01 邂逅


20XX年、初夏。とある王国に大事件が起こる。世界有数の軍事国家と謳われるその国の長い歴史の中でも、随一と言われる才覚を持ち、最も王位継承に近いとされていた一人の王子が行方不明となったのだ。
王はその事実に大層怒り、数多の兵を捜索に向かわせたものの、その行方を掴むことは出来ず、彼が突如姿を消してから、一週間が経とうとしていた。

世界中にその知らせが届けられる頃、とある世界の片隅で、"彼"は ─── 。







彼は倒れていた。父親の命を受け自分を追ってきた兵士たちを撒き、その正体に気づかれぬよういくつもの国境を超え、なんとかここまでたどり着いた。今日が何月何日かも、ここがどこかも正直定かではないが、みっともなく鳴き続ける腹の虫に、自身が空腹であることだけは分かる。しかし周りにはその生理的欲求を満たせるものは特になく、あるのは青々と茂る新緑と、穏やかに水面を揺らす池の水だけだ。後者についてはこの危機的状況において非常に頼りになる存在だが、そうは言っても水は水であり、腹の足しにはなりはしない。

「腹、減ったな」

せめてどこかで食料をと、何度か調達を試みようとしたものの、彼のその立場上、"正体"が知られれば騒ぎになるのは必至だった。多くの人間に顔を知られていることは時として武器にもなるが、今の彼には足枷でしかない。自由になりたいと飛び出したのに、さらに自分の不自由さを思い知り、彼はそんな自分自身を嘲笑うかのように、ふっと一つ息を吐いた。

それにしても、随分のどかな場所だな。ここは。

柔らかな風が吹き、木々の葉が音を立てる。ただ自然の音だけが耳を掠め、永遠にも似たような時間が流れている。毎日が強くなるための訓練で、こうして穏やかな時間を過ごした記憶のない青年にとって、それは随分と新鮮なものだ。頬を撫でるようなそれは心地よく、しばらく張り詰めていた彼の心に、ほんの少しの隙を生んだ。遠くの方で微かに聞こえる鳥の声が、今はまるで子守唄のように感じる。次第に重くなる二つの瞼をなんとかこじ開けようとしたものの、もう一つの生理的欲求には逆らうことが出来ず、そのまま彼は目を閉じた。

ダメだ。もう、意識が ────




刹那。意識を失いかけた彼の耳に、パキ、と何かが折れるような音が聞こえた。防衛本能によるものか、今の今まで眠りにつこうとしていたその身体は、瞬時に意識を覚醒させる。反射的に身体を動かし、その音がした方へ顔を向けると、そこにいたのは追っ手の兵士ではなく、彼と同じ年頃の若い娘であった。白のブラウスにくすみがかった若草色のエプロンドレスを身に纏い、足元はボロボロの茶色いブーツを履いている。彼女は見知らぬ青年がそこにいたことに驚き、大きく目を丸くしてから、小さく頭を一つ下げて、池の方へと足を進めた。
自分を追っ手来た人間ではないと分かった瞬間、再び彼の身体は力をなくす。ドサ、っと音を立て、元の場所にまた仰向けになると、そんな青年の身を案じてか、娘は走って彼のもとへ行き、その顔を上から覗き込んだ。突然のことに驚いたのか、見るからに焦った様子で辺りをきょろきょろと見回すその娘はに少し笑いそうになりながら、青年はその口を徐に開く。

「なぁあんた、なんか食い物持ってたりするか…?」

女の素性は分からない。だがここを生き延びなければ、何を変えることも出来ない。不躾なことをしている自覚はあったが、彼は娘にそう尋ねた。しかし娘は特に怪しむ様子など見せることはなく、目の前の青年が倒れた理由を察したからか、少しだけほっとした顔を浮かべた。軽く数回頷いてから少しの間彼の側を離れ、池のそばに置いていた私物らしき籠の中から、真っ赤な林檎を一つ取り出す。それを大事そうに抱えながら駆け足で彼の方へ戻ってくると、娘は両腕をすっと伸ばし、青年にそれを差し出した。

