03 始動


「ところでショートさん、必要なものは揃いましたか?」

夕食を済ませ、食べ終えた食器を片付けていたシスターは、同じく食器を重ねていたショートに向かって、ふとそんなことを尋ねてみせた。

「おかげさまで大体は。明日にはここを出ようかと思います」

彼が何気なくそう口にすると、近くで遊んでいた子どもたちが、その発言に異を唱える。

「えー!ショートいなくなっちゃうのー!?」
「ずっとここにいればいいのに!」
「そうだよー!」
「そう言ってくれんのは嬉しいが、こう見えて俺も色々やることがあるんだ。悪ぃな」
「どう見ても暇そうなのにねー」
「ねー、定職にも就かずにダラダラとさぁ」
「こら!なんてこと言うの!」
「やべっ、シスターが怒った!」
「逃げろー!」

走り去る何人かの子どもたちを追いかけることなく、シスターは小さくため息をついた。

「すみません、子どもたちが失礼なことを」
「いえ、全く気にしてませんから」
「でも残念です。もう少しゆっくりされていってもいいのに。ナマエもきっと寂しがるわ」

その名をシスターが口にした瞬間、ショートは無意識に彼女を探し始めた。しかし先ほどまで同じテーブルを囲って一緒に夕食を食べていたはずのナマエの姿は、なぜかどこにも見当たらなかった。

「あいつは…」
「ああ、今夜はあの子、"仕事"で少し出ていまして」

意外なその返答に、ショートは目を丸くした。

「仕事?」
「ええ。仕事といってもほんの2時間ほどですし、本人はそのつもりはないようですが、一応報酬をいただいているものなので」
「こんな時間から仕事って...」

本棚の上に置かれた古い置時計に彼が目をくばせると、時刻は既に夜の7時半を過ぎている。本人の印象からあまり想像は出来なかったが、こんな時間から働きに行く"仕事"の正体に、少々口に出すのが憚られる邪推が、ショートの脳裏に浮かび上がった。

「その…念のための確認ですが、変な仕事とかでは」
「ふふ、もちろん違いますよ」
「あのね、ナマエはお金持ちの人が行くレストランで、ピアノを弾いてるんだよ!」

たまたま彼の近くで絵を描いていた一人の少年が、自慢げにそう声をあげる。

「ピアノ?」
「すっごい上手なの!一度聴いただけの曲を、魔法みたいにすらすら弾けちゃうんだよ!」
「一度聴いただけでって...楽譜がなくても即興で弾けるってことか?」
「そうなんです。一度耳で聴いた曲であれば、譜面がなくてもすぐ弾けるようで」
「なんだっけ?えっと...ぜ、ぜつ...」
「"絶対音感"、か?」
「それ!ぜったいおんかん!」

たどたどしい発音でそう声をあげる少年に、ショートはふっと軽く笑みを零した。買い出しの途中ナマエが彼に見せた写真から、彼女の両親が音楽をやっていたことは知っていたが、まさか本人にもそこまで優れた才覚があったとは思わず、ショートは素直に驚いていた。

「あいつのご両親も、音楽をやっていたんですよね」
「あら、ご存知だったんですね」
「さっき写真を見せてもらって」
「そうでしたか。なんでもご夫婦共に音楽家で、色んな国を旅して回っていたそうですよ」
「そうなんですか」
「ええ。でも不思議ですよね。二人の記憶は朧気にしか残っていないはずなのに、あの子の中にはちゃんとご両親が残したものが根付いているのですから」
「あいつも、将来的には音楽を?」
「どうでしょう。ただご両親の生き方には、強い憧れがあるようです」
「そうなんですか?」
「はい。いつか自分も両親のように旅をして、色んな国を見てみたいと、ずいぶん前に教えてくれたことがありました」
「あいつが、旅…ですか…」

人の夢に口を挟むなど野暮である。しかし今日一日だけで彼女の無防備さに幾度となく肝を冷やしたショートには、やはり思うところがあった。

「どうかしましたか?」
「いやその、人の夢に口を挟むのもどうかと思うんですが、それはやめておいた方が…」
「あら、どうしてですか?」
「一人だと危なっかしいというか、見ているこっちが落ち着かないというか...」
「ふふ、ナマエは好奇心旺盛ですからね」

くすくすと笑みを零して楽しげにそう口にするシスターに、ショートは少し複雑だった。確かに言語化すれば適切な表現なのだが、その好奇心に振り回される側はたまったものではないと、彼は小さくため息を落とす。

「旅をしたら、会えるような気がするんだそうです」
「え?」

主語のないその伝聞に、彼は短く聞き返した。

「同じように旅をしたら、朧気な記憶になってしまったご両親に、もう一度会えるような気がするって、あの子が、そんなことを」

慈しむようにそう語るシスターに、ショートはひどく胸を締め付けられた。本人からすれば余計なお世話だろうが、微かなその記憶の欠片を必死にかき集めようとするその姿を想像して、どうしようもないやるせなさに駆られた。

「それは ─── 、」

しかしその続きを、ショートは口にすることが出来なかった。暖かみのあるリビングの内装には似つかわしくない、大きくて重厚感のあるその扉が、突如乱雑に叩かれたからだ。すると次の瞬間、彼はその異変に驚かされる。いつもならいそいそとその扉に駆け寄るシスターがその場を微動だにせず、来客があればはしゃぐはずの子どもたちが、鋭い目つきで扉を凝視しているのだ。そんな彼らの様子を見てただごとではないと感じたショートは、自然と自身の後頭部にある羽織のフードに手をかけ、それを深く被ってみせる。

なんだ…?

当然の疑問をショートが抱いていると、キィ、という耳障りな音と共に、見知らぬ三人の男が現れた。全員がおそらく20代後半くらいで、黒のジャケットに同じ色のスラックスという装いだ。うち二人は屈強な体格に派手な柄のシャツをはだけさせ、いかにも柄の悪そうな見た目であるのに対し、その両者の間に立つもう一人の人物はかなり細身であり、皺のない真っ白なシャツに上品なグレーのネクタイという、非常に対照的な風貌をしている。

「すみませんね。夕食時に」

中央に立っていたネクタイの男は、笑みを浮かべてそう口にした。

「何しに来たんだ!」
「帰れ帰れ!」
「こらあなたたち...そんな言い方をしてはいけませんよ」

そんな子どもたちとシスターのやり取りを間近で見たショートは、この三人組が孤児院にとって不都合な存在であることをすぐ理解する。先ほど彼が目の当たりにした子どもたちのあの視線は、紛れもない敵意であったのだと、ショートはそう確信した。

