メランコリーな彼女


夏休みということもあり、いつもは賑わいを見せる構内も、今は非常に静かだ。キャンパスに植えられた木々が風で揺れる度に、無機質なコンクリートに映し出されたそれらの影が、ゆらゆらと少し不気味に蠢く。優秀な幼なじみを筆頭に、周囲の友人たちのお陰もあって、前期の時点で必要な単位はほぼ全て取り終え、残すは最後の難関である、卒業論文を残すのみとなった。大学にこうして足を踏み入れる機会も、9月以降は徐々に少なくなっていくだろう。

「みょうじさん、ちょっといいかな?」

名前を呼ばれ、振り向く先に立っていたのは、見たこともない男の子だった。細身ですらりとした体格に、白いTシャツと黒のパンツというシンプルな服装だが、清潔感のある印象の人だ。

「…えっと…?」
「あ、やっぱ俺のこと知らないよね。経済の石川です。同じ学年だよ」

理由は定かではないが、なぜかやや緊張したような面持ちで、彼は自分の名前を名乗った。

「ご、ごめんね…私その、あんまり他学科の人知らなくて…」
「いや、こっちこそ急にごめん」
「それで…私に何か用…?」
「あ、うん…その…」

私のその問いかけに対し、彼は少し躊躇いがちに目線を揺らしてから、再び私の方を見た。

「もし良かったらさ、連絡先教えてくれない?」
「え…」

全く予想していなかったその言葉に、思わず声一つをあげた。

「な、なんで私…?ちーちゃん…あ、えっと、いつも私と一緒にいる子と間違えてない…?」
「さすがにそんな間違いはしないよ。確かに松戸さんはめちゃくちゃ美人だけど、俺が聞きたいのは、みょうじさんの連絡先」
「そ、そうなの…」
「去年俺、みょうじさんと同じ授業とってたんだけど、その時からいいなぁって思ってたんだよね。でも基本いつも複数人で一緒にいたから、話しかけるタイミングなくて。誰かに頼もうかとも思ったけど、そっちの学科の男子も、誰も連絡先知らないみたいだったし」

自分ではあまり意識したことがなかったが、確かに言われてみれば、今まで学校の男子と連絡先を交換したことはなかった。中学に上がった頃くらいから、ちーちゃんの連絡先を教えて欲しいと頼まれたことは数え切れないほどあるが、私の連絡先を聞いてきた異性は、これまでたった一人しかいなかったのだ。

「ごめんなさい…私その…付き合ってる人が、いるので…そういうのは、ちょっと…」
「友達としてもダメかな」

引いてくれるだろうと思いきや、まさかの追撃に動揺を隠せない。エリオさんと初めて会った時は、そこそこ自然に会話出来ていたと思うのだが、やはり初対面の相手とのコミュニケーションは苦手だ。

「う、疑われたりとか、したく、ないから…」
「そっか。なら仕方ないな」
「ごめんなさい…」
「いや、こっちこそ急にごめん。話聞いてくれてありがとう。用事はそれだけだから。それじゃ」
「う、うん…」

私がちいさく返事をすると、石川くんと名乗った彼は、さっと踵を返してから、落ち着いた足取りでその場を後にした。フロアの通路を左に曲がり、その背中が見えなくなったところで、近くにあったベンチに座ってから、ふう、と息を一つ吐く。

「見ーちゃった」
「ぅわぁ…っ!!」

背後から突然聞こえたよく知る声に、びくっと肩が大きく揺れた。今度振り向いたその先には、今日これから一緒に卒論をやろうと約束していた、"めちゃくちゃ美人"と名高い幼なじみだ。

「ち、ちーちゃん…!脅かさないでよ…!」
「今の経済の人よね?告白されたの?」
「ち、違う違う…!連絡先教えてくれないかって、言われただけ…!」
「ひゅー。やるじゃない」

