彼氏の条件 尾白猿夫の場合


「6,016円になります」

レジに表示された金額を念のため確認し、財布を出そうと鞄を開けると、いつもならすぐに目に飛び込んでくるはずの、赤い財布が見当たらない。

「...あれ...?」
「お客様、どうかなさいましたか?」
「あ、いや...その...財布置いてきちゃったみたいで...」
「もし良ければ、お取り置きしておきましょうか?もしくは着払いでお送りするという方法も...」
「えっと...じゃあ、すみません。着払いでお願いしてもいいですか?」
「かしこまりました!」

店員さんはにっこりと笑って、着払いの準備を始めた。嫌な顔一つせずに対応してくれる真摯な姿に、罪悪感と恥ずかしさが膨らむ。

ここ数日の私は変だ。自分で言うのもなんだけど、どちらかと言えば、私はしっかりした人間だと思っている。それなのに、ここ数日は何だか妙に落ち着かなくて、パーツの発注をミスしてしまったり、採寸を間違えていたり、今まで一度もなかったようなミスを連発している。そして極め付けがこれだ。
今日は土曜日。ヒーロー科の何人かに頼まれているサポートアイテムの試作品を作るため、パーツを買いに来たのだが、そのパーツを買うための軍資金を丸ごと寮に置いてきてしまったのだ。わざわざ外出用の服に着替えて出てきたというのに、とんだ無駄足になってしまった。

何をやってるんだろう。私は...。

せっかく外に出るのだから、お昼も外で食べようかと思っていた。しかもわざわざネットでお店も調べて、ここに行こう、と決めてきたお店があったというのに。そしてお腹を満たしてから学校に戻り、購入したパーツを使って、今日は黙々と試作品を作る予定だったのに。パーツが届くのは明後日だと言うし、お昼ご飯も学校に戻るまでは食べられそうにない。きちんと鞄の中身を確かめずに、寮を出てきた自分が悪いのだが、休日のプランが全て台無しになってしまったことに、ため息をつかずにはいられなかった。
ホームセンターを出て、定期にチャージされたお金でジュースを買った。特に喉が乾いていたわけではないけれど、この落ち込んだ気持ちを、なんとか誤魔化したかった。ホームセンターのすぐ近くの公園に立ち寄り、適当なベンチに腰掛けて、私はある人物のことを思い出していた。

今日財布を忘れたのだって、全部全部、彼のせいだ。




「あれ...みょうじさん...?」

名前を呼ばれて振り向くと、そこには今まさに私が思い出していたその人物が、少し息を切らしながらたっていた。

「な、何で尾白くんがここにいるの...!?」
「え、あぁ...この辺り、休みの日はジョギングでよく来るんだ」

尾白くんは、同じ学年のヒーロー科で、かつ私がサポートアイテムを初めて作成した相手だ。

「学校でやればいいじゃない...」
「いつも同じところでやるより、地形とか、コースとか変えた方が、いろいろ発見も多くてさ」
「ふーん...」
「みょうじさんこそ、こんなところでどうしたの?さっきため息ついてたけど...」
「...今日は買い出しのつもりだったの」
「"だった"?」
「まぁ、ちょっと手違いがあって...」
「あ、欲しかったものが買えなかったとか?」
「いや、そうじゃないんだけど...」

別に隠すほどのことでもないのだが、格好悪くて言いたくないという、くだらないプライドが言葉を詰まらせる。尾白くんに何と言おうかと考えていると、思いもよらぬタイミングで、とても間抜けな音が響いた。

「あ、あの...これは...」

ぐぅぅぅ、と響いたその音は、私自身にはもちろん、どうやら尾白くんにも聞こえてしまったらしい。彼は少し驚いた顔をしたあと、顔を綻ばせて笑った。

「あはは、みょうじさん、お腹空いてるの?」
「空いてない...こともない」
「え、どっちなの?」
「......まだ食べてない」
「まだ食べてないって...もう14時だよ?食べないの?」
「財布...忘れちゃって...」
「あぁ...それで、買い出しのつもり"だった"、ってことか...」

なるほどね、と言いながら、彼は私の座るベンチに少し離れて腰掛けた。

「良かったら、一緒に飯行く?俺もまだなんだ」
「え...」

確かにお腹はとても空いているし、そう言ってくれるのはとてもありがたい。だけど私は迷った。他の人なら迷わずお言葉に甘えていただろうけど、彼に対してそれで良いのかは微妙なラインだった。

