわけじゃないだろ」
「そうなんですけど、なんと言いますか…私の方が焦凍さんのかっこいいとこ、もっと知ってるもんって、そんなことを思ってしまって…」
「例えば?」
「え」
「どの辺がかっこいいんだ?俺の」

あの外人さんのことを尋ねた時とは打って代わり、軽やかな声色でそう口にした焦凍さんに、嬉しくなりつつも恥ずかしくなる。

「ど、どの辺が…と言われましても…たくさんあって…」
「じゃあ、一番かっこいいと思うとこ一つ」
「む、無理ですよそんなの…っ」
「なんで」
「だって全部かっこいいですもん…!」
「は」

例えばそう、綺麗な目とか、すっと伸びた鼻筋とか、私を呼ぶ低くて少し気だるげな声とか、細身なのにがっしりした大きな手とか。彼をかっこいいと思うところなんて、挙げていったらキリがない。

「一つだけ選ぶなんて…そんな罰当たりで勿体ないこと、出来ません…」

情けない声でそう述べると、焦凍さんはそうかと小さく呟き、私と彼の間には、よく分からない沈黙が流れた。するとどうしたことか、焦凍さんはすぐ近くに見えるコンビニの駐車場に車を乗り上げて、一番奥のスペースに寄せてから、躊躇うことなくエンジンを切った。

さっき寄ったって、言ってたよね…?

「あの、コンビニで何か買うん」

運転席に顔を向け、そこまで口にしたところで、またも言葉を遮られた。気がつくとすぐ目の前には彼がいて、つい先ほどまで動いていた私の唇は、彼のそれによって塞がれている。家を出た時とは違い、口内の奥に自身の存在を刻みつけるような深いキスをされて、力が徐々に抜けていく。くちゅくちゅというその音が車内に響き、それを鼓膜が揺らす度、蕩けてしまいそうになる。

「ん、は…なんで、急にこんな…」
「お前が悪い」
「え…?」
「お前が可愛すぎるのが悪い」

唇が、微かに触れるその距離で、じっと私を見つめながら、焦凍さんはそう呟いた。正直なところよく分からないが、私の放った言葉の何かが、どうやら彼に火をつけてしまったらしく、貪るようなそのキスを、受け入れるしか道はなかった。







「わー、綺麗ですね…!」

車で30分ほど山道を登ると、ちょうど木々の合間から夜の街を見下ろせる場所があり、普段私たちが暮らすその場所は、色や形の違う宝石が散りばめられたような、そんな光を放っていた。

「この近くで仕事があった時に、車で道に迷っちまって、たまたま見つけたんだ」
「こんな場所があるなんて、全然知りませんでした…誰もいないから、焦凍さんも気を遣わなくて済みますし、いいですね。何よりこんなに綺麗ですし…!」
「こういうの好きか?」
「はい!」
「そうか。なら良かった」

安心したようにふっと笑うと、彼は私に一歩近づき、その長い指先を、私のそれに絡ませた。

「しょ、焦凍さん、あの」
「誰もいないし、いいだろ?」
「は、はい…」
「ふ、なんでそんな照れてんだ?」
「その…こんなふうに外で手を繋ぐのは初めてなので、なんか…恥ずかしくて…」
「ごめんな。ちゃんとしたデートとか、全然出来てなくて」
「い、いえ…っ、そういう意味で言ったわけでは…」
「今のとこ大丈夫そうか?俺は」
「え…あの、大丈夫、って…?」
「お前に嫌な思いとか、させてねぇか?」
「し、してないです全然…っ!もう、なんて言うか、幸せすぎて手に余ってる感じで…!逆にそれで困ってるくらいで…っ」
「そうか」

