なんともそれは摩訶不思議


あの日の自分が泣いた理由は、結局分からないままだった。
ここ数日、ずっと胸にある漠然とした不安は、大きくなったり小さくなったり、ひどく不安定な状態が続いていて、いったい自分の中で何が起こっているのか、たぶん私自身が、誰よりもきっと分かっていない。


「本当にごめん。絶対必ず埋め合わせするから」

既に何度も謝罪を重ねた上で、彼はさらに頭を下げて、申し訳なさそうに呟いた。

「だ、大丈夫ですよ…!楽しみが延びたと思えばいいですから…!」
「いや…今回俺から誘ったし、しかも先週の時点では大丈夫とか言ってた手前、さすがに申し訳なさ過ぎて…」
「仕方ないですよ。急にお仕事が入ったのは、別に焦凍さんのせいじゃないですし」
「それはそうかもしれねぇが…」

依然として申し訳なさそうにする焦凍さんに、とにかく一度頭を上げて欲しいと言うと、彼は渋々といった様子で顔を上げ、もう一度ごめん、と口にした。

「全然大丈夫ですよ。謝らないで下さい」
「ごめん。いや、えっと、悪ぃ」
「ふふ、どっちみち謝ってますよ。それ」

私がくすくす笑ってみせると、焦凍さんはそんな私の様子に少し安心したのか、ほっとしたような顔を浮かべた。

「今回は、どんなお仕事なんですか?」
「例の護衛対象に、もともとなかったはずの予定が急遽入ってな…」
「あ、なるほど…それに合わせてってことですね」
「あぁ。あの野郎、予定も聞かずに勝手に人をアサインしやがって…クソ親父」
「あー、焦凍さんが暴言吐いてる」
「いいんだよ。こっちは大事な約束潰されてんだから」

きっぱりとそう吐き捨てると、彼は私の頭にその手を軽くぽん、と乗せ、そのままそっと髪を撫でた。大きくて優しいその手に触れられると、自然と気持ちが穏やかになる。

「ごめんな。本当に」
「大丈夫ですよ」
「けど」
「えっと…あ、そう!今すごい外暑いですから、ちょっと先になって、ちょうど良かったかもですよ」

無理矢理感の否めない、そんな理屈を展開すると、焦凍さんは一瞬ぽかん、と口を開けたあと、ふっと落とすように笑って、私の身体を自分の方へと抱き寄せた。

「あー…」
「あの…焦凍さん…?どうかしましたか…?」
「いや、頑張らねぇとと思って」
「焦凍さんは十分頑張ってますよ。この間もテレビで」
「そっちじゃなくて」
「そっち?」

言葉の真意が分からずに、短く私が聞き返すと、彼は私の額に自分のそれを押し当てて、じっと私の顔を見る。大好きな人の顔がすぐ目の前にあるこの状況は、何度経験してもドキドキして、けれど真っ直ぐに見つめられると、逸らすことなんて出来なくて。

「変なところは鋭いくせに、そういうところは鈍いんだよな…お前は」

少し切れ長な目尻を下げて、彼はぽつりとそう呟いた。焦凍さんが言っていることの半分も、たぶんきちんと理解出来てはいないけど、その表情から察するに、悪い意味ではない気がする。

「もともと約束してた遊園地の分は、ちゃんと埋め合わせするとしてだ」

私の身体をそっと離して、彼はさらに続けた。

「その日の仕事は夕方頃には終わるから、夜どっか行くか。飯とか」
「え」
「最近お前に飯作ってもらってばっかだし、たまにはいいかと思ったんだが…嫌か?」
「い、いえいえ!焦凍さんが良ければ、私は全然良いですよ!」
「じゃあそれで。なんか食いたいもんあるか?」
「あ、それなら私、焦凍さんと食べたいものがあるんです」
「なんだ?」
「瓦そばです!」

高らかにそう告げた私に対して、焦凍さんはぱちぱちと数回瞬きをすると、小さく首をかしげてみせた。

「……なんだそれ」
「山口の名物なんですけど、熱い瓦の上に茶蕎麦と具を乗せて、暖かいめんつゆで食べるんです。祖母が山口の出身で、前に食べたことがあるんですけど、すごく美味しくて」
「なんで蕎麦を瓦に乗せるんだ?」
「確か、昔の人が瓦を使ってお肉とか野菜とかを焼いていたって話を参考にして、旅館のオーナーさんがお客さん用に作ったとか…そんな感じだったかと…」
「へぇ」
「私も焦凍さんと同じで、お蕎麦は冷たい方が好きなんですけど、ほんとに美味しくて、感動して…!」
「そんなに美味いのか」
「はい!私の中で、温そば革命が勃発した瞬間でした!」
「ふ、そりゃあすげぇな」

