ユメノアカツキ


「相変わらず何もねぇんだな、ここは」

ぽつりと置いたその言葉に、返事をする者はおらず、風に揺れる小さな葉音が聞こえるだけだ。
誰もいないその場所で腰を下ろし、近くの花屋で買った花束をそこに置いた。『贈り物ですか?』と聞かれて、曖昧な返事をしたせいで、随分華やかな花束になってしまったが、まぁいいだろう。
目の前には、かつて焼け野原になったこの場所で、奇跡的に生き残ることができた、真っ直ぐに高く伸びたポプラの木がひとつ。
広大に広がる青々とした景色の中に、ぽつんと取り残されたその樹木は、大きさとは対照的にどこか寂しげで、微かに聞こえる乾いた葉音は、まるで泣いているようだった。

「もうあれから、二年も経ったんだな」

事情を知らない他人が遠目から見れば、それなりの大きさの木に話しかけている、気色の悪い奴だと思われるかもしれない。
頭ではわかっているのに、それでもこうして言葉を紡いでしまうのは、ただひたすらに信じていたいからだ。
身体は無くなってしまっても、目には見えなくとも、"彼女"の何かがこの場所に残ってくれていることを、俺は信じていたかった。







彼女、もとい、みょうじなまえと初めて言葉を交わしたのは、とある要人警護の任務だった。
内容は至ってシンプルで、空港から護衛対象を自宅まで無事に送り届ければクリア、というものだ。何かあったときに即時対応できるよう、護衛対象が乗っている車の前後に別の車を用意し、それぞれに俺と彼女が乗っていた。
車での移動中は特に問題はなく、本人の自宅に着くところまでは至って順調だったが、車を降りた直後を待ち構えていた敵に襲撃された。

そしてその際、敵の攻撃から咄嗟に彼女を庇ったことが、俺の人生を変えるきっかけになった。







『傷の経過は良好ですね。予定通り、明後日には退院しましょう』

幸いなことに受けた傷はそれほど大したことはなく、痛みはまだあったものの、病院のベッドで一晩ぐっすり眠ったからか、その次の日はやけに身体が軽かった。
傷が開くのでしばらく安静にしているように、と言われたため、少し退屈ではあったが、姉さんが見舞いにと持ってきてくれた小説を読み、束の間の平和なひと時を過ごしていた。
しばらく活字を目で追いかけていると、病室の扉を軽くノックする音が二回鳴り、ゆっくりとその扉が開いた。そこには少し不機嫌そうな、申し訳なさそうな、適切な表現が見つからない顔つきの女が一人立っていた。

『あ...どうも』
『傷の具合はどうですか?』
『明後日には退院できるらしいです』
『そうですか。すみません、私のせいで怪我をさせてしまって』

すみませんと謝っている割には、どこか冷たいその物言いが引っ掛かったが、何か嫌なことでもあったのだろうと適当な解釈をつけて、俺は特に言及しなかった。

『いえ、別に大した怪我じゃないので』

俺がそう返すと、なまえは顔をさらに歪めつつも、テーブルの上に青い紙袋を置き、お見舞いです、と一言添えた。

『わざわざ、すみませ』

わざわざ、すみません。そう言おうとしたが、それは叶わなかった。
パン、という威勢のいい音が病室に鳴り響いた直後は、何が起こったのか全く理解できなかったが、少し遅れてやってきたじわじわと広がる頬の痛みが、彼女に頬を打たれたことを知らせてくれた。

『...は?』

咄嗟に頬を押さえ、彼女の方をゆっくり見ると、今にも泣き出しそうな顔で、なまえは俺を見下ろしていた。

『あなたの...っ、そういう自分を顧みないところ、本当に嫌い...!』

彼女は勢いよくそう吐き捨てると、俺の言い訳など一切聞くことなく、そのまま病室から出て行った。
突然の出来事に混乱していただけなのかもしれないが、俺は不思議と、彼女に不快な気持ちは持たなかった。あの言い回しから察するに、どうやら向こうは俺のことがもともと嫌いだったようだが、俺はむしろその逆だった。
たった一度、任務が一緒になっただけの俺のために、あんなふうに泣いて怒ってくれたなまえに、たった一瞬で心を奪われた。

