かわいいひと


「ねぇ、もう一回これ読んで!」
「いいよ。ケンタくんはこの本がお気に入りなの?」
「うん!これね、お誕生日にママに買ってもらったの!」
「そっか。良かったね」

大事そうに絵本を抱えながら、彼は嬉しそうにそう口にした。急な仕事でどうしても会社に行かなくてはならなくなった、彼の母親である姉の代わりに、今日一日だけ、私が彼のお世話をすることになったのだ。
本を開き、私が話の冒頭部分を読み始めると、小さな彼は私の膝の上に座り、キラキラした目でその絵本をじっと見つめていた。絵本をひと通り読み終えると、彼は満足したのか、可愛らしい足音を立てながら、次のおもちゃの方へと駆けていく。

「可愛いよね。子供って」

率直な感想を述べると、ソファに座りながら不機嫌オーラを全開にしている私の恋人は、「別に普通だろ」、と悪態をついてみせた。

「いつまで拗ねてるの。焦凍」
「……拗ねてねぇ。なまえがあいつばっか構うのが面白くねぇだけだ」
「それを拗ねてると言うんですよ。世間では」

焦凍が久しぶりに休みを貰えたというので、今日はもともと二人でデートに行く予定だったのだが、運悪く姉の休日出勤と重なり、デートの予定は泣く泣くキャンセルすることになってしまった。
事情が事情なので仕方がないと、焦凍も最初は納得してくれたのだが、小さな子がずっと一人で大人しく遊んでいられるはずもなく、実際ケンタくんにほぼかかりきりの状態になっている私を見て、焦凍はあからさまに不満そうな顔を浮かべていた。

「そんな顔しないの。17時にはお姉ちゃんがお迎えに来てくれるから、あとちょっとだよ」
「ちょっとじゃねぇ。あと3時間近くあるじゃねぇか」
「一緒に遊んでれば、あっという間に過ぎるから」
「俺に近づこうともしないんだぞ。どうやって遊べっていうんだ」

それはあなたが、そんな怖い顔でソファに座っているからですよと、言うべきなのか、言わざるべきか。

この部屋にやって来きた時は、「本物のショートだ!すごいね!」とハイテンションだったケンタくんだったが、肝心の本人がこの様子のため、次第にケンタくんも焦凍に近づかなくなってしまったのだ。
彼も子供ながらに、自分に向けられている感情が、あまり良くないものだと察してしまったようで、焦凍と目が会う度に私の背中に隠れては、さらにそれが焦凍の機嫌を損ねるという、負の連鎖を生み出していた。

「そんな仏頂面してたら、子供は怖がるよ」
「俺はいつも通りだ」
「いや、さっきから眉間のシワすごいからね」

付き合う前は表情があまり変わらないと思っていたけれど、こうして側にいるようになってみると、意外と彼はシンプルで、特に嫌なことはすごく顔に出るタイプだということを知った。
「何を考えているか分からないと言われる」と、焦凍は時々漏らしているが、私からすれば、こんなに分かりやすい人はそんなにいないだろうと思う。長く一緒にいるからなのか、私が彼をよく見ているからなのか、もしくはその両方なのか。いずれにしても、この人は世間で言われているほど、そんなにクールな人ではないと私は思う。

「そんな顔してたら勿体ないよ。せっかくかっこいいんだから」

そう言うと、彼は一瞬きょとんとした顔をしてから、照れたように口を結び、顔を綻ばせた。これはちょっと嬉しい時の顔だ。
ソファから降りて、私のいるすぐ隣に腰を下ろし、私の肩に額を乗せると、焦凍は両腕を私の腰に回して、縋るようにぎゅっと。

「俺のこと、好きか?」

唐突にそんなことを聞いてくる彼に、すごく愛しさが込み上げる。普段あれほどの黄色い声援に囲まれているのだから、もっと自信を持ってもいいだろうに、なぜか自己肯定感の低い彼は、時折こうして不安げに私に同じ質問をする。

「うん。好きだよ」
「どの辺が」
「うーん、全体的に?」
「それじゃわかんねぇ」
「顔とか、性格とか」
「適当に言ってんだろ」
「バレたか。でもそういうのって感覚的なものだし、言語化するのは難しいの」
「そういうもんか」
「じゃあ焦凍は、私のどこが好き?」
「全部」
「強いて言うなら?」
「…………全部」
「ね?難しかったでしょ。どこが、とかじゃないんだよ。そういうのは」