「いい、のか?」

彼が短くそう尋ねると、娘は笑って大きく頷く。青年はなけなしの力で身体を起こし、差し出された赤い実を受け取って、それをしゃくりと口に含んだ。口の中に広がる甘さは優しく、ようやくありつけた食べ物の味に、我を忘れて口を動かす。そんな彼の様子を黙って見ていた娘は、再び池の側まで行くと、今度は籠を手に持ったまま青年の元へ戻り、中に入っていた食べ物を一つずつ取り出して、それを彼の前に並べていった。

「これも…?」

その問いかけに再び笑って頷く娘に、彼はひどく困惑していた。こんな場所で空腹に飢えて倒れている人間など、どう見積もっても普通じゃない。しかし目の前にいる娘はそんな男を怪しむどころか、むしろこの状況を楽しんでいるようにすら見えるのだ。

なんだ、この女は。

「さすがにこれ全部は…お前の家族の分もあるんじゃないのか?これ」

娘は一瞬ぎくりとしたような顔を浮かべたものの、少し考えるような素振りをした後、やや強張った表情で、ぐっと親指を立ててみせた。

「いや、今明らかに顔が…」

彼がそう指摘すると、娘は少し悲しそうな顔を浮かべる。しょんぼりとした表情を浮かべる娘を見て、その理由には気づいていなかったが、青年は自分がそんな顔をさせてしまったことだけは、なんとなく理解することが出来た。

「じゃあ、あとこれだけ貰ってもいいか?残りのは、ちゃんと家族に持って帰ってやれ」

太陽の光を受けてきらりと輝くオレンジを指差し、青年が娘にそう言うと、彼女はぱっと顔を明るくして、嬉しそうに笑ってみせる。そんな娘の顔を見て、彼は少し胸が傷んだ。こんなに屈託なく人が笑うところを見たのは、一体いつ以来だっただろうかと。

ウチの家ではまず見ないな。こういう顔は。

同じ世界に生まれ出て、どうして人間という生き物は、こんなにそれぞれ違うのだろう。そんな不毛なことを考えながら、青年は娘から貰ったオレンジを、腰に付けていた小さな鞄にそっとしまった。

「そういや、礼がまだだったな。お前のおかげで助かった。ありがとな」

彼がそう口にすると、娘は再び嬉しそうな顔をしてから、一度は出してしまった食料を、籠に一つずつ戻していく。その横顔はごく普通の、歳相応の娘の顔をしている。しかし青年は、そんな娘の"普通ではない"部分に気づいていた。

彼女は青年と邂逅してから今に至るまで、一つも"言葉を発していない"ということに。


「 ─── 話せない、のか?」


ぽつりと青年問いかけると、娘はその笑顔を崩すことなく、こくりとしっかり頷いた。彼がそうか、と呟くと、娘はその場にすくっと立ち上がり、その場で何度か軽く飛び跳ねる。すっと袖をたくし上げると、その腕を軽く曲げ力を込め、彼女はほんの少しだけ浮き上がった力こぶのような何かに反対の手を添えて、得意気にそれを叩いてみせた。

「…………ふっ」

かなりの間を置いて、青年は吹き出した。かろうじて筋肉と呼べるかどうかの力こぶを得意気に見せる娘の表情に、思わず笑ってしまったのだ。そんな彼を余所に、娘は笑われた理由に心当たりが全くない顔をしており、それが余計に青年の笑いを誘った。

「はは、身体は元気だから大丈夫ってことか?それは」

彼がそう問いかけると、彼女はストンとその場に座り、数回こくこくと頷く。

「お前すごいな。普通に喋れる奴より、何考えてるか分かりやすいぞ」

そんな感想を青年が口にすると、娘は嬉しそうに笑う。すると何かを思いついた様子で側に置いていた例の籠に手を入れると、中から小さなスケッチブックを取り出した。彼女はそれを彼の方に向け、右下に小さく書かれていた文字を、そっと指で差した。

