彼女が開けた扉


いつからだっただろう。この部屋のドアをノックする時、深呼吸をするようになったのは。
今日は何をしているか、なんて考えるまでもなくこの部屋の主のやることは大体決まっている。私がノックせずにこの部屋に足を踏み入れたとしても、おそらく彼は動揺ひとつ見せずに視線は手元のゲーム機に向けたまま、私を受け入れてくれるのだろう。
家が近所で、同い年の幼なじみ。小学校から今の高校に至るまでずっと学校も同じで、姉弟あるいは兄妹のような存在。そんな彼を、一人の男の子として意識するようになったのは、一体いつのことだったのか、何故そうなったのかはよく覚えていない。でもその感情を自覚するようになってからというもの、この部屋の前にくると何もないとわかっているのに、不安のような、期待のような、よくわからない緊張感が胸の奥を圧迫する。部屋に入ればいつもの光景、いつもの彼が居て、それは不変だと知っているのに、今日も私は深呼吸をしてこのドアをノックするのだ。

「研磨〜、入ってもいい〜?」

ノックをするまでの緊張を胸の奥へ、さらに奥へと押しやって、いつも通りのトーンで尋ねる。あなたのことなんて、別になんとも思っていませんよと言うように。私は可愛くない女だ。
いつもこうして部屋に入る許可を求める私に、彼は小さな声で"どうぞ"と言う。それは普通の人からすると、とても小さな声で、私がそれを聞き逃さないのは、一緒に過ごしてきた時間故か、それとも惚れた弱みかは五分五分といったところだろう。
ところがどうしたことか、今日はいつもの返事が聞こえない。私が聞き逃したのだろうか。いや、そんなことはないはず。少なくともここ数年、このやりとりをして研磨の声が聞き取れなかったことはない。

今日行くよって言ってあったし、返事も来たから居るはずなんだけど。

さてどうしたものか。明日までの宿題で、どうしてもわからない応用問題があってそれを研磨に聞きに来たのだが、彼に会えないとなると、少し困ったことになる。何故なら明日の数学は当たる予定が確定しているからだ。しかも席の順番的に、この解けない問題のところを。
返答がないまま部屋に入るのは非常に気が引けるが、一応ノックはして声もかけたのだから、まぁ今回は仕方ないだろう。そう思って部屋のドアノブに手をかけ、ゆっくりと何かを確かめるように扉を開けた。

「ごめん、一応ノックして声もかけたんだけど...」

謝罪の言葉を述べながらドアを開けると、いつもとは違う光景があった。どおりで返事がないわけだ。

「何だ、寝てたのね...」

昨日の夜からずっと朝までずっとゲームでもしていたのだろうか。ベットに寄りかかりながら、座ったまま眠っている。いつもはある手元のゲームは床に無造作に置かれ、常に画面を見つめているその瞼は閉じられている。開けっぱなしにされた窓から入るひんやりとした風が彼の髪を軽く揺らす。
このまま何もかけないと風邪をひきそうだと思い、ベッドの上にぐしゃっと置かれた薄い毛布を、起こさないようにゆっくりと彼にかけた。なんとなく人ひとり分くらいの距離を開けて、彼と同じくベッドを背もたれにして座ると、起きている時はなかなか見れない彼の睫毛の長さに気づく。細身で中性的な外見のせいか、眠っていると女の子に見えなくもないが、バレーで鍛えられた身体はしっかりと彼が男だと言うことを主張していて、自分と彼の手を見比べ、私たちは緩やかな速度で、でも着実に大人になっていることを実感させられる。

何よ、しっかり男っぽくなっちゃって。中学まではあんなにひょろっとしてたのに。

今もしも私と彼が逆の立場だったなら、彼はどう感じるのだろう。私だけがきっとこんなことを考えていて、研磨はきっと同じ状況になったとしても、いつものようにゲームを始めるのだろう。
そう考えるとなんだか無性に悲しいような、腹立たしいような。

私、16歳の女の子ですよ。しかもあなたのこと好きなんですよ。少しは意識とかしないんですか。

「私のこと、何とも思わないんですかね。ちくしょう」

こんなに近くて、こんなにも遠い。そんな少女漫画の台詞のような言葉を、心の中で呟くようになってしまうとは。隣から聞こえる規則的な呼吸音のせいか、なんだか私も眠くなってきた。
寝てしまおうか。いやさすがに異性の部屋でそれはまずいだろうか。まぁいいや、どうせこの人は私のことなどゲームの村人くらいにしか思っていないだろうし、彼が起きるまでは宿題は出来ないのだから。







「ちょっとなまえ、そろそろ起きなよ」

覇気のない、やや不機嫌な声に意識を引っ張られる。

「んー...」
「宿題、明日当たるんでしょ」
「あー...うん...ってあれ。研磨、なんで...」
「それはこっちの台詞だし、ここはおれの部屋」

そうだった。研磨に宿題を教えてもらうために部屋に来たんだった。
座って寝ていたはずなのに、いつの間にか横になっていて、彼にかけたはずの毛布は私にかけられている。

「今、何時...?」
「もう夕方だよ」
「どうりで小腹が空いてるわけだ」
「...寝起きで?まぁいいけど...じゃあこれ食べる?」

そう言うと、どう考えても彼が買ったものではなさそうな、可愛い袋に入った星形のクッキーを渡される。

「おばさん、いつもお菓子のチョイスが可愛いなぁ」

袋を開け、一つ手に取って口に入れると、優しい甘さが広がっていく。

「ねぇ...」
「ん?何?」
「なまえって、クロの部屋でもこんな感じなの?」

質問の意味がよくわからず、声のする方に顔を向けると、机の上で頬杖をつきながら、研磨は無表情でこちらを見ている。

「はい?」
「クロの部屋でも、寝たりとかするの?」
「いや...そもそもクロの部屋行かないし」
「ふーん」
「ふーんて」
「じゃあ他の人の部屋には行くの?」
「いや?行かないよ?友達みんな家遠いし」

