02 空蝉


何かがいる。その正体を確かめるべく、ゆっくりと二つの瞼が開く。そして視界に突如現れたそれに、彼の意識は覚醒した。

「ぅ、わ...っ!」

ショートが声をあげ飛び起きると、覗き込むようにして彼を見ていた"彼女"が、なぜか人差し指を彼の方に向け、声を出さずに笑っている。その理由は定かではないが、今日は空色のエプロンドレスを身に纏い、今の今まで自分が寝ていたベッドに腰掛けながら足をパタパタを動かしているナマエの姿に、ショートは小さく息をついた。

「お前な...仮にも男が寝泊まりしてる部屋に、女が一人で来るなよ...」

彼がそう苦言を呈すと、ナマエは不思議そうな顔をしながら、小さく首を傾げてみせる。そんな彼女の様子を見て、ショートはこれが生まれ育った土地の違いなのか、それとも本人の問題なのか、その判断に迷っていた。

「いや、嫁入り前の女なわけだし、もう少しその、なんつーか...」

ショートは自身の言葉に補足を加えてみるも、彼女は眉間に皺を寄せ、さらに謎が深まったかのような表情を浮かべる。そんなナマエの様子を見たショートは、彼女の警戒心のなさに少し呆れつつも、これ以上の言及はおそらく無意味であろうと結論づけた。そもそも彼女にそんなものがあるならば、自分が今ここにいるこの状況も成立してはいないと、そう考えたからである。

「......まぁいい。それで、俺になんか用か?」

ほんの僅かなため息とともに、彼がその言葉を吐き出すと、ナマエは部屋の机の上をすっと指差した。そこには昨夜寝る時にはなかったはずの籠に入ったパンがいくつかと、赤いスープが注がれた深めの皿、そして木のスプーンがある。スープから微かに湯気が立っているのを見るに、ちょうど今彼女が運んできたものなのだろうと、ショートはそう推測した。

「俺の分か?」

ショートが短くそう問いかけると、彼女はこくこくと首を縦に振る。するとナマエはショートの手を引きながら、食事が置かれた机の方へと彼を足早に導いた。咄嗟のことに驚いたショートだったが、食事にピシッと指を差し、じーっと自身を見つめる彼女に、その真意をすぐに理解する。

「分かった分かった。すぐ食うよ。ありがとな」

そう言いながら彼が机に備え付けられた椅子に座ると、彼女は再びショートが寝ていたベッドに腰を下ろした。目の前の人物がそれを口にする瞬間を、今か今かと待っている様子のナマエに少し戸惑いながらも、ショートは添えられていたスプーンを手に取り、その薄い唇を開いた。

「じゃあ...いただきます」

机に置かれた深い皿にスプーンを浸し、ショートがそれを軽く持ち上げて口に含むと、真っ赤なその見た目に反し、まろやかな味が口内に広がる。トマトがベースになっているのだろうが、その他に入っている野菜と中央に落とされた半熟の卵が調和をとってくれているのか、それは深みのある、そして柔らかな味だった。

「美味いな、これ」

ショートがそう言うと、ナマエはパッと顔を明るくさせて嬉しそうに笑い、自分自身の胸の辺りに右手を添えて、トントンと軽く叩いてみせた。

「お前が作ったのか?」

その問いかけに親指をピンと立て、自信満々にグーサインを掲げるナマエに、ショートはふっと軽く笑みを零してから、さらにそれを食べ進める。隣に置かれた少し固いパンを手でちぎり、それをスープに浸して食べると、旨味を吸ったパンが口の中でほろほろと崩れていった。あっという間にそれを食べ終え、ショートが小さく「ごちそうさま」と口にすると、ナマエはとても満足気な様子で、にっこりと彼に笑いかけた。

「というか、わざわざ部屋まで持って来てくれたのか?朝も昨日みたいに、揃って食事するんじゃ...」

再び彼が質問すれば、彼女は少しだけ答えに詰まったような顔を浮かべると、遠慮がちに自分の手首につけていた腕時計の文字盤を、ショートに見えるよう傾ける。短針は10、長針は1と2のちょうど真ん中を指しており、ショートは朝食の時間がとうに過ぎているということと、自身が半日近く眠っていたという二つの事実を、その時初めて理解した。

