My hero is.


その日は久しぶりの熱帯夜だった。

もう今日が明日になろうという時間なのに、アスファルトに残った地熱が身体に纏わりついた。その暑さからか、それとも緊迫した状況のせいか、あるいはどちらともか。額に滲んだ汗が頬を通り、首筋に伝っていく不快な感覚を感じながら、俺はその場所へ足を踏み入れた。







「調子どうだ」

俺の問いかけに、病室のベッドで本を読んでいたらしい彼女は、少し呆れたような顔をして見せた。

「また来たんですか」

彼女は迷惑そうにそう言うと、視線を再び本に戻してしまった。

「迷惑か」
「はい」
「相変わらずはっきり言うな、お前」
「あなたが来ると、いつも看護師さんに質問責めにされて疲れるの。何を話してたのとか、どんな関係なの、とか」
「それは、悪ぃな」
「悪いと思ってるなら、来ないでください」

冷たくそう言い放つ彼女に、少しだけ心がチクリと痛んだ。随分な嫌われようだが、俺は負けじと彼女の視線の先にある、朱色のカバーがついた本を指差した。

「それ、何読んでんだ?」
「私の話は無視ですか」
「それくらい良いだろ。教えてくれたって」

俺がそう言うと、彼女はむすっとした顔をしながら、小さくため息をひとつ吐いた。

「朝起きたら、そこにあって」
「それは不思議だな」
「たぶん、看護師さんの誰かが置いてくれたんだと思います。外にも出ちゃダメって言われてるし、特に何もすることもないので、暇つぶしに」
「で、それは面白いのか」
「結構面白いです」
「そうか」

彼女の反応に、落胆と安心のちょうど真ん中に心を置いた。今日もこれといって「変化なし」か。

「じゃあ、また来る」
「別に来なくて結構ですけど」
「そう言うなよ。これも仕事の一環なんだ」
「……またそれですか」
「人を助けるのがヒーローの仕事だからな」
「私は別に助けてくれなんて、頼んだ覚えはありませんが」
「まぁ、そうだな。お前には言われてないな」
「だったら、どうして私に構うんですか」

彼女は相変わらず本に視線を落としながら、迷惑そうなニュアンスでそう俺に尋ねた。

「俺は答えてもいいが、それを聞いて困るのは多分お前の方だぞ。察しついてんだろ」

俺がそう言うと、彼女は持っていた本のカバーと同じくらい、顔を真っ赤に染め上げた。

「このロリコン!!帰って!!」
「いや、三つしか違わないだろ」
「いいから帰って!」
「わかったわかった。そんな怒るな」
「もう来ないで!!」

彼女は顔を真っ赤にしながら、すぐ側にあった枕を俺に投げつけた。俺はその枕を掴み取り、彼女のベッドの足元に置いて、ひとまず病室を退却した。




病室を出て、少し歩いたところにある談話スペースを通りがかると、白衣を着た男がこちらに手を振っているのが見えた。俺より多分、ひと回りは年上であろうその人物は、彼女の担当医だった。

「今日も来たの?愛だね」
「まぁ、半分は仕事みたいなものですけどね」
「いやいや、君相当忙しいでしょ」
「普通だと思いますけど」
「まぁ無理はしないようにね。で、どう?『昼の』彼女は」

その言葉に、俺は首を数回横に振った。男は少し困ったような笑顔を浮かべて、手に持っていた缶コーヒーを一口含み、小さくひとつ息を吐いた。




「『本体』と融合するのは、まだ少し時間がかかりそうだね」







俺をロリコンと罵っていた彼女、みょうじなまえと出会ったのは、一年前の任務でのことだった。かねてより調査を進めていた、違法薬物の取引を行う敵組織の拠点が突き止められ、その制圧に俺も加わることとなった。
作戦は深夜に行われることとなり、俺も含め、雄英のOB・OGも何名か同じ任務に加わっていた。場所は町外れの、いわゆる廃倉庫が密集する場所で、いくつかある倉庫にそれぞれ担当チームを決めて、同時に制圧する予定になっていた。




