託されるもの


「そこの角を曲がったら着くからね」

柄にもなく、緊張していた。いつもは気にしない寝癖も、特にこだわりのない服装も、今日だけはそうはいかなかった。付き合うようになって随分経つのに、他人にどう見えるかをあんなに悩んだのは初めてで、朝からどうにも落ち着かず、無意識にリビングをぐるぐる歩いていたらしく、少し遅れて起きてきた彼女に笑われてしまった。

「何度も言うけど、まぁ普通のおじさんだから大丈夫だよ。焦凍のお父さんと違って」
「普通のおっさんだろうが、イカれたおっさんだろうが、俺にとっては一緒なんだよ」
「そういうもん?」
「そういうもんだ」

高二の一学期に付き合い始め、気づけばそこから9年という歳月が流れていた。喧嘩もしたし、すれ違うこともあったけど、あと少しで訪れるであろう10回目の初夏に、俺たちは結婚しようという流れになった。

「ただあれかなぁ、焦凍と違ってテンション高めな人ながら、焦凍に引かれないかだけ心配」
「それ前も言ってたが、そんなにテンション高いのか」
「少なくとも、轟家にはいないタイプだよ」
「お前はそうでもないのにな」
「私は顔も性格も、お母さんに似てるらしいから」

なまえの母は、彼女がまだ3歳の時に亡くなったと聞いている。その記憶はとても朧気で、どんな人だったのかはあまり覚えていないらしいが、家に飾られた写真に写るその人物はいつも幸せそうに笑っていて、記憶はほとんど残っていなくとも、それを見る度にとても優しい気持ちになれるのだと、随分前に話してくれたのを覚えている。

「会ってみたかったな。なまえと似てるなら、尚更」
「写真なら家にあるから、見せてあげるよ。自分ので言うのもなんだけど、確かに顔は似てると思うの」
「楽しみにしてる」

そんな話をしていると、空色の外壁が特徴的なアパートの前で、彼女は足をピタリと止めた。どうやらここが彼女の実家らしい。忘れかけていた緊張が再び蘇り、そわそわして落ち着かない。

「焦凍の実家みたいに立派じゃなくてあれだけど、一応ここが私の育った場所です」
「すげぇ青いな」
「でしょ。これね、うちのお父さんが塗ったんだよ」
「お前のお父さん、サラリーマンだよな?」

なぜかなまえは困ったように笑ってみせると、それ以上は何も言わずに、通りに面した階段に足をかけた。2階の最奥にあるドアの前まで来ると、いよいよだなと覚悟を決めた俺の顔を見て、彼女は吹き出したように笑いだした。

「なんだよ」
「だって焦凍、緊張しすぎ」
「いや、するだろそりゃ。お前の親だぞ」
「そんなに気を張らなくても大丈夫だってば。じゃあ開けるよ」
「おう」

カバンから取り出した銀色の鍵を、彼女が鍵穴に差し込むと、カチャリ、という音が鳴る。ドアノブにその細い指が触れそうになる瞬間、彼女が扉を開ける前に、それは内側から開け放たれた。




「よ!元気にしてたか!愛娘よ!」

俺たちの前に現れたその人物は、軽く手を挙げながら、久しぶりの娘との対面を喜んだ。アパートの外壁を勝手に塗り替えたという逸話から、無骨な人物を想像していたが、溌剌としたその言動とは裏腹に、なまえの父親は線の細い、そしてどこか儚げな雰囲気をまとった人だった。

「元気だよ。お父さんも元気そうだね」
「いや、それがそうでもないんだよ。寝不足だし」
「仕事忙しかったの?」
「娘が結婚相手を連れてくるなんていう一大イベントに、興奮して眠れなかったよね!」
「あぁ、そう」

確かに性格は、随分彼女と違うタイプのようだ。さらりと受け流したなまえに対し、彼女の父親は興奮気味に昨日の自身の様子を話していたが、ふとした瞬間にその口を止め、娘の横に立っている俺に視線を向けた。

「え、ショート?」
「はい」
「この人が相手なの?」
「あ、うん。そうだよ。まぁ知ってると思うけど、プロヒーローのショート。本名は」
「轟焦凍です。初めまして」
「いやいやいや!!君らなんでそんなに冷静なの!?どういう経緯で知り合ったの!?どっちから告白したの!?ドッキリじゃないよね!?あ、サインもらってもいい!?僕ファンなんだよね!!」
「落ち着きなよ。近所迷惑でしょ」

興奮気味に俺に詰寄る自分の父親の頭を、彼女は軽く叩いた。

「とにかく中に入っていい?あんまり騒ぎになるのもあれだから」
「ご、ごめん。興奮しすぎちゃった。焦凍くんも、狭くて申し訳ないけど、中にどうぞ」
「あぁ、はい。お邪魔します」

