スタートライン


「焦凍さん焦凍さん、次あれ!あれ行きましょう!」

空高くそびえるそれを指差すと、焦凍さんはふっと軽く笑って、私にゆっくりと近づいた。

「分かった分かった。そんなに急がなくても、平日で空いてるし、たくさん時間あるから。明日も休み取ってるし」

ほんの少しだけ呆れたように言う彼に、思わず顔に熱が溜まる。念願叶っての遊園地デートに、つい我を忘れて浮かれてしまっていた。

「す、すみません…その、嬉しくて…はしゃいでしまいした…」
「なまえが楽しそうで、何よりだけどな」
「あの、今さらなんですけど…本当に2日もお休みを取って大丈夫なんですか…?」
「皆優秀だからな。俺がいてもいなくても、そんなに変わりゃしねぇよ」
「そんなことないです!焦凍さんはすごいヒ…んむっ」
「そんな大声で言ったら、さすがにバレる」

すかさず私の口を手で覆うと、珍しく少しだけ焦った声色で、彼は耳元でそう囁いた。
先日の報道から約ひと月。念には念をということで、今日は彼の知り合いのメイクさんに頼み、その特徴的な髪と火傷の傷を、黒髪のウィッグと特殊メイクで隠してもらっていた。もともとは目もカラコンを入れる予定だったらしいのだが、何度やっても上手く入らなかったため、そこは断念することになったという。

「す、すみません…つい…」
「いや、こっちこそ悪ぃ。そういうことを気にしないで出かけられれば楽なんだが…ごめんな」
「ぜ、全然です!一緒に来れるだけで、とっても嬉しいです…!」

私が食い気味にそう口にすれば、彼は顔を綻ばせながら、そうか、と一つ呟いた。

「話を戻すが、休みの件は大丈夫だから心配すんな。それにせっかく来たんだから、俺の仕事のことは一旦忘れろ。さっきも言ったが、俺のいない穴はちゃんと埋めてくれる人がいるから」
「でも、後でサイドキックの人に怒られたりとか…」
「そういう記憶力はいいな。お前」

はは、と軽く笑いながら、焦凍さんはそんなことを言う。今のはたぶん、ちょっぴり馬鹿にされている気がするが、そこはあえて触れないでおこう。


「ところでなまえ、お前こういうの好きなのか?」

私が「行きたい」と言ったそのアトラクションを見上げながら、焦凍さんはそう尋ねた。

「はい!…焦凍さんは、あんまり好きじゃないですか…?こういうの…」
「いや、俺は特に好き嫌いはねぇが、なまえがこういうの好きなのは、なんか意外だった」
「意外ですか?」
「どっちかというと、あぁいうのに乗ってそうなイメージだ」

彼の視線の先に自然と顔を向けると、可愛らしいティーカップ型のゴンドラ達が、中央の大きなティーポットを囲むようにして、ぐるぐると回転しながら動いていた。

「コーヒーカップも好きですよ!ぐるぐるめいっぱい回すのが楽しいです!」
「そういう乗り物だったか?あれ…」
「カップから放り出されそうなスリルが楽しいです」
「……三半規管が強いんだな」
「さんはん…?なんですか?」
「お前が健康で良かったって話だ」

そっと私の頭に手を置き、焦凍さんはいつものように、私の頭を軽く叩く。優しくて大きなその手が好きで、自然と気持ちがぽかぽかして、頬がだらしなく緩んでしまう。

「焦凍さんは、高い所とか全然平気なんですか?」
「まぁ、ビルから飛び降りたりとかもするからな」
「そ、そんなことするんですか…!?」
「急いで現場に向かう時とかはな。普通の道を移動するより、早かったりするから」
「へー…あ!あれはやりますか?ヘリから落ちるやつ!」
「一応やったことはある」
「すごいですね…!映画みたい…!」
「言っとくが、普段はちゃんと徒歩で移動してるからな。急ぎの時だけだぞ」
「あ、そうなんですか…?てっきりお仕事中は、氷結で移動してるのかと…」
「氷結は足場にも使えるし便利だが、通常時に一般道であれをやると、逆に迷惑になっちまうから」
「焦凍さんなら、反対の火で溶かしながら進んだりとか出来そうですが…」
「出来なくはないが、両方同時に使うのは結構神経使うし、疲れるからな。とっさの移動ではなかなか難しい」
「そうなんですね」
「あぁ。まぁそれでも前よりは…ってダメだな。仕事のことは忘れろって言ったのに、俺が話してる」

申し訳なさそうに、悪ぃと小さく呟きながら、彼は軽く頭を下げる。こういう律儀で真面目なところを彼らしいなと、そんなふうに思えることが、なんだか嬉しかった。

「ふふ、別に無理しなくていいですよ。焦凍さんの話を聞くのは楽しいから好きです」
「そうか?仕事の話なんか、つまんねぇだろ」
「そんなことないですよ。焦凍さんと一緒ならなんでも楽しいし、幸せです」

そう私が口にすると、彼は少し目を見開いて、その綺麗な瞼を伏せた。ゆっくりとそれを開いてみせると、焦凍さんはそっと私に近づいて、頬に軽く唇を寄せた。

「しょ…っ」
「俺も幸せだよ。お前と一緒にいると」

きゅっと指を絡ませて、彼は笑ってそう呟く。私を優しく見下ろすその視線にドキドキして、繋いだ手とは反対の手で、勢いよく顔を隠した。

「どうした?」
「もう何度も言ってますが、焦凍さんが好きすぎて辛いです…」
「ん。知ってる。俺も、好きだよ」

嬉しそうなその声色に、さらに鼓動が加速する。姿が見えなくともその存在だけで私をドキドキさせてしまう彼は、なんとも愛しく怖い人だ。恐る恐るその手を外し、彼の方をちらりと見ると、焦凍さんは握った手にほんの少し力を込めて、一歩前へと歩きだした。

「今日は楽しもうな。たくさん」
「はい!乗り物全部乗りましょうね!」
「いや…さすがにそれはキツくねぇか…?」

戸惑いを見せた焦凍さんに、最初から諦めちゃダメですよと、半分冗談でそう言うと、彼は再び声をあげて笑い、確かにそれもそうだなと、歩くペースを少しだけ速めた。







乗り物酔いとは「動揺病」とも呼ばれ、不規則な加速・減速の反復が受ける三半規管や耳石器からの情報と、目からの情報、体からの情報を受けた脳が混乱することによって起こる自律神経系の病的反応で、めまいや吐き気・嘔吐などの症状が表れることをさす。


