策士、恋に溺れる


"飲み会で終電なくなっちゃったから、お家に泊めてもらえないかな...?"

勇気を振り絞って、そうメッセージを送ったのは、つい5分ほど前のことだ。本当は飲み会など行っていないし、終電がなくなったのは、意図的に私が帰らなかったからだ。
彼の家に行くために、私にしては少し、いや、かなり大胆な方法をとったなと、自分でも思う。

どんな返信が来るだろうかと、スマホを持つ手が少しだけ震える。既読マークはついているから、見てくれてはいるのだろうけど、返信を待っているこの時間が、まるで永遠のように長く感じる。
そんなことを考えていると、握りしめたスマホが小さく振動する。慌ててディスプレイを確認すると、そこには"爆豪勝己"という文字が映し出されていた。

"場所教えろ"

彼からの返信は、たった五文字だった。だけどそのたった五文字が、どうしようもなく嬉しくて、頬が緩む。
今いるその場所を打ち込んで送ると、"近くのコンビニにいろ"、という簡潔なメッセージがすぐにまた返ってきた。言われた通りに近くにあるコンビニの中に入り、メイク落としとシャンプーセット、そして下着を買った。あくまで急遽泊まることになったという体を装っているため、鞄の中に宿泊に必要なものは入っていない。

ふふ、我ながら、なかなかずる賢いことをするなぁ。

必要なものを買い揃え、棚に並べられた新発売のお菓子を見ていると、後ろから頭を弱めに掴まれた。普通なら驚いて声をあげてしまうところだが、そんなことをする犯人に、私はとても心当たりがある。

「ったく、面倒なことさせやがって」

そう不満を漏らしながらも、私の頭を掴むその手は優しい。自分にかけられたその声が嬉しくて、勢いよく振り返ると、少し機嫌の悪そうな顔をした勝己くんが立っていた。

「今日飲み会なんて聞いてねぇんだが」

そのセリフに早速言葉が詰まる。相変わらず鋭い。

「あ...えっと...急に飲みに行くことに、なりまして...」
「ふーん。で、俺がもし携帯見てなかったら、てめぇはどうするつもりだったんだよ」
「女友達の家か、もしくはネカフェとかに泊まろうかと...」
「...前者はまぁいいとして、後者はぜってぇダメだ」
「え、どうして...?」
「変な奴がブースに入ってきてみろ。外から見えねぇし、やりたい放題だぞ」
「や、やりたい放題って...」
「それから、飲み会に行くのはいいけどよ、終電はちゃんと気にしろ」
「は、はい...」

一通りのお説教が終わった後、行くぞ、と手を引かれる。少し前を歩く彼の表情を確かめると、特にこれと言って変わった様子はない。どうやら私の嘘に、彼は気づいていないようだ。
嘘をついたことに少しの罪悪感はあるものの、これはある意味"彼のため"でもあると自分に言い聞かせ、私は繋がれた彼の手をギュッと握った。

勝己くん、ごめんなさい。
でもこれは、女の一世一代の勝負なのです。







ずっと私の片想いだと思っていた勝己くんと付き合うようになって、もうすぐ半年。
彼と付き合うことになったことを周囲の人に報告した時、"あいつは手が早そうだ"と誰もが口にしていて、正直に言えば、私もほんの少しだけそう思っていたところがあった。
しかし、付き合ってからの彼は、普段の粗暴な言動からは想像もつかないほど、いい意味で期待を裏切る見事な紳士ぶりで、これは夢の中の出来事なのだろうかと、一度思い切り頬をつねってみたことがある(案の定、その後ものすごく怪訝な顔をされた)。
待ち合わせはいつも彼の方が早く来ているし、頑張ってお洒落をすれば、さりげなく褒めてくれる。お店に入るときは先回りしてドアを開け、私が中に入るまで必ず待っていてくれる...エトセトラ。
とにかく至れり尽くせりなのだ。惚れた弱みを差し引いても、彼はとても素敵な恋人だと思う。