白く細長い指で私の頬をつつきながら、彼女はにやにやした表情で、わざとらしくそう口にした。

「さっきの彼もなかなか悪くなかったけど、比較対象する男が"あれ"じゃ、ご愁傷さまとしか言い様がないわね」
「話したこともない人だったから、びっくりしたよ…物好きな人もいるんだね…」
「いや、そこは自信持ちなさいよ。あんたの彼氏のためにもさ。それに、今のあんたがフリーなら、狙いたい奴はまぁまぁいるでしょ」
「な、ないない!それはない…!」
「ご謙遜〜、現にさっき声掛けられてたじゃない」
「いや、だからあれはあの人が物好きなだけで…」
「ゼミの奴らも言ってたわよ。『みょうじ最近急に可愛くなったよな』って。ま、ゼミの連中はあんたに彼氏いること知ってるから、面白がって言ってるだけでしょうけど」

私の話を一番面白がって茶化してくるのは、おそらく彼女だと思うのだが、それはあえて触れないことにした。

「色々と成長したものねぇ。色々と♡」
「何…色々って…」
「……なんか、テンション低くて弄り甲斐がないわね。今日のあんた」
「ちーちゃんは、私をなんだと思ってるのかな…」
「んー、ネタの宝庫?」
「ちょっと…」
「冗談よ。あ、あたし飲み物買うけど、あんたもいる?待たせたお詫びに奢るわよ」
「うーん、じゃあミルクティーがいい」
「おっけ」

ベンチのすぐ脇にある自販機で、ちーちゃんは二つ飲み物を買い、そのうちの一つを私に差し出しながら、隣にすっと腰を下ろした。

「留学のこと、彼に話したの?」
「焦凍さん、ちょうど留学の話をもらった後くらいから、また忙しくなっちゃって…ここ数日は返信も遅いし…」
「またタイミングの悪い…」

私に留学の話が来たその直後、見計らったかのように再び彼の仕事が忙しくなり、あれから一週間が経った今でも、未だにそのことを話せていなかった。

「今はなんの仕事してんの?」
「海外から来た偉い人の護衛だって。二週間くらい滞在するらしくて」
「あー、要人警護ってわけね。そりゃあなかなか連絡は出来ないわ」
「もしもその人に何かあったら、大変だしね…」
「それにメールとかメッセージとかでする話じゃないものね。内容的に」
「そうなんだよね…それもあって、まだ言えてなくて」
「ちなみにおじさんとおばさんは?一度実家に帰ったんでしょ?」
「びっくりはしてたけど、大学をちゃんと卒業するなら、タダだし行けばいいんじゃないかって…意外とあっさりOKだった」
「まぁ、本気であんたがパティシエなるのに反対なら、そもそもあの家に下宿させないでしょうしね。…じゃあやっぱり、後は彼に言うだけか」

彼女はそう言うと、先ほど買ったペットボトルのキャップを開けて、中に入ったミネラルウォーターを、くいっと一度口に含んだ。

「で、あんた的にはどうしたいのよ?」
「……分かんない」
「迷ってるわけ」
「うん…まぁ…」
「ちょっと前のあんただったら、即飛びついたでしょうにね」

彼女の言うとおり、きっと1年前の私なら、その場で迷わず留学に行くと、そう返事をしていただろう。多少の不安はあったかもしれないが、自分の夢を叶えるために、その一歩を踏み出していただろう。

「こんなチャンスもう二度とないし、せっかく声をかけてくれたんだしって、頭の中ではそう思ってるの」
「最初に聞いた時は、あまりに都合の良い話すぎて、本気で詐欺かと思ったけどね」
「ふふ、あの後ちーちゃん、たくさん調べてくれたもんね」
「そりゃそうよ。普通に怖いじゃない。急にやって来た人間から、『フランスに来ないか』なんて言われたら」
「そういうとこ、やっぱりしっかりしてるよね」
「あんたがぼーっとしてるだけでしょ」
「し、失礼な…!」
「ホントのことでしょー」
「まぁでも実際、海外なんてほとんど行ったことないし、英語苦手だし、初対面の人と話すのも、やっぱり得意じゃないし、色々不安はあって…」
「あんた鈍臭いしね」
「重ね重ね失礼だよ…!」

