アングレカムをおひとつどうぞ


『焦凍...!焦凍...っ!』

目の前でゆっくりと倒れていく、愛しい人の名前を叫ぶ。
手を伸ばし、やっとの思いでその身体に触れた瞬間、誰よりも愛しいその人は、花の様に散って消えた。




「...っ、」

思い切り瞼を開けると、目の前には白い天井があった。荒くなった息を整えて起き上がると、必要最低限のものしかない殺風景な部屋が目に映る。
備え付けの冷蔵庫から、飲みかけのペットボトルを取り出して、それを一気に飲む。飲み切ったペットボトルをゴミ箱に投げ入れ、そのまま再びベッドに横になった。

「また、あの夢...」

それはひと月前の、ある出来事がきっかけだった。
今もなお鮮明に残るその記憶は、悪夢となって毎日のように現れるようになった。







遡ること一ヶ月前、スーパーで買い物をした帰り道に、私は突然襲われた。
急に背後から布のようなものを口に当てられた。私はその場で意識を失い、気がついた時には、見知らぬ廃工場のような場所に居た。
手足の自由を奪われ、恐怖と混乱に苛まれていると、ガラガラと音を立てて重たいシャッターが開き、犯人と思われる二人の男がやって来た。

『本当にこいつが、ショートの女なのか?』
『あぁ、写真で確認したから間違いない』

男たちの会話から、その目的が"彼"であることを察し、私はその餌に選ばれたことを、瞬時に理解した。

『でも人質って言っても、ただここに居てもらうだけじゃつまんねぇよな』

そう言って私のことを舐めるように見る男二人に、私は戦慄した。
ゆっくりと近づいてくる男二人に、もう口を塞がれていないというのに、恐怖で声が出せなかった。男の一人の腕が私に伸びて来て、あと数センチまで迫った、その時だった。
一瞬にして周囲が凍りつき、いつの間にか手足の拘束は解かれていて、私は彼の腕の中にいた。

『平気か?痛いとことかねぇか?』
『うん...だいじょ、ぶ...』
『遅くなってごめんな。怖かったよな』
『焦凍...っ』

彼に思い切り抱きつくと、彼は私を抱きしめながら、背中をぽん、ぽん、と優しく叩いてくれた。
しばらくして私が落ち着くと、彼は私を抱きかかえて、その場を立ち去ろうとした。

『あ、待って...』
『どうした?』
『鞄、あそこにあるの、取ってきていい?』
『あぁ。自分で歩けるか?』
『大丈夫だよ』

私がそう言うと、彼は私をその場に下ろした。投げ捨てられていた鞄を手に取り、それを肩にかけたところで、何かがカチ、と鳴る音が聞こえた。

『なまえ...!!』

その直後、彼が私の名前を叫ぶと同時に、大きな発砲音が廃工場に響いた。気づいた時には、私は地面に腰を落としていて、目の前には膝をつき、腹部から真っ赤な血が溢れ出た焦凍がいた。

『しょ...と...』

私の呼びかけに応えることなく、彼の身体は崩れるようにして、ゆっくりと地についた。

私が鞄を取りに行かなければ。
すぐにここを離れていたら。

今さらどうにも出来ないことを頭の中でぐるぐると巡らせると、体内の血液がさっと引いていくような錯覚に陥る。次第に視界はぼんやりとしていき、そのまま私は意識を手放した。

その後病院で目が覚めると、私が寝ていたベッドのすぐ側で、私の手を握る彼が居た。
脇腹を銃の弾が貫通したものの、大事な臓器や血管などは幸いダメージを受けておらず、今は引退されているが、雄英の保健医だったリカバリーガールの個性で、傷はすぐに塞いでもらえたとのことだった。

大事に至ることはなかった。しかしそれからというもの、あの日に見た光景が、眠りにつく度に夢に現れるようになった。
焦凍の腹部の傷はすでに治っていて、彼はちゃんとこの世界に生きているのに、夢の中の彼は、いつも私の手をすり抜けて、花のように散って消えてしまう。
それはまるで、いつかはこうなると、見えない誰かが私に警告しているかのようだった。たかが夢だと割り切ることは出来ず、次第に眠ることが怖くなり、夜は出来るだけ寝ないようにして過ごした。

