彼氏の条件 瀬呂範太の場合


「また...やってしまった...」

三度目の正直とはよく言うけれど、二度あることは三度あるとも言う。プスプスと音を立てた目の前の真っ黒な塊を見て、本日三度目のため息をついた。







『女子の手料理が食いてぇ!!』

きっかけは、上鳴くんのその一言だった。

『まーたなんか言い出したよこいつは...』
『いやいやいや!!男の夢だろ!!料理出来る女子ってやっぱ良くね!?』
『んー、まぁそうね。確かに、手料理はポイント高いよな』
『っていうか、みょうじは器用だから普通に料理上手そうだよな』
『まぁ、あいつはなかなかの才女だからさ?大概のことはこなせますからねぇ』
『げ、何、惚気け始めちゃうの?やーめーてー!!』
『今度なんか作ってもらおうかね〜』
『くっそリア充爆発しろ!!』

共有スペースで、上鳴くんと、彼氏である瀬呂くんのそんな話をうっかり立ち聞きしてしまったがために、今私は人生最大の苦難に立ち向かう羽目になっている。
私は子供の頃からいわゆる"器用な子"だった。勉強もスポーツも、絵を描くのも、楽器を弾くのも、大抵それなりに上手く出来る人間だと言われてきたし、自分でもまぁそうだろうなと思っている。あるひとつを除いて。

「これ...食べれるかなぁ...いや無理でしょ...」

独りのノリツッコミが虚しく部屋に響く。
他のことは大抵器用にこなせてきた私だが、料理だけはどんなに頑張っても、きちんと出来た試しが一度たりともないのだ。料理が苦手、という可愛らしい表現に留まらず、私の料理下手は最早才能レベルと言っても過言ではなく、実家に暮らす両親からは、キッチンには絶対に立つなと言われる始末だ。だから出来る限りそうしてきたし、学校の調理実習などは下ごしらえに参加したり、片付けを率先してやることで乗り切っていた。
けれど彼氏である瀬呂くんから、もしも何か作ってくれないかと頼まれたら、断ってがっかりさせるの嫌だし、料理ができないことが知られるのも嫌だ。生まれて15年と少し、ほとんどきちんと料理をしてこなかった私だが、好きな人のためにはこれくらいやれなければ。そう思って始めた料理の特訓だったのだが...。

「はぁ...やっぱり自分だけでやろうとするのは...無理があるのかなぁ...」

はてさて、どうしたものか。







「というわけなの...ごめんね、梅雨ちゃん。急にお願いして...」

佐藤くん以外で料理のことを聞けそうな人を思い浮かべ、そういえば梅雨ちゃんが、実家にいた頃は家事をほとんど担っていたと言っていたことを思い出して、彼女の部屋を訪れた。

「構わないわよ。でも、なまえちゃんって何でもそつなくこなされるイメージだったから、何だか意外ね」
「昔から、どうにも料理だけは...ダメで...」
「別に隠さなくてもいいんじゃないかしら?瀬呂ちゃんはそんなこと気にしないと思うわ」
「それはそうなんだけど...」

確かに、私が料理ができないことを瀬呂くんが知った所で、瀬呂くんはきっと笑って"そんなの別にいいじゃん"と言ってくれるのだろう。瀬呂くんに問題がある訳ではなく、むしろこれは私の問題で。

「何か気になることでもあるのかしら?」
「前に...瀬呂くんに、冗談で私のどこが好きなの?って聞いたことがあって......そしたら、別に自分では思ってないんだけど、"なんでもそつなくこなせる器用なところが格好良いよな"って言ってくれたの」
「女の子に...格好良い...?」
「そう。ちょっと変わってるけど...でも私、そんなこと言われたこと無かったからすごく嬉しかったんだよね。だから、ガッカリされちゃったら、嫌だなって...思って...」
「そういうことだったのね」
「そんなわけで...簡単なもので、何か私に教えていただけないでしょうか...!」
「ふふ、もちろんよ。お友達の可愛いお願いを断る訳にはいかないわ」
「あ、ありがとう!梅雨ちゃん...」
「頑張りましょうね」

こうして、料理が全くできない私の、料理克服プロジェクトが始動したのであった。







「なぁ、何か最近やたら手怪我してねぇ?」
「そ、そうかな...?」
「そうかなって、その中指の絆創膏、昨日までは無かったよな?」
「あ、あー、これはちょっと、昨日紙ですっと切っちゃって...」
「じゃあこっちの手首の火傷みたいなのは?」
「これは...ヘアアイロンで...ちょっと」
「ふーん?なんか珍しいね?なまえ、そういうのあんま普段しないのに」
「疲れてた...のかも...」
「へぇ、じゃあおいで。瀬呂くんが癒してあげますよ」