「ショートくんと仕事で会うのは久しぶりだね」
「そうだな」
「じゃあ、そろそろだけど……準備いい?」
「あぁ」

俺がそう返事をしたと同時に、耳につけたインカムから、突入開始三十秒前の合図が聞こえてきた。首筋を伝う汗を手の甲で拭い、作戦開始と同時に緑谷と倉庫に突入した。倉庫に足を踏み入れた直後、刃物のような形状をしたものが俺たちに飛んできた。互いにそれを避け、飛んできた方向に視線を向けたその時、俺たちは一瞬動けなくなった。

そこに立っていたのは、おそらく十代後半、ギリギリ二十代かどうかくらいの、若い女だった。

「こんな女、リストに居たか」
「いや。記憶にない、けど……」

事前に渡された敵のリストにそいつがいなかったことも動揺した理由のひとつだが、それ以上に俺たちが目を疑ったのは、そこに立っていた女自身に対してだった。まるでそこに彼女はいないかのような、虚な表情。手足にはいくつもの痣や火傷の痕があり、女の様子から「その仮説」は容易に立てられた。

「おい、こいつ。もしかして」
「うん。僕もそう思う」

俺たちは直感した。彼女は自ら望んで戦っていないのだ。肉体の操作か、あるいは洗脳か、そういった類のものに支配され、自分の意思を失っている。俺たちの言葉には一切感情の機微を見せず、彼女は再び俺たちに向かって刃物を投げつけた。

「ショートくん!」
「あぁ」

緑谷が放たれたナイフに対応している間に、俺は氷結で本人の動きを止めた。彼女は自身が拘束されたことに動揺することもなく、その表情は相変わらず虚だった。所持していた武器を全て取り上げてから、氷を熱で溶かすと、緑谷が彼女に声をかけた。




「こんばんは。話せるかな?」

緑谷の問いかけに対しても、特にこれといった反応はなく、彼女は俺たちの方を見ることすらしなかった。

「ひとまず病院に連れていってあげようか。傷だらけだし」
「そうだな」

俺がそう言うと、緑谷は通信機を取り出し、すぐに救急車の手配を依頼した。約十分後にここに到着するとのことで、車両の誘導を行うため、緑谷は一度その場を離れ、俺が彼女を見ていることになった。
女は相変わらずの様子で、コンテナに寄りかかるようにして、大人しく座っていた。顔以外の見える皮膚にいくつもついた傷跡が、あまりに痛々しい。




「気休めにしかなんねぇだろうが」

特にすることもなくなった俺は、彼女に近づき、その腕に冷気を当てた。すると今まで一切なんの反応もなかった彼女の顔がゆっくりと動き、視線が自身の腕へと向けられた。しかし次の瞬間、彼女は急に両手で頭を抱え込み、小さな唸り声を上げながら苦しみだした。

「おいっ」
「や、いやっ、もうやめて……ちゃんと、ちゃんとやるからっ」

その言葉を聞いて、俺たちの仮説は正しかったことを確信した。おそらく彼女に個性をかけていた人物が気を失い、彼女にかけられていた洗脳が解けたのだ。俺が咄嗟に彼女の両手を掴むと、彼女は勢いよく顔をあげた。先ほどとは異なり、瞳はきちんと焦点が合っており、表情からは濃い恐怖の色が感じられた。

「お願い……ちゃんとやるから、殴らないで……っ」
「落ち着け。何もしねぇから」
「いやっ、離して!いや……っ、いやっ」

嫌だ嫌だと首を何度も大きく横に振りながら、ぼろぼろと泣き出す彼女を、俺は咄嗟に自分の腕に閉じ込めた。




「大丈夫だ。俺はお前を傷つけたりしない」

俺がそう言うと、ヒステリックに声をあげていた彼女が、またもや動かなくなった。恐る恐る腕の中にいる彼女を覗き込むと、震えるその手で、縋り付くように俺の服を握りしめた。

