もう子供じゃない


「みょうじって、付き合ってる奴いんの?」

HRを終え、帰り支度をしていると、クラスの男子が少し気まずそうな顔で私にそう尋ねてきた。

「いないけど...何で?」
「いや...その、もし良かったら、連絡先とか教えてくんねーかなって...」
「ごめん、私そういうの興味ないから」
「...気持ちいいくらいバッサリと断るなぁ」
「褒め言葉として受け取っとく」

私がそう言うと、その男子は苦笑いを浮かべながら、じゃあまた明日な、と言った。







恋愛に興味がないわけじゃない。むしろ興味はある方だと思う。ただそれは、漠然と誰かと付き合いたいとか、デートがしたいとか、そういう意味ではない。
側にいて欲しいと思う相手は、もうずっと前から決まっている。

「エスプレッソ1つで」

学校から歩いて20分程度の場所にある、女子大生に人気のオープンカフェ。放課後はよくここに来る。でもそれは、お店が好きだからじゃない。ここにいれば、もしかしたら会えるかもしれない。そんな淡い期待から、つい足を運んでしまうのだ。

「エスプレッソ、お待たせしました」

運ばれてきた小さなカップを手に取ろうとしたが、それは叶わなかった。目の前にあったはずのカップは、突如私の視界から消えた。




「最近の女子高生って、こんなの飲んでるんですか?」

私が飲もうとしたカップをテーブルに戻すと、最近の子はすごいですねぇ、と彼はおどけてみせた。今まで何度も耳にしてきたその声に、飽きもせず、今日もまた心を揺さぶられてしまう。この人に会えるかもしれない。そんな期待が、今日は現実のものになった。

「全く...子供はまっすぐお家に帰らなきゃだめでしょう?」

彼の口から出た、"子供"という表現に胸がずきん、と痛む。

「啓悟くん、私もう来年18なんだけど」
「でもまだ未成年でしょ?」
「そうやっていつまでも子供扱いしないでって、いつも言ってるでしょ」
「これは失礼。素敵なレディを怒らせるつもりはなかったんですけどね」

そう言いながら肩を竦める彼は、幼い頃からよく知る人だ。彼は既に家を出ているが、彼の実家と私の家が近所で、母親同士の交流をきっかけに、子供である私達も知り合いになった。小学生の頃はよく勉強を教えてもらったりしたけれど、彼がヒーローとなり、実家を離れてからは、こうして街中で偶然を装って会うことしか出来なくなった。今や誰もが知っているプロヒーロー、ホークス。5つ年上のこの人に、私はずっと恋をしている。

「大人って、思ってもないこと平気で言うよね」
「うわぁ...いつからこんな捻くれた子になったんですか。...まぁ否定はしないよ。大人はみんな、本音と建前で生きてる」
「啓悟くんもそうなの?」
「そりゃあ、俺も大人ですから。一応、ね」

いつもの笑顔を浮かべながら、"一応"という部分を強調して、彼はそう言った。

「ふーん...」
「まぁ俺が大人らしい大人かは、自分でもちょっと疑問だけどね。ところで、こんなところでひとりでお茶なんかしてないで、彼氏とデートとかしたら?制服デートとか、若者の特権でしょ?」
「彼氏なんていないもん」
「いい人、いないんですか?」

優しくも刺のある彼の言葉は、私をいつもこうして突き放す。私があなたを好きなこと、知っているくせに。知っていてそんなことを言うなんて、なんてずるい人なんだ。それでも私が諦められないってわかってて、こうして話しかけてくるところもずるい。大人はずるい生き物だ。

「いないよ」
「早く作るといい」
「どうして」
「大人になると、好きとかそういう類のものは、どんどん下手くそになっていくから」
「大人なのに?」
「大人だから、です」

そう言う彼の目は、どこかずっと遠くを見ている。私はこの目が嫌いだ。私には見えない、行けない場所を、まるで愛おしむように見ている彼のこの目が嫌いだ。私はあなたに追いつけないと、神様にそうに言われているようで、どうしようもなく苦しくなる。

「さて、俺はそろそろ行きますけど、ちゃんと家に帰るんですよ?」
「飲み終わったらちゃんと帰るよ」
「約束ですよ?ちゃんと大通りを歩いて帰ってくださいね」
「まだそんなに暗くないのに?」
「ダメですよ。心配ですから」
「...それは、ヒーローとして言ってるの?」

それとも、啓悟くん自身がそう言っているの?