「誰なんだ?」
「町長とその取り巻きだよ。時々来るんだ」

近くにいた一人の少年にショートが小声で尋ねると、少年は不快感を隠すことなく、鬱陶しそうにぽつりと返事をした。

「今日こそ、色良いお返事を聞かせていただきたいものですね。シスター」

とても穏やかな口調と笑顔で、男はそんなことを口にした。すると男に話しかけられたシスターは、珍しく眉間に皺を寄せながら、深いため息を一つ吐く。

「何度お越しいただいても、返事は変わりません。ここを守っていくことは、亡くなった主人の遺志でもありますから。どうぞお引き取りください」
「ババアてめぇ!誰に向かって口を」
「よさないか。子どもの前でそんな大声を出すもんじゃない」

中央の男がぴしゃりとそう言い放つと、男の左側にいた柄シャツの男がぴくりと肩を震わせながら、小さく「はい」と返事をした。どうやら中央に立つ細身の男が町長で、その両脇にいる屈強な二人の男は、その側近兼ボディガードといったところらしいと、ショートはそんな予想を立ててみせる。

「しかし困りましたね。大人しくここを出ていって貰えないと、こちらも手段を選べなくなる」
「それは脅迫ですか?」
「物騒な物言いはやめていただきたいですね。僕はこの寂れた田舎にどうにかして活気をもたらしたいという一心で、こうして何度も出向いているんです。元よりこの孤児院の土地は我が家が所有しているものなのですから、こちらは正当な権利を主張しているだけですよ」

依然として穏やかな話し方ではあるものの、その内容はあまり穏やかと言えるものではなく、たった今会ったばかりのその男に対し、ショートは既に嫌悪感を抱いていた。大義の皮を被った屁理屈を並べ、自身の利得のために他人を脅かす人間というのはいつの時代にも一定数いるものだが、そういう類の人間のことを、彼はどうにも好きになれないのだ。
この場にいる人間のおおよその関係性を理解したショートは、一瞬頭に過ぎったある考えを、その場で直ぐに却下した。今すぐにでも、目の前にいるこの男たちを黙らせる手段はある。しかしそれを使うことは彼にとってもリスクであり、そもそも成り行きで一時的にここに身を置いているだけの自分が首を突っ込んでいい話ではないだろうと、ショートはそう考えた。

「正当な権利と仰いますが、この土地の権利書は、あなたのお父様から夫が譲り受けたものです。今になってそんなことを言われても、こちらは困ります」
「当人たちはもうこの世にいない上、正式に譲渡の記録となる書面もない。そんな口約束は無効でしょう。本当にそのやり取りが交わされていたと裏付ける、確かな証拠がないのですから」

何かが引っかかると、ショートはそう思った。シスターとの会話を聞く限り、この孤児院の土地を町長一家が保有していたのは、おそらく間違いないのだろう。しかし今さらこの土地を手に入れたところで、町長が先ほど口にしていた「寂れた田舎にどうにかして活気をもたらしたい」という目的は、果たして達成されるのだろうか。例えばここを更地にし、そこに名所となる何かを作る目論見があったとしよう。しかしそれをするにもそれなりの元手は必要な上、それを回収することが出来なれば、逆に彼らは損をすることになるわけだ。クリークのようにある程度人が行き交う場所ならともかく、こんな穏やかな田舎町にそれほどの商業インパクトがあるとは、とても思えなかったのである。
目の前にいるこの人物の本当の狙いは、別のところにあるのではないだろうか。自分は蚊帳の外にいる人間であると分かっていても、ショートはそんな疑念を抱かずにはいられなかった。

「二人がもういないのなら尚のこと、その気持ちを尊重すべきとは、お考えにならないのですか…?」

思考を巡らせるショートを余所に、シスターはとても悲しそうな顔を浮かべ、町長にそう問いかける。しかし肝心の人物に彼女の気持ちは届くことなく、まるで馬鹿にするかのように、男は乾いた笑い声をあげた。

「父のやっていたことは、所詮ただの自己満足です。人との繋がりだの思いやりだの、そんなものは一銭にもならない。金にならないものなんて、何の価値もないんですよ」

地獄の沙汰も金次第。昔からよくそう言うし、そういうものは確かにある。"あった"のだ。記憶の片隅にあるそれが呼び起こされ、ショートは自然と顔を顰める。

ああ、イラつくな。この男。

そして彼は次の瞬間、まるで何かに取り憑かれたかのように、自然と口を開いていた。

「そんなことはねぇだろ」

自分は関わるべきではないと、そう結論づけたはずだった。しかしショートはそんな自身を易々と裏切り、目の前にいる男たちに向かって、はっきりとそれを口にする。

「少なくともここにいる子どもたちは、この人のご主人とあんたの父親がこの場所を用意したから、こうして元気に暮らしてるんだ。十分過ぎるくらい価値のあることだろ。それは」

自分が何に必死になっているのか、彼自身にもよく分からなかった。けれどその胸の内に、目の前にいる男の言葉を覆したいという思いがあるのは確かだ。町長の言い放つそれは、確かに見る者の立場によっては、ひとつの真実なのかもしれない。しかし無価値と切り捨てられたその見えない繋がりを大切に思う人間だって、間違いなく存在しているのだ。朧気な記憶の中、ほんの僅かしか残っていない思い出を、その絆を、まるで宝物のように携えて生きている人間がいることを、ショートは知っていた。

「なんですか。あなたは」

そんな彼の言葉を耳にした町長は、始めてその表情を歪めてみせた。

「成り行きでここに世話になった人間だ。倒れてたところを、ここに住んでる奴に助けてもらった」
「たまたま居合わせただけの人間が、口を挟む権利があるとは思えませんがね」
「ならそっちだってそうだろ。"たまたま"息子として生まれたってだけで、死んだ父親が交わした約束に口を挟む権利があんのか」
「ですから、その件についてはそれを裏付ける証明が」
「確かにそうかもしれねぇが、それは逆だって同じだろ?そんな取り交わしはなかったって、あんたにそれを証明することが出来るのか?」

そう尋ねたショートに、町長の両脇にいた屈強な男たちは、もう我慢ならないと言いたげな顔つきで、一歩前に足を踏み出す。

「黙って聞いてりゃ、好き勝手言いやがってよ」
「表に出ろや。兄ちゃん」
「断る。俺にはあんたらに付き合ってやる義理はねぇし、こっちは今から夕食の片付けをしなきゃいけねぇんだ。あんたらと遊んでいる暇はねぇ」
「この野郎…っ!」
「ふざけやがって!!」
「少し黙れ。お前たち」

静かだが冷たいその声に、ショートの方へと近づきつつあった男たちが、ぴたりとその足を止めた。その瞬間、ショートは新たな違和感を抱く。確かに権威という力関係においては町長の方が上なのだろうが、外見的には残り二人の男たちの方が、余程腕は立ちそうに見える。そんな彼らがここまで従順に町長に従っているのはなぜなのだろうかと、ショートは純粋に疑問を抱いた。