「焦凍さん、大丈夫ですか…?」

向かいのベンチに腰を落とし、静かにそう声をかけると、彼は目頭を片手で押さえたまま、もう片方の手を軽く上げた。

「大丈夫だ。少しすれば落ち着く」

気怠そうなその声に、罪悪感に苛まれる。そして少しも異変のない自分の頑丈すぎる身体に、私は少しだけ自分が怖くなった。

「すみません…本当に…ごめんなさい…」
「そんな顔するなよ。ちょっと酔っただけだから」
「でも、私があんなに回したせいで…」
「………ふっ、はは…」

しばらく口を閉ざしていた彼が、突如声を上げて笑い出す。今日はたくさん笑ってくれるなぁと嬉しく思いつつも、もしや私のせいでどこかおかしくなってしまったのではと、若干の不安が脳裏をよぎった。

「しょ、焦凍さん…?」
「コーヒーカップって、あんなに回るんだな…知らなかった」
「あ、あははは…」
「楽しかったか?」
「え…」
「お前は、楽しかったか?」

私の方に顔を向けて、焦凍さんは静かに尋ねる。怒ったっていいはずなのに、少しもそんな顔をせず、穏やかにそう口にする彼に、不謹慎にも胸がときめく。その声色はとても甘くて、まるで砂糖のようだ。

「はい…楽しかったです」
「ならいい。俺は全然平気だから、そんないたたまれなくなる顔をするな」
「でも…」

それでも申し訳なさそうにする私に、彼はじゃあ、と前置きをして、何かを考えるように天を仰いだ。そして妙案を思いついたのか、少しだけ口角を上げてみせると、私の顔をじっと見つめる。

「一つ頼まれてくれるか」
「は、はい…っ!何をすればいいですか?」
「ここ座ってくれ」

焦凍さんはそう言うと、自身が座っていたベンチの隣の空いているスペースを、軽く何度か叩いてみせた。言われるままに立ち上がり、彼の隣に改めて腰を下ろすと、彼はもう少しそっちに座れと、なぜか少し距離を取るよう私に言った。

「これでいいですか?」
「あぁ」

彼は短く返事すると、肩にかけていた鞄を下ろし、身体をゆっくり横に倒す。ナチュラル過ぎて数秒間は普通にそれを受け入れてしまったが、座る私の腿の上には、彼の頭があるわけで。

「ちょ…っ、何をしてるんですか…っ!」
「何って、膝枕」

それが何か問題でも、と言いたげな目で彼は私を見上げて言った。まだ少し血色の悪い顔をしているものの、その口元は少し嬉しそうだ。

甘えてくれるのは嬉しい。嬉しいけども…!

嬉しさよりも、圧倒的に恥ずかしさが勝る。家でならまだしもこんな場所で、しかもこんな昼間に、まるで見せつけるかのようにイチャつくこの感じが、とてつもなく恥ずかしい。

「め、目立ってバレちゃいますよ…?」
「平気だろ」
「いや、なんでそんな断言できるんですか…」
「周りよく見てみろよ」

焦凍さんにそう言われ、ふと周りを見渡した瞬間、私はそれを少し後悔した。いつの間にか周りのベンチはカップルだらけになっていて、普通に抱き合っていたり、さらにはキスまでしている男女もいた。私たちのこの現状がむしろ可愛いものに見えてくるレベルの周辺環境に、自然と頬が熱くなった。

「な。一組イチャつくカップルが増えたところで、誰もなんとも思わねぇよ」
「そ、そういうものでしょうか…」
「現にお前だって、周りのことなんか見てなかったろ」

その指摘に、反論の言葉を詰まらせる。確かに焦凍さんの言う通り、ここに来てからもう色んなところを見て回ったが、正直彼以外の人の記憶はない。どのアトラクションで何を話したとか、どんな顔をしてくれたかとか、焦凍さんに関することなら全部鮮明に思い出せるのに、それ以外の周囲のことは、これっぽっちも覚えていない。

ん?でも待って。ということは…?

「じゃあ焦凍さんは逆に、私以外の人も見てたってことですか?」
「え」

浮かび上がった素朴な疑問を口にすると、それは想定外だったのか、彼は小さく声をあげた。

「いや、それはだな…」

先ほどの会話で既に自分が周囲を見ていたことを明らかにしているため、それを否定することも出来ず、焦凍さんは困ったような顔を浮かべる。そしてそんな彼を見た私は、ここぞとばかりにそれを利用し、反撃に出ようと目論むのだった。

「私は焦凍さんのことしか見てないのに、焦凍さんはそうじゃないんですね。なんかちょっとショックです」
「そういうわけじゃねぇって。俺のはただの職業病で、自然とそうなってるだけだから」
「仕事のことは、忘れるって言ってたのに…」
「いや、確かにそうは言ったが…その…」

さらに焦った様子の彼に、ついに私は堪えきれず、ぷ、と声を漏らしてしまった。咄嗟に口を押えたものの、もちろん時既に遅しであり、焦凍さんはやや不機嫌そうに、じとりと私を見上げるのだった。

「……お前、からかったな」

不満げにそう呟く彼に、今度は一切躊躇うことなく、声を上げて笑い出す。すると焦凍さんは眉間に皺を寄せながら、窘めるように私の名前を呼んだ。

「笑うなよ」
「す、すみません…ふっ」
「おい」
「だって冗談だったのに…焦凍さん、本気にしちゃうんですもん」
「あのなぁ…俺はお前に嫌な思いをさせたんじゃねぇかって、結構冷や冷やしたんだぞ」
「ごめんなさい。でもレアな焦凍さんを見れて新鮮でした。それになんだか、可愛かったですし」
「可愛くねぇ」
「えー、可愛いのに…」
「お前の方が可愛いだろ」