「でも...あの...」
「あー...その、別に、"急かす意味"で誘ってるわけじゃないから」

そう言いながら、頬を指で引っ掻くような動きを見せる彼。

「前も言ったけど、返事はいつでもいいから...」

指先にあたるその頬は少し赤みを帯びていて、改めてあれは夢じゃなかったんだと再認識する。先日耳にした"あの言葉"は、どうやら私の聞き違いではなかったらしい。







『みょうじさんって、彼氏とかいるの?』

その質問をむけている相手が自分だとは思わず、その場を見渡すと、彼は少し困ったような顔をした。

『みょうじさんに聞いてるからね...?』
『...いると思う?こんな機械油まみれの女子に』
『はは、普段は機械油まみれじゃないだろ?...でもそっか。じゃあいないって認識でいい...?』
『まぁ...そうだけど...』
『あの、さ、急にこんな事言うのもあれなんだけど』
『どうしたの?』

尾白くんは申し訳なさそうな顔をしながら、少しの沈黙の後、大きく深呼吸をして、再び口を開いた。

『俺、みょうじさんのこと好きなんだ』
『......は?』

決心したようにそういう彼に、私は持っていたスパナを落とした。ドン、と鈍い音がなり、その直後、足に伝わるなかなかの痛みに、生理的に涙が出る。

『い、たっ...!!』
『えっ!?だ、大丈夫!?』
『へ、平気...っ!』
『いや、涙目だし、全然大丈夫そうじゃないけど...』
『ほ、ほんとに...だい、じょぶ...なので!』
『と、とにかく、保健室に...』

手を差し伸べてくる彼に、自意識過剰に後退りをしてしまう。彼は私のそんな反応を見て、小さくごめん、と呟き、私は少し胸が痛くなった。

『あ、いや...えっと...自分で、歩ける、から...!』
『いや、何言ってんの。足を怪我したんだから、歩いちゃダメだよ』

尾白くんはそう言うと、私の方へズカズカと近づいてきて、平気な顔で私を軽々と持ち上げた。

『な、なななな...っ!?』
『リカバリーガールのところに行こう』

優しくて真面目そうなイメージだったのに、意外と強引な彼の一面に驚かされた。彼は私に、足の怪我を舐めたらダメだとか、足は全身の負荷がかかる場所だから、とか、そんな話をしてくれたのだが、私の頭は人生初の告白とお姫様抱っこで、当然のようにキャパオーバーで、気づいた時には保健室に着いていて、私の足の打撲は治っていた。
私を寮へと送り届けてくれた彼は"返事はいつでもいいから"、と言い残し、自分の寮へと走り去っていった。







「...あの、みょうじさん」
「ちょ、ちょっと今話しかけないで...っ」
「...もし良かったら、俺が買おうか?食券」
「...尾白くん、バカにしてる?」
「してないよ。ただのお節介」

尾白くんはそう言うと、私の隣に立ち、目の前にある券売機を操作し始めた。

「量普通でいい?それとも少なくしようか?」
「ふ、普通で大丈夫...」
「了解」

彼は慣れた手つきで券売機を操作し、私と自分の分の食券を買った。こっちだよ、と彼に言われるがままにカウンターの席に座ると、これまた慣れた手つきで、彼は私の分のお水を用意してくれた。

「でも意外だね」
「...何が?」
「あんなすごいサポートアイテムを作れるのに、牛丼屋さんの券売機に狼狽えちゃうなんて」
「だ、だって仕方ないじゃない...初めて来たんだもん...」
「え、そうなの?」
「...高校生にもなって、って思ったでしょ」
「いや、そんなことはないけど...」
「実家にいた頃は、こういうのお母さんがダメって言うから、食べられなかったの」
「厳しいね」
「だから、まぁ...その...」
「なるほど。だからここにしようって言ったのか」

私が黙って頷くと、尾白くんは"そっか"、とだけ言って、優しく微笑んだ。少しすると、目の前に湯気を立てた牛丼がやって来た。空腹のせいなのか、たった数百円の料理が、不思議ととても輝いて見えた。

「わ、美味しい...っ」
「良かった。...ってまぁ、俺が作ってるわけじゃないけど」
「これで500円未満なんて、すごい発明だよ!」
「ワードチョイスがみょうじさんらしいなぁ」
「尾白くんのは、卵ついてるの?」
「あぁ...良かったら試す?卵かけると美味いよ」
「え...でも、尾白くんのだし」
「俺は何度も食べてるから」

尾白くんはそう言うと、自分のトレーに乗っていた卵の入った小鉢を、私のトレーに乗せた。良いのかな、と少し躊躇ったが、彼がくれた卵を器に割り入れてから、再び器の中の物を箸で口に含んだ。

