泣き虫ヒーロー


「ねぇ、ほんとにこれで大丈夫かな…?」

本日n回目のその質問に、電話の向こうの幼なじみは、やれやれといった様子で深いため息をついた。
スマホのカメラとスピーカーをオンにして、朝からずっと私の身支度を見守ってもらっていたのだが、時間が経てば経つほどに不安は増して、何度も鏡を確認しては、同じ質問を繰り返していた。

『大丈夫よ。髪もちゃんと綺麗に巻けてるし、服だって、一緒に見に行ってあげたでしょ?』
「で、でも、メイクとかも自信なくて…」
『だからそのために、ひと月練習したんでしょうが』
「ま、まぁ…そうだけど」

普段人並みにメイクはするし、服だって、シーズンごとにお店を見てみたりはする。テレビやネットはほとんど見ないが、そういうことに関することは、極端に疎くはないはずだ。
だけどそれらは、自分が可愛いと思うからとか、試してみたいとか、そういう理由で選んできたもので、自分がどう見られているかを考えて選んだことは、今まで一度もなかった。
だけど、今日は違う。

焦凍さん、こういうの嫌いじゃないといいんだけど…。

少しゆったりとした白いケーブルニットのワンピースは、たくさんお店を周って試着してみた中で、ちーちゃんが選んでくれたものだ。
自分ではよく分からないが、曰くこれが一番私に似合っているらしく、それに合わせた小物やアウター、髪型を決めるに至るまで、全て彼女にお世話になった。毎度のことながら、自分の幼なじみの優秀さに、改めて両手をそっと合わせたくなる。

『とりあえず一度座って、そこの飲み物でも飲みなさいよ』
「う、うん…」
『家まで迎えに来てくれるんだっけ?』
「えっと、家の近くの駐車場まで…焦凍さんは車だから」
『年上って、車持ってる人多いからいいわよね』
「そ、そうかな?」
『絶対座れるし、乗り換えもないし、周りの迷惑とかもそんなに考えなくていいし。それに』
「……それに?」
『なんと言っても、車なら人目を気にせず、イチャイチャし放題だし?』
「ぶふ…っ!!」

いつも使っているマグカップのお茶を、勢いよく吹き出した。喉を通りかけたそれは、ほんの数秒前まで空になっていた場所へと、再び戻ってきた。

「ゲホッ、ゴホッゴホッ…」
『ちょっと…せっかくあたしが見立ててあげたデート服を、汚すんじゃないわよ』
「良かった…服にはかかってない…じゃなくて!急に変なこと言わないでよ…っ」
『一般論を言っただけなんだけどなぁ。車の中って密室だし、イチャイチャするカップル多いのよ?』
「私たちはカップルじゃないし、焦凍さんはそんなことしませんっ!!」
『はいはい』

呆れたように笑う、幼なじみの顔が映し出された数秒後、テーブルに立てかけたスマホのディスプレイに、新しいメッセージの通知が表示された。このひと月で何度かやり取りはしていたのだが、未だにその名前が表示されるだけで、痛いくらいに心臓が跳ねる。

"着いた"

たった3文字。別に特別なことなどなにもない、よくある言葉。それなのに、たったそれだけでそわそわする。

「ど、どどどどどうしようちーちゃん!!焦凍さん来ちゃったんだけど!!」
『いや、そりゃあ来るでしょ。約束してんだから』
「ほ、ほんとに変なとこない…?」
『大丈夫。可愛いわよ』
「ほんとに?気合入れすぎとか思われない?」
『いいからさっさと家を出ろ』

にっこりと笑ってそう言いながら、ちーちゃんはあっさりと通話を切ってしまった。表情とセリフが全く合っていなかったが、きっと彼女なりの激励なのだろう。
もう一度メッセージ画面を開き、"着いた"という文字が夢でないことを確かめてから、ハンガーにかけたコートを手に取り、鞄と帽子を身につけた。

「よし、行こう…!」

謎の気合を入れてから、鏡に映った自分をもう一度見る。大丈夫。あのちーちゃんが素直に可愛いって言ってくれたんだから、たぶんきっと、おそらく大丈夫。
住み慣れた部屋の空気を大きく吸い込み、ゆっくりと深呼吸をひとつしてから、スマホをコートのポケットに入れて、テーブルのマグカップを手に取った。







