うわごと


期末テストを終え、あとは年度末に郵送される成績表を待つのみとなった。我ながら単純だなと思うが、好きな人から貰ったお守りの力は絶大で、いつもなら苦痛で仕方のないテスト勉強の時間が、不思議と全然辛くなかった。
なくすのが嫌で、なかなか付けられなかったあのお守りは、色々つける場所を迷った末に、結局スマホにつけることにしたのだが、それを見た勘の鋭い幼なじみから、盛大に冷やかされることとなったのは言うまでもない。




「よ、よろしくお願いします…!」

そして、彼がお守りをくれた最大の理由である、私に課せられたもうひとつの試練が、今まさに幕を開けようとしていた。

「分かってると思うけど、孫だからって、妥協はしないからな」
「なまえの作ったケーキ、楽しみだわ」

買い集めていたチョコを試食したり、他のお店のケーキも参考にしながら、少しずつアイデアを膨らませて形にしたものを、ようやく見せる時がきた。
もちろんテストも緊張はしたのだが、別の種類の緊張が高まり、心臓がバクバクと音を立てている。

「こ、こちらです…」

切り分ける前のケーキを二人の前に置くと、二人はじっとそれを見つめ、細部に至るまでしっかりと確かめた。

「いつもなまえが作るものと違って、落ち着いた見た目ね」
「確かにそうだな」
「毎年出してるやつは白いケーキだから、見た目が違う方がいいかなと思って」
「なるほどな」

毎年バレンタインの時期に出す定番のケーキは、ホワイトチョコがメインで、粉雪をイメージしたハート型のものだ。ふわりとした見た目のそれとは対照的に、甘さを控えたグラサージュショコラでツヤを出し、なるべくパキッとした見た目のチョコレートケーキを作ったのだ。

「ツヤを出すのがかなり上手くなったな」
「それに、上のチョコ細工も、前より繊細さが出せるようになっているわね」
「ほ、ほんと…?」
「そうだな。強いて言うなら、もう少し華やかさがあるといいかもな」
「アラザンより、金箔の方がいいんじゃないかしら。このチョコ細工の上から少し置いてあげると、だいぶ見た目が締まると思うわ」
「おお、それそれ。そんな感じがいいと思う」

二人のアドバイスを忘れないように、スマホのメモにそれを残す。身近にこうして先生が二人もいるというのは、やはり贅沢な環境に身を置いているなと、改めて思う。

「次は、肝心のお味のほうね」
「そうだな。じゃあなまえ、切り分けて貰えるかな?」
「は、はい…っ」

ケーキナイフを使い、二人分のケーキを切り分けて、一人分ずつお皿に乗せる。その断面から、チョコレート色の外側とは違う色合いが見えると、二人は少し興奮気味に、おぉ、と声を揃えてみせた。

「中は土台も含めて、三層構造になってるのね!外と違って、ピンクとクリーム色の層が色鮮やかでいいわ」
「切って並べた時の見た目は、なかなかインパクトがありそうだな」
「上のピンクのがカシスのムースで、下がクレームブリュレ。一番下の土台は、ココアと3種類のスパイスを練りこんだ、パンデピスにしてみたの」
「スパイスは何を?」
「シナモンとアニスと、あとブラックペッパー」
「面白い組み合わせね」

一通り中身の説明をすると、二人はそれぞれにフォークを持ち、ひと口分に掬いとったケーキを、ほぼ同じタイミングで口に入れた。味わいながら、ゆっくりとそれを噛み締める二人に、心拍がどんどん速くなっていく。

「ど、どうかな…?」
「美味しいわ…!」
「ほんと…!?」
「スパイスがいいな。味が単調にならず、深みを出してる。ナッツとか入れて食感を出すのもいいかもしれない」
「ナッツか…砕いて土台に混ぜ込んだらいいかも」
「今までウチのケーキで、こういう味は出したことないし、新しくていいんじゃないですか?あなた」

祖母が嬉しそうにそう言うと、祖父は飲み物を口に含みながら、小さく縦に首を振った。

「そうだな。まだ少し改良の余地はあるが、今年はなまえの作ったものも、フェアメニューに加えよう」
「あ、ありがとう…!あと数日間で、もっといいものに仕上げるね…!」

