「だから、」


メイクポーチを持っていくことを渋った私を叱り、「いいから持っていきなさい」と言ってくれた幼なじみに、海よりも深く感謝した。
みっともなく泣き腫らしたその顔は、当然メイクもひどいことになっていて、もしも鞄にポーチを入れていなかったら、だいぶ悲惨な結果になっていただろう。持ってきていたメイク道具で、流れてしまった部分を何とか誤魔化し、違和感がないことを何度も鏡で確認してから、サービスエリアのトイレを後にした。




「はい。それでお願いします。……いえ、急ですいません。じゃあ、失礼します」

急ぎ足で車に戻ると、焦凍さんはどこかに電話をかけていたようだった。スマホから微かに漏れる相手の声は、随分興奮した様子だったが、彼はいつも通りの淡々とした表情で、見えない相手に軽く頭を下げてから、スマホを耳からそっと離し、そのディスプレイを静かに叩いた。

「今の電話って、お仕事とかですか?」
「いや、そうじゃねぇ。これから行く場所に電話しただけだ」
「あ、なるほど。…そういえば聞いてなかったんですけど、これから行く所って…?」
「あぁ、そういや言ってなかったな。ちょうどいい時間だし、飯食いに行こうと思って」

カーナビの時計を見ると、確かに彼の言うとおり、いつの間にかもうそんな時間になっていた。改めてそれを確認したことで、なんだかお腹も空いてきた気がする。

「なまえは、食えないものとかあるか?」
「特に嫌いなものとかはないので、大丈夫です」
「そうか。じゃあ、車出すけど」
「はい。あの…すみません。ずっと運転させてしまって…」
「大丈夫だ。大した距離でもねぇから」
「やっぱり車で移動できると、何かと便利ですよね。夏休みにでも、免許取ろうかなぁ…」
「お前はやめとけ」

なんとなく口にした私の思いつきに、焦凍さんはきっぱりと異を唱えながら、朝と同じように車のエンジンをかけた。

「ど、どうしてですか?」
「どうしてって、アクセルとブレーキを踏み間違えたら、命に関わるだろ」
「なんで間違えること前提なんですか…!」
「お前はやりかねない」
「そ、そんなことないですよ!」
「危ねぇから、お前はやめとけ」

頑なにやめろと言う彼に、ほんの少しだけむっとする。確かに自信はないけれど、そこまで子供扱いしなくてもいいのに。私はこの瞬間、憧れてやまない想い人に対して、初めての反抗心を抱いた。

「私だって、ちゃんと講習受ければ、運転くらい…」

拗ねたようにそう言う私に、焦凍さんはちらりとこちらを見ると、小さくひとつため息を落とし、いいからやめろと一蹴した。

「そんなに言わなくても…いいのに…」
「別になくたっていいだろ。車じゃないと行けねぇとこは、俺が連れてってやるから」

耳を疑うようなその言葉に、芽生えた小さな反抗心は、あっという間に摘み取られた。その代わりに、既にもうこれでもかと大きくなっている恋心が、さらなる期待に膨らむ。

「どうかしたか?」
「い、いえ…なんでも、ないです…」

まるでこれからがあるみたいな彼の言い方に、肯定することも否定することも出来ず、何食わぬ顔でそう尋ねる焦凍さんに、私はそれ以上何も言えなくなった。







「なんというか、不思議なお店ですね…」
「だよな…」

カーナビの指示通りに目的地に辿り着き、駐車場に停めた車から降りると、目の前にあるそれは、なんとも不思議な造りの建築物だった。大きな白い立方体のような形をしたそれは、窓がひとつもついておらず、中の様子が一切分からない上、看板らしきものも設けられていない。
ひとまず出入口だと思われる場所に近づき、ほのかにガーリックのような芳ばしい香りがしたところで、ようやくここが飲食店であることに確信を持てた。

「話には聞いてたが、本当に看板もねぇんだな」
「焦凍さんも、ここに来るのは初めてですか?」
「あぁ。この店の存在を知ったのは、さっきだから」
「え?」

さっき知ったというのは、どういうことだろう。いや、意味はその通りだろうけど、ついさっき知ったばかりの場所に、どうして彼は私を連れてこようと思ったのだろうか。

「まぁ、ちょうど19時半になったし、入るか 」

頭の中にクエスチョンマークを浮かべる私を余所に、焦凍さんは自分の腕時計をちらりと見て、そんなことを口にした。その言葉に、クエスチョンマークがさらに増える。"ちょうど"19時半というのは、どういう意味なのだろうか。

