わがまま


「なんなのよ。この空気は」

私の部屋に入るや否や、彼女は眉間に皺を寄せ、やや不満げにそう告げた。

「せっかく人が合宿のお土産持って来てあげたんだから、もっとテンション上げなさいよ」

ありがとう、と呟きながら、差し出された少し小さめの紙袋を受け取り、それをそっとテーブルに置くと、ちーちゃんは私の向かい側に腰を下ろして、静かに一つ息をついた。

「サークル合宿、どうだった?」
「どうもこうも、いつもと一緒よ。海行ったりバーベキューしたり、飲み会やったり」
「ふーん…」
「興味がないなら聞くんじゃないわよ」

ぴしゃりとそう言い放ち、彼女は自分のバッグに入れていた、緑茶のペットボトルを取り出した。外はかなり暑かったらしく、中身の液体をこくこくと喉に流し込むと、再び一つ息を吐き、私の方をちらりと見る。

「で。またなんかあったの?焦凍さんと」
「何かあったっていうか、何もないはずのに、そこに何かがあるというか…」
「馬鹿が説明を端折るんじゃないわよ。ちゃんと最初から説明しなさい」
「よ、容赦ないなぁもう…」

切れ味の良すぎるそのコメントにタジタジになりながらも、彼女と会っていなかった間の出来事を、ぼんやりと頭に思い浮かべる。

「焦凍さんが留学の話をするのが、なんかダメみたいなの」

紡がれた私のその言葉に、ちーちゃんは何かを考え込むように、細い指先を口元に当てた。

「……ダメとは?」
「なんていうか…焦凍さんの口から留学の話題が出ると、それまで楽しく話してても、なんか胸の辺りがざわざわするの」
「前に言ってた、よく分かんないもやもや的な?」
「それをさらに濃くした感じ」
「あんたにとって"もやもや"の上位互換は、そういう表現になるのね」
「焦凍さん、留学行く前の思い出作りとか、向こうでの生活のこととか、色々気にかけてくれてるの。なのにそういう話を聞くと、もやもやした気持ちが大きくなって…」
「っていうかあんた、そもそも留学は行くことにしたわけ?」
「返事はまだしてないけど…こんなチャンスもうきっとないし、焦凍さんも、行ってこいって感じだったし…」
「ふーん」
「せっかく応援してくれてるのに、こんなこと思っちゃダメだって、分かってるんだけど…!」

不安と呼ぶのか、不満と呼ぶのか、それともその真ん中か。互いの関係に名前が出来てから、初めて彼に対して抱いたそのネガティブな感情に、自分自身が一番戸惑っていた。

「前から薄々思ってたんだけどさ」

テーブルに頬杖をつきながら、彼女は少し俯きがちに、静かにそう前置きをした。

「あんた、自分は焦凍さんに付き合って"もらってる"って、そう思ってるでしょ」

続けて語られるその言葉に、心臓がどくんと大きく跳ねた。確信めいたその物言いは、誰よりも私をよく知る彼女の自信に満ちていたが、予想だにしなかったその言葉に、私の頭は混乱している。

「な、何、いきなり…」
「いいからちょっと考えてみな。自分なんか全然釣り合わないけど、どういわけか付き合ってもらえてるって、あんたそう思ってない?」
「……どうだろう…?」
「これだから馬鹿は」
「そんなに馬鹿馬鹿言わないでよ…っ」
「ではここで、そんなお馬鹿ななまえに質問です」
「ちょっと…!」
「彼が何の連絡もなく、あなたとのデートをすっぽかしました。どう思いますか」

唐突なその質問に、ふとその状況を思い浮かべる。デートをすっぽかされたことはないが、彼の仕事の都合上、約束が先送りになることはままあるので、割とイメージしやすい状況ではある。

「どうって…焦凍さん忙しいし、仕方ないかなぁって…」
「本音は」
「本音って?」
「デートに行けなくなってどうかってことよ」
「……残念だなとは、思う」
「そういうことを言ってんのよ。あたしは」

呆れがちにため息をつきながら、彼女は私の方を向いて、やれやれ、とでも言いたげな顔をした。

「相手に付き合ってもらってるって思ってる人間は、相手に対して感じたネガティブな気持ちを、自分の中に押し込めちゃうの。仕方がないことなんだ、とか、わがまま言っちゃダメなんだ、とかね」
「あ…」
「まさしくさっきのあんたがそれよね。相手が善意で言ってくれてるからって、本当は嫌だと思ってるのに、それを我慢してる」
「だ、だってそんなこと言ったら、焦凍さんが嫌な気持ちになるもん…」
「じゃあ、あんたの気持ちはどうなるのよ。ストレス溜まる一方じゃない」
「別にストレスってわけじゃ…ただなんとなくもやもやするなぁってくらいで…」
「あんたがそのスタンスを変えない限り、その問題は解決しないわよ。多分」
「そうなのかなぁ…」

