夏恋サイダー


当番制とはいえ、こんな炎天下の中プール掃除だなんて、先生達も人が悪い。

「あつい…」

今日の空は、目眩を覚えるような雲ひとつない快晴だ。ジリジリと皮膚を焼くような光から、逃げるように日陰に腰を下ろしてみたものの、周囲の木々で一斉に鳴き声を上げる夏の風物詩のおかげで、正直体感にそれほど大きな差異はない。行きがけに自販機で買ったお気に入りのサイダーを口に含むと、しゅわしゅわと潔い甘さが広がった。

「みんな来ないなぁ…」

プールサイドのベンチに置いたスマホのディスプレイを付けると、時刻は午前10時57分。プール掃除の開始時刻は11時だと飯田くんが言っていたのに、私以外誰も来ていないというのはどういうことなのだろう。日付や時間を間違えていたのかもと、スマホのロックを解除し、A組のグループトークを開いて確認してみたものの、飯田くんから先週送られてきたメッセージは、やはり今日この時間を示している。

「え…もしかして……いじめ…?」

意味もなく立ち上がり、無駄にベンチの周囲をうろうろしてみたものの、その問いの答えにはたどり着くはずもない。スマホで誰かに電話をかけようとしては止め、またかけようとしては止め、何も生み出さない無駄な時間だけが生み出されていく。

「何やってんだ。さっきから」

聞き覚えのあるその低い声に、身体が反射的に小さく跳ねた。まるでヒーローが来てくれたような安心感と、その人物へ向けられた私の感情から生まれる緊張感。相反する二つの気持ちに心が揺れる。振り返ってその姿を見ると、やはりそこに立っていたのは私のよく知る人物で、彼はその水色と灰色の切れ長な二つの瞳で、私の姿を真っ直ぐに捉えていた。
みっともない姿を見られていたことを知り、この暑い夏空の下、さらに頬が熱くなった。醜態を晒してしまった恥ずかしさで泣きそうになる。よりによって、あんなところを好きな人に見られるなんて。

「と、轟くん…」
「何で泣きそうになってんだお前は。大丈夫か?」

ゆっくりとした歩調で私の元へ歩み寄ると、彼はいつも通りの顔でそう呟いた。こんな炎天下の中、私と同じように外にいるのに、個性ゆえか人柄ゆえか、轟くんはちっとも暑そうに見えない。彼が近くのベンチに腰を落とし、誰もいないプールの水面をただ見つめる様子を見て、轟くんのいるその場所に、なんとなく少しの距離を開けて私も座った。

「……あの、今日って、プール掃除であってるよね…?」
「あぁ。遅れそうだったから急いで来たんだが…他の奴らはどうした?」
「それが、誰もいなくて…」
「お前一人しかいねぇのか?」
「うん…だから私、いじめの始まりかと…」
「いや、そんな訳ねぇだろ。……けど妙だな。一度寮に戻ってから来たんだが、寮には誰もいなかったぞ」
「え…じゃあみんなはどこに」

互いの間に再び沈黙が流れると、轟くんが手にしていたスマホが小さな振動音を立てた。

「お、緑谷からだ。出ていいか?」
「ど、どうぞ!」
「ん」

そう言うと、彼はディスプレイを軽く叩き、スマホを耳に当てた。

「もしもし、緑谷か?お前ら今何やってんだ?」

怒るでもなく、焦るでもなく、彼はいつもの淡々とした口調で、電話の向こうにいるであろう緑谷くんにそう尋ねる。その横顔を見て、今日もかっこいいなぁ、なんて、うっかりそんなことを口にしてしまいそうになる。睫毛長いし、肌も髪も綺麗だし、これで成績も良くて運動神経もいいんだから、神様って不公平だ。

「そういうことか。……いや、俺は別にいいけど、みょうじには後で謝っとけよ。一人で泣きそうになってたぞ」

全く無関係なことを考えていた私に、視線だけを向けながら、轟くんはなぜか緑谷くんに私に謝るよう促す。未だに状況はよく飲み込めていないが、電話の向こうから微かに聞こえてくる緑谷くんの声から察するに、おそらく他のみんなはここに来ないであろうことがわかった。

「あぁ、わかった。じゃあな」

スマホの画面をタップすると、彼は再び私に向き合った。

「えっと…緑谷くん、なんて?」
「気温が高すぎて熱中症の危険があるから、急遽今日のプール掃除は中止になったそうだ」
「あ、そうだったんだ……」
「上鳴と芦戸が連絡回すことになってたらしいんだが、俺たちにだけ連絡が漏れてたらしい」
「へ、へぇ…」