「なまえ、入らないのか?」

ぼんやりと思考をぐるぐるさせていると、店内へと続くドアを開けながら、彼が不思議そうに首を傾げた。

「あ、すみません…!入ります…!」
「ん。じゃあ先入れ」
「は、はい…」

こういうのを、レディファーストと言うのだろう。昼間は基本外にいたので、こういうことはなかったのだが、こうしてドアを開けてくれたり、私を先に入れてくれたり、なんというか、急にデートっぽさ全開のことをしてくる焦凍さんに、なけなしの乙女心がときめいた。

無自覚って、怖い。

そんなことを考えながら店内に入ると、もともとお客さんを待っていたからなのか、既にそこには一人の男性が立っていて、私たちの存在に気づいた彼は、美しく伸ばされた背筋を曲げて、深く頭を下げてみせた。

「いらっしゃいませ」

一礼してからゆっくりと上げられた顔は、穏やかな笑みを浮かべていて、とても品の良さを感じさせる人だ。おそらく30代半ばくらい、焦凍さんよりは少し年上に見える。

「先ほどお電話した、轟です」
「はい。伺っております。お待ちしておりました」
「急なお願いで、すみませんでした」
「とんでもございません。お席にご案内致しますので、こちらへどうぞ」

品の良いその男性は、片手を店の奥へと向けながら、私たちの顔を交互に見て、自分についてくるように促した。

「中は少し薄暗くなっておりますので、特にお連れのお嬢様は、お足元にお気をつけ下さい」
「お、お嬢様…!?」

人生で一度も言われたことのないその呼び方に、思わず声を荒げると、男性は目を丸くさせ、隣にいた焦凍さんは、ふっと軽く笑ってみせた。

「申し訳ありません。不快にさせてしまいましたでしょうか?」
「い、いえ!違うんです!その、そういうふうに言われたことはないもので…逆にすみません…」

私がそう返事をすると、店員の男性は再び穏やかな笑みを浮かべて、そうでしたかと呟いた。
恥ずかしいが過ぎる。もともとそんなオーラもないけれど、大した育ちでないことが、入店して数分で露呈してしまった。

「では、改めてですが、こちらにどうぞ」

店員の男性について行くと、彼が口にしていた通り、店の奥へと進む度に、辺りは薄暗くなっていく。

なんでこんなに暗いんだろ…?

ところどころ置かれた小さなランタンと、いくつか間接照明があるくらいで、これではせっかく料理を提供しても、あまり見えなくなってしまうのではと、謎の心配をしてしまう。
そんなお節介なことを考えていると、つきあたりの角を曲がり、さらに一番奥の扉の前で、その男性はぴたりと立ち止まった。

「こちらのお席をご用意しました。どうぞ中へ」

言われた通りに中に入ると、そこは完全な個室になっていた。二人分にしてはやや大きなテーブルが中央にあり、さらにそのテーブルの上には、先ほど足元を照らしていたランタンと、同じものが置かれていた。

「上着とお手荷物をお預かりしますね」
「はい」

男性のアナウンスに、焦凍さんは今日初めて帽子を外し、上に着ていたジャケットを脱いだ。顔を見られていいのだろうかと思いながらも、私も同じようにコートを脱ぐと、店員の男性は私たちが持っていた鞄とコートを、鮮やかな手つきで受け取ってから、然るべき場所にそれらを置いた。そんな手際の良さに感動していると、さらに彼は慣れた手つきで、個室の奥側の座席を引いて、私の方へと視線を向けた。

「では、女性の方はこちらへ」

さっき私が驚いてしまったからか、さりげなく呼び方を変えてくれるところに、細やかな人柄を感じさせた。

「あの、でも、奥の席って上座ですよね…?私が座っていいんですか…?」
「俺はお前の上司でも先輩でもねぇし、こういう時はこれが普通だ」
「そうなんですか…?」
「その人待ってるから、早く座れ」
「は、はい…っ」

わけが分からぬまま、ひとまず奥の席まで行き、恐る恐る腰を落とすと、男性は私が座る椅子を、適切な位置に調整してくれた。

「本日ですが、こちらのお部屋には私以外の者は参りません。また、お客様のプライバシーに関しては、スタッフ一同、万全の配慮をさせていただきますので、ご安心下さいませ」

