僕が開けた扉


「焦凍さーん、起きてくださーい」

横たわるその身体を何度か揺さぶると、彼は唸るような声を上げ、あと5分だけと呟いた。

「もー、今日はちーちゃんと約束あるんだから、私も早く支度しなきゃなのに…」
「俺を締め出した衣装選びだろ」
「う…っ」

言葉に詰まる私を余所に、少し切れ長な二色の瞳が、じとりとこちらを睨みつける。もちろんわざとそうしたわけではないのだが、私たち二人と店側の都合がなかなかつかず、私の式の衣装選びには、彼の代わりに幼なじみが同行することになったのだ。
フランスから帰国して数ヶ月。私と彼の関係は家同士も含めた正式な婚約状態となり、少しずつ式の準備も進め始めていた。焦凍さんは相変わらず忙しそうにしているものの、結婚式の準備には想像以上に積極的で、彼の隠れたこだわりを知る瞬間は、とても新鮮で楽しいものだ。

「俺だって試着してるところ見てぇのに、あいつばっかずりぃ」
「で、でも試着なんて、髪とかも全然適当だし…本番の方が大事だよ」
「それでも見たいもんは見たい」

ぽつりとそう呟く彼に、口が緩むのを必死に抑えた。自分のドレス姿に自信があるわけではないが、大好きな人がそれを楽しみにしてくれているのは、やっぱりとても嬉しくて。

「今日着たやつ、後で写真見せるから。ね?」
「……全部だぞ」
「うん。ちゃんと全部撮ってもらうから。それにほら、指輪!今日の夕方、一緒に見に行くの楽しみだね!」
「それはまぁそうだが……ドレス姿も見たかった」

ぽつりとそう口にした焦凍さんの髪に、自然と手を伸ばしそれを撫でる。すると彼は少し照れたような顔を浮かべて、私の指先を絡め取った。

「俺はガキじゃねぇんだが」
「はいはい。じゃあそろそろ起きましょうね」
「……ん」

こちらを見上げながら、彼は小さく声をあげる。私の手を握っては離し、離しては握ってを繰り返して、まるで何かを待っているようなその素振りに、私は小さく首を傾げた。

「えっと…何…?」
「おはようのキス待ち」
「なら起きてください。早くしないと、朝ごはん冷めちゃうよ?」
「今日の朝飯何?」
「えっと…ごはんとお味噌汁と魚。あと昨日の煮物の残りと、デザートにりんご」
「いつも言ってるが、朝飯なんて別に適当でいいんだぞ。そんなに何品も用意しなくても」
「ダメです。身体が資本のお仕事なんだから。ただでさえお昼も夜も食べたり食べなかったりでしょ。朝くらいちゃんと食べなきゃダメ」
「相変わらず、そういうところは厳しいな…」
「しかも放っておくと、焦凍さんお蕎麦しか食べないし!」
「早いし安いし美味いぞ。立ち食い蕎麦」

少し自慢げにそう語る彼に、自然と笑みが込み上げる。お昼時の立ち食い蕎麦屋のカウンターで、サラリーマンと肩を並べてそれを頬張るこの人の姿は、結構なかなかにシュールだと思う。

「前から思ってたんだけど、普通にお蕎麦屋さんに入って、人に囲まれたりとかしないの?」
「周りにいるのはおっさんばっかだからな。そういう意味でも便利だぞ」
「あ、そっか…確かに男の人の方が多いもんね。そういうお店」
「あぁ。それに女ばっかり来る店なんか行ったら、誰かさんが拗ねちまうからな」
「べ、別に…そんなことは…」
「この間もテレビの前で拗ねてたもんな。『焦凍さんは私のなのに』って」
「もう忘れてよそれ…!!」
「あれを動画に残しておかなかったことは一生の不覚だ。すげぇ可愛かったのに」

にやりと口角を上げながら、焦凍さんは絡めていた指を解き、ようやくその身体をゆっくりと起こした。

「すぐヤキモチ妬いちゃうんだよな。なまえは」
「しょ、焦凍さんだって、私が昴くんのお店行ったら拗ねるもん…!すぐヤキモチ妬くもん!」
「そりゃあ妬くだろ。惚れてんだから」

さらりとそんなことを口にした彼に、心臓がどくんと大きく跳ねる。少し細めた綺麗な目で愛おしそうにじっと見つめられ、甘い言葉を呟かれてしまえば、何も言えなくなってしまう。

「はは、可愛い」
「…っ、もう知らない…っ」

ふい、と顔を背けると、彼はすっと私の頬に手を伸ばし、自分の方に向き直させた。

「……な、なんですか」
「なんか忘れてねぇか」
「え…?」
「俺はちゃんと起きたぞ」

その言葉の私が理解するよりも早く、焦凍さんはもう片方の手で反対の頬を包み込み、端正な顔を近づける。いつもなら委ねてしまうその行為に、僅かな反抗心が芽生え、もう一度顔を横に向ければ、彼は一つため息をつき、困ったように笑ってみせた。

「怒ったのか?」
「……今日の焦凍さんは、意地悪ばっかりするからやだ」
「悪かったよ。機嫌治せって」
「めんどくさいからとりあえず謝っとこうって、思ってるでしょ」
「思ってねぇよ」
「嘘だよ。だってさっきため息ついたもん」
「そういう意味のため息じゃねぇ」
「じゃあどういう意味なの」
「怒ってても可愛いから、どうしたもんかなって」

再び甘い言葉が耳を掠めると、再び心臓が跳ね上がり、顔がかっと熱くなる。この目で見なくても分かる。今彼がどんな顔をして、私のことを見ているかが。

「ほんと、ずるい…焦凍さんはずるい…」
「思ってることを言ってるだけなんだがな」
「だから余計にずるいんだよ…っ」

声を荒げた私に構うことなく、焦凍さんはふっと笑うと、私の額や瞼、鼻筋など、至る所に唇を寄せた。

「な、何してるんですか…」
「いや、なんかもう許してくれてるっぽいから」
「そんなこと言ってない…っ」
「まぁいいじゃねぇか。減るもんじゃねぇし」

こつん、と額を重ね合わせ、低い声で私の名前を呼ぶ彼の瞳は、涼やかなのに熱い何かを孕んでいる。そしてまた実感する。私は今でも変わらない温度で、彼に恋をしていると。

「イケメン許さない…」
「顔変えろってことか?」
「そんなことしたら絶対一生許さない…」
「はは、それは困るな」

軽く笑ってそう言うと、焦凍さんはゆっくりと、私の唇に自分のそれを重ねた。気づけば片手を頭の後ろに回されて、何度も何度もキスをされる。ダイニングテーブルの上に置き去りにした朝食のことをほんの一瞬だけ思い出したが、熱くて甘いその口付けを味わう以外の選択肢を、私は与えてもらえなかった。







