初恋めぐり


「では、明日のチームアップは各班四人、この編成でいきますので、宜しくお願いします」

誰よりも会いたくて、会いたくないその名前を見て、一瞬、呼吸を忘れそうになった。

「あ、僕ら三人一緒だね」
「チッ...足ひっぱんじゃねぇぞクソデクが」
「轟君?どうしたの?」

固まっている俺に、緑谷が不思議そうな顔をして声をかけて来た。

「...何でもねぇ」

およそ二年もの間、たったの一度も会っていなかった"彼女"との再会の時は、こうして突然やって来た。







「今日は、宜しくお願いします」

目の前の人物が放つ、懐かしく透き通った声に、自分の心拍が加速するのを感じる。そんな自分を誤魔化すように、俺は彼女から視線を逸らした。
二年ぶりに会った彼女は、あの頃よりも髪が伸びていた。

「今日は宜しくね。デクです」
「こちらこそ、宜しくお願いします」

緑谷に小さく頭を下げると、彼女は気まずそうに、俺に視線を向けた。

「え、っと...久しぶり...」
「......あぁ」
「え、二人って知り合いなの?」
「知り合いというか...同じ中学で...」
「そうなんだ」
「...おいクソナード、いつまでくっちゃべってんだ、さっさとしろや」
「あ...うん、ごめん」

爆豪が我先にと歩き出し、急かされた緑谷も後を追うようにして歩き出した。俺もその後に続こうと歩き出すと、少し後ろから小さな声が聞こえてきた。

「焦凍、元気だった...?」

不安げなその声に、胸がチクリと痛む。
俺にそんな資格はないのに、彼女の態度に勝手に傷ついている自分に、心底腹が立った。

「...普通」
「そっか...」

消え入りそうな声でそう返事をする彼女に、俺はそれ以上何も言わず、彼女も何も言わなかった。

「二人とも、こっちだよ」
「あ、はい...!」
「...おう」

慌てて駆け出す彼女の背中を見て、俺は小さくため息をついた。

「何で来たんだよ。俺がいるって、わかってただろ」

小さくなっていくその姿に、答えが返ってくるはずもない疑問を口にした。







インターンに参加してからもう一年ほど経つが、今回の任務は、思っていた以上に難易度の高いものだった。
ここ数ヶ月間、窃盗を繰り返している犯罪組織の解体というのが今回の任務だったが、想定していたよりも敵の規模が大きく、何とか目的は果たしたものの、こちら側にも負傷者が一定数出る結果となった。

「轟君、腕大丈夫?」
「あぁ、平気だ」

致命的なものではないが、浅くはないその傷に、緑谷は心配そうな表情を浮かべていた。
これは名誉の負傷でもなければ、男の勲章でもない。ただの俺の不注意だった。

「ボーッとしてんじゃねぇよ。この舐めプがよ」
「してねぇ」
「...仕事中に女のことなんか考えてっから、そんなことになんだよ」
「変な言い方すんな。あいつはそんなんじゃねぇ」
「考えてたことは否定しねぇんだな」
「ちょっと、かっちゃん...」

爆豪の物言いに、緑谷が何か言おうとしたその時、少し離れたところから、俺たちの方へ駆け寄ってくる彼女の姿が見えた。

「お疲れ様。しばらくここで待機だって」
「あ、うん。デク君たちも、お疲れ様」

爆豪はちらっと俺を見たものの、それ以上は何も言わず、少し離れたところに、太々しく腰を下ろした。
「焦凍...!その腕どうしたの...!?」

駆け寄ってきた彼女は、俺の傷を見るなり、酷く心配そうな様子で、そのまま俺の腕に触れた。
思いがけない彼女の行動に、驚いて動けずにいると、彼女は傷をじっと観察した後、自分の持っていた救護セットの鞄を開けた。