焦凍さんが躊躇わずに帽子を外した理由は、その男性の言葉でよく分かった。わざわざ一番奥の個室にしてくれたのも、おそらくそういう意図だ。
店に入って食事をするとなれば、こういう根回しはある程度必要で、相手がこんな人間とはいえ、異性を連れているとなれば、尚更必要な配慮なのだろう。

「すみません。色々気を遣わせて」
「いえいえ。お電話頂いた時は大変驚きましたが、お会い出来て光栄です」
「どうも」

少し素っ気なく受け取れるような焦凍さんの返答に、その男性は穏やかに微笑んだ。そんな様子を黙って見ていると、私の視線に気がついたのか、彼はこちらをゆっくりと見ると、少し気まずい私を余所に、優しくにっこり笑ってみせた。







「かしこまりました。ではご用意致しますので、お待ち下さい」

店員の男性は一礼すると、静かに部屋を出て行った。一切音を立てずに扉を閉めるその技は、もはや職人技である。

なんか、すごいお店に来てしまったような気が…。

閉められた扉から視線を外し、何気なく顔を正面に戻すと、向かい側座っていた焦凍さんと目が合った。すぐに逸らされるだろうと思っていた彼の視線は、一体どういうわけなのか、じっと私を捉えていて、全く逸らされる気配がない。

「あの…な、なんでしょうか…」
「いや、別に」

無言でずっと見られていることに耐えかねて、真っ当な疑問をぶつけてみると、彼は素っ気なくそう返しながらも、そのまま視線を私に向けていて、その本心はまるで読めない。
お昼ご飯の時も、こうして向き合って座っていたはずなのに、お店の雰囲気のせいだろうか。昼間はそんなに気にならなかったのに、緊張でとても落ち着かない。

「あ、あの、そういえば…っ」
「ん。どうした?」
「その…こ、こういうお店って、ドラマとかでしか見たことなかったんですけど、本当に薄暗いんですね!雰囲気作りが徹底されているというか、なんといいますか…」

気まずさを誤魔化すように、必死にそんなことを口から吐き出すと、焦凍さんは目をぱちぱちと瞬きさせてから、なぜか小さく笑ってみせた。

「そうか。お前気づいてなかったんだな」

納得したようにそう呟くと、彼はグラスに入った水を手に取り、静かにそれを一口飲んだ。

「え…?あの、なにがですか…?」
「ん」

焦凍さんの言葉の意味が分からず、正直にそう尋ねると、彼は小さく声を漏らしながら、その長い人差し指を、上に向かって真っ直ぐ立てた。

「え、…え!?」

彼が指を立てたその方向に、よく分からないまま顔を上げると、視界に飛び込んでいたその景色は、想像を大きく上回るものだった。

「すごい…星が…いっぱい…」

目の前に広がるいくつもの煌めきに、息を飲む。高い天井一面が、まるで本物の夜空のようだ。呼吸を少し整えて、改めて上に顔を向けると、変わらずそこには満天の星空が映し出され、その美しい光景に、私はもう一度息を飲んだ。

「綺麗です…!プラネタリウムみたい…!」
「こういうの好きか?」
「はい!大好きです!」
「良かったな。もともとここは画廊だったらしいんだが、窓のない建物の造りを利用して、こんな感じで昼夜問わず、天井に夜の空を投影してるんだそうだ」
「なるほど…発想の勝利ですね!」

映し出された星々は、色も大きさもそれぞれに、たゆたうようにゆらゆらと動き、それがなんとも幻想的で、まるで絵本の中に入ったような、そんな不思議な感覚になる。

「ほんとにすごい綺麗…どおりで暗いわけですね…私緊張しちゃって、全然気づきませんでした…」
「緊張してたのか?」
「そりゃあしますよ〜。こんなちゃんとしたお店なんて、家族でも来たことないですから…上を見る余裕なんてなかったです」
「お前が何も言わねぇから、俺は自分が聞き間違えたのかと思ったぞ」
「……何をですか?」
「行きの車の中で、言ってただろ。植物の他に、星が好きだって」
「あ…」

記憶にはある。確かに私はそう言った。

「お前が土産の花を選んでる間に、晩メシ食うとこ調べてたら、たまたまここが出てきて…基本は当日予約不可らしいんだが、一応電話して聞いてみたら、なんかいつの間にか話が進んで、こうなった」

