うさぎロマンスU


現在時刻、5時32分。見慣れたその横顔に、元に戻りかけた心拍が再び加速した。
いつもより早く目が覚めてしまい、暇つぶしがてらランニングしに出ていたのだが、まさかこんな時間に好意を寄せる人物と二人きりになれるとは、今日はとても幸先がいい。
ところが肝心の彼女の方は、どうやらそれどころではないらしい。早朝の共有スペースで、ソファの下をじっと覗き込むその顔は、何やらとても不安げな様子で、あちこちと顔を動かすその仕草からは、何かを探していることが伺えた。




「何してんだ、みょうじ」

しばらくその様子を黙って見ていたが、探し物に夢中なのか、俺の存在には一切気づくことのない彼女に、痺れを切らして声をかける。みょうじは肩をびくっと震わせながら、勢いよくこちらを振り返ると、俺の顔を見るやいなや、なぜか少し気まずそうな顔をしてみせた。

「お、おはよう。轟くん。早起きだね」
「お前もな。で、何やってんだ、そんなとこで」
「え、えっと…ちょっと、探し物を…」
「こんな時間にか?」
「なくしたことに気づいたのが、昨日夜遅くで…消灯時間過ぎちゃってたから、朝早く起きて探しに来たの」
「あぁ、それでか…何をなくしたんだ?」
「えと…パスケースを…」

両手の人差し指で四角を描きながら、彼女は探し物の正体を俺に伝えた。

「寮で落としたのか?」
「それが…どこで落としたのか分からなくて…とりあえず思い当たるところを探してみようと思って、ここに来たんだけど…」

落胆の色を見せるみょうじの表情から察するに、おそらく今彼女の目の前にあるソファが、共有スペースで思い当たる最後の場所だったのだろう。困った様子で再び辺りを見回すみょうじを余所に、俺はあることを思い出した。

「そういやお前、昨日麗日達と、どっか出かけてなかったか?」

そう問いかけると、彼女はハッとした様な顔を浮かべながら、控えめに短く声を上げた。

「そん時に落としたんじゃねぇか」
「そ、そうかも…」
「どの辺まで持ってたとか、覚えてるか?」
「昨日は…電車を降りる時は普通に持ってて…」
「その後どっか行ったか?」
「えっと……あ、公園!みんなでちょっと休憩しようって、公園に寄ってから帰ったよ」
「じゃあ、あるとすれば、たぶんその辺りだな。あくまで推測にはなるけど」

俺がそう口にすると、相変わらず少し不安げではあるが、みょうじの顔色が少しだけ明るくなった。普段の彼女なら、俺がそのことを指摘するまでもなく、昨日出かけた際に落とした可能性に気づいていただろうが、どうやらパスケースを落としたことに、相当焦っているらしい。感動したような目で俺の顔を見るみょうじに、うっかり笑ってしまいそうになった。

「そんなに大事なものなのか?そのパスケース」
「え!?」

彼女の高く透き通った声が、早朝の共有スペースに響く。そんな大したことは聞いていないと思うのだが、みょうじはそれを聞かれたことが予想外だったのか、びっくりしたように目を見開いた後、なぜか視線をあちらこちらに泳がせた。
同じクラスになって1年とちょっと経つが、こいつの驚くタイミングは、相変わらずよく分からない。

「急にどうした」
「う、ううん…っ、何でも…」
「……聞かない方が良かったか?」
「ち、違うの…!その、パスケース自体は別になくてもいいんだけど、えっと…」

要するに、落としたパスケース本体ではなく、中に大切なものが入っている、ということだ。中身について明言したがらないということは、そこには触れられたくない、ということなのだろうか。

「寄り道した公園って、あそこか?バス停の近くの」
「あ、う、うん…!そう!そこそこ!」

それとなく話題を逸らすと、みょうじは明らかにほっとしたような表情を浮かべた。そんな顔をされてしまうと、少し、いや、だいぶそのパスケースの詳細が気になるのだが、しつこく聞いてみょうじに嫌な思いをさせるのは避けたいし、それによって嫌われるようなことになるのは、もっと避けたい。
知りたい気持ちと嫌われたくない気持ちを天秤にかけた時、その重さの違いは言うまでもない。