瀬呂くんはそう言うと、両手を広げて笑ってくれる。料理の練習で出来た包丁での切り傷や、火傷の痕を何とか誤魔化すためについた嘘に少し罪悪感を覚えつつも、彼の優しさに自然と笑ってしまう。

「ふふ、じゃあお邪魔します」
「ん。いつも頑張ってて偉いねぇ、お前は」

ぎゅっとして、頭を撫でてくれる。優しく、大切に思ってくれているのが掌から伝わって、心がぽかぽかする。

「ねぇ、なまえちゃんはさ、俺のどこが好きなの?」
「え...何、急に」
「前にお前聞いたじゃん。俺に。だから今度は俺が聞いてみたくなったんだよね」
「...優しいところ」
「あとは?」
「甘やかしてくれるところ」
「それ同じじゃね?」
「微妙に違うんだよね、これが」
「女の子は複雑だねぇ」
「ふふ、そうだね」
「じゃあ今日は甘やかしちゃいますか」

そう言うと瀬呂くんは一度私を腕から解放して、"はい、ここどーぞ"、と自分の足を数回叩く。これは膝枕してくれる時の合図で、私が疲れていたり、落ち込んだりするとやってくれるやつだ。

「何でこんなの喜ぶかねえ...野郎の足なんて硬いだろうに」
「この硬さがちょうどいいの〜」
「ねぇ、もう一個聞いていい?」
「何?」
「なまえは俺に、どんな彼氏になって欲しい?」
「えー...今のままでいい」
「欲がねぇなぁ。嬉しいけどよ」

そう言いながら彼は私の髪をくしゃっと撫でて、額に軽く唇を落としていく。幸せだ。彼とのこの穏やかな幸せがずっと続いて言って欲しいから、私は色んなことを頑張ろうと思えるのだ。苦手な料理も、この人が喜んでくれるなら、こんな小さな火傷も切り傷も、別に大したことはない。

「あんま、無理すんなよ?」
「え...」
「頑張り屋さんだから、心配なのよ」
「うん。ありがと」







「よし...いい感じに出来た...ような気がする」

味噌汁の入った鍋を見て、これが"あの"私の作ったものか...と感動を覚える。
梅雨ちゃんとの秘密の特訓が始まって1ヶ月。最初は包丁の使い方や調味料の基本を教えてもらうところから始めた。始めはお菓子を作ろうと思っていたが、そういえば前に瀬呂くんは健康的な食べ物が好きと言う話をしていたのを思い出し、かつ簡単なものでちょうどいい、という先生からのアドバイスで、味噌汁を作ることにしたのだった。

「もう一人でも大丈夫そうね」

コンロに火にかけた鍋を見ながら梅雨ちゃんがにっこりと笑う。

「梅雨ちゃん先生のお陰だよ〜」
「そんなことないわ。なまえちゃんが瀬呂ちゃんのために一生懸命頑張ったからよ」
「な、何か...その通りなのに、いざ言葉に出して言われると結構恥ずかしいね...」
「瀬呂ちゃん愛されてるわね。羨ましいわ」
「ホントにありがとね...インターンとかで忙しいのに...」
「そんな事言わないで。なまえちゃんの役に立てて嬉しいわ」
「梅雨ちゃん優しすぎて泣きそう」
「ふふ、じゃあ私は行くわ。瀬呂ちゃんに喜んで貰えるといいわね」
「うん、ありがとう!」

梅雨ちゃんを廊下まで見送り、再び部屋に戻ってドアを閉め、ラグの上に腰を落としてから完成した味噌汁の味をもう一度確かめる。口に含むと程よい塩味があり、鼻腔からほのかに味噌の香りが抜ける。

うん、ちゃんと美味しくできてる。良かった。

温かいものを身体に取り込んだからだろうか。それとも一先ず及第点をクリアしたことへの安心感からだろうか。急にふと眠気が襲ってくる。
そういえば、ここ暫くは学校の授業やインターンの後、帰ってきてから夜に特訓をしていたから、ずっと寝不足気味だった。ここにきて、その疲れが急に出てきたのかもしれない。すぐそこにベッドがあるけれど、もう一度立ち上がるのは億劫だ。
ところで私は何か忘れているような気がするのだが、一体何を忘れているんだろう。その正体はわからないまま、迫りくる眠気を受け入れ、私は意識を手放した。