家の近くとはいえ、一度も来たことの場所というのは、なかなか戸惑うものである。

「どれ…?」

着いたというメッセージの後、送られてきた特徴と一致する車を探してみるものの、似たような車がいくつかあり、どれがその車か分からず、駐車場の中をうろうろとしていた。

一回連絡した方がいいかな、これ…。




「こっちだぞ。なまえ」

聞き覚えのある低い声にどきっとして、ほっとする。声のする方に振り返ると、私が迷っていると思ったのか、車を降りてフェンスによりかかりながら、こちらを見ている焦凍さんの姿があった。

「お、おはようございます…すみません、お待たせして…」

そう言いながら彼の元へ駆け寄ると、焦凍さんは小さく首を振り、寄りかかっていた身体をフェンスから離した。

「いや、俺が早く来ただけだから。いつもより道空いてて、思ったより早く着いちまって」
「電車と違って、車だとそういうのがありますもんね」
「あぁ」

互いの間に、よく分からない謎の沈黙が生まれる。
私服の彼とこうして会うのは、クリスマスの時以来だからか、目の前に立っている焦凍さんに、いつも以上に緊張する。

かっこよすぎて、ちょっとムカついてくるレベルでかっこいいんだよなぁ、もう。

変装のため、いつも通り帽子を被っているが、むしろ被っていてくれて良かったとすら思う。これだけ綺麗な人なので、何を着てもきっと似合うだろうが、全体的に落ち着いたトーンの、ほどよく抜け感のあるきっちりめのカジュアルは、落ち着いた彼によく似合っている。
今日一日、この人の隣にいるのかと思うと、なんだかとても烏滸がましいような気がする。

「……天気、晴れて、よかったな」
「そう、ですね」
「じゃあ、行くか」
「は、はい…」

そう返事をすると、焦凍さんは助手席の方に足を進め、静かにそのドアを開けた。

「乗れよ」

さらりとそう口にした彼に、既に心臓が大変なことになっている。会って数分の時点でこの有様だ。私は今日一日、この人と一緒にいて大丈夫なのだろうか。

「どうした?」
「あ、いえ…お、お邪魔、します…」

よく考えたら、家族以外の人の車に乗るのは、初めてのことだ。車を持っている友達はいないし、車が必要な場所に遊びに行くこともないため、こうして車で出かけること自体、かなり久しぶりな気がする。

「シートベルトしたか?」
「あ、はい…」

彼は小さく返事をすると、車のキーを挿してエンジンをかけ、慣れた手つきでハンドルを操作した。免許を持っていない人間からすると、何がどうなっているかはいまいちよく分からないが、そんなことよりも、今はとにかく。

運転してるとこ、かっこいいなぁ…。

家族が隣で運転する姿を、こんなふうに思ったことは一度もないのに、それが好きな人というだけで、その一挙一動に目が離せなくなってしまうから不思議だ。

「なまえ。そんなに見られてると、落ち着かねぇんだが」

完全に見惚れていたところに、少しだけ困ったようなその声が耳を掠め、思わずビクッと肩が跳ねた。

「す、すすすみません…!その、家族以外の車に乗るのは、えっと、新鮮だったので…」
「友達とかと、車で出かけたりはしねぇのか?」
「レンタカー借りて遠出したりする友達もいますけど、私はお店の手伝いあるので、そういうの行ったことなくて。免許も持ってませんし」
「そういや、店の手伝いは大丈夫だったのか」
「はい。前もって言ってあったので、大丈夫ですよ」

焦凍さんと約束をしたあの日、友達と出かける約束をしてるから、その日は手伝いが出来ないことを祖母に伝えると、明らかに目を期待に輝かせながら、その友達は誰なのかと、しつこく何度も尋ねられた。
結局相手については最後まで言わなかったのだが、私の頑なな態度に何かを察したのか、祖母はにやりと口角を上げながら、楽しんできてねと笑ってみせた。