それからは、振り向いて欲しくて必死だった。

ことあるごとに話しかけてはあしらわれ、食事に誘っては断られる日々が続いた。しつこく迫り続ける男の様なんて、お世辞にもかっこいいとは言えないし、周りの連中からは呆れられたが、それでも俺は懲りずに、何度もなまえに声をかけた。
そんなことを繰り返していくうちに、彼女の方にも心境の変化はあったようで、時折都合が合えば、食事に付き合ってくれたり、電話で話をしてくれるようになった。
そして、あのビンタから半年ほど経った頃、もう何度目の正直かわからない告白の後、ついに彼女が折れた。
数分間の沈黙を経て、深いため息をついた後、消え入りそうな声で『はい』と呟いたなまえの顔は、ほんの少しだけ頬が赤かった。念願叶った喜びに、人目も憚らず彼女を抱きしめ、赤く染まった頬に唇を寄せると、なまえはさらに顔を真っ赤にさせながら、俺の頬に通算二度目のビンタをお見舞いしてみせた。







『もう、そんな怒んないでよ』

車を運転する俺の隣で、彼女は呆れたように笑ってそう言った。

『仕方ないじゃない、私だって同じ仕事なんだから』
『どうしても参加しないとダメなのか。今日のやつ』

至って普通の、いつも通りの朝だった。
一緒に同じ布団から起きて、一緒に同じものを食べて、俺の車でなまえを事務所まで送り届けた。
いつもと少し違ったことと言えば、俺の機嫌が悪かったことだ。
その日予定されていた大規模作戦に、もともと参加しないはずだった彼女が、急遽怪我で参加できなくなった同僚の代わりにアサインされることになり、それを当日の朝、しかも移動中の車で初めて聞かされ、俺の心中は穏やかではなかった。

『ダメだよ。それに焦凍だって参加するじゃない。今回のやつ』
『俺はいいんだ』
『あぁ、そうですよね。ショートさんは大変お強くていらっしゃるから』
『茶化すな』
『ふふ、ごめんごめん。大丈夫だよ。今日の任務、東エリアはたぶん戦闘無いし』
『可能性が低いってだけだ。ないわけじゃない』
『わかったよ。ちゃんと気をつけるから』
『絶対だぞ』
『はいはい』

付き合うようになって二年、一緒に暮らすようになって半年。
怪我や危険の多いこの仕事をなまえが続けていることに、俺は少なからず抵抗感を持つようになっていて、あいつ自身もそれはわかっている様子だった。

『適当に返事するな。本気で言ってんだぞ』
『焦凍は毎回心配しすぎなの』
『好きな女を心配すんのは当然だろ』
『ま、た...っ、そういうことをサラッと...』
『わかったな』
『うん、わかったよ。でも、焦凍も気をつけてね。強いのはわかってるけど、無理しちゃダメだよ』
『あぁ。...なまえ』

小さく返事をしてから、車を降りようとする彼女の名前を呼ぶと、俺が何をしたいのか察したように、なまえはその場で目を瞑った。頬に手を添えて、柔らかい唇に一度だけ自分のそれを重ねると、彼女は照れたように笑うと、車のドアに手を掛けた。

『行ってきます』

俺に小さく手を振りながら車を降りて、なまえは自分の事務所のエントランスへと歩き出した。
それが最後になるとも知らずに、小さくなっていく背中を見送ってから、俺は車のアクセルを踏んだ。

そんなやり取りをした数時間後。
なんの前触れもなく、その瞬間はやって来た。

東の空が一瞬光り、少し遅れて鼓膜を割くような轟音が響き、身体が軽く宙に浮くほどの風に身体が煽られた。
音と風がおさまり、急いで高い場所からそこへ目を向けた時には、全てが失われた後だった。
彼女がいるはずの、いたはずのその場所は、瞬きをする間もなく焦土と化し、まるでそこだけが世界から切り離されたかのように、不気味な静けさを漂わせていた。

