その夢の先で君を待つ


「焼き上がったケーキが冷めたので、今からみんなには、飾り付けをやってもらいます」

私がそう言うと、待ってましたと言わんばかりに、その場に集まっていた子どもたちは、わぁっと大きな声を上げた。

「ここに飾り付け用のお菓子やクリームがあるので、どれでも好きなものを使って下さい。あまりたくさん乗せすぎると、持って帰るときに崩れてしまったりするので、そこだけ気をつけて下さいね」

はーい!という元気な返事と共に、体験教室にやってきた子どもたちは、それぞれのテーブルへと戻って行く。現在時刻は16時32分。この回が無事に終われば、今日の私の仕事も終わりだ。

先生なんて器じゃないけど、結構楽しかったなぁ。

始めは「先生」と呼ばれることにだいぶ抵抗があったものの、それもしばらくすると慣れた。教室に来てくれた子どもたちは、みんなとても可愛くて、実際のところはもっと大変なのだろうが、学校の先生になるのも悪くないかもなんて、軽はずみにもそんなことを思った。

「お疲れ様。みょうじ先生」

背後から聞こえるその声に振り向くと、今日は私の雇用主であり、店のオーナーでもある昴くんが、悪戯な笑みを浮かべていた。

「その呼び方やめてくれるかな…恥ずかしいから」
「子どもたちは良いのに、僕はダメなの?」
「知ってる人にそう呼ばれると、なんか違和感がすごいんだもん…」
「まぁそうだね。僕もなまえちゃんを先生と呼ぶ日が来るとは、夢にも思ってなかったよ」

ケタケタと軽く笑いながら、彼は私の頭の上に、そっと優しく手を乗せた。明らかに馬鹿にされているそのモーションに、咄嗟にその手を振り解くと、昴くんは小さく声をあげてから、おどけたように肩を揺らした。

「怒らないでよ」
「怒ってはないよ。ちょっとムカついただけ」
「それを怒ってるって言うんじゃないの?」
「違うもん。昴くんには分かんないよ。この複雑な乙女心は」
「失礼。そこまでは思い至らなかった」

そう口にした昴くんを、じとりと横目で睨んでみせる。口で勝てるわけはないのだが、ここからどう反撃しようかと、お世辞にも良いとはいえない頭をフル回転させていると、そんな思考を遮るように、少し離れたところから、パン!と大きな音が響いた。

「う、ぇ…わぁぁぁ…っ!!」

その音がフロアに響いた直後、まるでそれを合図にしたかのように、甲高い声が耳を刺す。慌てて声の方へと走っていくと、一番奥にある調理台付近の床の上に、もはや原型を留めていないカップケーキが一つ。そしてそのすぐ側では、5,6歳ほどの一人の女の子が、声を上げて泣いている。どうやら飾り付けをしている途中に落としてしまったらしく、周りにいた他の子どもたちも、どうしようといった顔つきで、泣いているその子を見つめていた。

「大丈夫だよ。私が焼いたやつが余分にあるから、そっちのやつ使おう?飾りはあっちにいっぱいあるし」

泣き出してしまった彼女に向かって、フォローのつもりでそう話しかけたものの、その子は首をふるふると横に振り、私の方をゆっくり見上げる。涙を溜めながら真っ赤に染まった二つの瞳が、とても痛々しい。

「これじゃないと、ダメなの…」
「えっと…どうしてダメか、聞いてもいいかな?」
「あかりが作ったケーキじゃないと、ママが元気になれないもん…!」
「え…」

思わず小さく声をあげると、彼女の泣く声が聞こえたからか、下の階で待ってもらっていた彼女の父親らしき人物が、冷や汗を垂らしてやって来る。ひとまず彼女が落ち着くまでと、別のスタッフにその場を任せ、二人を連れて少し離れた場所へと移動することにした。


「どうしたんだ?あかり」

男性がそう話しかけると、彼女はその胸に勢いよく飛び込んで、再び声をあげて泣き出した。

「あの、これは一体…どういう…」
「すみません…仕上げにケーキの飾り付けをしてもらっていたんですけど、途中で落としてしまったみたいで…それで…」
「そういうことでしたか…お騒がせして、こちらこそすみません」
「それは全然いいんですが…あの、プライベートなことであれなんですけど…あかりちゃんのお母さんは、ご病気か何かなのでしょうか…?」
「え?」
「さっきあかりちゃんが『自分が作ったケーキじゃないと、ママが元気になれない』って…」

恐る恐るそう尋ねると、それを聞いた彼女の父親は、一瞬きょとんとした顔をすると、吹き出すように笑ってみせた。

「えっと、あの…?」
「あー、すみません。急に笑ったりして。確かに妻は今体調を崩しているんですが、全然大したことはないんです。ただの夏風邪ですから」
「え」
「本当は今日も、妻がこの子と来るはずだったんですけどね。妻がそんな感じになってしまったので、私が代わりに」
「そう、だったんですか」
「家を出る前に『あかりが作ってくれたケーキがあればすぐに元気になる』って、妻がこの子に言っていたので、たぶんそれを真に受けてしまったのかと…」

お騒がせしてすみません、と、彼女の父親はもう一度、こちらに軽く頭を下げた。

「子どもってなんでもすぐ本気にしちゃうんで、困ったもんですよね」

頭を軽く掻きながら、彼は困ったように笑って、私に向かって同意を求める。けれど私はその瞬間、全く違うことを思っていた。泣きじゃくる小さな背中を見つめながら、まるで雷に打たれたような、そんな感覚が身体を巡る。シンプルに、私はこの子をすごいと思った。こんなふうに泣くほど本気で、誰かのためにケーキを作ったことなんて、私は一度もなかったからだ。

"なまえちゃんは、どうしてパティシエになろうと思ったの?"