「今日はこちらで失礼します。これから約束があるのでね。─── ああ、そうだ」

来た時と同じように穏やかな笑みを浮かべながら、町長は何かを思い出したかのように、シスターの方に顔を向けた。

「今日はご本人がいらっしゃらないようですが、"もう一つのお願い"についてもぜひ前向きに検討いただきたいと、お伝えください」
「もう一つ…?」

そんな疑問を口にしたショートに視線を向け、町長は再び口を開いてみせる。

「威勢がいいのは結構だが、喧嘩を売る相手は選んだ方がいいですよ」

その顔は笑っているようで、目が少しも笑っていない。どうやら彼はショートを完全に"敵"とみなしたらしく、含みを持つようなその言葉を残し、側近の二人に一言声をかけると、静かにその場を後にした。

「一生来んな!バーカ!」
「塩撒いとこうぜ!」
「あたし取ってくる!」

町長たちが姿を消すやいなや、子どもたちはそんなことを口にする。そんな彼らの姿を見て、ショートは少し不謹慎だなとは思いつつも、思わず笑みが込み上げてきた。

「逞しいな」
「すみません、変なところをお見せして…」

再び食器を片付け始めながら、シスターはとても申し訳なさそうな顔で、彼に向かってそう呟いた。

「あ、いえ... 俺も、勝手なことを言いました。すみません。余計なことをしてしまったかもしれません」
「とんでもない」

ふわりと軽く笑ってみせると、シスターは一度その手を止め、ダイニングテーブルから少し離れた場所にあるチェストの方へ、すっと視線を移す。そこにはいくつもの写真立てが飾られており、中には彼女の亡き夫の姿もいくつか見受けられる。まるでこの場所を見守るかのように、写真に映るその表情はどれも優しげで、実際そういう気質の人間だったのだろうなと、ショートはそんなことを思っていた。

「今の町長のお父様と私の主人は、幼なじみでしてね。使われなくなったこの教会を孤児院にしようという話は、もともと大工をやっていた主人に、先代の町長が持ってきた話だったのです」
「そうだったんですか」
「はい。主人と懇意にしていたことはもちろんあったでしょうが、先代の町長はとても優しくて気前のいい方でして、必要な人員や資材の調達もすべて請け負ってくださって」
「それは…良い人ですね」
「ええ。ですが今の町長である息子さんとは折り合いが悪くて。ことある毎に衝突していたと、主人からも話は聞いておりました」
「そうなってしまったきっかけみたいなものが、あったんですか?」
「直接ご本人たちから聞いたわけではありませんが、最も大きな原因は先代の奥様、つまり今の町長のお母様が深く関わっているそうです」
「母親、ですか」
「先代の奥様はちょうど10年前にお亡くなりになっているのですが、町長はそれを、お父様である先代のせいだと思っているようでして…」
「どうしてですか?」
「先ほど申し上げた通り、先代の町長はとても気前のいい方でした。困っている人を助けるためなら、自身や家の資産を使うことも厭わない方で…ですから表にこそ出しませんでしたが、当時はかなりギリギリでやりくりされていたのだと思います」

記憶の糸を静かに辿っていくように、まるでおとぎ話でも語るようなゆっくりとした口調で、シスターはさらに続けてみせる。

「そんな逼迫した家計の足しにと、先代の奥様は出稼ぎに行かれるようになりました。もともとあまり丈夫ではなかったそうで、先代は反対されたそうですが、奥様は少しでも役に立ちたいからと、ご主人の反対を押し切って、クリークで針子の仕事をするようになったんです。......でもその数年後、先代の奥様はその過労からお身体を壊され、そのまま帰らぬ人に」
「そうだったんですか」
「今の町長は、父親である先代を強く批判したそうです。先代が自分たちの家の発展だけを考えていれば、こんなことにはならなかったと」
「……なるほど」

それは結果論に過ぎないだろうと、ショートは思った。しかし彼はけして、そのことを口にはしなかった。口にしたところで、そこから何かが生まれることはない。そもそも確執のある二人のうち、一人はもうこの世にいないのだから、殊更だ。

「そういえば、さっき町長が言っていた"もう一つのお願い"って、なんですか?」

話題の方向性を変えるため、ショートは最後に町長が言っていたその言葉を引用し、シスターにその真意を尋ねた。

「ああ...あれはですね...」
「ナマエをお嫁さんにしたいって話よ」

彼女が答えを言う前に、一人の少女が鈴のような声でそう口にする。

「............は?」
「あいつ、ナマエのこと好きなの。ほら、アタシよりはブスだけど、そこそこ可愛いでしょ?ナマエ」

そんな少女の話を聞き、ショートはその真相を確かめるべく、向かい側にいたシスターに視線を移した。

「本当なんですか?」
「ええまあ…あの子が仕事でお世話になっているお店は、町長も御用達の店でして…それで目をつけられてしまったようで…」
「本人は…その、なんというか…」
「見ての通りああいう性格ですから、基本的には誰とでも仲良くなれるタイプなんですが、今の町長だけは苦手なようで...」
「まあ…そうなりますよね。普通に」

孤児院の土地を欲しがっている件もそうだが、普通に考えて敵対関係に近いような相手方に恋心を抱いたところで、勝算などほぼゼロに等しい。依然として読めないその目論見が、ショートはなぜかとても気になっていた。

不可解だ。あの男が。

そんな彼の思考を遮るように、リビングに置かれた古い時計が、ゴーンゴーンと音を立てる。するとそれを耳にしたシスターは、ぴくりと一つ肩を揺らした。

「あら、もうこんな時間。早く片付けなくちゃ」
「あ、今日は俺も、皿洗い手伝います」
「いえいえそんな...ショートさんはゆっくり座っていてください」
「でも、一人じゃ大変だと思いますし」

ショートがそう呟くと、シスターは少し考える素振りをしてから、何かを思いついたように、にっこりと彼に笑いかける。

「じゃあショートさんには、別のお仕事をお願いしてもいいですか?」
「はい。俺に出来ることだったら」
「もし良ければ、ナマエを迎えに行ってもらえませんか?いつもは私が行くんですが、この通り片付けがまだなので...」
「大丈夫です。俺が行ってきます」
「助かります。あと1時間くらいで終わると思いますので、30分くらいしたらここを出ていただければ、たぶんちょうどいいかと」
「分かりました」
「店までの地図をご用意しますので、少しお待ちくださいね」

そう口にしたシスターに軽く返事をし、ショートは彼女と共に再び皿を片付け始めた。町長の企みの真相については少し気になったものの、これ以上の深入りは止めておくべきだろうと、彼は考えることを放棄した。







「......遅い」

ショートは短くそう呟いた。渡された地図に再び視線を落とし、辺りをもう一度目視で確認してみるが、やはり自分が店を間違えたというわけではなさそうだ。しかし聞いていた仕事終わりの時間をすでに30分は過ぎているにも関わらず、待ち人は一向に出てくる気配がない。

