白くて可愛いあの子はだあれ


「え、風邪?」

私がそう聞き返すと、電話の向こうにいる幼なじみは、返事の代わりに大きなくしゃみをひとつしてみせた。いつも凛としている彼女にしては珍しく、随分間の抜けたその返事に、うっかり笑いそうになった口を慌てて噤んだ。

『そうなの…ごめん。前日にこんなことになっちゃって…お店大丈夫?』
「こっちは全然大丈夫だけど…ちーちゃんこそ大丈夫?一人暮らしでしょ?何か食べ物とか持って行こうか?」
『ダメよそんなの。あたしの家に来て、あんたまで風邪引いたら、おばあさん達困るじゃない』
「それはそうだけど…」
『それに、もしかしたら来てくれるかもしれないんでしょ?あんたの大好きな"焦凍さん"が』

いつもよりキレがないものの、電話の向こうでからかう様にそう口にした彼女に、顔が熱くなる。間違ってはいないけど、人から言われると妙に照れくさくなってしまうこの不思議な現象は、一体どういう仕組みなのだろうか。

『せっかくイヴに会えるかもしれないのに、風邪なんかひいたらつまらないじゃない』
「まぁ…来れたら行くって言ってたから、来ないかもしれないけど…」
『来る可能性だってあるんだから、あたしなんかに構ってる場合じゃないでしょ』
「でも」
『いいから。あんたはお店と自分のこと優先。あたしは大丈夫だから』
「う、うん…わかった。でも、もし本当に辛かったりとかしたら連絡してよ…?」
『ありがと。本当に申し訳ないんだけど……おばあさん達にごめんなさいって伝えておいてね』
「うん。お大事にね」

通話を終えるボタンに触れると、それを側で聞いていた祖母が、紅茶の入ったカップを片手に、心配そうに口を開いた。

「千春ちゃん、具合悪いの?」
「うん。風邪だって…明日の手伝い行けなくて、ごめんなさいって言ってた」
「それは全然いいけど、大丈夫かしら…。確か一人暮らしよね?」
「そうなの。私も本当は差し入れとか持って行きたいんだけど、『明日があるんだから来ちゃダメ』って…」
「相変わらず、しっかりしたお嬢さんね…」
「とりあえず、明日が終わったら、もう一回連絡してみようと思う」
「そうね。それがいいと思うわ」
「ちーちゃんがいない分、いつも以上に頑張るね!」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、無理しちゃダメよ」
「大丈夫!今年はカイロいっぱい買っておいたから!サンタ服あったかいし!」
「ふふ、頼もしいわね」

小さくガッツポーズをする私に、祖母はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべながら、可愛らしい花柄のティーカップの中に、小さな角砂糖をひとつ落とした。







「ありがとうございました!」

さすがは一年で一番忙しいと言っても過言ではないクリスマスだ。忙しさのあまり気づいていなかったが、いつの間にか太陽の姿は見えなくなっており、久しぶりに自分のスマホを確認すると、時刻は19時47分。閉店時間の21時まで、あと一時間と少しのところまで迫っていた。
時々休憩を挟みながらも、やはりそれなりの時間を外で過ごしていたせいか、指先の感覚がまた少しなくなってきた。両手で口元を多い、冷たくなった指先に息を吹きかけていると、カラン、と聴き慣れた鈴の音が鳴り、そこからひょっこりと祖母が顔を覗かせた。

「寒い中お疲れ様。あと一時間くらいだけど、だいぶ冷えてきたし、少し中で休憩にしない?ホットミルク作ったから」
「そうする。ありがとう、おばあちゃん」

およそ二時間ぶりに店内に入ると、既に誰もいないカフェスペースのテーブルに、ふわりと浮かぶ湯気が二つ。置かれていたマグカップをゆっくりと持ち上げると、じんわりと両手に熱が染みる。