「包帯、足りるかな...これ」
「...大した傷じゃねぇから、いい」
「何言ってるの!すぐ手当てしなきゃだめでしょ!」
「いいって」
「良くない!」

声を荒げながらも、真っ直ぐに俺を見る視線に、一瞬怯む。俺が何も言わないでいると、彼女はハッとしたような顔をして、慌てて俺の腕から手を引いた。

「ごめん」

一言だけそう呟くと、彼女はそのまま踵を返して、足早に俺の元から離れて行った。
その後ろ姿を見て、"あの日"の記憶が鮮明に脳裏に蘇ってくる。閉まっておいたはずの感情の蓋が、ゆっくりと、けれど着実にこじ開けられていく。

「轟君、もしかして、あの子となんかあったの...?」

そう尋ねた緑谷に、俺は黙って首を縦にふった。







中学時代の同級生というのは間違いではない。
但し正確に言うと、俺たちが出会ったのは、もっとずっと前のことだ。

みょうじなまえは俺にとって、いわゆる幼なじみというやつだった。

実家が近所で、同じ幼稚園。母親同士が仲が良かったこともあり、ガキの頃は毎日一緒に遊んでいた。
母の一件以降、周囲は腫れ物に触るかのように俺に接していたが、なまえだけは今までと変わらずに接してくれた。
小学校に上がってもそれは変わらず、俺は人と距離を置くようになったものの、彼女だけは例外だった。
ガキの頃から変わらず、他愛もない話をしたり、家で宿題を一緒にやったり、時々どこかに出かけたりした。
親父もなまえのことだけはなぜか口を挟まず、きっと俺たちの関係は、ずっとこんな感じで続いていくのだろうと、なぜかそう信じて疑わなかった。

"あの日"が、来るまでは。




二年前の、中3の秋。雄英への推薦入学が決まった当時の、俺と親父の関係は最悪だった。
雄英に入学が決まってからというもの、親父からの圧力はさらに強くなり、それが俺にとっては、とてつもないストレスだった。
何にイラついているのかも分からないほど、毎日イライラして、その頃は誰とどんな話をしていたのか、あの日の記憶以外は、ほとんど思い出せないほどの有様だった。

『焦凍、大丈夫...?』
『...何が』
『なんか...ずっと辛そうにしてるから...』

俺の様子がおかしいことは、なまえもわかっていたのだろう。
受験の時期だったこともあり、頻度こそ以前よりは減っていたが、それでもなまえは、時間を見つけては俺の家を訪ねて来てくれていた。

『...たまには、どっか行く?ずっと家に居て、鍛錬だけなのもあれだし...』

心配して、そう言ってくれたのだろう。
しかしその言葉が、まるでいつかの、俺を腫れ物のように扱う奴らのそれに似ているような気がして、どうしようもなくイライラした。
なまえの優しさを、そんなふうにしか受け取れなくなるほど、あの頃の俺は屈折していた。

『放っておけよ。俺のことなんか』
『そんなの、無理だよ』
『いいから、放っておけって』
『でも...』
『放っとけって、言ってんだろ!!』

どうしてそんなにイライラしていたのか、俺自身にもよく分からなかった。
ただ、何もかもが嫌だった。
見えるもの、聞こえてくるもの、ありとあらゆる全てが、訳もなく俺を追い立てているように感じていて、誰のことも信じられなくて、誰にも心に触れられたくなかった。

『しょう、と...』
『...可哀相とか思ってんなら、やめてくれ』
『そんなこと、思ってないよ...私はただ…』
『そんなのいらねぇ』
『焦凍...っ』

『頼むから、もう、どっか行ってくれ』

自分が放ったその一言が、どれだけ酷いものだったのかを理解したのは、なまえの顔を見た直後だった。
泣き出しそうなその顔を見て、自分が取り返しのつかないことをしたことに、俺はようやく気がついた。

『あ...いや...』
『わかった』
『え...』
『私のこと嫌なのは、わかった』
『い、や...』
『焦凍が、そう、思ってるなら...仕方ないもんね...』

泣き出しそうだったその瞼から、ついに涙が頬を流れ落ちると、なまえはさらに言葉を続けた。

『私が...っ、焦凍を好きで、一緒にいたいと思ってても...っ』

初めて聞いたのなまえの気持ちに、俺は何も言うことが出来ず、そんな俺から視線をそらして、消え入りそうな声で、ごめんね、と言い、彼女はそのまま俺の部屋を出て行った。
一人自分の部屋に残った俺は、畳に転々と不規則に落とされた水滴が、じんわりと内側に沈んでいくのを、ただ見ていることしかできなかった。