今度は緊張とは違う意味で、心臓がドキドキする。所謂期待に胸踊るというやつだ。まだまだ直すところがあるとはいえ、夢にまた一歩前進できたことは間違いなく、素直に今はそれを喜びたい。それに。

お守りの効果、やっぱり絶大だったなぁ。

スマホにつけた小さなお守りを、そっと指で撫でる。このお守りをくれた彼の優しさに、ちゃんと応えられたことが、とても嬉しい。

「にしても、今回は随分と大人びたケーキにしたんだな」
「う、うん。まぁ…」
「そりゃあ一番食べて欲しい人が大人の男の人だと、自然とそうなっちゃうわよねぇ」
「あぁ、焦凍くんか」
「ち、ちが…っ」
「あら、違うの?」

最初からそうしようと思っていたわけではない。万人受けする定番のケーキとの差別化のため、ターゲットを絞り込むことは、初期の段階で決めていたことだった。
でも確かに試作を進めていくうちに、これだと少し甘すぎるかな、とか、男の人にはどうだろう、とか、自然と頭の中に彼が浮かんでしまっていたことは、紛れもない事実で。

「し、知らない…っ」

違うけど、違わない。そんな複雑な意味を込めて、絞り出すようにそう言い放つと、祖父母は揃って吹き出すように笑い声をあげてから、次のひと口をぱくりと頬張った。







無事にバレンタインのケーキが採用されたのは良かったものの、とある重大な問題に、私は頭を悩まされていた。完全に自業自得であるが、結局焦凍さんに連絡先を聞けていない私は、彼にそのことを伝える手段がなかったのだ。
時の流れというのは非情なもので、そうこうしている内に、あっという間にバレンタイン当日を迎えてしまい、私は一人、とある場所で途方に暮れていた。




「やっぱりそんな、都合良く会えるわけないか…」

必死に足りない脳みそを使って考えた結果、以前パトロール中の焦凍さんと偶然会った公園に、あの日と同じくらいの時間にやって来た。もしかしたら、また偶然彼に会えるかもしれないと、一縷の望みにかけて。
しかし、いつか幼なじみが言っていたように、そう何度もチャンスを与えてくれるほど、神様というのは優しくないらしい。

「帰ろうかな…」

待つことを考えて、それなりの防寒はしてきたものの、やはり2月の外は寒い。だんだん日も落ちてきたし、明日も普通に学校だし、そろそろ待つのも潮時な気がする。
そう思い、座っていたベンチから立ち上がろうとした次の瞬間、何かが刺さるような感覚を感じた。それは物理的なものではなく、誰かの視線が向けられているような、そんな感覚だった。
しかし辺りを見回してみても、特にそれらしい人物の姿はなく、いつの間にかその感覚も消えていた。

気のせい、だったのかな。




「よっ、元気?」
「ぅわ…っ!!」

後ろから急に聞こえた声に、思わず大きな声が出た。驚いて勢いよく振り返ると、相変わらず溌剌とした笑顔を浮かべた、金髪の男の人が立っていた。その少し後ろには、もう一人別の男の人が立っていたが、残念ながらそれは焦凍さんではなく、ベージュ色の髪が特徴的な、赤く鋭い目をした人だった。

今の視線は、上鳴さんだったのか…。

「あはは、んな驚かなくても」
「す、すみません…びっくりして…」
「ごめんごめん。こんなとこで何やってんの?」
「え、えっと…」

返事に詰まっていると、上鳴さんは私の持つ袋に気づき、それを少しの間じっと見てから、あ!と嬉しそうに声を上げた。

「ははーん?その手に持ってるのはあれですな?轟へのバレンタインですな?」

その言葉に、顔がかっと熱くなったのが分かる。上鳴さんとはこの間一度会っただけなのに、既に私の気持ちは、彼に知られてしまっているらしい。

「乙女だねぇ。で、いつ轟に渡すの?」
「え、えっと…それが…」
「どした?」
「食べてもらう話は…してたんですけど、私、焦凍さんの連絡先を知らなくて…」
「え、そうだったの?」
「前にここでお会いしたので、もし今日もパトロールなら、会えるかなって、思ったんですけど…」
「あぁ、なるほど。だからこんな寒ぃのに、一人でこんなとこにいたんだな」
「でも、やっぱりそんなに都合よくはいかなくて…なので、今日はもう」
「よっしゃ、じゃあ俺らが轟んとこまで連れてってやるよ!」

