miss you


大人になっても難しいことは、思っていたより沢山ある。最近特にそう思う。これで何度目かわからない白いため息をつきながら、会う約束さえしていないその人物を、俺はじっと待っていた。







きっかけは些細なことだった。

ここしばらく仕事が上手くいっていなくて、その焦りから食事もまともに摂らない日が続いた。一緒に暮らしているわけではなかったが、ほぼ同棲状態で俺の家で過ごすことの多かった彼女は、俺のそんな様子を見て、始めは様子を見ていたものの、そのあまりの不摂生ぶりに思うところがあったらしい。

「焦凍、さすがにご飯は食べた方が」
「うるせぇな、ほっとけよ」
「でも」
「お前はいいよな、契約社員で気楽に仕事出来んだから」
「え?」
「お前の顔見てると、イライラする」

彼女の言葉は、紛れもなく俺を心配しているが故の言葉で、そこに悪意など全くなかった。だけどその時の俺はとにかくイライラしていて、彼女のその気遣いさえも、まるで自分がダメだと否定されているように感じて、気づけば最低な言葉を口走っていた。

「……そっか」
「あ、いや、今のは」
「ごめんね、焦凍」

あいつはそんな俺の言葉に、怒ることも反論することもせず、必死に泣くのを我慢しながら、そのまま俺の部屋から出て行った。

すぐに追いかけるべきだった。でもそうしなかったのは、俺自身に全く余裕がなかったことと、しばらくすれば戻ってくるだろうという、甘えだった。だけどその日、どれだけ時間が経っても、あいつが戻ってくることはなかった。次の日も、その次の日も、戻ってはこなかった。俺の言葉を額面通り受け取ったあいつは、俺に顔を見せなくなった。







何度も何度も連絡しようとして、だけどその度に、色んなものが頭の中で駆け巡った。
俺が謝ったところで、もしもあいつがそれを受け入れてくれなかったら。あんな身勝手で最低な言葉をぶつけて、追いかけることすらしなかった自分が、彼女に何を言えばいいのかわからない。それ以前に、もうあいつの中で、俺たちの関係は終わったものになっているのではないか。
あの時の「ごめんね」は、そういう意味だったのではないか。だったらもう俺が何をしたところで、意味なんてないんじゃないか。一人で考えていたって仕方がないことを、ずっと考えた。

そして挙句の果てに、俺は考えることから逃げた。
人は忘れる生き物だ。時間が経てば、今は苦しいこの気持ちも、きっと薄れていくだろうと思っていた。でもそれは違った。あの日から、今この瞬間まで。朝起きてから、夜眠るまで。どんな些細なことも全てがあいつに繋がって、一人になれば無意識に彼女の名前をぽつりと口に出していた。
最後に見た彼女の顔は、まるで呪いのように俺の脳裏に刷り込まれ、一日だってあいつの存在を忘れさせてくれなかった。

勝手だと分かっていても、もう手遅れだろうと思っていても、それでもやっぱり好きで、どうしようもなく会いたくて。仕事が終わり、自分の今いる場所が彼女の住むマンションの近くだと気づいた時には、自然と足が動いていた。




いや、マジで勝手すぎるだろ、俺。

ひどいことを言って、追いかけもしなくて、ひと月も放っておいたくせに。自分でここに来ておいて今さらだが、どんな顔して会えばいいんだ。そもそも彼女は、俺なんかと話をしてくれるのだろうか。再びため息をついてその場にしゃがみ込み、顔を膝に埋める。こんなに緊張しているのは、一体どれくらいぶりだろう。不謹慎かもしれないが、敵の撃退なんかより、ずっと緊張しているかもしれない。




「焦凍……?」

少し掠れたその声を聞いて、俺は動けなくなった。自分から会いに来たくせに、怖くて顔を上げられない。顔を上げれば、すぐそこに、ずっと会いたかった彼女がいるのに。
俺が何も言わないでうずくまっていると、こつ、こつと、足音が少しずつ近づいてくる。