あの二人、やってくれたな。

上鳴くんと三奈ちゃん。その二人に組み合わせを聞いて、おおよそ事態の全容は読めた。十中八九、いや間違いなくわざとだ。私と轟くんを二人にさせようと、わざと私たちにだけ予定の変更を教えなかったのだろう。しかも寮に全員いなかったということは、他のみんなも巻き込んでいるのだろう。今頃クーラーの効いた涼しい部屋で、「俺たちいいことをしたな!」とか言って、誇らしげな顔をしているに違いない。

「暇になっちまったな」
「そ、そうだね…」

どちらもその場を立ち去ることなく、三度めの沈黙が互いの間に流れる。さっきは暑さを助長させるだけで、少し疎ましくも思っていた蝉の鳴き声が、今はむしろありがたいと感じてしまう。今までだって二人で話をする機会がなかった訳じゃないのに、意図的にそういう状況にされたことで、変に色々意識してしまう。

どうしよう。私いつも、どうやって轟くんと話してたんだっけ。

気まずさを誤魔化すように、傍らに置いていたサイダーをもう一口含むと、先ほどと同じものを飲んでいるはずなのに、不思議と全然味がしない。

「なぁ」
「は、はい…っ!?」
「最近いつもそれ飲んでるよな」

沈黙を破ると、彼は私が手にしていたサイダーの缶に視線を向けた。

「う、うん。夏だからか、なんか炭酸飲みたくなっちゃって…」
「炭酸って美味いのか?」
「轟くん、飲んだことないの?」
「あぁ」
「一口飲んでみる?さっき開けたばっかりだから、まだ───」

そこまで言いかけて、自分がとんでもないことを口にしていることにようやく気づいた。女の子の友達ならともかく、男の子に、まして好きな人に向かって何を言ってるんだ私は。

「ご、ごめんね…!飲みかけなんて嫌だよね…」

今すぐプールに飛び込みたい。淡々としている彼の表情が、余計に恥ずかしさを煽る。いや、でも待って。逆にこんなふうに意識しまくりの態度を出す方が、余計に恥ずかしい感じになっているのではないだろうか。

どっちに転んでも恥ずかしいとか、一体何の罰ゲームなの。自業自得だけども。

「貰う」
「え」
「みょうじがいいなら、貰う」
「そ、そう…?じゃあ、どうぞ…」

手の中にあったスチール缶を差し出すと、彼はそれを受け取って、躊躇わずにそれを口に含んだ。いわゆる間接キスというやつになるのだが、その様子から察するに、轟くんは全くそれに気づいていないらしい。細かいことを気にしない彼らしいといえばそうだけど。

ってことは、他の女の子とも、こういうこと出来ちゃうのかな…。

そんな思考に思い至り、気持ちが沈む。どうしたってライバルはすごく多いし、もしも他の女の子とも同じようなやり取りをしていたら、すごく嫌だ。そんなことを思う権利なんて、私にはないのに。

「どうかしたか?」
「え?」
「なんか、浮かねぇ顔してるから」

表情豊かでいいねと色んな人に言われるそれは、褒め言葉だと思っていたけど、こういう場面ではなかなか厄介だ。嫌だなぁ、嫉妬してる顔なんて、絶対可愛くないに決まってる。

「そんなことないよ。全然、」
「一応言っとくけど、他の女子からは貰わねぇぞ」
「は…」
「お前だからだ」

はっきりと耳に届いた彼の言葉に、思わず息を飲んだ。それって、つまり。

「そ、それは、どういう」
「便乗すんのはあんま好きじゃねぇけど、ご丁寧に用意してもらった機会だし、利用させてもらおうと思ってな」

轟くんはサイダーの缶をベンチに置くと、それを持っていた手で私の手に触れた。ひんやりとしたその手が触れる場所は、本来冷たく感じるはずなのに、なぜか逆にとても熱い。




「わかるよな?俺の言ってる意味」

前後の文脈から、どう考えてもそうとしか受け取れないその発言に、頭が混乱する。だってその言い方だと、まるで間接キスしてもいい相手は、私だけだって言ってるみたいに聞こえる。私のことを特別だと思っていると、そう言っているみたいに聞こえる。