「すまん...完全に寝過ごしちまった...」

彼がそう口にするとほぼ同時に、部屋の扉をノックする音が聞こえてくる。キィィ、と軋むような音を立てながらゆっくりとそれは開いていき、出来上がったその隙間から、ひょっこりとシスターが顔を出した。

「お目覚めかしら?」
「ちょうど今起きました。すみません。ここのところまともに寝れてなかったもので、すっかり寝入ってしまって...」
「いえいえ、いいんですよ。お疲れだったみたいですし...昨夜はぐっすり眠れましたか?」
「おかげさまで」
「良かったわ。あ、昨日の服はお洗濯しておきましたよ。夕方には乾きますからね」
「何から何まですみません。助かります」

ショートが小さく頭を下げると、昨夜から開けっ放しにしたままになっていた窓の外から、楽しげな笑い声が聞こえてきた。そしてその刹那、彼はとても不思議な感覚に陥る。同じ大陸に位置していても、ここはとても穏やかで暖かく、自身が生まれ育った場所とは、時間の流れそのものが異なっているように錯覚させられたのだ。

「そういえば...ショートさんは、街に行きたいと仰っていましたよね?」
「はい。色々と調達したいものがあるので」
「買い出しでしたら、ここから30分ほど歩いたところのクリークという街まで行けば、大抵のものは揃うかと思いますよ」
「ありがとうございます。早速この後行ってみます」
「分かりました。じゃあナマエ、さっき頼んだ"おつかい"ついでに、ショートさんを案内してあげてくれるかしら?夕方までに戻って来てくれればいいから」

部屋のベットに腰掛けていたナマエにシスターがそう話かけると、彼女はそこからすくっと立ち上がり、右手の指をピシッと伸ばして、敬礼のようなポーズをしてみせた。

「昨日から色々悪ぃな。お前の用事優先でいいから」

ショートがそう言うと、ナマエは嬉しそうに笑い、軽やかな足取りで部屋を出ていく。楽しげなその横顔の残像に、彼は自然と自身の口角が上がるのを感じた。

「いつもあんな感じなんですか。あいつは」
「気になりますか?」

特に意味などなく、なんとなく口にしたショートの問いかけに、シスターはにっこりと笑いながら、逆にそう質問する。明らかに何かを含んだその物言いに、彼はその返事に詰まった。

「俺は、別に」
「あら残念。あの子ももう19ですし、早くいい人をと思っているんですけれど」
「え」

ショートは驚いた。昨日初めて出会った女の相手候補にされていたことはもちろんだが、それ以上に驚いたのは、彼女の実年齢だった。15年前から孤児院にいるというシスターの言葉から、それ以上の年齢であることは間違いなかったが、まさか自分より歳上だとは思っていなかったのだ。

「そんなに驚かなくても、冗談ですから安心して下さい。ふふ、ショートさんは真面目ですね」
「あ、いえその...どちらかというと、あいつが自分より歳上だったことに驚いていて...てっきり歳下だと...」
「ちなみにショートさんは…」
「18です」
「そうでしたか。ショートさん大人っぽいから、私もてっきりあの子より歳上なのかと...なかなか見た目だと分からないものですね」
「そうですね」

自分の見目が年相応か否かはさておき、少なくとも自分が元気であることを表現するために飛び跳ねるような歳上の女は、ショートの記憶の中にはいない。つい昨日のその出来事を思い出し、彼は再び吹き出してしまいそうになるのを、どうにかぐっと堪えてみせた。

「じゃあ、俺はそろそろ着替えます」
「はい。では私はそろそろお暇しますね。それと気づいていらっしゃったら申し訳ありませんが...」
「なんですか?」
「ふふ、出かける前にその寝癖は直された方がいいですよ。せっかくのハンサムが台無しだわ」

シスターは少し悪戯っぽい笑みを浮かべながら、スカートのポケットから丸いコンパクトを取り出して、その鏡面をショートに向ける。それを覗き込んだ次の瞬間、ショートは起き上がった時にナマエが自分を見て笑っていたその理由をようやく知ることが出来た。何がどうしてこうなったのか、四方八方に跳ね上がった自分自身の髪を見て、彼は思わず目頭を押さえた。