「噴水の近くのベンチで、みんなでお喋りして帰ったんだけど、もしかしたら、その近くで落としたのかも…」
「まぁ、日本は落としたもん普通に戻ってくること多いし、きっとすぐ見つかると思うぞ」
「う、うん…。あの、轟くん」
「なんだ」
「あ、いや…その、ありがとう」
「……何がだ?」

礼を言われる理由に見当がつかず、純粋に疑問をぶつけると、みょうじは少し照れたような顔をして、戸惑いながらも口を開いた。

「その、お恥ずかしい限りですが、私かなりテンパっちゃってて…轟くんが話しかけてくれなかったら、たぶん今もっと焦ってたと思うから…だから、ありがとう」

ふわっと笑うその顔に、心臓をぐっと鷲掴みにされたような感覚に陥り、ようやく正常に戻りかけていた心拍が、さっき走っていた時よりも速くなった。




あぁくそ。やっぱり、好きだ。

今さらながら、そんなことを思う。かつては彼女に対する不自然な感情の機微を、本気で身体の不調だと勘違いしていた時期もあったのだが、自覚した時には最早手遅れで、最近では何気ない彼女の一挙一動に、呆れるほど心を揺さぶられるようになってしまった。

「……いや、たまたま、通りかかっただけだから」
「まぁ、それはそうなんだけど…」

ちょっと困ったように笑うみょうじに、自分の不器用さを痛感する。もっとマシな言い方があっただろうにと、無意味な後悔をしたのは、一体これで何度目だろうか。
彼女は何を思ったのか、少し考えるような素振りをしてから、でも、と再び口を開く。

「なんていうか、轟くんが『きっと見つかる』って言ってくれると、本当に見つかるような気がするの。無責任な気休めとか、轟くんは言わないし…だから、今会ったのが轟くんで良かったなぁって、思って……まぁ、そんな感じなので…ありがとう、って言いました」
「……そうか」

衝動に駆られ、それを捩じ伏せるまでに数秒間。余りにも絶大な力をもつ言葉の数々に、うっかり自分の方へ引き寄せそうになったことは、絶対に誰にも打ち明けられない。
自分がその後どうやり過ごして、一体どうやって部屋に戻ってきたのか、自室のドアを閉める頃には、もうすっかり記憶が抜け落ちていた。







「そういえば、昨日の夜に、あの公園で不審者が出たんだって!!」

ちょうど背を向けているせいで、いや、向けていなくても元より表情は見えないのだが、朝食を一通り食べ終えた頃、声を荒げた葉隠がそんなことを言い出し、テーブルを囲む女子たちがざわめいた。

「あの公園って、昨日みんなで休憩したところかしら?」

葉隠とは対照的に、いつもと変わらぬ落ち着いた声色で、蛙水がそう尋ねた。

「そうなの!さっき自販機に飲み物買いに行ったら、普通科の子達が話してて!」
「うわ、マジか…。昨日行ったの、夜じゃなくて良かったね」
「本当ですわね…」
「ねぇ葉隠。ちなみにその不審者って、どんな人なの?」
「40代〜50代くらいの小柄な男で、ダボダボの作業着を着てたって言ってたなぁ。途切れ途切れにしか聞こえなかったけど、一人の子が腕掴まれたとか言ってた」
「うわー…それガチじゃん。怖っ!」
「まぁ何にせよ、しばらくは行かない方が懸命ね」

そんなやり取りを聞いてしまったせいで、俺はとある人物のことが気になった。それはもちろん、つい数時間前、今まさに話題に上がっている公園でパスケースを落としたかもしれないと話をしていた、俺の意中の相手のことだ。

見なくても、大体どんな顔をしてるかは察しがつくけどな…結構顔に出るタイプだし…。

食器を片づけるついでに、それとなく後ろのテーブルに視線を移す。しかし次の瞬間、予想外の事態が俺を待っていた。そこで俺達と同じように朝食を食べていると思っていた、彼女の姿がどこにもないのだ。




「轟くん、どうしたの?さっきからずっと突っ立ってるけど…」

女子が座るテーブルを凝視したまま、立ち尽くす俺を不審に思ったのか、麗日が不思議そうにそう尋ねた。

「なぁ、麗日。みょうじって、まだ降りてきてねぇのか」
「え、なまえちゃん?なまえちゃんなら、なんか用事があるからって、先に食べてどこかに出かけて行ったけど」
「な…っ」