上鳴さんはそう言うと、ポン、と軽く私の肩を叩きながら、任せとけ!と笑って言った。

「は、はい…?」
「心配すんなって!ちゃんと会わせてやっから!確かあいつ、今日の夕方に会議があるって言ってたから、事務所にいるはずだぜ!」
「い、いや、あの、そうではなくて…」

彼のご好意はとてもありがたいことだが、会議があるということは、焦凍さんは普通に仕事をしているということになるわけで、仕事中に押しかけるというのは、さすがに無茶がありすぎる。

「おいアホ面」

上鳴さんの申し出をどう断ろうかと思っていると、それまで一言も喋らなかったもう一人の男の人が、ひどく不機嫌そうな声でそう呟いた。
どうやらそれは上鳴さんに対する呼び名のようで、綺麗な金髪をさらりと揺らしながら、彼は自分を呼ぶ人物の方へと振り返った。

「どったの?爆豪」
「どうしたのじゃねぇわ。んで俺まで一緒に行く感じになってんだよ。つーかそもそも、その女誰だ」

"バクゴウ"と呼ばれたその人は、気怠そうにそう口にすると、私の方へじとりと視線を向けた。鋭い眼光にはなかなかの威圧感があり、咄嗟に思わず身構えてしまった。

「ほらー、前話したじゃん!轟の知り合いの子!みょうじなまえちゃん!」
「覚えてねぇわ」
「あら嫌だ。爆豪さんともあろうお方が、もうボケが始まってますの?」
「殺すぞてめぇ」
「きゃー、こわぁい」

やり取りを見ている限り、なんだかんだで仲は良さそうな印象だ。言葉遣いは乱暴だが、上鳴さんと親しいということは、バクゴウさんという人も、きっと根は良い人なのだろう。

「よし、じゃあ早速、エンデヴァーの事務所行こうぜ」
「あ、あの…さすがにお仕事中に尋ねるのは、ご迷惑だと思うので…私は…」
「大丈夫大丈夫!渡すだけなら、すぐ終わるし!」

焦凍さんに会いに行くことを渋る私に、上鳴さんはなぜか自信満々にそう言いながら、ニカッと眩しい笑顔を見せた。

「おい。俺を無視して勝手に話進めてんじゃねぇぞ」
「爆豪は、俺が轟を連れてくるまでの間、エントランスでなまえちゃんのボディーガードな」
「聞けや」
「いいじゃんいいじゃん。困ってる人を助けるのが、俺たちヒーローの仕事っしょ?」
「てめぇはただ面白がってるだけだろうが」
「何言ってんだよ。これも人助けだぜ?」

呆れたように小さくため息をつくバクゴウさんを余所に、上鳴さんは再び私に向き合うと、な!と再び歯を見せて笑った。

「さ、行こうぜ!出動要請とか入っちまったら、捕まえられなくなっちまうから、ちょっと急ぎめにな!」

上鳴さんは私の腕を軽く掴み、そのままそれを引いて歩き出し、文句を言っていたバクゴウさんも、盛大な舌打ちを落としつつ、少し遅れて歩き始めた。

なんだろう。このちょっと強引な感じの既視感。

焦凍さんとは全く違うタイプなのに、そこだけ妙に似ているのは、同期で仲が良いからなのだろうか。どんどん先に進んで行く彼に、結局されるがままになっており、まさかこんなことになるとは思わなかったので、頭の中はプチパニックだ。
ヒーローというのは、多少強引な人じゃないと務まらない仕事なのだろうかと、大変失礼ながらも、そんなことを思ってしまったのだった。







