愛しい涙


『では"報道の内容"については、概ね事実ということでしょうか?』

やや興奮気味な記者の女性に対し、彼はいつも通りの淡々とした表情で、はい、と短く答えた。

『概ねというか、書かれている内容そのままです』
『お相手は一般の方とのことですが、出会いのきっかけなどは…』
『出会ったのは…偶然、ですね』
『偶然と言いますと、具体的には…』
『ご存知の通り一般の方なので、細かい部分はお答えしかねます。すみません』

小さく頭を下げつつも、彼ははっきりとそう口にした。メディア的にはもっと掘り下げて聞きたいところなのだろうが、本人の毅然とした態度ゆえか、記者の女性はそれ以上踏み込むことはなく、すかさず話題を変えてみせた。

「すごいわね。昨日からほぼこのニュースだわ」

秋に発売予定の新作ケーキを試食しながら、テーブルの向かいに座る幼なじみは、にやにやと笑みを浮かべて言う。試食と言っても彼女の関心はもはやそのケーキにはなく、目の前のテレビに向けられているようだが。

「まぁ予想はしてたけど、めちゃくちゃ大事になったわね。ショートの熱愛報道」
「そ、そうだね…」
「SNSもすごいわよ。一日経っても、ずっとトレンドに入ってるもの」

手に持っていたフォークを置き、自身のスマホを手に取った彼女は、SNSのアプリを開いて、その画面を私に見せた。"国内トレンド"という見出しと共に、"ショート 熱愛"、"ショート 彼女 誰"など、中には少しドキッとするような文字の羅列が並んでいて、改めてその人物の影響力を知る。

「やっぱり、焦凍さんってすごい人だね…」
「今さらすぎない?まぁ今回はみんなどっちかというと、ショートよりあんたの方に関心があるでしょうけど」
「わ、私でございますか…?」
「あの人今まで噂はいくつかあったけど、こんながっつり熱愛報道出たことないんだもの。相手は誰だってなるでしょそりゃ」
「と、特定されたりとかするのかな」

そう不安げに尋ねた私に、ちーちゃんはうーん、と一度唸ると、鞄から1冊の雑誌を取り出した。見覚えのありすぎるその表紙と雑誌のタイトルに、再び心臓がどきりと跳ねる。

「夜で暗いし、ここまでモザイクかかってたら、誰か分かんないんじゃないかしらね。キスしてんのはもろバレだけど」
「それ以前に、なんでそれ持ってんの…っ!」
「せっかくだから、記念に取っておこうと思って」
「なんの記念なの…!?」

焦凍さんと無事に仲直り出来たその3日後。彼からかかってきた1本電話で、私は"その記事"の存在を知った。多少危惧はしていたものの、まさか本当にそうなるとは思っていなかったし、まさか自分がプロヒーローの熱愛報道の相手になろうとは、人生とは本当に何が起こるか分からない。




『では、お相手のどんなところが好きですか?差し支えない範囲で構いませんので』

先ほどまで質問していた人とは違う記者の男性が、穏やかなトーンでそう尋ねると、彼はやや上に目線を向けてから、そうですね、と前置きをして、再びその記者に視線を戻した。

『選べません』
『あはは、強いて言うならで構いませんよ』
『強いて言うなら……あ。頬が好きです』
『頬、ですか?』
『すごい触り心地いいんです。餅みたいに柔らかくて、触るだけでとても癒されます。この感覚を共有できないのが残念です』

焦凍さんが真顔でそう言うと、彼を囲んでいた記者たちが、どっと一気に笑い出す。当の本人はなぜ笑われたのか全く分かっていないような不思議そうな顔を浮かべているが、そのアンバランスさが撮れ高的には良かったのか、ほぼ全ての報道番組がここのシーンを取り上げていて、私はとても恥ずかしかった。

「こことか完全に惚気よね。あーやだやだ、全国放送で彼女の自慢なんかしちゃって」

ここ連日ずっとテレビで流れているものの、第三者に改めてそう指摘されると、頬がかっと熱くなる。全国放送で自分のことについて語られる日が来ようとは、誰が想像していただろうか。

「実はわざと撮られたんじゃないの?あの男。『これで堂々と出来るからいいや』とか思ってるかもしれないわよ」
「いや…それはさすがにないでしょ…」
「っていうかさ、あんた意外と冷静よね。もっとあたふたするかと思ったのに」
「最初はだいぶあたふたしたけど…焦凍さんが『全部こっちでなんとかする』って言ってくれたから…色々お任せしちゃいました…」

焦凍さんから電話で初めてその話を聞いた時は、あまりの衝撃にうっかりスマホを落としそうになったが、こうして普段通りの生活を送れているのは、その言葉通りに"なんとかして"くれている彼のおかげなのだろう。

「実際それしかないわよね。それにぶっちゃけた話、いざとなれば金とコネと権力を使ってどうとでも出来るわよ。あんたの彼氏なら」
「そ、そうなの…?」
「エンデヴァーって親馬鹿で有名じゃない。彼が父親に頼めば一発でしょ。ま、あくまで最終手段でしょうけど」
「そういえば、前テレビで上鳴さんがそんな話をしていたような…」

そしてそれを、ちょっと可愛いな、なんて失礼なことを考えてしまった記憶もある。焦凍さんから過去のお父さんとの確執を聞いた時は、見た目通りの怖い人というイメージがしばらくあったが、10年以上の長い時間をかけて、色んなことが移り変わっていったのだろうと、今は何となくそんなことを思うようになっていた。




『将来的には、やはり結婚なども視野に入れているのでしょうか?』

ぼんやりと考えごとをしていたところに、その問いかけがテレビで流れた。この後の展開はもちろん知っているのだが、知っているからといって羞恥心がなくなるかというと、それはまた別の話である。テーブルに置かれたテレビのリモコンに、ゆっくりと手を伸ばしてみせると、そうはさせるかとでも言いたげな顔で、ちーちゃんは素早くそれを取り上げた。

「ちょ…っ、リモコン返してよっ」
「嫌よ。ここが最大の名シーンじゃないの」
「名シーンって何!いいから返し」
『相手の意向もあると思うので、今はまだなんとも。ただ ─── 』

聞かなければいいのに、自然とそれを聞いてしまうのは、その存在が私にとって、とてつもなく大きいからで。

『俺個人としては、そうなったらいいなと思ってます』

真顔でそう言い放つ彼に、集まっていた記者たちの声がいくつも上がる。驚いたような、好奇心に溢れたような、様々な声がテレビから流れる中、私はあまりの恥ずかしさに、テーブルの上に顔を突っ伏した。