答えられなかったのは、考えたこともなかったから。物心がついた頃から"作ること"は日常で、私にはそれが当たり前だった。授業で習った公式は、何一つ頭に入らなかったけど、お菓子のレシピはすぐに覚えられたし、一つ、またひとつと出来ることが増えるたびに、とても嬉しくて、楽しかった。

でもきっと、ただそれだけだった。

食べてくれる人に喜んで欲しいと、そう思う気持ちはいつもある。だけどもしも、そうならなかったら。きっと私は黙ってそれを受け入れて、これは仕方がないことなんだと、そこで終わりにしてしまう。それ以上向き合うことはせず、自分の実力がないせいだとか、自分には才能がないからだとか、諦める理由を探してしまう。でもこの子は、"誰かのため"に頑張ることを、たぶん今も諦めていない。

「あ、あの…っ」
「はい?」
「えっと…今日はこの後、何かご予定とかありますか?」
「いえ、特に予定はないですけど…」
「材料は全然たくさんあるので、もう一度作ることも出来るんですけど…どうですか?もしお時間があるようでしたら…」
「え、いいんですか?」
「はい。体験教室はこの回で最後ですし、この後は片付けだけですから、ご都合さえ良ければ」
「お姉さんがそう言ってくれてるけど、どうする?もう一回やってみるか?」

優しく背中を叩きながら、そっと彼が問いかけると、小さな頭がぴくりと動く。ゆっくりと顔をこちらに向けて、相変わらず痛々しい目で私を見つめると、彼女は少し躊躇いがちにも、しっかりと首を縦に振った。泣きじゃくる小さな女の子とは、似ても似つかないはずなのに、なぜか不思議と少しだけ、私はこの子に彼の姿を重ねていた。

「すみません…そういうわけなんで、作り直させてもらってもいいですか?」
「はい!ぜひ!」

人のため。誰かのため。言葉にするのは簡単だけど、本当の意味で体現するのは、頭で思い描くよりも、ずっと難しくてずっと尊い。ほんの少し前の私なら、そんなことは思いもしなかっただろう。今の私がそう思えるのは、文字通り自分の身体を張って、自分ではない誰かのために本気で戦う人がいることを、前より少しだけ知っているから。

今、やっと見つけた。ような気がする。

誰かのために、本気で頑張れる人。そういう人に、私もなりたい。なってみたい。そうなるためには、どうするべきか。それを叶えるための鍵は、きっともう、すでに私の手の中にある。







身体はそこそこ疲れているはずなのに、逆に身体が軽くなったような、そんな不思議な感覚だった。

「今日は来てくれて助かったよ。最後ちょっと色々あったから、疲れたでしょ」

体験教室の後片付けをしていると、一体いつからそこにいたのか、昴くんは穏やかな面持ちで、私に向かって話しかけた。

「ううん、全然。すごく楽しかったよ。子どもたちみんな良い子だったし」
「評判も上々だったし、なまえちゃんにはまた先生になってもらわないといけないかもね」
「もう、またそうやってからかって…」

彼はくすくすと笑いながら、褒めたのになぁ、と小さく呟く。楽しそうに肩を揺らすその姿は、どう見ても面白がっているようにしか見えないのだが、それ以上は言及しないことにした。

「少しは気分転換になった?」
「うん。誘ってくれてありがとね、昴くん」
「なら良かったよ。打ち合わせの時、なんか色々悩んでるみたいだったから」
「ごめんね。心配かけちゃって…」
「ううん、全然。まぁ彼氏がプロヒーローのショートなら、色々苦労も多いだろうしね」
「苦労っていうか…私が勝手に拗ねてるだけっていうか…」
「あ、やっぱりそうなんだね」

その言葉が耳を掠めた数秒後、自分が今人生最大の失言をかましていたことに、今さらながら気づいてしまった。

「あ!!」

思わずそう声を発し、口を両手で覆い隠すも、当然もう手遅れだ。全く学習能力のない私の口は、あろうことか焦凍さんとの関係を自ら肯定してしまったのだった。

「気づくの遅すぎだよ」
「は、ハメられた…!!」
「知ってたけど、相変わらず抱きしめたくなっちゃうくらい素直だね。君は」

はは、と声に出しながら、昴くんは笑ってみせた。さらりと今耳を疑う発言があったような気がしたが、ひとまずそれはどうでもいい。

あぁもう、またやっちゃった…。

「相手の仕事都合で付き合ってるの隠してるって話と、"しょうと"っていう名前を聞いて、まさかって思ったけど、ほんとにそのまさかだとは」
「あ、あの…他の人には…」
「大丈夫。誰かに言ったりしないよ。でもすごいね。プロヒーローが彼氏だなんて」
「そうだね。すごい人だよ、焦凍さんは」
「いや、君に対して言ったんだけど…まぁいいや。それで、悩みの原因はその彼のことなの?」
「まぁ…うん。そう…」
「僕が聞いてもいいことかな」

