Gift


いつからか、自分が生まれた日に対する特別な思い入れはなくなった。もちろん祝福の言葉は嬉しいし、プレゼントを貰えれば、ありがたいな、とも思う。だけど正直なところ、特に祝ってもらいたいと思ったことはなかったし、ましてや自分の誕生日を、誰かと共有したいと思ったこともなかった。
彼女のことを、好きになるまでは。







「宇内先生、まだですか」
「な、なんか赤葦さん、今日は一段と圧が強くないすか...?」

俺はちらっと自分の腕時計を見た。現在時刻18時28分。宇内先生の仕事場に来てから、3時間ほど経過している。待ち時間の間に片付けおうと思っていた仕事は、思った以上に早く終わってしまった。下手をすると編集部で仕事をしている時よりも早いかもしれない。
予定ではもう原稿を回収して編集部に戻っているはずだったのだが、どうやら先生の作業の進捗は芳しくないようで、焦った様子で原稿を仕上げる先生の背中を、俺は時折わざとせっつきながら見守っていた。

「赤葦さん、視線が。視線が痛い...」
「俺のパワーを送ろうと思いまして」
「逆に俺のパワー奪われてる気がするんすけど」
「気のせいですよ。それより早くしてください」
「い、今やってますから...!ずっとそこに居られると逆に集中できないから、コーヒーでも飲んでて下さい!」

集中してもらえないのはとても困るので、キッチンのカウンターに置かれたコーヒーメーカーを手にとった。近くに置かれた適当なマグカップを借りて、コーヒーメーカーの中で揺らぐ黒い液体を注ぐ。カップにコーヒーを注ぐと、周囲に独特の香ばしい香りが広がる。

「赤葦さん、今日は何でそんなに急いでるんですか?」
「口じゃなくて、手を動かしてください」
「いやこれ見て!動いてるから!」
「...約束がありまして」
「ふーん。あ、彼女っすか?」
「まぁ、はい。そうですね」
「遅れると、怒られちゃうとかですか?」
「いえ、全く」
「ならいいじゃないすか!」
「良くないです。一分一秒一瞬たりとも、彼女との時間を取られたくありません」
「うわぁ...言い切ったよこの人...」

こんな仕事柄、急に会議や打ち合わせが入ることも珍しくなく、社会人になってからというもの、正直彼女との約束をきちんと守れたのは、数えるくらいしかないかもしれない。それでも彼女は俺に対して怒りをぶつけてきたことはないし、それで喧嘩になったこともない。
それはひとえに彼女の理解のおかげであり、俺はこの先もずっと、彼女に頭が上がらないのだろうなと思う。

先生はその後、俺のプレッシャーを背中で感じつつも、文字通り"死に物狂い"でペンを走らせた。原稿が仕上がるまでの間、先生は席を一度も立っていないはずだし、身体を動かしたわけでもないのに、原稿を俺に渡してきた先生は、何故か息を切らせていた。

「...はい、大丈夫です。ではこちらで原稿をお預かりします」
「俺が腱鞘炎になったら、赤葦さんのせいですからね...」
「ご心配なく。そうなる前にはきちんと止めます」
「はは...ホントしっかりしてる...」
「今後のスケジュールは、また後ほどメールでご連絡しますので」
「楽しんで来て下さい」
「はい。では、失礼します」







インクが染み込んだ匂いと、微かなコーヒーの香りが共存する部屋を出ると、ここへ来た時には薄い水色をしていた空の色は、限りなく漆黒に近い濃紺だった。あと20日もあるというのに、街は既にクリスマスムード一色で、街路樹やあらゆる店舗の至る所に、電飾が施されている。駅に向かう道を歩くと、空の色とは対照的に、色とりどりの鮮やかな光が、次々と視界に入ってきた。寒空の下をしばらく歩いていくと、駅前飾られた大きなクリスマスツリーが見え、自然と足が早まった。