さらりとそんなことを言いながら、彼はそっと手を伸ばして、今日は特別な日だからと、早起きして軽く巻いてきた私の髪に、その長い指を絡ませた。

「今日も髪とか服とか、色々考えてくれたんだろ?」

くるくると指先で髪を弄りながら、焦凍さんは先ほどとから打って変わって、嬉しそうにそう尋ねた。

「それはまぁ…で、デートなので…」
「植物園の時のも似合ってたけど、今日のも似合ってる」
「ほ、ほんとですか…?」
「あぁ。よく似合ってるし、すげぇ可愛い」
「あ…ありがとう、ございます…」
「後で脱がしちまうのが惜しいな」
「な…っ!?」

あっけらかんととんでもないことを口にする彼に、肩がびくっと大きく揺れ、思わず私が大声を出すと、焦凍さんも少し驚いたのか、お、と小さく声をあげた。

「何を言ってるんですかこんなところで…っ」
「だってそうなるだろ。どうせ」

遊園地で遊んだ後は、いつものように彼の家に泊まることになっており、普段の流れを考えれば、そうなる可能性は高い。確かにあの部屋に泊まりに行って、"そういうこと"をしない日なんて、ほとんど存在していない。いないけれども。

「……焦凍さんのえっち。へんたい」
「大概の男は皆そうだ」
「ひ、開き直った…!この人開き直った…!」
「いや、前からそこについては否定してねぇだろ。実際なまえに対してはそうだと思うし」

堂々とそんなことを口にする焦凍さんに、じわじわと顔が熱くなる。じっと私を見る彼の目に、嫌でもその場面を頭に思い浮かべてしまい、悪いことをしているわけでもないのに後ろめたい気持ちが募って、思わず顔を両手で隠した。

「はは、ほらな。やっぱりお前の圧勝じゃねぇか」
「何がですか…」
「お前の方が、俺なんかよりずっと可愛いよ」

見えなくても分かる。彼が今どんな顔で、私を見ているか。その低く甘い声が耳を掠めるだけで、私を普通でいられなくさせるには、十分過ぎる力があって。

「なぁなまえ」
「なんでしょうか…今ちょっとそれどころじゃないんですが…」
「少し腹が減ったんだが、なんか食ってもいいか」

唐突なその言葉に、思わずぱっと顔を上げる。近くにあった園内の時計を見れば、間もなくその針がちょうど一番上で重なろうとしている頃だった。

「あ、そうですね…そろそろいい時間ですし、何か食べましょうか。何がいいですか?」
「……あれ食いてぇ」

一度身体をその場で起こし、顔をゆっくりと動かすと、彼はとある場所を目で捉えた。少し遠くの方に見えるピンク色の可愛らしい屋根が特徴的なその建物の方からは、微かに甘い香りが漂ってくる。

「クレープ…ですか?」
「ん」
「私は全然いいですけど、焦凍さんの食べる量だと、たぶんそんなにお腹いっぱいにはならないですよ?」
「後でまた別の食うからいい」
「焦凍さん、クレープそんなに好きでしたっけ?」
「いや、そういうわけじゃねぇ」
「え…じゃあなんで…」
「ここの遊園地な、付き合ってる同士でクレープ食わねぇと、その後別れるってジンクスがあるらしいぞ」
「そうなんですか…!?」
「あぁ。ネットに書いてあった」
「た、大変です…!なら早く食べないと…っ」
「嘘だけどな」
「え」

思わず間抜けな声を上げると、焦凍さんは吹き出すように笑い出し、私の頭を軽く撫でた。

「う、嘘なんですか…?」
「お前、そんなに素直で大丈夫か?ちょっと本気で心配になってくるぞ」

笑いながらそう口にする彼に、なんだか少し腹が立つ。普段冗談なんて言わない焦凍さんから、真面目な顔でそんなことを言われたら、普通に信じてしまうに決まっているのに。依然として私の頭を撫でながら、くつくつと笑っている彼の手を払い除けると、今度は焦凍さんが小さく声をあげ、私の顔をまじまじと見た。

「……焦凍さんなんか、もう知らない…っ」

すくっとその場に立ち上がり、くるりと背を向け歩き出すと、彼は珍しく焦った声で私を呼び、後ろから慌てて追いかけてくる。ごめん、悪かったと何度も口しながら、必死に私を追いかけてきてくれることに、ちょっとだけ嬉しいなんて思ってしまったことは、絶対彼には言うまいと思った。







「なまえ、そろそろ機嫌治してくれよ」

小麦粉の香ばしくも甘い香りが漂うベンチに座り、隣でそう言う彼の顔を、私は横目でじとりと見た。

「別れるジンクスなんてひどいです。悪質です。私本気で心配したのに…」
「悪かったって。詫びにクレープ好きなだけ買ってやるから」
「そんなに要りません。2個で十分です」
「2個は食うのか」
「何か言いましたか」
「……何も」

相変わらず臍を曲げる私に、彼はぽつりとそう呟くと、軽く一つ息を落として、ほんの僅かに口角を上げた。

「何笑ってるんですか」
「いや…あんなに焦ってくれると思わなかったから」
「またそうやって馬鹿にして…!」
「馬鹿にしてるわけじゃねぇ。可愛いなって思っただけだ」
「……焦凍さん、とりあえず"可愛い"って言っとけばいいと思ってるでしょ」
「心外だな。全部本心で言ってんのに」

優しくてかっこよくて、そしてちょっぴりずるい人。さらっとそんなことを口に出来てしまうその余裕に、ほんの少し苛立ちはある。けれど愛おしそうにそんなことを言われてしまえば、私は何も言えなくなって、些細な冗談で臍を曲げ続けていることに、既に後悔すらし始めていた。

「とりあえず買ってくるけど、なまえは何がいいんだ?」
「……いちごカスタードがいいです」
「1個でいいのか?」
「…………キャラメルバナナも」
「ん。じゃあその2つ買ってくるから、それ一緒に食おうな」