相手のことを隠すとなると、言えることには限りがあるが、彼の正体が分かってしまえば、それを気にする必要は、今のところないわけで。

「『行くな』って、言って欲しかったの」

あの日口にしたその言葉を、確かめるように呟いた。そんな脈絡もない言葉を聞いた昴くんは、少しだけ驚いた顔を見せたものの、すぐにいつもの穏やかな表情に戻り、視線を窓の外に移した。

「留学に?」
「そう。でも焦凍さんは『行くべきだ』って」

彼があの時言ったことは、全部正しかったと思う。並べられた言葉の数々はどれも真っ当で正しくて、けれどそれが、余計に私をもやもやさせた。

「焦凍さんの言ってることが正しいって、ちゃんと分かってるの。けど私がいなくても、焦凍さんは別になんともないんだ、一緒にいられなくてもいいんだって、そんなふうに思っちゃって…」
「そんなことないと思うけどね」
「焦凍さんもそう言ってくれたけど…なんか全然、もやもやした気持ちが消えなくて」
「ってことは、本人にそれは言ったんだね」
「うん。まぁ…どっちかといえば、ぶちまけたに近いけど…」
「彼氏さんはなんて?」
「いやその…言いたいことだけ言って、私そのまま逃げちゃったから…その後すぐ『今度ちゃんと話したいから、落ち着いたら連絡くれ』ってメッセージは来てたけど…」
「返事してないの?」
「なんか、だんだん恥ずかしくなってきて」
「"恥ずかしい"?」
「今さら何言ってんのって感じだけど、自分の幼稚さが居た堪れないといいますか…」
「あぁ、そういうことか」

焦凍さんが言ったことは、何一つ間違っていなかった。そんな彼に相反して、"離れたくないから留学に行かない"なんて、そんな子どもみたいな駄々を捏ねる私は、そんな幼稚な理由で大好きな人を困らせる私は、なんて恥ずかしい女なんだろうと、そんなことを思うようになった。

こんな女、私が男の人だったら、絶対願い下げだ。

「次に会った時、別れようって言われちゃうかも…」
「え、ちょっと待って。なんでそうなるの?」
「だって絶対面倒臭いと思われたし、それに私、お仕事のことにも口出しちゃったし…」
「仕事のこと?」
「私がそれをぶちまけちゃった日ね、もともと二人で1日遊びに行く約束だったの。でもお仕事で行けなくなって、じゃあせめて晩ご飯は一緒に食べようって、焦凍さんが誘ってくれたんだけど…」
「それも仕事で来れなくなったとか?」
「ううん。ちゃんと来てはくれたの。だけど色々事情があったみたいで、仕事相手の人を連れて来てて…」
「なるほど」
「で…それが女の子だったから、私もついカッとなって、色々…爆発してしまって…」
「おおよそのことは分かったけど、後半については彼が悪いでしょ。 約束破った上に、代わりの約束に他の子連れて来られたら、そりゃあ彼女は良い気しないよ」
「でも別に浮気されたとかじゃないし、渋々連れてきたっぽかったし…」
「まぁ実際、仕事相手を無下にできないっていうのはあるけどね」
「だよね…うん。そうだと思う…」

思い返せば返すほど、あの日の自分の器の小ささに、どんどん惨めになっていく。一人で勝手に泣いて怒って、忙しい彼を困らせて、本当に何をやっていたんだろうかと。

「でも本当に面倒だと思ってて、別れたいと思ったなら、そのメッセージで言ってるんじゃない?別れようって」
「焦凍さんはたぶん、そういうことはしないと思う」

例え私がどんなにひどいことを言ったとしても、どれだけ身勝手だったとしても、焦凍さんはきっと正面から私に向き合って、言うべきことを口にする。大切なことを投げやりな方法で相手に伝えるなんてこと、あの人はきっと、いや、絶対にしない。

「あんなに世間からイケメンだって持て囃されてるのに、随分真面目な人なんだね」
「うん。真面目だし、真面目すぎてたまに、ちょっと天然っていうか…」
「あれ。これ今ひょっとして、僕惚気聞かされてるだけだったりする?」
「ち、違うから…っ!」

今のどこをどう切り取れば惚気に聞こえるのか分からないが、ひとまずそれを否定すると、昴くんは窓の外を見つめたまま、何かを考える素振りをする。少し儚げなその横顔を、じっと黙って見ていると、彼は何かを思い出すかのように、ふっと軽く笑ってみせた。

「男って馬鹿だからさ、好きな子の前ではかっこつけたがる生き物なんだよね。いくつになっても」
「は?」

唐突に紡がれた言葉たちに、思わず小さく声をあげた。昴くんの言葉の真意を、図ることが出来なくて。

「本当は嫌だと思ってるくせに、理解のあるフリをしてみたり、本当は全部自分のためなのに、それを相手のためだって言っちゃったり」
「えっと…それって、どういう…」
「少なくとも、僕はそうだった」