しかし、私はそんな彼に対して唯一、ほんの少しだけ不安に思っていることがあった。

キスをしたことはあるものの、私たちはまだ"その先"に進めていない。
勝己くんには今までも何人か彼女が居たらしいが、私は彼が初めてお付き合いをする相手で、そういうところも加味した上で、おそらくタイミングを計ってくれているのだろう。
そういうことは、別に早ければ良いというわけでも、遅ければ良くないという訳でもないだろうし、私たちは私たちのペースがきっとある。焦る必要もない。だって彼は私を大切にしてくれるし、私はそんな彼が大好きなのだ。
しかし、惚気のつもりでそんな話をすると、一緒に居た女友達からは意外な言葉が返ってきた。

"そんなこと学生みたいなこと言ってると、他に女作られちゃうかもよ"

曰く、もう成人もとっくに超えた大人の男が、そういうことをしないなんて有り得ない、ということらしい。もちろん彼女が冗談半分でそう言っているのは、その場の空気や本人の口調でわかったけれど、それでも彼女の言葉のインパクトは絶大だった。
彼を疑っている訳ではない。だけどもしもこのまま、そういう行為に至らないがために、彼の心が離れて行ってしまったら。考えるだけで悲しい気持ちでいっぱいになって、涙が出そうになった。しかし瞼から涙がこぼれかけたその瞬間、私はそこで思い立った。

いや待って。泣いている場合じゃない。

今までずっと勝己くんにお任せするスタンスでいた私だが、これは自分を見つめ直すいい機会かもしれない。この状況を打開すべく、あくまで偶然を装いつつ、さりげなく彼との距離を縮める方法を考えなければ。

そして、お世辞にもあまり優秀とは言えない頭を使い、悩むこと数時間。
色々と思考を巡らせた結果、"帰れなくなった体を装い、彼の家に上がり込む"という古典的な計画を企てたのであった。







「とりあえず、もう遅ぇから風呂入って来い」

初めて彼氏の部屋を訪れた余韻に浸る暇もなく、勝己くんは家に着くなり、バスタオルやら、寝るためのスウェットやらを手早く用意して、一式私に手渡した。

「なんか...勝己くん、お母さんみたい」

彼氏の家に来たというより、なんだか実家に帰ってきたような雰囲気だ。

「...あ?」
「あ、いや!褒めたんだよ?」
「...くだらねぇこと言ってねぇで、さっさと入れ。風呂は奥側のドア。電気は真ん中のスイッチな」
「はーい」

彼に言われた通りのスイッチを押し、言われた通りのドアを開けると、清潔感のある脱衣所があった。必要なものがきちんと整理整頓されており、洗面台もとても綺麗だ。見た目に反した、彼の几帳面さがよく現れているなと、思わずくすりと笑ってしまう。
期待を込めて浴室の扉を開けると、脱衣所と同様に浴室もとても綺麗だ。男の人の一人暮らしなら、こういう場所の掃除は多少おざなりになっていそうなものだが、爆豪家の浴室はピカピカである。

「さすがA型...」

思わずそんなことを呟きながら、ピカピカのバスタブに身を沈める。自分の家ではいつもシャワーで済ませてしまうので、こうしてお湯に浸かるのはどれくらいぶりだろう。じんわりと暖かいお湯に、溜まっていた疲れが少しずつ溶け出していくような、そんな不思議な感覚だ。

「あ」

そうしてお湯に浸かりながら、私はあることを思い出した。ここへ来る途中に買ってきたシャンプーセットを、鞄の中に置いてきてしまった。メイク落としと下着は持ってきたものの、なぜか一番必要なものを忘れてしまった。自分の家ならば適当に身体を拭いて取りに行くこともできるが、さすがにここではそれは出来ない。
どうしたものかと浴室にあるラックをチラリと見ると、そこにあるのは当然メンズ用のシャンプーやコンディショナーだけだ。バスタブから一度出て、ラックにあるシャンプーを手に取り、裏側にある成分表示を確認すると、意外にもノンシリコン、しかもオーガニックの表記があった。

