あわよくば、君と朝まで眠りたい。


※短編「叶うなら、あなたと朝を迎えたい。」の番外編です。
(未読でも特に問題はありません)


最初の頃のイメージは、危なっかしくて変わった奴。挙動にハラハラさせられて、それを疎ましくも思いながらも、気づけばそんな存在を、目で追いかける自分がいた。

「みょうじ、こないだ頼んどいた資料って、今どうなってる?」
「え、えっと…ちょうど出来たものを印刷したところでして…っ、持っていこうと、思ってました…!」

ガチガチに身体を強ばらせながら、みょうじは俺にそう言った。

「相変わらず、仕事早ぇな。締切まであと二日もあんのに」
「いえ…そんなことは…」
「ちょうどここまで来たし、今確認していいか?」
「ど、どうぞ…!」

彼女は両腕をピンと伸ばして、資料を俺に差し出した。しかしいつものことながら、その目は一度たりとも俺を見ることはなく、明らかに警戒した様子である。

そんな怖がらせるようなことしたか。俺。

雄英を卒業後、プロとしてヒーロー活動をするようになって、二年と半年。親父の事務所に入所してから、三度目の春を迎える頃、今まで一番の下っ端だった俺に、初めて仕事の後輩が出来た。
後輩と言っても、彼女はヒーローではなく事務員なので、一緒に任務にあたるわけではなかったが、外に出ていることも多く、いつも雑務が溜まりがちな俺のサポート役として、こうして資料をまとめてくれたり、あらゆる手続きを全て担ってくれていた。

「特に問題なさそうだな」
「ほ、ほんとですか…?」
「あぁ。さすがだな」

俺の言葉に、みょうじはふう、と息をつき、安堵の表情を浮かべてみせた。仕事は早く、かつ正確。こうして関わるようになって、ちょうど半年経った頃だが、その間にあったミスといえば、些細な誤字が数回だけ。彼女はとても優秀で、正直俺が確認などしなくてもいいのではないかと思うほど、とてもよく出来た後輩だった。

「これ貰っていっていいか?」
「あ…一応自分で最後にチェックしたいので…あとでまた持っていきます」
「ちゃんと見たし大丈夫だろ。それに俺、この後またすぐ出ちまうから」
「そうですか……分かりました。えと…量が多いので、私封筒持ってきますね」
「え」

みょうじが何気なく口にしたその一言に、思わず小さく声を上げた。

「どうかしましたか?」
「いや、その、大丈夫か?」
「何がですか?」
「……いや、なんでもねぇ」
「そうですか…?じゃあ、ちょっと待っててくださいね」

そう言うと、みょうじはすっと椅子から立ち上がり、備品が保管されている棚の方へ向かって、少し急ぎめに歩き出した。するとちょうど中間地点の辺りで、別方向からやって来た同僚の足に躓いて、彼女はその場で盛大に転けた。慌てて声をかける同僚に対し、大丈夫ですと軽く手を上げると、彼女は再び歩き出す。少ししてから、棚へは無事にたどり着いたものの、目的のものがないようで、彼女はあちこちの扉を開けて、とても困った顔をしていた。
痺れを切らして近づこうと、俺が一歩足を踏み出したところで、ガン、という衝撃音が鳴り、みょうじは自身の頭を抱えた。どうやら目的のものは見つけたらしいが、それを取ろうとした時に、開けっ放しの棚の扉に、思い切り頭をぶつけたらしい。

仕事"は"すげぇ優秀なんだがな…。

デスクに座っている時は、一切心配いらないのだが、一歩そこから動いてしまうと、なぜかトラブルに見舞われる。仕事は文句の付けようがないが、それにしたって危なっかしい。こういう人種のことを、上鳴曰く"ドジっ子"と総称したりするらしいが、下手をすれば怪我をしかねないみょうじの様子に、毎回こっちは気が気じゃない。

「すみませんっ、お待たせしました…!備品の配置が変わってて、探すのに時間がかかってしまって…」

それほど時間は経っていないが、駆け足で戻ってきたみょうじの額は、僅かに赤く腫れていた。

「おい。それ大丈夫か?」
「え…?どれですか?」

自分の周囲をきょろきょろ見回すみょうじの額に、右手の指でそっと触れると、彼女は肩をビクッと揺らした。

「ここ。さっき棚にぶつけてたろ。赤くなってんぞ」

少し腫れたその場所を、軽く指でなぞってみると、ほんの少しだけ浮き上がっている。するとみょうじは顔をみるみる真っ赤にさせて、ぱくぱくと口を数回動かす。

「みょうじ?どうし」
「%△#?%◎&@□!!」
「は?」

言葉にならない言葉を叫び、彼女は俺に封筒と書類を押し付けると、その場を走って後にした。よく分からないまま取り残された俺に、好奇の視線がいくつも刺さり、なんとも気まずい空気が流れる。

俺ってそんなに怖ぇのか…?