「うーん…色々着すぎてどれがいいか分かんなくなってきた…」

選択肢というものは、多ければいいというわけでもない。ずらりと並んだ純白のドレスからひとまずいくつかピックアップし、それぞれ着ては見たものの、どれがいいかと聞かれると、どれでもいいような気もするし、どれも違うような気もしていた。

「どれも似合ってたと思うけど...あたしは2番目のがいいと思ったわ」

試着をひと段落終え、目の前にかけられたドレスの中から、美人で優秀な幼なじみは、シンプルなそれをチョイスした。

「フリルとかいっぱいついてるのも可愛いかったけど、ナチュラルな感じの方があんたには合ってると思うの」
「ちーちゃんが言うなら、もうそれが正解な気がする」
「彼にも聞いてみれば?写真送ってさ」
「でも、さすがに今仕事中だし…」
「送るだけなら、そんなに気にしなくてもいいんじゃない?本当に忙しければ、そもそもスマホ見ないでしょうし」
「それもそっか」

試着室のテーブルに置いていたスマホを手に取って、先ほど試着させてもらった時の写真を、まとめて何枚か彼に送る。メッセージの画面を開いたまま、数十秒じっと見ていたものの、特に既読も返信もなく、安心したような残念なような、なんとも複雑な気持ちにかられた。

「既読つかないから、たぶん忙しいっぽいね…」
「いや、送ってからまだ1分くらいしか経ってないんですけど」
「あんまり忙しくない時は、送るとすぐに既読はつくの。何かあった時にすぐ対応できるように、なるべく見るようにしてくれてるみたいで」
「安定の真面目ねぇ、あんたの"旦那"」

何気なく彼女が口にしたそのワードに、体のあちこちがくすぐったい。もうすぐ結婚するのだから間違いではないけれど、どうにもそれにはまだ慣れない。

「どういう表情なのよ。それは」
「いや、なんと言いますか…違和感がすごくて…」
「何言ってんのよ。籍入れるの来週でしょ?」
「まぁそうなんだけど…今日こうやってドレス見て、やっと結婚するんだなぁって実感してきたところで」
「もう一緒に暮らしてるし、そこまで生活変わらないから、逆にそういうもんなのかしらね」

そんな考察を口にしながら、もう一度壁にかけられたドレスをじっと目にして、彼女は短く息をついた。

「どしたの?」
「いや、ほんとに結婚するんだなって。大学の講義室でいきなり『好きな人が出来たの』って言われた時は、まさかこんな展開になるなんて、夢にも思ってなかったから」
「ふふ、それ懐かしいね」

あの日を境に、私の日常は大きく変わった。別に不満があったわけじゃない。変えようと思ったわけでもない。けれどその瞬間は、あの日突然訪れた。店のドアが音を立てて開き、去っていく広い背中を見送りながら、彼を好きだと心から想った。名前も、何をしている人かも、何も知らない人だったのに。

「今だから言うけどさ」
「うん」
「相手がショートだって知った時、最初は"どうやって諦めさせようか"って、結構真面目に考えてたのよね」
「え…」

私が小さく声をあげると、彼女はちらりとこちらを見てから、バツが悪そうに目を俯かせる。

「あたしたちとは住む世界が違うし、仮に接点を持てたとしても、きっとあんたが傷つくだけだろうなって、あの時はそう思ってたから。...ごめん」
「謝ることなんかないよ。私のこと心配してくれたんでしょ?嬉しいよ」
「ま。結局ただの余計なお世話だったけどね」

彼女はわざとらしく残念そうな顔をすると、両手を少し上にあげ、ふっと軽く笑ってみせた。

「ほーんとやってらんないわよね。蓋を開けてみれば最初から両想いでしたとか、どこの少女漫画なのよ」
「ちょ、なんでその話知ってんの...!?言ってないのに...っ」
「あんたの旦那が言ってたじゃない。結婚会見で」
「そんなことまで話してたの!?」
「"そんなこと"までって...あんたまさか観てないの?先週の会見」

目を丸くしてこちらを見る幼なじみの視線に耐えきれず、あちこちに視線を泳がせる。するとちーちゃんはこれでもかというくらい深く長いため息をつき「信じらんない」と一蹴した。

「呆れた。自分の旦那の結婚会見でしょうが。ちゃんと観なさいよ」
「だ、だって前のインタビューの時、すごい恥ずかしかったんだもん...!」
「今回はあの時以上の盛り上がりでね〜」
「い、言わなくていいから...っ」
「質疑応答が余すところなく嫁自慢で構成された、見事な惚気だったわよ。あたし的一番の見所は」
「だから言わなくていいってば...!」

必死に声を荒げる私に、彼女は吹き出して笑いだす。けたけたと愉快そうに声をあげるちーちゃんをじとりと睨みつけると、そんな怒らなくてもと、彼女は肩を竦ませた。

「ほんと話題に事欠かないカップルよねぇ、あんたたちって」
「もー...そうやっていっつも面白がって...」
「失礼ね。これでも祝福してるのよ。ものすごく」
「分かりづらいよ...っ!」

再び声を荒げた私を、まぁまぁと軽くあしらいながらも、ちーちゃんはその綺麗な手を私の頭に乗せて、軽く何度か叩いてみせた。

「ま。あの朴念仁に愛想が尽きたら、いつでもウチに来ていいわよ。部屋余ってるし」
「ふふ、ダメだよそんなの。ちーちゃんにはもう、ちゃんと"お相手"がいるんだから」
「いるようでいないようなもんよ、あんなの。いっつもふらふらしてるんだから」