私がこくりと頷くと、焦凍さんはその場に立ち上がり、一歩足を踏み出した後、思い出したように振り返った。

「そこでちゃんと待ってろよ。一人でどっか行ったらダメだからな」
「わ、分かってますよ…っ」
「それならいい。じゃあ行ってくる」

少しずつ遠ざかるその背中に、思わず視線が釘付けになる。傍から見れば誰か分からないその後ろ姿でさえ、夢中になって見つめてしまう私は、自覚はあるがやはり重症だ。

「かっこいいなぁ…」

自分の声が耳を掠めたその瞬間、それを口にしていたことを初めて知る。慌てて口を手で押さえ、別に本人に聞かれたわけでもないのに、なんだか無性に恥ずかしくなった。

あぁもう、困っちゃうな。

少し前まで、自分がこんなふうになってしまうなんて、想像すらしていなかった。学校に行って、ちーちゃんたちと授業を受けて、それが終われば家に帰って店の手伝いをして、夜はケーキ作りの練習をする。ここ数年は、ずっとその繰り返しだった。他の人からすれば一見退屈そうな日常だが、不満も不安もないその日々は、私にとっては居心地が良かった。そしてきっとこれからも、穏やかで平凡な日常が、ずっと続くと思っていた。

だけど ───




「ねぇ、さっきあの子といた男の人、ショートに似てなかった?」

少し後ろから聞こえた知らない女性の声に、身体がぴくりと震えそうになるのを、なんとか必死にこらえた。それを話す人物の表情などは見えないが、もしも彼女が私の方を見ていたら、こちらの余計な仕草や言動は、彼の首を絞めることになるからだ。

「そう?髪の色も全然違ったし、火傷跡もなかったじゃん。別人だろ」

女性の友人か恋人か、関係性は定かではないが、今度は少し掠れた男性の声が聞こえてくる。他の声が聞こえてこないことから察するに、どうやらここには二人で来ているらしかった。

「変装してるのかもしれないじゃん!最近熱愛報道出たばっかだし!」
「そりゃ普段から変装とかはするかもしんないけどさ、さすがにこんなとこにはいないっしよ」
「ヒーローだって人間だよ?彼女と遊びに行くくらいするでしょ〜普通に!」
「報道出てまだひと月とかだろ?そんな面倒な時期に、こんなとこ女連れで来ないだろ」
「そう言われると確かにまぁ…それもそっか」

男性の言葉に納得したらしい女性の反応に、私はそっと胸をなで下ろした。さすがにこのシチュエーションで正体がバレてしまったら、どうやっても彼と私の関係は誤魔化せないし、そうなればせっかく私の素性を明かさないように頑張ってくれた焦凍さんの努力が、水の泡になってしまう。

良かった。この感じなら大丈夫そう。


「どうかしたか?なまえ」

頭上から聞こえた低い声に、今度は素直に身体が跳ねた。もしかしたら気づかれてしまうかもという危機感からか、クレープを買って戻って来た彼の存在に、私は全く気が付かなかった。

「あ…おかえりなさい。早かったですね」
「あぁ。平日はやっぱ空いてていいな。お前先にどっち食べる?」
「じゃあ…いちごの方で」
「ん」

短くそう返事をすると、焦凍さんは両手に持っていたクレープの一つを、そっと私に差し出した。

「ありがとうございます…えと、お金…」
「さっきの詫びだって言ったろ。それにデートで歳下の彼女に金なんか出させてたら、かっこつかねぇから」
「そういうものでしょうか…」
「そうだ。いいから早く食うぞ。腹減った」

私の隣に再び腰を落とし、彼は静かにそう呟いて、出来たてのクレープをひと口頬張った。

「あ…!」

そして私はその瞬間、とある事実を思い出す。

「どうした?」
「甘すぎるの、あんまり好きじゃなかったですよね…すみません、私二つともかなり甘いやつ選んじゃって…」
「あぁ、なんだ。そんなことか」
「すっかり忘れてました…ごめんなさい…」
「いいよ別に。それに普通に美味いから」
「ほんとですか…?無理してないですか…?」
「してねぇよ。大丈夫だから気にすんな」

焦凍さんはそう言うと、少しだけ困ったように笑ってみせた。

「変なところ心配性よな、なまえは」
「だってそういうの、何も言わないで我慢したりとか…しそうだから…」

それに限ったことではなかった。いつも自分じゃない誰かを優先して、他人の気持ちを大事にしてしまう人だから、そんな彼が思うことを一つでも多く知りたいと、今は強くそう思うのだ。
私がそんなことを口にすると、今度は少し照れくさそうに笑いながら、焦凍さんは私の髪をわしゃわしゃとその手で乱してみせる。せっかく頑張って巻いたのにと、一瞬そう言いかけたものの、嬉しそうなその横顔に、言いかけた言葉を飲み込んだ。




「確かに、ちょっとショートに似てるかもな」

掠れたその声に、再び静かな動揺が走った。ちらりと彼の方を見ると、どうやら同じくそれに気づいたらしく、顔は前を向いているものの、その視線は後ろを気にしているようだった。

「でしょー?目もオッドアイだし、一瞬本人かと思っちゃったもん」
「ショート似のイケメンとかいいよな。人生勝ち確じゃん」
「ね。絶対モテるんだろうなぁ」

会話の続きを耳にして、静かにほっと息をつく。どうやら彼らの中で私の隣にいる人物は、"ショートに似ている一般人"という結論で落ち着いたらしい。再び横目で彼を見ると、相変わらず少し感情の機微は分かりづらいが、同じく小さく息を吐いて、ほっとしている様子が伺えた。

「でもさ、その割に彼女の方はなんか普通だよね」

不意に向けられた矛先に、胸がちくりとかすかに痛んだ。

「そう?可愛いと思うけど」
「いやいや、あのレベルのイケメンなら、もっと可愛い子狙えるって」
「まぁ、それはそうかもしんないけどさ」

自分でも意外だったのは、胸は多少痛むものの、思ってたよりも傷つかなかったことだ。いつかは言われる日が来るだろうと、そう思っていたからなのか、それをはっきり言葉にされても、案外私は冷静だった。

まぁそうだよね。そう思うよね。普通に。

これは身の程知らずな恋だと、今でもそう思っている。この人を好きだと思う人はたくさんいて、もしかしたらここにいる人の中にも、恋を張り合う相手はいるかもしれない。
そんなことを思いながら、クレープをぱくりと口にする。口に広がるその味は、たぶん甘ったるいはずなのだが、どういうわけか噛めば噛むほど、少しほろ苦くなるような気がした。思っていたより傷つかなかったというだけで、傷ついていないわけじゃない。