彼女の行き先は、十中八九、件の公園だ。なんて最悪のタイミングなのだろうと、俺は頭を抱えたくなった。

「どうかしたん?」
「い、や…何でもねぇ」

待て待て。ちょっと落ち着け。

不審者が出たというのは夜だという話だし、まだ同じ場所にいるとは限らない。それに彼女もヒーロー志望なのだから、それなりの対抗手段はあるはずだし、最悪個性を使ってしまえばいい。
だが彼女に能力があることと、俺が個人的にみょうじが心配なのは、全くの別問題なわけで。

「あ、轟くん、今日の自主トレだけどさ…」

ちょうどそこに、今日この後一緒に自主トレをしようと言っていた、緑谷が通りがかった。しかし今の俺は、これからまともにトレーニングに打ち込める自信など、到底持ちえていない。

「轟くん、大丈夫?なんか顔色悪いけど…」

もしも万が一、噂の変な奴がその場に留まっていたとしたら。もしもそれで、彼女に何かあったら。今朝見たあの気の抜けた笑顔を思い出して、気づいた時には自分が片づけるべき食事のトレーを、咄嗟に緑谷に渡していた。

「悪ぃ、緑谷。急用が出来た。ちょっと出てくる」
「え、ちょ、轟くん…!?」

動揺した緑谷の声を背に、寮の入り口へと足早に向かい、急いで靴を履き替えた。寮を出てから少し経って、そういえば着替えすらしていないことに気づいたが、そんなことはお構いなしに、そのまま走って学校を出た。







常識のある奴ではあるが、どことなくふわふわしていて、どうにも危なっかしい。そんなことを、時折思う。柄にもなく、普段はそれが可愛いなんて思ったりするが、今に限っては不安要素しかない。
公園までは歩けば10分程度、走れば数分で辿り着けるというのに、そこに向かうまでのわずかな時間が、不思議ととても長く感じた。




「どこにいんだよ…」

今朝の会話から、噴水近くのベンチ付近へとひとまず足を伸ばしてみたものの、俺の探し物は見つからない。彼女は物ではないので、探し人、と呼ぶべきかもしれないが。

もう帰ったのか…?それか、別の場所に向かったとかか…?

勢いで飛び出してきてしまったが、どれくらい前にみょうじが寮を出て行ったのか、せめて麗日に聞いておけば良かった。30分程度しか立っていないのであれば、まだここにいる可能性もあるだろうが、これが1時間以上前に寮を出て行ったとなると、話がだいぶ変わってくる。
というより、そもそもの話、彼女の連絡先は知っているのだから、無事を確認するだけなら、普通にみょうじに電話をかければ、俺の悩みは解決されたであろうことに、今さらながら気づいてしまった。

「余裕なさすぎだろ…」

思わずそう口にしてから、ため息混じりでスマホを取り出す。俺の労力は、ひとまず一旦どうでもいい。今最も優先されるべきことは、とにもかくにも、彼女の身の安全だ。
ディスプレイに表示された"みょうじなまえ"という文字に、ほんの少しだけ胸が高鳴って、そんな自分に呆れながらも、その番号に触れると、すぐに発信中の画面に切り替わった。いつものようにスマホを耳に当て、何度かコール音が響いた後、ほんの少しの間が空く。彼女が電話に出たと思い、ほっとしたのは束の間で、その期待は大きく外れ、無機質な留守電メッセージが俺の耳に届いた。

とりあえず、留守電だけでも入れとくか。

そう思った矢先。ふと少し遠くに目をやった、その瞬間だった。
探していたその人物は、思いの外あっさりと見つかってしまったが、いつもとは違う意味で、胸がとてもざわついた。彼女が立つその近くには、一見すると人当たりの良さそうな、小柄な男が立っていたのだ。普段であれば、取り立てて何も思わないだろうが、俺の心をざわつかせたのは、その人物の特徴だった。
歳はおそらく、40代から50代くらい。その背丈には不釣り合いな、だいぶゆったりとした作業着を着ている。先ほど葉隠が話していた、例の不審者と完全に一致しているのだ。

「んの、野郎…っ!」

そのことに気づいた瞬間、身体が勝手に動いていた。

「え…と…っ!?」

勢いよく地面を蹴り上げて、全速力でそこへ走ると、それに気づいたみょうじは、かなり驚いた様子で俺を見た。突然現れた俺の存在に、訳が分からない様子で目を丸くしていたが、そんな彼女を隠すようにして、俺は男の前に立ち塞がった。

