眺の空


午後11時48分。仕事を終え、同僚とお酒を飲んだその帰り道。思い出してしまうからと遠ざけているその場所に、酔いを覚ますためにと口実をつけて、結局お酒を飲んだ日はいつもこうして来てしまう。金曜日からだろうか。道ゆく人はみんな心なしか少し浮き足立っているように見えて、それがより寂しさを助長させた。かつて隣に居た人は、今は遠い海のむこうに居て、"待つな"と言ったその人を、私は今日もしつこく想い続けている。
来るはずのないその人を、私は今日も待っている。

ずっとこの人と一緒にいるのだろう。そう思っていたのに、別れは突然やってきた。
プロヒーローとして国内での実績を着実に積み上げていた彼が、急に拠点を海外に移すと言ったのだ。ヒーローという仕事のことは正直私にはよくわからないが、テレビや雑誌で彼を見る機会は多かったし、順調にキャリアを積んでいると思っていたから、それはまさに寝耳に水のことであった。彼がそのことを今まで教えてくれなかったことにもショックだったが、そこに至るまでの葛藤や苦しみを、私は何一つ知ることも、気づくことも出来ていなかったということがとても悔しかった。
私は彼に詰め寄って、理由を聞いたが教えてはくれず、彼は"もう俺のことは忘れろ"と言った。昨日まで普通に話をして、一緒のものを食べて、同じ時間を過ごしていたその人は、まだ目の前にいるはずなのに、もう既にどこか遠くへ行ってしまったように見えた。
"待っていたらダメか"と尋ねた私に彼は追い討ちをかけるように"待つな"と言ってから、ずっと前に渡した合鍵をテーブルに静かに置き、部屋を出て、そのまま戻っては来なかった。







彼との出会いは偶然で、運命などではなかった。ショッピングモールで敵に襲われた私を、彼がヒーローとして助けたことがきっかけだった。そのあまりの粗暴な態度と、強烈な個性に驚きこそしたが、私の方がひと目で恋に落ちた、というわけでもなければ、彼から連絡先を聞かれたというわけでもなかった。むしろ、今まで付き合ってきた穏やかな男性たちとは対照的なその人物に、こういう人とお付き合いをする人は大変そうだなと失礼なことを思ってしまった。

ところが二度目の偶然はすぐに起きた。不運なことに私の働く職場に強盗が入り、その対応をしたのがまたもや彼だったのだ。"またあの人だ"、と私は思ったが、彼は私に目もくれることないまま、神がかり的な速さで強盗を捕らえ、警察に引き渡した。
そして三度目が、ここ。今いるこの公園だった。その日は取引先と大事な商談をすることになっていた日だったのだが、天気もいいから外で食べようとこの公園のベンチで昼食を摂った後、まさかのその商談資料をそのままベンチに置き忘れるという失態をやらかした。商談までだいぶ時間はあり、そのまま引き返したものの、元々座っていたベンチにその資料はなく、ややパニック状態だったこともあって、その時の私はだいぶ挙動不審だったのだろう。




『おい、今度は何やってんだ。てめぇはよ』

どうしよう、どうしよう、と焦っているところに、背後から至極機嫌の悪そうな声が聞こえた。さすがに声までは覚えていなかったが、振り向いたと同時にその姿を見て、一瞬で記憶が蘇ってきた。

『あっ...強盗の時の...』
『ついでにショッピングモールの時も、だろ。この不幸体質がよ』
『そ、そんな言い方しなくても...』
『敵に捕まるわ、職場に強盗が入るわ、不幸体質以外に何があんだよ』
『まぁ...おみくじで大吉は滅多に引かないですけど...』
『どうでもいいわ。んなもん。...で、今日は何やってんだ』
『あ、あぁ...そうでした!あの、今日大事な商談があって、その資料が入った封筒をここに置き忘れちゃったんですけど、無くて...すぐ戻ってきたんですが...』

