檸檬が香る冬の夕暮れ


「はぁ…」

清々しいほどに真っ白なレポート用紙を見つめながら、今日何度目かわからないため息を吐いた。テーブルに無造作に置かれたスマホを手に取り、ため息の現況であるその人物の名前を検索して、ついさっきも見たばかりのページを、まるで取り憑かれたように再び見ている自分がいた。

「"プロヒーロー ショート。本名は轟焦凍。雄英高校ヒーロー科を卒業後、現No.1ヒーローであり、自身の実父であるエンデヴァーの事務所にサイドキックとして入所。学生時代から数々の功績を残し、その実力と端正な顔立ちから、女性を中心に多くの支持を獲得している若手ヒーローである"……」

衝撃の事実が発覚してから、はや数日。有名な記事サイトをはじめ、ネットでの単純な名前検索だけでも、彼のことを知るには十分すぎる情報が溢れていた。

「こんな小さなケーキ屋に、まさかこんなすごい人が来るなんて、思わないじゃん…」

彼が卒業している雄英高校のヒーロー科といえば、勉学に微塵の興味もない私でも知っている、バケモノ偏差値の名門校だ。それだけでもすごいことなのに、さらにはあのエンデヴァーの息子だなんて、エリートにさらに輪をかけたエリートである。
多少お菓子に詳しい程度で、大した取り柄もなく、見た目も普通で、万年赤点ギリギリで学校のテストを乗り切っている私とは、そもそも住む世界がまるで違っていた。天は二物を与えず、なんて言葉があるが、そんなものは真っ赤な嘘だ。天は時として、気まぐれに二物も三物も与えることがあるらしい。

「しかも、こんなにかっこいいし!」

検索画面に表示された彼の写真を見て、もう一度深くため息をつく。
このルックスなら当然といえば当然だが、国内外問わず、彼にはファンクラブがいくつも存在しているらしく、もちろんその熱量は人それぞれだろうが、それは言わば、世界中に恋を張り合う相手がいるということを示していた。
自分の恋がいかに不毛なものであるか、彼のことを知れば知るほど思い知らされ、私の記念すべき初恋は、わずか二日でその想いを打ち砕かれることとなった。

「進まない…」

レポートを片付けるために、わざわざお店の手伝いを休ませてもらったというのに、一向に筆は進むことなく、無駄な時間が消費されていくだけだ。つい先程までは明るかった窓の外は暗くなり始めていて、ダイニングの壁に掛けられた時計の針は、もうまもなく夕方の5時を刻もうとしていた。
何度ため息をついたところで、彼に見合うような女の人になれるわけでも、明日提出のレポート課題が終わるわけでもない。そんなことはわかっていても、生まれて初めての恋があっという間に終わりを告げたその喪失感に、いつも以上にやる気が湧かなくなっていた。

「はぁ…」
「随分深いため息ね、なまえ」

いつからそこにいたのか定かではないが、声のする方へ顔を向けると、コックコートを身にまとった祖母が、少し心配そうな顔でこちらを見ていた。

「どうしたの?何かあったの?」
「う、ううん!何にもないよ!課題なかなか進まないなぁって、思ってただけ!」
「そう?それならいいんだけど…」
「全然大丈夫だから、心配しないで。ところでおばあちゃん、何か忘れ物?営業時間に家に戻ってくるの珍しいよね」
「あぁ、いけない。大事なことをまだ言ってなかったわね。あなたにお客さんよ」
「へ?」

意外な祖母の言葉に、思わず間抜けな声を出してしまった。

「お客さん?誰?」
「えーっと…あ、そう。トドロキさんっていう方」
「トドロキさん…?」

友達にも親族にも、そんな苗字の人は一人もいないはずだ。でもなんでだろう。その名前をどこかで、しかもつい最近聞いたような気がする。

「あなたと面識があるようだったんだけど…人違いかしら…」
「その人の特徴とか覚えてる?」
「そうね…あなたより少し年上くらいで、目の辺りに火傷の痕があって…」
「え!?」
「ふふ、こんなおばあちゃんに言われても嬉しくないでしょうけど、とてもハンサムな男の人だったわよ。俳優さんかと思っちゃった」