「もちろん、ヒーローとして、ですよ」

笑って彼はそう言った。私が聞いたその問いの意味を、きっと彼は正しく理解している。期待するな、俺はお前を好きにはならない。彼は笑顔でそう言っているのだ。

「いいですね?なまえ。約束、守ってくださいよ」

その背に生えた翼をはためかせて、彼は飛び立っていく。あっという間に、遠い空の上へ。この不毛な恋はいつ終わらせられるのだろうか。空はこんなに青くて澄んでいるのに、私の心は雲に覆われているようだ。出口の見えないこの想いの行先は、分厚い雲で隠れて何も見えない。




『おおきくなったら、けいごくんとけっこんするの!』

それは子供の頃の口癖だった。人を好きになる苦しさを知る前の、まだ真っ白だった頃の私。幼い日の私は、いつか彼のお嫁さんになれると信じて疑わなかった。
自分自身が抱いている感情が、親愛から恋慕に変わったのはいつのことだったのか、それはもう思い出せない。幼い頃は周りの大人が呆れるほどにいつも一緒で、私は彼が好きで、彼も同じように私を大切に思ってくれていると思っていた。でも、そんなものは、ただの幻想だった。

小学校4年生の夏休み。啓悟くんには同い年の彼女が出来た。悲しくて、悔しくて、でも子供だった私には、それを抱えていることは出来なくて、ただ癇癪を起こして泣くことしかできなかった。啓悟くんは変わらず私に会いに来てくれたし、勉強も教えてくれたけど、それが逆に私には辛かった。彼女が居ても変わらないその態度に、彼にとっての私は、ただの幼なじみで、"女の子"ではことを、痛いほどに思い知らされたからだ。

それからは、無駄に背伸びを繰り返す日々だった。話し方や服装、食べ物に至るまで、同級生の間で流行るものには目もくれず、彼と同い年の女の子が読むような雑誌を、何冊も買った。大好きなココアを飲むのをやめて、ブラックコーヒーを飲むようになった。
早く大人になりたくて、必死だった。周りの友達は、私のことを大人っぽいとか、クールな子と言うようになった。でもそれは元々そうだったわけじゃない。振り向いてくれないとわかっているのに、それでも彼を諦めることができなかった私が、必死に足掻いた結果だった。
そんなことをしても、彼との歳の差が埋まるわけはないと、分かっているのに。




「すみません、お会計お願いします」

店員さんにお金を払って店を出る頃、頭上はまだ明るいものの、東の空には少し夜の気配があった。

もう18時か...。

思っていたより遅くなってしまった。啓悟くんはああ言っていたが、少し近道して帰ろう。いつも通っている道だし、そんなに神経質にならなくていいだろう。
"約束ですよ"と言った啓悟くんの顔が脳裏に浮かび、少し迷ったものの、私は大通りを一度曲がって少し細い路地に入った。啓悟くんがあんなことを言うものだから、何だか気になって辺りを見るが、これといっていつもと変わったところは見当たらない。

やっぱり、心配する必要なんて無かったじゃない。

小さく溜息をつき、そのまま細い路地を進んだ。いつものように左に曲がろうとした。しかし私の足はそれ以上前に進まなかった。

「ん...っ!?」

左に曲がろうとたその時、背後から何かを嗅がされる。

「しー、ちょっと眠ってて下さいね」

背後から聞いたことの無い男の声がする。逃げなきゃ。脳は必死にそう警告しているのに、身体は言うことを聞いてはくれず、私はそのまま意識を手放した。







「ん...」

目が覚めると、そこには見慣れない天井があった。起き上がると、自分がソファで寝かされていたことを知る。部屋の中は薄暗く、埃をかぶった物が床のあちこちに散乱していて、打ちっぱなしのコンクリートの壁が寒々しい。身体を起こすと、先程嗅がされた薬のせいだろうか。頭がぼーっとする。持ち物は全て取られてしまったようで、一体どのくらい時間が経ったのか、ここは何処なのかを知ることは出来ない。
どうにかして、ここから逃げなければ。そう思って辺りを見回していると、規則的な足音が微かに聞こえ、少しずつこちらに近づいてきているのがわかった。私は反射的にまた横になり、眠ったフリをした。すると、部屋のドアの方から、ガチャ、という音が聞こえる。