自分が何を失ってしまったのか、失ってしまったことにすら、最初は気づいていなかった。
だけど、何日、何週間、何ヶ月と時間が過ぎていくうちに、漠然とした違和感は、やがてどうしようもない喪失感へと姿を変えていった。

ずっと続いていくだろうと、信じて疑わなかった俺たちの関係は、俺が軽率に放った、たった一言で終わりを迎えた。
ようやく自分の気持ちに気づいた時には、彼女はもう、会えない人になっていた。







「今日は、ありがとうございました」

俺たちに向かって丁寧に頭を下げたなまえは、すっかり元の様子に戻っていた。

「またチームアップの機会があったら、宜しくね」
「うん。じゃあここで」

なまえは笑ってそう言うと、背を向けて歩き出した。
少しずつ小さくなっていく背中を、ただ黙って眺めていると、緑谷が遠慮がちに俺の名前を呼んだ。

「いいの?」

徐々に遠くなっていくその姿に、心臓が握り潰されそうなほど痛いのに、俺は足を踏み出せない。

「...いい。もう、傷つけたくないんだ」

緑谷の言葉の意味は、わかっている。

今ここで追いかけて、あの手を掴めば、きっとなまえは俺の話を聞いてくれるだろう。
けど今さら、あんな身勝手にあいつを傷つけた俺が、やっぱり一緒にいたいだなんて、そんなの都合が良すぎる話だ。

どれだけ強くなったって、俺はずっと、俺のままだ。

仮にもう一度、側にいることを許してもらえたとして、もしもまた、同じように酷いことを言ってしまったら。また傷つけてしまったら。
そうなってしまうくらいなら、これからも、この気持ちにはずっと蓋をしておくべきだ。
器用で、余裕があって、間違っても俺みたいに、あいつを傷つけたりしない奴は、きっといくらでもいる。そういう人間といる方が、あいつはきっと幸せだ。

いや、違う。そうじゃない。本当は───




「バッカじゃねぇの」

何も言わない俺に、痺れを切らしたように大きく舌打ちをして、爆豪は俺の胸ぐらを掴んだ。

「ちょ、かっちゃん...!」
「未練タラタラのだっせぇ野郎が、いっちょまえに良い男気取ってんじゃねぇぞ」
「...お前に、何がわかんだよ」
「てめぇが守りてぇのは、てめぇ自身だ。あの女を傷つけたくねぇとか、体の良い言い訳引っ提げて、それに甘えてるだけなんだよ」

爆豪の言葉が、ざっくりと俺の心臓を突き刺した。

図星だ。

なまえを傷つけたくないというのは、紛れもない本心だ。だけどそれは、爆豪の言う通り、自分を守ための言い訳でもあった。

傷つけること以上に、自分が傷つくことが怖いんだ。

今までのこと。今思っていること。これからどうしたいのか。そして、本当の気持ち。
それらを口にすることが怖い。
それを口にして、なまえに拒絶されることが、何より一番怖いのだ。
本当は、あいつの隣に他の奴がいるなんて嫌だ。考えたくもない。誰にも渡したくない。

俺は卑怯で、勝手だ。

踏み出す勇気はないくせに、独占欲だけは一人前。そんな自分を認めたくなかった。身勝手な自分をなかったことにして、好きな奴のために身を引ける、良い男でいたかった。

「そうだな。お前の、言う通りだな」

見事に図星を突かれ、自嘲気味に笑いをひとつ零すと、爆豪は俺から手を離し、それを待っていたかのようなタイミングで、緑谷が小さく俺の名前を呼んだ。

「昔の君と今の君は違うよ。だから前と同じようにはならない。絶対に」

穏やかに、しかし、とても真っ直ぐな強い目で、そう言い切った緑谷に、もうこの気持ちには蓋をしようと、そう決めたはずの心が、大きく揺らぐ。

「いや、でも俺は...」
「あー...うっぜ」

心底うんざりだと言わんばかりの声色と表情で、爆豪は再び俺に向かって、盛大な舌打ちをしてみせた。

「諦めることなんざ、出来ねぇんだろうが」

ここで追いかけなければ、今度こそ、もう二度と会うことはないかも知れない。
だったら好都合じゃないか。二度と会えなくなってしまえば、これで諦めもつく。

───そんなわけ、あるもんか。

"ただの疎遠になっていた幼なじみ"という枠に、あいつは収まってくれなかった。
一度も会わなかったこの二年の間、一日だって忘れたことはなかった。たった一日だって、忘れることが出来なかった。