どうやってこのお店を知ったのか、その後何があったのか、もちろん話は聞いていたけど、正直言うと、その内容はどうでも良かった。大好きな彼の話をどうでもいいと思ってしまうほど、私自身がそれどころではなかったからだ。
何気なく漏らした一言で、普通こんなことまでしてくれるだろうか。いくら真面目で優しいからと言って、たった一人の人間のために、そんなことまでするだろうか。そんな疑問と共に、またもや期待は膨らんでいく。

「予想以上に仰々しくて、俺もちょっとびっくりしたけど、お前が喜んでくれてんなら、まぁいいか」

穏やかに笑う、その顔に。あまりにも優しく、甘い言葉に。胸の高鳴りが抑えられそうにない。

この人は、私のことをどう思ってるんだろう。

今ここで、彼に好きだと告げたなら、この人はなんと言って、私に返事をくれるのだろうか。そんなつもりなんてなかったのに、この短時間で大きく膨らんだ期待のせいで、その答えを知りたがってしまう。

「あの、焦凍さん」
「ん?」

これを言ったら、もう戻れない。でも。

「私、は───、」




震える唇を一度噤んで、もう一度開こうとしたその瞬間、彼の斜め後ろにある扉を、上品に叩く音が聞こえた。

「失礼致します。お飲み物をお持ちしました」

そのにっこりと笑う優しい笑顔に、安心したような、がっかりしたような、なんとも複雑な気持ちになる。目の前に置かれた飲み物を、とりあえず軽く口に含むと、少しだけ頭が冷静になってしまい、数分前の己の愚行(未遂)に、思い切り頭を抱えたくなった。







あまりに可愛らしいその見た目に、うっとりしながら眺めていると、それを目の前で見ていた彼は、食後のコーヒーに角砂糖を一つ落とし、それをスプーンでかき混ぜながら、呆れたように眉を下げた。

「そろそろ食ったらどうだ。なまえ」
「そうなんですけど…こんな可愛いデザート、食べちゃうのがもったいなくて…!」

真っ赤な苺のアイスの上に、丸型に薄く焼き上げた真っ白なメレンゲを、花びらのように美しく飾り付けたそれは、ヴァシュランと呼ばれるフランスのデザートをアレンジして作られたものだ。まだ一口も食べていないので、味についてはこれから知るところだが、なんといっても、とにかく見た目が可愛い。

「あと1時間くらいは見ていられそうです」
「冗談に聞こえねぇからすげぇな」
「割と真面目に言いました」
「だろうな」

そっとカップを右手に持つと、焦凍さんは中のコーヒーを一口含み、静かにそれをソーサーに戻した。

「でもそろそろ覚悟を決めます。中のアイスが溶けちゃうので…!」
「そうしろ。そいつだって、ちゃんと食ってもらえねぇと浮かばれねぇぞ」
「あはは、それは確かにそうですね」

彼の言い回しに軽く笑ってから、私はデザートフォークを手に取り、ついにそれを掬い取った。さっくりとしたメレンゲの軽やかな抵抗を受けつつも、素直にフォークに乗った紅白色を、思い切って口に放り込んだ。舌に乗せられたメレンゲとアイスが、それぞれに溶けて混ざり合い、白い甘さと赤い酸味が、ちょうどいいバランスで口内に広がる。

「美味しい…!」
「良かったな」
「こんな美味しいものばかり食べてたら、家のご飯が食べれなくなります…」
「いや、そんなことはねぇだろ」
「えへへ、まぁ実際にはそうなんですけど、それくらい幸せってことです」

目の前には、大好きなものと大好きな人。これを"幸せ"という言葉以外で表す方法を、私は知らない。そんなことを思いながら、さてもう一口とフォークを再び刺した瞬間、不思議な既視感に包まれる。

あ、そっか。この色って…。

「なんか、色合いが似てますね」
「なんの話だ?」
「私が食べてるデザートと、焦凍さんの髪の色が」
「あぁ…なるほど。どっちも赤と白だもんな」
「綺麗な色ですよね。地毛ですか?」
「あぁ。けど無駄に目立つし、そんなにいいこともねぇぞ」
「そうですか?かき氷の苺ミルクみたいで、美味しそうですけどね」
「それは…褒めてんのか…?」
「はい!」
「独特な褒め方だな。お前らしいけど」

