メルト


誰もいない放課後の教室は、まるで知らない場所のようだ。

つい一時間ほど前までは、ここにクラスのみんなが居て、今日の演習の反省だったり、明日の小テストの話だったり、色んな話題が飛び交っていた。
いつもと変わらぬその光景。その中に溶け込む、昨日と何ら変わらない私。しかし見た目は同じでも、今日の私はとてもそわそわしていた。
それは今日が2月14日で、私はこの時が来るのを、ずっと待っていたからだった。







『なぁなぁ、今日は何の日でしょうか!?』
『ほらほらぁ、お前もわかってんだろぉ〜?女子ならよぉ〜』

朝共有スペースに降りると、突如私の目の前に、上鳴くんと峰田くんが立ち塞がった。

『えっと…私は誰にも用意してないから…ごめんね』

二人に向かってそう言うと、上鳴くん達は膝から崩れ落ちるようにして、床に両手をついた。

『なん、だと…』
『お前の俺らへの気持ちはその程度かよ…』
『ご、ごめん…!いつも感謝はしてるよ…!ただ、あんまりお菓子作りとか、得意じゃなくて…』
『そんなこと仰らずに…!可哀想な俺たちにチョコのお恵みを…!』
『頼むぜ…この際チロルひとつでも構わねぇからよぉ…』
『いや…あの…』

『おい』

涙を流しながら、縋るようにそう言う二人に困っていると、突然後ろから、別の人物の声が聞こえてきた。

『みょうじが困ってんだろ。やめろ』

私を上鳴くん達から庇うようにして、間に割って入るその人物の後ろ姿に釘付けになる。
彼の姿を見るや否や、二人は悔しそうに顔を歪めた。

『出やがったな、イケメン野郎…!』
『本日の主役来たぞチクショー!イケメン滅びろ!!』
『何言ってんだお前ら』
『お前はいいよな!!どうせ古今東西ありとあらゆる女からチョコ貰い放題だもんな!!』
『そんな貰っても食えねぇ』
『かーっ!!これだから轟くんはよォ!!』

ものすごい剣幕で騒ぐ上鳴くんと峰田くんを無視して、轟くんは私の方を振り返ると、何も言わずに私の方をじっと見た。

『あの…なに…?』
『…いや、何でもねぇ』
『そう…?あ、ありがとうね。助けて?くれて…』
『別に俺は何もしてねぇ。気にするな』

轟くんはそう言うと、私達を追い越して、寮のエントランスに向かって、一人歩き出していった。
そんな彼の後ろ姿に、トクントクン、と音を立てる心臓の音を誤魔化すようにして、私はカバンの取っ手をぎゅっと掴んだ。







窓際から二番目の、一番後ろの席。机の横に鞄はあるものの、そこに彼の姿はない。
カバンの取っ手を持つ手に、再び自然と力が入る。鞄の中に潜ませた"それ"は、誰にも気づかれないよう、こっそり昨日準備していたものだった。
今日は朝から、ひっきりなしに訪問者が絶えない私の想い人は、きっと今頃も誰かに呼び止められ、教室になかなか戻ってこられないのだろう。

よし。今しかない。

周囲を確認し、鞄を開けて、もう一度周囲を確認してから、中に忍ばせていた小さな箱を、彼の机の中に入れた。

「これでよし…と」

クラスも同じで、寮も同じ。渡す機会なんていくらでもある。こんな回りくどいことをせず、直接面と向かって渡したとしても、きっと彼は友人からの贈り物として、普通にこれを受け取ってくれるだろう。
しかし、お世辞にも綺麗な出来上がりとは言えない、不格好な手作りチョコレートを、好きな人に面と向かって渡す勇気はなかった。
何となく彼の机に手で触れると、いくつも絆創膏が貼られた自分の指が目に入り、そんな自分の手を見つめて、苦笑いをひとつ落とす。

「ふふ、女子の手には見えないね」

誰にも届かないその言葉は、誰もいない教室の静けさに溶けた。

さて、長居は無用だ。
このままここを立ち去って、何事も無かったかのように寮に戻れば、今日私のやるべきことは全て終わる。

はずだった。

「お」

踵を返し、教室の入口に向かって歩いていると、教室のドアが外側からガラッと開く。
驚いて歩みを止めると、赤と白の鮮やかな髪がサラ、っと揺れるのが目に入った。
ドアを開けたその人物も、教室に誰かがいるとは思わなかったのか、少し驚いたような顔をしながら、低く小さな声をひとつ上げた。