「なまえ!おい!大丈夫かよ?」

微睡みの中、一番好きな声に意識を引きずられる。瞼をぼんやりと開けると、そこには心配そうに私を見る瀬呂くんの姿があった。

「ん...あれ...瀬呂くん...なんで...」
「何でじゃないでしょ、今日行くよって言ってたのにお前全然返事しねぇし、おまけに部屋から煙出てるし...」
「けむり...?......あっ!!!」

意識を手放す前にほんの一瞬頭をよぎった"忘れていたこと"を今になってやっと思い出した。

「火付けっぱなしとか、危ないだろ...しかもお前床で倒れてるし、寿命縮んだわマジで...」

なんて事だ。せっかく上手に出来た味噌汁の鍋の火をつけっぱなしにしてダメにしてしまった挙句、それを食べてもらおうと思った本人に見つかり、本気で心配させてしまうなんて。鼻につん、と引っかかる焦げた匂いに、恥ずかしいさと情けなさが押し寄せる。

「ほかの女子はついさっきまで全員共有スペースに居たから、お前下手したら誰にも気づかれないまま危なかったかもしんないのよ?」
「ごめんなさい...」
「はぁ...最近の手の怪我と疲れてた理由はこれか?」
「えっ!?」
「...やっぱり」
「......ごめんなさい」
「はぁ...」

安心からか、呆れたからか、瀬呂くんは大きなため息をついて私の頭にポン、と手を置いた。

「で、何でこうなっちゃったわけ?」

心配をかけてしまったのに、怒らず優しく聞いてくれる瀬呂くんの声に泣きそうになる。

「...私、実は料理がすごく苦手で」
「うん?」
「でも、男の子は料理出来る女の子の方が嬉しいでしょ...?だから、練習して...」
「...なまえ、上鳴との話聞いてたな、さては」
「はい...それで、梅雨ちゃんに色々教えて貰って、今回はほぼ一人でちゃんと上手に出来たの...でも、」
「そういうことか」
「...瀬呂くん、がっかりした...?」
「は?ちょっと待って。何でそうなるのよ?」
「だって瀬呂くんは、何でもそつなくこなせる私がいいって言ってたから」

私がそう言うと瀬呂くんは一瞬ポカンとした顔をしてから、漫画のひとコマのように吹き出して笑った。

「ぶっ...はははっ、」
「ちょっと...!そこ笑うとこじゃない!」
「いや、笑うでしょ...ぶふっ、つーか、お前頭いいのにたまにお馬鹿さんだよな」
「なっ...」
「俺は何でもそつなくこなすお前が好きなんじゃなくて、そうなれるように努力してるお前が好きなの」
「...そう、なの?」
「まぁ、さすがに今回みたいなのは寿命縮むから困るけどな」
「すみません...」
「それにだ」
「はい?」

頭に乗せていた手で、少しだけ乱雑にくしゃっと髪を掻き回す。でもその顔はとても穏やかで優しくて。

「なまえの料理がどんなに不味くても、俺は笑って食える自信があるのよ」
「...そんなのわかんないじゃない」
「わかるの」
「何で?」
「だって俺はなまえちゃんにベタ甘な瀬呂くんだよ?可愛い彼女が作ったもんなら、どんなダークマターでも食える男になりますよ」
「ダークマターって...」

確かに、黒焦げになった鍋の豆腐はまさにダークな色合いをしているが。

「今回ちゃんと出来たんだから、お前ならもう大丈夫だろ?次出来たやつ食わせてよ」
「う、うん...」
「だからもう無理して特訓とかはダメね。わかった?」
「了解です...」
「ん、いい子だねぇ」

瀬呂くんはニカッと笑いながらそう言うと、私を自分の腕の中にゆっくりとしまう。大切に、壊さないようにと本当に些細な力だけを込めて。
自分の恋人が優しすぎて辛いだなんて、他の人に言ったら惚気けるなって怒られてしまうだろうか。こんなに甘やかして私が働かないダメ女になったらどうするつもりなんだ。

「瀬呂くん優しすぎて辛いって思ったでしょ?」
「エスパーなの瀬呂くん」
「俺も彼女が頑張り屋で可愛くて辛いわ」
「瀬呂くん好きー」

私がそう言って強めに抱きつくと、意外と力あんなぁと言いながら彼は笑う。そしてきっとこう言ってくれるんだろう、と期待した言葉を彼はすぐに返してくれるのだ。

「あら嫌だ。俺は愛してますよ?」

恥ずかしげもなくそう言う彼に、私はもう一度、精一杯の力を込めて抱きついた。


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瀬呂範太15歳、ただのスパダリ。

2020.10.21

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