「助けて」

消え入りそうな小さな声でそう言った彼女を、もう一度抱きしめると、ずっと張っていた心の糸が切れたのか、彼女は俺の腕の中で眠りについた。







俺が想像していた以上に、彼女の過去は凄惨なものだった。

後から調べてわかったことだが、今回制圧した敵組織の主幹は、彼女の実の両親だった。生まれたと同時に、半ば捨てられるようにして祖母に預けられ、中学までは普通の学校に通っていたものの、中学卒業後と同時に、彼女は個性目的で両親に連れ戻された。以降の約四年、俺たちと対峙するまでの間、彼女はずっと関わりたくもない犯罪に関わらされていたという。
組織の中には予想通り、心操と同じ洗脳系の個性を持つ幹部がおり、その幹部は彼女の両親の指示に従って、彼女に洗脳を施していたということだった。身体の傷はそれに抵抗した際や、仕事を遂行できなかった時の制裁として付けられたもので、彼女の両親は、それをなんてことない雑談をするかのように話していた。
聞けば聞くほど、それらは虫唾の走る内容ばかりで、今回の一件はメディアでも大きく取り上げられることとなり、それと同時に、ここまで事態に気づけなかったヒーローへの反発の声も少なくなかった。

病院に搬送された彼女は、すぐに治癒を施され、身体の傷はすぐに回復したものの、彼女の受けた心の傷は、想像を遥かに超えた形で具体化してしまっていた。事件から三日後、緑谷と共に意識を取り戻した彼女のもとに会いに行くと、彼女はまるで別人のようにあっけらかんとしていて、倉庫での出来事も、俺たちのことも覚えてはいなかった。

みょうじなまえは、主人格である彼女とは別に、もう一人の別の人格を有していた。

人格の解離。いわゆる多重人格というやつだ。担当医の話によると、彼女の場合、過度なストレスが原因となって、主人格を保護する目的で、新しい人格が出現したのではないか、ということだった。関わって行く中でわかったことだが、新たに形成された人格は昼に、主人格である彼女は夜にしか現れず、その入れ替わりのトリガーは睡眠だった。どうやら、夜眠ると同時に昼の彼女が眠りにつくと、主人格である彼女がようやく出てきてくれる、という仕組みらしい。昼寝はこのトリガーの対象範囲外であり、昼に意図的に眠らせてみても、主人格の彼女は現れず、本人と話ができるのは、夜の間だけだった。
15歳から19歳までの四年間、日常の大半が洗脳下にあったこともあり、もう一つの人格の出現については、彼女を縛り付けていた両親でさえも、認識してはいなかった。




「調子、どうだ」

俺の問いかけに、病室のベッドで本を読んでいたなまえは、少し驚いたような顔をして、勢いよく俺の方を見た。

「悪ぃ。声かけねぇ方が良かったか」
「そんなことは……」
「面白いか、それ」
「えっと……はい」
「そうか。じゃあ、今度続き持ってくるな」
「ありがとうございます。あ、あの」
「どうした」
「昼間は、すみませんでした。失礼なことを……枕を投げたり、とか……」

彼女は遠慮がちに俺の方を見ると、小さく頭を下げた。そんななまえの様子を見て、出会った当初の彼女をふと思い出す。保護した当初は、夜になるとフラッシュバックを起こしてしまい、長きに渡って与えられた苦痛や恐怖、自分がしてきたことへの罪悪感に苛まれ、度々病室を抜け出したり、自ら命を断とうとすることも少なくなかった。
しかし、緑谷と一緒に何度もここへ足を運び続けたことで、徐々に主人格の彼女も俺たちが自分に危害を加える人間でないことを認識していき、倉庫での出来事を思い出してからは、こうして普通に会話も成立するようになった。