たった一瞬。
空を覆ったその美しい光は、俺から、俺の一番大切な人を奪っていった。







被害状況の把握を目的として、何度か現地の調査は行われたものの、遺体はおろか、彼女の痕跡は何一つ見つかることは無かった。
死傷者およそ4000名。彼女はその中の一人として、死亡リストの中に名を連ねることとなった。
その現実を受け止められなかった俺は、その後数ヶ月間、絵に描いたような自暴自棄の日々を過ごすこととなった。時折姉さんが来てくれていたような気がしたが、その辺りの記憶はおぼろげで、何とか仕事こそしていたものの、自分がどうやって生きていたのかも、今となっては思い出せない。
そんな日々の中、俺は自分がヒーローとして、誰かを救うビジョンが持てなくなった。

一番大切な人を救えなかった俺に、一体誰を救うことが出来るのだろう。

そんな不毛な自問自答を何百回、何千回、何万回と繰り返した。
彼女の死は確実に俺を蝕んでいき、ついに俺は、ヒーローとして現場に立つことすら出来なくなった。
そんな俺を見ていた周囲の人間は、ひとり、またひとりと、プロヒーローとしての俺を諦めていった。

『じゃあ轟くん、またね』
『次回は出張の土産を持ってくるからな!!』

あいつがいなくなって、俺は空っぽになった。

しかし緑谷と飯田だけは、そんな俺のもとに定期的に訪れては、ヒーロー活動やなまえの話題には一切触れず、美味い店を見つけたとか、この間観た映画がどうだったとか、そんな他愛もない話をして、俺に言葉をかけ続けてくれた。
たまに訪れるその時間だけが、俺にとって唯一他人と関わりを持つ時間になっていた。

『…あぁ、また』

軽く手を挙げ、部屋のドアを閉めると、また一人きりの時間がやって来た。
かつてはなまえと二人で暮らし、結婚したらもっと広い家に暮らそうと話していたこの部屋は、俺一人には余る広さだった。
引っ越すことも考えたが、この部屋を出てしまったら、なまえと過ごした思い出さえもなくなってしまいそうで、苦しさが増すとわかっていても、どうしてもそこから踏み出せなかった。
二人が帰ったあと、何をするでもなく、適当にソファに座り、なんとなく目の前にあったテレビを付けた。無機質な額縁に、おそらく再放送のドラマと思われる映像が映し出され、俺はぼんやりとそれを眺めていた。

"俺がどうなったってお前には関係ないだろ"

そのドラマは全く観たことがないものだったが、画面に映し出された二人の男女の様子を見るに、おそらくシナリオ的には佳境に差し掛かっていた。
女の手を勢いよく振り払いながら、男がやけくそ気味にそう吐き捨てて立ち去ろうとすると、女はそれに怯むことなく、カツカツと踵を鳴らしながら男を追いかけた。
女が再び男の腕を掴み、男が苛立つ様子で振り返ると、次の瞬間、何故か画面が風景に切り替わり、同時にパン、と何かを思い切り叩くような音が響いた。
音が鳴り終わると、再びその男女が映し出され、男は呆けたように頬を押え、女は涙を浮かべて男を睨みつけていた。

その光景が、いつかの自分たちと重なって、思わず俺はその場に立ち上がった。
そして次の瞬間、なまえを亡くしたあの日以来、枯れ果てたように流れることのなかった涙が、静かに俺の頬を伝い、リビングのカーペットに小さなシミをひとつ作った。