確かに愛想はない方だと自覚はしているが、特に何もした覚えのない奴に、ここまであからさまに拒絶されると、さすがに少しショックである。

後で謝っとくか…。

俺に触れられるのが、そんなに嫌だったのだろうか。ほんの少しだけ熱が残る、行き場をなくした指先を見つめ、小さくひとつ息を吐いて、逃げるようにその場を去った。







パトロールの帰り道、いつもはほとんど立ち寄らないコンビニで、適当にいくつかデザートを買った。会計をしてくれたコンビニの店員から、実は甘党なんですかと、なぜか食い気味に聞かれたが、説明するのも面倒なので、まぁそうですねと答えてしまった。

「あ。ショート君、さっき貰った資料なんだけどさ」

コンビニの袋を片手に、事務所の執務室に戻ると、親父のサイドキックの男が、俺の方へと駆け寄って来た。

「どうかしました?」
「資料の途中に添付されてたデータの数値に誤植があってね。ショート君パトロールに出ちゃってたから、いつも君の雑務をサポートしてる事務員の…えっと、みょうじさんだったかな?彼女に一旦返しておいたよ」
「え…」
「まぁ期日までまだ余裕あるからいいんだけど、大事な会議の資料だから、確認作業はしっかりやってね。もちろん、最初からミスがないのが一番いいんだけど」

違う。これはあいつのミスじゃない。彼女は出す前にもう一度確認したいと言っていたのに、俺がそれを突っぱねて、大丈夫だとタカを括ったせいだ。

「いえ、その…みょうじは俺に渡す前に、もう一度確認しようとしてたんですけど、俺が大丈夫だろって言って、そのまま出してしまって」
「あ、そうだったの?確かにみょうじさん、いつもミスとかしないから、珍しいなとは思ったけど…そういうことだったんだね」
「完全に俺のミスです。すみません」
「いいよいいよ。大丈夫。さっきも言ったけど、期日までまだ時間もあるから」

穏やかな笑みを浮かべながら、サイドキックの男はその場を去った。特に重大なミスではなかったらしいが、自分のせいで彼女が何かを言われてしまったかもしれないと思うと、罪悪感に胸が傷んだ。

謝る理由が、また増えちまったな。

軽くその場で息をつき、不必要なものを少し急ぎ目に自分のデスクに置いてから、俺は再び部屋を後にした。







急いだところで意味はないが、なんとなく足取りがいつもより速い。怒っているだろうか。それとも落ち込ませてしまっただろうか。そんなことを考えながら一つ下のフロアに降りると、いつもいるはずのその席に、目当ての人物はいなかった。

「あの、みょうじは…」

彼女の隣の席に座る同僚の女性に声をかけると、キーボードを叩くその手を止めて、俺の方へと顔を向けた。

「みょうじちゃんなら、経理部宛の書類を届けに、上の階に行ってるよ」

どうやら行き違いになってしまったようだが、既に俺の関心は別のところにあった。

「一人でですか?」
「うん。そうだけど」
「大丈夫なんですか?」
「は?」
「いえその、よく転ぶし、色んなところにぶつかるし、一人にしとくと危なそうだなって」

あいつ一人に書類を運ばせて大丈夫なのだろうか。ここもそこそこに散らかってはいるが、俺たちのいる上の階なんて、ここよりさらに煩雑だ。あいつが足をひっかけそうなポイントが、いくつも存在しているのだが。

「あはは、あれはショート君がいる時だけだよ」
「え」

意外なその言葉に、思わず小さく声を出す。それは即ち、俺が近くにいるとパフォーマンが下がるということなわけで、そこに至る理由について、思い当たるものは限られている。