声を荒らげてそう言うと、ちーちゃんはけらけらと笑いながら、再び水を口に含んだ。

「それに、やっぱり…」

他にも不安なことはある。だけどあの日、エリオさんにフランスに来ないかと言われた時、最初に頭に浮かんだのは。

「焦凍さんとのこと?」
「うん…まぁ…」
「浮気されるかもとか、思ってるわけ?」
「思ってないよ」
「それを言いきれるところがすごいわあんた…。じゃあ、何が気になるの?」
「なんだろ…自分でもよく分かんなくて…」
「ほほう。複雑な乙女心ね」
「またそうやって面白がって…」

留学の話を貰った時、最初に頭に浮かんだものは、まだ見ぬ国の風景でも、そこで暮らす自分でもなく、焦凍さんの顔だった。そして向こうでの生活を想像する度に、彼の顔がちらついて、胸の奥がざわついた。
最初は自分でも、ちーちゃんが言ったようなことが心配だからなのかと思ったのだが、焦凍さんがそんなことをする未来像は、全く思い描けなかった。もちろんそれはいいことなのだが、結局その胸のざわつきの正体にたどり着くことはなく、ずっともやもやしたままだ。

「ま。あんたの好きにすればいいんじゃない。まだ考える時間は、そこそこあるんだし」
「へ?」

咄嗟に思わず聞き返してしまうほど、ちーちゃんの口から出たその言葉に、正直とても驚いた。良くも悪くも忖度せず、言いたいことをはっきりと言う彼女にしては、かなり控えめなコメントだ。

「何よ、その顔は」
「なんか…意外」
「何がよ」
「てっきり、『さっさと覚悟を決めて留学に行きなさい』とか、そんな感じのこと言われると思ってた」
「あんたの方こそ、あたしをどんな奴だと思ってるわけ?」
「我が子を谷底に落すライオンみたいな…」
「あんたもあんたで、そこそこ失礼よ」
「いや、だって現にいつもそうじゃん…前の病院の時とか…」
「何言ってんのよ。それこそ愛の鞭じゃないの」

やれやれといった面持ちで、彼女はその手に握るボトルに、俯きながら視線を落とした。

「あんた達は、大丈夫よ。"あたし達"とは違うもの」

そう口にした彼女の声は、いつもと同じく凛としていた。だけどその横顔は、笑っているのに寂しげで。

「ねぇ、ちーちゃ」
「あーあ、何に悩んでんだか。遠距離になったって、どうせ目も当てられないくらいベタベタラブラブやってんのよ。あんた達は。むしろそれくらいの距離感で、ちょうどいいんじゃない?」

そう言うと、彼女は軽やかに立ち上がり、私の方を振り向きながら、水の入ったペットボトルを、そっと私の頭に乗せた。

「あんたがどんな答えを出しても、あんたの大好きな焦凍さんは、きっと応援してくれるわよ」

強くて優しいその言葉は、とても希望に満ち溢れていた。それなのに。

「うん。そうだね」

その返事とは裏腹に、なぜか靄がかかったように、私の気持ちは定まらなかった。







「はぁ…」

目の前に開かれたその冊子を見て、深いため息を一つ吐く。先日渡された学校の資料を改めて読めば読むほどに、用意されたその場所は、私には勿体ないくらいの良質な環境だ。ここで専門的に学ぶことが出来れば、確かに今より、ずっと夢に近づくことが出来るかもしれない。

私が留学行くって言ったら、焦凍さんはなんて言うんだろう…?