『...何をやってんだろうな、俺は』

思わずそう口に漏らすと、涙がとめどなく溢れて、自分でも訳がわからなかった。
けれどそれと同時に、自分の内側からこみ上げてくるものを、俺は確かに感じていた。

行かないと。あの場所に。

なぜか唐突にそう思った。
最後にいつ使ったかも思い出せない鞄を衝動的に手に取り、テーブルに無造作に置いたスマホをポケットに入れて、何も考えずに家を出た。
あの日以来、一度も近づこうとしなかったあの場所に、何か大事なものがあるような気がしたのだ。自分でも理由はわからなかったが、あの場所に行けば、何かが変わる確信があった。







花束を置いた場所のすぐ近くに、そっと腰を下ろす。
穏やかな風がポプラの葉を揺らす音を聴きながら、ただ漫然と過ぎていく時の流れに身を任せていると、まるで永遠の中にいるような、そんな感覚に陥る。
久しぶりに外に出たからだろうか。たったそれだけのことなのに、俺の中でぐちゃぐちゃになっていたものが、少しずつ解けていくような気がした。

なぁ、俺はどうしたらいいと思う。

心でそう問いかけるも、当たり前だが返事はない。
俺がこんな情けない有様になったことを知ったら、あいつはどう思うだろう。憧れだったヒーローとしての道を、自分で閉ざそうとしている俺を見たら、彼女はどうするだろう。
前を向けるよう、優しく諭してくれただろうか。答えを出せるまで、じっと待っていてくれただろうか。
それともあの時のように、情けない俺の頬を引っぱたいて、無理矢理にでも背中を押し出しただろうか。
どれもあり得る気もするし、そのどれでもない気もした。

なまえと、あいつの大切なものを守りたい。そう思っていた。
あいつはもういない。だけど、そうなりたいと願う心は、今もまだここに、俺の中に残っている。

「もう一回、頑張ってみるから、引っ叩くのは勘弁してくれな」

誰にも届かないその言葉を吐き出してから、俺はポケットの中のスマホを取り出した。
思えばしばらく言葉を交わしていない、かつては名前すら見るのも疎ましかったその男の名前を探し当て、ディスプレイに表示された番号に触れた。電話をかけるのにこれほど緊張したのは、生まれて初めてかもしれない。

「もしもし、俺だけど」

電話越しに聞こえたその声は、相変わらず騒々しくて、思わずスマホを耳から少し離した。電話の向こうで矢継ぎ早に尋ねるその声を一度制し、俺は決意が揺らいでしまう前に、それを明確に言葉にした。

「頼みがあるんだ、親父」

もう一度、なりたい自分になるために、為すべきことをしよう。







『とど...っ、じゃなかった...ショートくん、復帰おめでとう!!』
『おめでとう!!待っていたぞ!!』

せっかくそう言ってもらえたのに。

つくづく思う。現実は大人に厳しいものだと。
ようやくそれなりに仕事も戻ってきたというのに、どうやら神様ってやつは、俺のことが余程嫌いらしい。
後ろには火の手が迫り、目の前にある閉ざされた扉の向こうは煙で充満していて、これ以上進むことは出来ない。脱出するための道具などはなく、唯一頼れるのは自分自身のみだが、肝心の俺は敵の毒に当てられてまともに動くことも出来ず、あとは着実に近づく死の瞬間を待つだけだった。

「くそ…」

身体に回りきった毒のせいで、今は指を動かすくらいが精一杯だ。
毒のせいか、それとも疲労のせいなのか、崩れたコンクリートの塊に背中を預けると、自然と瞼が重くなっていく。
意識が遠のき、ほとんど何も見えなくなると、不意に何かが包み込むようにして、俺の頬に触れた。

あぁ、なんか懐かしいな。この感覚。
まるで───

期待を込めて、閉じかけていた瞼をゆっくり開けると、目の前には心配そうに俺を見つめるなまえの顔があった。

「焦凍」

懐かしくて愛しいその声に、泣きそうになる。
どうやらいよいよ、俺は死ぬらしい。
ヒーローとしてやりたかったことはまだあるが、こいつの顔を見て死んで行けるなら、最期に見るのがこいつの夢なら、それも悪くない。