好きなんだ。誰よりも。
諦めるんて、出来る訳ないんだ。

「...揃いも揃ってお節介だな。お前ら」
「あ!?」
「ご、ごめん...」

でもきっと、こいつらがここに居てくれなかったら、きっとこの足は動かなかった。

「ありがとな」

息を深く吸い、大きく吐き出す。
言葉も段取りも何も考えていないが、ここから一歩踏み出さなければ、何も始まらない。
俺がこれからどうするのかを察したのか、緑谷は嬉しそうに、爆豪は馬鹿にしたように、それぞれ対照的な笑みを浮かべた。

「さっさと行って、そんでこっぴどくフラれちまえ」
「またそんなこと言って...。大丈夫、きっと伝わるよ。頑張って!」

緑谷の言葉に頷き、そのまま全速力で走り出した。
あの日追いかけることが出来なかった、愛しい、小さな背中を探して。







心にまだくすぶる恐怖は置き去りにして、とにかくひたすら走った。
そんな俺を見て、驚いた顔をする周囲の人の姿を、何度か視界の端で捉えたが、そんなことはどうでも良かった。これから学校に戻ると言っていたから、おそらく駅のバス停に向かっているはずだ。

早く、早く。

大通りを真っ直ぐに走り抜け、駅に程近い交差点を左に曲がると、ようやくその背中を見つけることが出来た。
あと少しで追いつけると思った時、どうしたことか、その人物は勢いよく振り返った。
かなり驚いた様子で俺を見て、なまえはその場で凍ったように立ち尽くした。
どうして気づいたのだろうかと疑問に思ったが、彼女と同じように驚いた表情を浮かべる周囲の顔を見て、その疑問は払拭された。

俺が無意識に呼んでいたのだ。彼女のことを。

立ち尽くすなまえと、自分との距離が近くにつれ、息苦しさが増していく。
ようやく彼女の目の前までたどり着くと、そんなに長い距離を走ったわけでもないというのに、心臓がバクバクと喧しく鳴り響き、手にじんわりと汗が滲んだ。

「ど、どうしたの...?なんかあった...?」

息が上がった俺を、なまえは心配そうな様子で覗き込む。その瞬間、俺は彼女の頭の位置の低さに、違和感を覚えた。
二年前は、確か同じくらいだったはずなのに。
今さら感じたその事実に、二年という月日を嫌というほど思い知らされる。

「...怪我、大したことなくて良かったね」

呼び止めたくせに何も言わない俺に、少し困ったような笑顔で、なまえはそう言った。
こんなどうしようもない奴を心配するその言葉に、不謹慎にも嬉しい気持ちになってしまう。
やっぱり俺は勝手だ。

「まぁ...そうだな」
「うん」

本当に何も考えずに追いかけてきてしまったため、言いたいことは山のようにあるのに、どれから話せばいいのかわからず、互いの間に気まずい沈黙が流れる。

「あの...」
「......忘れようって、思ったんだ」
「え...?」

俺の言葉に、なまえは驚いたような、戸惑っているような、定まらない表情で俺を見た。

「でも、無理だった」

自分のことしか見えていなかった、未熟で幼すぎた、あの頃の俺。
そばにいても気づけなくて、今になってやっと、友達の力を借りて、やっとここまで来れた。

「忘れられなかった。あの日のことも、お前のことも。ずっと」

思い出しては苦しくなってて、なのにどうしようもなく、会いたくなった。

「今さらだって、勝手だっていうのも、わかってる。でも、俺は───」

それまで黙って俺の話を聞いていたなまえの目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。二年前と同じその表情に、俺はその先の言葉を失った。

また、こうやって泣かせちまうのか。俺は。

今この瞬間、世界中の誰よりも、こいつを好きでいる自信はあるのに、俺はこうしてまた、大切な人を泣かせてしまう。
そんな情けないことを考えていると、俺の中の弱い自分が顔を覗かせる。

追いかけない方が、良かったんじゃないか?