"あんたがどんな答えを出しても、あんたの大好きな焦凍さんは、きっと応援してくれるわよ"

私もそう思う。私が留学に行きたいと言えば、彼はきっと、頑張って来いと言ってくれるだろう。会える頻度は減ったとしても、ちゃんと連絡もくれるだろうし、出来る限りの返事もくれるだろう。そこを疑う余地はない。それなのに。

「なんでこんなに、もやもやするんだろ…」

テーブルに頬をぴたりと寄せて、そんなことをぽつりと呟くと、すぐ近くに置いておいたスマホが、規則的に震え出す。勢いよく上半身を起こし、ディスプレイを覗いてみると、そこに映し出された愛しい名前に、鼓動が急に速くなった。

「は、はい…っ、もしもし…っ」

何も考えず受話器のマークに触れ、そっと耳にそれを当てると、低く優しいその声が、静かにお疲れと呟いた。

『こんな遅くに悪ぃ。今大丈夫か?』

なんでだろう。泣きそう。

ここのところ、電話もあまり出来ていなくて、声を聞くのが久しぶりだからだろうか。大好きな焦凍さんの声に、鼻の奥がツンとする。

「は、はい…大丈夫です…今休憩中ですか…?」
『あぁ、ようやくな…。つっても、15分くらいしたらまた戻んなきゃだけど…』
「声がだいぶ疲れてますけど…大丈夫ですか?」
『まぁ、ここ数日ずっと家に帰れてねぇからな…返事とか遅くてごめんな』
「全然大丈夫ですよ。お疲れ様です」
『そっちは今何してたんだ?』
「え、えーっと…ちょっと、読書を…」
『お前がか…?』

驚いたような、けれどどこか楽しげな声色で、彼は私にそう尋ねた。

「な、なんですか…っ、その心底意外そうな反応は…っ」
『大丈夫なのか?どっか具合でも悪いのか?』
「もー!!」

私が声を荒らげると、電話の向こうにいる焦凍さんは、ふっと吹き出すように笑って、悪ぃと短く呟いた。

『元気そうで良かった』
「え…?」
『いや、気のせいかもしんねぇが、なんか電話に出た時、ちょっと暗かったような気がしたから』

忙しくてとても疲れているだろうに、電話をくれただけじゃなく、そんなふうに心配してくれる彼の優しさに、またも涙が出そうになった。今日は涙腺がどうかしている。

「すみません…忙しいのに、気を遣わせて…」
『自分の彼女を気にすんのは、当然だろ』
「か、かか彼女、って…っ」
『なんか変なこと言ったか?俺』
「い、いえ…」

彼がさらりと口にした"彼女"というワードに、身体のあちこちがむず痒い。私たちは付き合っているし、焦凍さんから見た私は、確かにその位置付けなのだろうけど。

『そっちは最近、特に変わったこととかねぇか?』

会話にひと区切りついてから、彼はそんなことを尋ねてみせる。変わったことといえばもちろん、例の留学話があるわけだが、唐突に訪れたそのタイミングに、スマホを持つ手に汗が滲んだ。

「あ、あの…焦凍、さん」
『ん?』
「えっと…ちょっと、聞いて欲しいことがあって…」
『なんだ』
「いえ、その…出来れば、会って話、したくて…」
『電話だとしづらい話か?』
「少し…あの、別に悪い話とかじゃなくて、ちょっと相談というか…。それで、例えば週末とか…少しだけでもいいので、会えませんか…?」
『週末は…ちょっと難しいな。まだ仕事でバタついてると思う』
「そうですか…じゃあ電話で」
『けど、お前は会って話したいんだろ?』

電話でいいと言おうとした私の言葉を遮って、彼はすかさずそう口にした。

「は、はい…まぁ…」
『じゃあ、来週のどっかで時間作るから、それでも大丈夫か?』
「はい…あの、ごめんなさい…忙しいのに…」
『謝るな。むしろこっちの都合に合わせてもらってんだから、俺が謝るところだ。すぐに時間作ってやれなくてごめん』
「い、いえ…っ!そんなことは…っ」
『いつもありがとな。俺に合わせてくれて』