「はちみつ入りだから甘いわよ」
「おばあちゃんが作ってくれるの全部美味しいけど、やっぱりこれが一番我が家の味って感じがするなぁ」

出来立てのホットミルクを口に含むと、ミルク特有の優しい香りと、蜂蜜のまろやかな甘みが広がる。まだ紅茶も飲んだことのなかった小さな頃から、この味はずっと身近にあったものだ。優しくて、あったかくて、まるで彼女そのものような、大好きな我が家の味だ。

「なまえが呼び込みいっぱいしてくれたお陰で、今年もなかなか好調ね」
「うーん、でもやっぱり、ちーちゃん居てくれた方が売れ行きはいい気がするなぁ。美人さんだし」
「ふふ、なまえだってとっても可愛いのに」
「おばあちゃん、それはたぶん孫フィルターだよ」

そんな話をしていると、店内にある古い掛け時計が、ちょうど20時を知らせる音を鳴らした。

「あと一時間か…」

来れるとしたら今日って言ってたけど、この感じだとたぶん無理かな…。

「来てくれるといいわね」
「うーん、でも、来れたら来るって言ってたから…焦凍さん、絶対忙しいだろうし…」
「ふふ、やっぱり焦凍さんのこと考えてたのね」

向かい側で同じホットミルクを飲みながら、祖母はしてやったりという表情を浮かべてみせた。
昔からいつもこうなのだ。祖母の纏う雰囲気は居心地が良くて、隠そうと思っていたことでさえ、うっかり喋ってしまうのだ。

「ち、違うもん!」
「今はっきり名前出してたじゃない」
「いや、それは…っ、っていうか!おばあちゃんが『来てくれるといいわね』って言うから…っ」
「あら。別におばあちゃんは、焦凍さんのことだなんて言ってないわよ?」
「……休憩終わり!ごちそうさま!!」

残っていたホットミルクを一気に飲み干し、逃げるようにしてその場を立ち去る。友達相手なら多少照れくさいくらいで済むのに、それが家族となると、さらに恥ずかしくてそわそわしてしまうのだ。

そりゃあ確かに、来ては欲しいよ。欲しいけども!

まだむず痒い気持ちを引きずりながらも、店のドアをいつもより少し強めに開けると、店員がそこにいなかったからか、そこには少し困った様子の若いカップルが立っていて、突然店から現れた私に向かって、遠慮がちに「すみません」、と声をかけてきた。

「ご、ごめんなさい!お待たせしました…!えと、ケーキですかね?」
「はい。まだありますか?」
「サイズが3種類あるんですが、どちらにしましょうか?」
「じゃあ、一番小さいサイズ、ひとつで」
「かしこまりました。お持ち歩きのお時間は…」
「30分くらいです」
「じゃあ、保冷剤一応つけておきますね」

注文を聞いて先に会計を済ませ、一番小さなホールケーキの箱と、ケーキ用のキャンドルを袋に入れる。作ることが好きなのはもちろんだが、こうしてケーキを包んでいる時間も、実は結構好きだ。お客さんの手にケーキの箱を渡すその瞬間までの間、美味しく食べてもらえますようにと、そんなささやかな祈りを込める時間なのだ。

「お待たせしました。一番小さいホールをお一つですね。ありがとうございました」

ケーキの入った袋をカップルの女性の方に渡すと、すぐに立ち去るかと思いきや、その女性はなぜかそこに立ち尽くしたまま、何かを言いたげな様子で私の顔をちらちらと見た。

「えっと、どうかされましたか…?」
「お姉さん、紅茶お好きですか?」
「え?はい。好きですけど…」
「これ、良かったら貰ってくれませんか?」

そう言うと、彼女はペットボトルの紅茶を私に差し出した。キャップの色がオレンジなので、おそらく暖かい紅茶だろうが、見ず知らずのケーキ屋の店員に、なぜこれを渡そうと思ったのだろうか。