「なまえ、それちょっと貰ってもいいか?」

黙ってそれを食べ続けていると、焦凍さんは同じ味に飽きたのか、そんなことを口にする。どうやら後ろの男女のやり取りの続きは、彼の耳には届かなかったらしい。

「いいですよ。じゃあ交換して…」

そう言いながら彼の方を自然と向けば、なぜかその端正な顔が、私の目と鼻の先にあった。

「へ?」
「こっちがいい」

その声が耳に届くと同時に、突如唇を塞がれた。びくっと思い切り肩を揺らして、反射的に距離を取ろうとすると、焦凍さんは空いている方の手を私の頭の後ろに回して、がっちりと逃がさないようにする。甘ったるい味が互いの口内を行き来する中、時折聞こえる困惑するような声から逃げるように、私は両目をきゅっと閉ざした。

「勝手に言わせとけ。あんなもん」

ようやく離れたその隙間から、彼は吐き捨てるようにそう言った。少し眉間に皺を寄せ、イライラしたようなその表情は、誰がどう見ても怒っているように見える。

「どこの誰かも知らねぇやつの言うことなんか、放っとけ」
「で、でも」
「前にも言っただろ」
「え…?」

なんのことか分からずに、小さくそう声を上げると、焦凍さんは私の額に自分のそれを押し当てて、じゃあもう一回言うからなと、今度は淡々と呟いた。

「"俺だけ見てろ"」

それはいつの日か、彼が口にした独占欲。鮮明に思い出されたその瞬間に、顔がとても熱くなった。射抜くように見つめられながら、はっきりとそう言われてしまえば、色んなことがどうでもよくなってしまう。

「分かったか?」
「は、はい…」
「ん。いい子だ」

ふっと軽く笑うと、焦凍さんは軽やかに体勢を元に戻し、いつの間にか交換していたらしいいちごのクレープを、珍しく豪快に口に入れた。

「早く食って次行くぞ。全部乗るんだろ?」

口元にクリームをつけながら、彼は私に問いかけた。やや挑発的なその顔は、少しだけいつもより幼く見えて、そんな彼をとても、とても好きだと思った。

「ふふ、口にクリームついてますよ」
「え」

短くそう声を上げ、焦凍さんはきょとんとしながら、口元のクリームを指で取る。照れたように笑いながら、かっこ悪ぃなと言う彼に、思わず私も吹き出して、二人で一緒にまた笑った。







視界に広がるその景色は、初めて見たはずなのに、どこか不思議と懐かしかった。気づけば辺りはもう真っ暗で、こうしてゴンドラの中にいても、空気は冷たく少し肌寒い。

「天気がいいから、街の方まで見えますね!」
「そうだな」
「昼間もいい景色でしたけど、やっぱり夜の方が綺麗ですね」
「あぁ」

これで乗り物制覇なんですと、巨大迷路にいたスタッフのお姉さんにそう言うと、もしまだ時間があるならぜひと勧められ、もう一度観覧車に乗ることになった。そこから見える眺めはまるで星空のように綺麗で、あのお姉さんが今が一番いいタイミングですからと、そう言ったのも頷ける。

「にしても、本当に全部乗れるとはな」
「乗れちゃいましたね!」
「前から少し思ってたが、お前結構体力あるよな」
「そうですか?」
「あぁ。今日一日中歩いてたのに、全然平気そうだし。さすがに若いな」
「焦凍さんもさすがと言いますか、普通にいつも通りですね」
「まぁ俺は、体力ねぇとやっていけねぇからな」
「ふふ、そうですね」
「とはいえ、"こっち"は少し疲れたな」

彼はそう言いながら、その特徴的な髪と火傷痕を隠していたものを、鬱陶しそうに取り去った。ウィッグの方は想像通りだったが、火傷痕に重ねられていた特殊メイクの残骸は、なかなかに新鮮な絵面である。

「やっぱ楽だな。そのままの方が」
「外しちゃって大丈夫なんですか…?」
「もう暗いし、帽子だけあればなんとかなる。それに変装したままでってのも、なんかな」
「そうですか?黒髪もかっこよかったですけどね」
「そういう意味じゃねぇ」
「え?」

"そういう意味"とはなんだろうと、短く声をあげ聞き返したものの、焦凍さんはそれ以上何も言わず、代わりに私の名前を呼んだ。

「そっち座っていいか」

私の右隣に視線を向けて、彼はぽつりとそう尋ねる。既に置いてあった自分の荷物をすかさず退かし、なんとなくそこを手で払ってから、私は彼の方を見た。

「ど、どうぞこちらに…」
「はは、飯屋の店員みたいになってるぞ」

私が手に持っていたものと場所を替わるようにして、焦凍さんは元いた場所に私の荷物をそっと置き、静かに私の隣に腰を下ろした。肩が触れ合うかどうかの距離で、彼はこちらに少し頭を傾けて、私の髪に唇を落とす。

「楽しかったか?」
「は、はい…!とっても!」
「2ヶ月も待たせて、悪かったな」
「ふふ、それもう10回は聞きましたよ」

笑いながらその肩にもたれかかると、焦凍さんは私の頭に手を置いて、優しく髪を撫でてくれた。

「そういや、仕事の話にはなっちまうんだが」
「全然いいですよ」
「来年俺も、時々そっちに行くことになるかもしれねぇ」
「そうなんですか…!?」
「国外にいくつか事務所の拠点を創ることになってな。軌道に乗るまで視察がてら俺も各地を回る感じになりそうで、その中にパリもあるから」
「じゃあ、私が夏休みとかじゃなくても…」
「あぁ。もしかしたらあっちで会えるかもしれない。まぁまだ本決まりの話じゃねぇが、ちゃんと決まったら教えるな」
「は、はい…っ」

思わぬ朗報に胸が高鳴る。長期の休み以外にも、留学先で彼に会えるかもしれない。海を越えた夢を追う場所で、大好きな人と一緒の時間を過ごせることを思い描くだけで、顔がついつい緩んでしまう。
そんな妄想を頭の中で繰り広げる私を余所に、焦凍さんはなぜか私の顔をじっと覗き込むと、落とすように笑ってみせた。