私のテンションがおかしかったのか、彼は口元に手を当てて、吹き出すように笑ってみせる。そんな焦凍さんの様子を見て、無駄に勢いのあるプレゼンを披露してしまったことに、今さらながら恥ずかしくなった。

「えっと…でも、嫌だったら、全然…」
「いいよ。それにしよう」
「ほ、ほんとに大丈夫ですか…?自分でハードルを上げまくっておいてあれなんですけど、やっぱり冷たい方が良かったって、なりそうな気も…」
「でも逆に、俺にも温そば革命が起こる可能性があるわけだよな」
「まぁ…そうですね」
「だろ?じゃあそれで。で、それはどこに行きゃ食えるんだ」
「行ったことはないんですけど、食べれるお店なら知ってますよ。車だったら、たぶん20分くらいで行けるかなと…」
「分かった。店の場所後で送っといてくれ」
「はい!じゃあ今送りますね」

リビングのテーブルに置いたスマホを手に取り、ネットの画面で店の名前を検索すると、目的地の住所が表示された。それをそのままコピーしてから、彼とのメッセージ画面に貼り付け送信すると、すぐに既読の文字がつき、さらにほんの数秒後には「ありがとな」と返信が来た。すぐ隣にいるのだから、わざわざ返事を送らなくてもいいだろうに、こうして律儀にも返事をくれるその真面目さに、シンプルにこの人を好きだと思う。

「少し話戻るけど、なまえのおばあさんはそんな遠いとこの出身だったんだな」
「あ、はい。いたのは中学までらしいですけどね」
「こっちの高校に入学したってことか?」
「はい。製菓学校の高等部に入ったタイミングで、こっちに来たそうですよ。ちなみにおじいちゃんも、その学校のOBです」
「もしかして、高校の時から付き合ってたのか。あの二人は」
「そうみたいです。あんまり想像出来ないですけど…おじいちゃん、頑張っておばあちゃんにアタックしてたらしいですよ」
「確かに、そういうことしそうなタイプには見えねぇな。あんま」
「ふふ、ですよね」

結局おばあちゃんの方から告白したっていうのは、言わないでおいた方がいいかな。なんとなく。

「まぁでも、傍から見たら俺も似たようなもんか」
「え?」
「俺もお前に対してはそんな感じだったけど、普段はかなり淡白に見えるらしいから」
「私も最初はそう思ってましたけど…やっぱり話し方とかが落ち着いてるから、クールな印象になりがちなんじゃないですかね…」
「そんなにクールでもないんだがな。実際は」
「結構笑ってくれますもんね」
「そうか?表情変わらないって言われるけど」
「声に出して笑うことは確かにそんなにないかもですけど、普通に笑ってますよ」
「それは…相手がお前だからじゃねぇか」
「え…」
「お前といるからだと思うぞ。それは」

いい加減慣れろと自分でも思うのだが、何気ない会話の中で、こうして不意に向けられる甘い攻撃は、毎度のことながら心臓に悪い。

それに最近、絶対わざとやってるし…!

返事に困って俯く私に、焦凍さんは白々しくも、どうかしたか?と尋ねてくる。下を向いていて顔は見えないが、声色から明らかに楽しそうな雰囲気が伝わってきて、もともと勝ち目などありはしないが、やっぱりほんのちょっぴり悔しい。

「はは、すぐ真っ赤になるよな。なまえは」
「焦凍さんのせいじゃないですか…」

顔を上げずにそう言うと、彼はゆっくりこちらに手を伸ばして、そっと私の顔を上げさせた。私のことを見るその表情は、予想通りどこか楽しげで、少し意地悪なその顔にすら、心臓の音がすごくうるさい。

「可愛いな」

ずるい人。そのたったひと言で、何も考えられなくさせて、何度でも好きにさせてくる。

ゆっくり顔を近づけると、再びこつんと額を合わせて、焦凍さんは優しく笑った。今から彼にキスされる。私はそう思っていたし、実際彼もそのつもりだったのだろう。しかしその薄い唇が、私のそれに触れるか触れないか。そんな絶妙すぎるタイミングで、ソファに放り投げられていたそれが、耳を刺すような音を立てた。互いに肩をぴくりと震わせてから、焦凍さんは明らかに落胆した様子で、ため息がちにスマホを手に取る。するとそのディスプレイを見るやいなや、かなり怪訝な表情を浮かべて、彼は自分宛の電話をとった。

「なんの用だ」

たった今見せた表情と、私には絶対にしないその冷たい物言いに、おおよそ相手の見当はついていた。

「うるせぇな。毎度毎度邪魔してきやがって。言っとくが、休み潰されたことまだ根に持ってるからな」

あ、やっぱりお父さんだったのね…。

焦凍さんらしくないその言い方に、隣で苦笑いを浮かべていると、彼は私の方をちらりと見て、スマホを耳に当てたまま、それを持つ反対の手を軽く挙げながら、悪ぃ、と口だけ動かした。