「その、なんか、すいません」
「とんでもない。それにしても珍しい髪色ですね。赤と白の混色なんて...地毛ですか?」
「まあ…はい。そうですね。一応は」

彼が短くそう答えると、部屋のドアが再びコンコンと叩かれる。先ほどとは違いその扉は勢いよく開かれ、その側には既に身支度を整えた様子のナマエが、うきうきした様子で立っていた。そしてその手には、なぜか霧吹きのようなものを持っている。

「あら、もう支度出来たの?」

ただ買い物に行くだけだというのに、目をきらきらと輝かせて待っている彼女に、ショートとシスターは顔を突き合わせ、思わず互いにふっと笑った。

「ふふ、では私は今度こそ失礼しますね」
「はい」

シスターが部屋を出て行くと入れ替わるように、ナマエは再び部屋の中へ入り、彼の側までやって来た。

「悪ぃ。今着替えるから、少し外出て待っててくれるか」

ショートがそう彼女の話しかけると、ナマエはふるふると首を振り、椅子に座っているショートの方に手を伸ばし、寝癖だらけのその髪にすっと触れた。

「ちょ、なんだ急に…」

突然のことにショートがそう声をあげると、彼女は「大丈夫」とでも言いたげに、トントンと優しく彼の肩を叩くと、手に持っていたその霧吹きを軽く持ち上げ、シュッと水をショートの髪に吹きかけた。どうやらナマエが持っていた霧吹きは髪を整えるためのものらしく、窓から吹き込む風に乗って、ほのかにハーブのような香りがふわりと舞う。

「いい匂いだな」

ぽつりとそう口にしたショートを見て、ナマエは得意げに笑ってみせた。そしてどこに持っていたのか、手にした小さな櫛を使って、彼の髪を優しく梳かしていく。楽しそうに自身の世話を焼く彼女の様子を見ていたショートは、黙ってその行為を受け入れていた。赤の他人に触れられることを平然と受け入れている自分に違和感を抱きつつも、頬を掠める柔らかな風と、部屋に広がる爽やかなその香りがとても心地いい。彼の髪を梳かし終わったのか、彼女はナマエは櫛を一度エプロンドレスのポケットにしまうと、もう一度ショートの髪に触れながら、それをじっと見つめていた。

「ああ...この色か?変な色だろ。無駄に目立つし」

何気なく彼がそう呟くと、彼女はきょとん、とした顔をしてから、小さく首を何度か振ると、その唇をゆっくりと動かした。

"とてもきれい"

少しも恥ずかしがることなく、微笑みながら口を動かした彼女に、ショートは思わず顔を逸らした。珍しいとか、独特だとか、そんな感想は腐るほど耳にしてきたが、他人からそんな言葉を向けられたのは生まれて初めてで、彼はとても戸惑っていた。

本当になんなんだ。この女は。

変わった人間だなと、ショートは改めてそう思った。話すことが出来ないことも、予測がつかないその行動もそうだが、その最たるは、彼女の放つその雰囲気だ。今まで出会ってきた他の誰とも違う、不思議な空気を纏っているこの存在そのものに、彼は戸惑いを覚えている。
そんなショートを余所に、ナマエは何を思ったのか、突然彼の横を通り過ぎ、開け放たれた窓辺にそっと手をついた。

「あ…」

それにつられるようにして、彼もそこへ顔を向ける。そこにはもちろん昨夜自分が置いた小さなショットグラスが置かれていたのだが、朝を迎えてしばらく経ってしまったからか、そこでひっそりと咲いていた白い花は、まるで力を奪われたようにぐったりとしている。こうなることが分かっていたからか、枯れかけた花を見つけたナマエは露骨に表情を曇らせることはなかったものの、その横顔はどこか少し寂しげで、別に自分が何をしたというわけでもないのに、ショートにほんのわずかな罪悪感にも似た何かを植え付けた。

「……着替えたらすぐ行くから、お前は外で少し待ってろ」

ショートが静かに語りかけると、ナマエは小さく頷いてから、軽く手を振って部屋を出ていった。

余計なことを言わなくて、良かった。

あの横顔を見て、何かを言いかけた。しかし何を言っても言葉の選び方を間違えそうだと、彼はそう思った。何を言おうとも、きっと今彼女が一番強く願っているそれを、自分は叶えてやることが出来ない。ならばどんな言葉をかけても、きっとそれは不正解なのだ。胸の奥で燻るそれに気付かないふりをして、ショートはわざとカーテンを閉めてから、窓辺からそっと目を逸らした。







