押してもダメなら引いてみろ。


「今日のHRは以上だ」

相澤先生の言葉と同時に、クラスの連中が帰り支度を始める。俺も例外ではなく、むしろ他の奴より少し急いでいた。

「轟君、今日この後って予定あるかな?飯田君と宿題やろうって言ってたんだけど」
「今日の宿題はなかなか手強そうだからな!皆で知恵を持ち寄ろうと思ったわけさ!」
「いや、特にない。大丈夫だ」
「そう?なら声掛けてよかったよ。なんか急いでる感じだったから、予定あるのかと思ったけど」
「違ぇ。俺が急いでたのは───」

俺がそう言いかけると、まるでそれを見計ったかのように、教室のドアがガラッと勢いよく開いた。

「轟くん、一緒に帰ろー!!」

「……あいつだ」

俺の言葉に、緑谷は納得したように苦笑いをしてみせた。毎日毎日、飽きもせずによく俺のところにくるものだ。ニコニコしながら俺に近づいてくるその女に、俺は思わずため息をひとつ漏らした。

「あのな、前にも言ったが俺は」
「『今は恋愛とかしてる場合じゃない』、でしょ?」

わかってます、と満面の笑みでそう言う彼女に、俺はもう一度ため息をついた。







「私と付き合ってくれませんか?」

ひと月ほど前、みょうじなまえは俺の日常に突然現れた。話したことも無い普通科の女子だったが、どうやら俺が好きらしい。そんな彼女を前に、俺はお決まりの断り文句を言葉を頭に思い浮かべ、それを放った後のことを想像して、憂鬱な気持ちになった。

「悪ぃけど、俺はお前のこと知らねぇし、今俺は恋愛してる場合じゃねぇんだ」

こいつに問題があるとかそういう訳ではなく、俺はヒーロー志望で、一日も早く自分が目指す姿に近づきたくてここにいる。恋愛をしている余裕などないし、そんな時間があるなら自主練に使いたい。それは紛れもなく本心で、俺はいつも決まって同じ台詞を、告白してきた女子に向けていた。
つまり、俺の目の前にいるこの女子は、俺が告白を断ったことで「失恋」したことになる訳だ。だがどういう訳か、こいつは今まで告白してきた奴とは違い、立ち去る訳でも泣き出す訳でも、理不尽に怒り出す訳でもなく、その場で何かを考え込むような仕草をしてから、やがてはっとしたような顔をして、俺に向かってこう言い放った。




「……じゃあ、恋人がダメなら友達というのはどうですか?」

まぁ友達ならいいか、と安易に彼女の提案を承諾したことを、俺はこの後少し後悔することになる。







「悪ぃけど、今日はこいつらと約束があるんだ」
「そっかぁ……残念だなぁ」

彼女があからさまにしゅん、とした顔をすると、「女泣かせ!!」「イケメン滅びろ。クソが」「とどろきく〜ん、もう付き合ってやれよ〜」など、多種多様な野次が飛ぶ。
言っておくが、俺はこいつを泣かせてなどいない。




「よ、良かったら、一緒に来ない?」

しばらくその様子を見ていた緑谷が、野次に気圧されるようにして彼女に声をかけた。

「え……でも、いいの?」

嬉しそうに、だが少し遠慮がちに、彼女も口を開いた。俺に対しては無遠慮に毎日教室にやってくるのに、なぜそこは遠慮するのか。

「おい、緑谷」
「ま、まぁ、宿題やろうってだけだから彼女がいたらダメって訳でもないし、同じ学年だからやってる範囲も一緒だしさ。ね?」
「それに、他クラスと交流を持つことも大切だぞ!轟くん!」
「それはそうかもしれねぇが」