「ひゅー♡」
「もうほんと…勘弁してください…」
「良かったじゃない。これでめでたく玉の輿ね」
「いや、別にそこはどうでも良くて…」
「彼さえいれば何もいらない、と」
「…っ、も、もういいでしょ…っ!テレビ消すよっ!」

彼女が手にしていたリモコンを半ば無理矢理奪い取り、少し乱暴にテレビを消した。逃げたと言われてもいい。どこかの漫画で誰かが言っていた。生きるための逃げはありだと。

「ちょっとー、せっかく観てたのにー」
「観たければおひとりの時にどうぞっ!」
「まぁ照れちゃって。かーわーいーいー」
「うるさいよ…っ!!」
「ふふ、楽しそうねぇ」

嬉しそうな声が耳を掠める。ふと反射的に振り返ると、いつからそこにいたのか定かでないが、そのセリフに負けず劣らずの楽しそうな笑みを浮かべた祖母が、ティーポットを持って立っていた。

「こんにちは。千春ちゃん」
「お邪魔してます」
「お茶のおかわりいるかしら?」
「あ、う、うん。ありがと…」

私が小さくそう呟くと、祖母はにっこりともう一度笑うと、すでに空になっていた二人分のティーカップに、紅茶のおかわりを注ぎ入れた。

「なんのお話してたの?私も混ぜて欲しいわ」
「ぜひどうぞ」
「ちょ…っ、そこが結託すると厄介だからやめてよね…!」
「厄介なんて失礼ね。こんなにあんたの恋を応援してる人間なんて、あたしたちくらいのもんよ?」
「面白がってるの間違いでしょ…っ!」
「あら、そんなことないわよ。二人で心配してたんだから。留学の件をきっかけに、あなたたちが別れちゃうんじゃないかって」

そう口にした祖母に、私は言葉を詰まらせた。こうしてからかってはくるものの、実際にすごく心配させてしまっていたと思う。初めて焦凍さんに不満をぶつけたあの日、様子がおかしかった私のことを、二人はずっと気にかけてくれていて、話を聞いてくれたり、気分転換にと外に連れ出してくれたりと、明らかに気を遣わせてしまっていた。

「その節は、大変ご迷惑をおかけしました…」
「ほんとにね」
「ひどっ!」
「でも良かったわ。無事に仲直り出来たみたいで。なまえも留学に前向きになれたみたいだし」
「そうですね。それは確かに」

うんうん、と頷きながら、ちーちゃんは注がれた暖かい紅茶を、くい、と一口含んでみせた。しかし次に彼女が放つ一言に、私は再び頭を伏せることになる。


「あとは、週末の大イベントをどう切り抜けるかね」

普通の日常を送れているとはいえ、報道の影響が全くないかというと、そういうわけにもいかなかった。彼女の言うとおり私にはもう一つ、この件に関連したイベントが待ち受けている。

「むしろ今は報道より、そっちの方が気が重いよ…」
「もう相手の話はしたのよね?」
「したけど…たぶん冗談だと思ってる気がする」
「そりゃあなかなか信じないでしょ。ショートの熱愛報道の相手が、まさか自分の娘だなんて」

記事に載せられた私の顔は、モザイクで見事に隠されており、たぶん私が何も言わなければ、それを"彼ら"が知ることはない。しかしそれでは良くないだろうと言う恋人の一声で、忙しい彼にわざわざ週末に休みを取ってもらい、二人で私の実家に行くことが決まっていた。

「焦凍さんがちゃんと挨拶したいって言うからそうしたけど、大丈夫かなぁ…」
「大丈夫よ。焦凍さん、とても良い人だもの」
「それはそうだけど…お母さんはともかく、お父さんがなぁ…」
「あんた、相変わらずおじさんが苦手なのね」
「まぁね…」

焦凍さんが良い人であることは間違いないし、私には勿体ないくらい素敵な人だと言える自信もある。けれどだからといって、この緊張感が軽くなるかといえば、なかなかそうもいかないわけで。

「っていうかさ、その流れで向こうの家に挨拶は行かないわけ?」
「焦凍さんの実家の近く、ここ数日はいつも記者の人たちがいるんだって。だから焦凍さんのお家には、それが落ち着いたら行こうってことになって」
「あぁ、なるほど」
「大変よねぇ。本人ももちろん有名だけど、お父さんも有名人だし…」
「何かある度に家の周りに記者がいるって、結構大変だよね…」
「何他人事みたいに言ってんのよ」
「へ?」

間の抜けた声をあげる私に、ちーちゃんは深いため息を一つついた。

「ショートと本当に結婚したら、あんたその家の人間になるのよ?」

呆れがちなその物言いに、もしかしたら待っているかもしれないその未来を思い浮かべて、私は思わず立ち上がった。

「……確かに!!」
「いや今気づいたんかい。このお馬鹿」

やっぱりあんた馬鹿だわと、再び呆れたようにため息をつく幼なじみに、私は返す言葉もなかった。







その立ち姿に、いい意味で語彙を失った。

「変なところねぇか、俺」

極力目立たないようにと、実家から離れた少しさびれたパーキングで落ち合い、初めて今日彼を見た。車を停めた焦凍さんが中から出てきた瞬間、白昼夢でも見ているのだろうかと、私は本気で思ってしまった。

か、かっこよすぎる…!

一応挨拶だからと、気を遣ってくれたのだろう。綺麗にクリーニングされているであろうスーツを身に纏い、いつもは自然にしている髪も、今日はワックスでセットされている。見目麗しいとはまさしくこのことで、最近はそこそこ慣れてきたはずなのに、その姿が視界に入る度に、心臓がバクバクと音を立てた。

「なまえ?」
「は、はい…っ、あの、と、とってもかっこいいと思います!」

素直というより愚直なその感想を聞いた彼は、一瞬照れたような顔をしたあと、少しだけ困ったような笑みを浮かべてみせる。

「まぁ…そう言ってくれんのは嬉しいが、今はそっちじゃなくてだな」
「そ、そうですね…っ、すみません…。えっと…見た感じ変なところとかは、特にないかと…」
「なら良かった」
「あの、なんかすみません…まだ暑いのにスーツなんて…」
「俺に気温は関係ねぇし、それに普段着なんかで会いに行って、印象悪くなる方が困るからな」
「そこまでちゃんとしていなくても、多分大丈夫だと思いますけどね」
「でもまぁ、ちゃんと備えておくに越したことはねぇだろ」
「そう、ですね」
「一応周りに記者とかがいねぇかどうかは、事前に確認してもらってるから。お前の実家がバレたらまずいしな」
「は、はい…お手数かけてすみません…」
「何度も謝るな。そもそも挨拶したいって言ったのは俺だから」