「それで結局なんの用なんだよ。下らねぇ用事なら切るぞ」

突き放すようにそう言うと、焦凍さんは話の内容を一通り聞いてから、そうか、と短く返事をした。

「……分かった。今家だから、30分くらいでそっち行く」

淡々とそう口にして、彼はそくささと電話を切ると、スマホをポケットにしまいながら、珍しく深いため息をついた。

「お仕事ですか?」
「あぁ。ちょっと出てくる。なまえはどうする?ここにいてもいいし、そのまま帰るなら車で送ってく」
「明日特に予定もないので、私はどっちでもいいんですけど…」
「お前を一人で帰らせる選択肢はねぇから、帰るなら今だぞ」
「え、えっと…じゃあ…ここにいます」
「ん。分かった。もう遅いから、俺がいない間に絶対一人でどっか行くなよ。近くでもダメだからな」

彼はその大きな手を私の頭に再び乗せながら、心配そうにそう呟く。そんな焦凍さんを安心させたくて、素直にこくりと頷くと、彼は軽く笑みを浮かべて、私の頬に唇を寄せた。その言葉や行動の一つひとつに、私を大事にしてくれていることが窺えて、胸がとても暖かくなる。

あれは本当に、一体なんだったんだろう。

そんな気持ちとは裏腹に、あの日の記憶が蘇る。焦凍さんが私に与えてくれるあらゆるものは、いつも私を幸せにしてくれて、それは今も同じだ。なのにあの時だけは違った。向けられたその言葉たちは、的を得ていて正しくて、それでいて前向きなものだったのに、私はなんと烏滸がましくも、それにがっかりしたような、そんな気持ちになったのだ。

今日はなんともないのになぁ。

自分の胸の辺りに触れるも、特に痛みは感じない。謎は深まるばかりだ。

「どうかしたのか?」

低く心地いいその声に、思わずはっと息を飲む。どうやら私は完全にひとりの世界に旅立っていたらしく、焦凍さんは再び心配そうな目で、大丈夫かと私に尋ねた。

「す、すみません。ぼーっとしてました…」
「どっか具合悪いとかじゃねぇんだな?」
「はい。全然大丈夫ですよ」
「ならいい。たぶん遅くなっちまうと思うから、先寝ててくれ」
「は、はい。…あの、焦凍さん」
「ん?」
「ありがとうございます。その、ご飯のこととか…気を遣ってもらって…」
「別に大したことじゃねぇから」

そもそも俺のせいだしな、と、彼はひと言付け足して、いつも仕事に出かける時に使う鞄を、慣れた手つきで肩にかけた。

「それに、あっちに行く前の思い出が、ほぼ俺の部屋なのも、どうかと思うしな」

何気なく紡がれたその言葉に、治っていたはずの胸の違和感が、突如再び現れた。まるで水面に小石を落とした時のように、じわじわと不安が広がって、次第に大きくなっていく。ほんのついさっきまで、あんなに幸せで満たされていた胸が、なぜか今はとても痛い。

なんで、また。

「じゃあ、行ってくるな。何度も言うが、一人で外に出るなよ」
「は、はい…いってらっしゃい…」
「ん」

彼は短く返事をすると、さっきの分、とひと言添えて、ちゅ、っと唇にキスを落とす。しかしいつもと変わらぬ優しいその口付けは、すでに胸に広がる不安を、打ち消してくれることはなかった。







「ありがとうございました」

扉を開けると聞こえてくる、馴染みのあるその鈴の音が、今日はなんだかいつもと違う。まだお昼過ぎだというのに、外はかなり薄暗く、空は沈んだ灰色をしていて、今にも雨が降り出しそうだった。

「なんか風強いね。今日」
「そうねぇ…看板閉まっておこうかしら…」
「あ、じゃあ私取ってくるよ。飛ばされたら危ないし」
「そう?じゃあお願い」
「はーい」

ゆっくりとその扉を開けると、外から吹き込む突風に、コックコートがふわりと揺れる。外に出て看板の下にある重石を外し、軽くなったそれを畳むと、キィ、と軋む音がした。なかなかに年季の入ったその看板には、私の知らない時間や思い出がたくさん詰まっていて、所々にある小さな傷や汚れも、きっとその一部なのだろうなと思うと、なんだか不思議な気持ちになる。そんなことを思いながら、ひょい、とそれを持ち上げると、なんとも間の悪いタイミングで、ひゅう、と音を立てる向かい風が、一際強く吹き付けた。

「わっ、ちょ…待…っ!!」

たまらずにそう声を上げるも、自然の猛威に言葉が通じるはずもなく、持ち上げたその看板と共に、身体がぐらりと傾いた。まるでスローモーションのように、ゆっくり景色が移り変わる。