あぁもう、ダメだ。
なんかもう、今日はダメな日だ。

『なまえ?』

その声が、言葉が、存在が、私の"好き"を加速させる。
悲しくなんかないはずなのに、なぜか無性に泣きたくなって、そんな自分がよく分からない。

『おい、聞いて』
「あ!そういえば、遊園地に行こうって言ってたお休みの日は、今のところ大丈夫そうですか?」
『え』

泣きそうな自分を悟られたくなくて、突然話題を変えた私に、焦凍さんは戸惑いがちに小さく声をあげてから、ほんの少しの間を置いて、あぁ、と短く返事をした。

『そこはまぁ…大丈夫だけど』
「良かったです!楽しみにしてますね!」
『あぁ。俺も楽しみにしてるぞ』

ちょうど会話が途切れたところで、ちらりと部屋の時計を見ると、彼から電話がかかって来てから、まもなく15分が経とうとしていた。

「そろそろ戻る時間ですよね?」
『まぁ、そうだな…気が重いけど』
「大変だと思いますけど、休める時に休んで下さいね」
『ん。そっちもちゃんと寝ろよ』
「はい。じゃあ、おやすみなさい」
『あぁ、おやすみ』

受話器のマークに指で触れ、そっとスマホをテーブルに置く。いつもは電話を終えた後、すごく幸せな気持ちになるのに、なぜか今日はずっともやもやしている。

なんなんだろう。今日はなんか変だ。

よく分からないその感覚を、どうしてなのかと考える。しかしどれだけ考えても、その正体は分からなくて、気づいた時には電気も消さずに、そのまま眠ってしまっていた。








「うーん…なんか、微妙…」

ぼんやりとして、はっきりしないその味は、まるで今の私みたいだ。

「なまえ…?こんな時間に練習してるの…?」

やや眠たげなその声に振り向くと、リビングに続く階段の側に、いつのまにか祖母がいた。どうやら私が店のキッチンで練習するその音に、目が覚めてしまったらしい。

「あ、ごめん…起こしちゃって…」
「それはいいけど…こんな時間にどうしたの?もうすぐ1時よ?」
「なんか、眠れなくて…」
「そう」

理由を尋ねることはなく、祖母は小さく返事をした。

「おばあちゃん」
「ん?」
「留学、やっぱり行くべきだよね」
「なまえはどうしたいの?」
「頭の中では、留学した方がいいって、思ってるの。こんなチャンス、きっともうないから」
「そうね」
「でも、なんていうか、気持ちが全然追いつかなくて…ずっともやもやしてるの」

家族も友達も、私を応援してくれた。まだ話をしていないけど、きっと焦凍さんだって、きっとみんなと同じだろう。知らない土地に不安はあるし、意思疎通にも不安はある。しかしそれとは違う別の不安が、私の中にずっとある。

「焦凍さんには、もう言ったの?」
「ううん。まだ…来週会えることになってるから、その時に言うけど…」
「そうなの」

焦凍さんに会える。いつもなら、それだけで気持ちがとても弾んで、待ちきれなさにそわそわするのに、今はなぜか気が重い。こんなことは初めてだ。昨日の電話もそうだった。いつもなら幸せなはずのその時間も、なぜか妙な不安があった。

「ふふ、なまえは本当に、焦凍さんが好きなのね」
「笑いごとじゃないよ…真剣に悩んでるのに…」
「あら、ふざけて言ったわけじゃないわよ。本当にそう思ったから言ってるの」
「もー…」
「ところで、さっきからそこのスマホが光ってるけど、電話じゃない?」
「え?」

祖母が指さすその場所に顔を向けると、離れた作業台の上に置きっぱなしにしていたスマホのディスプレイが、微かに光っている。作業に集中出来るよう、普段はオンにしているスマホのバイブを、自主練中はオフにしているため、その変化に全く気づかなかった。

もしかして ─── 、

それはほぼ直感だった。急いで離れたそこへ向かうと、確かにディスプレイに表示されていたのは、電話の着信画面で、そこに表示されたその名前は、思い描いたその人だった。自分のスマホを慌てて手に取り、指で受話器のマークに触れようとすると、ほんの僅かタッチの差で、不在着信に切り替わる。

「あ…」
「焦凍さんから?」
「うん。ちょうど切れちゃったけど…」

時折深夜に連絡が来ていることもあるが、ほぼメッセージ一択だ。こんな時間に電話がかかってくるのは、もしかすると初めてかもしれない。

何かあったのかな…?