焦凍さんのお父さんである、エンデヴァーの事務所の場所は知っていた。
ヒーロー事務所の中でも最大手だし、とても分かりやすい目印になるので、数回ほど待ち合わせ場所に使ったことがあるが、中に入るのは今日が初めてだ。

働いてる人、みんな仕事出来そうだなぁ。

エントランスのソファに座りながら、そんなことを思った。こんな大きなヒーロー事務所を、いずれは彼が継ぐことになるのだろうかと、虚しい想像に浸りながら、自分と彼の生まれの違いを改めて感じた。

それにしても。

ちらりと右側に視線を送る。もともと乗り気ではなさそうだったので仕方がないが、私と少し距離を取りながら、明らかにイライラした様子で座る爆豪さんに、じわりと背中に冷や汗が滲む。

「……何見とんだ」

突然聞こえたその声に、身体がぴくりと跳ねる。こちらに一瞥もくれることなく、前を見たままそう言った彼は、そんな私の様子を察したのか、小さくひとつ舌打ちを落とした。
威圧的なそのオーラが少し、いやだいぶ怖いが、このままずっと沈黙で居続ける方が、メンタルをやられてしまいそうだった。

「え、えっと…あの…」
「んだよ。さっさと言えや」
「爆豪さん、は…焦凍さんのお友達、なんですか…?」
「あ?俺があんな舐めプ野郎と、オトモダチなわけねぇだろ」

口調はやや乱暴だが、思っていたよりもちゃんと話をしてくれたことに、ひとまず胸を撫で下ろす。

ところで、"なめぷ"って、なんだろう。

「す、すみません…ここに来る途中で、上鳴さんが爆豪さんも同じクラスだったと言ってたので、てっきり、そうなのかと…」
「昔からスカしてて、いけ好かねぇんだよ。あの野郎は」
「そ、そうなんですか…」
「あんな奴のどこがいいんだか、俺には皆目理解出来ねぇわ」
「はぁ…」

上鳴さん曰く、焦凍さんと爆豪さんは学生時代からいつもトップを競っていたらしいが、それでいくと、二人は旧友というよりも、ライバル関係に近いのだろうか。
あの焦凍さんが、誰かとバチバチしている感じは、あまり想像できないけれど。

「おい」

彼らの関係性について、勝手な考察をしていると、不意に爆豪さんが短くそう口にした。

「な、なんでしょう…」
「お前、あいつのことは、どこまで知っとんだ」
「え?」

突然尋ねられたその質問に、頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになる。

あいつのことって、焦凍さんのこと?
どこまで知ってるのかって、どういう意味?

「あ、あの…それは、どういう…」

質問の意味が分からず、そう聞き返した私を、爆豪さんはじっと見てから、そうか、と小さく呟いて、そのまま顔を横に逸らした。

「何でもねぇ。今のは、忘れろ」
「忘れろって…そんなの…」

そんな言い方をされて、忘れるなんて出来るはずもない。しかし私の次の言葉は、少し離れた場所から聞こえてきた、快活な声に遮られてしまった。

「お待たせ〜!連れてきたよ〜!!」

勢いよく手を振りながら、こちらに駆け寄ってくる上鳴さんに、周囲の視線が集まる。しかし次の瞬間、私の意識はすぐに別の場所に持っていかれた。上鳴さんをため息混じりに見つめながら、少し後ろを歩くその人の姿に、心臓がとくん、と音を立てる。

「ちょっと久しぶりだな」

私の前までやって来ると、彼はいつもの淡々とした表情でそう呟いた。

「こ、こんにちは…」
「なんか元気ねぇけど、大丈夫か?また飯食ってねぇのか?」
「ち、違います!今日はちゃんと食べてます!」

先ほどの爆豪さんの言葉がまだ頭の中をぐるぐるしていたものの、先日の恥ずかしいエピソードを掘り返されてしまい、ムキになってそう言い返すと、焦凍さんは少し目を丸くさせた後、そうか、とひとつ笑みを零した。