私より年上で、目の辺りに火傷の痕。そして俳優と間違えてしまいそうなほど、整った容姿の男の人。
そんな人、私が今まで出会った人の中で、たった一人しかいない。

「でも残念。なまえの知り合いじゃないなら…」
「ちょ、ちょっと待って!!知ってる!!私やっぱり、その人知ってる!!」

慌ててそう口にすると、祖母は何かを察したように含み笑いを浮かべ、「じゃあ待っててもらうわね」と、店へと足早に戻って行った。
急いで部屋着から外出用の服に着替え、髪を軽く梳かしてから、急いで最低限のメイクを済ませた。鏡でひと通り全身を確認してから、あの人がいるかもしれないその場所へ、私は急いで駆け出した。







「お」

店へと続く階段を勢いよく駆け下りて、さらに小走りで店内に出ると、彼は小さく声を上げた。
初めて会った時と同じ、黒い帽子を被ったその人は、先ほどまでスマホ画面の向こうにいた人であり、つい二日前に私が失恋した相手だった。
相変わらず不自然なほどに美しい色違いの目に、勝手に心臓が品のない音を立て始めた。

「す、すみません…お待たせ…しました…」

息を切らしながらそう言うと、彼は少しだけバツの悪そうな顔をして、その薄い唇を開いた。

「俺の方こそ、急に悪かったな。今日休みだったんだろ?」
「い、いえ全然!むしろ、そちらは大丈夫なんですか…?」
「何がだ?」
「えっと…プロヒーローがこんな場所に来てたら、色々、その…」

私のその言葉に、彼は驚いたように目を見開いた。

「お前、俺がヒーローって知ってたんだな」
「……すみません。実は先日公園でお会いした日に、初めて知りました…。私、テレビとかほとんど観なくて、SNSもやってないし…ごめんなさい…」
「いや、別に謝ることじゃねぇだろ。まぁ、最近の大学生にしては、珍しい方だとは思うが」
「そう言っていただけると、助かります…」

そこで一度会話が途切れ、色とりどりのケーキが並ぶショーケースの前で、妙な沈黙が流れた。

「そ、それで、あの、今日は…何か…」
「ケーキもらった時に、約束しただろ。今度はちゃんと買いに来るって」

気まずい空気に耐えきれず、ここを訪れたその理由を目の前の人物に尋ねると、彼ははっきりとそう答えた。

まさか、本当に来てくれるなんて。

バレンタインのケーキが採用されたら、みたいな話をこの間していたし、もしも万が一、億が一来てくれたとしても、きっとそのくらいのタイミングだろうと、そう思っていたのに。

「どうかしたか?」
「あ、いえ…まさか本当に来てくださるとは、思わなかったので…」
「いや、約束したんだから、来るだろ」
「そ、そうです、ね…」

どうしてだろう。初めて会った時も、この間の公園でも、もう少し自然に話せていたはずなのに、彼の正体やその凄さを知ってしまったせいか、何を言っても不釣り合いな気がして、言葉が上手く出てこない。

どうしよう。上手く喋れない。




「あの、もしお時間があれば、お店で召し上がっていかれませんか?」

唐突に聞こえた穏やかな声。しかしその内容は、決して穏やかなものではなかった。少なくとも、私にとっては。

「ちょ、おばあちゃん…!」
「なまえも、明日までの宿題が煮詰まってたみたいだし、休憩がてらちょうどいいじゃない。カフェの営業は終わってるから誰もいないし、トドロキさんも気兼ねなくお話も出来るでしょう?」
「で、でも…」

祖母の唐突な提案を受け、盗み見るようにちらりと彼の方を見ると、そんな視線に気づいたからか、彼はふ、っと小さく笑ってみせた。

「俺は別にいいぞ。特に予定もねぇしな」
「ほら!彼もそう仰ってるし、ご一緒してもらいなさい!」
「でも、急にそんな…」
「あ、カフェにご案内する前に、ケーキをここから選んでもらわないといけないわね。トドロキさんは何がお好きなのかしら?」
「特にこれといって、好き嫌いはないです。甘すぎなければ、何でも」

孫の制止など一切無視して、祖母はどんどん勝手に話を進めてしまう。穏やかな見た目に反して、意外と強引なところがあるのだが、今日はそんな彼女のアイデンティティが、いかんなく発揮されている。

「それじゃなまえ、ケーキはあなたが選んであげなさいな」
「え…!?」
「だってあなたのお客さんでしょう?」
「い、や、まぁ…そうだけど……あの、私が選んで本当に大丈夫ですか…?」