「……こいつに、何か用ですか」
「え…?」

そう問いかけると、男はひどく困惑した様子で俺を見上げた。見た目はやはり人当たりが良さそうに見えるのだが、それがかえって胡散臭さを醸していて、俺の疑念をさらに膨らませた。

「俺の…クラスメイトに、何か用ですか」

言葉を変えて再びそう尋ねると、男はみょうじと俺を交互に見ながら、潔白だと言いたげな様子で、両手を軽く上げてみせた。

「ちょ、ちょっと待ってね。なにか誤解してるみたいだけど、僕は怪しいものじゃなくて、ここの職員で…」
「……え?」

思わず短く声を上げると、俺の後ろにいたみょうじの、小さく俺の名を呼ぶ声がした。引き寄せられるように後ろへ振り向くと、彼女は少し気まずそうに、俺の方を見上げていた。

「あ、あのね、この人は公園の管理局の人で…パスケースのこと聞きたくて、私の方から話しかけたの。この辺りを探しても落ちてなかったから、もしかしたら、落し物として届いてるんじゃないかと思って…」

彼女の遠慮がちな説明を受けて、俺は再びその男に向き合った。苦笑いを浮かべたその男と俺の間には、言い表せない微妙な空気が流れたが、俺が勢いよくその場で頭を下げると、彼は何とも軽快に笑って、俺の謝罪を受け入れてくれた。






「あはは、なるほどね。それで僕のことを、その不審者だと思ったわけか」

みょうじの落としたパスケースがないかを確認するために、俺達は公園の管理局に移動することになったのだが、勘違いの原因となった例の噂についてを俺が説明すると、男は納得したように笑ってみせた。

「すみません。失礼なことを」
「いいよいいよ。それに、そのクラスの子が話してたっていう不審者は、たぶん僕で間違ってないから」
「「え?」」

スチール製の棚の中を物色しながら、あっけらかんとそんなことを言う男に、俺達は揃って戸惑いの声を上げた。そんな俺達を余所に、彼はこちらを振り向きながら、くしゃりと笑ってみせた。

「昨日の夜に、何人かの女の子がベンチで騒いでてね。近所の人から苦情が来たんだよ。だから声をかけたんだ」
「あの、じゃあ、腕を掴んだというのは」
「腕?…あぁ、それは僕じゃなくて、一緒にいた女性の職員だね」
「その場にいたのは、おじさん一人じゃなかったんですね」
「そうそう。個人的には、あんまり大事にしたくないんだけど、苦情が来た上で対応するケースの場合は、一応調書というか、対応した記録を残しておかないといけないんだ。まぁ、どこに提出する訳でもないし、形だけのものなんだけど、名前とか聞くことになるから、その子たちはそれが嫌だったみたいでね。逃げようとした一人の腕を、女性職員が掴んだわけ」
「なるほど。そういうことですか」
「調書なんて言い方されたら、そりゃあびっくりしちゃうよね。名前変えた方がいいって、僕は何度も言ってるんだけど…」

実際に話をしてみると、人相と同じく、かなり人がいい性格をしているようだ。確証もない情報で頭に血を昇らせて、この人を疑ってしまったことを、心の底から反省した。

「あの、本当に、すみませんでした」
「いやいや、いいよ。そんな話聞いてたら、そりゃあ不審に思うよね。すごい剣幕だったから、ビックリしたけど」

すごい剣幕だったと言われて、何だか少しだけ、背中が痒くなったような気がした。そうなったのはたぶん、いや、間違いなく、みょうじが関わっていたからで、もしも声をかけられていたのが別の誰かだったなら、もう少し冷静に対処出来ていたような気がする。




「うーん…パスケースの落し物は、特に届いてないみたいだね」

落し物を管理しているらしい棚の鍵を閉めながら、男は残念そうにそう呟いた。

「そうですか…」

俯きながら、明らかに落胆の色を見せた彼女の顔を見て、俺と男は顔を見合せた。そんな彼女を気の毒に思ったのか、男は少し考える素振りをしてから、あ、と小さく声を上げた。