「い、意外すぎる...!」

これなら私でも使えるだろうか。少し戸惑いながらもその蓋を開けてみると、開けた場所からふんわりとハーブの爽やかな香りが浴室に広がる。初めて触れたものだというのに、その香りはよく知っているものと似ていた。

「勝己くんと、おんなじ...」

彼に抱きしめられた時に、ほのかに香る匂いと似ているのだ。
彼が使っているものなのだから、当然と言えば当然なのだが、浴室に広がるその香りが、まるで彼に包まれているような錯覚を起こす。
始めは自分の髪に合うかどうかを気にしていたが、それに気づいてしまった私は、全く別のことを考え始めていた。人のものを勝手に使うことは躊躇われたものの、好きな人と同じ香りを纏ってみたいという欲が勝り、心の中でごめんね、と謝りつつも、彼のシャンプーを借りることにした。

*

「遅ぇ」
「すみません。色々ありまして...」
「何か壊したんか」
「壊してないよ...っ!」
「正直に今言えば、許してやらなくもねぇぞ」
「だから、壊してないって...!信じてよ...!」

私がそう必死に彼に訴えかけると、勝己くんは両手で私の頬をぎゅっと挟んだ。

「ぶっさいく」

そう言いながらも、ふ、と笑う彼に、火照った体が更に熱くなる。そんなひどいセリフを、そんな顔をして言うなんて卑怯だ。

「つーか、ちゃんと髪拭けよ。風邪ひくぞ」

勝己くんはそう言うと、私の首にかかっていたタオルを外し、わしゃわしゃと少し乱暴に私の髪を吹く。しかしどうしたことが、荒々しく動いていた彼の手がふと急に止まった。

「勝己くん?どうかした?」
「...何でもねぇよ」

先ほどまで機嫌の良さそうな様子だったのに、彼はなぜか難しそうな表情で、手に持っていたタオルを再び私の首にかけた。

「あ、ドライヤー借りていい?」
「そこにあるから、勝手に使え」

彼はベッドサイドにあるチェストに置かれたドライヤーを指差しながら、ぶっきらぼうにそう言った。

「あれ、ドライヤーはこっちにあるんだね」
「...あっちは寒ぃ」
「あぁ、そういうこと...」

ドライヤーを手に取り、壁にあるコンセントにドライヤーのコードを差し込む。電源をつけると思った以上の強い風が出てきて、一瞬変な声が上がる。横でそれを見ていた勝己くんは、馬鹿にしたようにくつくつと喉で笑ってみせた。

「すげぇ間抜けな声だったな」
「知らない...っ」

わざとらしく顔を背け、ドライヤーの熱風を髪に当てる。追撃の言葉があるかと思いきや、意外にも勝己くんはそのまま黙って、私の後ろにある彼のベッドに腰を下ろした。少しだけベッドが軋む音がして、その音に私はハッとした。
何だか実家に帰ってきたときのようにリラックスして過ごしてしまっているが、今日ここに来た目的は、彼とそういうことをするためだったのだ。いつまでもお預けを食らわせている(別にそうしようとした訳ではないが)、ダメな彼女を卒業すべく、覚悟を持って私はこの計画を企てたのだ。

でも、ここからどうすればいいんだろう。

ひとまず部屋に上がり込むまでの計画は立てたものの、その後のことは一切考えていなかった。
急にそういうことがしたいと言ったら引かれてしまうかもしれないし、一般的なカップルというのは、一体いつそういう空気になるものなのだろう。
ドライヤーの音だけが部屋に響き、髪が半分ほど乾いたところで、自分自身の致命的な知識不足にようやく気づく。平静を装って一応髪を乾かし続けてはいるものの、頭の中はパニックだ。
ここからどうしたらいいのか、全く思考がまとまらない。