儚げなその横顔は、確かに笑っているはずなのに、静かに泣いているようだった。

「留学に行く時、千春に『待っててくれ』って、言えなかった」

語られることのなかったその本音に、先ほどまでとは違う理由で、胸がぎゅっと締め付けられた。私が胸を痛めたところで、時間が巻き戻ることなどないし、過去はずっと過去のままだ。しかしそれを頭で分かっていても、優しげな笑みを湛えたその横顔が、余計にやるせない気持ちにさせた。

「別れることが、千春のためだと思ってた。あいつはほら、口はちょっときついけど美人だし、いくらでも良い人いるだろうしさ」
「そんなことは…」
「でもそれはただの建前で、本音はただ、僕が怖かっただけなんだ」
「怖いって、何が?」
「あいつが変わってしまうことが、だよ」

「怖い」と言ったその理由を、彼は少しの躊躇いもなく、私に向かってそう告げた。

「物理的に距離が出来れば、一緒にいない時間の方が増えるでしょ?それが当たり前になったら、彼女にとっての僕は、どんどん薄っぺらい存在になって、あぁなんだ、別にいなくてもいいじゃないかって、千春がそう思うようになってしまうことが、怖かったんだよね」

昴くんが留学して間もなく、ちーちゃんから二人が別れてしまったことを聞いた時、私の頭は疑問だらけだった。海を隔てていようとも、その気になれば電話だってメールだって、会いに行くことだって出来るのに、どうして"留学なんか"を理由に、彼女を手放してしまったのだろうと、当時は純粋に不思議だった。
でも今は、ほんの少しだけ分かる気がする。心はけして目に見えず、そして変わっていくものだ。そしてその変化が、自分にとって、いつも都合のいいものばかりとは限らない。

「でも当時の僕は、そんな自分の本音に気づけなかった。いや、本当はどこかで分かっていたけど、知らないフリしてたんだ。挙句の果てに"それがお前のためだ"なんて三流以下の建前を引っ提げて、相手にそれを押し付けた」
「ちーちゃんはきっと、押し付けられたなんて思ってないよ」
「千春がそう思ってなくても、押し付けた事実は変わらないよ」

再び視線を窓の外に移し、昴くんはそう呟く。その目に見つめているものは、その向こうに広がる茜空でもなく、ずっと先の未来や希望でもなく、今もずっと大切に想う、たった一人のその人なのだろう。

「ねぇ昴く」
「まぁ、僕のどうでもいい話は置いておいてだ。何が言いたいかというとね、彼氏さんにも、そういうところがあるかもよって話」
「そういう、ところ…?」
「彼の『行くべきだ』っていうひと言には、額面通りの意味もあるだろうけど、他にも色々、思ってることがあるかもしれないよ」

"言葉単体じゃなくて、あいつ自身を見てやってよ。"

いつか上鳴さんが私に言ってくれた、その言葉が頭に浮かんだ。いつも淡々としているようで、その内面には計り知れないものを抱えて、時には必要のないものまで背負う。あの人は、ずっとそうやって生きてきた人だ。

そうだよ。焦凍さんだって言いたいこと、絶対あった。

二人でちゃんと話をしようと、彼はそう言ってくれたのに、あの日の私はそれを聞き入れなかった。仕事の相手を放ってまで追いかけて来てくれたその手を、存在を、感情任せに拒絶してしまったことを、今さらとても後悔した。

「私、自分の言いたいことだけ言って…最低」
「そんなことないよ。というかさっきも言ったけど、爆発しちゃった前段は、正直彼が悪いと思うし」
「でも」
「それになんであれ、本音をちゃんと相手にぶつけたなまえちゃんは、偉かったと思うよ。少なくとも昔の僕よりずっと、相手に対して誠実だ」

昴くんはそう言いながら、私の頭に軽く手を置く。微かな違和感を感じながらも、その手の優しさにほんの少しだけ、彼の面影を感じてしまう私は、なんて勝手なんだろう。

「大丈夫。どんなに不器用でも下手くそでも、本音にはちゃんと、本音が返ってくるから」

頑張って、と言いながら、穏やかに笑う昴くんに、小さく縦に首を振る。ひとまず彼に返事をしなければ。そう思ってポケットからスマホを取り出そうとしたその時、店の階段を足早に駆け上がる靴音が聞こえてきた。上がってきたのは黒を基調としたウェイターの格好をした背の高い男性で、昴くんと私の顔を交互に見ると、彼はなぜか少し安心したような、そんな表情を浮かべてみせた。

「お話中のところすみません。今少し宜しいでしょうか?」

申し訳なさそうにやって来たウェイターの彼に、昴くんはスッと向き直った。

「大丈夫ですよ。どうしました?」
「実は、ご来客の方がいらしてまして」
「僕にですか?今日は特に商談とか入ってないですけど」
「いえ、オーナーではなくて、みょうじさんにです」
「なまえちゃんに?」

やや遠慮がちに向けられたその視線に、私の肩がぴくりと跳ねた。

「私にですか…?」
「はい。みょうじさんと同世代くらいの外国のお嬢さんで、今カフェテリアでお待ちいただいております」
「外人の女の子の知り合いなんて、私いませんけど…」
「そうなのですか?確かにみょうじさんのお名前を出されていたのですが…」
「本当に心当たりない?知り合いじゃなくても、"どこかで会った人"とか」
「え、えーっと…」