「あ、あの…なんでしょうか…?」
「いや、自分からその話をしておいてなんだが…あと半年くらいしたら、なかなか会えなくなるのかと思うと、やっぱり寂しくなるなと思って」

そう言うと、彼はその長い両腕で、そっと私を引き寄せた。ぎゅーっと強く抱き締められると、大好きな人の匂いに包まれて、とても幸せな気持ちになる。

「大好き」

自然と口から言葉を零すと、彼はその腕を少し解いて、私の頬に両手を添えた。ゆっくりと近づくその顔に何をされるか理解して、互いの熱が重なり合うのを、瞼を閉じて静かに待った。
しかし次の瞬間、遠くから笛のような音が耳を掠め、それからほんの僅かな間を置いて、バン、と大きな爆音が鳴る。互いにびくっと肩を揺らして窓の外に目をやると、再び弾けるような音と共に、大輪の火花が空に咲いた。

「花火…!花火ですよ焦凍さん!」
「こんなのやってたのか。知らなかった」
「観覧車に乗っててラッキーでしたね!」
「さっきの女の人が言ってた"いいタイミング"ってのは、たぶんこれのことだな」
「あ、そうですね!絶対そうですよ!」

興奮気味にそう言う私に、焦凍さんは穏やかに、落とすように笑ってみせた。

「私、こんな近くで花火見たの初めてです。近くで見ると迫力ありますね」
「そうだな」

少し季節外れの夏の風物詩が鮮やかに花開いては、あっという間に夜に溶ける。無限に広がる黒いキャンバスにいくつもの色や形が折り重なって、多彩な輝きを放っていた。

「なまえ」

目の前で次々と打ち上がる花火を夢中になって見ていると、彼がぽつりと私を呼んだ。

「なんですか?」
「ちょっと…渡したい物があって」
「私にですか?」
「あぁ」

焦凍さんは短く返事をすると、ポケットから何かを取り出した。じっとそこに目を凝らすと、どうやら小さな箱のようなもので、彼はそれを私にすっと差し出して、それを受け取るように促した。

「お前にやる。開けてみてくれ」

シックな黒い小ぶりな箱に、同じく光沢感のある黒いリボンが纏われている。箱のサイズ的にまさかとは思ったものの、さすがにそれは夢見がち過ぎるとその可能性を否定して、しゅるりとリボンをゆっくり解いた。しかしそれを開けた瞬間、中から現れたいかにもなベルベット素材の黒い箱に、頭の中がパニックになる。

いや待って。一旦落ち着こう。

別に"そういう"意味じゃなく、普通にただのプレゼントだという可能性だってある。自分にそう言い聞かせ、中にある箱をゆっくりと外箱から出して、恐る恐るそれを開けた。そしてさらに混乱する。断続的に打ち上げられる花火の光を受けて、箱の中央できらりと輝くそれは、今まで目にしたどんな花よりも美しく、どんな星よりも輝いているように見えた。

「こ、ここ、こここれって…あ、あああの…っ!」
「いや、さすがに動揺しすぎだろ」

彼はふっ、と吹き出しながら、眉を下げて笑ってみせる。

「まぁ一応、"そういう"意味で渡してるから」

直接それを言われずとも、それだけで十分だった。その箱を抱える私の左手に触れ、その場所をなぞるようにしながら、焦凍さんは私を見た。

「付けていいか?俺が」

こくこくと何度も頷くと、彼は私の手にあった箱を軽く持ち上げ、そこから中身だけを取り出すと、反対の手で私の左手を取り、薬指にそれを嵌めた。鏡のように磨きあげられた銀色の輪の中央に、存在感はありつつも、華美になりすぎない輝きが一つ。

「サイズ大丈夫か?痛くねぇか?」
「は、はい…」

一体いつの間に調べたのか、きらきらと指で輝くそれは、私の薬指のサイズに合わせて、寸分違わず作られていた。こうして自分の手にしっかりとあるにも関わらず、まるで夢を見ているような、そんな不思議な感覚だ。

「こういうのは、お前に選んでもらった方がいいかとも思ったんだが…色々周りに相談して、これにした。気に入らなかったら言ってくれ。別の買うから」
「そ、そんな罰当たりなことしませんよ…っ」
「気を遣わなくていいんだぞ。お前がつけるものなんだし」
「これがいいんです…!」
「いや、本当に気を遣わなくても」
「焦凍さんが選んでくれたやつがいいんです!他のじゃ嫌です!これがいいです!」

私のために、彼が悩んで選んでくれた。ただそれだけで、どんなものよりも価値がある。

「とても、嬉しいです…大事にします…」

自分の左手の薬指に触れ、絞り出すようにそう口にすると、再び彼の長い腕が伸びてきて、その中にまた閉じ込められた。

「俺も、大事にする」

穏やかに、けれどはっきりと、焦凍さんはそう言った。それは私に対してでもあり、自分に向けての言葉でもあるような、そんな雰囲気を感じる。

「お前のこと、一生大事にする。だから留学が終わって、お前がこっちに戻ってきたら ─── 」

文字通り全てを彼に預けて、私はその続きを待った。


「 ─── 俺とずっと、一緒にいてくれ」


胸の奥が熱い。とても嬉しいはずなのに、自然と涙が頬を伝う。今日のことを、私はずっと忘れない。生まれて初めて知った恋が、また一つ動き出したこの瞬間を、絶対忘れることはないと思う。

「はい」

震える声で小さくぽつりとそう返事をすると、焦凍さんはその腕の力を、ほんの少しだけ強めてみせた。いつまでも、死ぬまでずっとこの腕の中にいたい。そんなことを思ってしまいそうなほど、多幸感に満たされていた。しばらく沈黙が続いた後、彼は私の頬に手を添え、覗き込むようにしてこちらを見る。互いに自然と引き寄せられて、そっと唇が重ねられた。永遠にも似た長いキスの後、名残惜しむようにそれが離れる頃には、夜空を彩る花は散りゆき、ただ彼を愛しいと思う気持ちだけが、そこにはあるだけだった。