「にしてもあれだな。なまえが植物園に行きたいって言ったのは、意外だったな」

祖母の怪しげな笑顔を思い出していたところに、焦凍さんは唐突にそんなことを言い出した。

「意外、ですか?」
「てっきり、甘いもん食べに行きたいとか、そういうことを言うと思ったんだが」
「もちろん行きたいお店は沢山あるんですが…それだとなんか、普段と変わらない気がしたので…」
「まぁ、それもそうか」
「だ、ダメでしたか…?」
「いや、別にダメじゃねぇよ。お前が行きたいとこに連れてってやるって言ったのは俺だし。純粋に意外だったってだけだ」
「始めは、お菓子作りのアイデアの参考にでもなればと思って、植物図鑑を借りて読んだのがきっかけだったんですけど、だんだんそれ自体が好きになって」

少しでも色んな角度から、ケーキのアイデアを出せるようにと、訓練の一環で始めたことだったのだが、花をひとつとっても、品種の違いや名前の由来など、読み進めるうちに楽しくなって、いつの間にかそこそこに詳しくなっていたのだ。

「だから、前から一度行きたいなぁって思ってたんですけど、なかなか機会がなくて…」
「そういうことか」
「そこから図鑑を読むのにハマって、他にも星とか好きになって…そういう知識だけが、無駄にどんどん増えました」
「本とかあんまり読まねぇかと思ってたが、そうでもないんだな」
「あ、いえ…当たってます。普通の本は、読まないというか、読めなくて…」
「"読めない"?」
「その…眠くなっちゃうので…」
「ふっ、なるほどな」

焦凍さんは軽く笑ってみせると、納得したようにそう呟いた。どうやら彼の中で、私が本を読みながら寝そうになっている姿は、容易に想像がついたらしい。

「焦凍さんは、友達とテーマパークとか、行ったりするんですか?」
「いや、ほとんど行ったことねぇ」
「そうなんですね」
「前にも言ったかもしれねぇが、こういう仕事してると、色々面倒に思っちまうんだよな」

浮かれていた心に、ちくりと何が刺さったような痛みが走る。

「まぁ、そうです、よね…」

今日誘ってくれたのは焦凍さんの方だけど、それは私がバレンタインを渡したからで、それがなければ、彼に面倒なことをさせる必要はなかったわけで、途端に申し訳ない気持ちと、不安な気持ちでいっぱいになる。

今日、来てよかったのかな。




「言っておくが、今は面倒とか思ってねぇからな」

はっきりとそう口にした彼の方に、ゆっくりと顔を向けると、いつもと同じ淡々とした表情で、焦凍さんは前を向いていた。

「お前今、俺に面倒なことさせて申し訳ないって、そう思っただろ」
「え、えっと…それは…」

返事に戸惑う私をちらりと見ると、焦凍さんは軽く落とすように笑い、再び進行方向に視線を戻した。

「面倒とか、思ってねぇから。変なこと考えんなよ」
「はい…」

あぁもうやっぱりずるい人。その一言で落ち込んで、そのたった一言だけで、こんなにも舞い上がってしまうのだから。







「結構歩いたが、少し休むか?」

熱帯植物の温室を出たところで、彼は私にそう提案した。

「そうですね。どこか座って休憩しましょうか」
「こっからだと…もうちょっといったとこに売店があるみてぇだから、その近くなら座る場所あんだろ」

大して話上手でもない私が、お世辞にも口達者とは言えない焦凍さんと、果たして会話を続けられるのか、そこは正直不安だった。
しかしそんな彼が、ことある毎に色んな疑問や感想を口にしてくれたことで、いい意味で予想は裏切られ、色々な植物を見て回り、お昼を食べて、また散策を始める頃には、普通に会話ができるようになっていた。
やっぱり少し緊張はするものの、それすら幸せだと思えるくらい、一緒の時間がとても楽しい。

「お、あれだな。なんか食うか?」
「温室が結構暑かったので、出来れば…ちょっと冷たいものが食べたいです」
「ん。じゃあそうするか」

焦凍さんの言う通り、少し歩いた先に軽食の売店があり、その周辺にはお客さん用の座るスペースがたくさんあった。
売店の近くまで足を進め、少し離れた場所からメニューを見ていると、いくつかある看板の中で、一際目立つ大きなパネルが目に留まった。

「苔ソフト、とは…」

見た目から察するに、ソフトクリームに抹茶パウダーがかけられているような感じだが、苔を模しているということなのか、それとも中に食用苔が実際に入っているのか、妙にその食べ物が気になってしまった。