「あの、すみません。お仕事中に…ご迷惑でしたよね…」
「お前が謝らなくていい。どうせ上鳴が、無理やりここまで連れてきたんだろ」
「い、いえ、そんな…」
「失敬な!親切だよ、親切!」
「それに、ちょうどさっき会議が終わった所で、少し休憩しようと思ってたから。で、用件聞いてねぇんだが、今日はどうした?」
「え、えっと…」
「なまえちゃん、お前に渡したいものがあるんだって!」
「渡したいもの?」
「そ!なー、なまえちゃん!」

上鳴さんの言葉を聞き、一度は彼に向けられていたその視線を、焦凍さんは再び私に戻す。二人が見ている前で渡すのはかなり恥ずかしいが、せっかくここまで連れてきてもらったのだから、それを無下にしてしまうのは申し訳ない。
意を決して、手に持っていた紙袋を目の前に出すと、焦凍さんは再び目を少し見開いて、不思議そうにそれを見つめた。

「あ、あの…前にお話してた、バレンタインの、やつ…で…その、無事に、と言いますか、お守り効果と言いますか…お店で採用してもらって…それで…」
「あぁ、そのことか」
「は、はい…。採用されたら、お渡ししますって約束だったので…」
「どっかのタイミングで行こうと思ってたんだが、最近忙しくて時間取れなくて…俺から言ったのに、わざわざ来させて悪かったな」
「い、いえ、全然!……あの、冷蔵庫か、もしくはエアコンのついてない部屋とかに置いておいておけば大丈夫なので、お暇な時に食べていただければ…」
「今じゃダメなのか?」
「え?」
「今食べたら、ダメなのか?」

しれっとそう口にした彼に、思わず言葉を失った。
受け取ってもらえるだけでも十分だと思っていたので、私にとってその言葉は、あまりにも予想外なものだった。

「だ、ダメじゃないです、けど…」
「じゃあ、3階に休憩スペースあるから、そこで食うか。案内する前に、入館証貰ってくるから」
「え、あ、あの…私も、一緒に行くんですか?」
「来ないのか?」
「でも、その、私完全に部外者なんですけど…」
「だから入館証貰ってくるって話だろ」
「それは…まぁ、そう、ですね…」
「じゃあちょっと待ってろ。上鳴、爆豪。お前らも休憩がてら寄ってくか?」

焦凍さんから急に話を振られた二人は、かたやとても嫌そうに、かたやとても嬉しそうに、なんとも対照的な表情を浮かべていた。

「誰が行くか。つーか死ね」
「俺らのことは気にせず、どうぞ二人でごゆっくり♡」
「そうか。じゃあなまえ、ちょっとここで待っててくれ」
「は、はい…」

私がそう返事をすると、焦凍さんは少し足早に受付のある方へと歩いて行く。彼が言っていた入館証というのは、どうやら受付で発行してもらうものらしい。

「良かったな、なまえちゃん」

焦凍さんの後ろ姿をぼーっと眺めていると、隣にやって来た上鳴さんが、満面の笑みでそう話しかけてくれた。
この人が今日あの公園にいなかったら、きっと今頃しょんぼりしながら、寒い中をとぼとぼと家に帰っていたことだろう。

「は、はい…あの、ありがとう、ございました」
「どういたしまして!美味いって言ってくれるといいな!」
「はい…爆豪さんも、ありがとうございました」
「けっ、やっと解放されて清々するぜ」

ぶっきらぼうにそう吐き捨てた爆豪さんの頭を、上鳴さんは呆れたようにため息をついてから、軽くパシッと叩いてみせた。
彼に叩かれたことに腹が立ったのか、爆豪さんは今まで見た中でいちばん怖い顔で、上鳴さんをキッと睨みつけた。

「何しやがるこのアホ面が!」
「なまえちゃんにそんな態度する子は、電気が許さないっちゃ!」
「さっきからちょいちょい誰なんだよてめぇは!」

上鳴さんと爆豪さんの賑やかな掛け合いに、色んな人がちらちらとこちらを見ているのだが、二人はそんなことを気にも留める様子もなく、黙ってそれを見守っている間に、入館証を取りに行ってくれた焦凍さんが、再び足早に戻ってきた。