「みょうじ、まだ帰ってなかったのか」

可能性はあったものの、急に突如目の前に現れた片想いの相手に、私は言葉を失ってしまった。

「どうかしたか?」
「あ、ううん…!何でもない!ちょっと…びっくりしただけ…」
「それは俺も同じだけどな」
「え?」
「お前、いつもはこんな時間までいねぇだろ」
「まぁ、確かに割とすぐに帰る方かも…」
「だよな」

"いつもは"というその言い方に、自意識過剰だと分かっていても、なんだか嬉しくなる。
まるで彼が、いつもの私を知ってくれているような、そんなニュアンスに錯覚してしまうからだ。

「何か用だったのか?」
「え、えっと…」

言えない。言えるわけがない。
面と向かって渡す勇気がないから、あなたの机にチョコを入れてましたなんて。

「ちょっと…忘れ物しちゃって…」
「そうか」

彼が小さくそう呟くと、放課後の教室は再び静寂に包まれた。
特にこれといって話題もないし、何よりここからすぐに立ち去りたくて、先に寮に戻ることを告げようと口を開いたが、その言葉が届くことはなかった。

「なぁ」

私が言葉を発する前に、彼が口を開いた。彼の言葉の続きを待っていると、轟くんはそのまま私の方に歩いてきて、私の手首を掴んだ。

「朝も思ったけど、これ何だ」

彼がこれ、と言って視線を向けた先には、絆創膏だらけの私の手があった。

「昨日までは無かったよな」
「あ、あの、いや、その…これは…」
「何でこんな怪我してんだ」
「ちょっと…色々あって…」

言葉を濁す私に、轟くんは怪訝な顔をしてみせた。

「誰かにやられたのか?」
「ち、違うよ…!これは私の不注意で…」
「不注意でこんな何箇所も傷できるか?」

どうしよう。困った。
本気で心配してくれているようだし、他の人ならばすぐに本当のことを教えているけど、残念ながら彼にだけはそれを教えられない。

「と、とにかく…!何でもないから、手を離して…」
「嫌だ」
「な、なんで?」
「気になる」
「ほ、本当に何でもないから…」
「何でもないなら、理由教えてくれたっていいだろ」

話が堂々巡りだ。轟くんは、お前が手の傷の理由を話すまで、絶対にこの手を離さないと言わんばかりに、手首を掴む力を強める。
何も言わない私に、彼はますます怪訝な顔つきになっていく。
本当のことは、恥ずかしくて言いたくない。だけどここまで引っ張って心配させておいて、このまま逃げるのも、人としてどうかとも思う。
それに彼の性格上、この傷の理由を教えたとしても、ペラペラと言いふらしたりはきっとしないだろう。

もういいや。こうなったらやけくそだ。
彼に渡すために作ったことさえ、言わなければいいのだ。

「……昨日、チョコ作ってて、その時の、傷で…」
「お前、誰にも用意してねぇって言ってなかったか」
「それは…ごめんなさい、嘘です」
「何でそんな嘘ついたんだ?」
「私、お世辞にも料理は得意じゃないから…みんなに配るほどのものは作れないし…」
「あぁ、そういや、そんなようなことも言ってたな」
「はい…」

まさかこのタイミングで、自分の好きな人に自らの料理下手をカミングアウトすることになろうとは。
まぁ、朝の話は聞かれていたようだし、結局彼には知られていたようだけれど。

「作ったやつは誰にやるんだ」
「え…!?」
「…なんでそんな驚くんだよ」
「いや、そこは…もういいでしょ?傷の理由はちゃんと話したし…」
「そこまで聞いたら、誰に渡すか気になるだろ。別に言いふらしたりしねぇから」

好きな人に、好きな人は誰かと尋問されているこの意味不明な状況を、誰か説明して欲しい。

「そこは別に心配してないけど…」
「ならいいだろ。誰なんだ」
「と、轟くんは、私が誰にあげるかなんて、別に興味無いでしょ…?」

私がそう尋ねると、心做しか、掴まれていた力がさらに強まったような気がした。

「あるぞ」

半ばやけくそ気味にそう尋ねると、轟くんからの返答は意外すぎるものだった。はっきりと"ある"と言い切った彼に、再び言葉を失ってしまう。
そんなことを言われたら、私のことを気にかけてくれていると、期待してしまうというのに。

「なんで…?」

あぁもうバカ。なんでそんなこと聞いちゃうの。
そんなことを聞いたら、私が彼に何かを期待してることが、伝わってしまうかもしれないじゃない。
途切れ途切れにそう尋ねると、轟くんは依然として私の手首を掴んだまま、少し考え込むようにして俯いた後、ゆっくりと顔を上げた。