「苔、入ってるんですかね…?」
「さぁ…どうだろうな…」
「あ。サボテンソフトっていうのもありますね。見た目は普通だけど、美味しいのかなあれ…」

そこまで私が口にしたところで、隣にいた焦凍さんが、なぜが肩を揺らして笑い始めた。そんな変なことを言ったつもりは、なかったのだけど。

「え…あの、どうして笑うんですか?」
「いや、変なものに食いつく奴だなと思って」
「せっかく来たので、普段食べられないものが良いと思ったんですけど…変ですか?」
「お前くらいの歳だとこう、あれじゃないのか。所謂…あの、写真とか、撮る時の…」
「『映え』、ですかね?」
「あぁ、それだ。そういう、写真写りのいいもんが好きなんじゃないのか」
「SNSとかやってる子は、そういうのを意識したりすると思いますけど、私は一切やってないので…」
「そういや、そうだったな」

彼は思い出したようにそう言いながら、納得した様子でまた軽く笑った。笑ったというより、笑われたに近いかもしれないけれど、そこは深く考えないことにした。

「で、どっちにするんだ?」
「うーん…迷いますけど…一番写真も大きいですし、苔の方にします!」
「ん。わかった。じゃあ適当にどっか座ってろ」
「え、あ、あの…っ」

私の声に振り向くことなく、焦凍さんはそのまま足を踏み出して、売店の方へと歩いて行ってしまった。

「行っちゃった…」

ひとまず彼に言われた通り、二人分の席がある場所を探し、焦凍さんの場所には自分の鞄を置いて、向かいの席に腰を下ろした。

なんか、見事に払わせて貰えない…。

入場料もお昼代も、自分の分は自分で払うと言ったのだが、今日はお返しだから、と結局焦凍さんが全部払ってくれている。そしてたぶん、ここでのお金も、私が自分で払うと言えば、同じ理由で断るのだろう。
こういう場合、素直に甘えてしまうのが正しいのか、甘えないことが正しいのか、もちろん人にもよるだろうが、そこの正解がまるで分からない。

「難しい…」
「何がだ?」
「ぅわぁっ…!!」

頭上から聞こえた低い声に、思わず大きな声を上げた。予想よりも早く買い物を済ませた焦凍さんは、そんな私の姿を見て、申し訳なさそうに眉を下げた。

「悪ぃ。驚かせるつもりはなかったんだが…」
「い、いえ…っ、その、は、早かったですね…」
「そんなに並んでなかったからな。…これで良かったんだよな?」
「はい…ありがとうございます。あの、お金…」
「いい。大した額じゃねぇから」
「でも」
「お返しだって、さっきも言ったろ。それにお前に払わせたら、俺がかっこつかねぇから」
「な、なるほど…?」
「早く食わねぇと、溶けちまうぞ」
「あ、はい…いただきます…」

結局またご馳走になってしまったことに、少し後ろめたさはあったものの、どんな味かと楽しみにしていたその好奇心に負けて、手渡されたそのソフトクリームを、スプーンで掬って一口食べた。

「ん!美味しい…!」
「そうか」
「ソフトクリームすごい滑らかです!すごい!」

口当たりがすごくいい。こういう売店のものは、いわゆるラクトアイスに分類されるものも多く、氷の粒が残っていて、歯触りや舌触りが気になるものも多いのだが、ここのソフトクリームは、そういった引っかかりが全くない。

「あと、アイス自体は結構甘めで、ミルクが濃いですけど、かかってる抹茶の苦みでちょうどいいバランスになってて…見た感じ抹茶多いかなって思いましたけど、全然そんなことないですし」
「とりあえず、美味いことはよく分かった」
「はい!とても美味しいです!」
「……なんかなまえって、ちょっと緑谷みたいだな」

売店で買った飲み物を口に含みながら、焦凍さんは向かい側に座る私を見て、どこかで聞いたような名前を呟いた。

「ミドリヤさん、ですか?」
「上鳴や爆豪と同じで、俺の同期。ヒーロー名はデク」
「あ…確かあの人ですよね?オールマイトのお弟子さんという…」
「あいつのことは知ってんだな。俺のことは知らなかったのに」