「まだ眠っているみたいですね」

敬語でそう話す声は、おそらく路地で私に薬を嗅がせた男の声だ。声色から察するに、そこそこ若い男のようだ。

「そうだな。でも手荒なことはするなよ」

若い男が話しかけると、もう一人の男の話し声も聞こえた。こちらは少し太い声で、敬語で話しているところから察するに、こいつが首謀者なのだろう。

「ホークスと繋がりのあるガキだからな。奴との交渉に必要だ」

首謀者らしき男の言葉に、背筋が凍りついた。
何てことだ。私は餌にされているのだ。啓悟くん、いや違う。ヒーローのホークスを誘うための餌なのだ。
必死に眠ったフリをしながら、自分にできることを考えるが、いくら考えてもそんなものは見つからない。個性は持っていても、この場を逃れられるようなものじゃないし、ただの高校生である私が彼らをどうにか出来るわけはない。啓悟くんの言う通り、ちゃんと大通りを歩いて帰れば良かった。こんな形であの人の足手まといになってしまうなんて、最悪だ。

「っく...」

どうしてこんなに何も出来ないんだろう。どうして私はもっと早く生まれてこれなかったんだろう。もしも私がもっと大人だったなら。彼と並べるだけの強い個性を持っていたら。こんな薄暗い部屋で惨めに泣くことなんてなかったのだろうか。
彼に追いつきたいからと、必死に続けた背伸びなんて、何の役にも立ちはしない。




「いつから起きていたんだ」

低く響くその声に、一気に体が冷たくなる。泣いてしまったせいで気づかれた。
考えるより身体は先に動き、彼らに近づかれてはいけないと、本能がそう言っていた。勢いよく飛び起きて走り出すが、その甲斐も虚しく、すぐに壁際に追い詰められた。

怖い。助けて。助けてよ、啓悟くん。

「来な、いで...」
「そんな怖がらなくても、痛いことなんてしませんよ」

ちょっとまた眠ってもらうだけですから、と若い男がそう言いながら、その手が私に触れそうになった、その瞬間だった。
急に大きな音が鳴り響き、その音の大きさに驚き目を必死につぶった。音が鳴り止み、恐る恐る目を開ける。




「これだから、20位くらいがちょうどいいんですよ」

なまじ有名になってしまうと、こういうことが起こるんで。
そう口にしたのは、先ほどの男ではなく、さっき心の中でその名を呼んだヒーローだった。先ほどまで私に手を伸ばそうとしていた若い男は、部屋の壁にめり込んでいる。

「...け、」
「よしよし、怖かったですね。あとは俺に任せなさい」
「ひっ、ほ、ホークス...!」
「どうも。俺はあなた方に個人的な恨みとかないですけど」

そう言いながら、残ったもう一人の男に、いつもの笑顔で近づいていく。残された男は青ざめた顔で、彼から視線を逸らすことすら出来ずにいる。

「でも、泣かされちゃうと困るんですよ。俺がずっと大事にしてきたんでね」

彼は動き出していた。先ほどまでそこで喋っていた彼は幻だったのか。彼のさっきの言葉は、私の都合のいい幻聴だったのだろうか。最速の男が、今何をしているか、目の前にいるはずなのに、何も見えない。
5秒経ったかどうか。そのくらいの僅かな時が流れ、ずしん、という鈍い音が鳴り、部屋の床には先ほどまでは意識のあった、もう一人の男が倒れていた。