事情を説明すると、彼は公園にある時計を見上げた後、わざとらしく舌打ちをして見せた。

『あ、あの...』
『管理室行ってこい。そうすりゃ多分ある』
『管理室...ですか?』
『ここの公園は、毎日決まった時間に清掃員が見回りも兼ねて巡回すんだよ。ちょうど今午後の巡回が終わった直後だ。金目のモンじゃねぇし、そこに行きゃ多分見つかる』
『な、なるほど...』
『わかったらさっさと取り行けや!俺は暇じゃねぇんだよ。こんな下らねぇことに10分も使わせやがって』
『ごめんなさい...』
『大事な資料ならそもそも鞄に入れとけや!アホか!』
『か、鞄に入れて曲がったりするのが嫌で...』
『曲がることと失くすこと、どっちがリスク高ぇかぐらい、社会人ならわかれや!このアホ!』
『はい...すみません...』

プロヒーローなのに、まるで一般企業の怖い上司のようだ。いや、今時普通の会社でもこんなに怒鳴る人は珍しいのだが。だが言っていることは何一つとして間違ってはいないので、素直に謝り倒すことにした。

『チッ...さっさと行けよ。商談あんだろ』
『あ...やばっ...もうこんな時間だ...!』

左腕につけた自分の時計を見ると、あと40分ほどで約束の時間だ。今から管理室に確認しに行ってもしも無かった時のことを想定すると、急がないと間に合わない。

『あの、ありがとうございました!今も、この間も、あとその前も...』
『いいからさっさと行け!!』

お礼を言っても怒られてしまうのか。ヒーローになるくらいだし、悪い人ではないのだろうが、沸点が低すぎる。こんなに怒りっぽい人は私の周りでは珍しいので、始めは少し、というかかなり怖かった。
何か言うとまた怒られてしまいそうなので、言葉は発さずに一礼だけして駅に向かって走った。

これが彼、爆豪勝己との出会いだった。







その日の商談は散々だった。

商談資料は彼の言った通り管理室で保管しておいてくれたし、約束の時間にもきちんと間に合ったのだが、先方の部長がいわゆる典型的な男尊女卑の考え方の持ち主で、"女の営業なんか信用できない"と一蹴されて門前払いされてしまったのだ。さすがにそのまま帰るわけにも行かず、一度は食い下がったが、その後も先方の部長の態度は相変わらずで、パワハラのようなセクハラのような強い言葉を沢山浴びせられた。職場の上司からは気にしなくて良いと言われたし、先方の担当者の人は謝ってくれたものの、それを差し引いても頑張って進めてきた案件だったがために、ダメージは大きかった。
息抜きのため、そして自分への慰めのためにとちょっといいコーヒーを買い、お昼にも寄った公園のベンチでそれを飲んだ。あんなに一生懸命作って、探し回った資料は結局無駄になってしまった。いや、探し回る羽目になったのは自分のせいなのだが。

『はぁ、やってらんないわ...あのクソじじい』

小さく吐いたその毒は誰にも受け止めてもらえることなく、私の中でぐるぐると残った。私が男だったら良かったのだろうか。資料を公園に置き去りにしたりしない、しっかりとしたスマートな男性だったなら、あの人もちゃんと話を聞いてくれたのだろうか。悔しさにコーヒーを持つ手に自然と力がこもり、視界が涙で滲む。





『なんだてめぇ、まだ居たのか』

先ほどと同じく機嫌の悪そうな声が、今度は頭上から聞こえた。私が泣いていることに気づいた彼は、少しだけ目を見開いたが、また仏頂面に戻って、私から少し離れた場所にどかっと座った。

『...無かったんか』
『いえ、ちゃんと見つかりました...』
『そうかよ』
『約束にも、間に合って...でも...』
『んだよ』
『"女の営業なんか、信用できないから帰れ"って言われちゃって...』
『...アホくせ』
『はは...ですよね...こんなアホみたいな理由で泣いてるとか、超絶カッコ悪くて情けないです』
『わかってんならさっさと泣き止めや』