「あの…やっぱ俺、怖がられてますか。あいつに」
「違う違う。単に緊張してるんだよ。あの子ずっと女子校で、あんまり男に免疫ないから」
「そうだったんですか」

仕事で顔を合わせるようになって、もう半年も経つというのに、あいつ自身のことを、俺はほとんど何も知らない。どんな場所で、誰とどんなふうに過ごしてきたのか。何が好きで、何が嫌いなのか。事務所の中ではそれなりにあいつのことを知っているつもりだったが、どうやら全くそうではなかったようで、なぜか少し落ち込んだ。

「ふふ、就職して一番最初の先輩がこんなイケメン君じゃ、そりゃあ緊張するわよね」
「はぁ」
「少なくとも嫌ってるってことは絶対ないから、安心してよ。むしろ君から受けた仕事は、いつも一番に優先して、頑張ってやってるんだから」
「え」

その言葉に、やはり理由は分からないが、落ち込んでいたはずの気持ちが静かにすっと晴れていく。ところがしばらくすると一体どうしたことか、胸の辺りがくすぐったくなり、今度はすごく落ち着かない。

「どうかした?」
「いえ…あの、どのくらいで戻ってきますか?みょうじは」
「たぶんすぐ帰ってくると思うよ。書類届けに行っただけだから」
「じゃあ、少し待ってます」
「どうぞどうぞ。あっちのオープンスペースで待ってて。戻ってきたら呼びに……行かなくても大丈夫そうね」

同僚の女性はそう口にすると、俺の肩越しに見える何かに、ちらりと目配せしてみせた。自然とそちらを振り返ると、驚いたように目を見開き、俺の方をまじまじと見るみょうじの姿があった。彼女の姿をひと目見て、くすぐったかった胸の内側が、ドクドクと音を鳴らし始めた。全身の血液が急にめぐりが良くなったようなその感覚は、高揚感とすごく似ていて、だけどどこか違っていた。

「しょ、ショートさん…」
「よう。お疲れ」
「お疲れ様です。えっと…私に何か……」

そこまで言いかけたところで、みょうじは何かに気づいたようで、あっ、と短く声を上げた。

「あの、資料のデータの件、すみませんでした…ちゃんと確認しなかったから…」

申し訳なさそうに頭を下げる彼女に、自分がここにやって来た本来の目的を思い出した。そうだった。俺はこいつに詫びをしに来たのだ。自分のせいで、本来ならなかったはずの仕事を増やしてしまったことを。

「いや、お前はちゃんと確認しようとしてただろ。あれは完全に俺のミスだ」
「い、いえ、そんなことは…」
「まぁそういうわけだから、これお前に渡しに来た」
「え?」

工夫も何もないコンビニの袋を、すっと前に差し出すと、みょうじは黙ってそれを受け取り、ゆっくり中を覗き込んだ。するとそのまま数秒固まってから、彼女は顔を上げ、小さく首を傾げてみせる。

もしかして、またやらかしたのか。俺は。

女は大抵こういうものが好きだと思っていたが、そういうわけでもないのだろうか。

「……そういうの嫌いだったか?」

恐る恐るそう尋ねると、俺の予想は外れたようで、みょうじは俺の方を向き、ふるふると首を何度も横に振った。

「そうか。なら…良かった」
「あの、なんで私に…?」
「俺のせいで仕事増やした詫び」
「え…」
「あとさっき、急に触って悪かった。あんな驚くと思わなくて…すまん」
「あ…あれは…私の方が大袈裟だっただけなので…こちらこそ、すみません…逆に気を遣わせて…」

再び申し訳なさそうな顔を浮かべる彼女に、なんだか少しモヤモヤする。目的はちゃんと果たしたはずなのに、どうにもすっきりしない。しかしこれ以上特に言うこともない上、余計なことを口にして関係を悪化させるのは、俺としてはやはり避けたい。

いや、待てよ。あるじゃねぇか。

その都度伝えているけれど、別に何度言ったって、何を失うわけでもない。だったら。

「それと、いつもありがとな。俺は細かい作業とか得意じゃねぇから、お前がいてくれて助かる」

自然とすんなり出てきた言葉に、みょうじは目を丸くする。彼女はそのまま俺を見つめたまま、手の中にある白い袋を強く握りしめ、小さく口を開いてみせた。

「ありがとう、ございます」

そう口にした彼女は、照れたように顔を綻ばせ、柔らかな笑みを浮かべていた。

「みょうじ」

咄嗟に喉から出かけた言葉を、俺は勢いよく飲み込んだ。

「はい…?」
「いや…なんでもねぇ」

知り合ってからの半年間、一度も向けられることのなかった笑顔を見た瞬間、心を丸ごと奪い取られた。我ながらなんて単純だろう。たった一度笑いかけてもらっただけで、そんなことを思ってしまうなんて。