そう言いながら髪を耳にかける左手の薬指には、私が日本を離れている間に交わされた、約束の印が輝いている。どういう経緯か詳しくは聞かなかったが、帰国してすぐにちーちゃんから"そういうことになった"と聞かされた時は、周囲も憚らずに号泣してしまい、彼女に酷く呆れられたのは、そこそこ記憶に新しい。

"あんなの"とか言いながら、昴くんの話する時すごく嬉しそうなんだよなぁ...ちーちゃん。

「何ニヤニヤしてんのよ」
「ちーちゃんが幸せそうで良かったなぁって」
「......あんたの生活には、別になんの支障もないでしょうが」
「あ、照れてる!ちーちゃんが珍しく照れてる!」
「うるさい黙れ」

ぴしゃりとそう吐き捨てると、彼女は私の両頬を思い切り抓り、左右にぐいーっと引き伸ばした。少しイライラした表情とは対照的に、その頬は少し赤く染っていて、頬に走る痛みに耐えながらも、私はなんだか嬉しかった。

「い、いひゃいよひーひゃん...っ」
「あんたは余計なこと考えないで、さっさとドレスを選びなさいな」
「もう...意地っ張りなんだから...」
「なんか言った?」
「断じて何も申しておりません」
「そう?ならいいけど」

鋭い視線に冷や汗をたらしつつ、その視線を本来向けるべき場所へと移す。目の前にあるドレスにそっと手を添えると、少しひんやりとしたシルクの滑るような質感が気持ちいい。

「うーん...ちーちゃんが言うなら、やっぱりこれかなって思うけど…」

いつも私の近くで私を見ていてくれた幼なじみがそう言うのだ。たぶんこれが私に合っているというのは、多分間違いないのだろう。

でも、やっぱり。

「"でもやっぱり、焦凍さんに綺麗って思ってもらえるのがいいなぁ〜"」

まるで私自身がそれを話しているかのように、彼女は私の心中を的確に言語化してみせた。

「人の心読むのやめてくれるかな!?」
「相変わらず顔に出すぎなのよ。あんたは」

馬鹿にしたように笑いながら、ちーちゃんはそう口にする。すると彼女がそれを言い終えたタイミングで、試着室のカーテンの向こうから、柔らかな口調の声がかけられた。スタッフの女性が戻ってきたのだ。

「お待たせしております。ウェディングドレスの方、お決まりになりそうでしょうか?」
「え、えーっと、あの…すみません、今度カラードレスを選ぶ時までの宿題でもいいですか…?」
「旦那様の意見も参考にしたいのでぇ〜」
「ちょ、何勝手に言ってんの…っ」
「でもそうなんでしょ?」
「それはそうだけ」

そこまで口にしたところで、規則的な振動音がその場に響いた。もしかしたら。そんなことを一瞬思って、先ほど鞄に移したそれを中から取り出すと、その予想は見事に的中した。

「な、なんか電話かかってきた…!」
「噂をすればなんとやらね。ちょうどいいじゃない。どれがいいか聞いてみれば?」
「う、うん」

電話くれるのは嬉しいけど、仕事中に大丈夫なのかな。

「もしも」
『4枚目のはダメだ。それ以外のにしてくれ』

その声はいつものように淡々とした口調ではあるが、いつもよりだいぶ早口だった。

「あの…焦凍さん、そもそもお仕事は…」
『今現場から事務所に戻ってるとこ』
「わざわざ移動中に電話かけるほどのことじゃないような気がするんですが…」
『ちゃんとはっきりさせておかないと、この後の俺のモチベーションに関わる』
「そんなに似合ってなかった...?4枚目のやつ...」
『そうじゃない。似合ってるけど、あれはその...背中、出過ぎだから、ダメだ』

途切れ途切れにそう口にする焦凍さんに、思わずぷっと笑みが零れた。どうせ背中なんて一番長い披露宴では、ほとんど見られることはないのに。

「ふふ、そんなに変わらない気がするんだけどなぁ」
『変わる。頼むから他のにしてくれ』
「焦凍さんがそう言うならそうするよ」
『そうして貰えると助かる。あれ以外なら、好きなのにしてくれていいから』
「しいて言うならこれがいい、とかはなさそう?」
『正直女モンの善し悪しには自信がねぇ』
「直感で大丈夫だよ。正解があるものじゃないし」
『…...2つ目のやつ、とか、いいんじゃねぇか』

再び途切れ途切れに、さらに自信もなさそうに、彼はぽつぽつとそう口にした。

『普段の雰囲気に一番合ってる、ような気がする』
「そっか。ありがとう」
『まぁあくまで俺の意見だし、お前が好きなのにしていいからな』
「4枚目でも?」
『それはダメだ。あれ以上露出があるのもダメ』
「ふふ、はーい」

笑いごとじゃねぇ、と、少しだけ怒ったように彼が口にすると、その後ろから聞こえる雑音が、先ほどよりも一際大きくなった。

「事務所着いた?」
『あぁ』
「じゃあそろそろ切るね。電話くれてありがとう」
『ん。こっちこそ写真ありがとな。全部似合ってて綺麗だったぞ』

頬が緩む。同じことをすでにスタッフさんやちーちゃんにも言われているはずなのに、それがこの人の言葉というだけで、こんなにも嬉しく思えてしまうのだから、本当に私は単純だ。

「あ、ありがとう、ございます...」
『ただ、出来ればなんだが』
「う、うん?」
『今度から写真は、仕事終わった後に見せてくれ。毎回こんな写真送って来られると、仕事に集中出来ねぇ』
「は…」

いつもの口調でそんな甘いことを突然言い出した焦凍さんに、思わず小さな声が漏れる。そんなのずるい。反則だ。そんなことを言われてしまえば、また同じことをしたくなる。邪魔をしたくないと思う気持ちより、私のことを考えて欲しいと思う気持ちが、そんなわがままが勝ってしまう。