早く、早く会いたい。彼女に。

ツリーの近くまで来ると、誰かを探すようにキョロキョロとしている一人の女性の姿に、自分の口角がうっすらと上がるのが、自分でもわかった。今すぐに駆け寄ってあげたい気持ちと、彼女に俺を見つけて欲しいと思う気持ち。どっちも同じくらいの大きさで心に内在していて、どうしようかと少し迷っていると、彼女の方が俺の姿に気付き、嬉しそうな顔で駆け寄ってきた。冬の冷たい風に揺れる髪は、いつもと違ってふんわりと巻かれていて、俺のために髪を巻く彼女の姿を想像して、気持ち悪いほどにニヤけているであろう口元を手で覆った。

「京治くん、お疲れ様!」
「なまえさんも、お疲れ様です。お待たせしてしまいましたか」
「ううん、私も今来たところだから」

そう言って笑う彼女の鼻は、赤く染まっている。相変わらず嘘が下手な人だ。彼女の手を取ると、どの手はとても冷たかった。

「今来たのに、何でこんなに冷たいんですか」
「え...あっ、ほら!私冷え症だから!」
「知ってます。でも足だけですよね?」
「う...何で言ってないのに、そんなこと知ってるの...」
「わかりますよ。ずっと見てきましたから」

俺が何気なく言ったその言葉に、彼女は頬を赤く染めた。

「京治くんは、そういうことサラッと言っちゃうところがずるいと思います」
「だって本当のことですから」
「も、もう行こう!お腹すいちゃったし!」
「そうですね。早く暖かいところに行きましょう。店予約してあるんで」

俺の一目惚れだった。
梟谷のバレー部に入り、部室に初めて足を踏み入れたその日、俺がドアを開けた音に振り向く彼女に、一瞬で心を持っていかれた。そんな俺の彼女への好意は、先輩たち曰く"顔に全く出ないのに態度でバレバレ"だったらしい。それは彼女本人も同様で、高2の夏に俺から告白した時は、彼女に驚いた様子はなく、恥ずかしそうに笑って"よろしくお願いします"、と返事をくれた。あの時の笑顔を写真におさめておかなかったことは、俺の人生の最大の失態だ。

「け、京治くん...」
「はい」
「その...いいの?こんな高いお店...」
「俺が出しますから、ご心配には及びません」

俺が予約したのは、駅から少し歩いたところにある、彼女が以前"一度行ってみたい"と言っていた、イタリアンの有名店だ。ネットで店内の写真は見ていたが、実際に店に入ると、写真で見る以上に高級感が漂っていた。

「でも、今日は京治くんの誕生日で...」
「...なまえさんは、こういうお店に俺と来るのは...嫌、ですか?」
「ち、違うの!そうじゃないよ!すっごく嬉しいよ!雰囲気も素敵だし...!」

少し落ち込んだフリをして、わざとらしく俺が"嫌ですか?"、と尋ねると、彼女は慌てて両手をバタバタさせながら、一生懸命に否定してくれる。こういうところも昔から変わっていなくて、本当に可愛らしいと思う。

「じゃあ、そんな顔せずに笑って下さい。俺が先輩の喜ぶ顔が見たくて、ここにしたんですから」
「...なんか、京治くん、大人になった」
「成人してから結構経ちますが」
「まぁ高校の時から落ち着いてたし、大人っぽかったけど...何ていうか、さらに余裕が出たというか...最近は年下って感じしなくなったなぁって」
「まぁ...あの頃よりは多少...」

彼女と出会う前だって、人を好きになったことがなかったわけじゃない。だけど、ひと目見ただけで心を根こそぎ持っていかれるなんて、そんな経験は後にも先にもそれが最初で最後だった。部活の時は隙あらば彼女に話しかけていたし、偶然を装って会いに行っていた。他の男が彼女に声をかけようものなら、先回りしてそれを回避し、牽制も怠らなかった。あまりに必死で格好悪い、子供だった昔の俺。彼女との思い出は、どれもこれも忘れたくない大切なものだけど、俺自身のことに関してのみならば、恥ずかしくて抹消したい記憶は、正直いくつかある。