「え、っと……どうしたの?」

何から言えばいいのだろう。あの時はごめん。許して欲しい。会いたくて来ちまった。言いたいことは山のようにあるのに、優先順位がつけられない。

「……寒ぃ」
「え?」

頭上から、少し戸惑ったような声がする。自分でも意味不明な返答だと思った。

「寒いって、焦凍は個性で体温調節出来るでしょ?」

話すことを拒絶されなかったことに、とてつもなく安心した。そして彼女のその問いかけを聞いて、俺はとても卑怯なことを思いついた。

「……何か、上手く出来ねぇ」

これは賭けだった。上手く出来ないなんて嘘だ。俺が調子が悪いと言えば、あんなに酷いことを言った俺を責めない、優しい彼女がどうするか、分かっているからそう言った。
そしておそらく、俺はこの賭けに勝てる。

「焦凍、具合悪いの?」
「そうかもな」
「そうかもなって、なんでそんな他人事なの。えっと……立てる?ここにいたら冷えるし、とりあえず中に入ろう」

そう言うと、彼女は俺に立ち上がるよう促した。顔を上げると心配そうな顔が覗き込んでいて、胸がちくりと少し傷んだ。俺の言葉を信じてくれると分かっていた。俺が具合が悪いと言ったら、彼女が俺を放っておけないと分かっていた。だから俺は嘘をついたのだ。卑怯な大人なんか、一番大嫌いな人種だったのに。







「ちょっと待ってて」

ここしばらく、ずっと俺の家で二人で過ごしていたからか、こいつの部屋にくるのは随分久しぶりな気がする。部屋に入り電気をつけると、彼女はいそいそとエアコンをつけて、自分のベッドを指差した。

「そこで横になってていいよ」
「……あぁ」
「あったかいもの持ってくる」

身勝手に会いに来た上に、卑怯な方法で部屋にあがりこんだ俺に、嫌な顔ひとつすることなく、彼女はキッチンの棚から小さな鍋を取り出し、何かを作り始めた。

彼女が目の前にいる。ひと月ぶりに。
キッチンに立つ姿を見るのもひと月ぶりだ。俺の家に居ることが多くなってからはあまり意識しなくなったが、何かを作ってくれる時の、長い髪を結ぶその仕草が懐かしい。横になったベッドからは、当たり前だが彼女の匂いがして、まるで俺が彼女に抱きしめられているような錯覚に陥る。すぐ近くにいる本物の彼女に手を伸ばす権利が、今の自分にあるのか分からなくてそわそわする。しばらくそんなことを考えていると、キッチンからチョコレートのような甘い匂いが漂って来た。




「ココアここに置いとくから、飲めそうだったら」

そう言うと、彼女はテーブルに二つのカップを置いた。床に座り、片方のカップを両手で大事そうに持って、中に入った甘い飲み物を飲み始めた。

「うーん。もうちょっと温めても良かったなぁ」

まるで何事もなかったかのような、いつもの彼女がそこにいる。今この瞬間、彼女は一体何を思って俺の側にいてくれるのだろう。

「ふふ、そんなに見られてると、飲みづらいんですけど」

困ったように笑って彼女がそう言うと、胸がまた苦しくなる。どうしてそんな顔が出来るのだろう。身勝手で臆病で卑怯な、こんな俺に。いっそのこと、もう顔も見たくないと言って追い返してくれた方が、まだ楽だったかもしれない。そんなふうに優しくされたら、俺はお前を絶対に手放したくないと思ってしまうのに。

「……悪ぃ。なまえ」
「何が?」
「具合悪いって、嘘だ」
「そうだろうね」

ココアを飲みながら、あっけらかんとした顔で、彼女はそう言った。

「気づいて、たのか」
「だって焦凍、本当に具合悪いときは、私が近付くと怒るじゃない。伝染るからって。あ、そう言えば、去年の冬もそれでちょっと喧嘩になったね」

あれからもう一年前か、と懐かしそうになまえは笑う。確かにそんなこともあった。その時も、彼女は心配してくれていたのに、俺が伝染るから近寄るなと怒って、喧嘩になった。しばらくして頭を冷やした俺が悪かったと言うと、いいよ、と彼女は笑って許してくれた。既に自覚はしていたものの、本当に俺はどうしようもない男だ。

「なぁ」
「何?」
「帰って、来てくれ」

気づいた時には、そう口に出していた。でもひと月前の、あの時のように、それは勢いから出た言葉ではなく、心の底から自然と溢れ出た言葉だった。




「やだ」

なまえは少し驚いた顔を見せたものの、俺の目を見てはっきりとそう言った。そう言われたって仕方ないことをしたし、ついさっきは追い返してくれた方が良かったなんて思っていたくせに、いざ拒絶の言葉を口にされると、俺の胸は身勝手に痛んだ。