あまり人に顔を見られたくはないが、仕方ないか。

痺れを切らした彼は一つため息を吐き、店の入口へと一歩近づいた。するとそれを予期していたかのように、バーテンダーの格好をした若い男が、そのドアをすっと開けてみせた。男はショートの姿を見て少しだけ目を丸くさせると、すぐに背筋をピン、と伸ばして、彼の方に頭を下げる。

「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「あ、いえ…俺は客ではなくて…今日ここでピアノを弾いてた奴を迎えに来た者なんですが...」
「え?」

ショートが遠慮がちにそう呟くと、店員の男は再び驚いたような顔を浮かべた。

「えっと…ナマエさんでしたら、つい先ほど店を出ていかれましたが…」
「は?」

店員の男の予想外の言葉に、ショートは思わず間の抜けた声をあげる。

「出ていったって、一人でですか?」
「いえ…お知り合いの方とご一緒にです」
「知り合い?」
「ええ。ナマエさんが帰り支度をしている途中に、彼女の知り合いだと名乗る二人組の男性がいらっしゃったんです」
「二人組…ですか」
「はい。彼女はそのお二人のことをご存知な様子で...話の内容までは聞き取れませんでしたが、しばらくしてからナマエさんは荷物を持って、彼らと一緒に店を出られまして」

"二人組の男"というワードを耳にした瞬間、なぜか彼の中には、確信めいたものがあった。それはほぼ直感で、論理的な根拠はどこにもないのだが、妙にざわつく自身の胸の内が、その直感を後押しする。

「もしかしてそのその二人組って、黒いスーツに派手なシャツを着てませんでしたか?」
「ああ、確かにそんな装いでしたね。二人とも格闘技か何かをやられているような、ガッシリとした体格の方でした」

悪い予感が見事に的中し、ショートは頭を抱えたくなった。

「あの馬鹿...っ!」
「ちょ、ちょっとお待ちください…!」

急いで立ち去ろうとしたショートに対し、店員は慌てたように声をあげ、彼の腕をぐっと掴む。

「なんですか。今割と急いでるんですけど」
「これ、ナマエさんが忘れていかれまして...お手数ですが渡していただけませんか…?いつも持ち歩かれているので、きっと大切な物だと思いますから…」

申し訳なさそうにそう呟きながら、店員はポケットから黒い万年筆を取り出し、それをショートに差し出した。それはいつもナマエがあのエキセントリックなイラストを描く時に使っている、あの万年筆だ。

「ありがとうございます。ナイスタイミングです」
「え?」

小さく聞き返した店員に返事をすることなく、ショートはそれをすっと手に取り、ひとまず人通りの少ない路地まで歩く。周囲に人の気配がないことを確認してから、彼は自身の腰にある小さな鞄を漁り、中から銀色の指輪を取り出した。中央には人間の目の形が彫られ、眼球の部分には薄紫の石が埋め込まれたそれを、ショートはそっと中指に嵌め、そして先ほど渡された万年筆をアスファルトに置くと、その上に自身の手をかざした。

「……"追跡(トレース)"」

ショートが小さくそう呟くと、彼の左手の中指に嵌められたそれが、ぼんやりと青白く光り出す。するとそれに共鳴するかのように、アスファルトに置かれた万年筆も同じ輝きをを放ち、そこからさらに細い光が、まるで糸のように伸びていく。ショートは光の糸が伸びる方へと足を進め、3つ目の角を曲がるその直前、耳を掠めた聞き覚えのあるその声に、足の動きをぴたりと止めた。

「お疲れのところすみませんね。けどこうでもしないと、話を聞いてもらえないと思ったものですから」

影からその場所を覗き見れば、狙い通りショートの探し物はすぐに見つかった。不機嫌そうに眉間に皺を寄せながら前を見据える彼女の横顔を見て、あいつはあんな顔もするんだなと、彼はぼんやりそんなことを考えた。どうやらシスターの言う通り、ナマエは町長に対して、あまりいい感情を持ちえていないらしい。

「僕と結婚すれば、あんな場所よりずっといい暮らしが出来ますよ。食べるものも着るものも、もっといい物を用意して差し上げられる。それに僕はこう見えて医学界にも顔がききましてね。君のその声も、治してあげられるかもしれない」

想像通りのそのやり取りに、ショートは一つため息を落とす。彼女が連れ出されたおおよその理由に、彼は見当がついていた。しかしそんな町長の提案に、彼女が表情を明るくすることはなかった。

「どうです?君にとっても悪い話ではないでしょう?」

穏やかな面持ちでそう尋ねた町長に反し、ナマエははっきりと首を横に振った。そんな彼女を見た町長は、困ったような笑みを浮かべると、彼女の後ろに立っていた部下の一人に、ちらりと一つ目配せをする。

「そうですか。では仕方ない。少し強引にいきましょうか」

町長の言葉を合図にして、彼が先ほど目配せをした側近の一人が、ナマエの腕を掴む。突然の出来事に必死に抵抗する彼女だったが、当然その細い腕が目の前の男に対抗する力を持つわけもなく、ナマエは呆気なく両腕を拘束されてしまった。
その光景を見て咄嗟に足を踏み出そうとしたショートだったが、すんでのところで踏み留まった。この状況で出ていったところで、こちらには何も得るものがない。ナマエは腕を拘束こそされてはいるものの、決定的な危害を加えられていない以上、今ここで出ていったとて、ただ話をしていただけだとシラを切られてしまえば、そこで終わる。

「明日の昼頃、あの孤児院には解体工事が入ることになりました。そしてつい先ほど、全ての業者の契約周りも片付きました」

自身の腕を掴む男にじたばたと暴れ回っていたナマエだったが、その言葉を耳にしたからか、抵抗するその動きを止め、ハッとした顔で町長を見た。

「ですが条件付きで、それを止めさせてもいい。ここまで言えば、分かりますよね?」

怪しげに笑う町長の横顔に、ショートは確信した。その目的は、真の狙いは、彼の目の前にあったのにだ。

"そっち"が、本命か。

「あなたが僕のもとに来てくれれば、孤児院には絶対に手を出さないと約束します」

先ほど感じたその疑問は、意外な形でクリアになった。町の発展というお粗末な大義名分を掲げ、あの孤児院を手に入れようとしていた男の本当の目的は、単なる自身の支配欲だったのだ。それはあくまで建前であり交渉材料で、孤児院の存続という餌をチラつかせれば、目の前にいるその女を自分の都合のいいように出来ると、町長はそう考えた。そう考えれば、全て辻褄が合うのだ。