自分でも少し気持ち悪いと思うが、私は彼にベタ惚れなので、例えばどれだけかっこ悪い一面を見たとしても、私は彼を好きでいられる自信があるし、何ならそれを可愛いとさえ思える自信もある。
彼と一緒にいると、人を愛するということは、過去も今も、その先にある未来まで、その人のありのままを受け入れようとする心の在り方なのではないかと、そんなことを思ったりもする。

「なぁ」
「はい?」
「キスしたい」
「ダメです」
「一回だけ」
「いや、すぐそこにケンタくんいるから」
「あいつの頼みは全部聞いてやるのに、俺だけダメなのは不公平だろ」

最もらしいことを言っているような雰囲気だが、4歳の男の子といい歳した大人の男が、どうすれば比較対象になろうというのか。
しかも大抵、焦凍の「一回だけ」は一回だけじゃ済まないのだ。「あともう一回だけ」と言いながら、結局彼が満足するまで、その行為が繰り返されるのは目に見えている。

「なぁ、一回だけ」

しかし耳元で低く呟く声に、もう気が変わりそうになっているのは、間違いなく惚れた弱みだ。ケンタくんはブロック遊びに夢中だし、デートをキャンセルしてしまったお詫びに、1回触れるくらいならいいかなとか、そんなことを考えてしまう自分がいる。
恋人に甘すぎるそんな自分に、心の中で苦笑いしていると、焦凍はそれを同意と受け取ってしまったのか、私の頬に手を添えて、顔を少しずつ近づけた。

「待って」
「待たない」

あとほんの少しで唇が触れるか、触れないか。そんな距離で繰り広げられる、ギリギリの攻防戦。いつもは少し強引な彼に、このまま流されてしまうのだが、そんな戦いの決着がつく寸前、耳を刺すような大きな泣き声に、ほんの少しの期待を孕んだ甘い空気は、一瞬にして崩れ去った。

「うわぁぁぁん!!壊れたぁぁぁ!!」

さすがのボリュームに焦凍も驚いたのか、ぴくりと肩を震わせる。なんとも言えない表情を浮かべながら、私の身体を渋々解放すると、彼にしては珍しく、ものすごく深いため息をついてみせた。

「ど、どうしたの?ケンタくん」
「ロボット、壊れちゃったのぉ…っ」
「ロボット?」

ケンタくんが泣きながら指を差す場所に視線を送ると、いくつかのブロックの塊が床にちらばっている。言われてみれば、確かに顔のようなパーツや、手足のような細長いパーツがあり、おそらくもともと一つに組み立てられていたそれが、何かの拍子に壊れてしまったのだろう。

「大丈夫だよ。ブロックだから、また組み立てれば直せるよ」
「出来ないもん!!作り方もうわかんないもん!!」
「じゃ、じゃあ、新しいロボットを作ってみるっていうのは…」
「やだ!!これじゃなきゃやだぁぁ!!ロボット直して!!」

直してあげたいのは山々だが、焦凍と話していたことに加え、もとよりケンタくん本人の背中で手元が隠れていいため、完成系はおろか、制作過程すら全く見ておらず、残念ながら彼の力にはなれそうにない。

「うーん…。あ、そろそろおやつにしない?美味しいプリンが冷蔵庫に…」
「そんなのいらない!!」

おやつで気を逸らそうとするも、ブロックで作ったロボットに対する執着は消えず、むしろ余計に泣き声が大きくなってしまった気さえする。
カーペットの敷かれた床の上に、寝転がりながら手足をバタバタとさせる彼に、どうしたものかと困り果てていると、先ほどから傍観に徹していたはずの焦凍が、すっと私の横を通り過ぎた。
すると彼は、じたばたするケンタくんの身体を軽々と抱き上げて、自分の頭上よりさらに高い場所へとケンタくんを持ち上げた。

「大丈夫だ。絶対また作れる」

急に抱き上げられたせいか、ケンタくんは水を打ったようにピタリと泣き止むと、鼻をすすりながら焦凍を見つめた。

「出来ないもん…」
「やりもしねぇで最初から諦めてたら、なんにも出来ねぇかっこ悪い奴になっちまうぞ」
「でも…」
「一度作れたんだ。落ち着いて思い出しながらやってみれば、絶対また作れる」

焦凍のことが好き。それはどこが好きとか、そういうものじゃないんだと、さっきはそう口にしたけれど、日常の隙間に見え隠れする、彼のこういう真っ直ぐさがとても好きだ。
幼い頃からヒーローになりたいという夢を持ち、それを実現するために、時に立ち止まりながらも、諦めずにその道を進み続けた彼の意思は尊い。

「僕、もう一回やってみる」

そして、そういう人の言葉には、時に誰かの背中を押したり、救ったりする力があるのだ。きっと焦凍自身は、思っていることを口にしているだけで、自分の言葉が誰かを動かしているなんて、これっぽっちも思ってはいないだろうけど。

