さらば楽園


夜はひと匙のジャムが添えられた一杯の紅茶を飲む。これが私の日課だ。カップに注がれる紅茶の湯気を眺めていると、紅茶を注ぐ初老の執事の鼻がほんのわずかに赤く染まっていることに気がついた。

「外は寒いのですか?」
「えぇ...もうすっかり冬ですからね...なぜお分かりになったのですか?」
「あなたの鼻が少し赤いので。寒くなると、毛細血管が拡張してそのようになると、以前本に書いてありました」
「...相変わらず、博識でいらっしゃいますね」
「他にすることがないものですから」

私の言葉に、執事は少し困ったような顔を見せた。紅茶の湯気のむこうには、高く巨大な書架が見える。その壁面だけでなく、ぐるっと一周。この場所は、出入り口を除いた壁面のほぼ全てが書架になっている。ここは世界のありとあらゆる知識が集う巨大な書庫。そして誰も立ち入れない、私だけの楽園だ。
この世に生まれてからずっと、ずっと。どこまでも続く書架と、窓から見える景色。それが私の世界の全てだった。







今日は悲しいくらいに月が綺麗な夜だ。
誰もが眠りにつくであろう時間に部屋を抜け出して、閉ざされた世界のほんの少しのスリルを味わう。部屋の扉を開けても、そこには同じような風景が広がっている。幼い頃はよく迷子になったものだけど、いつしか何も考えずとも、どこにどんな本があるのかがわかるようになった。左右対象にそびえる二つの螺旋階段のうち、左側の階段を駆け上がる。別に急ぐ必要などないけれど、こうでもしないと身体が鈍ってしまうので、これも日課の一つとしているのだ。

「あれ...?」

目的の場所にはすぐに辿り着いたものの、そこに感じた違和感に思わず声をあげた。部屋の扉が少しだけ開いているのだ。誰かが掃除の時に閉め忘れたのだろうか。それとも。
扉を閉め忘れることなんて、誰にでもあることだ。それなのに、なぜか気になった。私の中に今まで感じたことのない、怖いような、わくわくするような、そんな不思議な気持ちが湧き上がってくる。
恐る恐る、少し開いた扉を押して中に入る。辺りを見回しても、ただおびただしい数の本が書架に収められているだけ。なんだ、やっぱりただの閉め忘れか。ほんの少しの期待が打ち砕かれて、肩を落としながら、今日読む本を探しに奥へと進む。そして、ふと視界に入ったとある書架に、私の鼓動はさらに高鳴った。本の配置が違うのだ。
それはまだ記憶に新しい、今朝の出来事だ。この西側の部屋で最後に読んだ本は、間違いなくこの壁の書架の三段目の右端に入れた。ところが今、規則正しく並べられた本の上に、その本だけが無造作に開かれたままで置かれていた。

気のせいじゃない。誰かいた。ここに。

思わずその本を手に取り、開かれているページを読む。これまで何度も手にしたことのあるその本を、何故か今この瞬間、生まれて初めて触れたかのような、そんな不思議な錯覚に陥った。

「へぇ、本当にいたんだな」

記憶の中に存在しない、男の声。それは穏やかに微笑む執事の声でもなければ、私を置き去りにしてどこかへ行ってしまった父の声でもない。
思わず振り向き、暗い部屋の奥に目を凝らすと、見知らぬ男がソファに座っていた。月明かりが照らす男の身体は、焼け焦げたように変色した皮膚がまるでつぎはぎのようになっていて、人間なのかどうかを疑ってしまうほどの不気味な形相をしている。彼はそのつぎはぎのような口元に笑みを浮かべていて、それがさらに不気味さを増長させた。

「どーも」
「...どちら様ですか?」
「どちら様だと思う?」
「少なくとも、いい人には見えません」
「だろうなぁ...俺もそう思うよ。でも、あんたも大概イカれてんな」

お世辞にも紳士的な見た目ではないが、どうやら中身も見た目通りの人物らしい。

「なぜですか?」
「普通知らない男が家ん中にいたら、悲鳴の一つもあげるだろ。でもあんたは動じないし、それどころか、今この瞬間を少し楽しんでいる節さえある」

楽しそうに語りながら、彼はソファから立ち上がり、私の方へと近づいてくる。依然として不気味ではあるが、不思議と恐怖はない。彼が私の肩を掴んで自分の方へと引き寄せると、その不気味な容姿に不釣り合いなほど、美しい紺碧の双眸に映る自分の姿が見えた。

「毎日退屈で死にそうですってツラだな」
「...そうですね。それは認めます」
「もっとか弱いお姫様なのかと思ってたんだけどなぁ」
「ご期待に添えず、すみません」
「いや、俺としては結構いい誤算だった。ぴーぴーうるせぇ女は殺したくなっちゃうから」