珍しくむっとした焦凍さんのその表情に、自分がやらかしてしまったことに気づく。どことなく不機嫌そうな彼の様子に、ソフトクリームを持つ両手には、嫌な汗がじわりと滲んだ。

「え、あ、いや…!その、たまたま…そんな話を、誰かが言っていたのを覚えていただけで…」

というか、焦凍さんのことを調べた時に、たまたまデクの記事も見たってだけなんだけど…まさかそんなことを言えるはずもない…。

そういうものには興味がないと思っていたのだが、やはり同期の間で、どっちがどれだけ知名度があるかというのは、気になるところなのだろうか。
依然としてむっとした様子の焦凍さんに、そんなことを思いながらも、気まずい沈黙に耐えきれず、私は再び口を開いた。

「え、えっと…それで、その、私がミドリヤさんみたい、というのは…?」
「……さっきの、なまえの話し方とか、ちょっと緑谷に似てた」
「さっきの…?」
「あぁ。普段はそこまでよく話すわけでもねぇのに、好きなことになると、途端に饒舌になる感じが、少し似てる」
「す、すみません…うるさくて…」
「いや、悪い意味で言ったわけじゃないから」

ヒーローについてほとんど知らない私でさえ知っている、あのオールマイトの弟子というくらいだから、きっと焦凍さんと同じくらいすごい人なのだろう。
そんな人が、こんなどこにでもいるような女子大生と似ているなんて、ちょっと、いや、だいぶどんな人か気になってくる。

「いつか会ってみたいです。その人に」
「……まぁ、あいつも忙しい奴だからな。そのうち機会があれば…会わせてやるよ。たぶん」
「あ、いや…そんなつもりで言ったわけでは…」
「で。食ったら、次はどうする」
「えっと…それなんですけど、行ってみたいところがあって…」
「どこだ」
「一番奥のエリアに、チューリップ狩りが出来るとこがあって、おばあちゃんが好きなお花なので、お土産にしたいんです。パンフレットに16時までって書いてあったから、出来たらこの後行きたくて…」

私がそう言うと、焦凍さんは落とすように軽く笑ってから、別れ際でもないというのに、なぜか私の頭に手を置いて、そのまま数回優しく叩いた。

「分かった。じゃあ、次はそこな」

あまりに優しくそう呟く彼に、触れられたその理由を尋ねようと開いた口は、自然と静かに閉じていく。そんなことは、どうでも良かった。
少し俯きがちなその顔を、このままずっと、ずっと近くで見ていたいと、そう思った。







「チューリップって、あんなに種類あるんだな」

お土産のチューリップを花束にしてもらい、それが入った紙袋を持ちながら、焦凍さんはそう呟いた。なぜか自然と彼が持っているのだが、自分で持つと私が言うと、たぶん先ほどと同じ答えか返ってくるような気がして、何も言わずにお任せすることにした。
少し薄暗くなり始めた道を並んで歩くと、等間隔に置かれた通路の灯りが、一斉に辺りを照らし始め、この時間ももうすぐ終わってしまうのかと、とても寂しく思ってしまった。

「今年の3月はかなり暖かくて、いつもなら4月に開花する品種も咲いてたみたいで、3月にしては例年より種類が多いって、スタッフさんが言ってました」
「なるほど。それで、なまえがおばあさんに選んだやつは、なんてやつなんだ?」
「キャンディータイムっていう名前らしいです」
「名前で選んだろ」
「あはは…バレちゃいましたか…お菓子の名前が入ってたので、つい…」
「まぁ、いい土産が出来て良かったな」
「焦凍さんは、何も買わなくていいんですか?」
「俺は」

彼が言いかけたその瞬間、少し離れた場所から、少し不穏なざわつきが聞こえた。




「ひ、引ったくりだ!!捕まえてくれ…!!」

若い男の人の声が聞こえ、咄嗟にそちらに振り向くと、引ったくりだと叫ばれていたその人物が、何かを抱えてこちらに走ってきた。

「わ…っ」

私を避ける余裕がなかったのか、その男は軽く私にぶつかりながらも、一直線にその道を走り去って行く。突然のことに身体のバランスを崩すと、すぐ近くにいた焦凍さんが、肩を掴んで支えてくれた。