「でももしかすると、バス停の向かいの交番になら、届いてるかもしれないよ。もし良かったら、電話して聞いてあげようか?」
「え、でも、お手間なのでは…」
「大丈夫。見ての通り暇だから。ちなみに、ケースの特徴は始めに聞いたけど、中身は定期かな?」
「あ、はい。正確には定期券じゃないので、ICカードですけど…」
「他には?」
「いえ、他には何も…」

そう返事をしたみょうじに、不審者騒ぎで忘れかけていた、"あの疑問"がふと蘇った。

「他には何も入ってないのか?」
「え、う、うん…そうだけど…どうして?」
「いや、何となく聞いただけだ」

彼女にとって、そのパスケースに重要な何ががあることは、朝の様子を見ても間違いないだろう。しかし、本体はなくしても別にいいと言っていたのに加えて、ICカード以外は何も入っていないとなると、一体何が重要なのだろう。
一難去ってまた一難、新たな悩みが浮上してしまい、胸の内側がモヤモヤした。

「了解。ちょっと待っててね」

そんな俺を余所に、管理人の男は急いでスマホを取り出すと、いそいそと電話をかけ始めた。電話が終わるのを大人しく待っていると、隣にいたみょうじが、小さな声で俺の名前を呼んだ。

「どうした?」
「あの、さっきは、ありがとうね」
「さっき…?」
「さっき噴水の近くで…私のこと、守ってくれたから…」
「まぁ…ただの勘違いだったけどな」
「それでも、その、嬉しかった、ので…」

照れたように笑うみょうじに、モヤモヤしていた胸の内が、じわりと暖かくなっていく。我ながら、なんて単純なのだろう。

「別に、大したことじゃねぇから」
「そ、そっか…」

お前は俺が守ってやる。
躊躇わずそう口に出来たなら、どんなにいいだろう。それを堂々と言える権利があったなら、どんなに。

「俺は───」

咄嗟に出かかったその言葉は、お待たせ、という男の声に遮られた。

「ど、どうでしたか…?」
「ちょうど今さっき、水色のパスケースが落し物として届けられたって。グッドタイミングだね」

男がそう言うと、みょうじはぱっと顔を上げて、安心したように笑ってみせた。

「ホントですか…!?」
「うん。さっき聞いた特徴とも一致するし、ほぼ間違いないと思う」
「あ、ありがとうございます…っ」
「良かったな。みょうじ」
「うん…!」
「ただ、近くの交番じゃなくて、警察署の方に届いてるらしくてね。ここからだと結構遠いから、電車で行くことになると思うけど…今から取りに行く?」
「あ、はい。私は特にこの後予定もないので…」

彼女はそう答えると、隣に立つ俺の方をちらりと見た。これから俺がどうするつもりなのか、それが気になっているらしい。

「俺も行く。どうせ暇だし」

まぁ、正確に言えば、無理やり暇にしたのだが。

「そ、そっか…。あ、じゃあ、ちょっとお手洗い行ってきていいかな?」
「あぁ。俺はここで待ってる」
「トイレなら、ここを出て右のつきあたりにあるよ。警察には、僕の方から連絡しておくね」
「色々とすみません…ありがとうございます」

みょうじは軽く頭を下げると、いつもより少しだけ早いペースで、部屋の出入口に向かって歩き始めた。ちょうど部屋を出るその瞬間、僅かな段差に躓く後ろ姿を見て、自然と口元が緩んだのを感じた。

本当に危なっかしいな、あいつ。

彼女の姿が見えなくなり、なんとなく管理人の男がいる方へと顔を向けると、彼はなぜか俺の顔を見ながら、穏やかな笑みを浮かべていた。

「あの、何か───」
「さっきすごい剣幕だったのは、あのお嬢ちゃんだからかな?」

少し間を置いてから、その言葉の意味を理解して、俺は一度だけ首を縦に振った。
今日初めて会ったこの人が気づいてしまうくらい、そんなに俺は分かりやすいのだろうか。まぁ肝心の本人はというと、俺の気持ちに一切気づく気配すらないわけだが。