再び安心したような顔で、落とすように笑う彼に、昼間口にしたその疑問が、ここ最近ずっと気になっていたその疑問が、私の中にまた渦巻いた。

「あの…もし私の勘違いだったら、全然良いんですけど…」
「ん?」
「焦凍さんはどうして、そんなに私がどう思うかを気にするんですか?」
「え…」
「あ、いや、私も気にするんです。焦凍さんがどう思うかなって。というか、それが普通だと思いますし…ただ焦凍さんの場合は…えっと…それがすごく敏感といいますか、細やかといいますか、その…」

上手い言葉が見つからなくて、それ以上何も言えなくなると、焦凍さんは静かに参ったな、と呟いて、小さく一つため息を吐いた。

「『もう疲れた』って、言われるんだ。いつも」

ぽつりとそう呟いて、彼は困ったように笑った。

「付き合った人に、ですか…?」
「あぁ。一応言っとくが、別にもうなんとも思ってねぇぞ」
「大丈夫です。そういうことは考えてません」

私がそう言葉を返すと、焦凍さんは私の頭に、ぽん、と軽くその手を置いた。

「付き合ってくれって言われて、普通に良い奴だと思ったから付き合ったわけなんだが、でもいつも最後は、必ずそう言われて終わるんだ」
「疲れた、というのは、やっぱりその、焦凍さんが忙しくて会えないから、とか…」
「それもあるとは思うけど、俺が何考えてるか分かんねぇって理由が大半だな」

それを聞いてもあまり驚かなかったのは、きっと昼間にその話をしていたからだろう。美人で優秀な幼なじみの見立ては、どうやらおおよそ当たっていたらしい。

「でも結局、そう言われて普通に別れを受け入れられたってことは、その程度の気持ちだったってことだから、実際大事に出来てなかったんだとも思うし、俺が悪かったんだと思う」
「そんなことは…」

そんなことはないと、そう言いかけた口を噤んだ。なぜならそれを口にする権利は、私にはないからだ。その答えを持っているのは、私の知らない彼を知る、名前も知らない"彼女たち"だけだ。

「悪ぃ。やっぱどういう言い方しても、お前は嫌だよな。昔の女の話なんかされたら」
「あ、いえ…聞いたのは私なので…」
「けど本当に、今はなんとも思ってねぇからな。信じろよ」

繰り返しそう口にした焦凍さんに、こくりと小さく頷くと、彼は私の頭に置いていたその手を動かして、優しく髪を撫でてくれた。

「まぁだから、ある意味俺も、初恋なのかもしれねぇな」
「え…」

私の髪を撫でながら、唐突にそんなことを言い出す彼に、思わず小さく声が漏れた。

「あの、それはどういう…」
「自分から好きになって付き合った相手は、お前が初めてだから」
「え!?」

誰もいない夜の山中に、私の声が響き渡った。咄嗟に慌てて口を押さえてから、すみません、と小さく謝ると、焦凍さんは吹き出すように笑い出し、私の頭をまた撫でた。

「はは、そんなに驚くか」
「お、おお驚きますよ…!だ、だってそんな…そんな話になると思わないじゃないですか…っ」
「言っとくが、この話に持っていくための前置きだ。今までのは」
「そ、そうなんですか…?」
「あぁ。話が長くて申し訳ねぇが、これでようやく答えられるな」
「え?」
「さっきの質問の答え」

彼はそう呟くと、頭に置いたその手に力を込め、私をぎゅうっと抱きしめた。私を包むその腕が、彼の言葉を聞くより早く、私に答えを教えてくれているような気がして、ゆっくり腕を広い背中に回してみせると、焦凍さんは腕の力を少し強めて、私の名前を小さく呼んだ。

「お前のことが、本気で、本当に好きなんだ。だから大事にしたいし、絶対失くしたくない。俺が何かを間違えて、それでお前の気持ちが離れていったらって思うと、すげぇ怖いんだ」

いつかも彼は口にした。私に離れていかれるのが怖いと。もちろんそれは私も同じだ。何か取り返しのつかないことをして、彼が離れていってしまったら。それはとても怖いことだ。だけど。