あの日の俺だったら、逃げるように、今言ったことを忘れてくれと、そう言っただろう。だけど。

"昔の君と今の君は違うよ。だから前と同じようにはならない。絶対に"

息を吸い込み、自分を守るための言葉を飲み込んで、俺はゆっくりと彼女に近づいた。
声を殺して泣いているなまえの頭に、恐る恐る左手で触れると、彼女は少し戸惑っていたものの、遠慮がちに俺の服の袖をきゅっと掴んだ。
俺より小さな手で、俺の服を握りしめる、その姿が愛おしくて、ずっと触れられなかったその身体を、俺は思い切り抱きしめた。

「ごめん」

俺がそう言うと、なまえは俺の背中に腕を回して、力いっぱい俺にしがみついてきた。

「しょうと...っく、ひっく…」
「ひどいこと言って、ごめん」
「っく…わ、たし...っ、ずっと...っ、嫌われ、てると、思って…っ......」
「嫌いなわけ、ねぇだろ」

自分の腕の中で泣いているなまえに、とてつもない罪悪感が掻き立てられる。
心臓が止まりそうなくらい苦しくて、痛い。
それなのに、今こうしてこいつに触れられることに、どうしようもなく安心している自分がいる。
腕の中にある温もりに、先ほど失くしたその言葉の続きを、ようやく口にする覚悟が持てた。

「好きだ」

たった一言。
たった三文字。
その言葉を伝えるのに、こんなに遠回りしてしまったけど。

「なまえのことが好きなんだ」

泣いている顔に手を添えて、ゆっくり自分の顔を近づけると、彼女は焦った様子で、俺の肩を軽く押した。

「やっぱ、ダメか」
「な、何が...?」
「キスしたい」
「だ、だめ...っ」
「...まぁ、そうだよな。さすがにもう、時効か」
「え...?」
「もう、好きじゃないよな。俺のこと」

試すつもりでも、何かを期待するつもりでもなく、純粋にそう思っていた。
しかし、なまえはそんな俺の言葉を聞いて、首を何度も横に振った。

「好き、だよ」

消え入るような声でそう言った彼女の目から、また涙が溢れ出した。

「好きだから、会いたくて...っ、焦凍がいるって、知ってて、来たんだもん...っ」

ダメだと言われたのに、気づいた時には、そうしていた。
すぐ目の前には、驚いたように見開くなまえの目があって、俺は彼女の頭を片手で抑えて、そこから逃げられないようにした。
ゆっくりとなまえの瞼が閉じられるのを見て、俺も視界を閉ざした。見えない中、唇が触れ合うその感触が愛おしくて、抱きしめる腕に力を込めた。
このままずっと俺の腕に閉じ込めて、どこにも行けないようにしてしまいたいと、本気でそう思った。
名残惜しむように唇を離すと、なまえはまた一筋涙を零しながら、口をパクパクさせた。
彼女の瞼に残った水滴を、俺が指で拭うと、急に何かにハッとしたような顔をして、なまえは俺から勢いよく離れた。

「う...あ...」

言葉にならない声をぽつりぽつりと呟きながら、彼女は顔を真っ赤にさせて俯いた。もはや手遅れだと思うのだが、この状況が恥ずかしくなったらしい。
そんななまえの手を取り、そのままそれを握ってみると、彼女は俯いたまま、ゆっくりと俺の手を握り返してくれた。

「急に悪かった。でも、好きなんだ」

ありとあらゆる柵を全て取っ払って残った、一番シンプルな言葉。
それをもう一度口から吐き出すと、彼女は自分の指で目を擦りながら、ゆっくりと俺を見て、赤く腫れた目を少し細めてながら、照れたように笑った。
その顔に、どうしようもない衝動が湧き上がる。
彼女の腕を引き、自分の腕の中に再び閉じ込めると、彼女はゆっくりと、俺の背中にもう一度腕を回して、身勝手な俺を受け入れてくれた。