何とも締まりのない雰囲気のまま、俺はついにその場所に足を踏み入れた。







「な、なんかごめんね。取り乱しちゃって」

グラスに入った麦茶をテーブルの上に3つ置くと、なまえの父親は顔を赤らめながらその場に腰を落とした。

「ホントだよ。ごめんね焦凍。こんな父親で」
「いや、そんなことはない」
「その、ずっと付き合ってる彼氏がいるって話は聞いてたんだけど、どんな人かは聞いてなかったからさ」
「だってお父さん、言ったら近所にベラベラ話しちゃうでしょ。まぁ、受け流されるだけだろうけど」
「ひどいな!!にしてもホントにかっこいいね。僕も長いこと生きてきて、色んなタイプのイケメンを見たけど、君は別格だな」
「はぁ、どうも」
「僕も若い頃はそれなりにイケメンだったけど、やっぱり歳には勝てないよね。最近なんだかお腹も出てきちゃってさ」
「お父さん、話どんどん逸れてるから」
「え、あぁ、そうだったね。結婚するって話だよね」

改まったように俺たちに向けられた視線に、自然と背筋が伸びる。親父と比べると全然威圧的ではないのに、こんなに心が落ち着かないのは、やはりこの人が愛する女性の父親だからなのだろう。

「結論から言うと、僕は反対だ」

自分にとっては意外な返答だったのか、真剣な眼差しでそう告げた父親に、なまえは驚いたように肩をぴくりと動かした。

「な、なんで?」
「だってさ」
「だって……?」
「だって寂しいじゃん!!」

ほんの数秒前までの真剣な様子はどこへやら、彼は勢いよく立ち上がり、涙目でそう叫んだ。

「「は?」」
「いや、確かになまえとはもう一緒には暮らしてないよ!?でもさ、焦凍くんと結婚したら苗字も変わっちゃって、まるで他人みたいになっちゃうじゃん!!」
「いや、戸籍上の苗字が変わるだけで、別に縁が切れるわけじゃ」
「それに焦凍くんモテそうだし、なまえに飽きて浮気とかするかもしれないし!!」
「ちょっと、失礼でしょ!」
「浮気なんてしません」
「でも女優さんとか、綺麗な女の人と接点多いでしょ!?」
「俺はなまえさんが一番綺麗で可愛いと思ってます」
「何を!?若造が知った口を聞くね!!そんなこと、言われなくなってわかってるよ!!君なんかより、僕の方がずーっと知ってるよ!!こちとら親だぞ!?」
「ちょ、ちょっと」
「高校時代から今まで、十年近くずっと側で見てきた俺も、娘さんのいい所は沢山知ってます」
「ちょっと焦凍、収拾つかなくなるから。あとお父さんも一旦座って」

娘にそう言われると、なまえの父親はその場に再び腰を下ろし、俺を恨めしそうな顔で見て口を開いた。

「小さい頃のなまえはそりゃあ可愛かったとも。オバケが出てくる絵本を読んだ後、泣きついてきてね。僕が一緒にいないと眠れないって言って、それからしばらくの間、僕が帰ってくるまで頑張って起きててくれたりとかさ」
「あぁ、そういえば俺も、ホラー映画を観たあと、眠れないから手を繋いで一緒に寝てくれって頼まれたことありましたね」
「焦凍、同意してるつもりだろうけど、それ逆効果だからそろそろやめようね」
「……その後、如何わしいことしてないだろうね?」
「は!?」
「すみません、それはしました」
「いや、何言ってんの!?」
「うん。聞いといてなんだけどね。君正直すぎだろ!!親には隠せよ!!」
「あまりに可愛すぎたんで」
「それについては完全に同意するけども!!」
「ですよね。世界で一番可愛いと思います」
「騙されないぞ!!そんなこと言って、女性経験は星の数ほどあるくせに!!」
「他の女性とそういう関係になったことはありません。そもそも俺の初体験は娘さんですし」
「そんな綺麗な顔して、生々しいこと言」
「二人とも、いい加減にしなさいよ」

いつもと同じ澄んだ声。でもいつもよりずっと低くて静かなそれは、俺たちの言葉を止めるには十分な力を秘めていた。なまえは冷ややかな目で俺と父親を交互に見てから、呆れたようにため息をついた。

「いい歳した大人が二人して何やってるの?今日はそんな馬鹿みたいな話するために、時間作った訳じゃないんだけど」
「ご、ごめん」
「悪ぃ」
「一生そうやって、二人で馬鹿やってたら」
「「え」」