私の頭に手を置きながら、彼は落とすように笑う。いつもかっこよくてドキドキするのに、さらにそんな素敵な装いで言われてしまうと、もう何がなんだか分からなくなってきた。

「手土産適当に選んじまったけど、よく考えたらお前に聞いてから買えばよかったかもな。一応そこそこ有名らしい店のあんみつにしてみたんだが」

手にしていた紙袋を軽く持ち上げながら、珍しく不安そうな顔で、焦凍さんはそう口にした。袋に描かれた"そこそこ"どころではない超有名な高級和菓子屋さんのロゴを見て、生まれの違いを改めて知る。

このお店のあんみつ、確か一つ数千円くらいしたような…。

「二人ともほとんど好き嫌いなかったと思うので、大丈夫ですよ」
「だといいんだが」
「もし二人が食べなければ、私が全部食べちゃいます。実はそこのあんみつ、前から食べてみたかったんですよね。ふふ」
「お前が喜んでくれるのは嬉しいけどな、食べて貰えねぇのはさすがに落ち込むぞ」

手土産の話がひと区切りついたものの、実家に向かうわずか15分足らずのその道で、焦凍さんは珍しくそわそわしながら、あらゆることを私に確認する。以前も電話で聞かれたその質問の数々に、もしやと思っていたその疑念は、徐々に確信に変わりつつあった。

「あの…焦凍さんもしかして、緊張してます…?」

私その問いかけに、彼はぴたりと足を止めた。

「当たり前だろ。親だぞ親」
「でも焦凍さん、おばあちゃん達と会う時は全然緊張してませんでしたよね?」
「あの時は店の客としても来てただろ。でも今回はお前の彼氏として会いに来てるわけで、そうなると場合が違うんだよ」
「な、なるほど…」

記者の人たち前で話すことは淡々と出来ちゃうのに、そこは緊張しちゃうんだ。

そんな彼を、ちょっと可愛いなんて思ってしまう私がいる。もちろんそんなことは、口が裂けても言えないけれど。

「そういうお前は、思ったより落ち着いてるよな。親父さんのこと、少し苦手だって言ってたが」
「苦手は苦手なんですけど…母もいますし、それに今日は、隣に焦凍さんがいてくれるので、頑張れます」
「そうか。なんかごめんな。俺が挨拶に行きたいって言ったから」
「焦凍さんが謝ることじゃないですから、気にしなくて大丈夫です。あ、あのグレーの外壁の家が、私の実家ですよ」

そう言って指を差す方向へ、彼はそっと視線を移した。滅多に見れない緊張した面持ちの焦凍さんに、私まで緊張が伝播してくる。今から向かう家の住人たちは、おそらく私の寝言か冗談か、はたまた戯言くらいの認識だと思うが、本物のショートを目の当たりにした時の彼らがどんな顔をするのか、想像できるような、出来ないような。

「じゃ、じゃあ鳴らしますね…!」

実家のインターホンを押すなんて、一体どれくらいぶりだろう。うっかり鍵を忘れた時くらいしかそんな機会はないわけで、自然と指に力が入った。

「ちょっと待て」

一度私を制止すると、彼はすっと自分の手のひらを広げ、緊張した時に効くと昔から言われる、例のおまじないをしてみせる。律儀にそれを飲み込む焦凍さんに、またしても可愛いなどと失礼なことを思ってしまい、口元が緩むのを懸命に堪えた。

「いいぞ。いつでも来い」
「じゃあ今度こそ鳴らしますよ…!」
「おう」

インターホンの音が鳴り、ほんの数十秒の余白を経て、ガチャリとドアが開けられた。

「おかえり、なまえ」

ひょこっと顔を出しながら、母はいつも通りの笑顔を浮かべた。その表情はやはり親子だからか、祖母のそれに少し似ている。

「た、ただいま…」
「いつも時間より早く来ることなんてないのに、珍しいわね」
「さ、さすがに今日はそんな適当なことしないよ…っ」
「まぁ、それはそうよね。なんてったって今日は彼氏さんを…」

今まで視界に入っていなかったのか、私のすぐ隣に立つその人物を見て、母は凍りついたように固まった。

「どうも。初めまして」

彼の低く落ち着いた声がこだますると、今度は数秒間の沈黙が流れたあと、母は私の肩を思い切り掴んだ。

「ほ、本当にショートじゃないの!!」
「だから電話で何度もそう言ったじゃん…!」
「ちょ、ちょっと待って…私お化粧直して…」
「いや何言ってんの。もう焦凍さん来てるから。そんな時間ないから」

あぁどうしましょう、と相変わらず狼狽える母を余所に、私は焦凍さんを中に引き入れ、ドアの内側から鍵をかけた。

「すみません…気にせず上がっていただいて…」
「いいのか?」
「はい。もうあの人放っておいて、中に入りましょう」
「あらやだスリッパ!スリッパ持ってくるわね!!」
「いい加減少し落ち着きなよ…っ!焦凍さん困ってるでしょ…!」

依然として騒々しい実の母親に、思わず私も声を荒らげる。予想通り電話での私の話を一切信じていなかったらしく、母の予想以上のその慌てぶりに、正直とても恥ずかしくなった。

「すみません、ほんと…開始早々こんな感じで…」

恐る恐るそう口にすると、焦凍さんは何度か首を横に振り、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「楽しそうな家で、むしろほっとした」
「恐れ入ります…」

そんなやり取りを交わしながら靴を脱いだあと、バタバタと走りながら母が持ってきたスリッパを履き、こちらへどうぞと導かれるままに、彼と私は足を踏み出した。







「うわ、やっべぇ!ホントにショートじゃん!!」

ダイニングに足を踏み入れると、弟は母のテンションをさらに上回る勢いで大きく声をあげ、彼の姿をまじまじと見た。

「……まず始めに挨拶をしなよ。"いつき"」
「あ!す、すんません…っ、弟のみょうじ樹です!中2です!よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします」