『はは、照れてる。可愛い』
「…っ、早くお仕事戻りなよ…っ!」
『分かってるって』

もう一度軽く笑ってから、彼は小さく私の名前を呼び、止めの一言を私に告げる。

『 ─── 愛してるぞ』

そして彼はあっさりと、返事を待たずに電話を切った。

「ふ、不意打ち…」

低く愛しい残響が何度も頭に反響して、自然とその場で崩れ落ちると、担当してくれた女性スタッフさんが、小さく戸惑いの声をあげた。

「だ、大丈夫ですか…?」
「大丈夫です。いつもの持病なので、放っておけば治ります」

ちーちゃんが代わりに返事をすると、スタッフの女性は乾いた笑いを浮かべながら、何かお飲み物をお持ちしますねと、再びその場から姿を消した。







サロンを出てからランチを済ませ、最近駅前に出来たカフェに立ち寄り、二人でケーキセットを食べた。カフェに入る前は澄み切った水色をしていた空が、こうして店を出た今は、鮮やかな茜色に染っている。彼との待ち合わせまで、まだだいぶ時間があるなと思っていたのに。

「ウェディングドレス、意外とすんなり決まって良かったわね」
「うん!今日は付き合ってくれてありがとうね!」
「ほんとに良かったの?ウェディングドレス、あたしたちが決めたみたいになっちゃったけど」
「うん。だってちーちゃんも焦凍さんも、私より私のこと分かってくれてるから」

そんなことを私が呟くと、彼女はなんとも言えない顔を浮かべてから、長めの息を一つ吐いた。

「なんでため息つかれたの?私」
「ショートも大変だなと思って」
「焦凍さん?なんで?」
「俺がどうかしたか?」

背後から聞こえたその声に勢いよく振り返ると、綺麗な二つの目と視線がぶつかる。帽子を深く被りながらも、優しく私を見下ろす彼の瞳に、胸の奥がぽかぽかした。

「待たせちまったか?」
「少し前に来たところだから、待ってないよ」
「……ちょっと時間遅れてたな。悪ぃ」
「ううん、全然。来てくれて嬉しい」

私がそう言葉を返すと、焦凍さんは落とすように軽く笑って、私の頭をぽん、と叩いた。

「世話になったな。俺の代わりに同行してもらえて助かった」

私の頭に手を乗せたまま、彼はちーちゃんの方に視線を移して、穏やかな口調でそう言った。しかしその言葉を聞いた幼なじみは、不自然なほどの笑顔を浮かべ、私の腕に自身のそれを絡ませた。

「いえいえ〜、むしろごめんなさいね〜。私が"一番先に"ドレス姿見ちゃってぇ〜」

わざとらしく語尾を延ばしながらそう口にしたちーちゃんに対し、焦凍さんはあからさまに不機嫌そうな顔をしながら、別に、と短く答えてみせる。

「まぁ、こいつが一番綺麗になったところを最初に見るのは俺だしな」
「そんな当たり前のことで張り合わないで貰えます?大人気ないですね」
「ちょ、ちょっと二人とも...」

なかなかに刺々しい恋人と幼なじみのやり取りに、恐る恐る口を挟むも、彼らはそんなこと気にも留めずに、バチバチと激しい火花を散らせていた。

「最初に喧嘩売ってきたのはお前の方だろ。というかいつまでなまえにくっついてんだ。離れろ」
「やだ怖〜い。女友達にまで嫉妬するなんて、ちょっと器が小さいんじゃありません?」
「別に嫉妬なんてしてねぇ。なまえが一番好きなのは俺だからな」

自信満々にそう語る彼の姿に、思わず顔を両手で隠した。間違ってはいない。間違ってはいないけれども、そんな堂々と口にされると、私の方がだいぶ恥ずかしい。

「うわぁ...何恥ずかしげもなくそんなこと言っちゃってんですか。いい歳した男が」
「なんとでも言え。いいからさっさとなまえを返せ」
「モノみたいに扱うのやめてもらえます?"あたしの"可愛いなまえを」
「そんなつもりはねぇ。あとなまえは"俺の"だ。お前のじゃねぇ」
「まだ入籍してないんだから、あなたのじゃありませーん」
「お前はただの幼馴染じゃねぇか。赤の他人だろ」
「こっちは子供の頃からずっと一緒にいるんです。あなたとは年季の入り方が違うんですよ」
「それを言ったら、俺はこの先の人生ずっと一緒にいるんだぞ。トータルしたら、俺の方が長く一緒にいるんだからな」
「そんなの分かんないじゃないですか。この子に愛想尽かされる可能性だってありますし?」
「え」

幼なじみが示したその可能性に、彼は小さく声をあげると、凍りついたように固まった。

「ち、ちーちゃん、そのくらいにしないと、焦凍さん本気で考え込んじゃうから...」

私の予想は的中し、焦凍さんは口元に手をあてながら、そのまま黙り込んでしまった。もちろんそんなことは万に一つもないのだが、"愛想を尽かされるかもしれない"という限りなくゼロに近い可能性について、彼は本気で思考を巡らせている。

「ぶふ...っ、本気で悩んでるわ。面白い」
「焦凍さんからかって遊ぶのやめてよ...!真面目なんだから...!」
「この程度で狼狽えてるなんて、先が思いやられるわね」
「もー…」

黙ってしまった焦凍さんに話しかけようと、その名前を呼ぼうと口を開いた瞬間、彼はぴくりと身体を動かし、急に急ぎ足で歩き始めた。その意図をなんとなく察することの出来た私とは違い、突然その場を離れてしまった焦凍さんの行動に、ちーちゃんはやや困惑していた。

「え、何...なんなの...?」
「大丈夫。たぶん"いつもの"やつだから」
「いつもの?」
「そう」

その場を離れた彼の姿を目で追うと、人混みの中を掻き分けながら、さらに歩くスピードが速くなっていく。どうやら標的が完全に"黒"であると認識したらしく、焦凍さんはカーキ色のジャケットを着た中肉中背の男の腕を、その場で思い切り掴み上げた。