来た時と同じように肩に鞄をかけ、なまえはその場にすっと立ち上がった。そしてそのまま踵を返し、俺を部屋に残したまま玄関へと続く扉を開けた。

「ごゆっくり」

穏やかに微笑みながら、彼女は素早く扉を閉めた。まずい。あれは本気で怒っている時の顔だ。二年ほど前にあの顔で家から締め出された記憶が蘇り、自身とは無縁のはずの寒気が背中を襲う。追いかけようと慌てて立ち上がると、向かい側に座っていた彼女の父親は、それを制するように手を前に出した。

「追いかけない方がいいよ」
「でも」
「すぐ戻ってくるから。僕だけならそのまま帰るかもしれないけど、君を置いて帰ることはまずしない」

俺を引き止めるその理由に納得がいき、情けなくその場に腰を落とすと、その場にはなんとも言えない沈黙が流れた。

「怒ると怖いよね、なまえって」
「そうですね」
「まぁ、とりあえずお茶煎れなおそうか」
「すみません。お構いなく」

俺と二人きりはさすがに気まずかったのか、彼はまぁそう言わずに、と言いながらテーブルに置かれたグラスを一度下げて、キッチンの方へと歩き出した。
先程足を踏み入れた時は、緊張でそれどころではなかったが、誰もいなくなったその部屋で、俺は彼女が俺と出会うまでに過ごした時間に思いを馳せた。そしてふと、部屋の隅にあるチェストの上に飾られた、ひとつの写真立てが目に付いた。吸い寄せられるように近づくと、そこには一瞬見間違えてしまうほど、なまえとよく似た女性が、幸せそうに笑っている姿があった。

この人は、もしかしなくても。

「あの子の母親だよ」

その声に振り返ると、彼はとても穏やかな笑顔で、その写真の女性に視線を落とした。

「似てるでしょ?」
「はい。よく似てますね」
「顔だけじゃなくて、さっきの怒り方とかもね、ほんとそっくりなんだ」
「そうなんですか」
「不思議だよね。亡くなったのは、あの子が3歳の時だから、ほとんど記憶に残ってないはずなのに、日に日にそっくりになっていくんだから」

嬉しそうな、でもどこか複雑そうな、儚い笑顔。この人からしてみれば、最愛の人はもう会えない場所にいる訳で、そしてその人と見間違うほどよく似た娘の存在は、きっと俺には理解の及ばない心境が折り重なっているのだろう。

「本当は、どうして反対なんですか」

それは自然と口から漏れた言葉だった。なまえの父親は、そんな俺の言葉に驚いたように目を見開くと、参ったなぁ、と軽く頭を掻いた。

「さっきも言ったけど、僕は君のファンだから、ヒーローとしての君はとても好きだよ。あんな言い方しちゃったけど、真面目な子なんだろうなってすぐ分かったし、お父さんに似て強いし、何よりこんなイケメンだし?」

だけど、と続くその先の言葉を、俺はなんとなく分かっていた。

「焦凍くんの仕事はさ、命の危険と隣り合わせの仕事だよね」
「……そうですね」
「それはつまり、君はある日突然、あの子の前からいなくなっちゃかもしれないってことだ」

予想はしていた。そう言われるかもしれないこと。
ヒーローという仕事は、表向きは輝かしいものに見えても、その裏では多くの血が流れているのが実情だ。それは俺も例外ではなく、あいつと付き合ってから今日まで、何度それで彼女を不安にさせたか、もう数え切れない。

「置いていかれるのは、とても寂しいことなんだよ」

何も言えない俺に対して、彼は穏やかな口調で、容赦のない正しさを俺に突きつけた。

「結婚を後悔したことは一度もない。でもあの子には、なまえには、あんな寂しい思いをして欲しくないんだよ」

その寂しさを、悲しさを、誰よりもこの人は知っている。だからせめて、自分の娘には。もしも俺だったならなんて、烏滸がましいことこの上ないが、この人と同じ立場に立ったなら、きっと俺も同じことを思っただろう。自分の大切な人が悲しむかもしれない可能性を、ひとつでも減らすことが出来るならと。

「あいつを泣かせるのは嫌です」
「うん。そうだろうね」
「でも、なまえさんを諦めることも、俺には絶対出来ないです」

これは俺のわがままだ。自分にこれから起こるかもしれない可能性を頭では分かっていて、それをなまえに背負わせようとしているのだから。だけどそれでも、譲れない。勝手だとわかっていても、俺の側に居続けてくれるたった一人の存在を、どうしても諦めることは出来なくて。

「なまえさんを幸せに出来る奴は沢山居ます。多分。でも俺は、あいつじゃないとダメなんです。あいつがいないと、生きていけない」
「それ、君のためにあの子を手放せって言ってるのと同じだけど、分かってる?」
「はい」
「そこはさ、嘘でも絶対に置いていきませんって言うとこだよ」
「そのつもりではいますが、確約できないことをあなたに言うのは、どうかと思ったので」
「本当に正直だね」
「すみません」