というか、本当にここで食べて行く感じになってるけど、それは大丈夫なのかな。

「あぁ、甘いもんのことはよくわかんねぇから、お前に任せる」

どうやらこの人も、ここで食べて行く気らしい。
今日初めて会った人から急にそんな誘いを受けたら、普通は断りそうなものだが、彼の表情からは特にこれといって、ネガティブな感情は見受けられない。もともとあまり表情豊かではなさそうな人なので、実際のところは正直分からないが。

「わ、わかりました。えっと、じゃあ…」

祖母の強引すぎるアシストにより、私は今から、自分の働くこの店で、初恋の相手とケーキを食べることになってしまったのだった。







「すみません。おばあちゃんが急に、勝手なことを…」

店のカフェスペースの一番奥にあるテーブル席に座り、私は軽く頭を下げた。
ショーケースでケーキを買う人からも、外を歩いている人からも見えない絶妙な位置にあるこの席は、日当たりも悪く、特に冬場はあまり人気のない席だが、今日に限っては大活躍だ。

「いや、大丈夫だ。さっきも言ったが、特に予定もねぇし」

向かい側に腰を下ろした彼は、被っていた帽子を外しながら、淡々とした口調でそう返事をした。

「でも、ご迷惑じゃなかったですか…?」
「ここで食っても持って帰っても、約束さえ果たせれば、俺は別に何でもいい」
「そ、そうですか…」

何となく、優しい人なんだろうなとは思っていたけど、それに加えてこの人は、たぶんかなり真面目な人だ。あんなにすごい経歴や功績を持つ人なのに、こんなどこにでもいるような一般市民との約束を、きちんと守ろうとしてくれている。




「なまえ」

唐突に呼ばれた自分の名前に、口に含んでいた水を吹き出しそうになった。

「ゲホッ、ゴホッゴホッ」
「大丈夫か?」
「あ、は、はい…平気です…急に呼ばれたので、びっくりしただけで…」
「いや、そういえば、名前を知らなかったなと思って。なまえっていうんだな」
「あ、あぁ、なるほど…そういう、あれですか…」

呼ばれたわけじゃなくて、単に確認しただけってことか。

「あれってなんだ?」
「な、なんでもありません…。えと、今さらですが、みょうじなまえといいます。よろしくお願いします」
「おう」
「えっと、あの、私はなんとお呼びすればいいですか?」
「別に好きに呼んでいいぞ。というか、俺も本名言ってなかったな。轟焦凍だ。よろしく」

知ってます。というか、色んな場所に載ってます。
この人は、ご自分がどれだけ有名人なのかを認識していないのだろうか。

「じゃあ…"焦凍さん"って呼んでも、いいですか?」
「別に"さん"も付けなくていいぞ」
「いや、さすがにそれは…私の方が6つも年下ですし、気安く呼び捨てにするのは、図々しいと言いますか…」
「まぁ、お前がそうしたいなら、俺は別に構わねぇが」
「じゃあ、焦凍さんでお願いします」
「分かった」

そんな会話をしていると、キッチンの方から嬉しそうに笑みを浮かべながら、二人分のケーキと飲み物を運ぶ祖母の姿が見えた。

「お待たせしました。ケーキセットお二つです。お口に合うといいんだけど…」

そう言いながら、祖母はティーポットに入った紅茶を、慣れた手つきでカップに注いだ。立ち込める湯気と共に茶葉の香りが広がり、目の前の相手に浮き足立っていた気持ちが、ほんの少しだけ落ち着いた。

「あ、おばあちゃん、私の分はバイト代から引いておいてね」
「別にこれくらいご馳走するのに…」
「そういう甘えはダメ!お店の収益優先!ちゃんと明細確認してるからね!」
「はいはい。なまえは厳しいわね」

肩を竦めながら、少し困ったように笑ってみせると、祖母は「ごゆっくり」と言い残して、そそくさとキッチンに戻って行った。

「……しっかりしてんな、やっぱ」
「え?」
「いや、ちゃんと金払ってんだなって。家族なら、その辺は適当にしちまいそうなのに」
「最初に来た頃はご馳走になってたんですけど、孫だからってあれもこれもってなっちゃったので、今みたいな感じになりまして…」
「そういうことか」