軽く普段の5倍は高いテンションで挨拶をする弟を余所に、焦凍さんはそれに一切動じることなく、淡々と頭を下げた。

「俺、本物のショート見るの初めてっす!握手して下さい!!あ、一緒に写メもいいっすか!?」
「ちょ、何言ってんの…っ、初対面で失礼でしょ…!」
「いいよ、なまえ。別に減るもんじゃねぇから」

彼は落ち着いた声色でそう言うと、未だ興奮冷めやらぬといった様子の弟に向かって、すっとその手を差し出してみせる。まるで確かめるようにそれを掴んだ樹は、ようやく目の前にいる人間がショート本人だと実感を得たようで、途端に緊張した面持ちになり、先ほどまでの態度はどこへやら、躊躇いがちにスマホを取り出して、一枚だけ写真を一緒に撮ってもらっていた。

「はー…本物かっけぇ…なんでこんなイケメンが、ウチの姉ちゃんなんかと…」
「"なんか"とは何よ、失礼な…っ!」
「まぁまぁ…とりあえず、焦凍さんとなまえはこっちに座ってちょうだいな。樹は少し部屋に行ってなさい。後でまた呼ぶから」
「はーい」

素直にそう返事をし、ダイニングを後にした樹の背を見送ってから、彼と私は再び母に言われるままに、ダイニングの椅子に腰を落とす。既にそこに座っていた父は、母や弟とは対照的に、いつも通りの落ち着いた雰囲気でそこにいて、キッチンから人数分のお茶を持ってきた母は、最後に私の向かいに座った。

「えっと…改めて紹介する必要もない気がするんだけど、轟焦凍さんです」
「初めまして。轟焦凍です」

例のおまじないの効果なのか、単に表情に出ていないだけか、隣にちらりと視線を移すと、彼も普段通りの様子で堂々と自分の名前を口にしながら、両親に軽く頭を下げた。

「さっきはごめんなさいね、取り乱してしまって…なまえの母です。で、こっちがお父さん」
「宜しくお願いします」

焦凍さんに負けず劣らずの淡々とした口調で、父も軽く頭を下げる。朗らかな母と比べて、何を考えているかが分かりづらい父は、幼い頃から少しだけ苦手だ。嫌いだとか、生理的に無理だとか、そんなことを思ったことはないのだが、同じような物言いでも、焦凍さんとは印象がだいぶ異なっていた。

「電話で話を聞いた時は信じられなかったんだけど…焦凍さんはその…本当になまえと付き合ってるんですか?」
「はい。既にニュース等でご存知かもしれませんが、今年の春からお付き合いさせていただいてます」
「じゃ、じゃあ本当にそうなのね…!ねぇなまえ、どうやってこんなすごい人と知り合ったの?」

明らかにミーハー心全開で目を輝かせながら、母は私にそう尋ねた。やはり祖母とこの人には、かなり近しいものを感じる。

「えっと…去年の冬に焦凍さんがたまたまお店に来てくれたんだけど、その時ちょっと色々あって…そこから、なんかさらに色々あって…そういうことに…」
「何言ってるのか全く分からないわよ。なまえ」
「せ、説明するのが難しいの…っ!」
「端的に言いますと、娘さんがお手伝いしているお店に偶然立ち寄った時に、色々お世話になりまして。そこから何度かお会いする機会が重なって、その流れで交際に至った、という形です。細かい経緯を全て説明するとかなり長くなってしまうので、少し抽象的にはなってしまいますが」

ボキャブラリーに乏しい私に代わって、彼はすらすらとそう説明した。私と彼が付き合うに至った直接的な経緯は話せないため、それを上手くぼかしながら、私よりだいぶ分かりやすく伝えてくれている。

「こんな感じでいいか?」
「は、はい…ありがとうございます」
「いずれご挨拶をとは思っていたんですが…その、先にあのような形で報道が出てしまいまして…すみません。こちらの皆さんにはご迷惑をかけないように、出来ることはしますので」

焦凍さんは少しバツが悪そうにそう言うと、向かいに座る私の両親に、今度は深く頭を下げた。

「あらあら、頭を上げてくださいな。むしろこの子の方こそ、何かご迷惑をかけたりしてません?ご存知かとは思うんですけど、ちょーーーっと頭が弱いところがあるので」
「ちょっとお母さん…」
「少し危なっかしくて心配になる時はありますが、迷惑だと思ったことはないですよ。いつも仕事のこととか、気にしてくれますし」

その返答を聞いた母は、まぁ…と小さく声をあげ、うっとりしたような顔を浮かべた。

「やっぱり付き合うなら、包容力のある歳上よねぇ…その上こんなにイケメンだし…」
「恐れ入ります」
「ふふ、こんなかっこいい人が息子になってくれたら、5歳くらい若返っちゃいそうね」
「ちょっ、急に何言ってんのお母さんは…っ!」
「え?でも、焦凍さんはそのつもりなんですよね?昨日もテレビでやってたし」
「いや…それは…」

実家に挨拶ともなれば、そういう話も出るかもしれないとは思っていた。実際にそうなったら、それはとても幸せなことだし、もしかしたら彼以外にも、なんて、私にはとても考えられない。でも。

さすがに展開が速すぎて、頭が全然追いつかない…!

「俺はそのつもりでいますが、まだ先の話ですから、ゆっくり一緒に考えればいいと思っています」

隣から聞こえる優しい声色に、とても安心する。自然とそちらに顔を向ければ、彼はすでにこちらを見ていて、落とすように軽く笑った。戸惑う私を安心させるような落ち着いた焦凍さんの表情に、あぁやっぱりこの人を好きになって良かったと、改めてそう思う。


「お前はどう思ってるんだ。なまえ」

彼の声よりさらに低い、淡々とした声が響く。最初に挨拶をして以降、ずっと口を噤んだままだった父が、初めて口を開いたのだ。

「え、あの…どうって…」
「彼の意向は分かったが、お前の方はどう考えているのかと聞いている」

やや威圧的なその物言いに、穏やかになった心の中に、波紋のように不安が広がる。

"間違えたら"、どうしよう。

そこに正解がないことだとしても、父に何かを尋ねられると、そんなふうに思ってしまう。この人と話をしている時は、決まってこうなってしまうのだ。

嫌だなこんなの。かっこ悪い。

そんなことを思いながら答えに詰まって俯くと、視界の端からゆっくりと大きな左手が現れる。少し強めに握った拳にそっと触れたその手は暖かく、ちらりと再び視線を隣に移すと、焦凍さんは小さく頷いた。

"大丈夫だ。思った通りに言えばいい。"

