ショコラにまつわる運命論


「私、好きな人が出来たの」

講義を終え、人もまばらになった教室に、ちーちゃんの咽せ返る音が響いた。呼吸を何とか落ち着かせたあと、彼女は手に持っていたペットボトルをそっとテーブルの上に置き、とんでもないものを目の当たりにしたような顔で私を見た。

「何もそんな顔しなくても」
「いや、するでしょ。あんたつい昨日まで、『恋愛なんか興味ありません』みたいな雰囲気だったじゃないの」
「それは、否定しないけど…」

私の言葉に、彼女は未だに信じられないといった様子で、品定めするようにまじまじと私の顔を見つめた。

「で、何がどうなってそうなったわけ?」
「えっと…昨日その人が店に来て…あ、でもその時本当はもう閉店してたんだけど、練習に夢中で私がそれを忘れてて」
「待って一旦ストップ。あんたの好きな人って、お店のお客さんなの?」
「うん」
「……とりあえず、続けて」
「それで、謝らなきゃって思ってお店に出たら、すっごい綺麗な男の人がいたの」
「つまり、一目惚れしたってこと?」
「うーん……なんかちょっと違う気がする。確かに綺麗だったし、すごくかっこよかったけど」

見た目は全く関係ないと言ったら、嘘になる。けれど一目惚れかと尋ねられたら、それは少し違うような気がしていて。

「なんて言えばいいんだろう…好き!じゃなくて、あぁ、好きだなぁって感じなの。内側からじわーって感じの……伝わってる?」
「全然」
「ですよね…自分でもよくわかんないもん…」
「っていうか、私はあんたが男に対して、かっこいいって思ったり出来たことに衝撃を受けてるわ」
「そうなの?」
「だってあんた、そういう話題の時は、いつも決まって『ふーん』か『へぇ』のどっちかだったもの」

そう言われてみると、確かに男の人の容姿に対して、取り立てて何かを思ったことはなかったかもしれない。クラスで誰がかっこいいとか、あの先輩が素敵だとか、そういう話題を何人かの女子で話すことはあったけど、みんなにはそう見えてるんだな、くらいの感覚で、肯定も否定もした記憶がない。

「そんなあんたがねぇ……嬉しいような寂しいような、複雑な心境だわ」
「なんで?」
「寝ても覚めてもケーキ作りのことしか頭になかったウチの子に、好きな人が出来るだなんて…」
「まぁでも、名前も知らない人なんだけどね」
「は!?」
「え?」
「連絡先とか、聞いてないわけ?」
「聞いてないよ。あ、でも歳と誕生日は聞いた」
「いくつなの?その人」
「26歳だって。来月27になるって言ってた。私と同じで1月生まれなんだって」
「いや、誕生日はぶっちゃけどうでもいいわ。っていうか、それだけしか相手のこと知らないのに、どうやって進展させるつもりなのよ」
「でも、また来るって言ってくれたよ?」
「そんなのいつになるかわからないでしょうが!」
「まぁ、それはそうだけど…」
「その間に他の女に…っていうか、そんなにイケメンなら、そもそも彼女いる可能性だってあんのよ?」
「え……」

全く考えていなかった。でもあんなに素敵な人なら、恋人の一人や二人、いや、下手をすれば百人くらいいたっておかしくなはい。
あの人と知らない女の人が一緒に歩いている光景を想像すると、胸が締め付けられたように苦しくなる。なんというか、身体の中心からモヤモヤした何かが渦巻いて、それがすごく嫌だ。

「彼女、いるのかな……」
「そういうことは、普通予め探りを入れておくもんなの!」
「そ、そうなの?」
「彼女がいるだけならまだいいわよ。別れる可能性だってあるし。でもこれが妻子持ちとかだったら、めちゃくちゃ面倒なことになるじゃない」
「た、確かに…」
「また会えるかどうかもわかんない人を好きになっちゃうとか…どこの少女漫画の主人公なのよ…あんたは…」
「だ、だって好きになっちゃったんだもん!」

彼が扉を開け、そこにある鈴が鳴り響いた瞬間、この人のことが好きだと、そう思ってしまったのだ。恋なんて今まで一度もしたことがなかったくせに、なぜかその時の私には、自分が彼に対して抱く気持ちに、「恋心」以外の答えを持ち合わせていなかった。