俺の言い分は、根本的なことを何も解決できないものだ。けれど、いくら耳障りのいい取り繕った言葉を並べたところで、きっとこの人には届かない。そんな気がしたのだ。

「僕としては、君のために大事な娘を手放すなんて御免なんだけども」
「そうでしょうね」
「でもきっと、なまえは君のそういうバカ正直なところが好きなんだろうね」
「どうでしょうね」

親子なのだから、当然といえば当然なのだが、困ったように笑うその顔は、彼女が俺に対して時折向けるその顔と、よく似ているような気がした。

「不幸にしたら、許さないよ」
「はい」
「浮気もダメだからね」
「しません」
「あと、君のお父さんのサインも今度頂戴」
「何枚でも書かせます」

そう答えて、ふと思い出す。俺はいちばん肝心な言葉を、この人にまだ伝えていなかったことを。

「あなたが大事にしてきた娘さんを、俺に下さい」

ようやく伝えたその言葉に、彼はなぜか吹き出したように笑い出し、俺を真っ直ぐ見据えてから、少し白髪混じりの頭をゆっくりと下げた。

「あの子を、頼みます」







「ねぇ、どうやってお父さん説得したの?」

なまえはいつものキッチンで料理をしながら、すぐ側でそれを見ていた俺に、視線を向けずにそう尋ねた。

「説得は別にしてねぇ。言いたいことを言っただけだ。そしたらなんか、そういう感じになってた」
「ふーん」
「いい人だな、お前のお父さん」
「ありがとう。たまに困った人だけどね」
「そうか?」
「今日家に着いた時話したでしょ。アパートの外壁の話」
「お父さんが塗り替えたってやつか?」
「そう。あれね、大家さんに無断で勝手にやっちゃったのよ」
「え」
「元々あった外壁のシミが、ちょっと人の顔っぽかったのね。それを私が怖がったから、それで勝手に塗り替えちゃったの」
「その後は」
「数時間にわたる、大家さんからのお説教」
「それは、大変だな」
「焦凍も似たようなことしてたよね。高校の時」
「俺は無断で外壁を塗り替えたことはねぇ」
「そうじゃなくて。ほら、私が現場での初めての実戦が怖いって泣いたら、焦凍が相澤先生に私を外すように、言いにいっちゃったやつ」

それはまだ、彼女と付き合うよりもさらに昔のことだ。既にその時には、俺にとってこいつは特別で、彼女が泣いている姿を見ていることが出来なくて、お節介だとわかっていても、何かをせずにはいられず、勝手にそのことを先生に話してしまったのだ。

「あぁ、あったな。そんなこと。相澤先生にすげぇ怒られたのは覚えてる。他人が余計なことするなって」
「でも嬉しかったよ。今思えば、あれがきっかけだったような気もするし」
「何のだ?」
「焦凍のことが特別になる、きっかけ」

懐かしそうに話すなまえの背中が愛しくて、その細い肩に顔を埋めると、彼女は包丁を持っていたその手を一度離して、俺の髪をそっと撫でてくれた。

「女の子は父親に似た人を好きになるってよく言うけど、私は全然違う人を好きになったなって、ちょっと前まで思ってたの」
「まぁ、だいぶ違うよな。俺はあんなに明るくねぇし」
「でも、今日実家に帰った時、アパートの外壁のこと思い出して、焦凍とお父さんって、似てるなって思った。人のために、なりふり構わないところというか、一生懸命なところが」
「それ本人に言ってやれよ。きっと飛び上がって喜ぶぞ」
「ふふ、やだよ。調子に乗るから絶対言わない」

その表情は見えないが、声色から嬉しげな様子が伝わってくる。あの人がこいつを大切に思ってきた分だけ、きっとこいつも、あの人のことがとても好きなのだろう。

「妬けるな」
「え、何が?今日はお蕎麦だから、焼くものないよ?」
「……ネギ多めで」
「わかってるよ」
「幸せにする」
「何ですか唐突に」
「絶対、幸せにする」
「うーん。50点」
「え」
「それだと一緒に幸せになれないから、50点」

悪戯っぽく笑いながら、彼女は俺の決意を採点してみせる。あぁ本当に敵わない。俺はお前の、そういうところが一番好きだよ。

「俺と一緒に、幸せになってくれ」

彼女は俺に向き合い、幸せそうに笑って見せた。既視感のあるその笑顔は、先ほど目にした写真の人物とそっくりだ。その瞬間、その笑顔を今も愛する穏やかな顔を思い出して、目の前の彼女を抱き寄せながら、託された想いに身を引き締めた。


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轟くんとお父さんの掛け合いを書くのがとても楽しかったです。
相手を幸せにする、じゃなくて、一緒に幸せになるっていうのが、一番大事なことなのかなと思っています。

2021.06.17

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