孤児院から少し山道を抜けた場所に位置するクリークの街は、都会と呼ぶには少し野暮ったい雰囲気はあるものの、衣類や食料、もしもの時の医療道具など、ショートがこれから旅をする上で必要としていた物は十分賄うことが出来た。商人たちも気さくで朗らかな人ばかりで、顔を隠すためにフードを深く被っていた彼を少しも怪しまないばかりか、あれもこれも持っていけと言われてしまい、さすがに全部は持っていけないからと、ショートが断る羽目になる店すらあった。

「なんていうか…人の良い奴が多いな。この辺りは」

彼が素直な感想を漏らすと、隣を歩いていたナマエは嬉しそうな顔をこちらに向けてから、力強く頷いた。まるで自分のことを褒められたように嬉しそうな彼女の顔を見て、ショートは小さくため息をついた。

「治安がそこそこいいのは分かったが、勝手に一人でどっか行くのはやめろよ。何かあったら困るから」

彼がそう釘を刺すと、ナマエは今日二度目の敬礼ポーズをしながら、にっこりと笑ってみせた。

本当に分かってんのか…こいつは…。

買い物に来て二時間ほど経過したが、気づけばふらりとどこかに行ってしまうナマエに、ショートはかなり振り回されていた。シスターの話によれば、彼女は時々一人でこの街に買い物に来ているらしいが、男でも通るのを躊躇う薄暗い路地に平然と入って行ったり、明らかにナンパ目的であろう連中にも丁寧に応対してやる始末で、今日まで何事もなく孤児院まで帰れているのが、奇跡だと思えるレベルの危なっかしさだ。後者については彼女が話すことが出来ないと分かると、ほとんどの人間は去って行くものの、今日はしつこい男が彼女の腕を掴もうとしたところで、ショートがギリギリそれを阻止したのだった。

「で、結局お前のおつかいとやらがまだだが、何を頼まれたんだ?」

そう問いかけられたナマエは、肩にかけた鞄から例のスケッチブックを取り出してから、相変わらず本人の雰囲気とは合致しない黒い万年筆を白い紙に走らせる。彼女は白い紙に長方形一つ描くと、その中央に葉のようなものを描き足してから、それだけを残して周囲を黒く塗り潰した。

「これは…」

その正体を突き止めるべく、彼は頭をフル回転させる。

よし。今度こそ"リベンジ"だ。

遡ること昨日の夕食後、ショートは子どもたちに巻き込まれる形で「ナマエの描いた絵のお題が何かを当てる」という謎のゲームに参加していた。しかし余りにエキセントリックで芸術性が高すぎる彼女の"作品"たちには、随分と頭を悩まされた。おまけにショートが不正解を連発させたことで、ナマエがまた泣き出しそうになってしまい、食後のデザートであるプリンを彼女に献上するという形でなんとかその場を収めたのは、彼の記憶に新しい。

この真ん中のが何かの葉だとすれば、植物に関わるものなのは分かるが…

「……土か?」

短く彼が尋ねると、ナマエは少しむっとした顔をしながら、ふるふると首を横に振った。

「じゃあ…肥料とか…」

今度は遠慮がちにショートがそう呟くと、どうやらその答えも間違っていたらしく、彼女はぷくーっと頬を膨らませながら、ふい、と顔を逸らして、一人で歩き出してしまう。泣かれるよりはまだマシなのだが、これはこれでなかなか困るなと、ショートは一つため息を吐き、彼女の背中を追いかけた。

これで俺より歳上なのか…。

そんなことを思いながらその後ろについていくと、彼女は少し先の角にある店で、ぴたりとその足を止めてみせる。するとナマエはその店の看板をピッと指差して、ショートの方をむすっとした顔で振り返った。

「……ああ、これだったのか…」

その看板を見た瞬間、彼は納得した。黒が基調とされたその看板の中央には、浮かび上がるように白い葉が一枚描かれており、どうやら先ほどの彼女のイラストの正体は、この店の看板だったらしい。ナマエがその店の扉を開けると、あらゆるものが入り交じった独特な香りが鼻を刺し、その匂いにショートは目を顰めた。店内には所狭しと見たこともない植物の鉢植えが並べられており、鼻を刺すようなこの異臭のもとは、おそらくこれらの匂いが入り交じっているからであろうと、彼はそう推測した。