彼はそう言って軽く笑うと、何かを思い出したように、そういえば、と再び口を開いた。

「もう結構な時間だが、明日の予定とかは大丈夫なのか?」
「あ、はい…特に明日は予定もないですし、お店も定休日なので…」
「今は春休みなんだよな、確か」
「はい」
「じゃあ、最近はずっと店の手伝いか?」
「そうですね。予定がない日はそんな感じです」
「好きなことに一生懸命なのは結構だが、学校の授業もちゃんと受けなきゃダメだぞ」
「も、もちろんですよ…?」
「疑問形になってるんだが」
「う…っ」
「……お前、よくそれでいつもテスト乗り切れてるな」
「それはもう、完全にちーちゃんのおかげですね…」
「ち…?誰だ、それは」
「幼なじみです。えっと、クリスマスの時の…」
「あぁ。熱出して来れなくなったって言ってた、幼なじみか」
「はい!本当の名前は千春ちゃんっていうんですけど、彼女は昔から器用で、頭も良くて、テスト前はいつも助けてもらってて…。ちーちゃんに出会えてなかったらと思うと……ゾッとします…」
「ずっと同じ学校なのか?」
「幼稚園からずっと一緒です。家が近所で、お母さん同士が仲が良くて、それがきっかけでした」
「じゃあ、もう15年くらい友達やってんのか。すげぇな」
「周りの子には、友達っていうより、保護者と子供みたいだねって言われますけどね…」
「保護者がその幼なじみで、子供がお前だな」
「あの…既に断定口調なのですが…」
「そりゃあそうだろ。今までの話の流れなら」
「あはは…ですね…」

自分からそれを話したくせに、自分勝手に胸が軋んだ。改めて振り返れば振り返るほど、与えられたものと与えたもの、正確なことは分からないが、圧倒的に前者の方が多い。
それはこの人に対してもそうで、私は自分の大好きな人に、いつも与えてもらうばかりで、与えられるものを持っていない。

「まぁでも、確かにみんなの言う通りなんです。いっつも面倒見てもらってばっかりで、私は何も返せてないので…」

あぁ、やだな。勝手に語って、勝手に落ち込むとか。
面倒くさい女。

「なんか、悪かった」
「え…?」
「今、ちょっと嫌な気分になっただろ」
「いや、そんな、全ぜ」
「でもそいつは、別にそんなこと思ってないと思うぞ」

慌てて否定しようとした私の言葉を遮って、焦凍さんはそう言いながら、再びコーヒーを口に含んだ。

「どうして、そう思うんですか…?」
「本当にそいつが賢い人間で、お前に対して思うところがあるなら、とっくに関係切ってるだろ。でもそうしないのは、そいつがお前のことを好きで、一緒にいたいと思ってるからだ」

彼はそう口にすると、微かに揺れる茶色い水面に、すっと視線を落としてみせた。まるでそこに映り込むもう一人の自分と、対峙するかのように。

「どっちがどれだけ多く与えてるかなんて、お前を好きだと思ってる奴にとっては、そんなのどうでもいいんだよ」

その言葉がしっかりと耳に届いてから、大事に食べていたデザートの、最後の一口をぱくりと食べた。味はさっきと同じなのに、口の中でそれが溶けていくのと同時に、燻っていたものも一緒に溶けていくような、そんな気がする。口に広がる美味しさと、それとは違う別の何かに、自然と笑みが零れ出し、心がぽっと暖かくなった。

「ありがとう、ございます」

私がそう口にすると、焦凍さんはカップを持ち上げて、残ったコーヒーを一気に飲み干した。全ての料理を食べ終え、いつもの癖で両手を合わせると、彼もそれにつられるように、そっと両手を合わせてみせる。

「美味しかったですね」
「そうだな」

おそらくマナー違反なのだが、私と彼は口を揃えて、お決まりの挨拶で食事を終えた。お店の雰囲気とはどう考えてもミスマッチな、なんとも言えないその違和感に、互いに顔を見合わせて笑っていると、まるで見ていたかのように、部屋の扉が叩かれた。
諸々の支度を整えて、お店を後にする前に、最後にもう一度天井を見上げると、たまたまタイミングが良かったのか、頭上で瞬く星々の間を、すっと一筋の光が流れた。







「なまえ、着いたぞ」

肩を叩く軽い衝撃に、自然と瞼は開かれた。ぼやけた視界が少しずつ鮮明になっていくと、そこにはいつもと同じく、淡々とした表情の焦凍さんがいて、視界と共にクリアになった頭で、自分がいつの間にか寝てしまっていたことに気づいた。