そう答えると、特に表情を変えることなく研磨は相変わらずじっとこちらを見ている。彼が何を聞きたいのかよくわからず、とりあえず二個目のクッキーを口に入れる。

「じゃあ、わざとやってるの?」
「...何の話?」
「おれも人並みにあるんだけどね」
「いや、だから何が?」

私が聞き返すと、研磨は小さくため息をついてから頬杖をついていた手をスッとこちらに伸ばすと、私の頭の後ろに置き、そのまま顔を近づけてくる。さっきは閉じられていた目はしっかりと開いているが、その目は何を思っているのか読み取れない。というか近い。

「俺にもあるよ。こういうことしたいなって、欲」
「え...」
「ダメだよ、なまえ。あんな簡単にイベントフラグ立てたら。どうにかしてくださいって、言ってるようなものだよ」
「そんなんじゃないし...っていうか、近いんですけど...」
「まぁ近づいてるからね」
「い、いや...あの...」
「さっきの質問の答えだけど」
「え...?」
「なまえのこと、何とも思ってないわけないじゃん」

さっきの質問と言われて一瞬よくわからなかったが、彼の答えを聞いてから、その"質問"には思い当たる節があることに気付いた。

「研磨、もしかして起き...」
「黙って」

もしかして起きてたの?そう聞き終わる前に、突如唇に柔らかい感触が訪れ、すぐにその感触は失われた。目の前にいる人が何をしたのか理解したけど、それは夢だったのではないか思う程に、彼はいつも通りの表情でただ私のことを見ているだけだ。
キスした。研磨と。キスされた。研磨に。あまり優秀とは言えない頭でも、その行為によって、今までの研磨の言葉の意味を理解できてしまった。

「...ちょ、と待って。い、今の何!?どういうこと!?」
「言っておくけど、そっちにも落ち度はあるからね。自分のこと意識してる男の部屋で気を抜くと、こういうことになるんだよ」
「あの、それは、つまり...?」
「後は自分で考えて。これ以上は教えない」
「いや...そこは言おうよ」
「んー、じゃあ...条件付きで教えてあげるよ」
「条件...?」

新作のゲームでも献上させられるのだろうか。ゲームって結構高いんだけど、でもそれでもずっと知りたかった彼の気持ちを聞けるなら、まぁ別に安いものだが。

「今日泊まっていってくれたら、教えてあげる」
「...な、言ってんの!?」
「昔は平気で俺の部屋に泊まってたじゃん」
「いつの話よそれ!!」

予想の斜め上を行く条件提示に、混乱気味の頭がパニックに陥る。目の前にいる人は本当に孤爪研磨なのだろうか。というか、そんな台詞どこで覚えてきたのだろう。クロに吹き込まれたのだろうか。そうに違いない。そうでなければそんなこと、研磨が口にするわけない。あの野郎、なんてことしてくれたんだ。あんなに可愛かった研磨に。

「どうする?ちなみに、おれ側に"何もしない"っていう選択肢はないけど」
「じょ、冗談やめてくれる!?」
「俺は冗談とか言えるタイプじゃないって、なまえならよく知ってるでしょ」
「なっ...!?も、もう帰る!!」

まだ中身が残っているクッキーの袋を乱雑に鞄に押し込めて、立ち上がり、部屋のドアの前に向かうと後ろから腕を掴まれる。

「なまえ」
「な、何...?」
「次来るときは、ちゃんと覚悟してから来てよ」
「覚悟って...」
「おれにどうにかされる覚悟」
「...知りません!!」

掴まれていた腕に力を入れると、それはいとも簡単に解き放たれる。部屋のドアを開けて逃げるように部屋を出て、これでもかと言うくらい思いっきり音を立てて閉めた。もう何が何だかわからず、そこにへたり込んで顔を両手で覆う。いつものように部屋を訪れただけなのに、こんな急展開があるなんて聞いてない。
ずっとここにいるわけにも行かず、ゆっくりと立ち上がり、彼の部屋のドアを見つめる。次にこのドアをノックするのは果たしていつになるのか、研磨の言う覚悟の意味が私の想像通りなら、その覚悟ができるまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。
もう何度も来ている彼の家の玄関で靴を履いて外に出ると、そこには来た時と全く同じ景色が広がり、静かで穏やかな夕暮れ時の空気が漂っているのに、私の心は全く穏やかじゃない。
明日学校に行ったらまずはクロを一発殴ろう。研磨に余計なことを吹き込んでくれたお礼はしっかり果たさなければ。そんな決意を固めた直後、私はあることに気づいた。

「宿題...どうしよう...」

いつもなら戻れるその場所に、今は絶対に戻れない。もしここで今戻ってしまったら。研磨の言葉を思い出し、それを想像するだけで、顔から火を噴く勢いだ。まさかこれも彼の計算の内なのか。それともただの偶然か。
そんなことを考えながら家に着く頃には、もう宿題のことはすっぽりと頭から抜け落ちて、明日の授業で顔面蒼白するのは、もう少し先の話。

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無気力組は絶対にロールキャベツ男子だと思っています。
お誕生日おめでとうございました。
2020.10.18

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