「…いっ…!!」

少し離れた所にいるものの、男の声はここまで届き、周囲が少しざわめいた。掴み上げられた男の手には、本人の持ち物とは考えにくい女性物の財布が握られており、そこから推察するに、どうやらスリの現行犯のようだ。
男が持っていた財布を取り上げ、持ち主らしき女性に何かを言いながら、焦凍さんがそれを返すと、自身の財布を取り戻した女性は、彼に向かって何度も頭を下げる。間もなくして二人の警官がその場に駆けつけ、彼がその男を引き渡すと、警官の二人はピンと背筋を伸ばしながら、焦凍さんに向かって敬礼していた。

「何あれ。引くレベルの解決スピードじゃないの」
「ふふ、すごいでしょ?」
「こんな人混みの中から、よくあんなの見つけられるわね」
「違和感みたいなものを感じるんだって。本人にもよく分からないらしいんだけど」
「ヒーローの勘ってやつかしらね」
「たぶんね」

そんなやりとりをしていると、ちーちゃんの言葉通りスピード解決をしてみせた彼が、駆け足でこちらに戻って来た。

「もういいの?」
「あぁ。あとは警察に任せる」
「報告行く?ここからなら役所近いし...」
「明日まとめてやるからいい。この後予定もあるしな」
「明日大変にならない…?」
「大丈夫だ。気ぃ遣ってくれてありがとな」

焦凍さんは優しくそう言うと、腕につけていた時計を見ながら、そろそろ行くか、と呟いた。

「じゃ、お邪魔虫はそろそろお暇するわ。指輪いいの見つかるといいわね」
「うん。今日はありが ─── 」

そこまで口にしたところで、今度は先ほどと別の場所から、男性の叫び声が通りに響く。びくりと肩を揺らした私とちーちゃんとは対照的に、焦凍さんはその声を聞くや否や、静かに一つため息をついた。

「ったく、勘弁してくれよ...」

ため息混じりでそう呟くと、彼は申し訳なさそうな顔をしながら、私に一言「悪ぃ」と謝った。

「ちょっと行ってきていいか」
「うん。お店には連絡しとくね」
「ごめんな」
「ううん、大丈夫。気をつけてね」
「ん。後でまた連絡するから」

じゃあな、と小さく言い残して、彼は喧騒に飛び込んで行く。小さくなるその後ろ姿に少しだけ寂しさはありつつも、どこか誇らしいような、そんな気持ちが私にはあった。

「いつもあんな感じなわけ?」
「んー…平均して月に一回くらい...かな...?今日はちょっとレアケース」
「毎回あんなふうに予定狂わされるかもって思ったら、あたしは結構しんどいわ」
「まぁ確かに、予定立てづらい仕事ではあるよね」

でもそれでも、やっぱり ───

「けどあぁやってヒーローしてる時が、焦凍さんは一番かっこいいからなぁ」
「照れずに言うわねぇ」
「えへへ…でも本当のことだし…それに何かに一生懸命な男の人って、やっぱりかっこいいもん」

そんなことを口にすると、ちーちゃんは少し考えるような素振りをしてから、そうね、と小さく返事をした。

「まぁ、確かにそこそこかっこいいかもね」

ちらりと隣を盗み見れば、その横顔はとても穏やかで、とても慈愛に満ちている。きっと今彼女の頭の中にある、いや、常に心の中にあり続けるその存在を心から愛しているが故の、そういう表情なのだろう。

「それ昴くんに言ってあげたら?喜ぶよ」

うっかりそんなことを口にすると、彼女は間髪入れることなく、再び私の頬を抓った。赤く染まったその綺麗な顔で何か色々言っていたような気がするが、それらが照れ隠しなことは一目瞭然で、そんな親友の可愛い姿に笑みを零せば、さらに頬の痛みは増した。







「おじいちゃん、レジ締め終わったよー」

ちーちゃんと別れた後しばらくして、彼から「今日は帰れないかもしれない」というメッセージが届いた。特に何もすることがなくなってしまった私は、店に戻ることにしたのだが、偶然ではあるが今日は閉店間際まで客足が途絶えることがなかったので、結果的に約束が延期になって良かったかもしれないと、そんなことをぼんやり思っていた。

「おお、助かるよ。やっぱりなまえがいてくれると、だいぶ楽になるな」
「今日は夜もそこそこ忙しかったよね。いいことだけど、在庫なくならないか冷や冷やしちゃった」
「はは、そうだな」

軽く声を上げて笑うと、祖父は少し離れた場所に置かれた、"あるもの"に視線をそっと移した。

「ところでなまえ、あのスポンジは…」
「ショートケーキのスポンジの配分を少し変えてみたくて。あれはその試作品」
「相変わらず研究熱心だな」

感心したようにそう呟くと、ワシも負けてられんなと、祖父は再び声を上げて笑う。孫の私としてはただ元気でいてくれるだけで嬉しいのだが、そんなことを口にしようものなら逆に怒られてしまうので、それは閉まっておくことにしている。

「二人ともお疲れ様。ホットミルクいれましたから、みんなで飲みましょう」

そんな会話をしていると、いつの間にかリビングに続く階段近くに、三人分のカップを乗せたトレーを手に持つ祖母が立っていた。

「わ、おばあちゃんのホットミルク久しぶり...!」
「今日は少し冷えるから、暖かいものにしたの。来週お嫁に行く子が、風邪なんてひいたら大変だもの」

悪戯っぽい笑みを浮かべながら、祖母は小さくウインクをしてみせる。相変わらず少女のような面影が残るその姿に、私もこういう歳の取り方がしたいなと、そんなことを思ったりする。

「今日は残念だったわね。二人で指輪を選びに行く予定だったんでしょう?」
「式まではまだ全然時間あるから、また次の機会にゆっくり見に行くよ」
「楽しみだわぁ〜二人の結婚式。新しいお着物仕立ててもらわなきゃ」

ウキウキした様子でそんなことを口にする祖母に、思わず私も笑みを浮かべた。まるで自分のことのように楽しみにしてくれていることが伝わってきて、とても暖かい気持ちになる。

「しかし、なまえが結婚とはなぁ」

三人でホットミルクを飲んでいると、祖父は早くも最後の一口を飲み終えて、ふう、とひと息ついてから、しみじみした面持ちでそう呟いた。

「少し前まで、この辺りでワシらの足元をちょろちょろ動き回っとったような感覚なんだがなぁ」
「そうですねぇ。なんなら私は、樹の方が早く結婚するんじゃないかと思ってましたよ。なまえからあまりにそういう話を聞かなかったから」
「そ、そうだったんだ…」
「焦凍さんと出会わなかったら、たぶんその予想は的中してたわよ。きっと」

