Mr.Pretty Drinker


「最近なまえが可愛すぎるんだが、俺はどうしたらいいと思う」

酔っている時の轟君は、話の9割が惚気である。それは今日とて例外ではなく、その涼やかで端正な顔も、今はだらしなく歪んでいて、彼自身の恋人であり、僕の旧友でもあるみょうじさんの話をしながら、くい、と日本酒をひと口含む。
僕ら以外は誰もいない、小さな飲み屋の店内で、そんな轟君の様子を遠くで見ていた女将は、柔和な笑みを浮かべていた。

「いいことじゃない。前より魅力的になったってことでしょ?」
「それはそうだが…職場の奴とか、そこら辺に歩いてる奴とか、どこの誰かもわからねぇ男が、もしもあいつに声をかけてきたらとか思うと、俺は毎日気が気じゃねぇ」
「轟君くらいかっこいい彼氏がいたら、目移りなんかしないと思うけどなぁ」
「あいつが目移りしなくても、他の男がなまえに近づくだけで嫌なんだよ」
「相変わらず、大好きなんだね。みょうじさんが」
「当たり前だろ。だから今日だって、本当は行って欲しくなかったんだ。俺は」

先ほどまでとは打って変わって、不機嫌そうに顔を顰めながら、轟君はそう呟いた。もう軽く10回は聞いたその台詞に、僕は小さなため息をついた。こうなることは分かっていたが、親友の頼みとあらば、断るわけにもいかないわけで。
そもそもこうして二人で飲むことになったのは、大好きな恋人が同窓会に行ってしまった寂しさを紛らわすために、彼が僕を誘ったからだ。轟君と飲む時は、飯田君もその場にいることがほとんどなので、二人だけで飲みに来たのは、随分久しぶりな気がする。

「『行かないで』って言えば、たぶんみょうじさんは行かなかったんじゃない?」
「言えるわけねぇだろ。同窓会の連絡もらった時、すげぇ嬉しそうにしてたんだから」
「でもモヤモヤしちゃうんでしょ?」
「モヤモヤ、というより、イライラする」
「それ、あんまりよくないと思うよ。精神衛生上」
「まぁそうなんだが…」

改めて思うが、出会った頃は彼とこんな話をする日が来るなんて、想像もしていなかった。かつては他人を寄せ付けず、誰に対しても冷たい威圧感を放っていた轟君が、ほんのり頬を染めながら、僕に惚気話をする日が来ようとは。

まぁ、本人はきっと無自覚で、真剣に悩みを打ち明けてるつもりなんだろうけど。

「というか、昔はそういうの、問答無用で『行くな』って言ってなかったっけ?」
「言ってた」
「じゃあなんで…」
「……ちょっと前に、『もっと信用しろ』って、なまえに怒られた」
「あぁ、それで…」
「言っておくが、俺はあいつを信用してるし、信頼もしてるんだ」
「うん」
「けど、心配になるのはまた別っつーか…」
「まぁ、そうだね」
「けど、もしまたなまえを怒らせて、嫌われちまったら嫌だし、そんなの耐えられねぇ…」
「それは絶対ないと思うけどね。みょうじさんは」

轟君の溺愛ぶりもかなりのものだが、その恋人であるみょうじさんも、顔や態度に出さないものの、おそらくそこそこいい勝負だ。
二人が付き合うようになってから、時折彼女からも相談を受けることがあったのだが、拗ねてしまった轟君の機嫌が治らず困っているとか、彼がどこでもスキンシップをしてきて恥ずかしいとか、今の轟君同様、それらは正直、惚気にしか聞こえないものばかりで、双方から同時に相談を受けた時は、さっさと二人で話せばいいのにと、何度思ったか分からない。彼女の方は轟君と比べると、頻度はだいぶ少ないけれど。

「それで話を戻すけど、具体的にみょうじさんの何が変わったの?」

未だにぶつぶつと不満を言いながら、速いペースで日本酒を飲む轟君を見て、僕はそれとなく話題を戻した。どっちにしても惚気を聞かねばならぬなら、ネガティブよりもポジティブがいい。