声を発していないはずなのに、不思議と彼の思うことが、なんとなく分かったような気がした。

「…まだ結婚とか、は、あんまりイメージ出来てないんだけど…」

ただ思っていることを言うだけ。それだけだ。シンプルに、色んなものを取り払った時、残るものは一つだけ。

「私も、焦凍さんとずっと一緒にいたい。です」

これから先の未来がどうなるのか、正直全然描けていない。自分がなりたい自分ですら、やっと少し見えたところだ。でもそれでも、もしもそれが叶うのなら、この人の隣で生きていたい。

「この間帰ってきた時の話では、次の春から留学するかもしれないと言っていたが、それはどうするんだ」
「えと…留学には、行くつもりでいて…焦凍さんも応援してくれてるし、2年間あっちで頑張りたいって思ってる」
「その間に、お互い心変わりする可能性だってあるだろう」
「そ、それは…そうかもしれないけ」
「仮に二人の気持ちが離れなかったとしてもだ」

私の言葉を遮って、父はそう前置きをした。

「彼と結婚することになった場合、どれほど大きなものを背負わされるか、お前はきちんと理解しているのか」

父の言っていることの意味は、分かっていた。少し前までの私なら、同じ質問をされたとしても、きっと理解できなかったであろう、重たい言葉。しかし再び言葉を詰まらせる私とは対照的に、隣に座る彼はそれを予想していたようで、特に動揺することもなく、黙って話を聞いていた。

「あなた、それは…」
「彼の活躍や功績は、もちろん私も知っている。しかし彼と結婚するとなれば、お前は彼の家事情を、ずっと一緒に背負っていくことになるんだぞ。時には心無い言葉をかけられたり、危険な目に遭う可能性だってある」

母の制止を聞くことなく、畳み掛けるようにそう続ける父に、心が淀む。いつか感じた恨みほどではないけれど、懐疑的なその視線に、少なくとも父が彼を快く思っていないことは伝わってきた。

「それ、は…」
「彼がどれだけ立派で誠実な人間であったとしても、彼のお父さんやお兄さんがしたことは、決して許されないことだ。母さんはなんと言うかは知らんが、少なくとも私はそんな身内がいる人間と、自分の娘が深く関わることには、あまり前向きになれない」

少なくとも、父が前向きになれないことは分かった。でもそんなことはどうでもいい。淀んだその心の内側から、今までこの人に抱いたことのない感情が、ふつふつと湧き上がってきていた。

「なんでそれを、焦凍さんに言うの?」

そう口にした自分の声はやけに落ち着いていて、私自身が驚いた。それは父も同様なのか、珍しく少しだけ目を見開いて、続く言葉を待っている。

「焦凍さんが何かしたわけじゃないのに、なんでそんなこと、お父さんに言われなくちゃいけないの?」

改めて口にしたその瞬間、自分の感情の名前を知る。多分私は今初めて、父に対して怒っていた。さすがにそれは予期していなかったのか、焦凍さんも少し慌てた様子で、私の名前をすかさず呼んだ。

「俺は気にしてねぇから。それにお前のお父さんの言ってることは真っ当だ。何も間違ってない」
「焦凍さんが良くても、私は全然良くないんです」

それが正論だとしても、その言葉が向けられた先にあるものは、いわば私の逆鱗なのだ。

「生まれる家なんて選べないのに、なんでそんなふうに言われなきゃいけないの?さっきお父さん、私が心無い言葉をかけられるかもとか言ってたけど、どの口がそれを言ってるの?今まさにそれをやってるのは、お父さんの方じゃない」

視界が涙で滲み、父の顔は見えない。しかし心の中にあるのは、父のことではなかった。

こうやって、今までもたくさん、言われてきたんだ。この人は。

彼は一体これまで、何度同じ言葉を浴びせられたのだろう。花が咲く場所を選べないように、子どもだって親は選べない。ただその家に生まれただけ。ただそれだけなのに。

「なんでみんなそうやって、"当たり前"みたいにそんなこと言うの…っ」

焦凍さんは言った。彼のお兄さんに恨みを持つ人の矛先が、自分に向くのは当然だと。その言葉を聞いたあの日の私は、それを真っ向から否定した。そしてあれから時間が経って、再びそれを目の当たりにした今、改めて思う。そんなものは当然なんかじゃない。何もしていない人間が、一方的に傷つけられることを受け入れる当たり前なんて、そんなものあってはダメなのだ。


「なまえ」

言いたいことを言うだけ言って、みっともなく泣き出した私の名前を、焦凍さんはもう一度呼んだ。先ほどの慌てた声色とは違う、とても落ち着いた、いつもの優しい彼の声で。ゆっくりとそちらに顔を向けると、なぜか焦凍さんの表情は、なぜか少しだけ泣きそうに見えた。

「少し二人で話してもいいか?お前のお父さんと」
「え…」

続けられたその言葉は全くの想定外で、咄嗟に声をあげてしまう。

「ふ、二人でですか…?」
「あぁ。その間お母さんと、持ってきた土産でも食べててくれ。食べたいって言ってただろ?あんみつ」
「で、でも焦凍さ」
「あらいいわねぇ。ちょうどおやつ時だし、お言葉に甘えてそうしましょ、なまえ」

突然会話に割って入ると、母はすくっと立ち上がってから私の方へとやって来て、私の肩をそっと掴んだ。

「ちょ、お母さ」
「じゃああなた、私たちは樹の部屋でゆっくりおやつをいただいてますから、お話が終わったら声掛けてちょうだいね〜」

ほら行くわよ、と肩を抱かれ、不完全燃焼な想いを残して、私はダイニングを後にする。部屋のドアを閉める時、ちらりと見た焦凍さんの顔は、既にいつものそれであり、綺麗な色をしたその瞳は、ただ目の前にいる人物を真っ直ぐ見据えているだけだった。







「すっげーうまいねこのあんみつ。なんかすげぇ高そうな味するわー」
「確かに上品なお味ねぇ。ね、なまえ」
「そうだね。あんこの甘さもちょうど良くて…じゃなくて!」

思わず舌鼓を打ちそうになるところをぐっと堪え、私はそう声を荒らげた。

「ねぇお母さん、お父さんと焦凍さん二人きりにして、本当に大丈夫なの…?」
「ああいう時は、男の人の顔を立てておく方がいいのよ。それにあのままじゃ、最悪な空気のまま話すことになってたと思うし」
「それはそうだけど…」
「大丈夫よ。あなたより6つも歳上なんだもの。彼に任せておきなさい」