「……この人が好きって、思っちゃったんだもん」

そう言うと、彼女は私の頭の上にぽん、と軽く手を置いてみせた。それはまるで、昨日のあの人のように優しくて、何だか心がほっとした。

「あんたって、たまに抱きしめたくなっちゃうくらい可愛いこと言うわよね」
「どうしたのちーちゃん、熱でもあるの?」
「おいこら、可愛くないこと言うのはこの口か?え?」

彼女はそう言うと、私の口角をその細い親指と人差し指で摘み上げ、少し意地悪く笑ってみせた。

「いひゃい」
「相変わらず、よく伸びるいいほっぺしてるわねー」
「ほうはな?」
「ところであんた、今日はこれからどうすんの?」

ちーちゃんは私の頬から手を離すと、スマホのディスプレイで時間を確認しながら、私にそう尋ねた。

「今日はお店が定休日だから、ショコラトリーに行こうと思って」
「恋に落ちてもそこはブレない」
「再来月のバレンタインにむけて、そろそろ準備しなきゃだから!」
「その情熱をもう少し勉強に向ければ、毎回テストの度に慌てることもないだろうに」
「う…っ」
「まぁ、あんたが急に真面目に授業聞くようになったら、教授陣はびっくりして腰を抜かすかもしれないわね」

その光景を頭の中に思い浮かべたのか、ちーちゃんは口に手を当ててクスクスと笑い始めた。真面目に授業を受けるだけで腰を抜かされるなんて、いくら何でも大袈裟すぎやしないだろうか。

「確かにほとんど寝てますけど…何もそこまで言わなくても…」
「有り得る展開よ?そもそも女子少ないから、あんた目立つし」
「なんか…凄い嫌な目立ち方…」
「自業自得でしょ。それはそうと、私も今日は何も予定ないから、一緒に行ってもいい?ショコラトリー」
「うん!今日行くお店のホットチョコレート、すっごく美味しいよ!」
「いいわね。外寒いし」
「じゃあ早く行こ!今すぐ行こ!」
「わかったわかった。支度するから」

ちーちゃんは呆れたように笑うと、慣れた手つきでマフラーをサッと首に巻き、トートバッグを肩にかけた。私も同じく身支度を済ませ、いつのまにか私たち以外誰もいなくなった教室を、二人で足早に立ち去った。







「ん!これ美味しい!」

テイクアウトのカップを見つめながら、ちーちゃんは珍しく感心したような顔でそう言った。
店内で飲もうと思っていたのだが、あいにく席が満席だったため、近くにある公園のベンチで並んで座りながら、私たちはお目当てのホットチョコレートを飲むことにしたのだ。

「ふふ、でしょ?でしょ?」
「毎回思うけど、やっぱりあんたが美味しいっていうお店は外れないわよね。甘いものに関わらず」
「お褒めに預かり光栄です!」
「にしてもあんた、えらく沢山買ったわね…」

ベンチの脇に置いた大きな紙袋に視線を移しながら、彼女はもう一口ホットチョコレートを口に含んだ。もう一つの目的でもあるバレンタインメニューの試作の買い出しも、お陰様でばっちりである。

「カカオの濃度とか、産地によっても結構味が変わるから、色々試してみたくって」
「あー、確かにチョコレートって結構原産国によって味違うわよね」
「そうそう。果物とかと同じで、温度や気候によって、苦味が強かったり、少し酸味があったりとかね」
「どんなやつにするか、もう決めたの?」
「ううん。まだ全然。やっぱりチョコを際立たせたいから、どのチョコを使うか決めてから、何を作るか決めようかなって」
「なるほど」

もちろん作っている時もとても楽しいが、こうして材料を集めるのも、まるで宝探しのようでわくわくする。今日行ったお店はパッケージも可愛いし、家に帰ったらまずは、全部並べて写真を撮ろう。