「……"ナマエ・ミョウジ"」

書かれていた文字をそのまま青年が読み上げると、娘は文字を差していた指を自分の方に向け、再びにっこりと笑ってみせる。

「あぁ、なるほど。お前の名前か。というか字が書けるなら、わざわざ飛んだりしなくても、筆談すりゃいいんじゃねぇか?」

青年が至極真っ当な疑問をぶつけると、娘は少し困ったような顔を浮かべ、申し訳なさそうに俯いてしまう。その時彼は察した。こんな田舎で暮らしている娘だ。誰がこの字を書いたのか現時点では分からないが、彼女のこの様子を見る限り、おそらく読み書きの、少なくとも文字を書く方の教育は、今まで受けずに育ってきたのだろうと。

「まぁ…そんなもんなくても分かりやすいし、そんな変わんねぇか。お前の場合は」

彼がそう呟くと、ナマエはパッと顔を上げ、どこか安心した様子で顔を綻ばせると、今度はその手のひらを青年に向け、小さく首を傾げてみせる。

"あなたの、名前は?"

音を発しないその唇を、娘はゆっくりとそう動かした。

「……ショート」

青年は少し迷った末に、自身の名前を口にした。自分とってこの娘はこれといった驚異にはならないであろうことに加え、薄汚れた策略や企みなどとはまるで無縁で生きていそうなその屈託のなさに、大丈夫だろうという判断に至ったのだ。
ショートがそう結論づけたところで、ナマエは自身が着ているエプロンドレスの胸ポケットから、その身なりに反して、随分と高価そうな黒い万年筆を取り出した。さらにスケッチブックのページをめくり、真っ白な紙が現れたところで、先ほど用意した万年筆と共に、それを彼に差し出した。

"名前、書いて"

彼女は再びその唇を動かし、手に持った万年筆とスケッチブックをさらに前に突き出す。ショートはそれを受け取り、万年筆のインクを紙にさらさらと走らせて、自分の名前を書いてみせた。

「これでいいか?」

ショートが自身の名を記したそれを万年筆と共にナマエに返すと、彼女はその字をじっと見てから、その手に万年筆を取り、そこに何かを書き始めた。しばらくするとそれが終わったのか、ナマエはそれを再びショートの方に向ける。

「これ…俺か?」

先ほど彼の名前が書いた名前のすぐ上に、お世辞にも上手とは言えない似顔絵が描かれており、ショートのその質問に、ナマエは満足気な顔で首を縦に振った。

「なんつーか…絵下手だな。お前…」

ショートが思わずそれを口にすると、ナマエはパカっと口を開き、"ガーン"というお決まりの効果音が聞こえてきそうな顔をすると、その目に涙を浮かべ始めた。まさしく口は災いの元。ショートの頭の中にはそんな言葉が浮かんでいた。

「あ、いや…!俺は芸術とかそういうのは無知だからそう感じるだけで…見方によっては味があるというか…」

ショートが必死にそうフォローするも、ナマエはスケッチブックを放り投げ、座ったまま膝を折りながらその顔を伏せ、身体を縮こませてしまう。ショートはそんな彼女にさらに焦ったものの、既に決定的な一言を発してしまっているゆえ、それ以上の弁解の術を持ちえなかった。
そもそもの話、彼女は自分の絵が下手だという自覚はなかったのだろうか。別の心配が一瞬ショートの頭を過ぎるも、彼はひとまずそれを忘れ、ナマエが投げたスケッチブックを拾い上げだ。