そしてもうひとつわかったことは、主人格の方のなまえは、なぜか別人格になっている時の記憶も有しているということだ。多重人格の大半のケースは、別人格になっている際の記憶は共有されず、実際昼の彼女はそれが出来ない。ところが、主人格である方の彼女は、昼間に俺や他の人間と交わした会話の内容など、別人格の記憶を共有できる状態にあった。

「お前が投げたんじゃねぇだろ」
「それは、そうなんですが……」

昼間はあんなに強気で、俺のことを迷惑そうにしていたのに、本体の方はまるで真逆だ。同じ顔をしているのに、弱々しくて儚げで、強気な部分など微塵も感じられない。

「しかしそれにしても、昼のお前には、随分嫌われちまったな」
「す、すみません……」
「ロリコンって言われたのは初めてだ」
「本当に、すみません」
「まぁでも、枕を投げられたのは、自業自得な気もするしな」
「あ……」

そこに至るまでの経緯を思い出したらしいなまえは、昼の彼女と同じく、顔を真っ赤にさせて俯いた。彼女のベッドに近づき、赤くなった頬に触れると、彼女はひどく恥ずかしそうに、俺から視線を逸らした。

「赤くなってる顔は、どっちもいいな」
「え……?」
「どっちのお前も、可愛い」

そう言うと、彼女は顔を真っ赤にしたまま、少し困ったような顔をしてみせた。

「悪ぃ。また困らせてるな、俺」

俺がそう言うと、なまえは恐る恐る俺の方をゆっくりと見た。その目はとても不安そうに揺らいでいて、少し力を加えてしまえば、あっという間に壊れてしまいそうな脆さを感じた。

「でも、取り消さねぇから」

始めはこいつに対して、事情は全く異なるものの、ほんの少しだけ母の面影を重ねてしまっていた。そのままにしておくことが出来ず、よくわからない義務感に駆り立てられ、時間を見つけてはここに足を運んでいた。
しかし、いつしかそれは義務感ではなくなり、ヒーローとしてではなく、一人の男として、彼女の側にいたいと思うようになった。こうして病院を訪れるようになって一年。偶然助けた年下のこいつに、俺は見事に心を奪われてしまったのだ。

「好きだって言ったのは、取り消さない」

なまえはさらに顔を赤くさせて、俺から再び視線を逸らした。限定条件付きではあるが、ようやく自分の存在を取り戻した彼女に、随分と酷なことをしている自覚はあった。しかし、日に日に彼女を求める気持ちが強くなっていく中で、それをずっと胸に仕舞い込んだままでいられるほど、俺は大人でも強くもなかった。

「あ、の……」

何か言わなければ、と思ったのだろう。しかし、しばらくその続きを待ってみたものの、なまえからその先にある言葉を聞くことは出来なかった。俺はそんな彼女の額に、一度だけ唇を寄せて、その長い髪をゆっくりと撫でた。

「また、来るから」

そう言い残し病室を出て、ドアの隙間から少しだけ病室の中を覗き込むと、なまえは膝を抱え込むようにして、そのままベッドの上で身体を縮こませていた。







「それで、今日はどうだったの?」

テーブルに置かれた枝豆をひとつ摘み取りながら、緑谷はそう俺に尋ねた。

「フラれた。あと、昼の方にロリコンって言われた」
「ぶふっ!!ろ、ロリ……!?いや、そっちもだいぶ気になるけどさ、そっちではなくて」
「割と落ち着いてる...と思う」
「そっか」
「忙しいとこ悪いが、来週からしばらくの間、あいつのこと頼むな」
「うん。何もないことが一番だけど、何かあったらすぐ知らせるよ」

ここ一年の間は、極力出張仕事を入れないようにしていた俺だったが、週明けからの二週間、どうしても外せない出張の予定がついに入ってしまった。医師や看護師を信頼していないわけではないが、どうにもそれだけでは俺の気持ちが落ち着かず、出張の間は緑谷に俺の代わりと頼むことにした。