我慢をしているという感覚は、自分の中では持っていなかった。ヒーローという彼の職業柄、堂々とデートは出来ないし、しばらく会えない時もある。一般的なカップルと比べてしまえば、確かに一緒にいられる時間は少ないだろう。しかしそれでも、焦凍さんは私のために出来る限りの時間を割いてくれていて、それで十分だと思っていたし、今もそう思っている。ちーちゃんの言葉を借りるのなら、"ネガティブな感情"を抱くのは彼が留学の話をした時だけで、それ以外の話をしている時は、心はむしろ穏やかで。

自分の気持ちがこんなに分からないなんて、今まで一度もなかったのにな。

「一度話してみたら?本人に」

悩む私を見兼ねたからか、彼女はぽつりとそう呟いた。

「焦凍さんに?」
「そう」
「でも話すって言っても…自分でもあんま整理できてないっていうか…焦凍さんにどうして欲しいとかも、よく分かんないし…」
「それも全部ひっくるめて、そのまま言えばいいと思うけど」
「そんなこと急に言ったら、焦凍さんが困るんじゃ…」
「困らせてやればいいじゃない」
「そ、そんなの出来ないよ…っ、ただでさえいつも大変そうにしてるのに…」
「だからそれがダメだって言ってんのよ。このお馬鹿」
「いてっ」

白く細い指先が、ピンと私の額を弾くと、じわりとそこが熱を持つ。痛みが走る額を手で押えながら、彼女の方を自撮りと見ると、ちーちゃんは一切悪びれることもなく、再び深いため息をついた。

「あんたはあの人のなんなのよ」
「……一応、彼女」
「一応じゃなくて彼女でしょ。部下やお手伝いさんじゃないんだから、歳が離れていようが相手がヒーローだろうが、あんたと彼は対等であるべきなのよ」

堂々とそう言いながら、彼女はテーブルに置いていたペットボトルをもう一度手に取って、残り少ない中身の緑茶を一気に身体に流し込んだ。

「確かにあんたの言うとおり忙しいんだろうし、生い立ちのせいでしなくていい苦労も多いと思うわよ。あの人は。けどそれはあんたのせいじゃないし、あんたと付き合うことだって、彼が自分で決めたことでしょ」
「それは…そうだけど…」
「付き合っていれば、不安や不満に思うことがあるのは当然だし、それをちょっと言われたくらいでうだうだ言ってくる男なんか、こっちから願い下げよ」
「あ、相変わらずお強い…」
「そもそもこーんなに分かりやすいのに、なんであの男は気づかないわけ?鈍いにもほとがあるでしょ。揃いも揃って馬鹿なの?」
「しょ、焦凍さんは頭良いもん!この間だって…!」

そこまで言いかけたところで、頭に過った後ろ姿に、慌てて口をきゅっと結ぶ。"あの単語"にどんな意味が隠されていようとも、私が今それを口にするのは、やっぱり少し違う気がする。

「何よ。急に黙って」
「な、なんでもない!気にしないで!」
「変な子。……まぁとにかく。あんたは一度、自分の彼氏としっかり話をすることね」
「でも」
「もやもやしたまま留学に行ったら、絶対後で後悔するわよ」
「それはそうなんだけ」
「なまえ」

私の言葉を遮って、ちーちゃんは私の名前を呼ぶ。相変わらず凛と強いその声に、肩がぴくりと小さく跳ねた。

「思ってることは、ちゃんと言ってやんなさい。あんたにとっても彼にとっても、きっとその方がずっといい」

そう口にした彼女の目は、私を捉えているはずなのに、私とは別の何かを、あるいは誰かを見ているような、少し不思議な感じがした。







ちーちゃんと話をしてからというもの、彼に話をすべきか否か、そればかりが頭の中にあった。ごちゃごちゃまとまりのない自分のもやもやしたものを、果たして彼にぶつけていいのか。言ったらどうなるのだろう。困らせてしまうのではないか。面倒だと思われるのではないか。いや、あるいは。考えられる可能性たちが、頭の中をぐるぐると駆け回り、それはまるで螺旋のように、終わることなく渦巻いていた。