そんな日々がしばらく続き、ついに私の身体に限界が訪れた。
事件から三週間後、階段から転落した私は、救急車で再びこの病院に運ばれた。ここしばらくの睡眠不足が引き起こした事故で、頭部の外傷ということもあり、大事をとって十日ほど入院することになったのだった。
救急車で運ばれた後、意識を取り戻すと、あの日と同じように焦凍がすぐ側にいた。とても心配そうな、今にも泣き出しそうなその顔に、胸がとても苦しくなった。彼の名前を小さく呼ぶと、ついにその綺麗な瞳から涙が溢れ、彼は縋り付くように、私の左手を強く握った。







今までは、ひと月に一度会えればいい方だったのに、私が入院してからの一週間、焦凍は毎日病院に通い、私に会いにやって来た。
休みを取っても休みではなくなると、いつもぼやいていたはずなのに。

「焦凍」

無意識に漏れた愛しい人の名前が、虚しく響く。

今日も会いに来てくれるのだろうか。本当はそんな暇などないだろうに。
あの時も、今も、彼の負担にしかならない、こんなちっぽけな存在を、焦凍はどうして愛してくれるのだろう。彼が私にたくさんのものを与えてくれる分、私は彼に何が出来るのだろう。
そんな出口の見えないことを考えていると、次第に瞼が重たくなっていく。今度こそ幸せな夢が見れますようにと、祈るように身体を縮ませて、私は再び眠りについた。




閉じられた瞼の向こう側で、カサカサと何かが擦れるような音が聞こえる。その音にぼんやりと目を開けると、夢ではなく、現実の彼の横顔がそこにあった。

「焦、凍...?」

私の声に反応して、別のところに視線を向けていた彼が、ゆっくりとこちらに振り向いた。

「悪ぃ。起こしたか」

赤と白の、さらさらとした綺麗な髪が、窓から吹く風に揺れる。いつもは手ぶらでくる彼の手の中に、今日は意外なものがあった。
カサカサと鳴る音の正体は、彼が手にしていた大きな白い花束だった。

「それ、どうしたの?」
「買った」
「焦凍が?」
「他にいねぇだろ」
「いや...まさか焦凍から、花をもらう日が来るとは思わなかったから」
「病室殺風景だし、外もオフィス街だし、なんかあった方がいいかと思って」
「って、"ミドリヤ"さんが言ってたんでしょ」
「...なんでわかんだよ」
「焦凍がそんなこと思いつくわけないもん」

私がそう言うと、彼は少し拗ねたような顔で、ベッドサイドの戸棚から花瓶を取り出した。

「花束にアングレカムって珍しいね」
「あんぐ...なんだ?」
「アングレカム。その一番大きくて白いやつ」
「あぁ...これか。そういう名前なんだな」

焦凍はさほど興味なさそうな顔で、取り出した花瓶に水を入れ、綺麗に包まれていた花束を解くと、大雑把に花瓶に刺し、私の目の前に置いた。

「ありがとう。お花好きだから嬉しい」
「なら良かった。店の人に全部任せたから、なんの花とかは全然知らねぇが...」
「焦凍らしいね」

一番大きなその花に触れると、微かに清涼感のある香りが鼻腔をくすぐっった。その存在感の割に、控えめに香りが立つその白い花には、どんな意味が込められていたんだっけ。

「今日は、忙しかった?」
「...いや、特には」

そう言うと、焦凍は自分の親指と人差し指を軽く擦り合わせた。

相変わらず、嘘をつくのが下手な人だなぁ。

おそらく自覚はないだろうけど、これは彼が嘘をついている時の癖だ。きっと今日も本当は抜けられなかったはずなのに、仕事を抜けてここに来たのだろう。
彼は隠しているつもりだろうが、日に日に彼の顔には疲労の蓄積が窺える。頬も少しこけた気がするし、目の下にうっすらと隈も出来ている。私に会いに来るために、自分の時間を削って仕事の埋め合わせをしていることが、容易に想像できた。
それを態度に出さないのは、私がそれを気にすることがわかっているからだ。どうしようもなく私に甘くて優しい彼は、きっと自分がどれだけ大変でも、それを私に言うことはないのだろう。