それについては、おそらく祖母の言う通りだろう。あの日彼と出会わなければ、それまでの毎日になんの不満も持っていなかった私は、きっとあの代わり映えのしない幸福に、ずっと浸かり続けていたに違いない。

「しかし孫が大切な人と出会ったその場所がワシらの店というのは、なかなか感慨深いものがあるな」
「ふふ、そうね。あ!てことは、私たちのおかげで二人は出会えたと言っても過言ではないわね?」
「た、確かに…!お店がなかったら会ってないもんね…!」
「はは、だいぶ強引に言えばだけどな」

何か一つでも違っていたら、きっとこうはならなかった。そんなことを考えるほどに、この場所が前よりももっと、大切な場所に思えてくる。彼と出会う前からずっと、私にとってここは大切で、大好きな場所だったけれど、でもきっとあの頃よりも、今の方がもっと強くそう思っている。

「頑張らなきゃ」

この場所を、これからもずっと大切にしたい。

「何を頑張るの?なまえ」
「う、ううん…!なんでもない...!あ、この後まだキッチン使ってもいい?せっかくだからこのスポンジのショートケーキ、お土産にしようと思って」
「おお、"ショート"だけにな!」
「あ、あははは…そうだね…」
「あなた。なまえが困ってますから、その辺にしてやってください」

怪訝そうに眉を潜めながら、すかさずそうツッコミを入れる祖母に、祖父は気まずそうな顔を浮かべて、ゆっくりと顔を横に背ける。そんな二人のやり取りに思わず吹き出してしまうと、祖父はまるで救いを求めるかのように、私の方に視線を移した。

「つ、使ってもらうのは構わんが、時間は大丈夫なのか?」
「ふふ、大丈夫。今日は多分帰れないってさっき連絡来てたから、少し遅くなっても平気」
「相変わらず忙しいのねぇ、焦凍さん」
「プロヒーローには、定時はあってないようなもんだからな」

そんなことを祖父が呟いたところで、既に閉店作業を終えた店の方から、カラン、という音が鳴り響いた。

「お客さんかしら…?看板はしまっておいたんだけど…」
「閉店直後でまだ電気がついてるからな。やってると思ったのかもしれん」
「まぁ、それは大変だわ」
「私行ってくるよ。ごめんなさいって言っておくね。明日もあるし、二人は上戻ってていいよ」
「悪いわね、なまえ。じゃあお願い」
「何かあったら、上にいるから呼んでくれ」
「はーい」

軽く二人にそう返事をして、コックコートの帽子だけを外し、店の方へと足早に歩いた。そういえばあの日もこんな感じだったなと、そんなことを頭の片隅で考えながら。


「ごめんなさい。今日はもう ─── 」

振り返ったその人物に、思わず言葉を失った。

「なんか懐かしいな。この感じ」

ふっと笑ってそう言う彼に、胸の奥が熱くなる。時が戻ったのではないかと錯覚するほどに、目の前に広がる光景は、本当にあの日と瓜二つだった。

「どうした?」
「あ、いや…今日は帰れないって言ってたから、びっくりした…」
「俺もそのつもりだったんだが、周りの連中に帰された」
「え…なんで?」
「『新婚はさっさと帰れ』だそうだ」
「ふふ、まだ入籍前なのに」

くすくすと笑う私に釣られて一つ笑みを零してから、彼はきょろきょろと辺りを見回し、何かを探す素振りを見せた。

「おじいさん達は?」
「もうリビングに上がってるけど…呼んでこようか?」
「いや、いい。わざわざ来させるのも悪いし」
「そっか」
「で、お前はまた店を閉め忘れたのか?」

にやりと口角を上げながら、焦凍さんはなぜかすごく楽しそうに、私にそう問いかけた。

「ち、違うもん…!今閉めようとしてたんだもん…!」
「ちゃんと戸締りしなきゃダメだぞ。危ねぇだろ」
「だから違うってば…!!」

必死に否定する私を見て、彼は吹き出すように笑う。つくづくずるいなぁと思う。テレビや雑誌じゃ滅多に見せないその顔を、私だけにこうして見せてくれることに、どうしたって口元が緩んでしまうのだ。

「でもどうしよう…せっかく迎えに来てくれたけど、まだ作業途中で…」
「いいよ。適当に待ってる」
「それ結構暇じゃない…?」
「まぁ暇だな」

淡々と彼がそう口にしたところで、私の頭の中には自然と、とある妙案が思い浮かんだ。

「一緒にやってみる?ケーキ作り」
「え」
「土台はもうできてて、あとはクリーム塗るのと、果物乗せるだけなの。焦凍さんでも出来るよ」
「俺はお前みたいには綺麗に出来ねぇぞ」
「食べちゃえばどうせ同じだから、大丈夫だよ!」
「いいのかよ。プロがそんなこと言って」
「いいの!今日は特別!」

無理やり焦凍さんをそう言いくるめ、店の鍵を内側から閉めてから、彼の腕を両手で掴んだ。がっしりとしたその腕を引けば、案外あっさりと私にその身を預けてくれる。二人でキッチンに足を踏み入れると、普段見慣れないその光景に焦凍さんが珍しく挙動不審になっていて、自然と声を上げて笑った。

「で、なんのケーキを作るんだ?」
「なんだと思う?」

調理台に並べられたものをじーっと見つめて、彼は小さく首を傾げた。しばらくしてその答えにたどり着いたのか、焦凍さんはハッとした顔をしてから、少し嬉しそうにこちらを見る。

「ショートケーキか」
「当たり!正解した焦凍さんには、この苺を3つまでつまみ食いする権利を差し上げます!」
「はは、なんだそれ」

軽く笑い声をあげると、焦凍さんはその手を伸ばして早速苺を一つ食べる。そんな彼を余所に、私はポケットに入れていたスマホを調理台の上に取り出して、適当な道具をストッパー代わりにしつつ、動かないようそれを固定した。