でも、でももし勘違いだったら。

「なぁ」
「わ、わかりません…!!」

逃げるが勝ち、なんて、昔の人は上手いことを言うものだ。これは恋という戦いにおける戦略だ。直接的な言葉を言われたわけじゃないし、今の言葉だけで確証を得られるほど、私の度胸は据わっていない。
触れられた手を振りほどいて、咄嗟に勢いよく走り出す。左右前後に何があるかも、自分がこの後どうしたいのかも、分からないまま。

「ちょ、待て!お前、そっちは…っ」
「え?」

焦るその声に気づいた時には、既に遅し。ぐらりと動く視界で、ほんの一瞬見えた揺らぐ水面。本能的に目をつぶり身体を強張らせると、次の瞬間冷たい水の感触が全身を包み込んだ。自身の重さに沈んだ身体は、浮力によって自然と上昇し、その流れに乗るようにして、私は水面から顔を出した。
顔に纒わり付く水を払い、ようやく瞼を開けると、心配そうな顔をした轟くんが、ずぶ濡れになった私を見下ろしていた。確かにさっきはプールに飛び込みたいと思ったけど、本当に飛び込むつもりなんて、これっぽっちもなかったのに。

「大丈夫、じゃねぇよな」
「…………はい。あんまり大丈夫じゃないです」

消え入るような声でそう言うと、彼は吹き出したように笑い出す。好きな人の笑顔を見れるのは嬉しいけど、何もこんな形じゃなくたっていいはずだ。

「あんな綺麗に落ちる奴、初めて見た」
「わ、私だって、初めて落ちたもん」
「方向音痴なのか?お前…ふっ」
「笑わないで…!」

轟くんは小さく悪ぃ、と言うと、ほんの少しの間を置いてから、突如その場から身体を前に浮かせた。

「え、ちょ、轟くん!?」

浮いたその身体の行き着く先は、当然私と同じ水の中だ。彼はあろうことか、自分から服のままプールに飛び込んでみせたのだ。

「結構水冷てぇな」
「な、何やってんの?」
「いや、こっちの方が涼しそうに見えたから」
「確かに涼しくはあるけども…轟くん、着替え持ってるの?」
「あ」

彼は今気づいた様子で、その薄い唇を小さく開き、少しだけ困った顔をした。

「ふふ、轟くんって、頭良いのにそういうところは抜けてるよね」
「プールに落ちた奴がそれを言うか」
「まぁそうなんだけど、ふふ…っ」
「何度も笑うなよ」
「だって、勝手に笑っちゃうんだもん」
「そんな余裕ぶってていいのか?まだ話は終わってねぇぞ」

私が返事をする前に、彼は私の腕をぎゅっと掴む。捕まえたと言いながら、挑発的に私を見下ろすその目にドキドキして、咄嗟に視線を水面に落とす。

「は、離して」
「なんで」
「なんでって、だって私たち」
「両想いだろ?」

恥ずかしげもなくそう口にする彼に、こっちが恥ずかしくなる。っていうか、なんで私の気持ちバレてるの。

「違うって言ったら、どうするの」
「口説く」

そう言うと、彼は私の腕を掴むその手に力を込めて、自分の方へと引き寄せた。いつもなら不快に感じるはずの、濡れた衣服がピタリと肌に張り付くその感覚が、今は少しも嫌じゃない。

「好きだ」

抱きしめられ、耳元でその決定打を打たれてしまえば、私は白旗をあげるしかない。恋は惚れたもん負け、なんて、昔の人は上手いことを言うものだ。今の私はまさしくそれで、彼が私を口説かずとも、私たち二人の勝敗は初めから決まっている。

「私も、好き」

驚くほど自然にその言葉が零れ落ちると、轟くんは少しだけ腕の力を緩めて、私の顔を真っ直ぐに見た。相変わらず綺麗なその2つの瞳は、いつもより少しだけ潤んで見える。ゆっくりと彼の顔が近づいてきて、ぎゅっと勢いよく目を閉じてみたものの、期待していたその瞬間は訪れない。
まだすぐ近くにある彼の気配に、恐る恐る目を開けると、轟くんは落とすように笑い、もう一度私に顔を近づける。今度はそれを受け入れるように、そっと瞼を静かに落とすと、唇に柔らかい熱が触れた。

「甘いな」

互いの唇が離れると、彼は笑いながらそんなことを言う。夏の風物詩の声が耳を刺す、澄み渡る夏空の下。彼と交した初めてのキスは、ほんのりサイダーの味がした。


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夏っぽい恋のお話が書きたかったのです。

2021.08.12

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