「さっきコンビニのくじで貰ったんですけど、私あったかい紅茶って苦手で…」
「でも…いいんですか?」
「はい。あの、昼間もここを通ったんですけど、お姉さん、ずっと売り子さんやってますよね?寒いだろうし、もしご迷惑じゃなければ…」
「全然迷惑じゃないですよ!むしろ嬉しいです!ありがとうございます!」

そう返事をした私に、女性は照れたように笑ってみせると、遠慮がちにペットボトルを差し出しながら、「頑張ってください」と優しい言葉をかけてくれた。







サンタクロースのままでいれば良かったと、後悔した時には遅かった。後は片付けだけだし、まぁそれほど時間はかからないだろうとタカを括っていたが、よくよく考えなくとも、いつもはちーちゃんと二人で片付けをしていて、その彼女が今日はいないのだから、その分片付けにも余分に時間がかかるわけで。

「寒…っ」

コートを着ているとはいえ、やはり内側にいくつものカイロが搭載されていた、あのサンタ服に勝る防寒力はない。

「あ、これ…すっかり忘れてたな…」

先ほど貰った紅茶のペットボトルは、もうすっかり冷たくなってしまっていた。あの後すぐに飲もうと思ったのだが、閉店間際に立て続けに接客をすることになったため、飲むタイミングをすっかりなくしてしまったのだ。

さっきのあのカップルさんは、今頃一緒にケーキを食べてるのかな。

冷たくなったペットボトルを見つめながら、そんなことを思った。今日は朝から忙しくて、沢山の人がケーキを買ってくれて、とても充実した一日だったはずなのに、幸せそうに去っていったあのカップルの後ろ姿を思い出して、どこか寂しい気持ちが残る。
いつも一緒にいてくれる幼なじみが、今日はいないからだろうか。それとも。

「やっぱり、会えなかったな…」

誰にも聞こえないくらい、小さな声でそう呟くと、それを掻き消すかのように、凍えるような冷たい風が吹いた。

「あ…っ!」

急に吹いたその風に気を取られ、うっかり手を離してしまった。先ほどまで手の中にあった小さなペットボトルは、緩やかな坂道をコロコロと滑り落ちる。慌ててそれを追いかけると、ちょうど曲がり角から現れた誰かの足に、こつん、と軽く当たるのが見えた。

「す、すみません!それ私ので…っ」

なんだろう、この感じ。
前にもすごく似たようなことが、あったような。




「すげぇ見覚えのある感じだな。これ」

暗くて最初はわからなかったものの、そう呟いた低い声に、その出来事を思い出した。あの時も、こうして私が落としたものを、彼が拾ってくれたのだ。

「こ、こんばんは」

深く被ったその黒い帽子の、ほんの些細な綻びさえ、私の目にはもう焼き付いている。ありきたりな挨拶をすると、その帽子の持ち主は、拾い上げたペットボトルを差し出しながら、「おう」、と小さく声をあげた。

「すみません…また拾っていただいて、ありがとうございます。焦凍さん」
「チョコの次はこれか」

そう言いながら、ふっと軽く笑う彼に、例によって心臓が跳ねた直後、私はちょっとした違和感に気づいた。もう12月も終わるというのに、彼はなぜかコートも着ずに、それを手に持っていて、剥き出しになっているその首筋には、じわりと滲む季節外れの汗が伝っていた。

「どうかしたか?」
「あの、もしかして、走って、きたんですか…?」
「あぁ。よく分かったな」

焦凍さんはあっけらかんとそう言うが、嬉しくて思わず泣きそうになる。一日の仕事を終えた後で、絶対疲れているはずなのに。

「本当は19時に終わる予定だったんだが、その後ちょっと長引いて、結局こんな時間になっちまった。ごめんな」
「い、いいえ!そんな!全然…っ!あ、あの、とりあえず、寒いので、お店の中にどうぞ…」