様々な人が目の前を行き交う。家族や友達と和気あいあいな雰囲気で通り過ぎる人や、私と同じかやや緊張したような面持ちで歩く人、ここにいる人の数だけの旅立ちがあるのかと思うと、そういうものは似合わないなと思いつつも、なんだか感慨深いものがある。
彼と出会って二度目の冬を迎え、肌を刺すような寒さが続く日々を過ごしながら、バレンタイン商戦を終える頃、私は日本を発つことになった。日本ではお馴染みのインスタントやレトルト食品を敷き詰めたキャリーケースを見た焦凍さんが、お前は食品の営業でもしに行くのかと言いながら、珍しく爆笑していたのは記憶に新しい。

「はー…なんか緊張してきた…」

胸を押さえて言う私に、電話の向こうにいる"彼女"は、呆れたようにため息をついた。

『何言ってんのよ。今から緊張なんてしてたら、向こうでやっていけないわよ』
「それはそうなんだけど、やっぱりいざ出発となるとさぁ…それにちーちゃん、見送りに来てくれないし…」
『あら、あたしは気を遣って行かないであげたのよ?』
「どういう意味?」
『あたしがいたらイチャつきづらいでしょ?お隣にいらっしゃる方と』
「な…っ!?」

まるでそこにいるかのように的確に私の現状を口にする彼女は、いつものことながらただ者ではない。

「なんで分かるの…!?エスパーなの!?」
『彼が見送りに来ないなんて、あるわけないもの。となれば必然的に横にいるでしょ』

ちらりと隣に視線を向けると、声を荒げた私に驚いたのか、焦凍さんは目を見開いて、瞼を何度かぱちぱちとさせる。本来であれば彼は今日も普通に仕事なのだが、わざわざ昼休みを前倒しして、空港まで見送りに来てくれた。今朝まで顔を合わせていたし、そこまでしなくていいと言ったのだが、焦凍さんは"絶対に行く"の一点張りで、そういう形に落ち着いたのだ。

『相変わらずラブラブで何よりね。お二人さん』
「ふ、二人じゃないし…!エリオさんもいるし…!」
『あぁ、なるほど。そりゃあなおさら見送りに行かなきゃダメよね。「こいつは俺の女だからちょっかいかけんなよ」って、釘を刺しておかなきゃだもの』
「またそうやって面白がって…!」

再び声を荒げる私を余所に、ちーちゃんは声を上げて笑い、それを隣で聞いていた焦凍さんは、吹き出すように笑ってみせた。

『はいはい、今から無駄な体力使わないの。あんたが頑張らなきゃなのは、こっからよ』

まぁ分かってると思うけど、と彼女はそっとそう呟く。

『あたしがいないからって、宿題とかサボらないように』
「は、はい…っ」
『知らない奴に話しかけられても、ついて行くんじゃないわよ』
「ちーちゃん、なんかお母さんみたい」
『あんたがボケーッとしてるからでしょ!』
「す、すみません気をつけます…」
『時間もうすぐでしょ。そろそろ行きなよ』
「あ、うん…そうだね…」

実の母親よりも母親のようなその物言いに、すっと背筋が伸びる。少し分かりづらいけど、とても暖かく優しいその存在は、きっと今までもこれからも、私の心を支えてくれるのだろう。

『頑張りなさい。まぁたまに愚痴くらいなら、聞いてやってもいいわよ』
「ありがとう。ちーちゃんもなんかあったら、連絡ちょうだいね」
『あんたに心配されるようじゃ、あたしも終わりね』
「別れ際まで辛辣…!」
『はいはい。じゃあまたね、なまえ』

いつものようにそう言うちーちゃんに、またねとひとつ返事をする。それ以上何か口にすれば、泣いてしまうような気がした。そんな私の心情を察してか、彼女は再び呆れたようなため息をつき、「いってらっしゃい」と電話を切った。そしてそれを皮切りに、じわりと涙が溢れ出す。それを隣で見ていた彼は、慰めるように私の頭を撫で、ポケットからハンカチを取り出して、そっと私の瞼にあてた。

「またすぐ会えるだろ。7月に戻ってくるんだから」
「う、うん…っ、7月なんて…すぐ、だよね…っ」
「あぁ、すぐ来る。だからそんな泣くなって」
「だってこれ…っ、ひくっ、勝手に、出てくるんだも…っ」

別に今生の別れじゃない。そんなことは分かっているけど、幼い頃から私の手を引き、前を歩いてくれた彼女がいないこれからの毎日に、不安や寂しさはどうしても募る。例えそれが後になってみれば、ほんの一瞬の思い出になるものだったとしても。

「なんか、複雑だ」
「へ…?」
「俺と離れるより、寂しそうに見える」

不機嫌そうなその声にふっと顔を上げて見せると、焦凍さんは座っている椅子の背もたれに寄りかかりながら、むすっと口を尖らせた。

「お前らが仲良いのは知ってるが、なんか…複雑だ」

不満気にそう呟く彼に、溢れていた涙は止まり、今度は口角がじわじわと上がる。付き合い始めたばかりの頃、焦凍さんは自分のことを「大人でもなければ余裕もない奴」と、自分をそんなふうに言ったが、確かにそうかもしれないと、最近ちょっとだけ思うようになった。でもそれはとても良い意味で、焦凍さんのそんな一面に触れるたびに、彼をもっと好きになったし、彼も私を好きでいてくれているんだなぁと、烏滸がましくもそう思う。

「おい、笑うな」
「だって嬉しいんだもん。愛されてるんだなぁって」
「いや、他にもっと感じるポイントあるだろ」
「例えば?」
「……ここで言っていいのか?」

少しの間を置いたあと、にやりと笑みを浮かべながら、焦凍さんはそう尋ねた。その顔つきから彼の言わんとすることがおおよそ理解出来てしまい、顔がまるで火を吹いたように、ぼっと一気に熱くなった。

「なんで赤くなってんだ?」
「…っ、せ、セクハラ!」
「俺はまだ何も言ってねぇぞ」
「顔が言ってるもん…!なんかそういう、セクハラっぽい顔だもん…っ!」
「どんな顔なんだそれは」

はは、と声をあげながら、焦凍さんは笑ってみせた。ちょっと意地悪なその笑顔にさえ、しっかりときめいてしまうのだから、まさしく惚れた弱みである。するとそんな私を余所に彼はどういうわけか、急に私の頬に両手を添えて、無言でそれを弄り始めた。