「終わりました。もう大丈夫ですよ」

もう大丈夫。その言葉にその場にしゃがみ込んだ。

「ったく...だから大通りを帰れと言ったでしょう」
「...ごめ...なさ...」

私が言葉を必死に絞り出すと、彼は困ったような顔を見せ、そのまま私を抱きしめた。

「...路地の防犯カメラの映像を見たときは、さすがに寿命が縮まりましたよ」
「う...わぁぁぁっ...!」

抱きしめたまま、私の髪を優しく撫でる彼にしがみついて、私は子供のように声を上げて泣く。こんなふうに泣いたのは、啓悟くんに彼女が出来たことを知った、あの時以来だ。

「怖かったですね」
「...ひっく、う、ん...っ」
「もう悪い人はいませんから」
「う、ん...うん...」

啓悟くんは、言葉にならない声をあげて泣く私の背中を、何度も何度も優しく叩く。小さな子供をあやすように。

「...さっ、き...の...」
「はい?」
「だい、じに、してきたって、っく、ど...いう意味...?」
「あ、それ聞いちゃいます?」
「ひっく...うん」
「この状況だし、聞こえてもどうせ覚えてないだろうってタカを括ってたんですけどね...」

そう言いながら、彼は困った顔で頭を掻いた。

「もう何年前かな...あれ、8年前くらいか。覚えてます?俺に彼女が初めてできたの」

忘れる訳が無い。今日が来るまで、あんなに泣いた日はなかったのだから。

「...覚えてる」
「でも結局2ヶ月くらいで別れちゃいまして」
「...知ってる。むこうに好きな人が出来ちゃったって、お母さん達が言ってた」
「それ、嘘です」

彼はそう言いながら、またいつものように掴み所のない笑顔を見せた。

「フラれたのは俺です。でも理由は違う。俺、なんて言われたと思います?」
「...わかんない」
「なまえを..."他の女の子を一番大事に思っている人となんか付き合えない"、だそうです」

その言葉に驚いて声が出せない私を置き去りにして、啓悟くんはそのまま話し続けた。

「その後に、こうも言われました。"あの子がずっと子供のまま、変わらないと思ったら大間違いだ"って。まぁでも正直、馬鹿馬鹿しいって思いましたよ。当時、なまえはまだ小学生でしたし。...けど、彼女の言う通りでした。馬鹿だったのは俺の方でした」

彼はもう一度、私の髪を優しく撫でた。
どうしてそんなことを言うんだろう。そんなの、まるで啓悟くんはずっと私のことを好きだったみたいな言い方じゃない。
ずっとずっと啓悟くんが好きだった。幼い頃のあの口癖は、今もずっと変わらない私の夢だ。だけどそれを彼に伝えたことはないし、彼が私をどう思っているかを聞いたことはない。怖かった。それを伝えて、それを聞いて、もしも完璧に突き放されてしまったら。それが怖くで出来なかった。
けれど今の私は、その恐怖以上に知りたいと思ってしまった。さっきの、そして今の、彼の言葉の意味を。

「啓悟、くん...私、のこと、どう思ってるの...?」

少しの沈黙の後、深いため息が聞こえる。その瞬間、私は彼にそれを聞いてしまったことを、とても後悔した。じわじわと恐怖が心を支配していく。今突き放されてしまったら、今度こそきっと立ち直れない。そう思って祈るように目をつぶると、私の背中を優しく叩いていた彼の手が、今度は強く私を抱きしめてきた。

「"もう子供じゃない"んでしょう?だったら察して下さいよ」

そう言いながら、彼は更に腕の力を強めた。そんなことをされたら、子供は単純だから期待してしまうんだけど。

「...子供だもん」
「こんな時だけ、ずるい子ですね。大人顔負けです」
「期待...しても、いい...?」
「...いいですよ」
「子供だけど、いいの...?」

私がそう言うと、彼は私の頬に触れて、困ったように笑った。




「もう子供に見えんで、困っとーばい」


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ホークスさんを初めて書きました。
軽薄そうに見えてめっちゃ一途な人っていいなぁという妄想の産物です。

2020.11.07

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