「バレンタインまでに、また来てくれるといいわね」
「え?誰が?」
「誰って、あんたの初恋相手に決まってんでしょ」

そう言うと、彼女はにやにやしながら、私の頬をつんつん、と指でつついてみせた。

「もしバレンタイン前に来てくれたら、チョコ渡せるかもしれないじゃない」
「む、無理だよそんなの…っ」
「どうして?渡したくないの?」
「そうじゃないけど…だってバレンタインに渡したら、そんなの好きって言ってるような、もの、だし…」
「それの何が問題なの?」
「な、何がって」
「日本におけるバレンタインは、女の子が好きな人に告白する日でしょ。まぁ告白はハードル高いかもしれないけど、こっちの好意を分かってもらう絶好の機会じゃない」
「な、なるほど…?」
「ま。その為にも、次会えた時にはちゃんと彼女がいるか聞きなさいよね。あと名前もね」
「が、頑張ります!」
「うんうん。頑張れ。恋する乙女」

彼女はそう言うと、残っていたであろうホットチョコレートを飲み干して、ベンチからすくっと立ち上がった。

「私ちょっとトイレ行ってくるから、少し待ってて。ついでにゴミも捨ててくるわ。」
「あ、うん。ありがとう。もう結構暗いから、気をつけてね」
「大丈夫よ。あんたこそ、変な奴に話しかけられてもついてっちゃダメよ」
「それ昨日も聞いたんだけど」
「あんた危なっかしいんだもの。じゃ、なるべく早く戻ってくるから、いい子にしてなさいよ〜」
「私は子供かっ!」

そんなツッコミを軽く流して、ちーちゃんは公園のトイレがある方へと歩き出した。残された私は特に何もすることもなく、暗くなり始めた空を見上げると、紫色の夕空に、いくつかの瞬く星が見えた。







「ちーちゃん、遅いなぁ…」

彼女を見送った時はまだ少し明るかったはずの空が、今はすっかり紺色に変わっている。今の時間を確認しようとスマホをポケットから出すと、私がディスプレイをつける前に、17時を合図する鐘の音が鳴り響いた。その鐘の音を聴いたからか、公園の出口に向かって駆けていく小学生や、中高生くらいのカップル達が、次々と目の前を通り過ぎて行った。




今ごろ何してるのかな。あの人。

26歳ということは、ほぼ間違いなく社会人だ。ということは、今日は平日だし、この時間はまだ仕事中だろうか。仕事帰りと言いつつ、昨日は普通に私服を着ていたけど、一体どんな仕事をしている人なのだろう。

どんな仕事でも、あれだけ素敵な人なら、きっと仕事姿も絵になるんだろうなぁ。

そんなことを考えていると、突如冷たい突風が身体を突き刺した。残り少ない木々の葉の擦れる音と共に、ベンチに置いていた紙袋が傾き、中身がバラバラと零れ落ちる。

「あ、やば…っ!」

大体のものはその場で拾い上げられたが、その中にあった丸い形をした缶が、なだらかな傾斜をコロコロと転がって行ってしまった。他のものを一通り集めたあと、その缶を追いかけて10メートルほど走ると、ちょうど横道から現れた人の足に、それはコツンと当たってその場に止まった。

「す、すみません!それ私ので…っ」

足に当たったことに気づいたのか、その人は屈んで足元の缶を拾い上げた。

「あ…っ」




その瞬間、自然と声を一つあげた。
丸いその缶を拾い上げたその人の、特徴的な紅白色の髪に、私はとても見覚えがあったからだ。

「あれ、お前…昨日の」

街灯の光に照らされた、二つの異なる色をした目と、左目の周囲だけにある火傷の痕。私を見たその人物の顔は、紛れもなく昨日お店にやってきた、あの人だった。

また、会えた。しかもこんなに早く。

「偶然だな。こんなとこで会うなんて」

フィクションで描かれるような思わぬ再会に、烏滸がましくも運命的なものを感じてしまう。今日の彼は帽子を被っていないため、その端正な顔立ちがよりはっきりと分かる。昨日は帽子で隠されていたサラサラとした綺麗な髪が、風に煽られるその様子があまりにも素敵で、辺りが暗くてよかったかもしれないと、そんなことを思った。