ちらっと隣にいる彼女に目をくばせると、少し不安げな瞳と視線がぶつかった。

「邪魔だったら、帰ります……」
「……別にそうは言ってねぇ」
「じゃあ行く!」

さっきの不安そうな顔はどこへやら、すっかり明るさを取り戻した彼女に聞こえないよう、俺はまたひとつため息をついた。あぁ、面倒だ。どうせ俺は、その想いに応えてやることなんて出来やしないのに。そんな俺の思考とは反し、彼女はウキウキした様子で俺たちと教室を後にしながら、緑谷と飯田に自己紹介まで始める始末だった。







「で、ここでやっと公式に当てはめると」
「あ、なるほど!緑谷くん、説明上手だね!」

図書館に場所を移し、四人で同じテーブルに座って、俺たちは宿題を進めていた。彼女の隣に座るのは気が引けて、そそくさと飯田の隣に腰を下ろすと、緑谷は一瞬少し戸惑ったような顔をしていたが、俺はその顔を見ないふりをした。不用意に隣に座って、応えてやるつもりもないのに、期待を持たれても困るからだ。

「そんなことないよ、たまたまここの範囲が得意ってだけだから」
「いやいや、先生の説明よりも、わかりやすいかもしれないよ」
「ほ、褒めすぎだよ。みょうじさん」
「そういえば緑谷くんも、体育祭の活躍凄かったよね。ヒーロー科はみんな文武両道なんだね〜」

目の前の二人は、和やかに数学の問題を解いていた。どうやら彼女は数学が苦手らしく、既に宿題を終えた緑谷が、丁寧に彼女に解説している。俺に会いに毎日教室に来るので、お互い顔は認識していただろうが、今日初めてまともに会話したばかりの緑谷と、こうも簡単に打ち解けられてしまうのかと、少し感心する。確かに愛想のいい奴だとは思っていたが、ここまでとは。緑谷も緑谷で、彼女に対しては好感を持ったようで、普通に楽しそうに会話している。

「ちょっと、飲み物買いに行ってくる」
「なら俺も行こう轟君!二人はどうする?」
「僕は自分のまだあるから大丈夫」
「……お前は?」

俺がそう声をかけると、彼女は悩ましげな表情を浮かべた。

「えっと、私はこれ終わらせちゃわないと……」
「なんだ。ついてこないのか」
「え?」
「一緒に行くって言う思った」
「本当は行きたいんだけど、でもここ難しいから、ちゃんと解いてから落ち着きたくて」
「そうか」

小さく返事をすると、彼女はまたわからないところがあったのか、再び緑谷に解き方を尋ね始めた。意外にも真面目なその一面に少し驚き、なぜか少しだけ、ほんの少しだけがっかりしたような気持ちになった。







「みょうじ君は、とても人当たりがいいな!」

自販機のボタンを押すと、ガシャン、と音を立ててペットボトルが落ちた。

「あぁ、そうだな」
「友人も多そうだ!」

確かにそうだな、と純粋に思った。クラスでもきっと友達が多い方なんだろう。俺とは正反対で、人を無意識に巻き込んで味方につけるような、そんな類の人種だ。

「噂には聞いていたが、確かに人気がありそうだな」

「……は?」
「上鳴君が言っていたぞ。彼女は男子に人気がある、と」

飯田がそれを口にした瞬間に、妙な焦燥感に胸がざわつく。言い表せない嫌な感じがして、モヤモヤする。自分でもよく分からないこの感じが、とても不快だ。

「知らなかったのかい?」
「あ、あぁ」

飯田のその問いかけに、さらに胸の内側にモヤモヤした何かが広がっていく。そんなこと知る訳がない。そもそも、俺を好きだということ以外に、俺はあいつの何も知らないのだ。数学が苦手なことも、実は意外と真面目なことも、男子に人気があることも、今日まで俺は知らなかった。
知ろうとしなかった。だから知らないのは当たり前だ。なのになんだ。この感じは。そして何故か、俺の頭の中には先ほどの光景が浮かぶ。知り合ったのは俺の方がひと月も早いのに、緑谷とはまるで、もっと以前から一緒にいたような、あの空気。俺よりもずっと、緑谷の隣にいるのが自然に見えた。俺を好きだと、言っていたのに。