「待たせたな。…って、まだいたのかお前ら」
「なんだその言い草は!そもそもてめぇのせいで、この俺様がここに来る羽目になったんだろが!」
「ねぇ聞いてよ轟ぃ、さっきから、かっちゃんったらひどいのよぉ〜」
「黙れアホ面」
「お前ら、相変わらず仲良いな」
「良くねぇわ!!てめぇの目は腐ってんのか、この半分野郎が!!」
「いや、お前コンタクトだから、俺の方が視力はいいだろ。俺は裸眼だし」
「ほんとマジでムカつくなてめぇ」
「はい。久しぶりの天然いただきましたー」
「ふ…っ」

一人増えて、さらに賑やかになったその掛け合いに、申し訳ないとは思いつつも、思わずその場で吹き出してしまった。
堪えるように俯きながら笑い、ひとしきり笑い終えてから、恐る恐る顔を上げると、私に笑われたことに思うところがあったのか、三人はそれぞれに違う表情を浮かべながら、互いに視線を通わせ合った。







「フォークとかねぇんだが、手で食えるか?」

案内された休憩室の椅子に向かい合って座ったところで、焦凍さんはテーブルに置かれた紙袋を見ながら、そんなことを口にした。

「一応、紙皿とフォークとおしぼりは入れてきました。あと、口の中が甘くなっちゃうかなと思って、市販のものであれなんですが、飲み物も…」
「相変わらず、そういうとこはしっかりしてんな」
「……今、『他のところは抜けてるけど』という声が聞こえた気がします」
「はは、気のせいだろ」

彼は軽く笑いながらそう言うと、袋からケーキの入った箱を取り出して開け、その中身をゆっくりと持ち上げてから、そっとお皿の上に置いた。特に見た目に対する感想はなく、一緒に入れていたフォークを袋から取り出すと、丁寧に両手を合わせて、おなじみのポーズをしてみせた。

「じゃあ、いただきます」
「は、はい…どうぞ…」

フォークのサイズとは少し不釣り合いなその手を使い、彼は一口分のケーキを掬い上げた。祖父母に食べてもらった時と、大きさ自体は全く同じなのに、作ったケーキが小さく見えるのは、骨っぽくてゴツゴツした焦凍さんの手が、二人の手よりずっと大きいからだろう。
一口分のケーキをそのまま頬張ると、彼は無言のままもぐもぐと口を動かし、そしてすぐにそれを飲み込んだ。

「ど、どうですか…?」
「美味ぇ」
「良かったです…!」
「なんか、今まで食ったことないケーキの味だ。甘いのに、ピリッとする」
「あ、それはたぶん、土台に入ってるブラックペッパーですね。ココアの生地に、他にも色んなスパイスが入ってるんです」
「全部美味いけど、下のとこが一番好きな味だ。チョコと胡椒って合うんだな」
「チョコレートって、懐が広いと言いますか、一見合わなそうなものでも、意外と受け入れてくれるので」
「あと、酒飲む奴が好きそうだな。これ」
「ふふ、完成品が出来た時、おじいちゃんもそう言いながらワイン出してました」
「あぁ、確かに日本酒よりそっちだな」

焦凍さんは納得したようにそう言うと、二口目、三口目と、以前店で食べた檸檬のシフォンケーキよりも、さらに速いスピードで食べ進め、あっという間にそれを食べ終えてしまった。
食べる速度と、彼にとっての美味しさが比例しているのかは分からないが、ひとまず美味しいという言葉を貰えたことに、心の底から安心した。

「美味かった。ご馳走様」
「はい…あの、食べて下さって、ありがとうございました」
「こっちこそ。わざわざここまで来てくれて、ありがとな」
「い、いえ…!そんなことないです!」
「前食ったやつより、俺はこっちの方が好きだった」
「そう言っていただけて良かったです…。その、焦凍さん、バレンタインたくさん貰ってるでしょうし、あれかなとも思ったんですけど…」
「貰ってねぇぞ」