「大丈夫か?聞こえてるか?」
「あ、は、はい!!聞こえてます!!元気です!!」

低い声にハッとして、思わず大声でそう返事をすると、その声のボリュームに驚いたのか、彼は少し目を丸くさせてから、ふ、と軽く笑ってみせた。

「みてぇだな」

私の馬鹿。何やってんのよ。笑われちゃったじゃない。

「昨日はありがとな」
「い、いえ、そんなっ」
「姉さん、すげぇ美味いって絶賛してたぞ」
「ほんとですか…!?良かった…」
「今度姉さんも買いにいくって言ってたから、袋に入ってた店のカードみてぇなやつ、渡しといた」
「わ、ありがとうございます!」

昨日がお誕生日だった彼のお姉さんは、どうやら私の作ったケーキを喜んでくれたらしい。初めてお客さんに手渡したケーキの反応を、この目で見れなかったのが少し残念だが、彼の役に立てたのなら、それ以上を望むのは贅沢というものだ。

「今日は、店休みなのか?」
「あ、はい。今日は定休日で…学校の帰りに友達に買い物に付き合ってもらって…」
「買い物って、これか?」

彼は拾い上げた缶に視線を落とし、不思議そうな顔でそれを見つめた。

「なんだこれ」
「チョコです」
「もしかして、その袋の中身は全部チョコなのか?」
「はい。そろそろバレンタインデーのメニューを考える時期でして、試作のために色んなチョコを買いに来ました」
「まだ12月なのに、もう準備すんだな」
「メニューの考案に、それなりに時間がかかるもので…」
「あぁ、なるほど」

彼が納得したように頷くと、ふい会話が途切れてしまった時の、なんとも言えない微妙な空気が流れた。よく考えてみると、彼はどうしてここにいるのだろう。昨日の服装とは随分違う装いだが、この人は本当に何をしている人なのだろうか。

「あ、あの」
「ん?」
「えっと、あなたは、どうしてここに…」
「俺は普通に仕事中だ」
「す、すみません…!お仕事の途中に…!」
「いや、今は暇だから別に問題ねぇ」
「そ、そうでしたか…」

服装的にサラリーマンではないだろうけど、普通暇になったからといって、公園をふらふら歩いてもいい仕事なんてあるのだろうか。まぁでも世の中には色んな仕事や会社があるし、そういうこともあるのかもしれない。

「今日も帰ったら練習すんのか?」

再び会話が途切れると、今度は彼の方から別の話題を切り出した。

「えっと、今日は…たぶんチョコの味見で終わります」
「味見?」
「一口ずつ食べ比べてみて、甘みとか酸味とか、味のバランスをチェックするんです。一つひとつ微妙に違うので」
「奥が深いんだな」
「年によっても味が変わるので、毎年こんな感じですね」
「お前が作るのか?その、バレンタインのやつは」
「おじいちゃんにメニューを考えて欲しいとは言われてますが、採用されるかどうかは、私の力量次第です」
「そうか。じゃあ頑張らねぇといけねぇな」
「そうなんです。だから今年は結構ドキドキしていて…」
「もし採用されたら、俺も食っていいか?」
「え!?」

再び大きな声を上げた私に、彼は肩をぴくりとさせた。

「……ダメなのか?」
「だ、ダメじゃないですけど…いいんですか…?」
「何がだ」
「その、か、彼女さん、とか…」
「彼女?」
「バレンタインのチョコは、その、彼女さんとかから貰うのでは…」
「俺にそんな相手はいねぇ」
「え!?」
「今度はどうした」
「彼女、いないんですか!?そんなにかっこいいのに!?」

私のその質問に、彼はぱちぱちと軽く瞬きをして、私の顔をじっと見た。そしてその数秒後、私は自分が放った言葉の恥ずかしさに気づき、真冬の暗い空の下で、顔から火を吹き出しそうになった。

「すみません…忘れてください…本当に、すみません…」

馬鹿バカばか私の馬鹿。何を大声で言っちゃってんのよ。絶対また変に思われた。最悪。なんでこうなっちゃうの。

「…いや、別に謝らなくてもいい。で、どうなんだ」
「はい…?」
「食っていいのか?ダメなのか?」
「え、あ、はい!もちろんいいです!是非!食べて欲しいです!!何個でもどうぞ!!」