「おや、今日もシスターのおつかいかい?ナマエ」

奥にあるカウンターに腰掛けていた店主らしきその女は、いかにも妖艶という言葉が似合いそうなすらっとした美女で、ふーっと煙管で煙をふかしながら、首を傾げてナマエにそう尋ねた。自分に向けられたその質問に対し、彼女はこくりと小さく頷いて、籠の中から麻の袋を取り出すと、そっとそれを女に渡す。

「いつもの薬だね。少しお待ち」

女はそう口にしてから咥えていた煙管を一度置くと、壁際の棚に並べられた瓶の中からいくつかそれを選び取り、慣れた手つきでその中身をブレンドしていく。どうやらここは薬草を調合して薬を作る店らしく、この女は薬剤師というわけだ。

「それにしても珍しいじゃないか。アンタが男と一緒に店に来るなんて。ボーイフレンドかい?」

女はその手の動きを止めることなく、後ろにいるショートに一瞥をくれてから、ナマエにそう問いかける。しかし彼女はそんな店主の邪推に、あっさりと首を横に振った。

「相変わらずつまらないねぇ…その歳なら付き合ってる男の二、三人くらいいるのが健全ってモンなのに…」

ケタケタと笑い声をあげながら、店主の女はそうぼやく。いや複数人いるのはまずいだろうと、ショートが頭の中でそんなことを思っていると、まるでそれを見透かしたかのようなタイミングで、女は彼の方をしっかりと見て、にやりと口角を上げてみせた。

「アンタもそう思わないかい?」

唐突にそう問いかけられ、彼は一瞬言葉に詰まる。目の前にいるこの女の健全の定義がおかしいことは分かるが、色恋沙汰を語れるほどの女性経験は、残念ながら彼にはまだない。

「そういうのはその、なんというか…本人次第だと思いますし、年齢とかはあまり関係ないと思います」
「真面目だねぇ…最近の子は。ま、生真面目同士でなかなかお似合いじゃないかい」
「だからそういう関係じゃありません」
「冗談の通じない男だねあんた…もう少し軽いノリの方が、女は寄ってくるもんだよ」
「女にモテたいとか、別に思ったことないんで」
「ゲイなのかい?」
「違います」

しれっとそんな質問をする女に、ショートはぴしゃりとそう言い放つ。自分もそこまで細やかな方ではないと自覚しているが、なんてデリカシーのない女だと、彼はシンプルに不愉快だった。しかしそのやり取りを黙って見ていたナマエは、プルプルと小刻みに肩を震わせながら、口を押さえて音なく笑っている。

「何笑ってんだよ」

その低い声に、ナマエの肩は大きく跳ねた。じとりと向けられたショートの視線に気まずそうな顔を浮かべると、咄嗟に軒先の方で何かを見つけたのか、まるで希望の光を見つけたような面持ちで、逃げるようにその場を駆け出す。

「はは、なかなか面白い子だろう?」
「まあ…今まで会ったことがないタイプではありますね」
「へぇ、そうなのかい」

含みを持たせたその反応に、彼はさらにイラついた。別にそういう意味で口にしたわけではないのに、常に揚げ足を取ってくるような目の前の女の言動に、不快指数が上昇していく。

「ところでさっき、"いつもの薬"と言ってましたが、孤児院のシスターさんは、どこか具合が悪いんですか?」

ひとまず話題を変えようと、ショートがそんなことを尋ねてみせると、店主の女は相変わらず慣れた手つきで調合を続けながら、ああ、と小さく声をあげた。

「これは冷え性の薬だよ。昔から特に手足の冷えが酷いらしくてね。市販の薬じゃ効かないってんで、ウチで調合してるのさ」
「なるほど。そういう…」
「市販薬は手に入りやすいし飲みやすいけど、自分に合う薬ってなると、なかなか出会えないもんだからね。その点ウチは症状を聞いてから調合してるから、個人にあった薬を処方出来るのさ」
「……思ってたより、結構まともな店なんですね」
「アンタ涼しい顔してなかなか不躾だね。まあでも確かに、人には言えない薬を欲しがる客もいるから、あながち間違っちゃいないけど」