見れば見るほど下手だな。やっぱ。

ショートはそう思った。しかしこうも思った。これを描いている時の彼女の表情は真剣そのもので、少なくともこの女は善意のつもりで、きっとこれを描いたのだろうと。

「さっきも言ったが、俺はこういうのの善し悪しは分からねぇし、俺の言ったことは気にしなくていい」

彼がそう口にすると、ナマエは顔を上げ、ショートの方をじとりと見た。そんな彼女に拾い上げたスケッチブックを差し出しながら、ショートはもう一度口を開く。

「下手っつったけど、描いてくれたのは嬉しかった。ありがとな、ナマエ」

ショートがそう言うと、ナマエはパッと顔を明るくさせ、今日見た中で一番嬉しそうな顔を浮かべた。その様子にショートはほっと胸を撫で下ろし、まるで幼い子どものような素直なその笑顔に、つられるように笑みを零した。

そういえばさっきといい、こんなふうに笑ったのなんて、いつ以来だっただろう。

それに気づいてしまった時、ショートはとても嫌気がさした。誰かとこうして笑い合う、そんな誰もが当たり前に出来ることすら忘れてしまっていた、そんな自分に。そんな道しか知らない、そんな自分に。

ダメだな。やっぱり疲れてる。
今日は余計なことばっか頭に浮かんじまう。

切り替えよう。彼はそう思った。これまでのことよりもこれからのことを考える方が、よっぽど建設的に違いないと。

「ところでナマエ、お前街への行き方は知ってるよな?今日これから寝るところを探してるんだが、どっちの方角に行けばいいか、教えてくれないか?」

ショートがそう問いかけると、ナマエは少し考えるような素振りをしてから、先ほどのようにすっと立ち上がり、彼の手を引っ張った。そしてもう片方には持って来ていた籠を持ち、そのまま前へと歩き出す。

「案内してくれんのか?」

再び疑問を彼が投げかけると、彼女はショートの方を振り向き、またその明るい笑顔を見せた。その表情が肯定なのか否定なのか、どちらにも受け取れてしまうのだが、ショートはなぜか、それ以上に彼女を追及出来なかった。不安がないと言えば嘘になる。しかし目の前にいるこの娘がこれから何をしようとしているのか、ほんの少しだけワクワクしている自分がいるのだ。やはり自分は疲れている。そう思いながらも、ショートはナマエに手を引かれるまま、その足をただ動かし続けた。







「ここは…」

彼の目の前にあるのは、古びた教会だった。のどかな風景が広がる中、点々と建ち並ぶ周囲の建物の中でも一際大きなそれは、ただ古いというわけではなく、とても歴史を感じる趣があった。

「いやまぁ…すげぇ立派ではあるんだが…なんで教会なんだ…?」

確かに自分は寝るところを探していると言っただけで、宿屋に連れて行けとは言っていないが、こういった場所に連れて来られるのは、さすがの彼も計算外である。しかしそんなショートを余所に、ナマエは教会の扉まで歩いていくと、躊躇うことなくそれを開けた。そして彼の方を振り向いてから、早く来いと言わんばかりに、何度も手招きしてみせる。

まぁ、背に腹は変えられねぇ、か。

ふう、と軽く息をつき、ショートは彼女に導かれるまま、その建物の中に入った。そして次の瞬間、目の前に広がるその光景に、彼はその目を大きく見開く。

「あ!ナマエ帰ってきた!」
「お姉ちゃんおかえりー!」
「シスター!ナマエやっと帰って来たよー!!」

外から見る限りはとても厳かな建築物だが、中はテーブルにソファ、暖炉までが設置され、一応祭壇らしきものはあるが、内装はどう見てもほぼリビングだ。見える範囲でも十人近い子どもがいて、各々に絵を描いたり走り回ったりと楽しそうに過ごしているが、大人の姿は見当たらない。子供の一人が"シスター"と口にしていたところから、教会としての機能はかろうじて有しているのかもしれないが、教会というよりも保育施設に近いその内情に、ショートはひどく困惑した。

「お前もここで暮らしてるのか?」

彼がそう問いかけると、ナマエはショートの方に顔を向けて、はっきりと首を縦に振った。そんな彼女を見て、彼は直感した。ここにいる子どもも隣にいる彼女も、それぞれの肌や髪、瞳の色から推察するに、一緒にここで暮らしてはいるが、おそらく血の繋がりはない。