「なまえちゃん、聞いてる?」

不意に耳を掠めた穏やかな声に、どこかに置き去りになっていた私の意識が、あるべき場所に戻ってきた。

「ご、ごめん…なんだっけ…?」
「ちょうど15時だし、少し休憩にしようか」

昴くんはにっこり笑うと、軽く音を立ててその場に立ち上がり、ちょっと待っててね、と言いながら、一人キッチンへと歩いて行った。

あぁ…やってしまった…。

明らかに気を遣われている。あまり察しの良くない私でも、それはよく分かった。忙しい合間を縫って、わざわざ打ち合わせの時間を作ってくれたというのに、心ここに在らずな私を見て、きっとああ言ってくれたのだろう。

ダメだなぁ、私。

思えば焦凍さんを好きになってから、頭の中には常に彼の存在があって、それはいい意味でも悪い意味でも、私を大きく動かしていた。人を好きになるということは、とても幸せなことだけど、やっぱりそれだけではなくて、ただひたすらに好きなことに邁進していたかつての日々は、ずっと遠い過去のように感じる。

「お待たせ。なまえちゃん」

ぼんやりとそんなことを考えていると、キッチンから戻ってきた昴くんは、軽やかかつ慣れたその手つきで、私の前にお皿を置いた。深い藍色にゴールドを差し色にした丸いお皿の上に、膨らみを帯びた可愛らしいケーキが一つ、ちょこん、と控えめに佇んでいた。

「これって…レモンケーキ?」
「うん。なんか久々に食べたくなって、昨日作ったんだよね」
「いいの?私が食べちゃっても」
「いい味覚してるからさ、なまえちゃん。久しぶりに感想貰えると嬉しいな」
「じゃあ…いただきます」
「どうぞどうぞ」

そういえば、初めて焦凍さんと一緒に食べたのも、レモンのケーキだったなぁ。

記憶に思いを馳せながら、添えられたフォークを持ち上げて、そっとそれを救い取る。ふわっと爽やかな香りが立ち込め、それが鼻に抜けたあと、素朴な甘さが口に広がる。舌触りは軽やかで、けれどほどよくしっとりとしていて、シンプルなその見た目に反して、とても深みのある味わいだ。

「んー…」
「どうかな?」
「すっごく美味しい…!このレモンケーキ!」
「気に入ってもらえて良かったよ」
「あれ…でもなんだろ…?どことなく…うちの味に似てるような…?」
「おお、さすが」

小さくそう呟くと、昴くんは先ほどまで座っていた席に再び腰を落として、お皿の上に視線を落とした。

「だいぶ前なんだけど、実はおじいさんにレモンピールの作り方教えてもらってね。それを中に練り込んでるんだよ。使ってるレモンが違うから、全く同じではないんだけど…でもやっぱり、なまえちゃんにはバレちゃったか。なんかちょっと悔しいな」
「まぁ、よく食べてる味だから…」
「入れたっていっても少ししか入れてないし、普通の人は気づかないよ。相変わらずいい舌してるね」
「そ、そんなことないよ」
「ご謙遜。現にエリオから、留学のお誘いがあったんでしょ?」
「え…!?」

さらりとそう口にした彼の言葉に、思わずその場に立ち上がる。まさかここでその名前を聞くとは、夢にも思っていなかったから。

「昴くん…その話、どうして…」
「エリオに聞いてたんだ。彼とは何度か一緒に仕事してて…あぁそうそう。この間なまえちゃんと会った後に、約束があるって言ったでしょ?あれエリオとの約束だったんだよね」
「そ、そうだったんだ…」

思いもよらないその繋がりに、頭が徐々に追いつかなくなる。世間は狭いと言ったりもするが、さすがに狭すぎではないだろうか。とりあえず座りなよ、と、くすくす笑って言う昴くんに、少し恥ずかしくなりながらも、私は再び腰を下ろした。

「前に"宝探し"の話は聞いててさ。からかい半分で『宝は見つかったの?』って聞いてみたら、あいつがなまえちゃんの話をし始めたから、びっくりしたよね」
「あ、あいつ…!?」

意図せずあげた私の大声に、普段ほとんど動揺することのない昴くんが、珍しく目を丸くした。

「どうかした?」
「あ、いや…すごい親しげだなぁって思って…エリオさんって、私たちより歳上だよね…?」
「そうだね。確か今年27か28?とかだったかな?」
「いつもあんな感じで話してるの?」
「うん。日本と違って年功序列とか、あっちはあんまないからね」
「あぁ、そっか。日本はそういうの結構厳しいけど、海外はそうでもないっていうもんね」
「そうそう。一応敬語というか、丁寧な言い回しとかはあるけど、まぁほとんど使わないよね。堅苦しいのとか嫌いだから、僕にはちょうどいいけど」
「へぇ…」
「ところで、返事はまだしてないんだってね」