「うーまー!」
「ははっ、そんなに喜んでくれるなら、あげた甲斐があったよ」
「世の中に、こんな美味しい食べ物があったなんて...」
「大袈裟だなぁ」
「学校の学食でも食べれたら良いのになぁ」
「牛丼屋くらい、またいつでも付き合うよ」
「え!?」
「え?」
「い、いや...何でもない...」

何気なく口にした"付き合う"という彼の言葉に、過剰反応してしまう自分が恥ずかしい。美味しさに感動して忘れそうになってしまったけど、今隣にいる彼は、私に告白をしてきた相手で、それはつまり、私のことを好きだと思っている人だということなのだ。

「尾白くんってさ...」
「ん?」
「私のどこが好きなの?」
「ゲホッ...ゴホッ...」
「ご、ごめん...!大丈夫?」
「あ、あぁ...うん...平気...ちょっとびっくりして」
「ごめん」
「いや、大丈夫。...なんか改めて言うのもなんだけど、妥協しないところっていうか、一生懸命なところっていうのかな...俺のサポートアイテム作ってくれた時も、すごい何度も改良してくれたし...それで気づいたら...って感じかな」
「そ、そうなんだ...」
「なんか、改めて言うと、照れるな。告白しといて今更だけど...しかもこんなところで」
「それについては...うん、ごめん。場所が間違ってたと思う...」
「みょうじさんは、どんな人が好きなの?」
「...よくわかんない」

発明家の父の影響からか、子供の頃からメカニックなものが好きで、私の心を動かしていたのは、キラキラしたものでも可愛いものでもない、無機質な芸術だった。
周りの女の子たちは、私の子をみんな口を揃えて"変わった子"と言っていたけれど、だからといって周囲に迎合することはなかった。私は私のまま、機械が好きで、モノを作るのが好きなままの私で、高校生になった。
今日はどんなものを作ろう。そればかりを考えて生きてきた15年間だった。そんな自分が誰かに好かれて、告白をされる日が来るなんて、考えもしなかったのだ。

「誰かに、その...告白?とかされたことも、今までなかったし...自分が恋愛してるところって、想像できないっていうか...」
「そっか」
「...なんか、ごめん」
「いや、謝ることないよ。まぁそうかもなって、何となく分かってて言ったのは、俺だから」

穏やかに笑ってそう言う尾白くんの顔を見て、理由はわからないけれど、妙に胸が苦しくなった。







「じゃあ、俺はもう少し走ってから帰るから。またね」
「う、うん...じゃあ...また」

彼はまた優しく笑って、私に手を軽く振り、背中を向けて走り出した。あっという間にその背中は小さくなっていき、曲がり角を曲がって見えなくなった。彼が走って行った道とは反対方向に向かって歩き出すと、遠くの方に真っ赤な夕焼けが見えた。いつもは技術室に篭りきりで、こんなふうに夕焼けを眺めるのは、随分久しぶりな気がする。

夕焼けってあんなに綺麗だったんだなぁ。

先ほどまで隣にいた彼のことを思い出す。彼も走っている間にこの夕焼けを見て、何かを思ったりするのだろうか、それとも気づかずに走り続けるのだろうか。つい今さっき別れたばかりだというのに、またいつでも学校で会えるというのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。

「や、やめてください...っ!」

柄にもなく物思いに耽っていたところを、その大きな声で一気に現実に引き戻された。声のする方へ視線を向けると、中学生くらいの女の子が、いかにも柄の悪そうな男たちに囲まれていた。

「つれないなぁ。ちょっと遊ぼうって言ってるだけなのに」
「お兄さんたちと楽しいことしようよ?」
「い、嫌です...!どいてください...!」

どうしよう。

周囲を見渡すと、私と同じように心配そうにその様子を見ている人が何人かいるが、全員どうしよう、と顔を見合わせているだけで、彼女を救おうを前に出る者はいない。
こういう時、嫌でも思い知る。どれだけすごいサポートアイテムが作れようとも、あくまで私は支える側の人間だ。
決してヒーローのようには、なれない。

「はいはい。話は後でゆっくり聞くからさ」
「い、嫌...っ」
「そんな大人数で女の子一人を囲んで、恥ずかしくないんですか?」

だけどそれでも、今ここで困っている人を見捨てていくような人間には、なりたくない。

「あ?」
「それに...その、明らかに嫌がってますし...離してあげてください」

柄の悪そうな男たちは一瞬呆けた顔を見せたが、何かを示し合わせるように顔を見合わせた後、女の子の手を離し、私の方へと近づいてきた。

「じゃあ、あんたが代わりに俺たちと遊んでよ?あんたもそこそこ可愛いし」
「は...?一度眼科に行かれた方がいいですよ」
「意味わかんないこと言ってんじゃねぇよ。ほら来い」