「僕と一緒に、なってくれますね?」

そう問いかける町長を、ナマエはキッと睨みつけた。恐らく彼女も、町長が自分を手に入れるために孤児院を餌にしていることを理解しているのだ。しかしそんなナマエの様子に構うことなく、町長はゆっくりとその手を伸ばす。じわじわと自身に近づいてくるその手に、怯えるように彼女がぎゅっと目を閉じた瞬間、ショートは再び思考することを放棄した。

今日の俺は、本当にどうかしている。

ほんの数分前だった。まだ出ていくのは得策ではないと、そう思っていたはずだった。しかし目の前に広がるその光景に、泣きそうな顔をしているナマエの姿に、何かしなければならないという使命感が、彼を駆り立てた。

「て、てめぇはさっきの…!いつの間に…!」

彼女を拘束していた男の首筋に、ショートが左手で一撃食らわせてやれば、男はがくりと膝を折り、ゆっくりと地面に倒れていく。すぐ側にいたもう一人の町長の部下は、突然現れたショートの存在と倒れた仲間の姿に狼狽していたが、今の彼にとってそんなことは、取るに足らないどうでもいいことだった。

「勝手に一人でどっかに行くなって、何度言えば分かるんだ。お前は」

ショートがそう口にすると、ナマエは振り向きざまにぱっと顔を明るくさせ、彼の方に駆け寄った。隠れるようにその背中の後ろに回り、ぴったりとその身を寄せる彼女に、ショートは自身の胸が不謹慎にも少し脈打つのを感じたが、そんな彼らを恨めしく見据える町長の黒い眼差しに、嫌でもその身は引き締まった。

「また、あなたですか」
「別に好きであんたと関わってるわけじゃねぇよ。こっちは」

そう吐き捨てたショートに対し、町長は感情を置き去りにしたような目で倒れた一人の部下を見下ろし、鬱陶しそうに息をついた。

「ずいぶんと野蛮なことをするんですね」
「少し眠ってもらっただけだ。命に別状はない。それに男三人で女一人を囲って脅迫するような奴に、野蛮だなんだと言われたかねぇな」
「あなたも人聞きの悪いことを。これはれっきとした交渉ですよ」
「一方的に相手にいうことをきかせようとするあんたのそれは、交渉とは言わねぇんだよ」

後ろにいたナマエの方に振り返り、彼女のその手をショートが取ると、それはほんの僅かだが、小さく小刻みに震えていた。

「行くぞ」

ナマエの手を半ば強引に引き、ショートが足を一歩前に出そうとすると、町長が彼女の名前を呼んだ。

「交渉決裂ということで、よろしいですか?」

そう尋ねられると、ナマエは町長の方を振り返り、再び泣きそうな顔を浮かべる。今ここで自分がその条件を飲まなければ、大切な場所がなくなってしまう。彼女がそう考えていることは、ショートには容易に想像がついた。

「大丈夫だ」

そんな彼女の小さな手を、ショートが少しだけ強く掴むと、ナマエは不思議そうに彼を見上げた。

「あの場所は、絶対なくならない。約束する」

自身の目を見て、少しの迷いもなくそう口にしたショートにナマエはこくりと頷くと、町長にくるりと背中を向け、彼のその手を握り返した。自身に向けられたその無垢な信頼は、再びショートの心を駆り立てる。今度こそその足を一歩前に出し、暗い夜道を突き進む中、ちらりと覗き見たナマエの横顔に、ショートは無意識に口角を上げた。







小さな田舎町には似つかわしくない重機の列に、そこで暮らす人々は口々に不安の声を漏らしていたが、当然その矛先となっている孤児院に住む彼らの不安はそれ以上で、目の前に差し迫るその状況に、さすがのナマエも不安げな顔を浮かべながら、隣に立つショートを見上げていた。

「大丈夫だ。約束は守る」

ぽん、と自身の頭に手を乗せた彼に、彼女は小さく頷いた。ショートはまだ少し不安そうなナマエに踵を返し、迫り来る重機の方へ向かって、ゆっくりとその足を進めていく。

「しょ、ショートさん、何を…っ」
「大丈夫です。すぐに終わりますから」

シスターのその問いかけに振り向かずにそう答え、彼はそのまま歩き続けた。するとそんなショートの存在に気づいたからか、近づくいくつかの重機の一つが、そのエンジン音と動きを止める。

「おい兄ちゃん、そこにいられると仕事が出来ねぇんだ。どいてもらえるか」

細身のスキンヘッドの男が顔を覗かせ、ショートにそう話しかけた。

「いくらだ」
「は?何言ってんだてめぇ」
「あんたら、いくらで雇われたんだ」
「あ?そんなこと聞いてどうするつもりだよ?」
「いいからさっさと答えろ。時間の無駄だ」
「おい!それが人にものを聞く態 ─── 」

そこまで口にしたところで、男はびくりと肩を震わせた。目の前に立つその青年の目を見た瞬間、彼が放つその冷たい威圧感に、本能的にそれが"逆らってはいけない"相手であることを、男は悟ったからだ。

「ひ、一人あたり、200万ってとこだ...」
「ってことは…5人で1,000万か。意外と大したことねぇな」

そんなやり取りを続けていると、その異変に気づいた他の重機を操縦していた解体屋の男たちが、続々と彼らの周囲に集まってきた。

「あんたらに頼みがあるんだ」

ショートがそう口にすると、解体屋の男たちは、それぞれに野次を飛ばし始める。先ほど話をしたスキンヘッドの男がそれに慌てふためく中、少し後ろの方から現れた顎髭を拵えた中年の男が、すっと右手を上げた。

「一応、聞こう」

顎髭の男の言葉に、それまで野次を飛ばしていた男たちが、しん、と静かになる。おそらくこの解体屋の組織を取りまとめているであろうその男に向かって、ショートはその薄い唇を軽く開いた。

「町長から依頼された孤児院の解体工事を今すぐ中止して、今後も孤児院には手を出さないで欲しい。その頼みをきいてくれたら、町長からの報酬の5倍、いや、10倍あんたらにくれてやる」
「じゅ、10倍...!?」
「お、お前みたいなガキが、1億払うってのか...?」
「ああ。悪い話じゃねぇだろ?」

ショートが出したその条件に、男たちは互いに顔を見合わせる。その顔には明らかな動揺の色と共に、僅かに邪な期待の色も伺えた。

「確かに魅力的な話ではある。けど悪ぃな兄ちゃん。その頼みはきいてやれねぇ」

しかしそんな男たちに反して、顎髭の男はぴしゃりとそう言い放ってみせる。

「理由は?」
「俺は今の町長のやり方は気に入らねぇが、あの人の親父さんには、一生かけても返し尽くせねぇほどによくしてもらったんだ。だからその恩を仇で返すわけにはいかねぇんだよ」
「……なるほど」