「大丈夫か?」
「だ、大丈夫です…」
「ここにいろ。すぐ終わる」
「え?」

私がそれを口にしたかしないか、それくらい、ほんの一瞬の出来事だった。
目の前には先ほどまでなかったはずの、氷の道が出来ていて、数百メートル離れた先には、氷塊の中で何かを叫ぶ、逃げた男の姿があり、その真下には彼がいた。一体目の前で何が起こっていたのか、全く目で追うことが出来なかった。

「すごい…」

まさしくその一言だ。すごい人なのは知っていたけど、私が瞬きをするくらいの間に、こんなことが出来てしまうなんて。
焦凍さんは、少し遅れて駆けつけてきた警備の人と何かを話してから、自身が個性で作り出したその氷の道の上を歩いた。彼がアスファルトを踏む度に、氷は溶けて水となり、私の目の前に戻ってくる頃には、男を捉えた氷塊以外の氷はなくなっていた。

「待たせた」
「あ、いえ…全然待ってないです…」
「警備の人にあとは任せたから、これ返したら、一旦出よう。正体バレたら面倒だ」

先ほどまで男が持っていた、男物の鞄に視線を落としながら、焦凍さんがそう口にした直後、ひったくりの男が現れたその方角から、おい、という低い声が聞こえてきた。

「ショート、だよな。あんた」

声のする方に振り返ると、そこに立っていた人物は、先ほどひったくりにカバンを盗まれ、捕まえてくれと叫んでいた、被害者の男性だった。見た目からして、たぶん焦凍さんと同じくらいの、20代後半くらいの若い男性だった。

「……そうですが」

確信を持ってそれを尋ねた相手に、誤魔化すことは無意味と思ったのか、焦凍さんは少し間を置いてから、男性の言葉を肯定した。
彼の返事を聞いた若い男性は、盗まれた鞄の中身が心配だったのか、眉間に皺を深く刻んで、焦凍さんが持っているものに視線を移した。

「あ、すみません。これお返しします。中身は大丈夫だと思いますけど、一応」

そう口にしながら、焦凍さんが鞄を返そうとすると、男性はそれ奪い取るように、勢いよく自分の方へと引き寄せてから、ヒステリックに声を荒らげた。

「親父のモンに触るな!!この人殺しの一族が!!」

瞳に涙を滲ませながら、男性は焦凍さんの方をきっと睨みつけ、潰れてしまいそうなほどの強い力で、戻ってきた鞄を胸に抱いた。
そして私は、なぜかその瞬間、いつか爆豪さんが口にした、"あの質問"を思い出した。

"お前、あいつのことは、どこまで知っとんだ"

何一つ、具体的なことは分からないのに、あの質問の意図がここに隠されているという、根拠のない確信があった。

「お前も、お前の父親も…お前らみたいなのがヒーローだなんて、絶対に認めねぇ!!あいつを…俺の親父を殺した荼毘を生み出したお前らに!!ヒーローを名乗る資格なんかねぇんだよ!!」

男性は焦凍さんの胸ぐらを思い切り掴むと、捲し立てるようにそう呟いた。暗くなり始め、昼間に比べて人は少なくなっていたが、それでも周囲の人達は、不安そうに私たちの方に視線を向けている。
彼にそう言われた焦凍さんの方は、男性から一度も目を逸らさなかったが、意見も反論もすることなく、罵声を浴びせるその人の言葉を、ただ黙って聞いていた。

「…っ、黙ってねぇで、何とか言えよ…!!」

何も言わない焦凍さんに腹を立てたのか、男性は大事な鞄を手に持っていたことすら忘れて、右の拳で焦凍さんの頬を殴り、その反動でよろけた焦凍さんは、アスファルトにそのまま腰を落とした。

「しょ、焦凍さ…っ、大丈夫ですか…!?」

衝撃的な光景だった。だけど不思議と怖くなかった。気づけば足は動いていて、座り込んだ彼の側まで行くと、口からは微かに血が滲んでいて、胸がぎゅっと苦しくなった。その様子を見ていた男性は、未だに興奮状態にあり、まだ殴り足りないという表情で、さらに私たちに近づいてきた。