今、有り得ない言葉が聞こえたような気がするのだが、私の幻聴だろうか。焦凍さんがバレンタインチョコ貰っていないなんて、そんなことがあるわけがない。

うん。きっとこれは、都合のいい空耳だ。そうに違いない。

「あの、すみません…今なんて…」
「だから、貰ってねぇんだよ。去年からうちの事務所、バレンタイン廃止になってるから」
「は、廃止…ですか?」
「ファンからもそうだし、事務所内でもそういうやり取りはしねぇっつーことになって。まぁ簡単に言うと、色々めんどくせぇからやめろってことだな」
「な、なるほど…」
「最近は、そういう事務所も増えてるらしい」
「あの…じゃあ私が渡すのって、ひょっとして事務所的にはダメだったのでは…」

当然の疑問を口にすると、焦凍さんは私の顔を見ながら何度か瞬きを繰り返し、あ、と小さく声を上げた。上鳴さんがさっき言っていたけど、天然というのはあながち嘘でもないらしい。

「もしかして、今気づきました…?」
「……お前は別に俺のファンじゃねぇし、事務所の人間でもねぇから、セーフってことで」
「あはは、それはだいぶ強引ですね」
「細かいことは気にするな。もともと約束してたんだし」
「もう食べちゃいましたしね」
「あぁ。だからまぁ、今年はこれしか食ってねぇ」

そう言うと、焦凍さんは袋に入っていたお茶のペットボトルを取り出して、カチッと音を立てながらその蓋を開ける。彼の言葉を真に受けたうるさい心音を誤魔化すように、私も鞄から飲みかけのペットボトルを取り出して、それを勢いよく飲み干した。

「そう、ですか…」

この人は、どういうつもりでそれを口にしているのだろう。そんなことを言われてしまえば、嫌でも期待してしまうのに。

どうして、"私だけ"みたいな、そんな言い方しちゃうかな。




「そういや、テストの方はどうだったんだ」

私の期待や疑問は余所に、焦凍さんは思い出したようにそう尋ねた。言われてみれば、彼のくれたお守りはテストの"合格祈願"でもあったわけで、その結果については、多少は気になるところなのだろう。

「あ、はい…無事に終わりました」
「大丈夫だったのか?」
「正式な結果は3月に送られてくる成績表を見ないとわからないんですけど…今までで一番手応えあったので、たぶん大丈夫だと思います」
「そうか。色々頑張ったな」
「いえ…そんな…お守りの効果だと思います」
「何もしねぇ奴に結果はついてこねぇよ。お前が頑張ったからこそだろ」
「あ、ありがとうございます…」

さらりとそういうことを言えてしまうのは、もともとの性格ゆえなのだろうが、なかなかに熱いそのセリフに、今度は胸が擽ったくなった。良い意味でも悪い意味でも、この人といると、いつも心が忙しい。




「なまえは、なんか今欲しいものってあるか」

テストについてはもう聞くことがなくなったのか、なぜか彼は、次にそんなことを私に尋ねた。

「欲しいもの、ですか?」
「あぁ」
「そうですね…ぱっと思いつくものが今ないんですけど…なんでですか?」
「なんでって、お返ししないとだろ。ケーキ貰ったんだから」
「え…!?」

思わず大きな声を上げると、焦凍さんはその反応が意外だったのか、不思議そうに首を傾げた。
ケーキを受け取ってくれて、その上すぐに食べて感想までくれたというのに、さらにお返しなんて貰ってしまったら、今度こそいよいよバチが当たりそうだ。

「い、いやいや…!いいですよそんな…押し付けたようなものですし…っ、お守りも貰っちゃいましたし…っ」
「それを言ったら、俺も貰っただろ。お守り」
「まぁ、それは…そうですけど…」

欲しくないと言えば、それは嘘だ。焦凍さんから貰えるものなら、どんなものだって嬉しいと思う。でもそんなものを貰ってしまったら、きっと今よりもっと好きになってしまうし、期待もしてしまう。
自分の中で膨れ上がっていく気持ちが、いつしか抑えきれなくなりそうで、それが少しだけ怖いのだ。