「す、すいません…!」

慌てて背筋を伸ばして座り直すと、運転席に座る彼は、ふっと軽く笑みを零して、気にするな、と呟いた。

「一日俺に連れ回されたからな。疲れたんだろ」
「い、いえそんな…!連れ回されたなんて思ってないですよ…!」
「思ったより遅くなっちまって、悪かったな」

自分のスマホの時計を見ると、時刻は23時51分。あと数分で今日が終わる時間が映し出されていた。

あーあ…最後の時間だったのになぁ…。
私のバカ。

運転する焦凍さんの隣で眠ってしまったことも失敗だったが、せっかく車で二人だけなのだから、最後にもっと、色々話がしたかったのに。
窓の外を見ると、そこには見慣れた祖父母の家があり、帰ってきたことでほっとした気持ちになりつつも、本当にこれで今日が終わってしまうことに、とても寂しくなった。
車を降りて、少し待っていろと言う彼の言葉の通りに、じっとその場に立っていると、焦凍さんは後部座席に乗せた荷物を出して、それを私に差し出した。

「荷物、これで大丈夫か?」
「大丈夫です!お土産もちゃんとあります」
「喜んでくれるといいな」
「はい。あの、今日は本当に、ありがとうございました。色々、連れてってもらって…」
「ちゃんとお礼になったか?」
「はい!植物園はすごく楽しかったですし、ご飯も美味しかったです。好きなものがたくさん見れて、食べれて、楽しい一日でした!」
「なら良かったな」
「でも…バレンタインに対して、10倍くらいのお返しを貰ってしまった気がします…主に、金銭的な面で…」

結局今日一日で行った場所や、食べたもののお金は全て彼持ちで、レストランを車で出る直前に、さすがにいくらか出させて欲しいと言ったのだが、ものの見事に却下されてしまった。
こうと決めたら結構頑固な人なので、それ以上しつこくは言わなかったが、トータルの金額は結構かかっていそうなので、やっぱりかなり申し訳ない。

「社会人と学生じゃ、そもそも使える金が違うだろ」
「まぁ、それはそうなんですけど…」
「じゃあ、いつか飯でも奢ってくれ」
「はい!あまり高くないものなら…!」
「生憎そんなにグルメじゃねぇから、安心しろ」
「はい…」

よく考えてみれば、今までこうして彼に会えた時は、常にその先の約束があった。店に来てもらうとか、ケーキを食べてもらうとか、二人で出かけるとか、次にまた焦凍さんに会う機会が、自然といつも出来ていた。

でも、今日が終わっちゃったら、もう、次は。

私たちの間に、もう次の約束はなくて、運良くこうしてまた彼に会えることがあったとしても、それは"いつか"になってしまうのだ。
もちろん自分から彼を誘えば、もしかしたら次の約束を作れるかもしれないが、到底そんな勇気など持てるはずもなく、逆にむしろ、どうして今までコンスタントにこの人と会えていたのかが、不思議なくらいである。

明日なんか来ないで、ずっと毎日が今日ならいいのに。

「どうかしたか?」
「え…?なんでですか?」
「急に黙っちまったから」
「あ、いや…その、今日が終わるのが、なんか寂しいなぁって、思って…」

ぽかんとした焦凍さんの表情を見て、それをうっかり口にしてしまったことを、とても後悔した。そんなことを急に言われたら、彼が困惑するのは当然なのに。

「え、えっと…別に深い意味はなくてですね…!あ、あと少しで学校も始まっちゃうので、春休みがまた減っちゃったなぁ、という意味で…」
「なんだ、そっちか」

下手くそな言い訳を並べてみせると、なぜか彼は今日二度目の、むっとしたあの表情を浮かべながら、不機嫌そうにそう吐き捨てた。

「あの、"そっち"って…?」
「俺に関しては、何もねぇのかよ」

拗ねたように顔を逸らす焦凍さんの横顔は、いつもより少しだけ、ほんの少しだけ幼く見えた。

「……ありますよ」

外は真っ暗で、顔はほとんど見えないし、どうせ次に会う予定もない。だったら。

「焦凍さんに会えないのが、いちばん、寂しいです」

今顔を見られたら、舌を噛んで死ぬ。見なくたって分かる。きっと今、私の顔はひどいことになっている。

「じゃ、じゃあ、あの、おやすみなさ───」




逃げるように言おうとしたその言葉は、言えなかった。

「え…」

頭の中が真っ白になって、ドサッと何かが落ちるような音が聞こえた。足りない頭の片隅で、その正体が自分の手にしていた荷物であることは分かっていて、いつもならそれをすぐに拾い上げるのに、私はそうしなかった。そうしたくても出来ないのだ。