母はさらりとそう言うと、ガラスの器に盛られたそれを、再びスプーンでひと口含んだ。

「っていうかさ、いまいち俺状況分かってないんだけど、なんでそんなことになったわけ?」
「お父さんがいつもの正論武装をしたら、なまえがキレちゃったのよ。で、見るに見兼ねた彼が、一度お父さんと二人で話すからって言い出したの」
「姉ちゃんがキレたの?父さんに?」

信じられないとでも言いたげな顔で、樹は私をまじまじと見た。

「だ、だって、お父さんが焦凍さんにひどいこと言うから…ムカついて…」
「なるほど。これが愛の力ってやつか」
「そうね。愛の力ね」
「揃いも揃って人のことを面白がって…!」

母と弟はケタケタと笑い声を上げながら、さらにあんみつを食べ進めた。あの父とひとつ屋根の下でずっと暮らしていて、なぜこの二人はこんなにあっけらかんとしているのだろうか。

「俺もそこまで詳しくないけど…父さんが言ったのってあれのこと?ショートの親父さんとお兄さんの話?」
「うん。まぁ…」
「そんなんどうでもよくね?ショート本人が何かしたわけじゃないんだし」
「なまえが彼と、本当に奇跡的に万が一結婚することになった場合は、そうも言ってられなくなるのよ」
「ちょっとその前提…まぁいいけども…」
「そうも言ってられないって、なんで?だって結婚するのはショートとで、そしたら別の世帯じゃん」
「いや、樹は逆になんでそんなに詳しいわけ…?」
「俺は色々と勉強してんの。姉ちゃんと違って」
「うるさいよ…っ!」
「で、結婚すると何が問題になるわけ?」
「今は昔ほどじゃないけど、結婚するとなれば本人同士だけじゃなくて、家と家の話になるのよ。少なくとも最初は」
「まぁそれは、そうだね」
「樹は小さくて覚えてないだろうけど、彼のご実家の件が世間に知れ渡った時の世間の非難はかなりのものだったのよ。特にお父さんであるエンデヴァーにはね」

そう言うと、母は食べ終えたガラスの器に、スプーンをそっと静かに置いた。

「10年以上経った今だからこそ、それほど大きく取り上げられることもなくなったけど、未だに燻るものはあるでしょうし、あの家と付き合っていくということは、私たちの生活にも影響する可能性があるの」
「ふーん。で、姉ちゃんはそれについてどう思ってるわけ?」

不意に尋ねられたその質問に、ぴくりと肩が跳ねる。性格こそ全く違うが、こうして核心を躊躇いなく聞いてくるところは、ほんの少しだけ父が重なる。

「実際そういうのを…目の前で見たことが、あって」
「え、そうなの?」
「焦凍さんのお兄さんに、実のお父さんを…って人が、たまたま同じ場所にいたの」
「なまえは何かされたりとか…」
「ううん。そういうのは全く。でも相手の人が急に一方的に焦凍さんを怒鳴りつけてきて、その後焦凍さんは殴られて…」
「マジかよ…」
「焦凍さんは、それを受け入れるのは当然だって言ってた。自分の存在がお兄さんを敵にした理由の一つだから、自分がその恨みを受けるのは当たり前なんだって」

彼に言ったことはないけれど、あの時のことを、たまに夢に見る時がある。あの日初めて目の当たりにした、冷たく深い憎悪を纏う瞳は、悪い意味で忘れられないものだった。

「確かに、あれが彼の日常なんだとしたら、ちょっと怖いかもしれない」
「まぁ…そりゃそうだよな…」
「下手をすればなまえが怪我してたかもしれないものね」
「そうじゃないの」
「え」
「違うの?」

確かにあの目は、今でもはっきり覚えているし、そしてやっぱり怖かった。でもそれ以上に、私がとても怖かったのは。

「焦凍さんが、自分は傷つけられても仕方ないって思って生きることが、怖いの」

そう思い続けながら、彼が生きていくことが怖い。確証はない。でも確信に少し似た不安があった。彼がそれを当たり前だと思い続ければ、いつか取り返しのつかないことになるのではないかという、そんな不安があったのだ。

「……ガチやん!!」
「へ?」

突如大きな声をあげた弟に、意図せず間抜けな声を出す。

「えっと…ガチって、何が?」
「いや、ガチでショートに惚れてんだなぁって…」
「何当たり前のこと言ってるの?好きじゃなければ一緒にいないよ」

私のその言葉を聞いた樹は、ゆっくりとおもむろに口を押さえて、なぜか瞳を潤ませていた。

「な、なんなのその目は…」
「菓子作ることにしか興味なさそうだった姉ちゃんが普通に恋愛してるから…なんか俺、感慨深くてさ…」
「そうねぇ。少し前までお嫁に行くビジョンなんて、全然描けなかったのに、恋は人を変えるって本当なのねぇ」

何度も深く頷きながら、母がさらなる追撃を寄越す。文字に起こせばしみじみと語っているような言葉たちだが、その表情は笑いを全く隠せておらず、にやにやと掛け合いをする二人に、顔が一気に熱くなった。

「…っ、トイレ行ってくる!」

その場にいるのに耐え切れず、私はそう言い立ち上がり、弟の部屋を後にした。これは戦略的撤退だ。これこそまさに、健全な精神で生きるための、戦略的な逃げなのである。







弟の部屋に近い2階ではなく、1階のトイレを使ったのは、もちろん理由があった。任せておけと言われたものの、それを気にするなというのは、なかなかどうして難しくて。そーっと音を立てないように、先ほど後にしたその部屋のドアに近づき、ほんの少しだけそれを開けた。僅かに出来た隙間からは、背を向けている父の表情は見えないが、奥に座った焦凍さんの顔だけは、かろうじて見ることが出来た。


「父と兄の件…というかウチの事情については、その時初めて知ったみたいでした」

彼はやや俯きがちに、そして静かにそう呟く。焦凍さんが言う「その時」がいつのことを示しているのは、すぐに分かった。

「もしかして、とは思っていたんです。ただそれを知っているかどうかを、あえて確認することはしなかったので。……すみません」
「なぜ謝るんですか?」
「俺と関わらなければ、たぶんずっとそういうものを知らないままでいれたと思います。彼女は」