「何してんだ?」
「せっかくだから残しとこうと思って……うん。こんな感じかな」

背の高い彼が画角に収まるようにカメラの位置を調整し、録画ボタンを押してから焦凍さんの隣へ戻ると、改めてその身長差を知った。上下半分に切り分けておいたスポンジの一つを回転台の上に乗せ、隣に用意していたパレットナイフでクリームを取ると、重力に敗北を喫したそれは、もったりとボウルに帰っていく。適当な量をスポンジの上に乗せ、いつものようにそれを塗っていくと、隣でそれを見ていた彼は、おお、と小さく声をあげた。

「こんな感じで、下の台を回しながら塗っていくの」
「さすがに手馴れてるな」
「えへへ…じゃあ、はい。焦凍さんもやってみて」

手にしていたパレットナイフを差し出すと、焦凍さんは躊躇いがちにそれを手に取り、ゆっくりとナイフをボウルに入れた。続けてクリームを掬い上げ、そっとそれをスポンジに乗せてから下の台を回してみせるのだが、それはまるでスローモーションを見ているかのように、とてもぎこちない動きをしている。加えて固くきゅっと結んだ口元がなんとも可愛らしくて、どうしても笑いを堪えきれずに、私は肩を震わせていた。

どうしよう。焦凍さんがとても可愛い…!

「何笑ってんだ。なまえ」
「ぶふ…っ、だってなんか…は、ハムスターみたいな口してるんだもん…っ!」
「してねぇ」
「してるって…!あはは…っ、もうダメ…っ、し、死ぬ…っ」
「……そんなに笑うことねぇだろ。人が真剣にやってんのに」
「ふふ、ごめんね。でも別に馬鹿にしてるとかじゃないんだよ。可愛いなぁって思って」
「お前の可愛いの判断基準は、いつまで経ってもよく分からねぇ」

やや不満げな顔をしながら彼はそう呟くと、ほんの少しだけ先ほどより速く手を動かして、最初のクリームを塗り終えた。

「こんなもんでいいか?」
「うん。じゃあ中の苺乗せよっか。私切って、焦凍さんはそれを乗せる係ね!汚れちゃうから、そこにあるビニールの手袋使っていいよ」
「ん」

短く返事をすると、焦凍さんは手袋をはめ、再びバットから苺をひとつ摘み上げて、それをひょいっと口に放る。あと一つかと呟きながら、私が切った苺を並べ始めた彼に、相変わらず律儀な人だなぁと、そんなことを思った。スポンジの間に入れる分の苺を全て切り終え、同じように私も手袋をはめて、一緒にそれを並べていくと、目の前に広がる光景に自然と幼い頃の記憶が蘇ってくる。

「なんかこういう作業してると、ちょっと懐かしくなってくるなぁ」
「そうなのか?」
「子供の頃にね、たまにこうやって弟とケーキの飾り付けしたりしてたの。家族の誕生日とか、クリスマスとか」
「まぁなまえはそうだろうけど、弟も一緒にやってたんだな」
「子どもの頃の樹は、なんでも私の真似してたんだよ。ひよこみたいに、ずーっと私の後ろにくっついてきて」
「ひよこ…」

ぴたりと作業をする手を止めて、彼は少しだけ天を仰ぐ。何を考えているかはだいたい想像がつくが、私が何も言わずに苺の上にクリームをもう一度薄く塗り、さらにその上にスポンジを重ねたところで、焦凍さんはゆっくりこちらに顔を向けて、そっと唇を開いてみせた。

「いいな。可愛い」
「いや…私がひよこの着ぐるみを着るとか、そういう話じゃないからね…?」
「ひよこがダメなら、うさぎとかでもいいぞ」
「なんでそうなるの…!?」
「だってひよこは嫌なんだろ?」
「そういうことではなく…!」

そんなふうに声を荒げる私を見て、赤く染まった手袋を外しながら、今度は彼が吹き出して笑う。私の頭を優しく撫で「冗談だよ」と言いながら、とても楽しそうな顔を浮かべる焦凍さんに、少し複雑な心境にかられた。

「なんでも本気にして可愛いな。お前は」
「もー…」

こうして彼の思い通りになることは、やっぱりほんの少し悔しい。でも普段はあまり見せないくしゃっと笑うその顔や、優しく触れてくれるその手に、自分が特別だということを実感して、私のちっぽけなプライドなんて、別にいいやと思ってしまう。大好きな人がこうして笑ってくれているなら、そんなのどうだっていいんだと、焦凍さんは私にそう思わせてしまうのだ。

「で、次はどうすりゃいいんだ?さっきと同じようにやればいいのか?」
「あ、うん。側面は最後に塗るんだけど、クリームつけすぎないように気をつけてね」
「分かった」

再びパレットナイフを手に取り、彼はクリームをスポンジに纏わせる。相変わらずぎこちない動きに笑いそうになってしまうのだが、なんとかそれをぐっと堪えて、それを隣で静かに見ていた。

「やっぱ、お前みたいには出来ねぇな」
「ふふ、出来ちゃったら困るよ」
「まぁな。じゃあ修正作業は任せた」
「えー、これはこのままにしておこうよ」
「いや…それだと見た目が、あんま良くねぇだろ…」
「いいの!二人で作ってるんだから、焦凍さんのとこはそのままがいいの!」
「お前がそう言うなら、まぁ…いいか」
「じゃあこれはこのままにして、最後のクリーム絞るところは私がやるね」
「頼んだ」

冷蔵庫に別で用意しておいた絞り袋を取り出して、ケーキの淵に照準を合わせる。口金を規則的にずらしながら、フリルで円を描くようにクリームを絞っていくと、隣でそれを見ていた彼は、再び短く声をあげた。

「なまえがやってんの見ると、俺でも出来そうに見えるから不思議だ」
「あ〜、そういうのあるよね。けん玉とか!」
「例えがなかなか渋いな。まぁなんとなく分かるけど」
「でしょ?じゃあ最後に残りの苺を…」
「あ、ちょっと待て。まだあと一つ食ってねぇ」