そう言うと彼は立ち上がり、無愛想で粗暴なその態度からは想像も出来ないが、几帳面にきちんと畳められたハンカチを私の真横に乱暴に置いて、そのまま歩き出してしまった。

『え、ちょ、あの...これ!』

私が後ろから声をかけても、彼は歩みを止めず、そのまま歩いて何処かへ行ってしまった。







勝己は出会った時からそんな感じだった。急に現れては、急に何処かへ行ってしまう人だった。その後借りたハンカチをどうやって返したらいいか考えて、ヒーローに詳しい同僚に彼のことを話し、彼の事務所を教えてもらって、手紙と一緒にハンカチを入れて送ることにした。何を思ってそうしたのか、手紙には自分の連絡先を書いて。思えばその時から惹かれ始めていたのだろう。あの粗暴で口の悪いヒーローに。
同僚から聞くところによると、彼は当時まだ若手だったが既に注目度の高いヒーローだったらしく、三度も助けられたなんて羨ましいとその同僚は熱弁を奮っていた。そんな注目の若手ヒーローなら、きっとファンレターなどもたくさん届くのだろうし、その中の一通に対して何も感じることはないだろう、そう思っていた。
だが、ある日突然四度目の機会は訪れた。見知らぬ番号から電話がかかって来て、いつもなら警戒して取らないその着信に、期待と不安の入り混じる想いで通話ボタンと押した。

『はい』
"...何のつもりだてめぇ"
『ふふ、やっぱりあなただったんですね』
"何笑ってんだ"
『まさか、今をときめく若手ヒーローさんから連絡をもらえるとは思ってなかったんで』
"死ね"
『ちょっ!?それヒーローが使っていい言葉なんですか!?』
"うるせぇな"
『あの、名前聞いてもいいですか?』
"...人に聞くならまずてめぇから名乗れや"
『あ...ですね。私みょうじなまえと言います』
"......爆豪勝己"
『なんか、イメージ通りの名前ですね...』
"どういう意味だそりゃあ"

彼が何を思って私に連絡をくれたのかはわからなかったが、それからと言うもの、私と彼は時折時間を見つけて会うようになった。そして何度目かの食事の後、彼の部屋に誘われて、そのまま関係を持った。その関係に名前はなかった。友達か、セフレか、あるいは恋人か。いずれも正しいような、間違っているような。でも私は彼が好きだったし、彼も私を求めてくれていることは実感できていたから、それで良いと思っていた。
別れを告げられる、あの日が来るまでは。







「もうすっかり冬ですなぁ...」

外は寒い。吐く息は白い。初めて部屋に誘われたあの日もちょうどこんな感じの日だった。彼の部屋に初めて行った時、彼の腕の中は絶えず熱くて、焼けるように苦しかった。でも今はその熱をもう感じることはなく、頬に刺さるような冷たい風が体温を奪っていく。空は虚しいくらいに高くて、ポツンといくつかの街灯しかないこの公園のベンチに座る私の頭上には、街中とは思えないほどに沢山の星が見える。
時差があるから、彼はこの星を同じ時間に見ることは決してないのだけど、少なくとも今私たちは同じ空の下にいて、同じ時間の中を生きているはずだ。それなのに。

「何で会えないんだろうね」

会いたい。会いたいのに。
生きてるよね、ちゃんと。むこうでちゃんとヒーローやってるんだよね。

勝己のことに蓋をするように、ヒーローに関するものはここしばらくずっとシャットアウトしてきた。思い出せば苦しくて、会いたくて、忘れろと言われたのに、どうしても忘れられなくて。
ああダメだ。もう帰ろう。やっぱりここに来ちゃいけなかった。毎回来るたびに後悔するのに、それでも言い訳をつけてここに足を運んでしまうのは、やっぱり彼が好きだからだ。