彼は笑いながらそう言っているが、それが冗談でないことはすぐにわかった。おそらくこの言葉遊びも、何かひとつでも間違えれば最期、私は殺されるのだろう。

「質問してもいいですか?」
「するだけならご自由に」
「ここに来た理由はなんでしょうか?」

私がそう尋ねると、彼はそうだな、と少し考えるような素振りを見せた。

「最初はただの暇つぶし」
「最初、"は"?」
「知ってたか?あんたの話、ここら辺じゃ都市伝説になってるんだぜ?」
「確かめようがないですから、そうなるでしょうね。ここは立ち入り禁止ですし。確かそれなりの数の見張りもいると聞いていますが」
「あぁ。確かにいたことはいたな。もういねぇけど」
「やっぱり、いい人ではなさそうですね」
「そんで暇つぶしに入って来てみたら、本当にいたわけよ。あんたが。で、話してみたら結構面白そうな奴だったから、さてこれからどうしようかなっていうのが、今。ご理解いただけたか?お姫様」
「はい。よくわかりました」

それからしばらくの間、私は彼と話をした。そしてわかったことは三つ。
一つ目は、彼が荼毘という名前であるということ。
二つ目は、この世界にはヒーローが実在していて、彼はヒーローとは敵対関係にあるということ。
三つ目は、もはや再確認だが、この男は危険だということ。ここから外へ出たことの無い私が、本で読んだあらゆるモラルや常識に関する知識を総合した上で考えると、いわゆる異常者の類に入る人種だろう。外見も正気の沙汰ではないが、内面はおそらく更に狂気に満ちている。何かを壊すことに躊躇がなく、恐れもない。

「もう一つ質問してもいいですか?いえ、質問というより、お願いに近いかもしれません」
「気分がいいから、ひとまず聞いてやるよ」
「私を攫ってくれませんか?」

とんでもない人間と出会ってしまった。けれど同時に高揚感もあった。むしろ私にとっては、彼こそが救世主足り得る存在かもしれない。この退屈で閉ざされた世界を壊すことができる、"ヒーロー"になれる存在かもしれない。

「やっぱ、お前も大概イカれてんな」

とても嬉しそうな顔でそう言う彼は、やはり見込んだ通りの異常者だ。

「あなたを"とても悪い人"だと見込んで、お願いします」
「やだね」
「どうしてですか?」
「俺がお前に自由をくれてやったとして、俺にメリットあるか?」
「"一生壊れないおもちゃがあったらいいな"」
「あ?」
「そう思ったことはないですか?」

私がそう言うと、それまでずっと笑顔だった彼の表情がほんの一瞬だけ揺らいだ。少し驚いたような、期待をするような、そんな顔をする。私はそれを見逃さず、彼の返事を待たずに口を再び開いた。

「私はどんなに傷つけても、何度壊しても壊れません。私の噂を聞いたのでしょう?あれは真実です。都市伝説なんかじゃない」
「へぇ、そりゃあすげぇな」
「あなたの好きに私を使っていいです。私は私しか持っていない。だから私をあげます」
「そっちの方が、よっぽど地獄かもしれないぜ?」
「...そうですね。そうかもしれません」

幼い頃、誰かが私に言った。ここは楽園なのだと。私を傷つける人も、私を苦しめるものもない。そんな幸福はここにしかない。世界の全てがここにはあって、あなたはそれを唯一手にできる、選ばれた人間なのだと。

「でも私は、用意された幸福より、自分で選んだ不幸の方が、ずっと生きている実感が持てる気がします」
「ふーん」
「下らないと思いますか?」
「まぁ、俺の知ったこっちゃねぇな」

彼はそう言いながら、書架に無造作に置かれたあの本を手に取り、それを一瞬で燃やし尽くした。彼の手から突然現れたその炎は、彼の瞳と同じ色をしている。

「でも、お前のことは気に入った」

その言葉に私が反応する前に、気づけば彼の乾いた唇が、私の唇に触れていた。今まで感じたこともないほどに、自分の心臓が大きく動いている。心臓の音がする。私は生きている。久しぶりにそう思った。彼に私にしたその行為は、まさしく私が求めていた、生きる実感を与えてくれた。
ゆっくりと唇が離れると、彼は私の唇を舌でなぞり、満足げな表情を浮かべた。

「交渉成立だ。お前をここから攫ってやる」

荼毘がそう言うと、彼の両手から再び青白い炎が現れ、触れたその場所から、あっという間に炎が燃え広がる。荼毘は私の身体を抱き抱え、崩壊が始まるその場所から私を外へ連れ出した。初めて肌に触れた空気は冷たく、だけど信じられないほどに軽やかだ。私たちが少し離れた丘に降り立つと、青白い炎は更に勢いを増し、この場所を守る人々の叫び声が聴こえてくる。かつて楽園と誰かが言ったその場所は、瞬きをする間に崩れてゆく。

「案外呆気なく燃えちまったなぁ」

ポツリと呟く荼毘を横目で見ると、彼は感情のない目でその光景を見ていた。

「これからどこに行くんですか?」

そう尋ねる私に彼は振り返り、全てを焼き尽くしたその手で私の頬に触れた。そして再び、互いの唇が重なった。今度は触れるだけでなく、何度も何度も、息が途絶えそうになるほどの口づけをした。
ようやく唇が離れ、彼の目を見て、私は確信した。この決断を後悔する日が、必ずやってくる。しかし不思議と不安はない。むしろこれから何をしてくれるのか、彼に期待する自分がいるのだ。

「決まってんだろ。新しい"楽園"だよ」

不適に笑う彼の目は、悪魔のように狂気に満ちて、子供のように純粋だった。


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荼毘くん初書きでした。
ちょっとファンタジーっぽい世界観を意識しました。いつか続編書きたいです。

2021.01.07

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