あっけらかんとそう口にした女店主に、ショートは困惑した。どうやら同じ街で商売を営んでいるという共通点こそあるものの、彼が今日関わってきた商人たちと彼女は、かなり違う人種のようだ。

「人に言えない薬って…」
「んー、まあ色々あるけど、例えば媚薬とか」
「な…っ、」

予想を上回るその返答に、彼が思わず動揺の声をあげてみせると、女は少し離れた場所にある棚から黄金色の液体が入った小瓶を手に取って、それをショートの目の前に置いた。

「試してみるかい?効き目は保証するよ」
「……結構です」
「間があるってことは、多少なりともそういう欲はあるんだねぇ。安心したよ」

この女、マジで一発殴ってやろうか。

ナマエがこの場にいなかったことがせめてもの救いだと、彼は心からそう思った。同世代にこんな話を聞かれたら、入る穴がいくつあっても足りない。

「いいんですか。そんなことを白昼堂々暴露して」
「構わないよ。何せウチのお得意様の中には、いわゆる"上級国民"なんて呼ばれてる連中もいるからね。そういう奴らが勝手に店を守ってくれるし、万が一店が潰されたとしても、そういう阿呆がいる限り、あたしの仕事はなくならないのさ」
「……そんな商売で金儲けして、恥ずかしくねぇのかよ」
「恥ずかしいも何も、これがあたしには日常だ」
「金があんなら、普通に真っ当な日常でだって生きられるだろ」
「分かっちゃいないねぇ。残念ながらあたしも含め、"そういう場所"でしか生きられない奴らってのはいるもんさ。─── かのカリエントで英雄と名高い"王子様"には、理解できないかもしれないが」

その言葉に、額にじわりと汗が滲む。彼は本能的にその女から距離を取り、鋭く彼女を睨み付けた。いつから。どうして。こいつの目的はなんだ。あらゆる疑問がショートの頭の中に浮かぶも、その答えは分からない。

「言っただろう?ウチには色んなお得意様がいるって」

調合を終えたのか、店主の女は再び煙管をふかしながら、ふっと笑ってそう口にした。

「何が、狙いだ」
「安心しな。別に誰にも言ったりもしないし、アンタに何かを要求するつもりもないよ。お得意様のボーイフレンドだしね」
「そんなの信じられると思うか」
「お客の情報は売らないさ。情報ってのは時として命より重い。アンタもカリエントの出身なら、その意味は理解出来るだろう?」

そんなの知るかと口に出来たら、どれほど良かっただろう。ショートはそう思った。けれど女の言うことは正しかった。あらゆる思惑がひしめくその界隈では、時としてたった一つの情報が、人の生死を決めてしまう。それを反論できない自分に、彼は心底嫌気が差した。その言葉を否定することが出来ない自分は、結局あちら側の人間と大差ないのだと、そんな現実を突きつけられたようで。

「ときに、ムッツリ王子」
「……次にその呼び方したら、女でも殴るからな」
「さっきから"お姫様"の姿が見えないようだが、放っておいていいのかい?」

女がそれを口にした瞬間、ショートは思い切り後ろを振り返った。つい先ほどまで店の軒先にいたはずのナマエの姿が見当たらないのだ。彼女が突然いなくなったこともそうだが、話に夢中でその気配が途絶えていたことを今の今まで気づかなかった自分自身に、ショートは一番驚いていた。

「あいつは、また…っ」
「はは、大変だねぇ。ま、これも"運命"と思って諦めることさ」
「なんの話だ」

彼の短いその問いに、女はただ笑みを浮かべるだけで、何も答えることはなかった。先ほどナマエから受け取った麻の袋に調合を終えた薬を詰め、女はそれをそっとカウンターの上に置く。

「"イザベラ"」

そして女は返事の代わりに、誰かの名前を口にした。

「え…?」
「この名前を覚えておくといい。必ずアンタの役に立つよ」

そう意味深な言葉を残すと、背を向けながら軽く手を振り、女は店の奥へと消えて行った。一体あの女は何を知っているのか。イザベラとはどこの誰なのか。女はなぜ、あんなことを断言出来たのか。再びあらゆる疑問がショートの頭の中に浮かぶものの、やはり答えに辿り着くことはない。