でもそれじゃ、きっとあなたが倒れてしまうから。


「...焦凍」
「ん、どうした?」

そう言って、彼が私に触れようと伸ばした手を取り、その手をゆっくりと下ろした。


「別れて」


そう言うと、焦凍は異なる色をした目を大きく見開いた後、眉間にシワを寄せて俯いた。

「嫌だ」
「別れて、欲しい」
「...怪我ならもう治ったし、傷も残ってねぇ。なんでそんなに自分ばっか責めるんだ」
「今回"は"、でしょ...?」
「それは...」
「今回はたまたま大丈夫だっただけで...もし、また私のせいで、焦凍が怪我とかしたら...」
「お前のせいじゃない。あれは俺が甘かっただけだ」
「焦凍が良くても、私は嫌なの...!」

なんの力もない私が、彼に出来ることは、たった一つだけだ。
それは私と離れることで、彼が抱えているあらゆるものの、たった一つを減らすことだけだ。

「焦凍の、重荷になりたくない...」
「なまえのことを、そんなふうに思ってない」
「あの日だって、私が捕まったりしなければ...私がいなければ、あんな...」

もしもあの夢が、いつか現実になったら。
私のせいで今度こそ、取り返しのつかないことになったら。

「だから...お願い、別れて...下さい...」

絞り出すようにそう言うと、病室に置かれた無機質な椅子に座っていた焦凍は、ゆっくりと黙ってその場に立ち上がる。
そして大きく息を吐き、次の瞬間、ドン、と鈍い音を立てながら、彼は病室のサイドテーブルに自分の拳を打ち付けた。

「ふざけんなよ」

同じ場所に置かれた花瓶が、床にゆっくりと落ちていくのが見えた。それが床に触れた瞬間、バリン、と耳ざりな音が響いた。
張り詰めた空気が漂う病室に、床に散らばった白い花の香りが立ち、じわじわと水が床に広がっていった。

「しょ...」
「いくら身体が無事だって、お前がいなきゃ死んでるのと変わんねぇよ!!」

焦凍はとても苦しそうな、悲しそうな顔でそう言った。初めてそんなふうに声を荒げた彼に驚いて、反射的に身体が強張る。
私が何も言わずにいると、彼は気まずそうに視線を逸らし、小さく「悪ぃ」と呟いて、もう一度椅子に腰を落とした。

「...そんな簡単に諦められるほど、ちっぽけな気持ちじゃねぇんだ」

視線を逸らしながらも、彼ははっきりとそう口にした。その言葉に、心がぐらぐらと揺れ動く。相変わらず流されやすく、弱い自分が腹立たしい。
彼がヒーローとして正しく生きていくためには、これが最良の方法だと、ちゃんと理解出来ているのに。

「焦凍、あのね」
「お前はどうなんだよ」
「え...?」
「お前の、俺を好きだって想ってくれる気持ちは、簡単に別れるって言えちまうような、そんなもんなのかよ」
「......違う。違うよ...っ、離れたくない...私だって、本当は一緒にいたいよ...っ」
「じゃあ、一緒にいればいいだろ」
「だから、それは...」
「俺はお前と一緒がいい。お前も俺と一緒がいい。だったらそれでいいじゃねぇか」
「それ、は...」

焦凍の言っていることが、少なくとも間違っていないことはわかる。彼が私を必要としてくれていることも、好きだと想ってくれていることも、そこに一点の疑いも無い。だけど。

「......不安、なの。焦凍がまた、あんなふうになったらって、思ったら...」

怖い。怖くてたまらない。
もしもあの夢が、夢じゃなくなったら。
もう二度と、大好きな人に会えなくなったら。

「焦凍のいない世界でなんか、生きていけない」

重荷になりたくない。そんなのはただの建前だ。
本当はただ、怖いだけだ。

いつかまた同じようなことが起きて、自分のせいで彼がいなくなってしまんじゃないかって。
彼の言う通り、シンプルに考えれば済む話なのだ。だけどこんな不安を、ずっと抱えたまま生きていけるほど、私は強い人間じゃない。