エリオがそわそわしてたよ、と、笑いながら付け足して、彼は唐突に核心をついた。

「う、うん…まだ…」
「意外だなぁ。すぐにでもフランスに行きたいとか言いそうなのに」
「それは…」
「彼氏さんに反対でもされてるの?留学」

それに反対する人は、私の周りには一人もいない。唯一少し心配していた両親でさえ、その話には前向きな見解を示していて、祖父母も親友も、そして彼も、それは同じだった。

「焦凍さんは、むしろその逆だから…」
「"しょうと"さん?」
「あ…っ」

しまった。やってしまった。他のプロヒーローたちとは違い、焦凍さんは自身の名前をそのままヒーロー名にしているのだから、それを口にすること自体が、彼のリスクになりかねないというのに。

「それが彼氏さんの名前?」
「う、うん…まぁ…」
「かっこいい名前だね」
「えっと…あ、ありがとう…?」
「はは、どういたしまして」

あ、良かった…なんとも思ってなさそう…。

例えそれを知ったとしても、それをぺらぺらと誰かに言いふらすようなことは、昴くんはきっとしない。彼を信頼しているものの、それでも万が一のことを考えると、その先の未来がとても怖い。


「やっぱり不安?一人であっちに行くのは」

恋人の正体を気づかれなかったことに、ひとまず胸を撫で下ろしていると、彼は落ち着いた声色で、静かに私に尋ねてみせた。少し返事に迷ったものの、小さく首を縦に振ると、昴くんは困ったように笑みを浮かべて、そっか、と一つ言葉を零した。

「まぁそうだよね。女の子だし」
「昴くんはどうだったの?留学する時」
「僕はなまえちゃんと違って、自分の意思であっちに行ったから、ちょっと場合が違うけども」
「それはまぁ…そうだね」
「でも僕もやっぱり、最初は怖かったね。初めて働いた店の扉を開ける瞬間は、めちゃくちゃ怖くて震えてた」
「昴くんが?」
「いやいや、僕ね。こう見えてもかなり臆病なんだよ。女々しいし」
「それでも昴くんは、留学に行ったんだね」
「まぁね」

短くそう返事をすると、彼はテーブルに置かれていたティーカップを手に取って、その中をそっと覗き込んだ。そこに映し出された自分自身に、この人は何を思っているのだろう。

「ねぇ昴くん」
「何?」
「前から聞いてみたかったんだけど、昴くんがパティシエ目指したのって、やっぱりお父さんがそうだったから?」
「そうだね。まぁ最初はご褒美に貰えるケーキのために、店の手伝いをしてただけなんだけど」
「あはは、それすごく分かる!」
「そんな不純な動機でやってた手伝いだったから、結構サボったりとかもしてたんだよね。自分で言うのもなんだけど、僕結構そういうの誤魔化すの上手いから、しばらくバレなかったんだけど、ある日それが父さんにバレちゃって」
「……怒られた?」
「ものすごく」
「だろうね…」
「だからその後、しばらく店には行かなかったんだけど、でもやっぱり後味悪くて、気にはなってて」

記憶の糸を手繰るように、彼は自身の親指と人差し指を擦り合わせながら、懐かしむようにさらに続けた。

「それでたまたまなんとなく、学校の帰りにふらっと店の方に行ったら、一人の女の人が、泣きながら父さんの店に入っていくのが見えたんだよね」
「な、泣きながら…!?」
「当時の僕もびっくりしたよ。で、やっぱりさ、そんなの見たら気になるでしょ?だからこっそり店の近くの路地に隠れて様子を見てたんだけど、全然出て来なくてさ。その人」
「中で食べてたのかな?」
「たぶんね。で、僕も待ちくたびれてさ、もういいやって思って帰ろうとしたら、ちょうどその人が店から出てきたんだよ」
「それで、その人は…」
「笑ってた」
「へ?」
「あんまりよく聞こえなかったけど、父さんに『ありがとうございました』って言いながら、笑って帰ってったんだよね」

視線を落とすその手のひらは、儚げな顔立ちとは打って変わって、数え切れないマメの痕がある。でこぼこと歪に所々盛り上がった皮膚は、お世辞にも綺麗とは言い難いが、それはまさしく、彼が生きてきた時間そのものだ。