あ、やばい。倒れる。

そう直感したその瞬間、アスファルトに叩きつけられる覚悟をして、ぎゅっと思い切り目を閉じた。しかしどうしたことか、一向にその時は訪れず、さらに倒れかけた自分の身体が、なぜか不思議な位置でバランスを保っていることに、数秒の誤差で気がついた。

「大丈夫?」

穏やかな声色が耳を掠めたところで、恐る恐る瞼を開ける。どうやら声をかけてくれたその人物が、私を助けてくれたらしい。青痣三つくらいは覚悟していたのだが、どうやらその必要はなかったようだ。

「危ないところだったね」
「は、はい。すみません、ありがとうございま……す!?」

振り向いた先にいた人物に、うっかり看板を落としそうになった。


「久しぶり。元気そうだね。なまえちゃん」

すらりとしていて線が細く、少し儚げ印象を持ちながら、穏やかに笑うその人は、私の"もう一人の"幼なじみだった。

「す、すすすば、すば…っ、昴くん…!?」
「はは、そんなにびっくりしなくても」

私のあまりの驚きように、昴くんは肩を震わせながら、楽しそうに笑ってみせた。

「び、びっくりするよ…!いつ日本に"戻って"きたの?」
「ひと月くらい前にね。こっちでもう一つ、店を構えることになったから」
「そうなの!?」
「うん。だから当分日本にいるよ。というか、母さんからおばさん達にに伝わってると思ってたんだけど、聞いてない?」
「ぜ、全然聞いてないよ…」
「そっか。なら驚くわけだね」

納得したようにそう呟くと、彼は私が手にしていた看板を取り上げて、よいしょ、と小さく声をあげると、それを軽々と肩にかけた。相変わらずとても細いのに、こういうところはやっぱり男の子なんだなと、改めてそんなことを思う。

「あらまぁ!昴くんじゃないの!」

なかなか戻って来ない私を心配したからか、いつの間にか店の外に出ていた祖母が、嬉しそうに声をあげた。

「お久しぶりです。お元気そうですね」
「しばらく見ないうちに、随分大人っぽくなって!いつ帰って来たの?」
「ひと月くらい前です。日本でもう一つ、別の店のプロデュースに関わることになりまして」
「相変わらずすごいわねぇ。昴くんは」

もう一人の幼なじみである昴くんは、私より2つ歳上で、彼のお父さんが祖父の下で働いていたという縁から、家族ぐるみでの付き合いがある。その息子である彼も、彼の父親と同じ道に進み、5年ほど前からフランスのパリを拠点に、プロのパティシエとして活躍していた。
昴くんはおそらく世間一般で言うところの、いわゆる天才と呼ばれる人種だ。中学に上がるくらいの頃には、すでにプロからも一目置かれていたような人で、しかしそんな自分の実力に慢心することなく、ストイックに技術を追求するその姿は、子どもながらに感心していた。

「風も強いし、良ければ中でお話したら?なまえも休憩入っていいわよ」
「でも、今はお忙しい時間じゃ…」
「大丈夫。生憎この天気で、そんなにお客さんもいないし、久しぶりにうちのケーキ食べて行って」
「期間限定のケーキもあるよ!」
「じゃあ、お言葉に甘えて…お邪魔します」

軽く頭を下げながら、遠慮がちにそう呟くと、彼は肩に抱えた看板と共に、店内に足を踏み入れた。懐かしむように店の中を見渡す穏やかな横顔は、確かに祖母の言う通り、前より随分大人びて見えた。

「全然変わってないね。もちろんいい意味で」
「ふふ、でしょ?奥の席空いてるから、こちらへどうぞ」
「ありがとう」

カフェスペースの一番奥の席に、向かい合って二人で座る。久しぶりにこうして話をするのに、小さい子から知っているからか、それとも彼の人柄ゆえか、なんだかとても安心する。

「しばらく日本にいるって言ってたけど、パリのお店は大丈夫なの?」
「うん。僕より優秀な職人がたくさんいるからね、あの店は。当面の間は、こっちの店に専念するつもり」
「そっか」

私が小さくそう返事をしたところで、キッチンからとてもご機嫌な様子の祖母が、二人分のタルトとお茶を運ぶ。きらきらとしたゼリーでコーティングされた、薄桃色のフルーツが乗っているタルトは、当店自慢の季節メニューだ。

「お口に合うか分からないけど、季節限定の白桃タルトよ」
「ありがとうございます」
「おばあちゃん、私の分は」
「バイト代から、でしょ。分かってるわよ」

すかさず懸念を払拭したところで、テーブルに置かれたフォークを私が手に取ると、昴くんもそれに合わせて、同じようにフォークを掴んだ。

「じゃあ、いただきます」
「どうぞどうぞ」

徐ろにフォークをタルトに入れ、ゆっくりと口に含んでから、彼は無言で咀嚼する。こうして普通に話しているけれど、よく考えれば今、私の目の前にいる人は、既に二つの店を任されるプロ中のプロであるわけで、それに気づいてしまったからか、途端に胸がそわそわしてきた。