彼は納得したように頷くと、私が選んだケーキをじっと見つめた。

「えと…ケーキ、何にするか迷ったんですが、甘すぎない方がいいと仰ってたので、あっさりしているシフォンケーキにしました」
「なんか、蜜柑みたいな匂いがするんだが」
「中に刻んだレモンピールが入っているので、その香りです」
「レモンって、夏の果物なんじゃないのか?」
「確かに夏のイメージがあると思うんですけど、国産のレモンは、蜜柑やほかの柑橘類と同じで、実は冬が旬なんです。あ、もちろん、品種によって若干違ったりはしますけど…」
「果物にも詳しいんだな」
「ケーキ作りには、欠かせない存在ですからね」
「それもそうか」

焦凍さんはそう言うと、お皿に添えられたデザートフォークを手に取り、一口分だけ切り分けてから、それをぱくりと口に含んだ。

「…どうですか?」
「美味い」
「甘さも大丈夫そうですか?」
「あぁ」
「良かったです!レモンピールも自家製なので、個人的にもオススメで…あ、良ければ紅茶もどうぞ。シフォンケーキに合いそうなものを選びました」
「あぁ。ありがとな」

「美味い」と言ってはくれているものの、あまり表情が変わらないので、本当はどうなのだろうと少し不安に思っていたが、もう一口、また一口と、なかなかのハイペースで食べ進めてくれている様子から、少なくとも嫌いな味では無かったようで、ひとまず胸を撫で下ろした。

それにしても、手、大っきいなぁ。

いつ見ても綺麗な顔立ちだが、骨張っていて私よりずっと大きな焦凍さんの手から、彼が男性であることを改めて感じさせる。腕や肩も、細身なのにがっしりしていて、袖から僅かに除く手首のあたりに、うっすらと見える傷痕は、きっと誰かを救うために刻まれたものなのだろう。

「食わねぇのか?」
「え、あ、はい!食べます!いただきます!」

思わず焦凍さんに見惚れてしまい、自分がまだひと口も食べていなかったことに気づく。慌ててフォークを持ち、彼と同じくひと口分だけ切り取ると、ふわりと爽やかなレモンの香りが鼻に抜けた。

「んー、美味しい…」

口に含むとさらにその香りは強まり、口当たりの良いケーキの生地とともに、溶けるように消えてなくなる。ほんのりとした優しい甘さの中に、ほろ苦いレモンの皮の後味が、絶妙なバランスを作り出している。

「幸せそうだな」
「はい…とても幸せです…至福の時です…」
「そうか」

彼は一言そう呟くと、ティーカップを右手に持ちながら、静かにふっと笑ってみせた。

かっこいいなぁ…。

そんな顔するなんてずるい。反則だ。絶対叶わない恋だと打ちのめされたはずなのに、そんな顔をされてしまったら、逆にもっと好きになってしまう。




「ところで」

紅茶を軽くひと口飲むと、彼はちらりと私に視線を送った。

「は、はい…!」
「"宿題"って何やってたんだ?煮詰まってたって、お前のおばあさんは言ってたけど」
「あ…外国文学っていう授業の課題なんですけど、二冊ある課題図書から一冊選んで、感想レポートを英語で書くっていうやつです」
「感想なら、思ったことをそのまま書けばいいんじゃないのか?」
「えっと、その……授業の名前の通り、外国文学なんで、当然課題図書も英語なんですよね」
「まぁ、そうだろうな」
「私、その…英語がとても苦手でして…そもそも課題図書に書いてある内容がほとんど理解できず…」
「なんでその授業履修したんだ、お前」
「う…っ」

正論すぎる正論が、ぐさりと胸に突き刺さる。優しくて真面目だけど、結構容赦なくものを言う人でもあるらしい。
もちろんこんなこと、恥ずかしくて彼に言えるはずもないが、今年の授業を決める時、友達の誰かと同じ授業にしておかないと、軒並み単位を落とすビジョンが鮮明に見えていた。そのために、友達が履修しているというだけで授業を選んでしまったので、内容のことなど一切考慮していなかったのだ。

「手伝ってやろうか?」
「え…?」
「終わってないんだよな?」
「え、あの…」
「確かに学生時代の頃よりは多少忘れちまってるだろうが、英語だったら、俺でもだいたい分かるぞ」