「あの子もだけど、轟くんも気をつけてね。今回の出張、結構ハードな案件でしょ?」
「まぁな。でも飯田も一緒だし、たぶん大丈夫だろ」
「ちゃんと無事に帰って来てよ。君に何かあったら、あの子もきっと悲しむから」
「どうだろうな。俺はあいつを困らせてるだけだから」
「はは、相変わらず、自信があるのかないのか、よくわかんない人だね。君」
「そうか?」

穏やかな笑顔を浮かべながら、緑谷は黙って頷いた。付き合いが長いこともあるが、色々お見通しな感じのするその目に、ほんの少しの対抗心が芽生えた。

「緑谷」
「何?」
「なまえにちょっかい出すなよ」
「……出さないよ。君じゃないんだから」

呆れたようにそう言うと、緑谷はその手に持っていた枝豆を、ようやく口に運んだ。







遠征なんてやっぱり断っておけば良かったと、そう思った時には既に遅かった。視界がぐらりと揺れ、自分の身体が硬いコンクリートに叩きつけられても、俺は痛みを感じなかった。




「ショート君!大丈夫か!!しっかりしろ……!!」

すぐ側で、動揺を隠せない飯田の声が聞こえた。大丈夫だと言葉を返したいのに、上手く身体を動かせず、少し前まで熱かった身体が、少しずつ、しかし着実に冷えて行くのを感じた。薄れゆく意識の中、今ここにはいない彼女の顔が、ぼんやりと脳裏に浮かんだ。
せめて一度だけでもいいから、笑った顔が見てみたかった。きっとすごく可愛かっただろう。そんなことを考えながら、重くのしかかる瞼の重力に、俺は抗えず目を閉じた。







目を覚ますと、真っ白な天井があった。

再び目を覚ますことはないだろうと覚悟をしていた俺だったが、どうやら生きていたらしい。身体のあちこちにかなりの痛みがあったものの、意識ははっきりとしていて、何とか身体も起こすことも出来た。辺りを見渡すと、そこは見覚えのある部屋だった。約一年もの間、暇を見つけては訪れた、彼女の部屋と全く同じレイアウト。
どうやら俺が運び込まれたのは、彼女と同じ病院らしい。一体どれくらい眠っていたのだろうか。部屋の明るさから察するに、今が昼なのはわかったが、今日が何月何日なのか、それを示すものは何ひとつない。




「ほら、起きてるよ。さっさと出てきなって」

部屋のドアの向こうで、聞き覚えのある高い声がして、心臓がドクン、と大きく跳ねた。そんな俺を置き去りにしたまま、その声は更に続けて言葉を発した。

「何言ってんのよ今さら。あんたがうるさいから、わざわざこっそり抜けてきたんでしょうが。腹括りなさいよ」

間違いない。これは昼の彼女の声だ。
部屋から出られるはずのない彼女が、そこにいたことにももちろん驚いたが、誰かと会話をしていることにもさらに驚いた。昼の彼女はコミュニケーションこそ円滑に取れるものの、人と積極的に関わるタイプではなかったからだ。
いや、違う。隣に誰かがいるわけじゃない。彼女の言葉を思い出し、俺はその文脈の違和感に気づいた。隣に誰かがいて、その誰かにこの部屋に入るよう促すなら、さっさと「入れ」と言うだろう。しかし彼女は先ほど、さっさと「出てこい」と言った。もう一度彼女の言葉を頭の中で繰り返し、俺は都合の良すぎる仮説を立てた。そしてその仮説の答えは、もう間もなくわかる。
なぜならその直後、俺の部屋のドアがゆっくりと開く音がしたからだ。ドアの方に視線を送ると、そこには不本意ですと言わんばかりの顔をした彼女が立っていた。