「間違えたって、いいですよ」

正しいことをして欲しいんじゃない。少なくとも、私が彼に望むのは、正しいことじゃなくて。

「え…」
「私は焦凍さんが思った通りに言って欲しいし、思った通りのことをして欲しいです」
「けど、それでもし」
「もしそれで喧嘩とかしちゃっても、仲直りすれば良いだけですよ。仲直りした後は、きっともっと仲良くなれます」
「そんいう、もんか」
「はい。だからそのままでいて下さい。私はその方が、ずっとずっと嬉しいです」

もっとたくさんあなたを知れば、もっとあなたを好きになれる。そんな気がするから。

「はぁ…」

私の言葉を耳にして、焦凍さんは何を思ったのか、その場で深いため息を吐いた。

「あの、焦凍さん…?」
「久々に、完敗した気分だ」
「はい?」
「いや、こっちの話」

穏やかにそう口にすると、彼は私をそっと離して、ポケットからスマホを取り出した。

「日付、変わってたな」

それにつられるようにして、私もポケットからスマホを出す。ディスプレイが映し出す現在時刻は、0時を過ぎて21分。今日だったはずのその一日は、いつの間にか昨日になっていた。

「そうですね。焦凍さんお仕事ですし、そろそろ帰らないと…」
「いや、そういう意味で言ったんじゃなくて」
「え、違うんですか?」
「……ちょっと待ってろ」

彼は小さくそう呟くと、すぐ側に停められた車の後部座席から、何かをそっと取り出して、それを私に差し出した。

「ん」

短く声を漏らしながら、焦凍さんが私に差し出したのは、少し小ぶりの花々で作られた、ドライフラワーのブーケだった。

「あの…これは…?」
「今日でちょうど1ヶ月だから」

彼がそう口にしたところで、私はそれを思い出した。今日が昨日になったということは、即ち明日が今日になったということで、今日は私が焦凍さんと付き合うようになってから、ちょうど1ヶ月を迎える日だった。

「あ、そっか…!日付変わったからそうですね…!」
「良かった。忘れてんのかと思った」
「いくら私が馬鹿でも、そんな大事な日を忘れませんよ…!」
「はは、冗談だよ。怒るなって」

頬を膨らませた私を見て、焦凍さんは小さな子供をあやすように、優しく頭を数回叩いた。

「あの、これ…ありがとうございます…このブーケ、ドライフラワーですよね…?」
「あぁ。最初は普通の花にしようと思ったんだが、これならずっと取っておけるって、店の人が言ってたから」

何を私に渡そうか、きっと色々考えてくれたのだろう。そんな彼の優しさを嬉しく思いつつも、何も用意していなかった自分に対して、罪悪感がじわりと募る。

「あの…すみません、その、記念日とか、焦凍さんの負担になるんじゃないかなと思って、私何も…」
「いや、俺も実はやったことねぇから…これで合ってるのか?記念日って」
「た、たぶん合ってると思います…!」
「本当はもっと気の利いたサプライズとか出来りゃいいんだろうが…俺にはそういうの無理だった。ごめん」
「あ、謝ることなんかないですよ…っ」

どんなすごいサプライズより、どんなに素敵な言葉より、ここに込められたこの気持ちが、一番嬉しいプレゼントだ。

「嬉しいです…ずっと、大切にします…」

そっと胸に抱えてみると、優しい花の香りがする。色を変え、形を変えても、そこに変わらぬものがあるように、彼と私の間にも、そういうものがあって欲しい。
そんなことを思っていると、焦凍さんは私の左手をそっと取り、口元までそれを持っていくと、軽く指先にキスを落とした。

「俺もずっと、大切にする。から」

彼は真っ直ぐに私を見て、確かにそう口にした。二人だけのその場所で、何かに誓いを立てるように、今度はその手を固く結んで、どちらかともなく唇を重ねた。街の灯りがひとつ、またひとつと次第に消えゆく中、私と彼の頭の上を、小さな星が一つ流れていったのは、誰も知らない秘密の話だ。


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2022.03.14

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