その言葉に、彼は軽く声を上げて笑ってみせた。昨日は帽子であまりよく見えなかったが、普通にしている時の淡々とした表情とは違い、笑った時に少しだけ下がる目尻と眉はとても優しげで、やっぱり笑った顔が一番素敵だなぁ、なんて、図々しくもそう思った。

「はは、そんなに沢山は食えねぇぞ」
「で、ですよね…あはは…」
「でも食いたいから、頑張って採用されてくれ」
「は、はい!頑張ります!」

私がそう返事をすると同時に、彼が腰につけていた小さな機械から、規則的な電子音が鳴り響いた。彼はその音に驚くことなく、その機械に視線を移し、そろそろ戻るか、と呟きながら、拾ってくれたチョコレートの缶を私に差し出した。

「これ返すな。今度は落とさねぇように、ちゃんとしまっとけ」
「あ…ありがとうございます。拾っていただいて、助かりました」
「もう暗いから、お前もそろそろ家に帰れ。ちゃんと明るい道通って行けよ」
「はい。……あ、あの、お仕事頑張ってください…!」
「あぁ」

彼は一言そう返事をすると、昨日と同じく私の頭に軽く手を乗せて、じゃあな、と軽く笑ってみせる。その笑顔も声も、大きな手も、優しい言葉も、何もかもが嬉しくて、この人の側にいるだけで、幸せな気持ちで胸がいっぱいになる。


やっぱり、好き。だなぁ。


彼はその手を私から離すと、元来た道の方へと踵を返し、少し足早に去って行った。小さくなっていく彼の背中を目に焼き付けながら、トクトクと未だに鳴り止まない心音に、彼に対する恋慕が、やはり勘違いなどではなかったことを思い知らされた。







「名前、また聞きそびれちゃったな…」

彼の背中が見えなくなってから、私はようやくそのことに気がづいた。とはいえ、彼女がいないことが分かっただけでも大収穫だ。あんなに素敵な人なら、彼女がいる可能性の方が高いと思っていたし、これは嬉しい誤算である。それに。

バレンタイン、採用されたら食べてくれるって、言ってたよね…?聞き間違いじゃないよね…?

きっと社交辞令だろう。万年赤点ギリギリな私でも、さすがにそれくらいはわかる。でもそれでも、好きな人にそう言って貰えたことが、すごく嬉しくて誇らしいのだ。

「よし、頑張ろう」

勝手な決意表明をして、軽やかな足取りで元来た場所へ戻ろうとすると、振り向いたその数メートル先に、また見覚えのある顔があった。先ほどトイレに行くと言っていた幼なじみが、こちらをじっと見つめたまま、なぜかそこに立ち尽くしていたのだ。

「ちーちゃん、いつからそこにいたの?」

彼女にそう話しかけると、ちーちゃんはその場を動くことなく、少しの間を置いてから、ついさっきね、と小さく返事をした。

「それよりなまえ、さっきの人って…」
「あ!そうだ!すっごい偶然なんだけど、さっき私と話してた人が昨日言ってたお客さんでね。結局名前は聞きそびれちゃったんだけど」
「あんた…それ本気で言ってんの?」
「え?」

ちーちゃんの言葉の意味がわからずに首を傾げると、彼女は今までの長い付き合いの中で、おそらく最も大きなため息をついた。

「あんたがほとんどテレビを観ないことは知ってたけど、まさかここまで世の中に疎いとは知らなかったわ…」
「え、あの、ちーちゃん、それってどういう…」
「ショートよ」
「しょーと?」
「いや、マジで知らないんかい!」

そう言うと、彼女は自身のポケットからスマホを取り出し、少しだけそれを操作すると、その画面を私に勢いよく突き付けた。そこに写っていた人は、つい先ほどまで私と話をしていた、あの男の人だった。

「あんたが好きになった相手は!!プロヒーローのショートなの!!」
「…………え?」

間の抜けた声を出す私に、ちーちゃんはもう一度深いため息をつく。思わぬ形で知ることになった彼の正体に、私の叫び声が響き渡るその瞬間まで、あと、わずか。


−−−−−−−−−−

2021.08.18

BACKTOP