「えらいな。頑張れ」

焦凍はそう言うと、抱き上げたケンタくんの身体を、そっと床に下ろし、その小さな頭を軽くぽん、と叩いた。
ケンタくんは涙を袖で拭き取ると、記憶の糸を手繰り寄せるように、それらをひとつずつ手に取りながら、散らばったブロックを集め始めた。

「これが腕か?」
「ううん。これは足」
「ってことは、こっちのも足だな」
「違うよ!これは尻尾!」
「ロボットなのにか…?」

そんな小さな彼の隣に、焦凍は自然と腰を下ろすと、ケンタくんの様子を見守りながら、時折そうして声をかける。そんな二人の様子に胸を撫で下ろし、ふと壁にかけられた時計を見ると、針がちょうど3時を指しているのが目に付いた。

おやつは、後にした方がいいかな。なんとなく。

ケンタくんがやって来るからと、少しだけ奮発して、人気パティスリーのプリンを買っておいたのだが、今はそっとしておく方が良さそうだ。
壊れたロボットの修繕に勤しむ二人の背中を見つめながら、私はそっとその場を離れ、タイミングをすっかり逃していた、お昼ご飯の食器洗いを始めた。焦凍がケンタくんのそばに居てくれるお陰で、いつもとほぼ同じペースで、シンクの中は着々と片付いていく。
最後のお皿を洗い終える頃、リビングの方から「出来た!」という嬉しそうな声が聞こえてきて、思わずそちらに目を向けると、予想通り喜びに溢れた表情を浮かべるケンタくんと、それを穏やかに笑って見守る、大好きな人の横顔が見えた。







「ただいま」

約束通り迎えに来た姉とケンタくんをマンションの下まで見送り、そう言いながら部屋に戻ると、こういう時、いつもならリビングで待っているはずの焦凍が、珍しく玄関で私を出迎えてくれた。

「ん」

靴を脱ぎ、玄関から部屋に上がるやいなや、焦凍は両手を広げながら、小さく声を上げた。そんな彼の元へ素直に近づくと、背中に回された両腕に、ぎゅうっと強く抱きしめられた。触れられなかった分を埋め合わせるように、ぴったりと私にくっついてくる彼に、自然と顔が綻んでしまう。

「ふふ」
「何笑ってんだ、なまえ」
「いや、可愛いなぁって、思って」
「それたまに聞くけど、男に可愛いって変じゃねぇか?」
「そんなことないよ。可愛いは世界共通だもん」
「よく分かんねぇ」
「可愛いって言われるの、嫌?」
「そうじゃねぇけど、やっぱ好きな女には、かっこよく思われたいだろ」
「それを言うなら、さっきの焦凍はかっこよかったよ」
「さっき?」
「ほら、さっきケンタくんが、ブロック壊して泣いちゃった時」
「……かっこいい所あったか?あの時の俺に」
「うん。超かっこよかった。もっと好きになった」

私がそう言うと、焦凍は私の頬に手を添えて、そのまま勢いよく唇を奪った。唐突に入ったそのスイッチに驚きつつも、されるがままに彼のキスを受け入れた。

「ん、しょうと…」
「お前の方がよっぽどだよ」
「え…?」
「なまえの方が、ずっと可愛い」

色っぽい視線を向けられながら、そう低く呟かれると、心臓がとくん、と一つ跳ねる。何年一緒にいても、彼にこうして見つめられると、今でもすごくドキドキする。
余裕のなさを誤魔化すように、ふい、と焦凍から顔を逸らすと、彼は私の耳元にちゅ、っと軽く口付けてから、また低い声でこう呟いた。

「今日一日我慢した分、今夜はしっかり相手してもらうからな」

その声は、まるで小さな子供を諭すように落ち着いていて、けれどその裏側には、強い熱情を孕んでいる。その言葉に、今度は飛び出してしまいそうなほどに、心臓が大きな音を立てて跳ね上がる。
完全に余裕を失った私の顔を覗き込むと、彼は少し意地悪く笑って、私の頭をぽん、と叩く。これがさっきまで4歳児に嫉妬していた人と同一人物なのだから、全くどうしてくれようか。

「明日は仕事なので、ほどほどにお願いします…」

遠回しにそう同意の言葉を口にすると、彼は私の頬に唇を寄せてから、その整った顔をくしゃりと愛しく歪ませて、嬉しそうに笑ってみせた。


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小さな子供にすら嫉妬してしまう彼ですが、きっと不器用ながらもいいお父さんになると思います。

2021.09.12

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