ということは、ここは ─── 、




「あらあら、随分と今日は遅かったのねぇ」

部屋にあるもう一つの扉が開きながら、穏やかな声が聞こえてくる。その声と共に現れた初老の女性がゆっくりと足を踏み入れると、ナマエは両手を合わせながら、軽く一つ頭を下げた。女性は薄い菫色のワンピースを身に纏っており、とても上品な出で立ちをしている。

「謝らなくていいのよ。それよりそちらの男性は…」

女性はその声色に違わず優しそうな笑みを携えながら、ショートの方に視線を送る。

「えっと…突然すみません。その、少し事情があって何日も食べていなくて、倒れていたところを助けてもらいまして」
「あらまあ…それは大変でしたね」
「はい。それで、今日寝るところを探していると伝えたら、彼女がここに連れてきてくれて…」
「ああ、なるほど。そういうことでしたら、こちらは全然構いませんので、ぜひ泊まって行ってください」
「……いいんですか?」
「ふふ、ご覧の通り騒がしいですが、それでもよろしければ」

隣に立つ娘の屈託のなさの根源は、おそらくこの人にあるのだろうと、ショートはそう思った。初対面かつ素性もしれない男に施しを与え、あまつさえ自分の住んでいる場所に連れてくるなど、警戒心がなさすぎるが、そのルーツはおそらくここだと、確信に近いものが彼にはあった。

「じゃあお言葉に甘えて、今日はお世話になります」

彼がそう言うと、女性はにっこりと笑みを浮かべ、ショートの隣に立つナマエは、とても嬉しそうに手を叩いた。

「もうすぐ夕食ですから、適当に座って寛いでいて下さいな。今お茶をご用意しますね」
「あ、いえ…お気遣いなく…」
「ナマエは夕食作るの、手伝ってくれる?」

そう尋ねられたナマエは、小さく一つ頷いた。するとショートの手を取って、近くにあった赤いソファに彼を座らせると、ひらひらと小さく手を振って、その場から一度姿を消した。

「ふー…」

目をつぶり、ひと息付いて、ショートはこれからのことを考える。ひとまず今日はここに厄介になるとして、問題はその先だ。ナマエとあの女性の反応を見る限り、どうやらここでは自身の素性を勘づかれることはなさそうだが、もう少し街に行けば一般家庭にもテレビが普及しているだろうし、そうなれば必然的に、顔を知っている者もそこそこいるだろう。

とりあえず、この無駄に目立つ髪の色だけでもなんとかしねぇとな…

そんなことを考えていると、ショートは誰かが自分に近づく気配を感じ、条件反射で目を開いた。"そうすること"が癖になっているせいで、咄嗟に立ち上がり右手に力を込めるも、彼は目の前にいる人物を見て、意識的にそれを解いた。

「び、びっくりしたぁ…」

そう声をあげたのは、先ほどまで何人かで鬼ごっこをしていた1人の少年だった。言葉の通りかなり驚いたようで、その大きな瞳をさらに丸くさせ、彼をまじまじと見つめている。

「悪ぃな。驚かせて。俺に何か用か?」
「用っていうかさっきも思ったけど、兄ちゃんでっかいね」
「は?」

ショートが小さく声を漏らすと、少年は走って彼の背後に回り、突然その背中を登り始めた。少年は手足を器用に使いこなしながら、肩の方まで登っていくと、ショートの両肩に細い足を引っ掛けて、落ちないように彼の頭を軽く掴んだ。

「ちょ、なんだいきなり…」
「すげぇ!!やっぱめっちゃ高ぇー!!」

ショートの身体によじ登った少年は、興奮気味に声を上げる。するとそれを聞きつけた他の子どもたちも、続々と彼の周りに集まってきた。

「この兄ちゃん、背ぇでかいからすげぇ高いぞ!」
「ずるーい!僕もやりたい!」
「あたしもやってー!」

次々とそう声をあげる子どもたちに、少しだけ嬉しい気持ちがあったが、ショートはそれと同時に自分の現状を思い出し、少し躊躇いの気持ちが生まれる。

「いや…その、今結構汚れてるし、あんまり…」
「そんなのいいから早くやって!」
「あ、おい!俺が先だぞ!」
「わ、分かった。順番にちゃんとやるから、とりあえず並べ」