「うん。すごく美味しい」

タルトをじっくりと味わってから、昴くんは優しく笑って、一度フォークをお皿に置いた。

「良かった!今年のすごく評判いいんだよ!」
「タルト生地のサクサクした食感がいいね。とうもろこしの粉かな…?桃の食感とのバランスがちゃんと設計されてる感じ。なまえちゃんのおじいさんは、相変わらず食感の使い分けが凄いよ。僕なんかが言うのは烏滸がましいけど、さすがだね」
「ぷ、プロのコメントだぁ…」
「それになんと言ってもフルーツの瑞々しさは、やっぱり日本が群を抜いてるね。生でここまで美味しいフルーツは、あっちではなかなか手に入らないから」
「そういえば、今年の桃は上玉だって、おじいちゃんが言ってたよ」
「じゃあ僕は、いいタイミングで帰ってきたね」
「ふふ、そうだね」

会話にひと段落着いたところで、昴くんは再びフォークを持ち、その二口目を頬張った。何かを確かめるように噛み締めながらタルトを食べるその様子は、私のよく知る男の人とは正反対で、同じ男性でもこんなに違うものなんだなぁと、そんなことをふと思った。

「それで、うちに何か用だったの?昴くん」
「あぁ、そうだった。実はちょっと、なまえちゃんにお願いがあって」
「私に?」
「そう」

彼は短く返事をすると、椅子に置いていたリュックから、一枚のチラシを取り出して、それをテーブルにそっと置いた。

「このチラシは…」
「今度オープンする店のチラシ」
「へぇ…可愛いお店だね…って、オープン来週なの!?」
「うん。そうだよ」

しれっとそう言う昴くんに、返す言葉に詰まってしまう。開店準備に追われているであろうこのタイミングで、仮にも店を任されている人間が、こんなところで呑気にタルトを食べていていいのだろうか。

さすがいうか、なんというか。
相変わらずのマイペースだなぁ…昴くん…。

「それで…なんで私にこれを…?」
「オープニングスタッフの勧誘」
「は?」

思わずまぬけな声を晒すと、彼は何かを思いついたように、あぁそっか、と声をあげる。すると今度は、ポケットに入れていた財布から、何やら小さなカードのようなものを取り出して、それを両手でそっと持つと、私に見えるように差し出した。カードの中心には彼の名前が書かれており、その上にはカタカナがたくさん並んだ、馴染みのない肩書きが添えられている。

「僕はこういう者です。怪しい者じゃないですよ」
「いやそうじゃなくて…!!私が疑問なのは、なんでお店の大事なオープニングスタッフを、今探してるのかってこと!!」
「もちろんちゃんと事前に確保はしてたんだけど、その内の一人が、どうやらかなりの借金を抱えてたみたいでさ。夜逃げしちゃって」
「しちゃってって…そんな呑気な…」
「そんなわけで、今から代理をゼロベースで探すのはなかなかきついし、頼みの綱はなまえちゃんだけなんだよね」
「いやまぁ…別に私はいいけど…何を手伝えばいいの?売り子さんとか?」
「えーっと、ちょっと待ってね。それはそのチラシじゃなくて…」

先ほどお店のチラシを出した時のように、彼は再びリュックの中に手を入れて、今度は先ほどよりもやや小さいサイズの、かつとてもカラフルな色合いのそれを取り出した。

「なまえちゃんに手伝って欲しいのは、こっち」
「……"体験教室"?」

お店のチラシとは少しテイストが異なる、ポップなイラストが添えられたもう一枚のチラシには、普通の製菓店ではあまり馴染みのない"体験教室"という文字が、これまた可愛らしい書体で記されていた。

「うん。次の店では店舗の2階をお菓子教室にするんだけど、せっかくのオープン記念だし、何かイベントをやりたいよねってことになってね」
「イベントかぁ〜、なんか楽しそうだね!」
「小学生以下のお子さんを対象に、この真ん中のイラストみたいな、可愛いカップケーキを作る体験教室をやるんだけど、なまえちゃんにはそこに参加する子どもたちのお手伝いをして欲しいんだ」
「どれくらいの人が参加するの?」
「10人ずつで3回やるから、全部で30人だね。オープン日だけのイベントだから、その日だけ来てくれればって感じなんだけど、どうかな?もちろんバイト代も僕が出すから」
「いいじゃない。行ってらっしゃいよ。きっといい経験になるわ」