「ふふ、木葉くんとたまたま二人で先に帰った翌日は、わざと木葉くんに難しいトスあげたりしてたもんね」
「...忘れて下さい。そんな昔のこと」
「えー?可愛い思い出なのになぁ...」
「誕生日に、そんな恥ずかしいこと思い出させないで下さい」
「あはは、それもそうだね。ごめん。あ、じゃあちょうどいいから、お酒飲む前に渡しておくね」

とても大切そうにプレゼントを抱えながら、毎年彼女は笑顔でこう言ってくれる。

「お誕生日おめでとう」

年月が経ち、俺たちは確実に歳を重ねているけれど、この笑顔だけはいつまでも変わらず、俺の心をドキドキさせる。

「毎年ありがとうございます。開けていいですか?」
「もちろん!」

彼女がくれたプレゼントの箱を開けると、中には手袋とマフラーが入っていた。

「京治くん、大学の時にあげたやつ、ずっと使ってくれてるでしょ?そろそろ新しいものがあるといいかな、と思って」
「ありがとうございます。今のやつも気に入ってましたが、これもすごく好きです」
「でもあれだね...いつも無難なものばっかりで、なんかごめんね」
「そんなことないですよ」
「毎年、今年はもっと工夫しようとか思うんだけど...使ってくれるところがやっぱり見たくて、こういうものばっかりになっちゃうんだよね...」
「...じゃあ、俺からプレゼントのリクエストをしてもいいですか」
「何か欲しいものがあるなら、ぜひぜひ!」

俺の欲しいものなんて、そんなものは、ずっと前からひとつしかない。

「なまえさんのこの先の人生を、俺に下さい」

俺がそう言うと、彼女は一瞬ぽかんとした顔をしたあと、本来は色白なその顔を真っ赤にさせた。

「...そんな、いきなり...」
「いきなりでもないです。俺としては」

自分の鞄から、用意していた小さな箱を取り出して、テーブルに置いた。彼女の方へその箱をスッと差し出すと、彼女はその中身を察して、さらに顔を赤くする。どこまで赤くなってくれるのか、今度検証してみたいものだが、それはひとまず置いておこう。
今日この店を選んだのは、もちろん彼女の喜ぶ顔が見たかったからだ。でもそれ以上に、俺がこれを渡したいからでもあった。

「受け取ってもらえますか」
「で、でも...」
「ダメですか」
「ダメじゃないけど...私でいいの?本当に」
「なまえさん以外を考えたことなんて、一度もありません」
「本当に...?」
「はい。もれなく俺の人生も差し上げます」
「ふっ、何それ。キャンペーンみたい」

少し涙を滲ませながら笑う彼女は、俺が渡した指輪の箱を、壊れ物を扱うように丁寧に持ち上げた。淡々とプロポーズという名の交渉を続ける俺だが、心音は今までに感じたことのないほどに騒がしく、奇怪な音を立てている。

「本当にこれ、もらっていいの?」
「はい」
「...ありがとう。大切にするね」
「なまえさん。一度それ、お借りしてもいいですか」
「あ、うん...」

彼女が持ち上げたその箱を、もう一度自分の手に戻し、今度は中身だけを手に取る。俺が差し出した右手に、彼女は迷うことなく自身の左手を重ねた。

「途中、少しふざけた言い方をしてしまいましたが」

こんなドラマのワンシーンみたいなことを、自分がやる日がやって来るとは。人生何が起こるかわからないというのは、どうやら本当らしい。

「俺と、結婚して下さい」

そう言いながら、白く細い薬指にそれをはめると、彼女は恥ずかしそうに笑いながら、一筋だけ涙を流した。

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プレゼントにあなたを下さい的なことを、彼なら言うかなという妄想の産物です。
赤葦くんお誕生日おめでとう!クールでちょっと変なあなたが大好きです。

2020.12.05

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