「……その顔だと、大体察しはついてるみたいですね」

俺の顔を見るなり、彼女は的確に俺の状況を見抜いてみせた。

「あっちの、お前は」
「自分で話せと言ったんですが、恥ずかしいからの一点張りで。結構強情なんです。あの子」

呆れたようにため息をひとつ吐くと、彼女は俺のベッドのすぐ側にある椅子に腰かけた。

「最初は何事かと思いましたよ。頭の中で急に誰かが話しかけてきて、しかもそれが自分の声なんですから」
「まぁ、そうだろうな」
「あなたを助けたいから、『入れ替わって』欲しいと言われました。最初は何のことかよくわからなかったけど、直後にあなたが大怪我して運ばれてきて」
「そういえば、お前の方は、個性は使えないって言ってたな。あっちのお前が」
「後でお礼を言っておいた方がいいですよ。あの子が個性を使っていなければ、あなた間違いなく死んでいたそうですから」
「そうか」
「……あれだけ冷たくしても、あなたが私のところに来る理由が、ずっとわからなかったけど、あの子の声を聞いて、何となく自分のことを理解しました」

彼女はゆっくりと視線を自分の膝へ落とし、膝の上に置かれた手の甲をじっと見つめた。

「前からおかしいと思ってたんです。朝起きると身に覚えの無い擦り傷が出来てたり、冷蔵庫の飲み物が明らかに減ってたり。それから、あの本も。あれは、あなたがあの子に渡したものですね」
「……本当に察しがいいな、お前は」
「それはどうも。ところで」
「なんだ」

何かを言いたげな彼女に、俺がそう声をかけると、少し躊躇いながらも、彼女はそっと口を開いた。

「さすがにロリコンは失礼だなと思ったので、謝ろうと思っていたのですが」
「あぁ、そんなこともあったな」
「でもやっぱり、撤回するのはやめました」
「……俺はロリコンじゃねぇんだが」
「未成年を夜な夜な口説き落としにくるヒーローなんて、ロリコンで十分です」
「相変わらず、俺に容赦ないな」
「これからはあなただけが頼りなので。しっかりしてもらわないと困ります」

真っ直ぐに俺を見てそう言う彼女は、既に「そうすること」を決意しているようだった。




「もう会えないのか、お前には」

俺がそう尋ねると、昼の彼女は黙って頷いた。

「私がいなくても、あの子にはあなたがいる。お役御免です。それに私は、誰かの付属品になるなんて嫌」
「お前らしいな」
「私が居たら、あの子はいつまで経っても、あなたから逃げ続けていそうですし。あなたもそれじゃ困るでしょう?」
「はは。確かに、それは困るな」

俺がそう言うと、彼女はゆっくりと深呼吸をしてみせた。その表情は、いっそ清々しいほどに淡々としていた。

「じゃあ、そろそろ行きます」
「あぁ」
「それなりに楽しかったです。あなたとお話するのは」

彼女が自らその瞼を閉じると、束の間の静寂が訪れた。すると、眠りにつくように閉ざされていた瞼が、再びゆっくりと開く。




「昼に会うのは、初めてだな」

目の前にいる俺の姿を見て、なまえは少し困ったような、照れたような、何とも言えない顔をしていた。

「ありがとな。助けてくれて」
「……彼女の『中』で、たまたまテレビのニュースを観ていて……その後は、彼女が言った通りです。彼女にお願いして、入れ替わってもらって……」
「そうか」

一言そう返事をすると、彼女は俯いて、そのままぼろぼろと涙を流し始めた。

「もう、会えないんじゃないかって、思い、ました」

出会ったあの日以来、彼女の泣き顔は何度も見てきた。その度に胸が締め付けられて、自分の無力さに腹立たしくなって。でも今は、なぜかとても心が暖かい。泣かせてしまった罪悪感はあるのに、なまえがこうして、俺のために泣いてくれていることが、どうしようもなく嬉しいのだ。