「それを見て思ったんだ。父さんの仕事はケーキを作ることなんじゃなくて、食べてくれる人の笑顔を作る仕事なんだって」
「素敵な話だね」
「まぁぶっちゃけてしまえば、別に人を笑顔にする仕事なんて他にいくらでもあるんだけど、子どもの頃はそんなこと考えないからさ。また店に行くようになって、父さんの仕事を見ながら自然と色々覚えていって、気づいた時にはこうなってたんだよね」
「そして今やお店のオーナーさんにまで…ほんとにすごいよね。昴くんは」
「なまえちゃんは?」
「え?」
「なまえちゃんは、どうしてパティシエになろうと思ったの?」
「私、は」

きっかけは、必ずどこかにあったはず。けれどそれを、私は答えられなかった。好きでいることが、作ることが当たり前になっていた日常の中で、それはいつしか朧気になり、そして忘れてしまっていた。

私は、どんな人になりたかったんだっけ。

口を噤んだ私の頭をその手が優しく触れた瞬間、どうしてなのかは分からないけど、なんだか無性に泣きたくなった。







「じゃあ、そろそろ行ってくるね」

リビングでひと休憩する祖母に向かって、私はひと言そう声をかけた。

「あ、なまえ。ちょっと待って」

はっと何かを思い出したような顔をして、祖母はすくっと立ち上がり、キッチンカウンターに置かれていた小さな紙袋を手に取ると、それを私に差し出した。白と水色のストライプの紙袋は、まさに今の季節にぴったりのデザインだ。

「これは?」
「お土産のクッキーよ。良かったら、焦凍さんと一緒に食べて」
「ありがとう。じゃあ、後でデザートに食べるね」
「今日は泊まってくるのよね?」
「う、うん…まぁ…」

少し濁してそう答えると、祖母はにっと口角を上げながら、そう、とひと言返してみせた。

「に、にやにやしないで…っ」
「あのケーキにしか興味のなかったなまえと、こんなやり取りをする日が来るなんて…おばあちゃん感慨深いわぁ…」
「もうそれ系のセリフ聞き飽きた…!」

二人の幼なじみといい、目の前にいる祖母といい、示し合わせたように全員がほぼ同じことを口にしているのだが、どこかで打ち合わせでもしているのだろうか。そのうち二人については本当にしていそうなので、あながち的外れでもなさそうだが。

「今日はどこに行くの?」
「あ、そうだった。今日ね、瓦そば食べに行くんだよ」
「あら、そうなの?」
「焦凍さんお蕎麦大好きで…って言っても、正確には冷たいお蕎麦が好きなんだけど…少し前に瓦そばの話した時に、一緒に食べに行くことになったの」
「孫が私の出身地の名物を彼氏と食べに行くなんて…感慨深いわねぇ…」
「それ言いたいだけでしょ…!?」

声を張り上げる私を余所に、祖母はふふ、と楽しげに笑う。相変わらずその見かけによらず、茶目っ気たっぷりの人である。そんなことを考えていると、クッキーの袋を持つ手とは異なる、反対側の手の中にあったスマホが震えた。ちらりとそれを確認すると、"着いた"というたった3文字の至ってシンプルなメッセージが映し出され、差出人の名をみなくとも、その送り主はすぐに分かった。

「お迎え?」
「まぁ…そうだね…」
「楽しんでらっしゃいね」
「う、うん。じゃあ今度こそ、いってきます…!」
「いってらっしゃい」

ひらひらと手を振る祖母を横目に、私は足を踏み出した。階段を下りる度に大きくなる鼓動の音は、緊張なのか高揚なのか、それと両方なのか、その答えを出せないまま、私はその扉を開ける。いつものように車の中で私を待っているであろう、彼の元へ行くために。







「え?」

目の前にあるその光景に、思わず間抜けな声をあげた。いつもなら自身の車で私を待っている焦凍さんが、張り付くようなねっとりとした風が吹く中、いつも待ち合わせるその駐車場で、ぽつんと一人立っていたからだ。

「どうかしたか?」
「い、いえ…車の中にいるかと思ってたので…すみません。暑い中お待たせして…」
「時間通りだから気にすんな。それよりも」

彼がそこまで口にしたところで、開くはずのないそのドアが、ガチャっと音を立てて開いた。

「ちょっとショートぉー。まだなのー?」

高く澄んだその声に、胸が不快な音を立てた。彼の車の中から現れたのは、流暢に日本語を操りながらも、彫りの深い欧米系の顔立ちをした、とても綺麗な女の子だった。見たところおそらく同い年くらいの印象だが、すらっと伸びた手足は折れてしまいそうなほど細くて、ふわりとしたブロンドの髪は、薄暗いこの場所でも分かるほどに、とても艶やかで美しい。