「人当たりもいいし真面目だし、なかなか素敵な女性だと思うが、なぜ付き合わないんだい?」

なぜ?そんなもん、もっと大事なもんがあるからに決まっている。ヒーローになること。その為に強くなること。俺にとってはそれが最も大事なことだ。それを揺るがすものなんて無い。無いはずだった。それなのに。
俺は飯田のその問いかけに、俺はなぜか返事をすることが出来ず、そんな俺に何かを感じ取ったのか、飯田もそれ以上彼女について何かを尋ねてくることはなかった。







「轟くん、今日は一緒に帰れる?」

図書館でこいつや緑谷たちと宿題をしたあの日から、俺はどうにもおかしい。

「……あぁ」

以前はどうやってこいつの誘いを断るか、誤魔化すか、その二択だったのに。飯田と自販機の前で話をしたあの時から、どうも調子がおかしい。
もしもここで、俺がこいつの申し出を断ったら、みょうじは誰と帰るのだろうか。たまたま一人でいるこいつを見かけた俺以外の男が帰ろうと誘えば、並んで帰ったりするのだろうか。それを想像するだけで、なぜか腹の底からふつふつと得体の知れない感情が湧いてきて、そんなことを考えている自分にイライラした。

「それで、その時プレゼントマイクが急に叫び出すから、ビックリしちゃってね」

帰り道と言っても寮までなので、ほんのわずかな時間なのだが、その道中の彼女は特に大した反応もしない俺の隣で、とても楽しそうに歩いている。今さらなことだが、こいつは一体、俺の何が良いのだろうか。

「なぁ」
「どうかした?」
「お前、は」

俺のどこが、好きなんだ。




「あ、緑谷くんだ。おーい!」

口にしようとしたその言葉は、俺のよく知る人物の出現によって阻まれた。忘れ物でもしたのか、ちょうど俺たちが向かっている方向から、先程足早に教室を出て行った緑谷が走ってきたのだ。

「二人とも、今帰り?」
「あぁ。お前は学校戻んのか?」
「うん、今日英語のノート提出だったでしょ?僕忘れちゃったから今ダッシュで取りに戻ってて。これからまた職員室に行かないとなんだ」
「そうなんだ。それはお疲れ様だね〜」

あの日からみょうじと緑谷はすっかり打ち解けたようで、廊下などですれ違うと、こんな風に三人で話すことも増えた。あまり積極的に会話に入っていかない俺を余所に、二人はこうして笑って世間話をするのだが、しかしそれが回数を重ねるごとに、なぜか俺をイラつかせた。緑谷が他の奴と話をしている時は何も感じないのに、相手がみょうじというだけで、飯田と話をしたあの時と同じモヤモヤが、俺の胸の内にじわりと広がるのだ。こんなこと、今まで一度もなかったのに。

「あ、そうだ。こないだ借りてた本、ちょうどいいから今返してもいいかな?」
「本?」

自分の知らないその話に、俺は思わず横から口を挟んだ。俺が一言そう尋ねると、彼女は鞄から一冊の本を取り出して俺に見せた。その装丁には見覚えがあり、以前俺も緑谷から同じ本を借りたことがあったものだ。

「この間、緑谷くんに貸してもらって、ちょうど読み終わったから今返そうかなって思ったんだけど、荷物になっちゃうから、別の日の方がいいかな?」
「大丈夫だよ、大した重さじゃないし」
「そう?じゃあ、これ。ありがとう!」

面白かったよ、と言いながら笑顔で緑谷に本の入った袋を渡すみょうじ。それを笑顔で受け取る緑谷。そんな二人を見た瞬間、俺の中で何かが切れたような音がした。なんだそれ。何でいつの間にそんなことになってんだよ。