「今、このまま死ぬならそれも悪くないとか、考えてるでしょ」

夢の中でも、彼女はなんでもお見通しらしい。

「…似たようなことは、考えてた」
「そういうところ、嫌い」
「夢の中くらい、もう少し優しくしてくれよ」
「しないよ」

そう言うと、なまえはゆっくりと顔を近づけて、優しく俺に口付けた。触れ合う唇は暖かくて、はらりと耳から落ちた彼女の髪は、懐かしくて甘い香りがした。

「だって夢じゃないから」

なんて幸せな夢だ。
これがなまえの言うとおり、本当に夢じゃなかったら、どれだけ良かっただろう。

「いい夢だな」

そう呟くと、困ったように笑いながら、彼女は黙って俺の手を取る。
俺の願望がそう感じさせているだけなのか、触れ合う彼女の手にはなぜか唇と同じく、柔らかな感触と暖かさがある。なけなしの力でその手を握り、彼女がそれを握り返すと、俺の意識はぷつりと途絶えた。







ここは、どこだ。

パッと見た感じは病院のように見えるのだが、俺は死んでいるはずだ。とすると、ここは既に死後の世界なのだろうか。
薬品の匂いや機械の音がやけにリアルで、いわゆる人間がイメージするあの世とは、随分違うものだなと思った。

「焦凍」

意識が途切れる前にも聞いた、その声がする方へ顔を向けると、泣きそうな顔で俺を見下ろすなまえの顔があった。
俺の頬に触れているその手に触れると、それはなぜかあの時と同じく、柔らかくて暖かかった。

「まだ続いてんのか、この夢」

俺がそう言うと、彼女はなぜかムスッとした顔をして、触れていたその手で思い切り俺の頬を抓った。

「痛ぇ」

いつぞやのビンタほどではないが、かなり痛い。夢なのに。
そういえば妙だ。夢なのに会話ができるし、触れ合う感触もあるし、痛覚もしっかりとある。

「夢だったら、痛くなったりしないよ」

なまえは拗ねたようにそう言うと、ベッドのすぐ側にある椅子に腰掛け、優しく俺の手に触れた。

「…お前は死んだって、皆言ってた」

混乱しすぎると、人間はかえって冷静になるらしい。自分でも吃驚するくらいに淡々とそう言うと、なまえは俺の手をぎゅっと握りしめ、首を数回横に振った。

「目が覚めたら病院で、何も覚えてなかったの」

彼女の話を聞くと、どうやらあの爆発の時、彼女は幸いにも少し離れたところにいて、爆風にこそ巻き込まれたものの、直撃は免れていたらしい。
しかし爆風に巻き込まれた際、頭を強く打ったことで、一時的な記憶障害を引き起こし、俺のことはおろか、自分が誰なのかさえ思い出せないまま、約二年間を過ごしていたらしい。
目の前で今までのことを話すなまえは、確かに生きているように見えるが、これが夢なのか現実なのか、未だに俺は自信がなかった。

「まだ信じられないって顔してるね」
「…正直、半分くらいは、まだ夢なんじゃねぇかと思ってる」
「記憶が無い間ね、よく同じ夢を見たの」
「夢?」
「そう。赤と白の…不思議な髪色の男の人が出てくる夢。でもその人が誰なのかも、ずっと思い出せなかった」

少し申し訳なさそうに俺を見る彼女の手を、確かめるようにして握り返すと、彼女は落とすように笑って話を続けた。

「そしたら半年くらい前、たまたま観てたニュースに突然その人が出てきて」
「…たぶん復帰の発表した時だな、それは」
「そこから色々思い出してきたの。自分のこととか、仕事のこととか…焦凍の、こととか」

話を続ける彼女の声が、徐々に震えていく。

「ごめんね。もっと早く思い出してれば良かった」

握っていた手を離し、ゆっくりと彼女の頬に触れると、目じりからひと粒涙が零れた。

「何でお前が謝るんだ」
「だって、私のせいで、ずっと…辛い思いさせて…仕事も…ずっと休ませて…」

まるで堰を切ったようにぽろぽろとふたつの瞼から涙が落ちる。こんな風に彼女が泣くのは珍しい。
その姿が愛しくて、もっと近くで触れたくて、痛みに軋む身体を、無理矢理ベッドから起こした。
これが夢か現実かも、今自分の身体がどうなっているかも、そんなことはどうでも良かった。