つい先ほど空いたばかりの、隣のテーブルを片付けていた祖母が、すかさず私にそう声をかけた。

「じゃあ、お手伝いさせてもらいます」
「良かった。助かるよ。僕は子どもにあんまり好かれないから…」
「それいつも思うけど、不思議だよね。昴くん穏やかだし、いかにも優しそうな感じなのに」
「見た目はね。でもほら僕、知っての通りドライというか、結構冷たいから、それを見透かされてるんじゃないかな。子どもってそういうの、かなり敏感だから」
「そんなことは…」
「あ。そういえば話変わるけど、なまえちゃんなんか、綺麗になったよね」
「え…」
「もしかして、彼氏とか出来た?」

昴くんのその質問に、肩がびくっと大きく跳ねた。「違う」と言えば嘘になるのだが、堂々と「はい、そうです」と言えるハートの強さは、残念ながら私にはない。

というかこの人も、相変わらずとても鋭い。

私の周りにいる人は、どうしてこうも察しの良い人たちばかりなのだろう。

「相変わらず、嘘とかつけないんだね」
「ま、まだ何も言ってないよ…っ」
「顔を見れば分かるよ。でもそっか。ケーキにしか興味がなかったなまえちゃんにも、ついに彼氏がね。感慨深いなぁ」

タルトの最後のひと口を食べながら、彼は穏やかに微笑みながら、どこかで誰かが言っていたような、そんなセリフを口にした。

「娘を嫁に出す時の父親の気持ちって、こんな感じなのかな」
「昴くん、私と2つしか違わないじゃん」
「いやいや、その差は結構大きいよ?2年もあれば、同じ人でもテンパリング技術は別人みたいになるし」
「ふふ、らしい例えだね」
「それでなまえちゃんの彼氏さんは、どんな人なの?」
「ど、どんなって…」

どこまで話していいのだろうか。少なくとも名前を言うわけには行かないし、外見的な特徴を教えるにも、それを伝えてしまったら、ほぼその人だと見当がついてしまう。

「えっと…年上の、人」
「いくつの人なの?」
「27歳」
「え、6つも年上なの?」
「うん。まぁ…」
「かっこいい?」
「う、うん…すごく、かっこいいよ」

素直にそう返事をすると、昴くんは珍しく驚いたように目を丸くさせ、私の顔をまじまじと見た。

「な、何…?」
「なまえちゃんって、異性に対してかっこいいとか、そういう感覚持ってたんだね」
「正直なところあんまりなかったけど…今は普通にある、と思う」
「へぇ。じゃあ、あの人とかどう思う?」

私にそう尋ねながら、彼は店の外を指差した。自然とそちらに目を凝らすと、店の真向かいの街路樹の側に、知らない男の人が立っているのが見えた。今日は風が強いからか、辺りにはその人以外誰もいないので、おそらく昴くんが"あの人"と示しているのは、彼のことで間違いなさそうだ。

というか、なんかこのくだりも、どこかであったような。

「どうって、早く室内に入った方がいいと思うけど…」
「その人だけが例外なんだね。やっぱり」
「ふふ、とっても素敵な人なのよ〜」

食器を乗せた銀色のトレーを持ち上げながら、祖母はなんともわくわくした様子で、そんなことを言い出した。

「ちょ、おばあちゃん…っ!」
「会ったことあるんですか?」
「えぇ、何度か。すごくかっこいいのに、それを鼻にかけてないというか…あんまり自分では分かっていない感じのタイプね」
「少し天然な人なんですね」
「そうそう。そんな感じ。でも本当にかっこいい人なのよ〜、背も高いし」
「そうなんだ。ねぇなまえちゃん、写真とかないの?」
「え」

思わず小さくそう声をあげると、昴くんは不思議そうな顔を浮かべて、小さく首を傾げてみせる。確かにここまで外見のハードルを上げられたら、どんなものかと見てみたくなる気持ちは、ごく普通の感覚だろう。しかし。

「しゃ、写真は、ちょっと…」
「もしかして、結構訳ありな人なの?」
「訳ありっていうか…その人の仕事の都合で、付き合ってることは秘密にしないといけなくて…えっと…」
「そっか。なら仕方ないね」

私が答えに困っていたからか、はたまたそれほど興味がなかったのか、彼はさらりとそう呟いて、それ以上は何も聞かなかった。

「あ、ねぇなまえちゃん。当日の詳しい段取りとか改めて打ち合わせしたいんだけど…近いうちに一度、店に来れたりするかな?今夏休みだよね?」
「うん。大丈夫だよ」
「ありがとう。じゃあ、詳しいことはまた連絡するから」
「分かった。昴くんの新しいお店、楽しみにしてるね!」
「うん。じゃあ、僕はそろそろ行くね。この後実は次の約束があって」
「忙しいんだね」
「じっとしてられないタチだから、つい色々予定を入れちゃうんだよね。僕の悪い癖だよ」