なぜなら私の身体は今、彼に抱きしめられているからだ。

これはきっと夢だ。最初はそう思った。けれど互いに触れ合う場所には、確かに人の熱があって、背中に回された腕からは、そこに込められた意図的な力を感じる。時折冗談で抱きついてくる女友達のそれは違う、大きくて、力強い、男の人の身体。それはあまりにリアルで、背中に回された片方の手が、頭の後ろをそっと撫でた瞬間、これが現実であることを、私はようやく受け入れられた。

「あ、の…」
「嫌か?」

耳元で聞こえる低い声に、頭がどうにかなりそうだ。今日一日で結構慣れたと思っていたはずなのに、至近距離から届く彼の声に、全身が溶けそうなほど熱くなる。
嫌じゃない。そう早く伝えたいのに、口が上手く動かせなくて、辛うじて動いた左手の指先で、焦凍さんが着ているジャケットに触れ、返事の代わりにそれを掴んだ。

「寂しい、か」

彼は突然そんなことを口にして、私の身体を少しだけ離すと、左手で私の頬を包んで、覗き込むように顔を近づけた。

「や……見ちゃ、や…」

絶対無理。今、顔を見られたら───

「ダメだ」

逸らそうとしたその顔を、頬を抑えていた彼の左手が、元の場所まで戻してしまう。見られているのが恥ずかし過ぎて、悪あがきのように視線だけ逸らしていると、焦凍さんはさらに顔を近づけて、私の額と自分の額を触れさせてから、落とすように笑ってみせた。

「俺も、寂しいよ」

もうダメ。もう何も、考えられない。

「だから、」

その続きを言う前に、彼は紡いだその唇を、そっと私のそれに重ねた。薄く開けられた色違いの目が、私を射るように見つめていて、その真っ直ぐさに耐えかねて、ぎゅっと強く目を閉じる。頬に触れていた大きな手は、ゆっくりと私の後頭部に回され、触れた唇を逃がさないように、彼はその手に力を込めて、私にキスをし続けた。

「は…」

唇がゆっくりと離れると、自然と口から息が漏れた。焦凍さんは私の髪を何度か撫でてから、再びその手で私の頬に触れ、静かに私の名前を呼んだ。

「また、会ってくれるか?」
「……は、はい…」
「ん。じゃあまた、連絡する」

彼は穏やかにそう言い、頬に触れる左手の親指で、そっと私の唇をなぞった。ぞわぞわしたその感覚に、ぴくりと肩を震わせると、焦凍さんは軽く笑って、もう一度私に顔を近づけて、頬にちゅ、と唇を寄せた。

「おやすみ。なまえ」

私の身体を優しく離し、いつものように、ぽん、と頭を軽く叩くと、彼は私に背を向けて、自分の車に乗り込んだ。エンジンが動き出す独特の音が、静まり返った通りに響くと、運転席のガラス窓が、スっと静かに降りていく。

「寒ぃんだから、早く中入れよ」

その言葉に首を小さく縦に振ると、彼は一言挨拶を残して、車のスピードを加速させた。いつもならきっと、目の前から消えたその車が、見えなくなるまでそこにいただろうに、今日の私はそれが出来なかった。

「…っ」

急いで荷物を拾い上げて、逃げるように家に入る。真っ暗なダイニングのテーブルに、お土産の花束を適当に置き、そのまま自分の部屋に戻って、コートも脱がずにベッドに伏せた。


男の人と、キスをした。生まれて初めて。


自分の指で、そっと唇を撫でてみる。指先にある感触は、いつもと何一つ変わらないのに、ただ唇に指が触れただけで、身体がぞくりと震え上がった。
彼と交したキスの感触が、まだ鮮烈に残っている。視線も、手も、唇も、あの人の全部がとても熱くて、本当に溶けてしまいそうだった。

「どうしよう」

始めはただ、単純に、あの人好きでいるだけで良かった。それだけで、本当に十分だった。それなのに。

「こんなの、どうしたらいいの」

もう、ダメなの。
ただ好きでいるだけじゃ、もう足りない。


あの人が、 ─── 欲しい。


−−−−−−−−−−

2021.10.28

BACKTOP