お前が好きなのって、俺じゃねぇのかよ。




「もう、行っていいか」

知らぬ間に口に出ていたその言葉に、二人は困惑した顔で俺を見ていたが、イライラする気持ちが抑えきれず、二人を置いて俺は寮に向かって逃げるように足を進めた。






「轟くん、待って!轟くんってば!!」

「……なんだよ」
「なんだよって、どうしたの?急に怖い顔して歩き出しちゃうから……」
「なんだっていいだろ、別に」
「良くないよ!私、何かしちゃった?嫌な思いさせた……?」

不安そうに俺を見上げる彼女に、さらにイライラが募った。緑谷には、あんな笑顔で話すのに。

「なんなんだよ」
「え?」
「お前、鬱陶しい」

あぁ、イライラする。なんなんだよ。お前も、俺も。

「お前、モテるんだってな。だったらこんな愛想ねぇ奴じゃ無くて、お前のこと好きだって言ってくれる、もっと優しい奴と付き合えばいいだろ」

例えばそう、緑谷みたいな奴とか。

「なに、急に」
「俺はな、ヒーローになるためにここに来たんだよ。それを毎日毎日引っ掻き回しに来やがって。迷惑なんだよ」




一通り感情に任せてぶつけたそれを聞いたみょうじは、少しの時間沈黙して口を開いた。

「そんなふうに、嫌な思いさせちゃうなら、それは友達としてもダメだね」

俯きながらそう言う彼女に、首筋を嫌な汗が伝う。

「友達になって、いつか、私の事好きになってくれたらいいなぁ、なんて、思ってた、けど」

無理をしているのが痛いくらいわかる、涙の交じった笑顔で、彼女はそう言った。その顔を見て、俺は察してしまった。自分の言った言葉が、どれだけこいつに刺さったのかを。

「い、や、その、」
「好きな人に、迷惑かけるのは嫌だから、もうやめる」

何か。何か言わないと。そう思ったのに、何も出てこなくて。




「ごめんね。もう、会いに行かないから」

俯きがちにそう言った彼女は、俺に背中を向けて、そのままゆっくりと歩き出した。彼女の姿が見えなくなった後も、俺はしばらくそこを動くことは出来なくて、ようやく寮に向かって歩き出した頃には、すっかり空は暗くなっていた。皆で飯を食っている時も、風呂に入っている時も、部屋の明かりを消しても、俺の頭の中にはずっと、最後に見たあの顔があった。言いたいことを言ったはずなのに、少しもすっきりしない胸の内は、まるで鉛を吊るされたように、とても重くて痛かった。







「なぁ轟、最近あの子来てなくね?」

上鳴がわざわざ俺の席に来て、どうしたんだろうなぁ、と不思議そうにつぶやく。宣言通り、毎日必ず放課後になると来ていたあいつは、俺の元にやって来なくなった。

「……どうでも良くなったんじゃねぇか」

相澤先生のHRが終わり、鞄を下げて教室を出る。こっちが普通だったんだ。ひと月半前は。あいつが来ていたことが、普通じゃなかった。それなのに。

「轟くん、ちょっと待って」

心配そうに駆け寄ってくるその真っ直ぐな目と視線が重なり、こいつに何をしたわけでもないのに、どこか後ろめたい気持ちになった。

「……緑谷」
「あのさ、やっぱりあの後何かあった?みょうじさんと」
「いや、別に。何もねぇ」
「何もないのに、毎日来ていた子が急に来なくなったりする?」
「どうせ俺は応えるつもりはなかったし、そもそもあいつには、俺みたいな奴は似合わねぇと思う」
「じゃあ、どんな人なら似合うと思うの?」
「お前みたいな奴、とか」
「轟くん、もしかしてそれ言ったの?みょうじさんに」