「……だよな」
「だって、焦凍。そのことについては言ってくれてないもん」
「は」

意外な言葉に間の抜けた声を出すと、彼女は表情を変えることなく、静かに再び口を開いた。

「『ごめん』って、まだ言ってくれてないもん。ちょっと傷ついたのに」

そう言いながら、ココアのカップを静かに置く彼女に、さらに胸が痛くなった。

嘘つくなよ。ちょっとじゃないだろ。お前すげぇ泣きそうだったじゃねぇか。




ベッドから勢いよく起き上がり、縋り付くように彼女を抱きしめると、彼女は俺の背中に手を回して、身勝手なその行動を受け入れてくれた。

「……ごめん。俺が、悪かった。何度でも、気が済むまで謝る。だから」

"帰ってきてくれ"。

俺がもう一度そう言うと、なまえは珍しく少し拗ねたような顔をして、深いため息をひとつこぼした。

「ずるいなぁ、ほんと」
「ごめん」
「あぁいう嘘は良くないよ」
「……悪かった」
「ひと月も連絡くれなかったのに、突然来るし」
「悪ぃ」

俺がただひたすらに謝り倒すと、彼女は俺の服をぎゅっと掴んだ。少しだけ震えているその手に、その指の細さに、罪悪感と同じ分だけの愛しさが込み上げてくる。大切な人を大切にする、そんな当たり前のことが、俺はいくつになっても下手くそだ。

「もう、お別れなんだと思ってた」
「そんなの俺が無理だ」

どれだけ名声を得られても、どれだけ沢山の人に囲まれていても。

「お前がいないと、寂しい」

朝起きて、目を開けて、最初に見るのはお前の顔がいい。一日が終わり眠りにつくその時、最後に聞くのはお前の声がいい。

「だから、帰って来てくれ。なまえ」

三度目の正直でそう言うと、俺の腕の中でなまえがぽろぽろと泣き始める。あの時我慢した分も、一緒に溢れ出たかのように。彼女は頑張って泣き止もうとしているのか、自分の瞼を何度も袖で拭う。

「あの時、泣くの我慢させて、ごめん。泣いてくれ。今度はちゃんと受け止める」

柔らかいその髪を撫でると、俺の服を掴んでいたその手にさらに力が入り、彼女はようやく声に出して泣いてくれた。

「連絡して、お前にもし拒絶されたらって思ったら怖くて、ずっと連絡出来なかった」
「う 、ん」
「でも毎日お前のことばっか考えた。どうしても会いたくて、気づいたらここに来てた」
「うん」
「許してくれるか」
「ちゃんとご飯食べてくれるって、約束してくれるなら」

もう一度自分の瞼を袖で拭って、少し赤く腫れたその目で彼女は俺を見た。あまりに優しすぎるその交換条件に、なまえを抱きしめる腕に自然と力が籠った。彼女を傷つけて、甘えて、自分がここに来たいからって、嘘まで吐いて。それなのに。

「焦凍には、ずっと元気でいて欲しいんだよ」

そう言って涙まじりに笑う彼女の唇に、気づいた時には自分のそれを重ねていた。なまえも、なぜか俺自身も驚いた。しかし彼女はそれを受け入れるように、先にゆっくりと目を閉じた。俺の中で枯渇していた何かが一気に満たされていくのを感じて、俺もそのまま目を閉じた。会えなかった時間を埋めるように何度もキスをして、何度も好きだと呟いた。




「冷めちゃったね、ココア」

唇が離れしばらくしてから、思い出したように再びテーブルの上のココアを口に含み、なまえは残念そうに言った。

「淹れ直そっか」

二人分のカップを手に取り、立ち上がろうとしたなまえの手を、俺は咄嗟に掴んだ。彼女は肩をぴくりとさせて振り向きながら、不思議そうに俺の顔を見た。

「どうしたの?」
「これでいい」
「でも」
「これでいいから」

だからもう少しだけ、一番近い場所にいて。


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臆病でちょっとずるい轟くんと菩薩系彼女。
彼女は多分弟とかいるタイプだと思います。

2020.11.10

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