「だから勝手に出てくんなって言ってんだろ…」
「何ブツブツ言ってんのよ。男ならもっとハキハキ喋りなさいよ」
「何も言ってませんよ」

呆れたようにそう言いながら、彼は少し気まずそうに、私の方に視線を向けた。

「ごめんな。ちょっと事情があって…連れて来る羽目になっちまって…」
「あの、この人は…」
「例の護衛対象」

ため息混じりでそう口にすると、焦凍さんはいつになく疲れた様子で、深いため息を一つ落とした。

「待つの嫌いだって言ってるでしょ。早くしなさいよ」
「勝手についてきて文句言わないでください」
「だってつまんないんだもの!ずーっとニコニコして、おっさんに愛想振りまいてなきゃなんないのよ。この苦労があんたに分かる?」
「分かりません」
「あんたほんとスカしててムカつくわね!ちょっとイケメンだからって、調子乗っちゃって」
「乗ってません」
「……まぁいいわ。で、誰なの?その子」

こちらに向けられたその視線に、心臓がどくんと大きく跳ねた。真っ直ぐにこちらを見据えるくっきりとしたその瞳に、後ろめたいことがあるわけでもないのに、なぜか逃げ出したい衝動に駆られた。

誰なのって、それはこっちのセリフですけど。

そんなことを思ったものの、当然初対面の相手にそんなことを口に出来るはずもなく、私は彼に隠れるように、そっと後ろに姿を潜めた。

「俺の先約相手です」
「ふーん。ま、なんでもいいけど、私お腹空いたから早くしてくれない?」
「なんでついてくる前提なんですか。ホテルに戻って下さい」
「やだ」
「ダメです。戻って下さい」
「だっていつも堅苦しい食事会ばっかりなんだもの。ずっと気を遣って食べてるから、せっかくの料理の味もよく分からないのよ。パパも仕事の話ばかりで、全然私と話してくれないし!」
「気持ちは分かりますけど」
「普通に美味しくご飯を食べたいって思うのが、そんなにいけないことなの?私には、そんな当たり前も許して貰えないの?」

目の前で繰り広げられるその会話に、まるでフィクションを見ているような、そんな錯覚にふと陥る。自分のいる世界とはあまりに違うその話の内容に、自分はここにいていいのだろうか、場違いなのではないだろうかと、そんなことを思ってしまった。前から彼と約束していたのは、私の方だというのに。

「ねぇ、いいでしょ?ちょっと息抜きするだけだから!」

両手を合わせてそう言い出した彼女に、焦凍さんは再びため息をつくと、困ったように眉を潜めた。

ちょっと待って。
まさか本気で一緒に行く気なの?この子。

そもそも今日は本当なら、ずっと一緒にいられるはずだった。焦凍さんの話が本当なら、それが出来なくなったのは彼女の都合によるところで、さらにまた同じことが繰り返されようとしているこの現状に、シンプルにとても腹が立つ。

「なまえ」

不意に自分の名前を呼ばれ、顔を少しだけ上げてみせると、焦凍さんは私の方を振り返り、躊躇いながらも口を開いた。

「悪ぃ…今回だけ、この人一緒でもいいか?」
「え…」
「飯食ったら、すぐにホテルに帰ってもらうから」

そう口にした彼の言葉に、私は言葉を失った。もちろんそれは、悪い意味で。

何よ、それ。

「ちょっと、人を厄介者みたいに言わないでくれるかしら!」

私の返事を待たずして、彼女は焦凍さんに異議を唱える。言葉の意味など関係なく、彼女の全てが不愉快で、今まで出会ったどの人よりも、私は彼女を嫌いだと思った。おそらく同世代の、しかも初対面の人にこんなことを思ったことなんて、今まで一度たりともない。

「別にそうは言ってません。単純に俺の仕事の都合上、あなたにもしものことがあると困るんです」
「もしものことを起こさせないのが、あんたの仕事でしょーが!」
「確率の問題です。例えば今狙われでもしたら、対処できる人間は俺一人しかいないんですよ。それにあなたや俺は慣れっこな状況かもしれませんが、彼女は一般人なんです。巻き込むようなことになったらどうするんですか」
「それは…確かに良くないわね」
「予約の時間が迫ってるので、食事だけは大目に見ますから、その後はちゃんとホテルに戻って下さい」
「……分かったわよ。その子に怪我とかさせたら、後味悪いし」
「ご理解いただきありがとうございます」