焦凍さんに会えただけで、この人の顔をひと目見れただけで、とても嬉しい。そんなこと、恥ずかしくてとても口には出せないけれど。

走って降りた坂道を、今度は彼と一緒に登る。これは夢なんじゃないかと、何度も隣を確認しては、前だけを真っ直ぐ見ているその端正な横顔に、今日はほとんど立ちっぱなしだったのに、不思議と足どりは軽くなった。




「ずっと外にいたのか?今日は」

外の荷物と一緒に店の中に入ると、焦凍さんは私にそう尋ねてきた。

「はい。大体は外にいましたね」
「そうか。寒い中大変だったな」
「忙しいと寒さもそんなに感じませんし、大丈夫ですよ」
「嘘つけ。鼻真っ赤にしてんじゃねぇか」

そう言うと、彼は急に私の方へと左手を伸ばし、右側の頬にそっと包み込むようにして触れた。

「へ…」
「ほらみろ。すげぇ冷たくなってんじゃねぇか」
「な、ななななんですか急に!!」
「いや、これで少しはマシになるんじゃねぇかと思って」

焦凍さんがそう言うと、右の頬に触れた彼の左手から、じんわりと暖かい熱が伝わり始める。ほんの一部が暖められただけなのに、彼の手に触れられていることにドキドキして、それはまるで魔法のように、冷えきった身体を内側から溶かしていくような、そんな気がした。

あ、そっか。この人の、"左"は…。

焦凍さんのことを初めてネットで検索した時、彼の個性についての記述も読んだことがあった。右半身からは氷、左半身からは炎が出せる個性で、それぞれご両親から半分ずつ受け継いだ力であると、そこにはそう書かれていて、生まれつきヒーローらしい個性を持った人なんだなと、その時の私は、ぼんやりとそんなことを考えていた。

「……燃やすだけじゃなくて、暖かくしたりも出来るんですね。すごい」
「普段の日常生活では、あんま役に立たねぇ個性だけどな。氷も炎も」
「そんなことないですよ!火があればガスコンロ要らずですし、氷があれば冷蔵庫要らずで、かき氷だって作り放題です!十分すごいです!素敵です!」

私がそう言うと、焦凍さんはぽかん、とした顔を浮かべてから、少しだけ照れたように笑ってみせた。

「はは…かき氷は、さすがに季節外れだろ」
「それは、そうですね…」
「まぁでも、お前らしい感想だな」
「そうですか?」
「あぁ。……それにしても」
「どうかしましたか?」
「お前の頬、すげぇ触り心地いいな」
「へ?」
「餅みてぇ。お前肌白いし」

始めは左手だけだったのに、いつの間にか右手も私の左頬に触れていて、焦凍さんは両手を軽く挟むように動かしながら、私の頬をぺたぺたと触り続けた。
触れられているだけならまだ、いや、それも心臓に良くはないのだが、百歩譲ってまぁいいとしよう。問題なのは、彼の視線だ。両手で包んだ私の顔を、焦凍さんは全く顔色ひとつ変えずにじっと見ていて、それがとても居た堪れない。嬉しいけどちょっと、いや、だいぶ恥ずかしい。

こんな綺麗な顔の人に、これ以上見つめられたら死ぬ。死んでしまう。

「あ、あの…焦凍、さん…」
「ん?」
「さすがに、そろそろ…離して、もらえると…」

視線を泳がせながら、観念したようにそう口にすると、焦凍さんは小さく声を上げてから、そっと両手を私の顔から離した。

「その、悪かった」
「い、いえ…全然、大丈夫です、けど…」
「……そうか」

彼がそう小さく返事をすると、私たちの間に妙な沈黙が流れる。店内にある時計の音だけが響き、絶妙な気まずさを演出していた。

どうしよう。気まずい。恥ずかしい。
何か、何か適当な話題を───




「なまえ、そろそろ片付けてお夕飯に…って、あらあら…まぁまぁ…!」

私を呼びに来たであろうその人物は、向かいに立つ彼の姿を見るや否や、まるで少女のように目を輝かせながら、嬉しそうに声を上げた。

「焦凍さん、こんばんは」
「すみません。勝手にお邪魔してます」
「いいのよ〜。忙しいのに来てくださったのね」
「営業時間外ですけど、買って帰っても大丈夫ですか?」