「ここひと月くらい、帰るのが2時とか、3時とかになる日が結構あって、なまえには先に寝てていいって言ったんだが」
「待たせちゃうのも悪いしね」
「あぁ。けどあいつ、絶対起きて待ってるんだ。俺のこと」
「そこが可愛いってこと?」
「それもまぁ、そうなんだが」

少し視線を俯かせながら、彼は煮え切らない答えを返した。

「あれ、違うの?」
「確かに最初は嬉しかったけど、何日もそれが続いたら、さすがに申し訳なくなるだろ」
「確かに…僕だったら、むしろ先に寝てて欲しいかも」
「だからしばらくして、いいから先に寝てろって、結構強めに言ったんだ」
「まぁ、そうしないと待っちゃうもんね」
「そしたらあいつ、『一人で広いダブルベッドで寝るのが嫌だ』って泣き出しちまって」
「あ…広いと余計に寂しくなっちゃうってことか…」
「そうらしい」
「気持ちは分かるけど…泣かれるのは困っちゃうね」
「だろ?可愛すぎて困るんだ」
「そっちの意味なの!?」
「一緒に暮らす前は、寂しいとか、そういうこと全く言わなかったのに、ここ最近は時々言ってくれるようになったんだ」

まるで嬉しさを噛み締めるように、彼は再びアルコールを流し込んだ。あまり表情に変化のない轟君だが、みょうじさんのこととなると、こうも表情豊かになるのだから、愛の力は偉大である。

「なるほど…そこが可愛いってことか…」
「可愛いだろ。俺がいなきゃ寝られねぇなんて」
「うん…そうだね…可愛いね…」
「けど俺のだからな。ちょっかいかけるなよ」
「かけないよ!!そんな恐ろしいこと、怖くて出来ないよ…!!」

彼女にちょっかいなどかけようものなら、氷漬けされれるならまだいい方で、下手をすれば炭クズ、いや、跡形もなく燃やされかねない。
高2の夏、まだ轟君と付き合う前のみょうじさんが、普通科の男子からアプローチを受けていたことがあったのだが、当時の彼を思い出すと、今でも少し恐ろしくなる。ここで詳細を語るのは控えておくが、それはそれは見事なまでの荒れっぷりで、二人がもしも両想いでなかったら、あの時一体どうなっていただろうかと、その可能性に背筋が凍った。
結果的にそのアクシデントによって、二人は結ばれることとなったわけだが、その出来事があったからか、はたまた轟君からみょうじさんへの堂々たる愛情表現の賜物か、雄英高校卒業までの間、彼女に近づく男子生徒は、一人たりとも現れることはなかった。

「話ちょっと戻すけどさ…それだと結局、みょうじさんは夜遅くまで起きてるってことになるよね?」
「あぁ。だから最終的には、先に寝てもらう感じになったんだが」

そこまで口にしたところで、轟君は何かを思い出したように、ゆっくり口角を上げてみせた。

「轟君、顔すごいことになってるよ」
「悪ぃ…ちょっと思い出したら…顔が緩んじまった」
「もうだいぶ前から、緩んでるけどね…」

もともと緩みきっていたが、さらに幸せそうなその顔に、こっちが恥ずかしくなってしまう。

「何かあったの?その時に」
「仕事に支障が出るからって言っても、最初は平気だからの一点張りで、どうしようかと思ったんだが、その後しばらくしてなまえが、『じゃあ服貸して』って言ってきて」
「服?」
「なんでもいいから、俺の服を貸せって。よく分かんねぇけど、そしたら寝れるって言うから」
「……今さらだけど、本当にラブラブだね…いやまぁ、知ってたけど…」

推測だが、おそらく轟君の存在を感じられるものが近くにあれば大丈夫、ということなのだろう。そのことを彼本人は理解していないようだが、やはりこのカップルは、双方互いを溺愛しているらしい。