「な、何…?」
「いや、可愛いなと思って」

その綺麗な目でじっと見つめられてしまえば、さらに胸は高鳴って、色んなことがどうでもよくなる。この人にドキドキしなくなる日なんて永遠に来ないのではないかと、そんなことすら思ってしまう。

「あ。さらに赤くなった」
「言わなくていいから…っ!」

頬に触れられたその手を無理矢理引き剥がし、ふいっと顔を横に向けると、彼はさらに楽しそうに、くつくつと喉を鳴らしてみせた。以前よりはそれでも慣れてきたと思うし、好きな人が楽しそうにしているのはもちろん嬉しいことなのだが、不意打ちによるその破壊力は健在で、焦凍さんのそういうところは、私の心をいとも簡単に揺さぶるのだ。




「すみません、お待たせしてしまいましたね」

焦凍さんとそんなやり取りをしていると、穏やかだが少し申し訳なさそうな声が、軽く耳を掠めた。

「い、いえ…っ、私がたまたま早く着いただけなので、気にしないで下さい…!」
「ならいいのですが…それはそうと久しぶりですね、なまえ。お元気でしたか?」
「はい。エリオさんも、お元気そうで良かったです」
「お陰様で」

彼はそう言いながら、ふっと軽く笑ってみせた。会うのはこれで三度目だが、相変わらず上品な雰囲気を纏いつつも、隠しきれない存在感があり、その見た目の華やかさも相まって、道行く人がちらちらとエリオさんを横目で見ている。

「あの…なんかすみません、わざわざチケットまで一緒に取っていただいて…」
「たまたま日本での仕事から戻るタイミングでしたから。それにあとから精算するより、手間が省けますしね」

ことの発端は、たまたま仕事で来日していたエリオさんからかかってきた、一本の電話だった。"せっかくですから帰国ついでに一緒にフランスに行きましょうか"とお誘いを受け、最初は少し抵抗があったものの、単身で海外に行くことへの不安が勝り、悩んだ末にそれに甘えることにしたのだ。

「ところで、"そちらの彼"は…」

躊躇いがちにそう言いながら、私の隣に立つその人を、エリオさんはちらりと見た。ありがたいその申し出に少し悩んだ最大の理由は彼の視線の先にあり、先ほどの楽しそうな表情からは一転、少し不満そうな顔をしたその人物に、エリオさんは困惑しているようだった。

「焦凍さん、この人がエリオさんだよ」
「…………どうも」

不自然なほどに間を置いてから、焦凍さんは不本意そうに、ぽつりと小さくそう呟いた。

やっぱりまだ納得はしてないな…これは…。

エリオさんと一緒に行くことになったと伝えた時の彼の物凄く嫌そうな顔を思い出し、少しだけ笑ってしまいそうになる。おそらくだが、私の不安と自身の不満を天秤にかけた時、焦凍さんの中で僅差で前者に軍配が上がったようで、彼はエリオさんへの挨拶に負けずとも劣らない長い長い間を置いて、そうかと小さく呟いたのだった。

「えっと…彼はその、なんと言いますか…」
「言いづらかったら、言わなくても大丈夫ですよ。彼の装いで、なんとなく事情は分かります」

私と彼を交互に見ながら、エリオさんはそう口にする。ホテルのオーナーの息子さんともなれば、色んな人と関わる機会もあるので、こういう状況には慣れているものなのだろうか。

「あ、ありがとうございます…助かります…」
「とんでもない。ではそろそろ行きましょうか」

エリオさんはそう言うと、依然として少し不満気な様子を浮かべていた彼に向かって、軽く頭を下げてみせる。

「必ず無事にお送りしますので、ご安心を」

その言葉を聞いた焦凍さんは、短く一つ息を吐いた。そしてエリオさんとは対照的に、帽子を被ったその頭を、深くゆっくりと下ろしていく。

「宜しく、お願いします」

それはありふれているようで、とても特別なものであることが、彼の声色に表れていた。ほんの少しだけ顔を上げて、さっき止まったはずの涙が再び溢れそうになるのを堪える。ここで泣いてしまえばきっと、離れたくないと思ってしまう。
なんとかそれを堪えたところで、焦凍さんは顔を上げ、私の方に向き合った。いつもの別れ際のように、ぽん、と私の頭に手を置いて、落とすように笑いながら、その手で私の髪を撫でる。

「向こうに着いたら連絡してくれ。時間気にしなくていいから」
「うん。着いたらすぐにメッセージするね」

もうすぐ彼と、大好きな人と会えなくなる。そう思った瞬間、なぜか私の頭の中には、"そうすること"が自然と浮かんだ。そんなことを思う自分に、私が一番驚いた。

「あの、焦凍さん」
「ん」
「ちょっとだけ屈んでもらってもいい?」

それは少しの出来心と、せめてもの牽制だった。少しだけ背が低くなった彼に近づいて、精一杯に踵を浮かし、その薄く愛しい唇に、自分の唇をそっと重ねる。唐突な私の行動にさすがの彼も驚いたのか、え、と小さく声を上げると、その綺麗な目を何度も瞬きさせて、私のことをじっと見ていた。

「どうですか!ちょっとはびっくりしましたか!」

繋ぎ止めておく自信なんてない。だけどこれだけは胸を張って言える。この世界であなたを一番愛しているのは、私なのだと。

「……驚きはしたがツメが甘いな」
「へ」

間抜けな声が溢れた場所を、今度は彼が塞いだ。私のちっぽけな牽制なんかより、ずっと長くて深いその口づけに頭がくらくらするのは、きっと息もつけないほどに、私が彼を好きだから。

「じゃあまたな、なまえ。連絡待ってる」

ゆっくり唇が離れた後、こつんと額を重ね合わせて、彼は笑ってそう言った。たった今交わしたキスとは裏腹に、さっと私の身体を離して踵を返したその背中に、初めて出会った時を思い出す。あの人はいつだってその存在を、こうして私に強く、深く刻みつけていくのだ。

「素敵な方ですね」
「はい」

穏やかに紡がれたその言葉に、私ははっきりとそう答えた。

「世界で一番、素敵な人です」

あなたを想う。
それだけで今日を、明日を、私は生きていけるから。


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2022.08.23

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