躊躇う私を見て、自身の実力が疑問視されていると思ったのか、彼はフォローするようにそう口にした。

「えっと、焦凍さんの語学力を疑っているわけではなくてですね……純粋に、その、いいんですか…?」
「まぁ、俺が急に来たせいで、お前の時間貰っちまったしな」

少し申し訳なさそうにそう言う焦凍さんに、今度は罪悪感が胸を突き刺した。
彼が来ていようと来ていまいと、どのみちレポートはほとんど進まず、夜中に泣きながらやることになっていただろうとは、口が裂けても言えるわけがない。

「ほ、ほんといいんですか…?」
「あぁ。ケーキ食い終わったら、とりあえず課題持ってこい」

この人と一緒にケーキを食べているだけでも、世の中的にはとんでもないことだろうに、さらには課題まで手伝ってもらうだなんて。こんなことが彼のファンに知られたら。うっかりそんな想像をしてしまい、急に背筋がぞくっとした。
そんな私を見て、不思議そうな顔をした焦凍さんを余所に、私はそれを誤魔化すように、少し温くなり始めたカップの紅茶を飲み干した。







「ざっくりだが、まぁ本の内容はこんな感じだ。だいたい分かったか?」

課題図書を静かに閉じると、焦凍さんはそれを私に差し出した。ケーキを食べ終え、その食器を下げに来たおばあちゃんは、私が彼と課題をやっている姿を見ると、目を丸くさせて驚いたものの、やけに嬉しそうにキッチンへと戻って行った。

「は、はい!ありがとうございます!」
「たまたまだけど、俺が高校の時に授業で取り扱ったやつだったのは、ツイてたな。課題図書を読むのは、思ったより早く片付いた」

大学の授業で使う教材を、高校時代に既に読んでいるあたり、やはりこの人はエリートだ。

「問題は感想を書くほうだが、まずそっちのノートに日本語でひとまず感想書け。英訳は手伝ってやるから」
「でもそれだと、私が日本語の感想を書いてる間、焦凍さんが退屈なのでは…」
「俺のことはいいから、早く書け。明日提出なんだろ」
「はい…」

大まかな内容のメモ書きをもう一度読みながら、ひとまず言われた通りに、日本語で感想を書き始めた。日本語力もさほどそんなにないとは思うが、さすがは母国語。当然だけどスラスラ書ける。

それはともかくとして。

「あの、焦凍さん…」
「なんだ」
「そんなにじっと見られていると、少し書きづらいかな、なんて…思ったり…」

私がノートに感想を書き始めてから、ずっと手元に感じていた視線に、たじろぎながらそう呟いた。言おうかどうか迷ったが、この人にずっと見つめられながら筆を進めるのは、色んな意味で心臓がもたない。

「あぁ、悪ぃ。何もすることねぇから、つい見ちまった」

そうさせているのは私なので、申し訳ない気持ちは多分にあるが、テーブルにスマホを置いているのだから、それを使っていくらでも時間を潰せるような気がするのだけど。

スマホとか、あんまり見ない人なのかな。
というか、普段この人は、どんな生活をしているんだろう。

「しょ、焦凍さんは…お休みの日はいつも何されてるんですか?」
「朝起きて、飯食って、その後は適当に…本読んだり、テレビ観たりとか、まぁそんな大したことはしてねぇな」
「出かけたりとかは、しないんですか?」
「職業柄、外に出ると面倒になることの方が多いからな」
「な、なるほど…」

もはやこの現代において、ヒーローは芸能人となんら遜色はない職業であり、プライベートなどあってないようなものだ。外で正体が分かれば、周囲は当然大騒ぎになるし、この人くらいの知名度なら、そうなった時の本人の大変さは、頭の悪い私でも容易に想像出来る。

でも、それなら…

「じゃあ、今日はどうして…」
「どうしてって、お前と約束したから」
「でも、わざわざ面倒な思いをしてまで守るほど、重要な約束ではないような…気も…」
「自分で約束しておいて守らねぇのは、ダメだろ」
「そ、そうですね」

ごもっとも。仰る通りだ。「約束は必ず守りましょうね」と、小学校の先生もよく言っていた。それは誰もが人生で何度も耳にする、当たり前の一般論だ。
当たり前のことを言っているだけなのに、焦凍さんがそれを言うと、何倍もかっこよく聞こえてしまうのは、見た目の良さなのか、それとも惚れた弱みなのか。