外国人の女の子で、同世代。確かに知り合いにはいないのに、妙にしっくり来るような、この不思議な感じはなんだろう。

「あ…っ!」

たった今浮かんだその人物の顔に、少し心がちくちくした。もしも私の予想が当たっているのなら、正直お引き取り願いたい。頭に思い描いた"彼女"を前にして、冷静でいられる自信がないからだ。

「思い当たる人いた?」
「いや…いることはいるんだけど…もし私が思い浮かべた人なら、あんまり会いたくないというか…」
「え、そうなの?」
「実はその子が」
「ちょっと!いつまで待たせるのよ!そこの大男!」

私の言葉を遮るように、澄んだ高いその声が、2階のフロアに響き渡った。そして姿を捉えた瞬間、嫌な予感が的中してしまったことに、私は頭を抱えたくなった。

「この私が忙しいスケジュールの合間を縫って、わざわざこんな辺鄙なところに来てやったのよ!キビキビ動きなさいな!」
「も、申し訳ございません…」

ぴしっと人差し指を立てながら、ウェイターの彼にそう物申す彼女を見て、昴くんはあぁなるほどね、と、納得したようにそう声をあげた。

「あの子だね。君らのいざこざの起爆剤は」
「察しが良くて助かるよ…ほんとに…」

さすがはちーちゃんの元彼氏だなぁと、ふとそんなことを思っていると、ウェイターへのお説教がひと段落したからか、彼女はじとりとこちらを見て、カツカツとヒールを鳴らしながら、私の方へとやって来た。先日の一件が自分の中で尾を引いているだけに、自然と身体が強張ってしまう。

「何他人事みたいな顔でぼーっと見てんのよ。あなたも」
「す、すみません…」

なんでここにいるんだろう。
っていうか、私に何の用なんだろう。

「なまえちゃん。ここはもういいから、話してきたら?」
「え…」

昴くんは何を思ったのか、この状況を持て余す私に追い打ちをかけるように、意外な言葉を私にかけた。

「で、でも…まだ片付けが…」
「もうあと少しだし、そちらのレディをあまり待たせるのもね」
「あら、あなたはなかなか物分りがいいわね」

おそらく昴くんの言葉には何らかの意図があるのだろうが、今彼女と二人きりになるのは、率直に遠慮したいところだった。彼女が全て悪いわけではないが、結果的に彼女の存在が、彼と私の今を作り出す要因の一つとなったことに、代わりはないわけで。

「でも、私」
「ここは僕らがやっとくから大丈夫だよ。それに彼女と縁を作っておくのは、今後の君のためにもなる」
「え?」

私のためって、どういうこと?

「何コソコソしてるのよ。早くしなさいよね」
「失礼しました。なまえちゃん、着替えたらそのまま上がっていいよ」
「え、あの」
「ほらほら、早くしないと。また怒られちゃうから」

優しい笑みを浮かべながら、昴くんは私の両肩に手を置いて、私を彼女の方へと押し出した。こうしてしれっと私に試練を与えてくるところも、どこかの誰かを彷彿とさせるが、それについてはひとまず置いておくとして。

「え、えっと…」

ちらりと彼女の方を見ると、彼女はやや呆れがちな様子で、小さく一つため息をついた。

「安心しなさいよ。別に取って食べたりしないから」
「いえ…そういう心配はしてませんけど…」
「そ。なら何の問題もないわね。私は外の車で待ってるから、着替えたらそこに来て頂戴」

私の返事を待つことなく、彼女はくるりと踵を返し、再びヒールを鳴らし始める。彼女がなぜここにいるのかも、一体私に何の用なのかも、具体的なことはさっぱりだが、昴くんもあぁ言っていたし、彼の言葉を一縷の望みに重たい足を踏み出して、私は更衣室へと向かうのだった。







「用が済んだら呼ぶわ。それまで近くで待っていて頂戴」
「かしこまりました」

運転席にいた男性は穏やかにそう返事をすると、軽やかな動きで車を降りた。二人だけになった車内に、嫌な沈黙が流れ出し、ここに来てまだ5分と経っていないのに、私はすでに胃が痛かった。

「えっと…あの…どうして、あの店に私がいると…」
「ウチの調査能力をもってすれば、このくらい造作もないのよ」
「な、なるほど…」

偉い人の娘さん、なのは何となく分かるんだけど…何をしているお家なんだろう。

「それであの、私に何かご用でしょうか…?」
「用がなければ来ないわよ。わざわざこんなところまで」

彼女はそう言いながら、私と彼女の間に置かれていた銀色のアタッシュケースから、茶色い封筒を取り出した。その存在は車に乗った時から気になっていたのだが、どうやらドラマや映画のように、大金が入っているわけではなかったらしい。

あぁいうケース、ほんとに使うんだなぁ…お金持ちって。

「あなた来年、こっちに来るんですって?」

くだらないことを考えていた私を余所に、彼女は唐突にそう尋ねた。

「……こっち?」
「フランスよフランス!留学するんでしょ!っていうかあなたまさか、私のこと知らないわけ!?」
「す、すみません…私テレビとかあんまり観ないので、芸能人とかも全然知らなくて…すごい方の娘さんというのは、何となく分かってるんですが…」
「父は芸能人じゃないわ。フランス外交使節団の全権大使なの」
「そうなんですか」
「『そうなんですか』って!あなた全権大使がどれだけ偉いか分かってるの!?」
「……あんまり」
「自分がこれから留学する国の要人くらい、ちゃんと覚えておきなさいよ。向こうで恥かくわよ」
「そ、そうですよね。すみません…でもあの、どうして留学のこと…」
「察しが悪いわね。あのカタブツ男に聞いたに決まっているでしょ」