「大事に、食べますね」
「いや…腐るから早く食べた方がいいぞ」
「ふふ、そんな勿体ないことしませんよ」

今度は声を上げて笑うみょうじに、改めてそれを自覚する。なんて厄介な感情だ。こんな些細なことに、どうしようもなく乱されてしまう。

「……じゃあ、俺は行くから」
「はい。お疲れ様です」

やや控えめなその声に後ろ髪を引かれながらも、踵を返してその場を去る。自分のデスクに戻りひとまず腰を下ろしてみるも、当然落ち着けるわけもなく、その日の雑務の進捗率は、見事に悲惨なものだった。







あれから一週間ほど過ぎた頃、とある飲み屋の片隅で、俺は極限にイラついていた。

「ショート君って、ほんとにかっこいいよねぇ」

目の前で出来上がった初老の男は、顔を真っ赤に染め上げながら、そんなセリフを呟いた。

「何食べたらそんなイケメンになれるの?普段何食べてんの?」
「……蕎麦とか」
「ぶはっ、渋っ!!」

一体何がそんなに面白いのか全く見当がつかないが、俺の返答を聞いた男は、ビールジョッキを片手に持ちながら、吹き出すように笑い出した。

「っていうか、ちょっとイライラしてない?どうかした?」
「いえ別に」
「そう?ならいいけど…」

人のことは言えないが、けして気遣いが出来るタイプに見えないその男は、今の俺の心の内を、ぴたりと正確に言い当てて見せた。

イライラするに決まってんだろ。"あんなもん"。




「なまえ、それ何飲んでんの?」

うっすら頬を染めながら、さも当たり前かのようにその名前を口にしたそいつに、胸が不快にざわついた。

馴れ馴れしく名前で呼んでんじゃねぇよ。
こっちは一度も呼んだことねぇんだぞ。

そんなことを思いながら、ちらりと隣に目をくばせると、隣に座っていたみょうじは特にそれを気にも留めず、自身のグラスに視線を落とした。

「なんだっけ…名前忘れちゃったけど、桃のお酒だよ」
「それ強い?」
「ううん。そんなには」
「ちょっとひと口くんない?」

そんなのダメに決まってんだろ。ふざけんなよ。

そう口に出来たのなら、どれだけ楽だっただろう。たまたま予定が空いていて、ほぼ無理やり付き合わされたその飲み会に、偶然みょうじも参加していて、さらに席まで隣になれたところまでは良かったのだが、当の彼女は向かいに座る同期の男にずっと絡まれていて、話しかけることはおろか、目が合うことすらほとんどなかった。

「やだよ。自分で頼めばいいでしょ」
「えー、いいじゃんケチ。あ!もしかしてなまえって、その歳で間接キスとか気にするタイプ!?」
「ど、どうでもいいでしょそんなこと!」
「え。マジなやつじゃん!顔真っ赤じゃん!」
「うるさいよ!関係ないでしょ!?」

そのやり取りを耳にした直後、手元でパキン、と何かが割れた音がした。何かと思って視線を落とすと、どうやら握っていた割り箸を、俺自身の手で真っ二つにしていた(正確には四つ)らしい。

「しょ、ショートくん、やっぱり何か怒ってる…?」
「いえ別に」
「おーい、そろそろ締めるぞー。荷物まとめろー」

冷たくそう口にしたその直後、幹事を務めた別の職員が、気怠い声でそう口にした。向かいに座っていた男は、俺の機嫌が最悪なことに確信を持ったのか、そくささと荷物をまとめると、その場を急いで立ち去って行く。ようやくこの苦行から解放される。そんなことを思いながら、俺は誰にも気づかれないように、小さく一つため息をついた。