彼がそう口にすると、祖母は何かを考えるようにして、うーん、と唸りながら首を傾げた。しばらくそうしていたが祖母だったが、何かを閃いたのか、先ほどと同じく、キラキラした笑顔を浮かべながら、もう一度焦凍さんの方を見た。

「焦凍さんは、もうお夕食は済ませたのかしら?」
「いえ、これから…」
「じゃあ、良かったら家で食べていきません?」
「え」
「ちょ、おばあちゃん…!またそんな、急に…!」
「お店の分とは別に、ウチの分でケーキを一つ残してるんです。私達もこれから夕食なので、ご一緒出来ればケーキも食べてもらえるし、ちょうどいいかなって思ったの」
「けど、迷惑じゃ」
「迷惑なんて。ねぇ?なまえ」

そんな答えが分かりきったことを、祖母はにやにやと笑いながら私に尋ねる。祖母が私に視線を向けたからか、焦凍さんも同じように私を見て、その反応を伺っているようだった。

「わ、私は…焦凍さんが迷惑じゃないなら…」
「ね?なまえもこう言ってるし、焦凍さんさえ良ければぜひ」

祖母のダメ押しに、彼は少しだけ間を空けてから、小さく首を縦に振った。

「じゃあ、お邪魔します」

淡々としたその返事に、祖母はにっこりと微笑み、私の方をちらりと見てから、可愛らしいウインクをひとつしてみせた。







「口に合うか分からんけど、沢山作ったから、遠慮せず食べてってね」
「はい。いただきます」

う、うちのダイニングに、焦凍さんが、いる…!

冷静に考えると、これはとんでもない光景ではないだろうか。世界中に何千人、何万人とファンがいるようなプロヒーローと、一緒に食卓を囲んでいるなんて。

「どうかな?若い人には味がちょっと薄いかな?」
「いえ。とても美味しいです。すごいですね。男性でこんなに料理上手なんて」
「これくらいしか、取り柄がないもんでね。えーっと、焦凍くん、だったかな?君もどう?一杯」
「ちょ、おじいちゃん、焦凍さん運転するから、お酒は…」
「え、そうなの?」
「いえ、今日は普通に歩きなので大丈夫です。いただきます」

彼はそう言うと、ビール瓶をすでに傾けて待ち構えている祖父の手元に、空のグラスを近づけた。グラスに注がれたおなじみのアルコールを、彼は躊躇うことなく身体に流し込む。
普段飲み会にも合コンにも行かないからか、男の人がお酒を飲む姿をこんなに間近で見るのは、家族以外では久しぶりだ。

「お、結構いけるクチだね。ウチは僕以外お酒強くないから、久々に飲める人がいて嬉しいよ」
「あら、私だって嗜む程度には飲めますよ」
「あ、そうだ。この間お土産に貰った塩辛あったかな」
「あぁ、あれね。すぐ取ってきます」

珍しく少し拗ねたような素振りを見せた祖母に、祖父はそれとなく話題を逸らし、見事に夫婦の危機を回避してみせた。さすが長年夫婦をしてると、こういう間合いは見事なものだ。

「お前は、あんまり飲まないのか?」

祖父母の様子にぼんやりとそんなことを考えていると、焦凍さんは唐突にそんなことを口にした。

「そうですね。あんまり強くないので…」
「見た目通りだな」
「そうですか?」
「あぁ」

彼は短く返事をすると、再びグラスを傾けながら、中に入っているビールを飲んだ。

「あ、お鍋取りますけど、嫌いなものとかないですか?」
「特には」
「じゃあ、適当に取っちゃいますね」
「あぁ、ありがとな」

鍋の取り皿をひとつ取り、ぐつぐつと煮える鍋から、いくつか具材を取り分けてみる。男の人だし、野菜よりお肉や魚の方がいいのだろうか。でもプロヒーローだし、栄養のバランスも考えて、満遍なくある方がいいのだろうか。そんなことを考えながら、結局後者を選び取り、一通りの具材をお皿に盛り付けた。