深いため息をつきながら、彼女はなぜか疎ましげな表情で、そんなことを口にした。

「あの…もしかしてそのカタブツというのは…焦凍さんのことでしょうか…」
「他にいないでしょ。思い当たる人間なんて」
「そ、そうですね…確かに…」
「まぁいいわ。とりあえずこれ渡しとくわね。もともと彼に渡す予定だったけど、どうせあなたの手元にいく物だから」

そう言うと、彼女は先ほどアタッシュケースから取り出した茶封筒を、私の方にそっと差し出す。手渡されたその封筒から静かに中身を取り出してみると、分厚い紙の束が出てきた。全て英語で書かれているため、内容はあまりよく分からないが、一枚目の表紙らしき用紙には、フランス国土の地図と共に、何かのポイントを示しているらしい赤い丸が、あらゆるところに点在している。

「あの、これは…」
「簡単に言うと、フランス国内の危険区域リスト」
「危険区域、ですか?」
「さすがのあなたでも、日本人が海外で狙われやすいって話くらい、聞いたことあるでしょ」
「はい。まぁ…」
「年々マシにはなってきてるけど、中心部であるパリでさえ、場所によっては昼間でもかなり危ないところがあるのよ。国内のそういう場所や過去外国人を狙った犯罪が発生している場所をぜーんぶピックアップしたのが、そのリスト」
「それをどうして、私にくれるんですか…?」
「頼まれたからよ」

依然として呆れがちな表情を浮かべながら、彼女はしれっとそう口にした。

「あの、頼まれたって、誰に…」
「とことん察しが悪いわねあなた…ショートに決まっているでしょう」
「え?」
「知り合いが留学に行くから、こっちのことを色々聞きたいって言われて、ちょっと揶揄ってやるつもりで、ちょっと危ない場所の話をしてやったのよ。そしたらあの人、急にすごい形相しだして『そういう場所を全部片っ端からピックアップできますか』って言い出すから、正直かなり困ったわよ。ありがたく思いなさいよね。本来なら一般人が手に入れられる代物じゃないのよ」

手の中のそれに視線を落とすと、自然と視界がじわりと歪む。どうして彼がそんなことを頼んだかなんて、そんなことは分かりきっていた。

それなのに、私は ───

「ちょ、ちょっと何泣いてんのよ…っ!私が泣かしたみたいじゃないの!」
「ひく…っ、す、すみませ…そういうわけじゃ、なくて…っ」
「あぁもう…!ほら!これ使いなさいよ!」

急に泣き出した私を見て、ギョッとしたような顔を浮かべると、彼女はいそいそと自分の傍に置いていたバッグから、花の刺繍があしらわれた綺麗なハンカチを取り出して、それを私の顔に押し当てた。

「ごめ、なさい…ハンカチ…洗って、返しますので…」
「いいわよどうせ安物だし、あなたにあげる。それより」

溢れた涙を拭う私を余所に、彼女は少しバツの悪そうな顔で、私の方に身体を向けた。

「私も、悪かったわ。ごめんなさい」
「え…?」
「この前のこと。デートの約束があったこと、私知らなくて」

小さく頭を下げながら、申し訳なさそうに呟くその姿に、今の今まで彼女に抱いていた印象が、私の中で大きく変わった。この人は自分が悪いと思った時、それを素直に言葉と行動に表せる人なのだ。幼稚なわがままを言って大事な人を困らせる私なんかより、彼女の方がずっと大人で、ずっと立派だと、さらに自分が恥ずかしくなった。

「いえ…私もあの時、態度悪くて…すみませんでした」
「あれはあなた悪くないわよ。全部あの男の自業自得でしょ」
「あの…こんなことを聞くのもどうかと思うんですけど、あの後焦凍さん、どんな感じでしたか…?」
「どんな……」

先ほどとは対照的に、今度は天を仰いだ彼女は、しばらく記憶を辿っているようだったが、一体何を思ったのか、私の顔をじっと見てから、噴き出すように笑ってみせた。

「あ、あの…なぜ私は笑われたのでしょうか…」
「あぁ、違うのよ。あなたを笑ったわけじゃなくて…ごめんなさいね…ふ、いやもう、思い出したらおかしくって…っ、ぷっ」

綺麗な顔を歪めながら、けらけらと似合わない笑い声をひとしきりあげた後、彼女はふう、とひと息つき、再び私の方を見る。

「亡骸みたいになってたわよ。あの後」
「な、亡骸…!?」
「なんか浮気がどーのこーのって、車の中でぶつぶつ色々言ってたけど、あなた一体何言ったの?」
「え、えーっと…それは…」
「まぁ、いつもスカしててなんかムカつくから、私は面白かったけど、本人的にはなかなかのダメージだったみたいよ」