男の言葉に嘘偽りはない。ショートはそう思った。そして同時にこうも思った。この男は、金で覆すことが出来ないものを持っている類の人間なのだ、と。

「そうか。残念だな」

半分は本音。半分は嘘だった。交渉が決裂してしまったことに対する落胆と同時に、ショートの中にはほんの少しだけ嬉しさも共存している。そんな複雑な心持ちの中、彼は右足に力を込め、ついにその"力"を解放した。ショートの右足を起点として、地面を這うように広がっていく冷気が、瞬く間に重機を氷塊に閉じ込めていく。

「な...っ、なんだこりゃ...っ」
「氷...!?」
「重機もそれなりに高価なもんだからな。出来れば話し合いでどうにかしたかったが、仕方ねぇ」

彼の正体に気づいた男たちは、次々とその場から走って逃げて行く。そんな仲間の姿に特段驚くこともなく、顎髭の男は再びショートと向き合い、なぜかふっと笑ってみせた。

「兄ちゃん、"異能者"か」
「ああ。丸腰で迫る重機の前に立ちはだかるほど、さすがに肝は座ってねぇよ」

異能者。 ─── それは文字通り、特異な能力を有した人間の総称である。大陸においては全人口のおよそ8%しか存在せず、そのほとんどが親から子へ受け継がれる先天的なものであり、ショートは異能を有する両親から、その力を受け継いでいた。

「お前は、逃げないのか?」

逃げた男たちの判断は正しい。なぜならこの異能の力は、同じ異能でなければ打ち消すことが出来ないもので、普通の人間にはそれに対抗する手段がないのだ。

「勝てる気はしねぇが、あれだけデカい口を叩いて、何もしないわけにはいかねぇからな」

顎髭の男は笑いながらそう言うと、その拳を固く握りしめ、短くふっと息を吐くと、瞬時にショートの懐へ飛び込む。男は一瞬見えた勝機に心を踊らせたが、意中の相手は瞬きをする間に姿を消した。そして次の瞬間、後頭部に走った鈍い痛みに、自身の敗北を確信する。

「いい腕だ」

小さく呟いた彼の声が、男に届いたかは分からない。しかしショートは崩れゆく男の身体を受け止め、敬意を込めて彼をそっとその場に横たわらせた。




「す、すっげー!!」

自身の背後から湧き上がるその声に、ショートはぴくりと身体を跳ねさせた。

「ショートかっけぇ!!」
「ねえ、あれどうやったの!?」
「もう一回見せてー!」

彼の側に急いで駆け寄り、口々にそう言う子どもたちに、ショートは少し困ってしまう。興味津々といった様子で詰め寄る彼らにどう答えるか迷っていると、パチパチと何かを叩く音が聞こえてきた。音の鳴る方に視線を送ると、先ほどまでとても不安そうな顔を浮かべていたナマエが、いつの間にか子どもたちのすぐ真後ろまで来ていて、嬉しそうに拍手をしている。

「…ったく、言っとくけどまだ喜ぶのは」

喜ぶのはまだ早い。ショートがそう言いかけたところで、まるでそれを思い知らせるかのように、先ほどショート生成した重機を覆う氷塊が、中身諸共砕かれた。その崩壊と同時に巻き起こる土煙が徐々に晴れていくと、そこには怒りに満ちた表情の町長が姿があった。

氷を砕いた。いや、切った、のか。

自身の異能に影響を与えられる力。それは即ち、目の前にいる人物もまた、同じ異能者であることを示している。

「 ─── この役立たずが」

ショートのすぐ側で横たわるその男を見て、町長はそう吐き捨てる。その冷ややかな態度を目の当たりにしたからか、再び怯えた顔をするナマエを見て、ショートはその名を小さく呼んだ。

「みんなと一緒に、シスターさんのところまで行け。こっちはすぐに片付ける」

ショートがそう話しかけると、ナマエは深く頷いて、子どもたちと共に走ってその場を離れる。シスターのいる所まで彼女たちが無事に離れたことを確かめてから、彼は怒り狂うその人物の方へ、ゆっくりと自身の身体を向けた。

なるほど。そういうことか。

なぜこの男があんな屈強そうな側近たちを従えていたのか。奇妙なヒエラルキーの正体はこれだと、ショートは瞬時に察した。常人がいくら肉体を鍛えようとも、異能の前ではあってないようなものだからだ。

「ずいぶんな言い方だな。あんたに尽くしてくれる人に向かって」
「黙れ!!貴様一体何者だ!!」
「聞かない方がいいと思うぞ。お互いのためにも」
「この...っ!」

町長が右手を地面にかざすと、近くに植えられていた糸瓜の蔦が瞬時に伸び、生きた鞭のようにショートに襲いかかってくる。

植物を使役できる異能、ってとこか。

迫るその蔦から自身を守るよう、ショートは先ほどと同じく氷塊を作り出した。しかしそんな彼を見て不敵な笑みを浮かべながら、町長は左手を右手に重ね合わせるようにしてみせると、その蔦はまるで刃物ように鋭く形状を変え、ショートが作り上げた氷の壁を、瞬く間に切り刻んでしまう。

「……さっきのは、硬質化させた蔦を使って切ったのか」
「残念だったな!いくらそんなものを作り出したとて、物理的に断ち切ってしまえばどうということはない!貴様と僕の能力は、まさしく最悪の相性というわけだ!!」

得意げにそう口にしたその男に、ショートは深いため息をついた。

「そうだな」

ああ嫌だ。結局いつもこうなんだ。
こうして"あいつの力"を、いつも切り札にしている。

「確かに俺とお前の能力は、最悪の相性だよ」

疎ましげにそう吐き捨てながら、再び襲い来る相手の異能に、ショートは自身の左手を向けた。すると彼の手のひらから、"もう一つの異能"が出現する。

「火…!?」
「いくら硬質化させようが増殖させそうが、燃えちまったら意味ねぇよな」

彼の左手から放たれた橙色の炎は、あっという間にその蔦の刃を灰塵と化し、巻き起こされたその熱風が、深く被っていたショートの羽織のフードから、その髪と素顔を露わにした。彼がそれを直すことなく町長の方へと近づくと、その姿を見た町長は目を見開き、その場で地面に腰を落とした。

「氷と、炎の、異能...それに、その、髪...」

その口ぶりから、男が自身の正体を察してしまったことを、ショートはすぐに見抜く。彼が自身を見つめるその目には、もはや敵意や戦意はなく、畏怖の色しか映っていなかったからだ。