「じゃあ、こうするか」

お返しを貰うことに躊躇う私を見て、しばらく黙っていた焦凍さんだったが、何を思いついたのか、俯きがちにそう口にした。

「お返しと、テスト頑張ったご褒美に、来月お前の行きたいとこに連れてってやる」
「…………え?」
「物の方が良いかと思ったけど、すぐ思いつかねぇみたいだし、俺も女が好きなもんとか詳しくねぇから、そっちの方が都合もいいしな」

冷静にそう口にする焦凍さんとは対照的に、私の頭の中は大噴火だ。大混乱だ。
今さっきの彼の言葉を、もう一度頭に思い浮かべ、繰り返す。私の行きたいところに連れて行ってやると、焦凍さんは確かにそう言った。自分にとってそっちの方が都合がいいからとか、そんなことを言っていたような気もするが、前半のそれがあまりにもインパクトがありすぎて、正直そこは朧気だ。

でも、それって、つまり───

「あ、あの…それって、二人で、出かけるってことですか…?」
「他に誰かいた方がいいか?」
「いえ…そういう意味ではなく…」
「来月だと…16日が一日休みだから、ちょっと遅いけどそこでどうだ?」
「えっと…はい…大丈夫です…どのみち春休みなので…」

スマホを取り出して、スケジュールらしきものを確認しながら、淡々と話を進める彼に、頭は全く追いつかないが、口は勝手にそう動いていた。

「じゃあ細かい話はあとで……あ。そういや俺、お前の連絡先知らなかったな」

思い出したようにそう言うと、焦凍さんは続けてスマホを操作してから、そのまま静かにテーブルの上に置いた。彼が置いたスマホのディスプレイに視線を落とすと、そこにはバーコードが映し出されており、じっとそれを見つめていると、焦凍さんは、それ俺の連絡先な、と付け足すように口にした。

「これ読み込めば、登録できるから。で、適当でいいからなんかメッセージと、あと一応番号も送っといてくれ」
「あ、はい…」

完全に考えることを放棄して、彼に言われるがまま、バーコードから読み取った連絡先を登録し、メッセージアプリを開いてから、適当な絵文字をひとつと、自分の番号を打って送った。

私って、何しにここに来たんだっけ。
私たちって、何の話をしてたんだっけ。

知らぬ間に、いや、ちゃんと見えてはいるのだが、目まぐるしく変わっていく展開に、思考がおかしくなっている。
そんな私を余所に、テーブルに置かれていた彼のスマホが大きな振動音を立てる。焦凍さんはそれをもう一度手に取り、ディスプレイに目を通すと、少しだけ間を置いてから、小さくひとつ息を吐いた。

「悪ぃ。呼び出されたから、そろそろ戻らねぇと。一人で帰れるか?」
「あ、はい…」
「入館証は、受付に返すだけでいいから」

首を静かに縦に振ると、焦凍さんはその場に立ち上がり、そくささと食べたケーキのゴミを袋にまとめてから、黙ってその様子を見ていた私の頭に、いつもと同じく手を乗せた。
その手にいつもドキドキするが、今日に限っては、この胸のドキドキが、一体何に対してなのか、はっきりよく分からない。強いて言うなら、何に対して、と言うより、彼の存在そのものに対して、という言葉が、多分いちばん合っている。

「じゃあ、またあとで連絡するから」

焦凍さんはそう言うと、スマホをポケットにしまってから、駆け足でその場を立ち去った。休憩室に一人残された私は、自分のスマホをもう一度手に取って、恐る恐るそれに触れる。連絡先のアプリを開き、画面をスクロールしていくと、今日までなかったその三文字が目に留まり、心がすごくそわそわした。

「轟、焦凍」

まるでそれは譫言のように、自然と口から溢れ出していた。耳に届いたその名前に、また胸が高鳴って、身体がとても熱くなった。その言葉を、仕草を、表情を。今日の彼を思い出して、身の程知らずな期待が募っていく。

生まれて初めて、好きになった人。
もしも初めて叶う恋の相手が、あの人だったなら。

そんな夢を見てしまうほど、私は熱にうかされていた。


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2021.10.19

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