あぁもう、ずるい。あの人は本当にずるい。ちょっぴりかっこ悪いそんなところでさえ、愛しく思わせてしまうのだから。

「よっぽど好きなのね。あなたのことが」

彼女が何気なく発した極め付けのそのひと言に、止まりかけていたはずの涙は、再びじわりと溢れ出した。







「本当にここまでで平気なの?」

二人揃って車を降りると、辺りはすっかり暗くなっていた。

「はい。大丈夫です。ここから駅までなら、一本道ですし」
「あなた"ぽわわん"だから、なんか心配なんだけど」
「ぽ、ぽわわん?」
「そう。ぽわわん」
「なんですか?それ」
「ぽわわんはぽわわんよ。言葉通りの感じ」
「よく分かんないですけど…えと、色々ありがとうございました。わざわざ来てもらって…」
「別にあなたのためじゃないわよ。あのままフランスに戻ったら、私が後味悪いじゃないの」
「すみません…」
「あとさっさと仲直りしてやんなさい。あれじゃ仕事に支障が出るわよ。彼」
「は、はい。あの…お話出来て良かったです。今日もし会えなかったら、きっとあなたを嫌いなままだったから…」
「そうでしょうね。っていうか今さらだけど、あなた名前はなんていうの?」
「みょうじなまえです。えと…」
「アリスよ。アリス・ベルテ」

あれ、なんだろう。前にも耳にしたような、この感じ。

「どうかしたの?」
「あ、いえ…可愛い名前ですね」
「ふふ、まぁね。私にピッタリでしょ」
「はい」

素直にそう返事をすると、アリスさんは満足気に笑い、すっと私に手を差し出した。

「あの…その手は…?」
「スマホ貸して。連絡先入れるから」
「へ?」

予想だにしていなかったそのセリフに、思わず間抜けな声を上げてしまう。すると彼女は、それを拒絶と受け取ってしまったのか、不服そうな顔を浮かべて、眉間に小さな皺を作った。

「何よ。嫌なの?」
「い、いえ…っ、そうではなくてですね…その、私一般人なんですけど、いいのかなって…」
「プロヒーローと付き合ってるくせに、今さら何を言ってるの?」
「ちょ…っ、ダメですって…こんな往来でそんな話したら…っ」
「往来って」

あっけらかんととんでもないことを口走ったアリスさんに、小声でそう話しかけると、彼女は心底不思議そうに首を傾げた。

「別にプロヒーローなんていくらでもいるじゃない。平気よ」
「ほ、本当にバレるとまずいので…!主に彼が…!!」
「何がそんなに困るの?別に不倫してるわけでもないのに」
「それはそうなんですけど…っ、とにかく色々困るんです…!」
「ふーん。まぁいいわ。じゃあとりあえず、さっさとスマホ出しなさい」

言われるままにスマホを渡すと、アリスさんはほんの一分も経たないうちに作業を終わらせて、すっとそれを私に返した。

「私の連絡先入れておいたから、後で適当に何かメッセージ送っておいて」
「はい。じゃあ家に着いたら、すぐ送りますね」
「こっちに来たら連絡しなさい。おすすめのお店とか、連れて行ってあげる」
「あ、ありがとうございます…」
「いい?まっすぐちゃんと帰るのよ。もしあなたに何かあったら、私がショ…あのカタブツに怒られるんだから」
「は、はい…っ」
「じゃあ気をつけて。またね、なまえ」

彼女が軽く手のひらを振ると、すでに戻って来ていた運転手の男性が、後部座席のドアを開けた。吸い込まれるように乗り込む彼女と、それに続くようにして、運転手さんも車に乗り込む。おそらくもう乗ることはないであろう、いかにも高そうなその車は、特徴的なエンジン音を立てながら、その場を颯爽と後にした。


「いい人だったな。アリスさん」

ぽつりとそう呟いてから、私は帰路を歩き出す。相変わらず昼間は暑いが、夜は少しだけ涼しくなった。髪を揺らす夏の夜風は、信じられないほどに穏やかで、なんだか自然と歩調が和らぐ。自分がこれから何をすべきか、したいのか。それがはっきり分かったお陰か、心はとても軽やかで、素直に彼に会いたいと思った。

焦凍さんに謝ろう。ちゃんと。
うまく言えるか分かんないけど、会ってちゃんと、今思ってることを伝えよう。

その場にぴたりと立ち止まり、肩にかけた鞄の中から、スマホをそっと取り出した。

そういえば、前にもこんなことあったなぁ…。

思えばいつもそうだった。迷ってばかりのダメな私を、いつだって彼は待っていてくれた。甘いと言ってもいいほどにとても優しいあの人は、もしもこのまま返事を返さなくても、きっと私を責めないのだろう。

「あれ…?」

いつものようにそこに触れてみたものの、なぜか画面のライトが点かない。何度かそれを繰り返し、無意味にスマホを振ったりしてみたものの、状況は何も変わることなく、彼との貴重な連絡手段は、その役割を果たしてくれない。

「電池切れ…なんてタイミングの悪い…」

ごめんなさい、だけじゃなくて。もっとたくさん。あなたに聞いて欲しいことや、あの時ちゃんと聞けなかったことが、もっといっぱいあるのに。



「ねぇ」

背後から聞こえた知らない男の声に、ビクッと身体が大きく跳ねた。勢いよく背後を振り返ると、そこには明るい髪色に柄物のシャツを着た、いかにもな若い男が立っていて、咄嗟に後退りして距離を取ると、男は少し眉を下げながら、困ったように笑ってみせた。