「それよりお前、手が止まってるぞ」
「す、すみません…っ、急ぎます!」

ケーキ作りなら、同時作業も普通にこなせるのに、それ以外のこととなると、どうにも器用にこなせない。彼をなるべく待たせたくない一心で、必死にペンを動かして、思ったままをそのまま綴る。
「悪ぃ」と言った、先ほどの謝罪はなんだったのか。焦凍さんは結局私がそれを書き終えるまでの間、ずっと私の手元を見ていた。







「本当に、本当にありがとうございました…!」

深々と頭を下げると、焦凍さんは驚いたのか、小さく声をひとつ上げた。

「いや、そんなに大したことはしてねぇから。とりあえず頭上げろ」
「大したことです…!焦凍さんがいなかったら、たぶん私は徹夜でした…!」
「さすがにそれはどうかと思うぞ」

再び胸に刺さる正論に、返す言葉もない。

「あら、お帰りですか?」

店のドアの手前で立ち止まって話していると、キッチンの奥から祖母がパタパタと駆けて来た。

「すみません。長々とお邪魔しました」
「いいえ〜、むしろ孫の宿題をお手伝いいただいて、こちらこそすみませんね。ケーキ作りは贔屓目なしに見ても、なかなかの才能なんですが、勉強は昔から苦手みたいで…」
「おばあちゃん!余計なこと言わなくていいから!」
「お忙しいでしょうけど、また是非いらして下さいね」
「はい。ご馳走様でした」
「これ、良かったら、お土産にどうぞ」
「ありがとうございます。なんか、すいません」

焦凍さんは祖母から差し出された小さな紙袋を受け取ると、そう言いながら軽く頭を下げた。

「そうそう。焦凍さんは、クリスマスにご家族でケーキを召し上がったりするのかしら?」
「クリスマスは……イベントとかの警備依頼が多くて、毎年いつも仕事なので、そういうことはここしばらくしてないですね」
「まぁ残念。せっかくだから、クリスマスのケーキも食べてもらいたかったわ」
「おばあちゃん、プロヒーローは忙しいんだから、無理言っちゃダメだよ」
「あら。なまえだって、焦凍さんが来てくれた方が頑張れるでしょ?寒い中、外で頑張らなきゃいけないし」
「な…っ」
「……"外"?」

祖母が口にした前半部分のとんでもない発言には触れず、焦凍さんは祖母にむかって、不思議そうに首を傾げた。

「クリスマスの24日と25日は、外でケーキを販売するんですよ。さすがに私も主人も歳が歳なので、この子とそのお友達に、毎年売り子さんはお任せしちゃってて」
「あぁ、そういうことですか」
「なまえは寒いのが苦手なので、毎年泣きながら売り子をやってまして…」
「泣いてないよ!」
「だから焦凍さんが来てくれたら、なまえも頑張れるんじゃないかなぁって、思って」
「ちょ…っ、変なこと言わないで!!」

恥ずかしさの余りそう叫ぶと、その声に驚いたのか、焦凍さんは軽くぴくりと肩を震わせ、しばらくキッチンで作業していた祖父まで、こちらの様子をちらちらと窺いだした。

「す、すみません…」

恥ずかしい。最悪。おばあちゃんのバカ。
っていうか、こんな感じの場面、前にもあったような…。

ちらりと横目で視線を送ってみるが、焦凍さんは相変わらずのポーカーフェイスで、祖母の言葉を聞いた彼の胸の内は、私にはとても汲み取れない。
確かに焦凍さんが来てくれたら、とても嬉しい。それは間違いない。でもそれを本人に伝えていいかどうかは別問題だ。私と彼は、友人というわけでもないし、知り合いと言うにも烏滸がましいレベルの関係なのだから。