「あな、たは…ま、さか...」
「"威勢がいいのは結構だが、喧嘩を売る相手は選んだ方がいい"、だったな。俺も同感だ」

ショートは町長を見下ろしながら、再びその口を開く。

「工事を今すぐ中止して、今後もここには手を出すな。もちろん"あいつ"にもだ」
「......はい」
「もし約束を破ったらその時は ─── 分かるよな」

低くそう呟いたショートに、町長はガタガタと身体を震わせ、一度だけ首を縦に振った。

「承知、いたしました」
「それともう一つ」
「は、はい」

その異能を目の当たりにした瞬間、余計なことを考えた。この異能なら、あるいは。

「別件で、あんたに頼みがあるんだが」

それを口にしたショートに対して、町長は不思議そうな顔を浮かべながらも、再び小さく頷いてから、その場にすっと立ち上がった。







東の空は微かに白く霞んでいるものの、頭上にはまだいくつかの星が見える。ショートがこの町を訪れてから、まもなく三度目の朝を迎えようとしていた。

「色々とお世話になりました。本当に、なんとお礼を申していいか...」

シスターは深々と頭を下げながら、ショートに向かってそう告げた。

「いえ、俺の方がいろいろお世話になったので。こちらこそありがとうございました。子どもたちにも、よろしく伝えてください」
「これから、どちらに向かわれるのですか?」
「特に決まった目的地があるわけじゃないんですが...とりあえず北の方に向かおうかと」
「では、最北端にあるティエラに行ってみてください。あそこは珍しいものがたくさんあって、見て回るだけでも楽しいですよ」
「じゃあ...寄ってみます」
「はい。是非」

にっこりと笑う彼女に少しほっとしたような気持ちになりながら、ショートは何かを探すように、何度か顔を動かしてみせた。

「ところで、ナマエは」
「それが先ほどから姿が見えなくて...部屋にはいなかったので、起きているのは間違いないのですが... どこに行ってしまったのかしらあの子...」

困ったようにそう口にしながら、シスターはきょろきょろと辺りを見回す。

「ナマエには今朝早くご出発されると、昨日伝えていたんですけれど...」
「そうですか」

少し残念だと柄にもなく思いつつ、なんとも彼女らしいなと、ショートは小さく笑みを零した。

本当にマイペースな奴だな。あいつは。

これまでも色んな出会いがあったし、これからもきっとそうなのだろうが、あんな鮮烈な人間にはなかなか出会えないだろうなと、彼はそんなことを思っていた。

「ところでずいぶん身軽ですが、買った荷物は一体どこへ...」
「ああ、それは ─── 」

ショートがそれを説明しようとひと呼吸置いたところで、突如ドサッという音と共に、つい今しがたまでそこになかったはずの巨大なリュックサックが、シスターの背後に現れた。

「……なんですか、これ」

おそらく上から落下してきたと思われるその鞄に、ショートはそんな疑問を投げかける。

「リュック、ですね…」
「いや、それは分かるんですが、なんでこんなものがいきなり…」

そう口にしながら、ショートは自然と視線を上空に向けた。そして次の瞬間、視界に映ったその光景に、彼は珍しく取り乱す。

「ちょ、は...!?」

ショートは目を疑った。なぜならそこには2階のベランダの手すりに腰掛け、彼の方にひらひらと手を振っているナマエの姿があったからだ。そんな彼の戸惑いを余所に、彼女は躊躇うことなくそこからぴょんっと飛び降りて、二人がいる場所へ見事に着地してみせた。

「な、にを考えてんだよお前は…っ!危ねぇな!」

さも当たり前のように飛び降りてきた彼女にショートがそう詰め寄ると、ナマエはなぜ自分が怒られているのかが理解できないのか、こてん、と小さく首を傾げた。

「いや…なんだその不思議そうな顔は…」
「ふふ、この子にとっては日常茶飯事なことですから、まさか怒られるとは思っていなかったんだと思いますよ」
「日常って…やめさせてくださいよ。普通に危ないじゃないですか」
「大丈夫ですよ。ナマエは運動神経すごくいいですから」
「いや、そういう問題じゃ…」

さらに苦言を呈そうとしたショートに、シスターとナマエは不思議そうに顔を見合わせる。そんな彼女たちを見て、彼はこれ以上その件について言及することを止めた。

「でも良かったわ。これでナマエも、ショートさんにちゃんとお別れ出来るわね」

シスターがそう口にすると、ナマエはふるふると首を横に振り、先ほど彼女が2階から落としたと思われる大きなリュックサックに向かって、すっと指を差してみせる。

「ね、ねぇナマエ、その荷物ってまさか...」

恐る恐る尋ねたシスターに、彼女はこくりと大きく頷き、ショートの方に視線を向けた。

「............連れて行かねぇぞ。言っとくけど」

ぽつりとそう呟いたショートに、ナマエはきょとん、とした顔を浮かべ、再び不思議そうに首を傾げる。

「いや、普通に考えてダメだろ。何があるか分からねぇし、安全の保証をしてやれない」

その懸念を口にしたショートに、彼女は全く問題なし、とでも言いたげな顔で、グーサインを出してみせる。自身の理屈が一切通用しないその相手に、ショートは目頭を押さえたくなった。

「お前が良くても、俺は良くないんだよ。とにかく、一緒には連れて行かねぇからな」

彼が突き放すようにそう言うと、ナマエは少しむっとしたような顔を浮かべてから、ショートの方へと歩いて近づき、勢いよくその身体に思い切り抱きついた。突然のそのアクシデントに、ショートの頭は未だかつてないパニックに見舞われる。

「ちょ、何してんだ離せ...っ!ダメだったらダメだ...!」

その身体を軽く押し返しながら、彼が強くそう言うと、ナマエはさらにその腕の力を強めながら、彼の方を涙目で見上げた。

「げ...っ」

ぽろぽろと涙を流しながら、懇願するようにショートを見つめる彼女に、ナマエを押し返していた彼の手が、徐々にその力を失くしていく。

「……すみません、こいつ引き剥がすの、手伝ってもらえますか」
「は、はい…!こらナマエ、ショートさんを困らせてはいけませんよ...っ!」

その見た目に似つかわしくない大声をシスターがあげるも、ナマエはいやいやと首を何度も横に振り、再びありったけの力を込めて、ぎゅーっとショートに抱きついた。

「なんで、そんなに...」

そこまで口にしたところで、ショートは彼女が肩にかけていた小さなショルダーバッグから覗く、小さな手帳の存在に気づいた。


"旅をしたら、朧気な記憶になってしまったご両親に、もう一度会えるような気がするって ─── "


ショートはシスターが昨夜口にした、その言葉を思い出した。思い出さなければよかったとも思った。それを聞いてしまったことを、ほんの少しだけ後悔もしていた。




「先に言っておくが、行先は俺が決めるからな」

聞かなければ、思い出さなければ、こんなことを口にすることはなかった。"何かしてやりたい"なんて、そんなことを思うことも、きっと、なかった。

「進んで危険なところに行くつもりはねぇが、さっきも言ったように、それでも100パーセントの安全は保証してやれない。それから何度も言うが、勝手に一人でいなくなるな。今度勝手にいなくなったら、俺はお前を探さない」