「早く気づいて貰えるといいね」

頑張って、と一言付け足して、彼は再びくしゃりと笑いながら、俺の肩を軽く叩いた。







「あの、公園の管理局の方から、こちらに落し物が届いていると伺って来たんですけど…」

窓口にいた女性にみょうじがそう話しかけると、その女性はなぜか気まずそうな顔を浮かべながら、俺とみょうじを交互に見た。

「あ…もしかして、水色のパスケースかな?」
「はい」
「それなんだけど、実は少し困ったことになっててね…」
「え?」
「ちょっと一緒に来てもらってもいいかな?」

女性はそう言うと、みょうじと俺のいる方へとやって来て、自分についてくるように促した。事態がいまいち飲み込めない俺たちを余所に、その女性は困ったように笑いながら、来ればわかるから、と踵を返した。




「やだやだ…っ、お家に持って帰るのぉ…っ」

案内された別室の扉を開けると、そこにいたのは見知らぬ親子だった。子供の方は4,5歳くらいの少女で、大声をあげながら泣きじゃくっており、そんな娘の隣に腰を下ろしながら、母親は困り果てた様子で顔をしかめていた。

「いい加減にしなさい!これは落し物なんだから、警察の人に渡さなきゃダメなの!」
「絶対やだぁ…っ!」

母親の言葉を聞いて、嫌だ嫌だと首を振る少女は、胸の辺りで何かを必死に抱えていて、じっとそこに目を凝らすと、彼女の小さな手の隙間から、水色の何かがちらりと見えた。

「もしかして、あの子が持ってるやつか?お前のパスケース」
「う、うん、そうなんだけど…」

部屋に入ってきた俺達に気づいたのか、その親子はぴたりと動きを止めて、こちらの方をまじまじと見つめた。

「お嬢ちゃん、それはこのお姉さんのものだから、返してあげてくれないかな?」

窓口にいた女性がそう話しかけると、幼い彼女はじわっと瞳に涙を滲ませながら、再び首を何度も横に振った。

「やだ…っ、うさぎさんとお別れしたくないもん…っ」
「うさぎ?」

もう一度握られているパスケースに視線を向けると、そのパスケースの端の方に、見覚えのあるものが目に入り、胸の辺りがざわついた。


あれは───、


「昨日あの子が公園で拾って、家に持って帰ってきたらしいんだけど、あのうさぎのストラップを随分気に入っちゃったみたいでね…ここに来る前から、ずっとあんな感じみたい」
「な、なるほど…」

困ったように笑い合う二人を余所に、胸のざわつきは増すばかりだった。

但しそれは、いい意味で、だ。

性格的に、人から貰ったものを捨てるようなことはしないだろうが、学校で使うものには付けていなかったので、てっきりどこかにしまっているものだと、勝手にそう思っていた。
この子が欲しがっているという、みょうじのパスケースについているストラップは、去年の秋頃、俺が成り行きで渡したものだ。そしてそのストラップは、俺がみょうじを好きだと自覚するきっかけになったものでもあった。

つけてくれてたのか、あれ。

思わぬサプライズに、顔が緩みそうになるのを必死に抑える。最早あのパスケースが何であろうとどうでもいい。彼女が俺の渡したものをつけていてくれたことに、内心だいぶ色めき立っている。




「あの、すみません」

そんな俺を余所に、泣きじゃくる少女の母親が、気まずそうな様子でみょうじの前にやって来た。

「本当に、図々しいお願いなのですが……その、こちらのストラップを譲っていただけないでしょうか…」
「え…」

母親の言葉に、みょうじは戸惑った様子で小さく声を上げた。

「もちろん、お金はきちんとお支払いしますので…」

その場にいた全員の視線が彼女に向けられていて、もちろん俺もその一人だった。
既にみょうじに渡したものだし、それをどうするかは彼女の自由だ。しかしこれであっさりと手放されてしまうものなら、俺の受けるダメージもなかなかのものである。

「え、えっと…」

みょうじは小さく声を上げると、その母親に向かって申し訳なさそうに頭を下げながら、ごめんなさいと呟いた。

「これは…その、すごく大切なものなので…あげられないんです…すみません…」

困ったように眉を下げながら、彼女は遠慮がちにそう言った。その一言が、思わぬ方向にとんでもない影響を与えていることなど、全く気づかずに。

これが計算じゃないんだから、本当に恐ろしい奴だな。

好きだとか、そんな言葉じゃ言い表せないくらい、好きで好きでたまらない。とんでもない矛盾だ。




「うさぎさん好きなの?」

俺の心境など知る由もなく、彼女はそっとしゃがみこんで、小さな身体と視線を合わせた。

「う、うん…っ」
「そっか…でも、ごめんね。これはお姉ちゃんがすごく大事にしてるものだから、あげられないんだ」
「う…っ、ひっく…」
「だから、代わりのものになっちゃうけど…」