遠目ではあるが、そう口にした彼の目が、かすかに揺れたような気がした。まるでそうしたことを悔いているようなその眼差しに、心がちくりと痛んだ。


「あの子は」

それを聞いて何を思ったかは定かではないが、少しの間を置いてから、父がぽつりとそう口にする。

「昔から良くも悪くも素直でしてね。人に何かを言われると、すぐに考えが揺らいでしまう。そんな子でした」

続けられたその言葉に、焦凍さんは顔を上げ、父の方を真っ直ぐに見た。

「高校卒業後の進路を決める時も、始めは大学に行かずに、祖父母の働いている家で働きたいと言っていたんです。でも知っての通り職人の世界は、努力だけではどうにもならないこともある」
「そうですね」
「家内はもうすぐ18だし好きにさせたら、なんて言っていましたがね、私はそうは考えてやれなかった。だから娘には大学に行くように言い、娘はそれに従う形で大学に行きました。意思がない、とまではいきませんが、そういう弱さがあの子にはあった」

あまり多くを語らない父が、私に対して何を思っているかを、初めてきちんと聞いた気がする。父が語るそれらはとても的を得ていて、誰かの言葉にすぐ迷ってしまう私は、確かに意思が弱かった。しかしそんな父のその言葉を聞いた彼は、なぜか小さく首を傾げて、不思議そうな顔をした。

「そうですか?」
「え…?」
「あ、いえ。俺の印象とは少し違ったので」

戸惑いながら聞き返した父に対して、焦凍さんは臆すことなく、自身の考えを口にしてみせた。

「轟さんから見たあの子は、どんな人間に見えているんでしょうか」
「確かに素直だとは思います。でも本当に嫌だと思ったことはちゃんと口に出して言ってくれますし、譲らないところは譲らないですよ、なまえは。自分の中でこれだけは譲れないっていうものは、たぶんちゃんと持ってると思います」

あくまで俺の見解ですがと、最後に一つ付け足しながらも、彼ははっきりとそう述べ、私は目頭が熱くなった。強く優しいその言葉は、今までも今も、いつも私を救ってくれる。焦凍さん本人はきっと、そんなつもりはないのだろうけれど。

「 ─── なるほど」

父は長く息を一つ吐くと、一つひとつ置いていくように、静かにそう呟いた。

「純粋に疑問に思うことがあるんですがね」
「なんでしょうか」
「どうして、あの子だったのでしょうか」
「え…」

それまで少しも動揺することなく答えていた彼が、初めて言葉を詰まらせた。

「あの、"どうして"というのは」
「客観的に見て、あの子はどこにでもいる普通の大学生だと思いますし、それに下世話な話、轟さんなら他にもっといい条件のお話が、たくさんあるだろうなと思いまして」

似たようなことを、私も疑問に思ったことがある。美人でも美少女でもない、成績優秀でもない、立派な家に生まれたわけでもない、ごく普通の大学生。それが私だ。それなのに。

焦凍さんは、どうして私を好きになってくれたんだろう。

思い返せばその話を、彼から聞いたことはない。初めて想いが通じた日、焦凍さんは"初めて会った時から惹かれていた"と言ってくれたが、そこに至る理由を聞いたことはなかったのだ。
聞いてみたい。でもほんの少しだけ聞くのが怖い。時折ぼんやりと頭に浮かんでいたその疑問が、思わぬ形で明らかにされようとしているこの状況に、自然と手には力が籠った。




「俺が自分の家の話をした時、なまえは泣いてました」

期待と不安が入り交じる私の心情を余所に、彼は少しだけ間を置いてから、再び顔を俯かせる。

「その瞬間は単純に、ショックだったんだろうなと思いました。普通の家庭で育っていれば、その反応は健全ですから」
「その言い方だと、本当の理由はそこではなかったと、そういうことですか?」
「父のことはともかく、兄が敵になった理由の一つには、間違いなく俺の存在があります。だからさっきお話したような、俺に恨みを向けてくる人が現れることに、俺自身は違和感がなかったんです。当然のことだとすら、思ってました」

でも、と短く声をあげ、焦凍さんはさらに続けた。

「彼女は『そんなの当然じゃない』と、泣きながら俺にそう言いました。どんな理由があっても、俺が傷つけられることを"当たり前"だと思って受け入れていることが嫌だ、悲しいって」

懐かしむように、慈しむように、とても柔らかな笑みを浮かべて、彼は一度閉ざしたその唇を、そっと静かに開く。


「 ─── とても好きだと、思いました」


顔が、胸の奥が、身体中が熱い。今まで聞かされていなかったその事実は甘く、そしてあまりにも愛しいもので。

"あなたが好き。"

それを何度思っても、何度口にしても、きっと半分も伝わらない。彼の想いや意識に触れる度に、何度も何度でも恋に落ちて、あの人を好きだと思う気持ちは、どんどん心に溜まっていくから。

「俺がヒーローだと知っても、家のことを知っても、彼女は俺をヒーローや轟家の一人としてではなくて、俺を俺として見てくれる。だからなまえが俺を選んでくれるなら、この先もずっと一緒にいたいって、そう思ったんです」
「ではその時から、娘のことを?」
「いえ。単にそれはきっかけだっただけです。そうじゃないと、それ以前の自分の言動に辻褄が合わないので」
「辻褄?」
「思えば最初からなまえに対しては、他の人と全然違っていました。出会い方が少し特殊だったことはそうですが、自分からもう一度会いに行こうと思ったのは、初めてで」

お恥ずかしい話ですがと、彼はそう前置きをして、遠慮がちに笑ってみせた。

「無理矢理休暇を取って会いに行ったり、こじつけの理由でプレゼントを渡したりデートに誘ったり、細かいところをあげていけばキリがないほど、好きじゃなかったら説明のつかない言動が多すぎるんです」
「それで辻褄、ですか」
「いい歳して何言ってんだって、同期の一人には鼻で笑われましたし、自分でもそう思いますが、どうも俺は…そういうものには疎いみたいで」

困ったように眉を下げ、呆れたようにそう言う彼に、飽きもせずにときめいてしまう。そして続く次の言葉が、溢れだしそうなこの恋心に、見事なトドメを刺していくのだ。

「特別だったんです。始めから。自分で気づいていなかっただけで、たぶん最初から好きでした」

照れくさそうに笑う焦凍さんを盗み見てから、顔を両手で覆い隠し、フローリングにへたり込む。穴があったら入りたい。けれどそれは、本来の言葉の意味とは違っていて。

もうダメ。焦凍さんが好きすぎて死ぬ。
本気で心臓がダメになりそう。




「で。さすがにそろそろ恥ずかしいんだが、いつまでそこで盗み聞きしてるつもりだ、なまえ」
「え!?」

急に背後から聞こえた声に、びくっと大きく身体が弾んだ。恐る恐る後ろを振り向くと、怒っているわけではなさそうだが、なんとも微妙な表情を浮かべた焦凍さんが、溜息をつきながらそこにいた。