「なんで、こんな…助けたのに…っ」
「なまえ、やめろ。いいから」
「でも…」
「いいから」

もう一度強くそう言うと、焦凍さんはその場にすっと立ち上がりながら、私のことも立たせてくれた。自分を睨みつける男と再び向き合ってから、彼は真っ直ぐにその人を見て、その薄い唇を軽く開いた。

「後ほど、警察からの調書のご協力だけ、お願いします。詳しいことは、警備の方から話があるはずですので」

焦凍さんが深く頭を下げると、男は勢いよく舌打ちをしてから、警備の人がいる方へと歩いて行った。

「俺らも、もう行こう」
「え、あ…」

好きな人が、初めて手を引いてくれたのに、それを握り返すことも、浮かれることも出来なかった。その手に込められた優しい力が、ただただ、悲しくて。

どうして彼は、何も言わなかったのだろう。

だけどそれは、口にしてはいけないことだと思った。
そして思い知る。私という存在が、どれだけ蚊帳の外にいる人間であるかということを。

「……なまえ」

彼は急にぴたりと足を止め、静かに私の名前を呼ぶと、何かを考え込むようにして立ち尽くした。

「なんですか?」

いつも通りに、返事をした。いつもと変わらずここにいることを、この人に分かって欲しくて。
伝わったのかどうかは分からないが、そう聞き返した私の方をちらりと見てから、焦凍さんは俯きがちに、小さく息を一つ吐いて、もう一度私の方を見た。

「やっぱり、ちょっとだけ、話いいか」

真っ直ぐ私を見据えながら、そう問いかけた彼の言葉に、私は少しも迷うことなく、はっきりと首を縦に振った。







植物園を後にする頃には、だいぶ気温も下がっており、さすがに外で話すのはきついだろうと、駐車場に停めた車の中で、彼の話を聞くことになった。

「あの、良かったらこれ、使ってください…さっき水道で濡らしたやつなので…」
「あぁ。ありがとな」

濡れたハンカチを彼に差し出すと、焦凍さんは躊躇うことなくそれを受け取って、そっと自分の口元にあてた。

「とりあえず悪かったな。あんなもん見せて。怖かったろ」
「いえ…その…」

どうしよう。彼の話を聞くことには頷いたものの、何からどう聞いていいのか、そもそも、どこまで聞いていいのか、さっぱり分からない。

「あの人が言ってたことは、本当だ」

浮き足立つ私を余所に、焦凍さんは穏やかな口調で、あの男性の言葉を肯定した。

「あの人が、"荼毘"って口にしたの、覚えてるか?」
「……はい。人の、名前…ですか?」
「あぁ。但し荼毘っていうのは本名じゃないけどな」
「じゃあ、本当は」
「本当の名前は、燈矢。轟燈矢」
「轟、って…ことは」
「兄なんだ。一番上の」

咄嗟に勢いよく、運転席に座る彼の方を見ると、焦凍さんは少しだけ驚いたように私を見てから、困ったように眉を下げた。

「やっぱ、お前は知らなかったんだな。ネットとかで調べりゃ出てくるような、割と有名な話だけど」

そう言うと、彼は再び前に視線を戻し、俯きがちに自身の手を見つめながら、さらに話を続けた。
私がまだ生まれていなかった頃の、焦凍さんの子供時代の話は、とても壮絶なものだった。お父さんとの確執、お母さんとの思い出、そしてお兄さんとの間に出来てしまった、悲しい溝。
聞けば聞くほど、それらは私の家では想像の出来ないことばかりで、今こうして、彼が普通に話をしていることが、まるで奇跡を見ているようだった。

「俺たち家族全員が、兄は死んだって思ってた。だから最初は知らなかったし…信じたくなかった。けど、荼毘は兄で、兄は荼毘になって…たくさんの人を殺した。あの人の親父さんは、そのうちの一人だったってことだ」
「で、でも…お父さんじゃなくて、焦凍さんが"生み出した"って、いうのは…」
「本人にしか本当のことは分からねぇけど、俺の存在が兄を追い詰めたのは、確かだから。結果的にそれで、兄は敵になったわけだから、生み出したっていう表現も、間違ってはいない」