俺が答えないことを、肯定と捉えた緑谷は、少し躊躇いつつも、何か言いたげに俺の方をチラチラと見ていた。

「なんだ」
「あ、いや、その、前に図書室でさ、四人で勉強したでしょ?」
「あぁ」
「あの時、轟君と飯田君が二人が自販機に行ってる間さ、みょうじさん、ずっと轟くんのこと話してたんだ。初めて帰った時に、好きな食べ物教えてくれたとか、質問し返してくれたとか。そんな些細なことを、すごく幸せそうに話してて」

あいつが話していたというその内容は、俺の記憶にも残っていた。上鳴達の野次がうるさくて、初めて渋々みょうじと帰った日、まず聞かれたのが好きな食べ物だった。蕎麦が好きだと言うと、吹き出すように笑って、おじいちゃんみたいだね、と言われたので少しムカついて、そういうお前はどうなんだと聞き返した。
売り言葉に買い言葉。なんの実りもない、ただの雑談だ。

「あいつは、いつもそんな感じだろ」

こんな愛想もない奴の側で、底抜けに幸せそうに笑っていられる、そんな奇特な人種なのだ。

「この間みょうじさんに返してもらった本、轟君にも前貸したやつなんだけど、覚えてる?」
「覚えてる。結構面白かった」
「だよね。確か轟君がそう言ってたなと思って、この間みたいに帰りに偶然会った時に、僕がその話を彼女にしたんだ。みょうじさん、普段はそんなに本は読まないらしいんだけど、その話をしたら、良かったら貸してくれないかって言うから、それであの本貸したんだよね」
「そんなの単純に、それが読みたかっただけだろ」
「本当にそう思ってる?」
「お前は結局、何が言いてぇんだ」
「あの子が好きなのは、轟君だよ」

わかってる。だってそうじゃなきゃ、あんな顔をする訳がない。
本のことだってそうだ。単純に読みたかったとか、そんなんじゃねぇって、ちゃんとわかってる。あいつが俺に向けていた笑顔が、他の奴に向けるそれとは違うって、思い返せば、ちゃんと分かることだったのに。

「あの子が轟君を大好きなのは言うまでもないけど、君も大概だよね」
「何が」

緑谷はやれやれ、とでも言いたげな様子でため息をひとつ吐いた。




「だって轟君、僕なんかに嫉妬しちゃうんだもん」

その言葉がストン、と胸に落ちる。嫉妬していたと、そう言われて、呆気ないくらい腑に落ちた。あのモヤモヤも、イライラも、全部そこに繋がっていた。あぁなんだ。そういうことか。答えはこんなにもシンプルで、俺はとんでもない馬鹿だった。俺の名前を呼ぶその声を、幸せそうに笑うその顔を思い出して、その心を決めた。ヒーローとしての俺とは違う自分が、今すべきこと。したいこと。

「緑谷。話途中で悪いんだが」
「うん。行ってきなよ」
「あぁ」

まだ教室にいるだろうか。もう俺のことは嫌いになってしまっただろうか。そんなことを思いながら、無機質な床を蹴り上げた。







俺が普通科の教室に全力ダッシュする日が来るなんて、思ってもみなかった。いつも来るのはあいつの方で、俺があいつのところに行くことなんてなかった。これからもそうだと、ずっとそう思っていたのに。
それなのに今は、一刻も早くそこへ辿り着くことしか頭にない。早く。早く。会わないと。俺なんかを愚直に追いかけるその想いに、今度こそちゃんと応えるために。




なんで無駄にでかいんだ。この学校は。

そう思ってしまうくらいに、駆け抜ける廊下が長く感じる。一直線に廊下を進み、角を曲がると、偶然にも目指していたその教室から、よく知る顔がちょうど出てくるところが見えた。
教室を出て、俺が来た方向とは逆に進もうとするみょうじの腕を掴むと、急に腕を掴まれた彼女は、小さく声を上げて勢いよく振り返り、俺の顔を見て固まった。