そんなことを考えていると、急に後ろから、ぬっと二本の腕が伸びてきて、そのまま後ろに引き寄せられた。ベッドに座っていたはずの彼は、いつの間にか私の後ろにいて、がっしりとしたその腕で、私のことをぎゅうっと抱きしめる。
今考えていたことが考えていたことなだけに、妙な後ろめたさがあり、私はかなり戸惑った。

「か...」
「お前、誘ってんのか?」

彼の口から飛び出した言葉に、身体が動かなくなる。誘ってる?私が?いや、それが目的だったと言えばそうなのだけれど、そんな直接的なことをした覚えはない。

「俺のシャンプー使ったろ」
「え...あ、うん...。勝手に使ってごめんね...?」
「そうじゃねぇわ、馬鹿が」

彼はそう吐き捨てると、私の頬をぐっと掴んで、自分の方に向けさせ、そのまま私の唇を文字通り奪った。
何の前触れもなく、こんなふうに急にキスをされるのは初めてで、どうしていいかわからずにいると、彼はゆっくりと、私の身体も自分の方へと向きを変えさせた。
少し息苦しくなって唇を咄嗟に少しだけ離すと、逃さないというように彼の唇が噛みつくように私に迫る。わずかに開いた口から彼の舌がねじ込まれて、口の中を行ったり来たりする。彼の舌は私の口の中にあるはずなのに、なぜか頭の中をぐちゃぐちゃにされているような感覚がある。
ようやく唇が離れると、彼はぺろ、と私の唇を舐めた。

「はぁ...かつき、く...」
「誰がこんな古典的な手に乗ってやるか、って思ってたんだけどな」

ぐったりする私の身体を抱きしめながら、彼は耳元でそう呟いた。

「き、気づいて...!?」
「ったりめぇだろ。つーか、認めたな。なまえちゃんよ?」
「あ...っ」
「あー...アホらし」
「え?」
「てめぇがその気なら、もっと早くこうすりゃ良かったわ」

勝己くんは小さくため息を吐くと、私をあっさりと持ち上げて、そのままベットに投げ落とす。そのまま間髪入れずに私の身体に覆いかぶさると、なぜか満足気に私を見下ろしていた。

「な...なに...?」
「あ?この状況で何されるかわかんねぇほど、さすがにガキじゃねぇだろ」

その言葉に、顔に熱が溜まっていくのを感じた。挑発的に微笑む勝己くんの顔は、私なんかよりもずっと色っぽくて、まだキスしかしていないというのに、すでに頭がくらくらする。
私を見下ろしながら、ゆっくりともう一度その顔が近づいて来る。切れ長の赤い目は、むしろいつもよりも冷静な印象を受けるのに、その奥には隠しきれない熱情が覗く。キス以上のことをしてみたいと思っていたのに、いざ実際にそうなってみると、どうしていいかわからない。

「いや、あの、待っ...」
「もう待たねぇよ。バーカ。てめぇで蒔いた種だろうが」

もう一度、深く、深く、口付けられる。
触れる手も、絡みつく舌も、交わる息遣いも、全てが熱い。いつもの優しいキスとは違う、理性を奪い去っていくようなそのキスを、私は必死で受け入れていた。
唇が離れ、うっすら目を開けると、すぐ近くに鋭く射抜くような視線がある。こんな顔でずっと見つめられたら、どうにかなってしまいそうだ。

「か、つき...く...」
「俺のシャンプー使ってきたのは、さすがに予想できなかった」
「いや、あの...それは、本当に、たまた...」

言い訳の言葉を並び終える前に、その口は彼によってまた塞がれた。今はまだ受け入れるだけで精一杯のこのキスも、いつかは余裕を持ってできるようになるのだろうか。
そんなことを頭の片隅で考えていると、ゆっくりと唇が離れていき、彼はその唇をそのまま私の耳元に寄せた。


「誘った責任、ちゃんと最後まで取れや」


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Twitterフォロワ企画作品。
この後もちろん、美味しくいただかれます。

2021.02.11

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