ショートが矢継ぎ早にそう言うと、ナマエはその顔をゆっくりと上げ、彼の方をまじまじと見た。涙でぐちゃぐちゃな、けれどとても嬉しそうな顔を浮かべて。

「その条件が飲めるなら、好きにしろ」

顔を逸らしながらショートがそう言うと、彼女はその場で何度も飛び上がり、喜びを全身で表現してみせる。

「あ、あのショートさん...本当に、いいんですか...?」

彼女の申し出を受け入れる決意をしたショートに、シスターは遠慮がちに声をかけた。

「こいつをこのまま引きずって歩くよりは、一人で歩いてくれた方が、まあ幾分か楽なので」
「ふふ、それは確かにそうですね」

軽く笑ってそう返事をするシスターにショートは若干の違和感を覚えた。こんな会って間もない男に自分の娘同然の存在を預けることに対して、彼女は抵抗がないのだろうか、と。

「あの、」

それを尋ねかけたところで、ショートはナマエがベランダから投げたその大きなリュックサックを今まさに肩にかけようとしていることに気づき、咄嗟に彼女の名前を呼んだ。

「そんな大荷物抱えてたら、すぐへばるぞ。よく使うものだけ、そっちの小さい鞄に入れろ」

ナマエはこくりと頷くと、リュックの中からいくつかの小物を取り出して、肩に提げていたショルダーバッグに移し替えた。一方ショートは自身の上着の袖を軽くたくし上げ、右の手首につけた金色の細い腕輪をじっと見つめ、小さく口を開く。

「"点在の間(ディメンション)"」

小さくショートがそう口にした直後、腕輪はパッと強い輝きを放ち、瞬時に彼の腕から消える。そして次の瞬間、彼ら三人の目の前に、突如謎の扉が出現する。

「これも…ショートさんの異能なのですか…?」
「いえ。これはさっきの腕輪に内在している異能なので、正確には俺のものではないです」
「では、この扉は…」
「まあ簡単にいうと、持ち運び可能な倉庫みたいなもの、ですかね。頻繁に使わないものや、かさばるものはここに入れておくんです」
「ああ、なるほど。だからショートさんは、そんなに身軽なんですね」
「そういうことです。じゃあこの荷物は中に…」

そう言いながらナマエのリュックをショートが持ち上げようとしたその時、彼はふと、自分を羨ましそうに見つめる熱い眼差しに気がついた。期待混じりの好奇心に目を輝かせたナマエが、じーっとショートのことを見ているのである。

「………入ってみたい、のか?」

彼がそう尋ねると、ナマエはこくこくと何度も頷く。

「部屋の中には危ねぇモンもあるから、他のものは触るなよ。置いたらすぐに戻って来い。分かったな」

無言でピシッと天高く真っ直ぐ手を伸ばす彼女に、ショートは意図せず笑みを零した。もうまもなく成人を迎えようとしている女性の所作とはほど遠いそれは、彼が今まで接してきたどの女性とも違っていて、それがとても新鮮だった。その身体に似つかわしくない巨大なリュックをなんとか肩にかけ、目の前に現れた得体の知れない扉の中へ躊躇せず足を踏み入れるその姿は、勇敢というか無謀というか、素直というか愚直というか。なんとも彼には形容し難かった。

「ところで、さっき聞きそびれたんですが」
「はい?」

ショートは先ほど言いかけた言葉を、改めてシスターに向けて放つ。

「そちらは、その、いいんですか」
「何がです?」
「何がって、心配じゃないんですか。俺なんかに、あいつを任せて」
「ふふ、ショートさんが一緒なら、むしろ一人で出歩くよりずっと安全ですもの」
「それはそうかもしれませんが…そんなに信用していいんですか。俺が悪人だったら、とか」
「そんなことは有り得ません」

ショートが口にしたそれを、シスターはきっぱりと否定した。

「……根拠は」
「ショートさんですから」
「え…」
「ショートさんは、あの子を必ず守ってくれますから」

確信があるようなその物言いに、真っ直ぐ自身に向けられた彼女の瞳に、ショートはなぜか身を震わせた。穏やかなその笑みからは少しも恐怖や不安を感じないのに、突如全身がぞわっとするような、そんな不思議な感覚を味わう。

「そう、ですか」

理由は分からない。しかし彼は、なぜかそれ以上何も聞けなかった。何も聞いてはいけないような、そんな気がしたのだ。

「あ、戻って来ましたよ」

開けっ放しになったその扉から、彼女は再び現れる。おそらくリュックから出してきたのか、先ほどまでは着ていなかったカーキ色のケープを身に纏い、それをふわりと揺らしながら、ナマエはその不思議な扉を閉め、二人の元へと戻って来た。するとシスターは彼女の首元にすっと両腕を伸ばし、とても穏やかな面持ちで、ナマエのブラウスの襟に触れる。

「ふふ、曲がってるわよ」

彼女がその襟を正してやると、ナマエは嬉しそうに笑って、勢いよくシスターに抱きついた。そしてそんな彼女の髪を優しく撫でてやると、シスターはナマエの耳元に、そっと唇を寄せてみせる。

「           」

刹那。音を立てて巻き上がる突風によって、ショートがそれを聞くことはなかった。しかしナマエの耳にはその言葉がしっかりと届いていたようで、彼女はその目を大きく見開き、驚いたようにシスターを見上げる。

「さあ、いっておいで」

何を言ったのだろうか。そんなショートの疑問を余所に、シスターは柔和な笑みを浮かべながら、すぐ傍らにいたナマエの背中を、そっと優しく押し出した。そんな彼女にナマエは何か言いたげな顔をしたものの、ゆっくりと一つ首を縦に振るシスターに、同じようにこくりと頷き、ショートの隣まで足を進める。

「ではショートさん、よろしくお願いしますね」

シスターがそう言うと、ナマエはショートを見上げながら、嬉しそうに笑ってみせる。そんな彼女に小さく一つため息を落としながら、ショートはシスターの方に顔を向け、躊躇いがちに口を開いた。

「……善処、します」

その穏やかな笑みに背を向けて、一人は大きく手を振り、もう一人は小さく頭を下げながら、二人はその一歩をようやく踏み出す。遠くの方から柔らかな光が差し込み始め、ショートはその眩さに目を少し細めた。視線をふと隣に移し、とても軽やかな足取りで楽しそうに歩くナマエを見ていると、彼の脳裏にはどういうわけか、あの薬剤師の言葉が浮かんでくる。


"ま、これも"運命"と思って諦めることさ"


見透かしたようなあの物言いは、まるでこのことを予期していたかのようで、ショートは少し不気味に感じた。

「 ─── 運命、か」

彼がそう呟くと、隣を歩いていたナマエは、彼の方をじっと見上げる。待ち受けるもの全てに期待を溢れさせ、一点の曇りもないそのきらきらとした眼差しに、ショートは微かな目眩を覚えていた。


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2022.11.15

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