「なまえ、二次会行く?」
「うーん…私は、帰ろうかな」
「そっか。じゃあおつー」
「うん。お疲れ様」

そんな会話を盗み聞き、彼女がその場を去ったその数秒後、何食わぬ顔でそれを追う。自分の小賢しさに笑えてくるが、駅まで歩くそのわずかな時間を、せめて一緒に過ごしたかった。
少し足早に店を出ると、目の前には思惑通りの展開が待っていて、自然と顔が緩みそうになったが、何とか必死にそれを抑えた。

「みょうじ、お疲れ」

たまたまそこに居合わせた体を装い、白々しく声をかけた俺に対し、彼女は肩をぴくりと震わせ、ゆっくりこちらを振り返った。

「あ…お疲れ様です」
「二次会行かないのか?」
「なんかちょっと疲れちゃって…主にうるさい同期のせいで」

呆れたように笑うみょうじに、胸に何かがちくりと刺さった。例えそこに他意がなくとも、笑顔で別の男の話をする彼女に、自分勝手に傷ついた。

「……仲良いのか。今日向かいに座ってた奴」

口を挟む権利など、俺にあるはずがない。だけど渦巻く嫉妬心が、それを聞かずにはいられなくて。

「悪くはないと思いますけど…特別親しくもないですよ。彼はみんなに対してあんな感じですから」
「そうか」

その言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。勝手に嫉妬して勝手に安心する俺は、なんて自分本位な人間なんだろう。

「ショートさんは…二次会、行かれないんですか?」

そんなことを思っていると、みょうじは少し遠慮がちに、俺に向かってそう尋ねた。

「酒は好きだが、大勢で飲むのはあんま得意じゃねぇから」
「あ、分かります。私もお酒は好きなんですけど、大人数はちょっと苦手で…」
「そうなのか?」
「はい」
「じゃあ、俺と二人ならどうだ」

なぜそんなことを口走ったのか、俺にも正直分からなかった。酒が入っているからなのか、あの同期の男への子供じみた対抗心からなのか、気づいた時には自分の口が、そんな言葉を吐き出していた。
俺の言葉が意外だったのか、彼女は目を見開いて、ぱちぱちと数回瞬きをした。そんな顔が可愛くて、このまま連れて帰りたいと思った俺は、たぶん相当酔っている。

「あの、それは…どういう…」
「俺ともう一件行かねぇかって意味」

言葉の真意を改めて告げると、みょうじは顔を赤らめて、視線をゆっくりとアスファルトに向けた。

「嫌か?」
「い、嫌じゃないです!嫌じゃないですけど…あの、私でいいんですか?もっと盛り上がれる人の方が…」
「俺がそんなの求めるタイプに見えるか」
「……あんまり」
「だろ」

俺が短くそう返すと、彼女は納得したような顔つきで、こくりとひとつ頷いた。

「決まりだな。店は…適当でもいいか?」

半ば強引にそう尋ねると、みょうじは顔を赤らめたまま、もう一度首を縦に振る。なかなか大胆なことをしたと自分でも思うが、願ったり叶ったりなこの状況に、自然と再び顔が緩んだ。







「すみません。ご馳走になってしまって…」

俺を見上げるその視線に、心臓が一つ小さく跳ねた。

「俺が誘ったんだから、俺が払うのは当然だろ」
「いえ、それは…」
「悪かったな。遅くまで付き合わせて」
「そんなこと…あの、楽しかったです。とても」

酒のせいもあるだろうが、依然として頬を染め上げながら、彼女は笑ってそう言った。その言葉にうっかり伸ばしかけたその手を、何とかその場で押さえつけた。完全に自業自得だが、この状況は少し、いやかなり色々試されている気がする。

落ち着け。衝動的になるな。
社交辞令を真に受けて、調子に乗ったらダメだ。

内なる自分にそう言い聞かせ、小さくひとつ息を吐く。

「終電とか大丈夫か?お前確か、結構家遠いんだよな?」

あくまで"いい先輩"の体を装い、ありきたり過ぎる問いかけをする。終電の心配なんて、本当は少しもしていないくせに。しかしどうしたことか、それを受けたみょうじの目が、あからさまにきょろきょろと泳ぎ始めた。

「えっと…はい…大丈夫です」
「……本当は?」

たぶん、いやほぼ確実に、俺の予想は正しい気がした。予想は期待に形を変え、徐々に大きく膨らんでいく。つい先ほど調子に乗るなと自分に言い聞かせたばかりだというのに、既にそういうことを考え始めている自分が滑稽すぎて、逆に笑えてくる。