「じゃあ来れたら、来ます。仕事次第なんで、約束は出来ないですけど」

予想外の言葉に、焦凍さんの方へゆっくりと顔を向けると、彼は特に表情を変えることなく、祖母の方を見たままだった。

「え…」
「あら〜、良かったわねなまえ!来れたら来てくれるって!」
「もういいから!はい焦凍さん!外!外出ましょう!!」
「お、おう」

これ以上ここにいたら、おばあちゃんがさらなる余計なことを言いかねない。咄嗟に焦凍さんの腕を取り、少しだけ戸惑う彼を引き連れて、半ば無理やり店の外へ出た。




「ほんとにすみません…おばあちゃん、見た目と裏腹に結構強引で…」

冷たい風に揺れる髪を、咄嗟に耳に掛けながら、私はもう一度頭を軽く下げた。

「確かに、見た目よりずっと明るい人だな」
「あ、あはは…」

焦凍さんは祖母に対して、当たり障りのない感想を述べた。冗談だと思っているのか、それとも本当に何も感じていないのか、彼の表情はやはり淡々としていて、それに安心するような、ほんの少しだけ残念なような、なんとも言えない複雑な気持ちになった。

「あの、今日はありがとうございました。わざわざお休みの日に来ていただいて、しかも課題まで…」
「いや、来るって言ったのも、手伝うって言ったのも俺だから」
「おばあちゃん言ったことは、全然気にしなくて大丈夫なので…クリスマスのお仕事も大変だと思いますが、頑張ってください」
「お前もな。売上も大事だけど、泣くまで寒いの我慢しなくてもいいと思うぞ」
「泣いてません!!」

祖母の悪ふざけを鵜呑みにしてしまった焦凍さんに、半ばやけくそ気味で言葉を返すと、彼はなぜかその場で笑いを堪えるように、肩を小さく震わせた。

「な、なんで笑うんですか…」
「お前、顔つきがコロコロ変わるから、面白い」
「……馬鹿にされてます…?私…」
「いや、褒めてる。いいと思うぞ。俺には絶対出来ない」
「じゃあ、褒め言葉として受け取っておきます」
「そうしろ。あ、来れるとしたら、たぶん24の方だと思うから」
「え…」

ちゃんと、考えてくれるんだ…。

毎年その日は仕事だと言っていたのに、こんな小さなケーキ屋に足を運ぶために、わざわざ予定を思い返してくれたその誠実さと優しさに、それこそ本気で泣きそうになってしまう。

「は、い…あの、期待はしないで、待ってます」
「ごめんな。今回はちゃんと約束できなくて」
「い、いえいえ!おばあちゃんが無理矢理お誘いしたようなものなので……でも、」
「ん?」
「やっぱり…来てくれたら、嬉しい…です」

たぶん今、自分の顔がすごく赤いであろうことは、頬の熱で何となく分かる。恋愛経験値ゼロの私にしては、なかなか大胆なことをしている自覚もある。
これはせめてもの牽制だ。もしも四度目があってもなくても、私という存在が、ほんの少しでも彼の中に残ってくれていたらという、そんなちっぽけな期待を込めた、子供じみた牽制なのだ。

「で、でも、無理はして欲しくないので…ほんとに、来れたらで…」
「ん。分かった」

子供じみた私の牽制を、彼がどう受け取ったのかは分からなかったが、焦凍さんは落とすように小さく笑い、私の頭をぽん、と軽く叩いた。その笑顔の意味の真意を、知りたいような、知りたくないような。

「じゃあまたな、なまえ」

彼がそう呟いた瞬間、背中を押した強い風に、髪がふわりと舞い上がる。冷たく刺す様な冬の夜風が、不思議と寒く感じないのは、他の誰でもないこの人のせいだ。

「はい…また…」

絞り出すようにしてそう返事をすると、彼はまた軽く笑って、そっと私から手を離した。私に背を向け、歩き出した彼とは対照的に、私はまたその場に動けなくなる。去り際に呟かれたその一言のせいで、外はこんなに寒いのに、身体中がとても熱くなった。

名前を呼ばれただけで、こんなにドキドキするなんて。

生まれてから、何度も呼ばれ続けてきた自分の名前。聞き慣れているはずの音なのに、彼の声で紡がれるそれは、生まれて初めて耳にする、遠い異国の言葉のようだ。好きな人が呼ぶ自分の名前は、こんなにも愛しくて、こんなにも特別に感じられる。
あぁどうしよう。困ったな。私は土俵にすら立てないと、そう思っていたはずなのに。砕けたはずの初恋を、どうにか形に出来ないかと、頭の片隅で必死に考えている自分がいるのだ。

「あんなの、ずるい」

あの人の声が、言葉が、仕草が、その存在が。
身の程知らずなこの恋心を、諦めさせてくれそうにない。


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2021.09.07

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