細胞愛


夜。俺とこいつの他には誰もいない、寮の共有スペース。初めて会ったその日から、ずっと想いを寄せているその人物の白い指がその長い髪をすり抜けていく様を見て、ふと前から思っていた疑問を放つ。

「なぁ、それ面倒じゃねぇのか」

特に意味もなく聞いたその質問に、ドライヤーで髪を乾かすその手を止めて、目を丸くさせながら俺を見るその顔に思わず笑ってしまう。

「えっと...私は今何故笑われたのでしょうか...」
「悪ぃ。何かリスみてぇで」
「り、リス...?」
「あぁ」
「よく分かんないけど...あれ、何聞かれてたんだっけ?」
「髪」
「髪?」
「毎日乾かすの面倒じゃねぇのか」
「まぁ...面倒だね」
「じゃあ何で切らねぇんだ?みょうじ、前はそんな伸ばしてなかったよな」
「......それは...」
「何だ、言えねぇのか」

何故か顔を赤らめながら言い渋るみょうじに少しイラついて、つい強めの口調で尋ねると、困ったように眉尻を下げる。

「いや、その...大したことじゃないから...」
「大したことじゃねぇなら良いだろ」
「そ、それはそうなんだけど...!」
「じゃあ言えよ」

更に詰めるとみょうじは困った顔で俯きながら唸っている。言いたくなければ言わなくてもいい。他の奴にならそう言えるのに、こいつにだけそう言えないのは、先程見たあの赤い頬のせいだ。顔を赤くするその影に、俺の知らない誰かがいるんじゃねぇかと思うとその疑念を払拭したくて堪らない。何なら風呂上りの匂いとか、まだほとんど濡れたままの長い髪とか、どんな言い訳を並べたところで"そういう意味"しかないものが俺の中に渦巻いていることを、もういっそこのまま吐き出してしまいたくなる。
そんなことを考えながら、向かいのソファで唸っている奴に視線を向けたままでいると、横目で俺を見るみょうじの目と俺の視線がぶつかる。

「最初は伸ばしたというか、伸びちゃっただけなんだけど...」

俺がもう絶対に引かないと察したのか、みょうじは観念したように小さくため息ついて話し始めた。

「と」
「と?」
「...轟くん、が...夏休み明けに会ったときに、長いのいいんじゃねぇかと、言ったので...」

何だそれ、可愛い。

「...覚えてねぇ」
「でしょうね!!だから言いたくなかったんだよ...もう...」

先ほど見せた赤みとは比べ物にならないくらい、みょうじは顔を真っ赤にさせながら、それを誤魔化すかのように再びドライヤーのスイッチを入れる。一方俺はというと、払拭された疑念と共に、この願ったり叶ったりな展開をどうしようかと持て余している。

これはもういいよな。だってそういうことだろ。

立ち上がって、みょうじの座っている場所の隣に腰を下ろすと、彼女は何も言わずそのままドライヤーで髪を乾し続け、俺が近づくことを受け入れた。




「それやってみてぇ」
「え...これ?」

持っていたドライヤーを反対の手で指差しながら、俺に確認するみょうじの顔には不安の色が見える。俺にその作業を任せることが不安なのか、俺に触れられることが不安なのか。その顔はどっちだ。

「いい、けど...」
「ん」

俺が手を出すと、みょうじが今まで使っていたドライヤーを俺の手に置く。渡されたドライヤーのスイッチを入れ、反対の手でみょうじの髪に触れると少し身体を強張らせたが、無視してそのままドライヤーの熱風をあてる。風を送るたびに、俺の指の間からその長い髪がすり抜けていく。それが何故か妙に悔しくて、何度も何度も負けじと指で髪を掬い取る。

「なぁ」

自惚れてもいいだろうか。

「な、何?」
「俺のためか。伸ばしたの」
「違うよ...自分のため」

"俺のためか"。そう聞くと、みょうじは迷わず首を横に振り、そう言う。自分のためとはどういう意味なのだろう。予想と期待に反した答えに少し戸惑ったが、みょうじはさらに言葉を続けた。