少し目尻を下げて、困ったように笑いながら、昴くんは紅茶を一気に飲み干して、リュックをさっと背負ってみせた。

「じゃあ、また連絡するね。ケーキごちそうさま」
「うん。またね」

店の出入口まで二人で歩き、彼がその扉を開けると、先ほどよりもさらに強い風が、店の中に吹き込んだ。それに対して特に何も言うことなく、昴くんはその足を、一歩前へと踏み出した。しかしなぜかその歩みは、次の二歩目に進む前に、ぴたりとその場で静かに止まる。

「なまえちゃん」
「何?」

根拠はない。けれど次のその言葉を、私はなぜか確信していた。

「 ─── あいつは、元気?」

それを口にした彼が、今どんな顔をしているのか、知りたいような、知りたくないような、私の気持ちは複雑だった。ほんの少しだけ痛む胸に、そっと指先をあてながら、小さく一つ息を吸い、私はゆっくり口を開く。

「うん。元気だよ」
「そっか。なら、良かった」

とても穏やかな声色で、昴くんはそう言って、店をそのまま後にした。とりとめのないたったひと言。しかし私にはその声が、微かに震えて聞こえた気がした。







『じゃあ来週は、そのもう一人の幼なじみのところに、手伝いに行くんだな』

閉店後の店のキッチンに、彼の低い声が響いているのは、なんだがちょっと不思議な感じだ。スピーカーから聞こえるその声に耳を傾けながら、目の前のパイ生地を薄く伸ばす。クリーム色の生地から香るバターの匂いと、先ほど完成した林檎のコンポートの甘い香りに、少し小腹が空いてきた。

「はい。まぁお手伝いと言っても、半分は体験教室に来てくれた子たちと、遊ぶ感じになるような気がしますけどね」
『どの辺にある店なんだ?』
「隣町の大きな緑地公園の近くなんですけど…分かりますかね…?」
『あぁ、あそこか。あんま行ったことはねぇが、大体場所は分かる』
「今度改めてケーキ買ってくるので、ぜひ食べてみてください!すっごく綺麗なケーキ作るんですよ!」
『楽しみにしてる。店の名前は、なんていうんだ?』
「えっと…ちょっと待ってくださいね」

一度両手を洗ってから、コックコートのポケットに入れたままになっていた、四つ折りのチラシを取り出した。はらりとそれを開いてみると、おそらくその質問の答えであろう箇所は見つけたが、その読み方もその意味も、清々しいほど理解出来ない。

「…ぷ、ぷりん…てんぷす…?」
『それ、たぶん"Printemps"じゃないか?』
「ぷらんたん…」
『確かフランス語で、"春"って意味だった気がするが…夏にオープンするのに、なんか不思議なネーミングだな』
「それは…」

それはたぶん、季節の"春"じゃなくて、きっと ───

『どうした?急に黙って』
「い、いえ、なんでもないです。焦凍さんすごいなぁって、思って…」
『まぁ実物見てねぇし、本当にそうかは分かんねぇけど。しかしお前の幼なじみは、なかなかキャラが濃い奴が揃ってるんだな』
「そうですね。ちーちゃんとはまた違った濃さといいますか…かなりマイペースな人なので」
『ずっと海外にいたんだよな?』
「はい。高校卒業と同時にフランスに渡って、向こうのパティスリーで3年くらい修行した後、そのまま独立してお店を持ったって聞いてます」
『てことは、今のなまえと同じくらいの時に店を持ったってことか…すげぇ行動力だな』
「すごいですよね…そういえば留学する時も『僕明日からフランス行ってくるから』って、あっさりそう言って旅立って行きましたし…」
『ちょっと待て』

懐かしいエピソードを語りながら、再び生地を伸ばし始めると、彼は珍しく強めの口調で、私の言葉を遮った。

「どうかしました?」
『その幼なじみって、男なのか?』
「え、はい。そうですけど、言ってませんでしたっけ?」
『……聞いてねぇ』

少しの間を置いてから、明らかに不機嫌そうになった彼の声色に、思わず笑ってしまいそうになる。

「あ、あの、焦凍さん」
『なんだよ』
「もしかしてあの、怒って、ますか…?」
『怒ってはいねぇ』

そういえば、初めてエリオさんに会った日の話をした時も、こんな感じだったなぁ。

「その…ご存知だと思いますが、私の初恋、は…焦凍さんなので、そういう感じに思ったことは無いですし、えっと…し、心配無用といいますか…」
『向こうはそんなの分かんねぇだろ』
「いえ、それも絶対にないです」

幼なじみという肩書きのせいか、エリオさんの時とは違い、さらなる追撃が私を襲うが、彼が示したその可能性は、この瞬間に潰えている。昴くんが私に対してそういう感情を抱くことは、今までもこれからもありはしない。