翌日のインターンを終えたあと、俺は事の顛末を二人に話した。

「良かったね。仲直りできて」
「てめぇのことだから、またやらかしてフラれるかもしれねぇがな」
「...ありがとな、二人とも」

俺がそう口にすると、二人は昨日と同じく、それぞれ対照的な笑みを浮かべた。

「僕たちは何もしてないよ。轟くんが頑張った結果だよ」
「俺は言いてぇことを言っただけだわ、死ね」
「心配してたくせに...」
「してねぇわ!!てめぇぶっ殺すぞ!!」

相変わらず仲がいいのか悪いのか、よくわからない二人を横目に、俺は自分の鞄を肩にかけた。

「じゃあ、俺はここで」
「あ、うん。お疲れ様」
「おう」

事務所のエントランスを出て、駅に向かって歩き出すと、ポケットに入れていたスマホが小さく震えた。期待を込めてディスプレイを見ると、そこには今一番会いたい人の名前が映し出された。
返信の文字を打つ時間すら勿体無くて、俺はすぐにその人物に電話をかけた。

"はい"
「今出た。すぐ行くから」
"急がなくていいよ。インターンの後で疲れてるだろうし"
「早く会いてぇ」

俺の言葉に、電話の向こうにいるはずのなまえの声が途絶えた。

「どうかしたか?」
"焦凍は、ずるい"
「は?」
"そういうことをさらっと言うから、ずるい..."
「まぁ、本当のことだからな」
"......早く、会いたい"
「ん。すぐ行くから、待ってろ」

電話を切って、俺はすぐに走り出した。
昨日と同じ道を走っているはずなのに、まるで絡みついていた何かが取れたように、足が軽い。
恐怖と緊張で苦しかった胸も、今は期待と嬉しさで満たされている。
自由になった意識で走り抜ける道は、昨日とはまるで違う景色に見えた。

会いたい。早く、会いたい。

その一心で駅までの道を走っていると、駅前のベンチに座り、何かを見つめるなまえの姿を見つけた。自然と顔が綻んで、彼女のいる場所まで一気に駆け抜ける。
息を整えながらなまえに近づくと、俺の姿に気づいた彼女は、目を丸くさせてこちらを見た。

「どうかしたか?」
「えっと...すごく早かったから、びっくりした...」
「早く会いたかったし、お前もそう言ってくれたから」
「...うん」

照れたように俯いたその頭を撫でると、なまえは頬を赤くしながら、嬉しそうに笑った。

「そういや、さっき何見てたんだ?」
「え...あぁ、あれをね、見てたの」

彼女が指を指す先にあったのは、ごく普通のコンビニの入り口にある看板だった。赤いソースがかかったソフトクリームの写真にの上に"期間限定"と大きく書かれた、よくありふれたデザインの看板だ。

「食うか?」
「あ...ううん。そうじゃなくて...なんか、焦凍の髪の色に似てるなぁって、思って」

嬉しそうにそう言うなまえに、俺は思わず頭を抱えたくなった。
何だそれ、可愛すぎんだろ。ふざけんなよ。

「......お前の方がずりぃだろ...」
「え?何?」
「何でもねぇ」

不思議そうな顔をして俺を見る彼女の、その小さな手に触れると、いとも簡単にそれは受け入れられた。

「行くか」
「うん」

手を繋いで歩き出すと、夕陽に照らされたアスファルトに、俺たちの影が写し出される。
ぼんやりとそれを眺めていると、唐突になまえが俺の手を握る力を強めた。気になって隣に視線を運ぶと、なまえも俺の方を見て、幸せそうに顔を綻ばせた。
そんな顔がとても愛しくて、彼女の小さな手を、祈るような気持ちで握り返した。

再び重なり合ったこの道が、これから先の未来まで、ずっとひとつでありますように。


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Twitterリクエスト企画で書かせていただいたものです。
個人的に、このお話に出てくる爆豪くんが、今まで書いたどの爆豪くんよりもかっこいいと思います。

2021.02.19

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