「可愛いって、思って欲しかった。から...」
「...何でだ」

追い詰めている自覚はある。でもその口から、その声で、俺がそれを聞きたいのだ。誰に可愛いって思って欲しいんだ。何でそう思ってたんだ。その答えを、今すぐに知りたい。




「轟くんが、好き」

熱風の音にかき消されそうなくらいの小さな声で、でも確かにみょうじは言った。俺がずっと聞きたかった、伝えたかったその二文字を。
まだ髪が乾き切っていないのにドライヤーのスイッチを切ると、彼女は再び不安そうな顔で俺を見る。もう一度髪を掬い取り、自分の口元にそれを持っていくと、すぐ真上にある鼻から甘い香りが抜ける。この長い髪が、ひいてはその内側の、もう息をしていない細胞のひとつひとつでさえ、俺への気持ち故に存在していると思うと、愛しくて堪らない。

「聞こえてた...?」
「あぁ」
「そう、ですか...」

返事を促すことも、これからどうしたいかも言葉にすることは無く、みょうじはそのまま俯き、口を噤む。その表情は今にも壊れそうなほどの危うさを持ち、妙な色気がある。今どうしてそれが浮かんだのかはわからないが、普段訓練で見せる凛とした表情を思い出し、あのみょうじと今目の前にいるこいつが同一人物だということに驚く。
この表情を作り出しているのは俺だ。他の誰でもない、俺がこいつをそうさせているという、現実。こいつが俺を好きだという確信に、満たされていく俺の独占欲。だけど多分俺の方が、何倍も、何十倍も、何百倍もずっと深いところで、こいつを好きだ。それはわかっている。




「こっち、来い」

落ちて来い。俺と同じその深さまで。

俯いていた顔を上げ、俺の言葉を額面通りに受け取ったみょうじは、遠慮がちに俺の服を掴み、もたれかかるようにして俺の肩に自分の顔を埋める。俺とこいつとの間にまだわずかにある空間がもどかしくて、そのまま両腕で引き寄せると、さっきと同じ甘い匂いがする。俺の服を掴んでいたみょうじの手はゆっくりと俺の背中に回されて、その様子に、互いが同じ気持ちであることを改めて認識した。

「これで...正解なのか、わからないんだけど...」
「文句なしだ」
「そう、なんだ...あ、あの、轟くん」
「何だ」
「へ、返事というか...そういうのは...」
「俺言ってなかったか」
「言ってない、と思う...ごめん。ちょっとびっくりし過ぎで記憶飛んでるかもしれないけど...」
「悪ぃ。言ったつもりだった」

こいつを前にする度に、心の中では何度も何度もそれを言っていて。だからもう言った気になってしまっていたが、それはあくまで心の中であって、まだこいつの耳には届いていないのだ。
側にいたい。笑っていて欲しい。抱きしめたい。キスしたい。もっとそれ以上に深いところで繋がりたい。それら全部ひっくるめて、今ここで言おう。

「みょうじ、好きだ。初めて会った時からずっと...ずっと好きだった」

言葉にするとシンプルで、それはあっという間に空に消える。俺の背中にまわされた手に力がこめられて、それに応えるようにみょうじの髪を撫でると、安心したように俺の背を這うその手の力は抜けた。俺の言葉は今ちゃんとこいつに届いたんだ。

「だから俺と、付き合ってくれ」
「はい...」
「顔見ていいか」

抱きしめてしまったがために、そういえばこいつの顔をしばらく見ていなかったことを思い出した。

「...涙でぐしゃぐしゃだからダメ」
「見てぇ」

それに気づいてしまったら、もうそれを見たいという欲求は抑えきれなくて、半ば強引に顔をあげさせると、聞いていた通り目は赤く、頬には涙が伝った痕がほんのわずかに見える。泣かせてしまった罪悪感はあるものの、気持ちが通じ合った高揚感の方が大きい。わずかに残った涙の痕に沿うように頬を撫で、もう一度彼女の髪を撫でながら、そのまま唇を重ねる。抵抗することなくそれを受け入れた彼女に、調子に乗ってこのまま部屋に来ないかと言ったら軽く殴られた。

「なぁ、本当にダメか?」

真っ赤な顔をした彼女の髪はいつの間にか乾いていて、その髪に唇を落としながら俺がもう一度尋ねると、みょうじは消え入りそうな声で、俺が欲しいその言葉をくれた。


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好きな人に髪を乾かしてもらうというシュチュエーションを書きたかっただけ。

2020.10.18

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