かけ直そうとその番号に触れる直前、それを押し戻すかのように、今度はメッセージが表示された。

"寝てるとこ電話して悪ぃ。気にしなくていいから"

逆に気になるその言い方に、まだ起きていることを返信すると、送った文字の左隣に、すぐに"既読"の文字がついた。するとそれからまもなくして、彼から新しいメッセージが届いた。

"今お前の家の前にいるけど、話すか?"

「え…!?」

今週はずっと護衛の仕事だと聞いていたが、わざわざ抜けてきたのだろうか。思いもよらぬその返信に、声を大きく荒らげると、そんな私を見ていた祖母は、不思議そうに首を傾げた。

「どうかしたの?なまえ」
「ご、ごめんおばあちゃん、私ちょっと…」
「はいはい。いってらっしゃい」

コックコートを急いで脱ぎ、キッチンの窓ガラスを鏡代わりに、髪を少し整える。店の裏口から外へ出て、家側の玄関の方へ回ると、降りた車に寄りかかり、片手でスマホを操作する彼の姿が見えた。

「よう」

深夜も1時を回り、人の気配が一切ないからか、いつも被っている変装用の帽子を、今日の彼は被っていない。生暖かい風が彼の綺麗な髪を揺らして、そんな何気ない光景に、胸がとくん、と高鳴った。

「こ、こんばんは…」
「毎度急で悪ぃな」
「いえ…それは全然いいんですけど…あの、来て大丈夫なんですか…?護衛のお仕事なら、抜けたらまずいんじゃ…」
「ちゃんと許可貰ってるから、大丈夫だ」
「でも、なんで急に…?」
「昨日のお前がちょっと変だったから、なんか気になっちまって」

彼はそう言うと、片手に持っていたスマホを自分のスボンのポケットに入れ、私の方に身体を向けた。

「すみません…焦凍さん忙しいのに…」
「いや、勝手に気にして、勝手に来たのは俺だから」

私の頭に手を置きながら、焦凍さんはそう口にする。忙しい彼をこんなところにまで来させて、私は何をやっているのだろうと、胸がちくちくと痛くなる。

「まぁ立ち話もなんだから、乗れよ」
「は、はい…お邪魔します…」

開けられたドアを閉めながら、車の助手席に乗り込むと、彼は車内のライトを点けた。

「で、今日もあんま元気ねぇのは、昨日言ってた"相談したいこと"と、何か関係あんのか?」

鋭いその質問に、どくん、と胸が大きく跳ねた。次に会う時に話をするはずだったのだが、わざわざ家まで来てもらった以上、ここで話をしなわけにもいかない。

「前のコンペで特別賞を貰ったって話、しましたよね」

ぎゅっと手を握りしめ、どくどくと鳴る心臓の音を聞きながら、私はゆっくり口を開いた。

「あぁ」
「実はあの話、続きがあって…」
「続き?」
「結果が郵送で送られてくる前に、コンペの主催元の人がうちの店に来て…あ、しかもその人、前にスーパーで会った外人さんだったんですよ」

エリオさんの話をすると、一瞬怪訝な顔つきをした焦凍さんだったが、ひとまず私の話を聞こう思ったのか、少しの間を置いてから、そうか、と短く返事をした。

「で、そいつはなんの用で、わざわざお前の家まで来たんだ?」
「その人が実は、コンペの主催をしていたホテルグループのオーナーさんの息子さんだったんです。本当は違う仕事で日本に来てたんですけど、たまたまタイミングが重なったから、コンペの応募作品に目を通したそうで」
「つまり、それでお前のことを知って、向こうから会いに来たってことか?」
「はい。そんな感じです。賞のことも結果が送られてくる前に、その人から聞きました」
「そうか」

おおよそ話は理解できたらしく、彼は少し俯きがちに、再び短く返事をした。

「それで、その話の続きってなんだ」
「えっと…かなりいきなりだったので、私も所々は覚えていないんですが…」
「大丈夫だ。で、なんだ」
「専門的な技術を学ぶために、私にフランスの製菓学校に来ないかって…」