焦凍さんはそう言うと、クイズの正解者特典である最後の苺を自身の口に放り込んだ。

「美味しい?」
「ん。苺の味がする」
「ふふ、苺だからね。じゃあ残ってる苺を敷き詰める感じで乗せてもらっていい?」
「なまえは何すんだ?」
「苺のツヤ出し用に、ナパージュを作るんだよ」
「……あぁ。あのゼリーみたいなやつか」
「そうそう!よく覚えてたね!」
「まぁな」

少し得意げにそう返事をした彼に、思わずくすりと笑みが零れた。いつもは集中するために黙々と一人で作業をすることが多いのだが、こうして大好きな人となんでもない話をしながらケーキを作るのは、普段と違う楽しさがある。

なんか、こういうのって ───

「なんつーか、うまく言えねぇけど」
「どうしたの?」
「なんかいいな、こういうの。楽しい」
「……え、エスパーなの?」
「は?」
「いや…今私も同じこと考えてたから、心を読まれたのかと…」
「俺にそんな大層な能力はねぇ」
「じゃあ以心伝心?」
「それだ。たぶん」
「ふふ、なんか適当だなぁ」

技術を磨くためではなく、ただその時間を、大切な誰かと共有する。一見すると無駄なようで、けれどそれはきっと、すごく尊くて愛しいものだ。

「一応、並べ終わったぞ」
「こっちも出来た!あとはこれをあら熱がとれるまで冷まして、苺に塗ったら完成だよ」
「なら俺の出番だな」

彼はぽつりとそう呟くと、火から上げたばかりの小鍋に、そっと右手をかざしてみせた。見た目にはあまり分からないが、鍋に入れた温度計の数字が、面白いくらいにスムーズに下がっていく。

「こんなもんか?」
「わ…すごい…あっという間だね」
「ヒーロー活動以外じゃ、こんなことくらいしか出来ねぇけどな」
「そんなことないよ。素敵な個性だよ」

率直な感想を述べてみせると、焦凍さんは少しだけ照れた顔をして、視線を別の場所に移した。そんな彼をまだ見ていたい気もしたが、そこはなんとか気持ちを抑えて、私は刷毛を右手に取る。並べられた苺の上にナパージュを優しく乗せていくと、可愛らしい真っ赤な果実は、きらりと輝く宝石に変わった。まるで魔法をかけていくようなこの瞬間は、大人になってもわくわくする。

「完成か?」
「うん!箱に入れるから、お店の方で待ってて」
「今食わねぇのか?」
「少し置いた方が、味が馴染んで美味しくなるの。だからちょっとだけ我慢」
「なるほどな」

納得した様子の焦凍さんを横目に、使い終わった道具をまとめてシンクに置き、水道の蛇口を軽く捻った。

「片付けすんなら手伝うぞ」
「ちょっとだから大丈夫!座って休んでていいよ」
「ん。分かった」

キッチンを出る彼の背中を見送って、道具を一つずつ洗っていく。仕上げの瞬間とは裏腹に、この時間はいつも寂しい。一生懸命つけた足跡を自分で消してしまうような、そんな寂しさが沸いてくるからだ。

でも今日は、全然寂しくないや。

それがどうしてなのかは、もちろん分かっていた。あの人が私にとってどれだけ大きな存在かなんて、もはや考えるまでもない。洗い終えた道具を所定の位置に戻してから、不格好とも味があるとも言えるケーキを箱に詰め、そういえばあの日もこんな感じだったなと、運命の日に想いを馳せた。

「お待たせしましたー!」

ケーキの箱を手に持って、彼が待つカフェスペースのテーブル席に近づいていくと、焦凍さんはなぜかじっとこちらを見て、ふっと軽く笑ってみせた。

「どうしたの?」
「いや、初めて会った日もそうやって、箱持って急いで出てきたよな。お前」
「そういえば…焦凍さんもあの日と同じ席にいるね」
「そうだったか?」
「うん。腕組みしてここに座ってた」
「よく覚えてんな。そんなことまで」
「ふふ、焦凍さんに関する記憶力なら、結構自信あるんだ」

そうか、と短く返事をして、彼はその場に立ち上がると、私の手にしていた箱を持ち上げ、それをそっとテーブルに置いた。

「さっきと逆のことを言うが」
「うん?」
「あの日に限っては、お前が店を閉め忘れてくれたお陰だな。でなきゃたぶん、見つからなかった」
「あはは、そうだね。小さいお店だしね」
「いや、店じゃなくて」
「へ?」

間抜けな声をあげた私に、焦凍さんはその手を伸ばし、そっと私の頬に触れて、ほんの少しだけ目を細める。落とすように笑いながら、とても愛おしそうに。

「お前のことだよ。なまえ」

私の目を真っ直ぐに見て、彼は穏やかにそう口にした。自然と引き寄せられるように焦凍さんの方へ身体を預けると、彼は少しも迷うことなく私を抱きしめて、優しく髪を撫でてくれた。

「焦凍さん」
「ん?」

口にするのは恥ずかしくて、誰にも言えない、言わないこと。

あの日あなたが開けた扉は、きっと運命の扉だった。そんなことを、時々思う。もしかすると私はどこかで、それを待っていたのかもしれない。運命が交差するその場所で、あなたが見つけてくれるのを、ずっと待っていたのかもしれない。そんな馬鹿みたいなことを、真面目に想像したりする。


「 ─── 見つけてくれて、ありがとう」


自然とその言葉を口にすると、焦凍さんは私の身体を少し離し、いつものように額を合わせる。綺麗な瞳に見つめられ、飽きもせず高鳴る心音が聞こえないかと不安になりながらも、ゆっくりと自身の瞼を閉じると、その瞬間はやって来た。重ね合わされた唇が名残惜しそうに離れると、彼は再び私の額に自身のそれをこつん、と当てて、もう一度その目を少し細めた。

「帰るか」
「うん!」

差し出された彼の右手を、迷うことなく私は掴む。そのまま優しく手を引かれ、歩みを進めたその先には、少し古びた扉が一つ。繋がれた手に力が込められ、応えるように指を折ると、彼は短く息を吐き、静かにそっと扉を開けた。


HAPPY END


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2022.09.27

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