みょうじはそういうと、カバンの中から小さな丸いカプセルを取り出して、涙を浮かべる彼女の目の前で、パカッとそれを開けてみせた。
カプセルの中に入っていたのは、ストラップのうさぎと同じシリーズのものと思われる缶バッジで、目の前に現れた新しいアイテムに、幼い瞳はきらきらと輝いた。

「ピンクのうさちゃんだ!!かわいい!!」
「公園近くのガチャガチャで当たったんだけど、その鞄につけたら可愛いかなって」

幼くか弱い肩にかけられている、バッジと同じ色をした鞄を指さして、みょうじはふわりと笑ってみせた。その笑顔が向けられているのは、まだ幼い子供だというのに、俺が好きなその顔を向けられている少女に、ほんの少しだけジェラシーを感じた。

「良かったら、こっちを貰ってくれないかな?」
「いいの…?」
「うん。同じやつじゃなくて、ごめんね」

みょうじがそう呟くと、幼い彼女は涙を拭って、頑なに握りしめていたそれを、すっと目の前に差し出した。

「だいじなもの、かえす…」
「うん。拾ってくれて、ありがとうね」

小さな頭を優しく撫で、柔らかく笑うみょうじを見て、俺はまたもや大人気なく、今だけこの子に成り代わりたいと、そんなことを思ってしまったのだった。







「良かったな。探し物が見つかって」

帰りの電車に揺られながら、隣に座るみょうじにそう話しかけると、彼女は嬉しそうに頷いて、いつものようにふわりと笑った。

「でもごめんね。結局ほぼ丸一日、ずっと付き合ってもらっちゃって…」
「本当に付き合っただけで、何もしてねぇけどな」
「そんなことないよ」

彼女はそう言ってくれたが、何もしていないどころか、逆に色々貰ってしまったような気すらする。もちろんみょうじ本人は、そんなこと全く意識していないのだろうが。

「そういえば轟くん、なんで今日あの公園にいたの?」

今さらすぎるが、至極当然なその疑問を、彼女はついに口にした。

「ちょっと……近くまで行ったから、ついでに…寄った」
「そっか」

彼女はそれ以上何も聞かず、俺もそれ以上言わなかった。余計なことを言えば、色んなことが崩れてしまうような、そんな気がした。少なくとも俺の方は。

それなのに、妙な期待をしてしまっている自分がいる。

少し冷静になった頭で、今までのことを思い返す。パスケースの本体に思い入れはなく、中身もただのカードだけ。他になにかあるとすれば、俺が知りうる情報の限り、たったひとつしか思い当たらない。
こいつにとって特別なのは、本当に探していたものは、もしかして。そんな期待を、抱いてしまった。そしてそんな期待を、確信に変えたい自分がいる。その答えを今すぐ知りたいと、そう思ってしまう自分が。




「なぁ、みょうじ」

その名前を呼ぶと、彼女からの返事はなく、その代わりに、左側の肩が少しだけ重くなる。反射的にそちらに顔を向けた瞬間、心臓が不謹慎に跳ね上がった。
ずっと歩き回って疲れてしまったのか、ぴったりと俺の肩にもたれかかりながら、彼女はその瞼を閉じて、静かに寝息を立てていた。

こいつ、いつか誘拐されんじゃねぇか。

あまりに無防備なその姿に、またしても新たな悩みが出来てしまったが、安心しきったその寝顔が可愛くて、心が擽ったくなったのも、また事実で。

「……お疲れ」

小さくそう呟いて、預けられた身体に寄り添うように、少しだけ頭を左に倒した。柔らかそうな彼女の髪から香る、花のような甘い匂いが心地良くて、自然と瞼が重くなる。
目が覚めたら、きっとすごく驚くだろう。何度も俺に頭を下げ、焦る彼女を思い浮かべながら、迫り来る睡魔に抗うことなく、俺は瞼をそっと閉ざした。


−−−−−−−−−−

サイト開設1周年ということで、少々遅刻ですが、書かせていただきました。
ちなみに二人とも、今朝は4時半起きなので、当然のように寝過ごして終点まで行きます。

2021.10.12

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