会話にひと区切りついたところで、彼は再び私を見た。次に焦凍さんが何を言い出すかなんて、ムカつくくらいに分かっていて。

「なまえ、悪ぃ。そういうわけだから、飯だけ一緒に」
「帰ります」

とても優しいこの人のことだ。きっと彼女の主張を聞いて、一度くらいは好きにさせてやろうと、きっとそう思ったのだろう。おそらく彼はそう言うだろうと、頭の中では分かっていた。私は焦凍さんが大好きで、そんな優しい彼を純粋に尊敬している。だけどそれでも、私にだって、どうしても譲れないものはある。

「え…」
「私は、帰ります」

はっきりとそう口にした瞬間、その場の空気が凍りついたのは、私自身も肌で感じた。けれど不思議と怖くはなかった。だって私は間違っていない。それが仕事なのだとしても、デートの約束を二度もダメにされた挙句、他の子を優先した恋人に対して、私は怒っていいはずだ。不満を持ってもいいはずだ。

そうじゃなきゃ、こんなのやってられないもん。

「二人分しか予約取ってないので、急に増えたらお店の人にも迷惑ですし、それになんか、食欲なくなっちゃったから」
「なまえ、ちょっと待」
「お二人でどうぞごゆっくり。私はこれで失礼します」

彼が引き止める言葉を遮り、私はくるりと踵を返して、もと来た道を歩き出す。残された二人が私の背中の向こう側で、何やら慌てて会話を交わしていたのは聞こえていたが、私は決して立ち止まることなく、そのまま家路を辿り続けた。







「なまえ、待てって!おい…っ!」

家まではあと10メートル足らず。先ほどから何度も私を呼ぶ愛しい声を、一切無視して歩いていたものの、ついに痺れを切らしたのか、焦凍さんは私の腕を強く掴み、もう一度私の名前を呼んだ。

「怒ってんのは分かるけど、口くらい利いてくれよ」
「いいんですか?あの人放っておいて。護衛しなきゃいけないんでしょ」

一度もそちらを振り向くことなく、私は冷たくそう言い放った。なんて可愛げのない言い方だろう。本来であれば、私よりも優先しなければいけない人をあの場に残して、彼は追いかけて来てくれたというのに。しかし一度溢れてしまったものは、どうすることも出来なくて、優しい言葉は喉から出せない。

「ごめん、悪かった。嫌がるかもしれないって思ってたけど、さすがに一人でホテルに帰ってもらうわけにもいかなくて」
「そうでしょうね。じゃあ戻った方がいいんじゃないんですか」

続けてさらに悪態をつくと、嫌な沈黙がその場を包んだ。焦凍さんは、いいからとりあえずこっちを見ろと、半ば無理やり私を自分の方へと向かせたが、彼の顔を見てしまったことを、私はすぐに後悔した。困ったように私を見下ろす、その表情に胸が軋む。やっぱり"言ってはいけなかったんだ"と、それを痛感させられるようで。

「本当に、ごめん。今度こそちゃんと」
「もういいです。どうせ約束しても、きっとまたこうやってダメになって、悲しい気持ちになるだけだもん」
「ごめん。本当に、絶対にもう、ああいうことはしないから」

絶対にもうしない。本当にそのつもりで、彼はそう言ってくれている。焦凍さんはそういう人だ。真面目で誠実で優しくて、例え小さな約束だったとしても、自分のためにそれを破るようなことを、彼は絶対にしない。だけどそれを知っていても、頭に浮かんだその言葉を、私は抑えられなかった。

「焦凍さんは、なんで私なんかと付き合ってるんですか?」

腕を掴んでいたその力が、ほんの少しだけ弱くなり、もう一度沈黙が流れたあと、焦凍さんは遠慮がちに、その薄い唇を開いてみせた。

「なんでって、そんなの」
「焦凍さんの人生に、私って必要ですか?」

たくさんの人に必要とされて、慕われて、囲まれて。そんなこの人の生きる道に、私は本当に必要だろうか。私がいてもいなくても、何かが変わるというのだろうか。

「なまえ、どうし」
「私は焦凍さんが大好きです。だから一緒がいいんです。今日も、一日はダメになっちゃったけど、それでも会える、一緒にいられるって、私は楽しみにしてて」