私がそれを口にすると、彼は私の方を見た。始めはやや驚いていたが、すぐにいつもの淡々とした表情になると、焦凍さんは顔を元の位置に戻した。

「留学ってことか。それは」
「はい…費用は全部こっちで出すからって…」
「一応聞くが、怪しい話じゃないんだよな?」
「100%、とは言えないですけど、色々調べてもらったので、大丈夫かと…」
「行くとしたら、どのくらいそっちにいるんだ?」
「留学先の学校が2年制なので、事前の引越しとかも合わせると、2年と少しくらいですかね…夏休みとかは普通にあるので、一時帰国とかは出来るそうですけど…」
「相談したいって言ってたのは、それに行くかどうかって話か?」
「は、はい…」

小さくそう返事をすると、彼はやや天を仰いで、少し考える素振りを見せてから、考えがまとまったからなのか、再び顔を前に向けると、その薄い唇を開いてみせた。

「行けばいいんじゃねぇか。それなら」

それは予想通りの言葉だった。私が留学の話をすれば、彼は行ってこいと、そう言ってくれるだろうと。そしてその通りになった。

それなのに。

「そんな良い機会、そうそうないぞ。しかも費用はありがたいことに、全部向こうが負担してくれるんだし」
「で、でも私…今までほとんど日本を離れたこともないですし、行ってもなんの結果も出せないかもしれないし…」
「そんなの、行ってみなきゃ分かんないだろ」
「それは…そうですけど…」
「お前の能力を評価してくれてるからこそ、声をかけてくれたわけだろ?だったら向こうに行っても、今まで通りやれば、結果はちゃんとついてくると思うぞ」
「そう、ですかね…」
「あぁ。お前ならきっと、やっていける」

それらは全て、私の背中を押すための言葉だ。強くて優しい、彼らしい言葉だ。

それなのに。

「けどそうなるとあれだな。時差とかあるし、電話とかも、タイミング少し難しくなるかもな…」


なんで私は、こんなにがっかりしてるんだろう。


「なまえ?」

私を呼ぶその声に、すぐにはっと我に変える。今私は、一体何を考えていたんだろう。

「あ…すみません…なんですか…?」
「いや、急に黙ったから…どうした?」
「い、いえ…大丈夫です。あの、すみません。わざわざ来て貰って、すでに結論が出てる話を…聞かせて…」
「いや、いい。気にするな。さっきも言ったけど、俺が勝手に来ただけだし」
「はい…」
「他には大丈夫か?」

大丈夫かと尋ねられ、咄嗟に何かを言いかけて、本能的にそれを止めた。自分が何を言いかけたのかは分からないけど、それを言ってはいけないような、そんな気がしていたからだ。

「はい…大丈夫です。ありがとうございました…」

絞り出すようにそう言うと、彼は静かに頷いて、私の頭を何度か撫でた。

「遅い時間に来て悪かったな。今から仕事戻るけど、なんかまたあったら連絡しろ。俺もなるべく時間作って、連絡するから」
「……はい」

焦凍さんは先に車を降りて、助手席のドアを開けてくれた。差し伸べられた手を取って、ゆっくり車から身体を出すと、彼は私の肩に触れながら、頬にちゅ、と唇を寄せた。

「じゃあ、おやすみ」
「はい…おやすみ、なさい…」

彼はそれに乗り込むと、聞き慣れたエンジン音を響かせて、その場を車で後にした。小さくなっていく焦凍さんの車とは反対に、私の中のもやもやが、さらに大きくなっていく。

なんで、消えないんだろう。

そんなことを思った瞬間、なぜか視界がぼんやり霞む。その違和感を不思議に思って、それぞれの目を擦ってみると、両手の指が水に濡れ、それにとても驚いた。

「あ、れ…」

どうしてなのかは分からなかった。何が私をそうさせたのか、私自身にも分からなかった。頬を掠めた夏の夜風は、とても優しく背中を押すのに、真夜中のその片隅で、私は一人泣いていた。


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2022.03.22

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