「どうぞ。熱いので気をつけてくださいね」
「なんか悪ぃな。何もしなくて」
「いえいえ。焦凍さんは、お客さんですから。それに誘ったのはこっちですし…」

私がそう言うと、彼は私が差し出した茶碗を受け取りながら、「ありがとな」、と小さく呟いた。

「いやぁ、にしてもイケメンだなぁ!焦凍くん!」
「そうですか」

いつの間にかすっかり出来上がっていた祖父は、グラスに注がれたビールをくいっと一気に流し込むと、とても楽しそうに笑いながら、全く出来上がる様子のない焦凍さんに絡み始めた。

「で、どうなの?焦凍くんから見て、うちの孫は」
「え」
「は!?」
「いやほらだって、こないだも来てくれてたし、今日もわざわざ仕事終わりに来てくれたし、なまえのことどう思ってるのかなぁって」
「あなた、少し飲み過ぎですよ」
「で、どうなの?率直に君から見て、うちの孫はどうなの?」

祖母の制止も虚しく、祖父は再び同じ質問を彼にした。お酒の勢いでとんでもないことを言い出す祖父に、心臓が止まりそうになる。そんなイベントがあるなんて予想していなかったし、答えによっては、この場で失恋が確定してしまう可能性だってあるわけで。

やだ。怖い。

全然違う話題を、無理やり捩じ込んでしまおうか。卑怯だと思われたっていい。その答えを聞く覚悟などなど、今の私は持ち合わせていない。

「あ、あの」
「率直に、ですか」

話題を変えようとした私の言葉を遮るように、彼はぽつりとそう呟いた。隣にいる私の顔を見てから、少し考えるように上に視線を向けたあと、もう一度祖父の方に顔を向けて、焦凍さんは、その薄い唇を静かに開いた。

「可愛いと思います」

まるで時が止まったようなその感覚は、これで二度目だ。
一度目は、初めて彼と会った時。この人のあまりの綺麗さに言葉を失い、一瞬世界が止まったように動けなくなった。そして今、再びその瞬間は訪れた。

「まぁ…!」
「ははっ、なんだろうなぁ。自分で聞いておいてなんだけど、嬉しいようなムカつくような、複雑な心境だなぁ」
「良かったわねぇ、なまえ。可愛いですって」
「え、えっと…あの…」

年甲斐もなく興奮する祖父母を余所に、私の頭はパニックだった。好きな人から「可愛い」と言って貰えたのに、嬉しいよりも、戸惑う気持ちの方がずっと大きい。大きく高鳴る心臓の鼓動が、嬉しくてドキドキしているのか、戸惑いのあまりドキドキしているのか、私自身にもわからなかった。
今まで異性とほとんど関わってこなかったせいで、こんな時の適切な対処がわからない。そもそもこの人はどういう意図で、その言葉を口にしたのだろう。言葉というのは曖昧で、不確かで、ただそれを切り取っただけでは、その本質は分からないものだ。

「か、わいいって、どういう意味、ですか…」

絞り出すように口にしたその問いかけを、私はすぐに後悔することになる。

「どうって、そのまんまの意味だぞ」

自分にとって、この人の言葉がどれほど大きなものなのかを、思い知らされただけだった。激しく脈を打つ心臓は、いつ壊れてもおかしくないほどに、大きな音を立て続けている。胸がドキドキして苦しいなんて、そんなこと、今までの人生であっただろうか。

どうしよう。焦凍さんの顔、見れない。

膝の上で両手をぎゅっと握りしめながら、私はそれからしばらくの間、ぐつぐつと煮え続ける鍋の中身を、ただ見ていることしか出来なかった。


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2021.09.22

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