かくして始まった謎の肩車ブームは、今はここにいない二人が夕食の支度を終え、ここに戻って来るまでの小一時間、ずっと終わることはなかったという。







「すみませんねぇ…子どもたちが色々と…」

申し訳なさそうにそう口にした"シスター"に、ショートは首を小さく振った。

「ああいう雰囲気は新鮮で、俺は楽しかったです。というか、むしろこちらがすみません、風呂や服まで貸してもらって」
「いえいえ、とんでもない」

笑い声に溢れた、とても賑やかな食卓だった。彼自身、幼い頃はそういうものに憧れていたが、いつのまにかそうあってほしいと願うことすらなくなり、そして自分自身も口を閉ざすようになっていった。

けどあいつは、食事中もずっと笑ってたな。

同じように言葉を発しなくとも、彼女はまるで違っていた。身振り手振りや、あのお世辞にも上手とは言えない絵を描いて、普通に子どもたちと交流が出来ていたのだ。

ああ、まただ。また余計なことを考えている。




「外とはだいぶ雰囲気が違って、驚かれたでしょう」

会話が途切れたことが気まずかったのか、彼女はショートにそう話しかけた。しかし不毛な思考に突入しかけていた今の彼にとって、それはかえって都合が良かった。

「まぁ…はい。そうですね」
「気づいていらっしゃると思いますが、この場所はすでに教会としての役目を終えました。今は身寄りのない子供たちが寄り添って暮らす、小規模な孤児院となっています」
「子供たちはあなたのことを"シスター"と呼んでいましたが、あれは…」
「ふふ、あれは最初にここへ来た子がそう呼んでいたのが、ずっと残っているだけなんです。若い頃に先立たれてしまいましたが、私には夫もおりますし」

シスターはそう言いながら、彼の方に左手を見せる。少し皺のある細いその薬指には、古びた金の指輪がはめられていた。

「良かったんですか?俺なんかを泊めて」
「と、言いますと?」
「その…自分で言うのもどうかと思いますが、ここが教会としての役目を終えているなら、どこの誰かも分からない奴を招き入れるというのは、少し不用心なのではないかと…」
「ふふ、俗に言う悪人と呼ばれる人たちは、あなたのように自分からそんなことは仰いませんよ。自ら警戒させるようなことを口にするのは、リスクがありますから」
「まぁそれは…そうですけど…」
「それに"娘"の連れてきた方を追い返すようなことをしたら、あの子に嫌われてしまいますもの。子どもたちと違って、そこそこ多感な時期ですし」
「あいつはその…いつから、ここに…?」
「15年前前からです。今孤児院にいる子たちの中では一番年長で、一番長くここにいますね」

いつから、などと尋ねてしまった手前、理由は聞くのが正解なのか、聞かないのが正解なのか、ショートにはそれが分からない。彼がそうして言葉に詰まっているのを察したからか、シスターは穏やかな面持ちで、もう一度その口を開いた。

「家族三人で乗った船が嵐に見舞われて…あの子は奇跡的に助かったのですが、ご両親はその時に亡くなられたと聞いています」
「事故、ですか」
「声が出せなくなったのも、その時のショックによるものらしくて。とは言っても声が出せないというだけで、本人は見ての通りの性格なので、精神面での心配はあまりしていませんが」

わずか半日。出会ってからのナマエのことを、彼はぼんやりと思い返す。事故のことをあまり覚えていないだけなのかもしれないが、それでもあそこまで素直に育ったのは、おそらくこのシスターや、住んでいる土地の気質ゆえだろう。