「どんな奴だったら…みょうじにチョコ貰えんのか、知りたい、から」

そう言った彼の顔は、ほんの少しだけ赤くなっていて、淡い期待に膨らみ始めていた胸が、そのまま一気に弾け飛んでしまいそうだ。

「…それ、です」

視線を床に落として俯き、私は彼の机を指さした。

「え…」
「中に、入れたから…」

私がそう言うと、轟くんは咄嗟に私の手首を離し、自分の机の中にあるものを取り出した。

「これって…」
「……轟くん、に、作り…ました」

俯いたまま、消え入りそうな声でそう呟くと、また教室が静かになる。気まずい空気の中、何とかそこに踏み留まっていると、彼がほんの少しだけ息を吸う音が聞こえた。

「お前、俺が好きなのか?」

ストレートにそう聞かれて、顔がものすごく熱くなる。今にも火を吹き出しそうな勢いだ。
あまりの恥ずかしさに、ついにその場にいることに耐えかねて、私は教室の外へ全力で逃げた。


なんてことだ。恥ずかしい。
結局本人に全部バレた。
どうしよう。どうしよう。


階段を一気に駆け下り、昇降口で靴を履いて、寮への道を文字通り、全身全霊の持てる力を使って駆け抜けた。
しかし、そんな私の努力も虚しく、身体の周囲を氷の壁で一瞬にして塞がれてしまった。
逃げ場をなくしてその場に立ち尽くすと、氷の一部が少しづつ溶け出し、そこから伸びた彼の腕が、私の手首を再び捉える。

「こ、個性を使うのは…反則だよ…!」
「こうしねぇと止まってくれねえだろ。お前結構足速ぇし」

そして氷が半分ほど溶けだすと、彼は私の手首を引いて、自分の腕の中に私を収めた。

「捕まえた」

私の身体を抱きしめながら、轟くんは小さくそう呟く。
心臓がバクバクととんでもない音を立てて、身体中の血液が沸騰しそうだ。

「さっきの質問、ちゃんと答えてくれ」
「さっきの…?」
「"お前、俺が好きなのか?"」

ずるい人だ。
そんな事を聞かなくたって、もうわかっているくせに。

「それは…もう、言ったも同然だから…」
「聞きたい」
「じゃ、じゃあ今度また、改めて…」
「嫌だ。今ここで、聞きたい」

轟くんは、私の体を抱きしめる力を、ぎゅう、と強めた。それを言うまでは逃がさない。離さない。全身でそう言っているように。
こんなに強引な人だっただろうか。さっきから形こそ違えど、ずっとこのパターンの繰り返しな気がする。
彼の強引さに少し呆れながらも、こうされていることを、心から嬉しいと思ってしまうのだから、私もかなり大概だ。

「……好き、です」

観念したように告白すると、彼は私の身体を少しだけ離すと、満足そうに笑って、私の頬に唇を寄せた。ちゅ、と可愛らしいリップ音が鳴ったことで、私は初めて彼にキスをされたことに気がついた。

「ちょ…っと!」
「嫌か?」
「嫌、じゃないけど、ここ…まだ学校で…」

下校時刻も近いため、人はまばらだが、その場にいた生徒の大半が私たちの方を見ていた。
ただでさえ今日は、恥ずかしい思いばかりしているというのに。

「俺は気にしねぇぞ」
「してください…」
「なぁ、今度はこっちにしていいか?」

私と話など一切聞かずに、轟くんは自分の親指を私の唇に当てた。
彼が何をしたいのか、ということについては、もはや聞くまでもない。

「だ、だめ…!」
「嫌だ。したい」
「そ、それに…!私は言ったのに、轟くんからは、まだ…だし…」
「何を」
「…す、好きって、まだ言われてない…」
「好きだ」

なんの恥ずかしげもなく、サラッとそう口にした彼に、思わず顔を両手で覆い尽くす。
なんでそんな簡単に言えてしまうのだろう。

「なぁ、言ったぞ。だからいいだろ?」

轟くんはそう言うと、顔を覆い尽くす私の両手を剥ぎ取って、ぐ、っと顔を近づけてきた。

「え、あ…」

言葉にならない声をあげていると、あっという間にその唇は轟くんによって塞がれた。
彼の唇はなぜかほのかに甘く、昨日何度も味見を繰り返した、あの味がした。

「チョコの…味…」
「…あぁ、さっき一個食ったから」
「い、いつ…!?」
「教室で。みょうじが真っ赤な顔して俯いてる間に」
「ぜ、全然気づかなかった…」
「美味かったぞ」

轟くんは私の頬に手を添えて、それから、とさらに言葉を続けた。

「こっちも、美味かった」

頬に触れた手の親指で、私の唇をゆっくりとなぞると、彼は少しだけ意地悪な笑顔を浮かべた。

「ごちそうさま」


−−−−−−−−−−

HappyValentine♡

2021.02.14

BACKTOP