「だから───」

だから、やっぱり別れよう。

そう言いかけた言葉は、彼に力いっぱい抱きしめられたことで、喉の奥へと押しやられた。

「絶対、お前を一人になんかしねぇ」

不甲斐ない私の、途方もない不安を打ち消すような、力強いその腕と真っ直ぐなその言葉に、涙が出た。
いつか彼自身を苦しめるかもしれない、そんな約束を、いとも簡単に口にできてしまう彼の優しさが、とても痛くて、とても愛おしい。

「...焦凍」
「だから、別れるなんて言うな」
「焦凍」
「頼むから"自分がいなければ"なんて、言うなよ」

力強い腕とは裏腹に、そう口にした声は震えていた。
そこでようやく、私は自分が言った言葉の、本当の重さを理解した。
もしも私が彼に同じことを言われたら、それはすごく悲しい。寂しい。そんな言葉を安易に口にしてしまった私は、たった一言で、どれだけこの人を傷つけてしまったのだろう。

「ごめんなさい」

何も考えず、自然とその言葉を口にしていた。
不安は今も、胸の中に残っているけれど、それ以上に大切なことが、大切なものが、今目の前にあることに、私はようやく気がついた。

「もう言わない。言わないよ」
「...別れるっていうのも、取り消してくれ」
「うん、ごめん。ごめんね、焦凍」

焦凍の頭をゆっくりと撫でると、彼は少し安心したように、小さく息を吐いた。

「なまえが、好きだ」
「うん。私も、好きだよ。大好きだよ」

焦凍の背中に腕を回すと、彼が私の名前を呼ぶ。その声に顔を上げると、整った顔がすぐ目の前まで来ていて、そのまま唇が重なった。ゆっくりと瞼を閉じ、彼の背中に回した腕の力を強めると、焦凍はそれに応えるように、痛いくらいに私を抱きしめた。
互いの唇が離れていくと、彼は私の額に、自分のそれをこつん、とあてて、もう一度私の名前を呼んだ。

「もし、俺のためになんかしたいって、そう思ってくれてんなら───」

そう言いながら、彼は私の両頬を指で摘み、左右にそれぞれ引っ張った。

「ひょうほ、いひゃい」
「笑ってくれ。お前が笑ってくれてたら、何でもできる気がすんだ」

真顔でそんなことを言う彼に、思わず吹き出して笑ってしまう。こんなふうに自然と笑えたのは、随分久しぶりなことのように感じる。

「なまえが早速笑ってくれたのは嬉しいが、なんで今ので笑ったんだ?」
「焦凍のことが、好きだからだよ」

あぁ、好きだな。
そんなドラマみたいなセリフを、真顔でサラッと言えてしまうところとか。それが全くの無自覚なところとか。

「...よくわかんねぇ」
「焦凍がいれば、私は幸せってことだよ」

私がそう口にすると、彼はポカン、とした顔をした後、少しだけ照れたような、けれど嬉しそうな顔をする。そして思い出したように、床に散らばった花の中から、一番大きな白い花を一本だけ拾い上げ、それを私に差し出した。

「俺と一緒に、生きて欲しい」

またそんな歯の浮くようなセリフを堂々と呟く彼に、「プロポーズみたいだね」と照れ隠しの言葉を添えて、その花を受け取った。

「...一応、そのつもりだった」

その言葉に再び吹き出すと、馬鹿にされたと思ったのか、焦凍は不服そうな顔をして、私の腕を思い切り引っ張って、自分の方へと引き寄せた。

「くれねぇのか、返事」

拗ねたように彼がそう尋ねた瞬間、なぜか急にふと、私はあることを思い出した。
あぁ、そうだ。そういえば。

「焦凍、アングレカムの花言葉って知ってる?」
「知らねぇ。なんだ」
「祈り。確かあともう一つあって、それが───」




"いつまでも、あなたと一緒"。


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Twitterフォロワー様企画で書かせていただいたものを、若干調整したものです。
ちなみに後から知ったのですが、アングレカムは11月22日(いい夫婦の日)の誕生花です。

2021.02.04

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