「びっくり、した」
「悪ぃ」
「……え、と、どうかした?」

混乱した様子でそう尋ねる彼女に、心臓の鼓動が加速する。ここに辿り着くことに必死で気づいていなかったが、どうやら俺は今、ひどく緊張しているらしい。




「会いに、来た」
「え?」
「もう来ないって言われたけど、俺が会いたくなったから、会いに来た」
「は?え!?」

何が何だかわからないという表情で、みょうじは俺のことを見た。まぁそうなるのも無理もない。ついこの間、自分に鬱陶しいと言い放った奴が、今度は真逆のことを言い出したのだから。

「この間は、悪かった」
「あ、うん……大丈夫だよ。気にしてないから」
「それはつまり、もう俺のことは好きじゃないってことか?」

随分と小賢しいその聞き方に、みょうじは俺から視線を逸らして、躊躇いながらも口を開いた。

「そんな簡単に、嫌いになれないよ」
「そうか。それならいいよな」

その顔、その声、その全部を、手に入れたい。掴んでいた腕を自分の方へ引き寄せると、あまりに軽いその身体に驚いた。毎日のように会っていたのに、そんなことすら知らなかった俺は、本当に何もわかっていない大馬鹿野郎だった。




「好きだ」

好きだ。好きなんだ。もうどうしようもないくらい。自分を救ってくれた友達に、嫉妬してしまうほどに。いきなり俺に抱き寄せられたみょうじは、言葉にならない声をいくつか上げて、凍りついたように俺の腕の中で固まっている。

「と、轟くん。ここ、廊下で……」
「嫌か?」
「そうじゃない、けど……その、周りの人の、視線が」

そう言われて初めて、周りの連中がザワつくその声に気づいた。そして俺の目には、ある一人の男子生徒が目に留まった。ひどく取り乱した様子の、名前も知らないその男を見て、俺は咄嗟に抱きしめる腕の力を強めた。俺が勝手にそう感じ取っただけで、たまたま居合わせただけの奴かもしれないのに。自分の嫉妬深さと余裕のなさに内心呆れながらも、それ抑えることは出来なくて。

「いいだろ別に。付き合うんだし」
「は!?」

彼女の高い声が、放課後の廊下に響き渡った。勢いよく上げられた顔は、さっきよりもさらに赤く染まり、何とも言い難い気持ちになる。困らせたくないのに、だけどもっと困らせてみたいような。

「嬉しくないのか?」
「あ、いや、嬉しいけど……すごく、急だったから」
「じゃあ付き合うってことでいいよな」

俺の言葉に、黙って小さく頷く彼女をもう一度抱きしめると、みょうじの細い肩が軽く震えた。まるで小動物のようなその様子に思わず笑うと、彼女は消え入りそうな声で、笑わないで、と俺の肩に額を当てた。




「ところで、ひとつお前に言っておきたいことがあるんだが」
「え、なに?」

くぐもったような声で尋ねるみょうじの頭を撫でると、ほのかに髪から石鹸のような香りがした。一瞬そこに意識を持って行かれそうになったが、今後のために、これは絶対言っておかなければいけない。俺の心の均衡のために、これはマストなことなのだ。

「その、あんまり緑谷と、仲良くしないでくれ」

俺がそう言うと、彼女はゆっくりと顔を上げた。顔の赤みはまだ残っているものの、きょとんとした顔で瞬きを数回繰り返すと、吹き出したように笑ってみせる。初めて二人で並んで帰った、あの日のように。その顔をもっと近くで見てみたくて、ぐっと顔を近づけてみると、みょうじは再び真っ赤になってから、ぎゅっと目を瞑った。さすがにそんなつもりはなかったのだが。

本人がその気なら、仕方ない、よな。

俺はそう自分に言い訳をして、硬く結ばれたその唇に、自分のそれを押し付けた。


−−−−−−−−−−

自分を好きだという女の子を、ちょっと気になり始めちゃった話。
自覚したら彼はもうやばいと思います。いろんな意味で。

2020.10.7(2021.08.20修正)

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