「なんなんだよ…」

ぽつりと呟かれた動揺と困惑は、煙のように空気へ溶ける。言葉の真意を確かめるべく、ショートは店の奥へと一歩足を踏み出そうとしたが、視界に映り込んだ麻袋に、その足がぴたりと動きを止めた。あの女の言葉は気になるが、まずは彼女を探さなくては。よく分からないその使命感に無性に掻き立てられ、カウンターに置かれた袋をやや乱雑に掴み取ると、ショートはくるりと踵を返して、走って店の外に出た。







そもそも案内人がこうも頻繁に消えるのもどうかと思うし、自分が先ほど釘を刺したにも関わらず行方を眩ませたナマエに対して、彼にも思うところはあった。しかしこのまま放っておいて万が一何かあれば、どうしたって目覚めは悪い。数分前まではここにいたのだ。そんなに遠くには行けないはずだと、ショートは顔を何度か左右に揺らして、人通りの中から彼女を探す。

「…………あ」

姿を消した案内人は、意外にもあっさりと見つかった。例の怪しい調剤薬局から少し歩いた場所にある広場の噴水の近くで、何かを愛おしそうにじっと見つめる彼女を見つけたのだ。そんな姿に引き寄せられるように、彼が走ってナマエの側まで行くと、ショートの姿に気づいた彼女は、何かを思い出したようなハッとした顔を浮かべてみせると、視線をキョロキョロと泳がせた。

「お前なぁ…」

彼がそう声をあげると、ナマエは勢いよく頭を下げてから、両の手のひらをそっと合わせた。

"ごめんなさい"

ショートが怒っていると思ったのか、彼女はゆっくりと口動かすと、申し訳なさそうに顔を俯かせる。そんなナマエを見た彼は軽く息を一つ吐くと、その手を軽く彼女の頭に乗せた。実際少し怒っていたし、文句を言ってやるつもりだった。しかし彼はそうすることなく、彼女の丸い頭を撫でるようにしてやると、ナマエはそっと顔を上げて、とても安心したような顔を見せる。ショートは改めて思う。本当に目の前にいるこの女は、自分より歳上なのだろうかと。

「何を見てたんだ?」

そう彼が問いかけると、彼女はすっと手を伸ばして、噴水の側でアコーディオンを弾く一人の男を指差した。

「好きなのか?ああいうの」

ショートが再び問いかけると、ナマエは少し考えるような素振りをしてから、ポケットから小さな手帳のようなものを取り出して、そこに挟まっていた何かをショートに見せる。ところどころ破れてしまっているが、どうやら昔の写真のようだ。そこに写っていたのは楽しそうに楽器を弾く二人の男女の姿で、男はアコーディオン、女はギターをそれぞれ持っていた。ギターを嗜む女性というのは珍しいため、ショートは少し驚いたが、それ以上に驚かされたのは、ギターを弾く女性の顔つきだ。見たことがあるどころか、その面影をそのまま宿した人物が、彼の目の前にいるからである。

「この人たちって、お前の」

そこまで口にしたところで、ショートは口を噤んだ。彼女の両親のことはシスターに聞いたというだけで、本人から直接教えられたわけではないし、よくも知らない人間に死んだ両親の話をされるのは不愉快だろうと、彼はそう思ったからだ。しかしそんなショートの考えに反して、ナマエはこくりと小さく頷くと、その写真の二人を穏やかな顔で見つめていた。その瞬間、彼は確信した。急に姿を消したのも、あのアコーディオンを弾く男を見ていたのも、きっと"そういうこと"なのだろうと。

ああ、そうか。こいつは、ただ ───

「好きなんだな。お父さんと、お母さん」

ショートがそう呟くと、ナマエは嬉しそうに笑った。ほんの少しの影も落とすことなく、とても幸せそうに。

「夕方までに戻れば、いいんだよな」

ショートはその白い手に、初めて自ら手を伸ばした。咄嗟の彼の行動にさすがの彼女も驚いたのか、目を丸くして彼を見上げる。

「どうせなら、近くで見た方がいいだろ?」

彼がそう尋ねると、ナマエは再び嬉しそうな笑顔を浮かべ、何度も首を縦に振る。そんな彼女の顔を見て、ショートは自然と笑みを零すと、その手に少しだけ力を込めて、音の鳴る方へと歩き出した。


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2022.10.11

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