『なんでそう言い切れるんだよ』
「言い切れます。絶対にないです」
『だからなんでだよ』
「……昴くん、は」

焦凍さんになら、話してもいいだろうか。彼が直接的に昴くんと関わることはないだろうし、焦凍さんにこのまま嫌な思いをさせたままなのは忍びない。だけど。

「えっと、その…」
『やっぱいい。聞かないでおく』
「え?」

言おうか言わまいか迷う私に、彼は意外にもあっさりと、聞かないことを選択した。いつもの焦凍さんなら、気になることをそのままにしておくことは、ほとんどしないはずなのに。

「あの…」
『よく分かんねぇけど、なんか言いたくねぇ事情があんだろ?』

そう尋ねる声色は、いつもの彼のものだった。淡々としているけれど優しい、世界で一番大好きな声だ。私が答えに詰まっていたから、困らないようにしてくれたのだろう。そんな焦凍さんの優しさを嬉しく思いつつも、それを口に出せないことに、胸がずきんと少し傷んだ。

「すみません…口止めされてるわけでもないんですけど、なんか…勝手に言うのは違うかなって…」
『言わない方がいいって少しでも思うなら、言わない方がいい。お前は正しいよ』
「ごめんなさい…あの、気を遣わせてしまって…」
『いや、元は俺のせいだから。こっちこそ悪かった』
「焦凍さんが謝ることじゃないですよ。えと、話せるタイミングがあったら、今度話しますね」
『あぁ。でも、別に無理に話そうとしなくていいからな。困らせたくねぇし』
「はい…」

あぁ、かっこいいな。

自分からはあまり聞かないようにしているが、彼の今までの人生を思うと、これまでにもきっとたくさん、嫌なことを言われたり、聞かれたりしてきたはずだ。そして今も、これからも、私には見えないその場所で、そういうことがあるのだろう。そんなものを抱えながらも、別の誰かの気持ちを考えることの出来るこの人は、やっぱりすごくかっこいい人だ。


『でもあれだな。そいつがずっとフランスにいたなら、あっちでの生活のこととか、手伝いついでに色々アドバイス貰えるんじゃねぇか』

話題を変えた方がいいと、そう思ってくれたのだろう。きっとそれは紛れもない、彼の優しさゆえの言葉だ。けれどそんな思考とは裏腹に、私の心はその言葉を、素直に受け入れられなかった。

あぁ、まただ。またあの嫌な感じがする。

あれから少し時間が経って、一つ分かったことがある。その話題に彼が触れる度に、どうしてなのかは分からないが、見えない心の片隅で、それを拒んでいる私がいた。

せっかく応援してくれてるのに。
こんなことを思うなんて、絶対ダメなのに。

『なまえ?』

私を呼ぶ焦凍さんの声に、意識がもとの場所へと帰る。最近彼と話をする時は、いつもこんな感じになってしまう。焦凍さんが留学の話をする度に、色んな気持ちでぐちゃぐちゃになって、虚ろになってしまうのだ。

「す、すみません…なんか一瞬、よく聞こえなくて…あ、そうだ。瓦そばを食べに行こうって話してた日ですけど、時間とかどうしますか?まだ決めてなかったですよね?」

露骨に話題を変えた私に、彼は特に何かを言うこともなく、尋ねられたその問いかけに、少し考えるような声をあげた。

『17時頃には上がれると思うから…18時くらいに迎えに行くでどうだ?』
「はい!大丈夫です!あ、じゃあお店18時半で予約しておきますね」
『分かった。ありがとな』

真っ直ぐなその感謝の言葉に、またもや胸が痛む。そんな私の心情を知る由もなく、彼はもうこんな時間か、と、名残惜しそうに呟いた。

『じゃあ俺は、そろそろ戻るから。自主練もいいが、睡眠はちゃんと取れよ』
「ひと区切りしたら、すぐに寝ますよ」
『ん。じゃあまたな。おやすみ』
「はい。いってらっしゃい」

いつものように声をかけると、それに続く返事をして、今日は彼が電話を切った。音の消えたスマホに視線を移し、ふぅ、と一つ息を吐く。そして視線を手元に戻した瞬間、目の前に広がるその光景に、思わず肩を竦ませた。

「やってしまった…」

アップルパイを作ろうと伸ばしていたパイ生地が、いつの間にか想定していた大きさの、2倍近くになってしまっていた。これでは熱に耐えられず、途中で土台が焦げてしまう。

「しょうがない。やり直すか…」

ぽつりとそう口にして、目の前にあるクリーム色を、一人じっと見つめてみる。大きくなりすぎたそれは、まるで。

まるで、なんだろう。

しばらく考えてみたものの、結局答えは分からずじまいで、静まりかえったキッチンには、私のため息が虚しく響いた。


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2022.05.26

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