「勝己」

絶対にここへ来ない人の名前を私はいつもこうして呼んでしまう。


「バ勝己...」
「誰が馬鹿だ。このアホ女」

ついに幻聴まで聞こえるようになってしまった。重症だ。そんなにお酒は飲んでいないはずなのに。

「何とか言えや」

続くその声に、恐る恐る顔をあげると、あの不機嫌そうな顔がそこにはあった。

「か、つ...?」
「にしてんだよ、こんな時間によ」
「...お散歩?」
「歩いてねぇじゃねぇか」
「な、なん...!?え!?どういうことですか!?」
「うっせぇな...時間考えろよ、近所迷惑だろうが」
「ご、ごめん...」
「...んで、こんなとこに居んだよ」
「いやあの...お言葉ですが、あなたこそ何故ここに...というか日本に...」
「あ?帰ってきたからに決まってんだろ」

"帰ってきた"と悪びれることもなくさらっと言う勝己に何も言葉が出てこない。

「腕」
「う、腕...?」
「敵との戦闘で、後遺症が残った」
「あぁ...うん。知ってるよ」
「ヒーロー続けんなら、完治させる以外の道はねぇ」
「う、うん...そうだね...ヒーローは身体はった仕事だしね...」
「そんでリハビリするために、わざわざ海を越えて行ったってわけだ」

ぽつりぽつりと彼の口からこぼれてきたのは、2年前には絶対に教えてくれたかった渡航の真相だった。お医者さんの話によると、リハビリで完治できる確率は5割程度といったところで、期間もどのくらいになるか当時では見通しが立たず、ろくにヒーローとして仕事もできない自分に私を付き合わせることは出来なかったという。そして先ほど帰国して、すぐに私の家にむかったものの、私が一向に帰宅せず、痺れを切らして探し回り、ここにいる私を見つけたということらしい。
プライドの高い勝己らしい理由だが、それならそうと言ってくれれば、もう少し私も違う2年を過ごせていたと思うのだが。

「...そう、いうことだったの」
「毎日毎日、うざかったわ」
「は、はい?」
「むこうに行った後も、別れ際のお前の不細工な泣き顔が毎日浮かんできて」
「...言い方、もうちょっと無いんですか...否定はしないけど...」
「事実だろ。今も不細工なツラ見せやがって」

ひどい。そう言おうとしたのにそれは出来なかった。勝己が座っていた私の腕をぐっと引っ張って、強引に自分の腕の中に押し込めたからだ。2年ぶりに感じる、少し甘い、勝己の香りに抑えていた涙がさらに溢れてくる。

「......待つなって、言っただろうが」
「だ、って...好き、でっ...忘れられなくてっ...」
「どっちが馬鹿だよ」
「かつき」
「てめぇ」
「...もう、どこにも...行かないで」
「...帰んぞ」

絞り出した私の言葉は無視して、私の手を引いて彼はずんずんと歩き出す。

「え、帰るって...どこに?」
「まだ酔っ払ってんのかてめぇは。てめぇの家に決まってんだろ」
「え!?いきなり!?勝己、ホテルとか...」
「んなモンとってねぇわ」
「...もし私が待ってなくて他の人と付き合ってたらどうするつもりだったの?」
「あ?てめぇがそんなこと出来るわけねぇだろ」

どこから来るんだそんな自信は。相変わらずの俺様め。

「仮にそうだったとしても、奪い返して終いだわ」
「奪ってくれるんだ...」
「仮にの話だっつってんだろ」

そう言って私の頭を乱暴にぐしゃぐしゃと撫でる。この感覚も久しぶりだ。全然お前のことなんか大事じゃないという手つきで、だけどその目は私を好きだと言っている。彼の愛情はぶっきらぼうで分かりにくいのに、それでも私はこの人が好きなんだ。

「ねぇ勝己」
「...んだよ」
「おかえり」

彼はそう言う私の目にたまった涙を乱暴に袖で拭い、その手で私の頬を包む。不細工だなと言い放ち、文句を言おうとする私の口を、そのまま自分の口で塞いだ。唐突に、でも優しく。
唇が離れ、目を開くと、そこには滅多に見せない穏やかな彼の顔があった。

「...ただいま、なまえ」

彼がそう言ったその瞬間、肩越しの空に流れた小さな星のことは、私だけの秘密。


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眺の空 もの想いに耽りながら眺める空のこと。

2020.10.21

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