「じゃあショートさんは、こちらの部屋をお使いくださいね」

廊下の一番突き当たり。シスターに案内されたその部屋に入ると、そこはとてもシンプルな部屋だった。

「主人が使っていた部屋ですが、掃除は毎日していますので、問題なく使えるかと」
「ありがとうございます」

ではおやすみなさい、とひと言添えて、シスターは灯篭の火を頼りにし、薄暗い廊下を戻って行く。部屋のドアを閉め、再び一人になったショートは、しん、と静まったその部屋を見渡し、小さく一つ息を吐いた。

「疲れたな。さすがに」

部屋にはベッドと机が一つずつあるだけで、あと目につくものといえば、なぜここにあるかは定かでないが、机の上に置かれた小さなショットグラスがあるくらいだ。なんとなく閉め切られたカーテンの向こうが気になり、それをシャッと勢いよく開けると、窓は磨りガラスになっていて、さらに向こう側への気持ちが募る。少し立て付けの悪いその窓に力を入れてこじ開けると、最初に彼を待っていたのは、自身を見つめる丸い瞳だった。

「あ」

その窓が開けられるとは思っていなかったのか、すぐ目の前にある花壇の側でしゃがみこんでいた"彼女"は、驚いたように瞬きをした。

「何やってんだ。そんなとこで」

彼がそう問いかけると、ナマエはその場に立ち上がると、足元に向かって指を差す。

「……俺にはただの草にしか見えないんだが」

申し訳なさそうにショートがそう呟くと、彼女は少し頬を膨らませ、もっとちゃんと見ろと言わんばかりに、もう一度そこを指差した。一見するとただの草の集合体にしか見えないそこに、彼がじっと目をこらすと、青々とした中に小さな白い花が一つ、とてもひっそりと咲いている。

「その花を見てたのか?こんな時間に一人で」

彼が再び問いかけると、ナマエは彼女が持ってきたらしい分厚い本を手に取り、パラパラと急いで捲っていくと、目的のページでぴたりと手を止め、それをショートの方に見せた。

「……"ツキミソウ。アカバナ科、マツヨイグサ属に属する二年草、または多年草。花は一夜しか咲かず、夕暮れから夜に花を咲かせる。咲き始めは白色をしており、朝を迎え咲き終わる頃にはピンク色になり、翌朝萎んでしまう"……ああ、なるほどな。夜にしか咲かない珍しい花ってことか」

彼が納得したようにそう呟くと、ナマエはもう一度その場所にしゃがみこみ、咲いたばかりのツキミソウを、躊躇うことなくその手で摘み取る。

「え」

そんな彼女にショートが驚いていると、再びその場に立ち上がり、ナマエはたった今摘んだその花を、彼のいる部屋の窓辺に置いた。

「俺に…?」

戸惑いながらそう尋ねると、ナマエはふわりと笑って頷く。そしてくるりと踵を返すと、建物に続く扉の方へと歩いていき、そしてそれを閉める直前に、ショートの方を見て手を振ると、静かにその扉を閉めた。彼は窓辺にぽつん、と残された花を手に取り、その真意を考えたが、珍しいものだから自分にくれたのか、それとも他に意味があったのか、その真相は分からない。

「はは、変な奴」

彼は思わず、そう声に出していた。そして次の瞬間、机の上にあったショットグラスの存在を思い出す。一度部屋を出て水道の蛇口を捻り、適当な量の水を入れてから、先ほどナマエから貰ったツキミソウの花を入れ、窓辺にそれを静かに置いた。
せめて夜が終わるまでは、どうか綺麗に咲いて欲しい。きっと咲くのを楽しみにしていたのであろう、彼女のためにも。そんなことを思いながら、ショートはベッドにその身を沈める。シーツが肌に触れた瞬間、ついに溜まっていた疲労が溢れ出し、横目で窓辺の花を眺めながら、彼はそっと瞼を閉じた。


−−−−−−−−−−

2022.10.02

BACKTOP