「こんなボロボロのかっこ悪い姿で言うのもなんなんだけどな」
「は、はい……」
「そろそろ返事が欲しいって言ったら、やっぱ困るか」

彼女は俯いたまま、膝の上で握りしめていた拳を、さらに固く握りしめた。

「私、もらってばっかりで、何も、あげられない」
「お前がいなかったら、俺は死んでたらしいぞ」
「それは……たまたま、上手くいっただけで……」
「それが偶然でも、必然でも、助けられたことに変わりはないだろ」

まだ上げるだけでも痛む腕を彼女に近づけて、固く握りしめられたその手に触れた。彼女は身体を強張らせつつもそれを受け入れ、俯いていた顔をあげて、俺の方をゆっくりと見た。

「なまえは俺のヒーローだな」

俺がそう言うと、俺を見ている彼女の目から再び涙が溢れる。頬を伝って落ちるその光景は、相変わらず罪悪感が胸を締めつけるが、純粋にとても美しいと思えた。




「あなたのことが、好きです」

泣きながらそう言うなまえの手を引くと、彼女はいとも簡単に、俺の腕の中に収まった。あの日震えていたその手は、あの日と同じように俺の服を掴んでいた。俺もあの日と同じように、腕の中にいるその顔を覗き見ると、なまえはとても安心したように、俺の腕の中で目を閉じていた。

「やっと、返事聞けたな」
「す、すみません」
「俺はやっぱりロリコンらしいが、それでもいいか」
「はい」
「そこは否定してくれねぇのか」

俺が少しヤケクソ気味にそう言うと、急になまえが俺の腕の中で震え出した。何か嫌な思いをさせてしまったのかと、遠慮がちに彼女の身体を離し、恐る恐るその表情を見て、俺は固まった。そこには肩を震わせながら、口元を押さえ、必死に笑いを堪えているなまえの姿があった。

「……ふふ、結構、気にしてるんですね。それ」




どうしようもない、衝動だった。

もう死ぬのだろうと覚悟したあの瞬間、心の底から渇望していたものが目の前にあり、俺は何も考えることをせず、なまえの唇に自分のそれを重ねた。意外にも彼女は目立った動揺を見せることなく、俺のその行為をすんなりと受け入れた。
調子に乗ってそのまま口付けていると、さすがに苦しくなったのか、トントン、と胸を叩かれたところで、俺はようやく少しだけ冷静になり、非常に名残惜しく思いながらも、彼女からゆっくりと離れた。

「え、あ」

顔を真っ赤にさせ、言葉にならないといった様子で、ぽつぽつと文字を声にするなまえが可愛くて、俺はその細い肩をもう一度抱きしめた。遠慮がちに俺の背中に回された腕の感触に、もっと強くなりたいと、心からそう思った。

こいつの恐怖も、不安も、涙も、全てなくしてしまえるくらいに、強くなりたい。

「絶対守ってみせる。だから、俺を信じて欲しい」

俺がそう言うと、なまえは背中に回した腕を弱め、俺の両肩にその手を置いた。そのまま少し躊躇いつつも、ゆっくりと顔を上げ、まだどこか不安の残るその瞳で、俺の顔を見て首を縦に振った。白い額に自分の額を押し当てると、何をされるか悟ったらしいなまえは、ゆっくりと二つの瞼を閉じた。吸い込まれるようにして再び口付ける直前、彼女の頬を一筋の涙が伝っていくのが見えた。

「愛してる」

自然とそう言葉にして、ゆっくりと唇を重ねると、そこはほんの少しだけ、塩辛い味がした。互いの唇が離れると、なまえは再び顔を真っ赤にさせながら、私もです、と小さく呟いた。


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Twitterリクエスト企画作品。敵の親を持つ女の子のお話でした。
重めな話なのですが、個人的に多重人格の女の子を書くのが楽しかったです。

2021.03.03(2021.08.20修正)

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