「30分くらい前に、なくなってしまって…すみません。時間全然見てなくて…」

予想通りのその言葉に、今度はごくりと喉を鳴らした。そんなつもりはなかった。だが決してやぶさかではないこの状況に、心境は複雑だ。あわよくばという気持ちはある。しかしそれを踏み超えれば、良くも悪くももう戻れない。

「いや…別にお前が謝ることじゃねぇ。ちゃんと最初に聞いとくべきだった」
「いえ、そんな…っ」
「じゃあ、タクシー使って帰れ。これくらいあれば帰れるか?」

わずかに理性に軍配が上がり、ポケットに入れた財布の中から、何枚か札を抜き取って、彼女にそれを差し出すと、みょうじは慌てて首を横に振りながら、小さく両手を上げてみせた。

「手持ちはあるので、大丈夫です。飲み代も出してもらいましたし…」
「それじゃ俺の気が済まねぇから」
「でも」
「俺のせいで電車なくなっちまったんだから、俺が払うべきだろ」
「別にショートさんのせいじゃ…」
「俺が誘わなきゃ、普通に帰れてただろ。俺のせいだ」
「違います…!!」

遠慮し続けるみょうじに対し、半ばこじつけのような理由を並べると、彼女は俺に対して、初めて声を荒らげてみせた。

「あ…ご、ごめんなさい…急に声出して…」
「別にそれはいいが…違うって、何の話だ」

声を荒らげたその理由が分からず、純粋な疑問をぶつけると、みょうじは気まずそうに顔を俯かせ、小さな声でもう一度、ごめんなさいと呟いた。

「何に対する謝罪だ。それは」
「私、本当は…時間、見てて…終電なくなるの、分かってたんです」

遠くの方から、微かに音が聞こえてくる。何かが崩れていくような、そんな音。そしてその音は、俺以外には聞こえないものだ。

「……なら、なんで言わなかったんだよ」
「それ、は…」

彼女は自身が纏う服を、ぎゅっと両手で握ってみせた。自分の言動がどれだけ俺の心を揺さぶるか、こいつはまるで分かっていない。

「言ったら…終わっちゃう、から」

消え入りそうなか細い声で、みょうじは俺にそう言った。

「終電のこと言ったら、じゃあ帰ろうってなって…そしたら、この時間が終わっちゃうんだって、思って」

ガラガラと、音を立てて崩れていく。さっきまで辛うじて形を留めていた、なけなしの俺の理性が。

「嘘ついて、ごめんなさい。でも、自分でちゃんと帰れ ─── 」

彼女の言葉を待つことなく、袖から伸びる白い手に、迷うことなく腕を伸ばす。そんな俺の行動に驚いたのか、みょうじは大きく肩を震わせて、恐る恐る俺を見た。

口にするな。
まだ今なら、今なら何とか引き返せる。

頭の片隅で確かにそう思っていた。しかしそんなものとは裏腹に、勝手に口は開いていて。

「なら、俺ん家来るか」

自分でも驚くくらい、淡々とした口調だった。それを聞いたみょうじは、かなり困惑した表情を浮かべながらも、自身の手に触れる俺の手を、一切拒むことはなかった。

「来い。なまえ」

初めて彼女の名を読んで、何も言わないその手を引き、俺は一歩踏み出した。その先に待っているものに、自然と手には力が籠る。女を抱くのは初めてじゃない。それなのに、初めてだったあの時よりも、軽く五倍は緊張していた。
しかしそんな俺の衝動的な行動が、これから始まる彼女との長い長い攻防戦の幕開けとなることを、この時の俺は知る由もなかった。


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10万打記念リクエスト第2弾。
はち様からのリクエストで、タイトルでお気づきの方もいるかと思いますが、短編の「叶うなら、あなたと朝を迎えたい。」の番外編でした。
初めて関係を持ってしまった時のお話を焦凍くん視点で、とのことで書かせていただきましたが、女の子の初々しい感じを書くのが特に楽しかったです。
そういうシーンを書くか否か迷いましたが、匂わせる形で落ち着きました。ここから二人の微妙な関係が始まり、結ばれるまでに1年という歳月がかかります。

はち様、大変お待たせしてしまい申し訳ありませんでした。
楽しんでお読みいただけますと幸いです◎

2022.01.23

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