「ちょっと、まだ起きれる身体じゃ…っ」

なまえはそんな俺を見て涙を拭い、慌てて俺の身体を支えようと手を伸ばす。
そんな彼女の手を掴んで、俺は今出せるありったけの力でその身体を抱き寄せて、何度も何度もその名前を呼んだ。

「なまえ...なまえ...っ」

もう二度と触れられない。
もう会えない。

そう思っていた彼女が、今自分の腕の中にいる。
触れる肌を、その温もりを、柔らかい髪を、余すところなく確かめるようにして触れると、なまえは少し擽ったそうにして身を捩った。

「本当に、夢じゃない、のか…」

掠れた声で途切れ途切れに放つその言葉は、自分でも驚く程に情けないものだった。
縋り付くように、もう一度なまえの体を抱きしめると、そんな俺の背中に腕を回し、彼女はゆっくりと俺の背中を数回叩いた。

「頑張ったね、焦凍」

泣いている子供をあやすように、彼女が少し涙混じりにそう言うと、俺の頬には知らないうちに涙が伝っていた。

会いたかった。
守れなくてごめん。
生きていてくれてありがとう。
好きだ。
愛してる。

言いたいことは山ほどあるのに、涙が溢れて、止まらなくて、正しく言葉が出てこない。

「…な、まえ」
「なに?」
「名前、呼んでくれ」
「焦凍」
「もう一回」
「焦凍」
「もっと」

馬鹿の一つ覚えみたいに何度も自分の名前を呼ばせる俺に、なまえは文句のひとつも言わず、ただひたすらに俺の名前を呼び続けてくれた。
ようやく落ち着いた頃には、互いに涙でぐちゃぐちゃで、お世辞にも綺麗とは言い難い顔を見合わせ、揃って二人で小さく笑った。







「ここまで何も変わっていないとは...」

二年半ぶりに帰ってきたなまえは、部屋を見渡しながら少し残念そうにそう言った。

「変えたく、なかったんだ」

何か少しでも変えてしまったら、お前の存在が薄れてしまいそうで、それが嫌だった。

「なぁ」
「ん?」
「本当に、夢じゃないんだよな?」

目の前にいるなまえの手に触れて、もう何度目か分からないその質問をすると、さすがの彼女も呆れた様子で、小さくため息をついて、俺の頬に手を当てた。

「そろそろ一発ビンタいっとく?」
「いや…一応まだ怪我人なんだぞ、勘弁してくれ」
「あはは、冗談だよ」

軽く笑ってそう言うと、一体なんの気まぐれか、なまえは俺に勢いよく抱きついてきた。
滅多にないそのサプライズに、やはりこれは夢なのではないかと、俺はまた疑い始めてしまった。

「急にどうした?」
「ただいま」
「え...」

それ以上何も言わない俺に、彼女は再び口を開いた。

「ただいま、焦凍」

ずっと聞きたくて、もう聞くことは出来ないと思っていたその言葉に、また涙が溢れそうになる。

「おかえり、なまえ」

誤魔化すように、持てる力の全てを注いで、俺は彼女を思い切り抱きしめた。
腕の中に収まったなまえが、苦しそうな声をあげ、頬を膨らませて怒り出すまで、あと少し。

それは誰もが諦めていた、夢のような、未来の話。


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Twitterフォロワー企画リクエストラストの作品でした。
死んだと思っていた女の子が実は生きていて、ピンチのところを助けに来てくれるお話、というリクエストだったのですが、女の子が死んだと思っている轟くんをどうやって立ち直らせるかを考えるのが難しかったです。
轟くんが彼女に頑張ってアプローチする部分のお話を、いつか書きたいです。

2021.04.14

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