焦凍さんはいつものように落ち着いていて、先ほどまでと同じように、俯きがちに自分の手を見つめているだけだ。淡々としたその横顔が、何を思っているのかは分からなかった。
なんと言葉をかければいいか、何を言っても不正解な気がして、その場で黙り込む私を余所に、彼は相変わらず穏やかな顔で、もう一度その口を開いた。

「だから、あの人の怒りが俺に向くのは当然だな」

その時、話をし始めた焦凍さんが、久しぶりに笑ってくれた。いつもなら、その笑顔にドキドキして、嬉しくなって、ずっと見ていたいと思うのに、今はちっとも思わない。
彼を捉えていたはずの視界が歪み、頬に何かが伝ったのを感じた瞬間、自分が泣いていることに気づく。
そんな私の異変にすぐに気づいた彼は、私の顔を見るやいなや、少し困ったような顔をしてから、ごめん、と小さく呟いた。

「聞きたくなかったよな。ヒーローの家族が犯罪者だなんて」

そうじゃない。
だから泣いたりしたんじゃない。
私が、私が聞きたくなかったのは───


「そんなの全然…っ、当然じゃない…っ」

そんなことを口にする権利も、資格もないと、分かっているのに。どうしてもその言葉が辛くて、悲しくて、堪えることが出来なかった。ぼろぼろ涙が溢れてきて、それと比例するように、感情が溢れて止められない。

「いや、けどな」
「だって嫌なこと言われてっ、殴られてっ、焦凍さんだって痛いじゃないですか…っ」

例えばもしも、それで誰かの気持ちが救われるのだとして、じゃあ、その誰かの気持ちを全部背負っていかなきゃいけない、この人の気持ちはどうなるのだ。
どこにも行き場のないものを、ずっと自分の中に抱えて、また別の誰かの気持ちを背負って、そうやって生きていかなきゃいけないなんて、そんなのあんまりだ。

「傷つけられることが、当たり前だって…受け入れるのは当然だって…どんな理由があったって、そんなの嫌です。そんなの、悲しい」

頭の悪い私には、何が一番いいことかなんて、そんなことは分からない。今これを口に出すことは、必死に考えて考えて、たどり着いた彼の答えを、否定しているようなものだ。
だけどそれでも、嫌だった。

そんなこと、あなたに言って欲しくなかった。




「ごめん。悪かった」

彼はもう一度そう言うと、私の頭に手を置いた。いつものように叩くのではなく、小さな子供をあやすように、ゆっくりと優しく、何度も何度も撫でてくれた。

「別に、全部背負い込もうってわけじゃねぇんだ。ただ、出来ることはしたいって思ってるだけで」
「でも、だからって殴られること…っ」
「ん。分かった。分かったから、泣くなよ」

泣くなと言ったその声が、どうしようもなく優しくて、彼を困らせたかったわけじゃないのに、さらに涙が溢れてくる。
そんな私の様子を、焦凍さんはしばらく黙って見ていたが、一向に涙が止まる気配のないその瞼に、自分の服の袖を軽く当ててから、私の両頬を軽く抓った。

「今日はお返しだって言っただろ。お前に泣かれたままだと、誘った意味がなくなる。だからもう泣くな」

痺れを切らしたのか、彼はそんなことを言いながら、私の頬を少し横に引っ張った。頬が伸びた私の顔が面白かったのか、焦凍さんはしばらくそれを繰り返してから、ふっ、と軽く笑ってみせた。

「……今、バカにしましたね」
「してねぇ」
「したもん」
「してない。面白ぇなって思っただけだ」
「同じですよ…!」

泣いていた理由はそこではないが、泣きながらそう訴えかけると、彼はついに堪えきれなくなったのか、私の頬から手を離し、はっきりと声に出して笑い始めた。
完全にからかわれている気がするが、今までで一番壁のないその笑顔に、私もつられて笑ってしまった。

「涙止まったか」
「はい…まぁ、お陰さまで…」
「それは良かった。……ところでなまえ、お前まだ時間大丈夫か?」
「はい。大丈夫ですけど…どこか行くんですか?」

私がそう尋ねると、彼は笑い疲れたからか、ひと息軽くついてから、少しだけスッキリした顔で頷いた。


「もう一つ、連れていきたいとこがあるんだ」


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2021.10.22

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