だけど、この人は。

「でも、焦凍さんはそうじゃなかったんですね」

馬鹿みたいに声が震える。こんなことを口にしたら、彼をもっと困らせてしまう。だけど。

「ごめんって!俺が全部悪かった!そんなことあるわけねぇだろ」
「そんなことあります…っ」
「絶対ない。俺だって今日、すげぇ楽しみにして」
「だって留学っ、『行け』って言ったもん…っ!」
「は…?」

声を荒らげて泣き出す私に、焦凍さんは大きく目を開き、ひどく驚いた顔をした。小さく漏らしたその声からは、何がなんだか分からないという心境が、痛いほどに伝わって来て、それがさらに胸を締め付ける。

「2年も、離れちゃうのに…っ、焦凍さんは、全然平気そうだもん…っ!私はすごく寂しいのに、焦凍さんはなんともなさそうで…っ」
「なまえ、ちょっと落ち着けって。さっきのことも留学のことも、そんなふうに思ってねぇから」
「じゃあなんで、『行けばいい』なんて言うの…っ」
「それは…だってお前がもらった話なんだから、俺が口を挟むのは違うだろ?それに俺は単純に、お前を応援したいと思ったから」
「私は…っ」

あぁ、そうか。そうだったんだ。
私ずっと、本当は ─── 、

「私は『行くな』って、言って欲しかったの…っ!」

それを口にした瞬間、あのもやもやの正体が、ようやくはっきり分かった。留学の話をもらった時、彼が私になんと言うのか、既に予想はついていた。けれどそれとは別に、心のどこかで期待していた。「行かないで欲しい」「一緒にいたい」と、この人がそう言ってくれることを。頭の中で描く予想と、心で思う期待は違う。予想は見事に当たったけれど、期待は見事に打ち砕かれた。だからがっかりしたのだ。そして彼が、留学について前向きな話をすればするほど、自分がいなくてもこの人は大丈夫なんだと、無意識の中でそう思って、それを嫌だと思ったのだ。

「留学なんか、行きたくない…っ、焦凍さんと一緒がいい…っ」

好きな人と、ずっと一緒にいたい。それはとてもシンプルで、その関係性に関わらず、きっと誰もがそう思っている。しかし言葉とは裏腹に、それは容易なことではない。自分に気持ちがあるように、当然相手にも気持ちがあって、それが重なり合わなければ、願いは所詮ただの願いだ。




「なまえ」

みっともなく泣きじゃくる私を余所に、先ほどとは打って変わって、彼はとても落ち着いた声色で、静かに私の名前を呼んだ。

「一回冷静になって、ちゃんとよく考えてみろ。そんなことしたら、せっかくのチャンスを棒に振ることになるんだぞ」
「でも…っ」
「ガキの頃からずっと、プロになりたくて頑張ってきたんだろ。お前は」
「それは…そう、ですけど…」
「今のお前の気持ちは分かったよ。けどそれでも、やっぱりお前はあっちに行くべきだ。俺なんかのために留学やめたら、きっと後で後悔するぞ」

焦凍さんの言葉は、いつも優しくて正しくて。だけどそれが今は、ひどく残酷なものに聞こえた。

「……焦凍さんは、私と離れていいってことですか…?」
「そうじゃない。ただ俺は、なまえにあの時ああしておけばよかったって、後悔して欲しくないんだよ」

あやすように、諭すように、私の頭に手を置きながら、彼は穏やかにそう言った。それらは全て私のため、私にとって最良だと思うことを、ただ口にしているだけなのだ。それはちゃんと分かっている。しかしそれでも、正しいことと望むことが、いつも同じとは限らない。

「とりあえず、あの人一旦送ってすぐ戻ってくるから、その後また」
「もういい…っ!!」

触れるその手を払い除け、再び彼に背を向けると、焦凍さんはもう一度、私の手首に軽く触れた。そして私はさらにもう一度、その手をはっきりと拒絶する。

「やだ…っ、触んないで…っ」
「なっ」

先ほど以上に目を見開いて、彼は氷のように身を固めたまま、その場に呆然と立ち尽くした。そして私は極めつけに、生涯口にすることはないだろうと思っていたセリフの一つを、生まれて初めて出来た恋人へ、勢い任せにぶつけることとなる。

「焦凍さんのばかっ、もう知らない…っ、あっちで浮気してやる…っ!!」

泣きながらそう吐き捨てて、残りわずか10メートルのその道を、全速力で駆け抜ける。30分ほど前に出ていったはずの人物が突如リビングに現れたことに、祖父も祖母もかなり驚いていたが、そんな二人に何を言うこともなく、私は自分の部屋へと戻り、久しぶりに大声をあげて、子供のようにひたすら泣いた。


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2022.06.05

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