「あ、ビックリさせちゃった?」

ごめんねと言いながらも、目が少しもそう思っていない感じのするその男に、自然ともう一歩後ろに下がった。

「いえ…あの、なにか御用ですか…?」
「用ってほどじゃないけどさ、さっきからずっと立ち止まってるから、どうしたのかなぁって思って」

男がそう口にすると、さらに後ろの方からもう二人、別の男がやって来た。目の前に立ちはだかる男たちからの、まるで品定めをするかのようなその視線が、とてつもなく気持ち悪い。

「あの…私は、別に…」
「どこまで行くの?送ってってあげるよ」
「け、結構です…」
「遠慮しなくていいって。もう暗いし、女の子一人じゃ危ないじゃん」
「そうそう。俺らが守ってあげるから」
「いえ…ほんとに、平気なので…放っておいて下さい…」

どうしよう。やっぱり送って貰えば良かった。

駅まで真っ直ぐ一本道。比較的明るい道だし、大丈夫だろうと思っていたのだが、どうやら見立てが甘かったらしい。ただでさえ初対面の異性は苦手だというのに、こんないかにもな男たちに絡まれるなんて最悪だ。

「そんなこと言わずに、人の善意は受け取っときなって」

最初に話しかけてきた男が、私の肩に触れたその瞬間、かつて経験したことのあるその感覚が、私の身体を駆け巡った。私は知っている。覚えている。悪意をもって触れるその手の、形容しがたいおぞましさを。

「触んないで…っ!!」

反射的にそう叫び、瞼をぎゅっと閉じてから、鞄の取っ手を強く握って、思い切りそれを振り回した。それが何かにぶつかる鈍い音と共に、驚嘆の声がいくつか聞こえた後、恐る恐る瞼を開くと、先ほどまで隣にいたはずの男は、少し離れたその場所で、頬を必死に押さえていた。

「...っ、痛ぇな!!何すんだこのガキ!!」

男の怒号が聞こえる前に、私は走り出していた。反射速度だけでいえば、ひょっとするとあの時よりも、もっと素早かったかもしれない。
近くに店などはないため、ひとまず隠れる場所が多そうな、緑地公園へと駆け込んだ。公衆トイレの近くまで行き、その付近の茂みにちょうど良い隙間を見つけ、そっと静かにそこへ潜り込む。時折聞こえる荒ぶった男の声に、彼らが私を探していることを知り、背中に嫌な汗が伝う。

早く。早くどっか行って。

身体を小さく丸めながら、ぎゅうっと強く目を閉じて、彼らが諦めてくれることだけを、ただひたすらに祈った。

「やべ…っ、おい!逃げるぞ!!」

けして遠くないその場所から、慌てたような男たちの声が聞こえ、徐々に足音が遠ざかっていく。「逃げる」と言っていたことから察するに、警察の人でも来たのだろうか。それとも。
そんなことを思いながら、恐る恐る顔を上げようとしたその瞬間、ザッ、という地面を踏みしめる音が、今度はこちらに近づいてきた。

まさか、また別の不審者とか…?
怖い。やだ。どうしよう、どうしよう。

逃げたいと頭では思っているのに、恐怖のせいで身体がいうことをきいてくれない。




「もう出てきて平気だよ。怖いお兄さん達、どっか行っちゃったから」

優しそうなその声と共に、ライトの光がこちらを照らす。その眩しさに目を細めると、声をかけてくれたその人は、私に向かって手を差し伸べた。その人物の顔はよく見えないが、この人はきっと大丈夫だと、なぜだか不思議とそう思えた。

「大丈夫?立てる?」
「は、はい。あの、ありがとうございます…」
「どういたしまして」

差し伸べられたその手を取り、しゃがんだまま茂みの外側へと出てから、ゆっくりとその場に立ち上がると、公衆トイレの照明のおかげで、ようやく私はその人物の顔を、この目でしっかり見ることが出来た。ボサボサの髪に、くりっとした大きな目、そして両頬にそばかす。少し心配そうな面持ちで私のことを見つめるその人物の姿を見て、驚きのあまり目を見開いた。なぜなら私は、今初めて会ったこの人のことを、ずいぶん前から知っていたからだ。

「"ミドリヤ"さんだ…!」
「え?」
「あ…っ!」

うっかりその名を口にして、慌てて口を両手で塞ぐ。知っているのは私だけであって、この人は私を知らないのだ。素性も分からない赤の他人から急に本名で呼ばれたら、きっとこの人を戸惑わせてしまう。そう思って焦ったものの、そんな私の心配を余所に、彼は嫌な顔ひとつせず、それどころか先ほどとは打って変わって、穏やかな表情で私を見据えた。

「そっか。僕のこと聞いてるんだったね。"直接会うのは"初めてだけど」
「え?」

短く私がそう聞き返すと、彼は穏やかな顔つきのまま、再びこちらに手を差し出した。

「緑谷出久です。初めまして。轟君にはいつもお世話になってます」

少し幼気な印象の顔立ちに反して、ゴツゴツとしていて大きなそれに、吸い込まれるように手を伸ばすと、まるで壊れ物を扱うかのように、彼はそっと私の手を取り、にっこり優しく笑みを浮かべた。


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2022.07.27

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