"来い"と言った男が、私の腕を思い切り掴む。振り解こうと手首や腕に力を入れるが、当然男の力には敵わず、びくともしない。

「は、離して...っ」
「だーめ。だって代わりに相手してくれるんでしょ?」
「そんなこと言ってな...」
「うるせぇな、いいから来いっつってんだよ!」

ぐいっと腕を引っ張られて、バランスを崩しそうになる。倒れる衝撃に備え、反射的に目をつぶると、何かが私を支えたお陰で、予想していた衝撃は訪れなかった。

「結構、無茶するね。みょうじさん」

聞き覚えのあるその声に、閉じていた瞼を勢いよく開ける。すると目の前には、少し焦ったような顔の尾白くんがそこに居た。

「この子から手を離してもらえますか」
「んだ、このガキが...っ」

私の腕を掴んでいた男は、その手を私の腕から離し、ポケットから鋭いナイフのような物を取り出すと、彼にむかってそれを振り下ろした。

「お、尾白くん...っ」
「大丈夫だよ」

彼は男のナイフをいとも簡単にかわし、一瞬にして男を地に伏せさせた。

「これでも俺、ヒーロー志望だからね」

先ほどの焦燥感はすっかりと消え、いつもの優しい笑顔で彼はそう言った。そんないつも通りの彼とは対照的に、途端に顔に集まった熱と、大きく揺れる心臓の鼓動に、ここ数日で自分の中に起きた変化を、今漠然と理解してしまった。







「あの勇気はすごいけど、さすがに女の子が複数の男にむかっていくのは危ないよ」
「そ、そうだよね...」
「間に合って良かったよ」
「尾白くん、反対側に走って行ったはずなのに...どうして...」
「その...やっぱり一人で帰すのはあれかな、と思って...戻ってきたんだ」
「え...」
「ここ数日で、日が落ちるのも早くなったし...そしたらあんなことになってたから、結構焦った」
「全然余裕で倒せちゃってたけど...」
「いや、普通に考えて、好きな子があんなことになってたら、焦るでしょ」

"好きな子"。そうあっさりと言われてしまって、やっと冷めたはずの顔面の熱が、また振り返してくる。彼が私を好きなはずなのに、こんなの、まるで私"が"彼を好きみたいだ。

「助けてくれて...ありがとう...」
「今回はたまたま俺が居たけど...もうダメだよ。あんなことしたら」
「う、うん...ごめん」
「あ、いや...俺の方こそ、フラれたくせに偉そうだったよね。ごめん」
「え?フラれた...って...」
「え、だってさっき"ごめん"って言ってたよね?」
「...そんなつもりで言ったわけじゃ...なかった」

私がそう言うと、彼はとても驚いたような顔をして、私のことをまじまじと見た。

「はぁ...そういうの、期待するんだけどなぁ...」
「...期待...しても、良いと思う」
「は?」

人を好きになるとか、付き合うとか、やっぱりよく分からないけど、彼をもっと知りたいと思うし、私のことも知って欲しいと、そう思う。

「まぁ、その...やっぱりまだよくわかんないけど...でも、尾白くんなら良いかもって、思ったから」
「...それって、俺と付き合ってくれるってこと?」
「え、っと...、そう、なるかな...?」
「あはは、そこは疑問形なんだ」
「ごめん...」
「いや、謝ることないよ。可能性があるってわかっただけで、充分」

尾白くんはそう言うと、私の頭にポン、と軽く手を乗せた。思わず彼の方を見上げると、尾白くんは今まで見た中で、一番優しい顔で笑っていて、いつもより大人びて見えるその表情に、私の胸はまた高鳴った。

「色んなことを話そう。色んなところに行って、色んなものを見る。それでいつか...答えをくれればいいから」
「う、うん...」

色んな話がしたい。色んな場所へ行って、色んなものを見て。そしてそう遠くない未来に、きっとこの気持ちを彼に伝えよう。




「まぁ、何はともあれ...えっと、これから、よろしく」

頬を染め、遠慮がちに差し出された彼の手に、そっと自分の手を重ねた。


−−−−−−−−−−

拍手コメントで頂いていた、「彼氏の条件シリーズ」の尾白くんでした。
一旦書き終えたシリーズだったのですが、せっかく頂いたリクエストならば...と書いてしまいました。
リクエストくださった幽さん、ありがとうございました。
尾白くんは、他のヒロアカ男子より安心して女の子を任せられます。(笑)

2020.12.11

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