「……ば、バレていましたか…」
「いや、さすがにこれで気づけなかったら、ヒーロー失格だろ。というか、なんでそんな小さくなってんだお前は」

ほら、と差し伸べられたその手を情けなく掴むと、彼は私の手を引いて、軽々と私を立ち上がらせた。焦凍さんの涼し気な目と、改めてぱちりと視線が重なり合うと、頭の中に先ほどのの甘い言葉たちがこだまして、咄嗟に顔を逸らしてしまう。

「どうした?」
「い、いえ…あの、ごめんなさい…その、やっぱり少し…気になってしまいまして…」
「いいよ。まぁ気にするなって方が無理だよな」

ふっと軽く笑うと、焦凍さんは私の頭をぽん、と叩いた。頭上から聞こえるその声は、いつも通り落ち着いていて優しくて、そんな普段通りの彼に、ほんのちょっぴり悔しくなる。いつも必死だと言う割に、やっぱりこの人の方が、何枚も上手なような気がする。

というか、私に気づいてたのにあんなことさらっと言えちゃうあたり、やっぱりすごいなこの人…。


「なまえ」

ぼんやりとそんなことを考えていると、その場に腰を落としたまま、不意に父が私を呼んだ。低く静かなその声に、じわりと額に汗が滲む。

「えっと、その…大事な話を盗み聞きして、ごめんなさい…」
「それは別にいい」
「え…?」

その言葉に戸惑う私を余所に、父は重い腰を上げ、ゆっくりとこちらを振り向いた。そして彼の顔をちらりと見た後、両目の瞼を数秒閉じてから、今度は私へと視線を向けた。

「彼と一緒にいたいのか。お前は」

その質問の答えなら、間違う不安なんてない。迷うこともない。だってそんなもの、出会った頃から決まっている。

「うん」

はっきりとそう答えると、父は再び目を伏せてから、そうかと静かに返事をした。

「知っての通り世間知らずで、あまり賢いとは言えませんが」
「ちょっ」
「はい。知ってます。問題ありません」
「焦凍さんまで…!」

私の声など聞こえていないかのように、彼ら二人は互いを見据える。一歩前に足を進めた父は、その時初めて彼を名前を呼んで、昔より少し白くなったその頭を、深く下げてみせるのだった。

「どうぞ今後とも、娘を宜しくお願いします」

その言葉を聞いた焦凍さんは、ほんの少しだけ目を見開いた。何が父をそうさせたのか、彼自身にも分からなかったのだろう。しかし彼はほどなくして、真っ直ぐに父の方へと向き直すと、薄いその唇を開き「はい」と一つ返事をした。







「なんとか、終わった」

駐車場に停めた彼の車に乗り込むと、焦凍さんはジャケットを脱いでネクタイを緩め、深く息を吐いた。

「すみません、疲れましたよね…大丈夫ですか…?」
「大丈夫だ。言おうと思ってたことの半分くらいしか言えなかったが…とりあえず、交際自体は認めてもらえて良かったな」
「は、はい…」
「いまいち何が刺さったのかよく分からねぇが…まぁいいか。考えても仕方ねぇし…お前のお父さん、すげぇポーカーフェイスだな」
「そうですね…昔からあんまり感情の変化が読めない人ではありますね」
「娘はこんなに素直で、分かりやすいのにな」

再びぽん、と私の頭に手を乗せて、彼は愛おしそうに言う。こうして一緒に過ごすのもだいぶ慣れたと思っていたのに、今日の一件でまるで出会った頃のように、胸の鼓動がうるさい。

ダメだ。今日はもう焦凍さんの顔は見れない…!

そんなことを考えていると、突如頭に置かれていたその手が後頭部に回され、ぐっと力が込められる。彼の方へと引き寄せられて、その端正な顔が目の前に現れたことで、私の心拍はさらに加速した。

「な、なんですか急に…っ」
「それはこっちのセリフだ。さっきから全然目ぇ合わせてくれねぇじゃねぇか」
「そ、そんなことないですよ」
「なら俺の目を見て、もう一回同じこと言ってみろ」

ゆっくり彼の方を見ると、やや不満げなその顔にすら、異常なほどにドキドキする。そもそもこんなかっこいい人が、こんなかっこいい格好をして、あんなかっこいいことを言えば、そりゃあかっこいいに決まっているわけで。

無理むりムリ。絶対心臓止まっちゃうもん。

彼とそれ以上目を合わすことが出来ず、ふい、と顔を横に逸らすと、焦凍さんは非常に不機嫌そうな声で、おい、と低く呟いた。

「なまえ」
「だ、だってあんなの…っ、反則だもん…っ!」
「は?」

思わず声を荒らげた私に、彼は不思議そうな声をあげた。

「反則って、なんの話だ」
「す、好きだと思った時の話とか…あんなエピソード聞いてないです…あんな隠し球があるなんて聞いてません…」
「言ってなかったか?」
「言ってません…っ!親の前でさらっとあんなこと言えちゃうのも反則です…かっこよすぎます…もうなんか、色々ダメです…」

そろそろいい加減にして欲しいと、そんなことを思ってしまいそうだ。この人は、一体どれだけ私を好きにさせれば気が済むのだろうかと。

「というわけなので、離してください…」
「嫌だ」
「い、嫌って…」
「絶対に嫌だ」

ぴしゃりとそう言い放つと、焦凍さんはさらに顔を近づけて、やや乱暴に私の唇を奪った。間髪入れずに舌を捩じ込まれ、深く刻みつけられるようなその口付けに、頭がくらくらしてくる。ようやく私を解放すると、彼は鼻が触れ合うほどの近い距離で、じっと私の顔を見つめた。

「やっと俺のことちゃんと見たな」
「も…しょうとさんのばか…」
「どっちが馬鹿だ」

そう言うと、焦凍さんは2本の指の腹で、私の唇をそっと撫でる。

「そういうことを口にするのは逆効果だって、お前もそろそろ学習しような」
「……なんの話ですか?」

言葉の真意が分からずに、素直にそれを尋ねてみれば、彼は吹き出すように笑って、そういうところも好きだよと、嬉しそうにそう呟いた。


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2022.08.15

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