「まぁでも、それなら一旦ひと安心だね」
「それがそうでもなくてな」
「まだ何かあるの!?」

一難去ってまた一難、いや、十中八九惚気なのだが、再び悩ましげな顔をする彼に、僕は声を張り上げた。

「その次の日も、結局帰りが2時くらいになっちまって」
「もしかして、やっぱり起きてたとか?」
「いや、ちゃんと寝てた」
「あ、そうなの?なら問題ないんじゃ…」
「知ってたか緑谷。自分の彼女が自分の服を着てるのは、すげぇ興奮するぞ」
「は?」
「それで気づいたらな、手が勝手に写真撮ってたんだ」

そう言うと、彼は自分のスマホを取り出して、僕にそのディスプレイを見せた。まぁ予想はしていたが、当然そこに写っているのは、本人の身体のサイズよりかなり大きめのTシャツを着て、気持ちよさそうに眠っている、彼の恋人の姿だった。

「個人的に、これが一番気に入ってて、待受にした」
「あぁ…そう…」
「とにかくすげぇ興奮するんだ」
「うん。真顔で何を言ってるのかな君は」
「無防備に寝てる顔がさらにそそるし、そんなん見てたら、抱くしかねぇってなるだろ」
「いや、ならないよ…寝なよ…そこで起こしちゃったら、意味ないでしょ…」
「で、抱くだろ」
「轟君、僕の声聞こえてる!?」
「そのお陰で最近、俺もあいつも寝不足になっちまって…」
「完全に自業自得だよ、それ…!!」

というか、旧友カップルの夜事情なんて、正直あんまり聞きたくないよ…!!

心の中でそう叫び、やけくそ気味にビールを煽る。片方だけならまだいいかもしれないが、双方よく知る人たちの"そういう"シーンは、あまり思い浮かべたくない。

「はぁ…なまえに会いてぇ…」

写真を見たことで募る想いが溢れてしまったのか、轟君はスマホの画面を見ながら、絞り出すようにそう呟いた。

「帰ってきたら会えるじゃないか」
「俺は今会いてぇんだ」
「そんな無茶な…」

再び深いため息をつくと、彼はテーブルに頬を寄せながら、彼女の名前を小さく呼んだ。

「そういえば聞いたこと無かったけどさ、轟君はどうして、みょうじさんを好きになったの?」

何気なく尋ねたその質問に、轟君はぴくりと肩を震わせた。彼がみょうじさんを好きになった後のことは、おおよそ大体知っているが、轟君が彼女を好きになったきっかけは、思い返せば聞いたことがない。

「……花壇」

僕の質問に対する答えなのか、彼はぽつりとそう呟くと、机から顔をゆっくり上げた。

「花壇?」
「昇降口の近くにあっただろ。結構でかいやつ」
「あー…あったね。確かに。それがどうかしたの?」
「1年の文化祭の後くらいに、たまたまなまえと日直被って、帰りが一緒になったことがあって。で、その時、何人かの男子がその辺でサッカーして」

その後の展開はなんとなく読めたが、黙って轟君の話を聞いていると、彼は空になったお猪口を持ち、それを片手で弄んだ。

「まぁだいたい察しがついてると思うが、その中の一人が蹴ったボールが、花壇に派手に直撃しちまったんだ」
「まぁ、そうなるだろうね…」
「結構ひどいことになってたから、その後すぐにそいつら逃げてったんだが、そしたらなまえが急に、『用事思い出したから先に帰ってて』って言い出して」
「その用事って…」
「あぁ。俺もその時は、特に深く考えもせずにそのまま帰ったんだが、夕飯の時間になっても、あいつ寮に戻って来なくてさ。女子に聞いても誰も知らねぇって言うし、もしかしてって思って、校舎の方に戻ったら、一人で花壇直してたんだ」
「みょうじさんらしいね」

一人で花壇を直すその姿が、容易に想像出来てしまう。けして目立つ方ではないけど、努力家で優しい彼女らしいそのエピソードに、胸がぽっと暖かくなる。

「そん時、純粋にいい奴だなって思ったけど、でもなんか、だんだん悔しくなってきて」
「悔しい?」
「言ってくれれば手伝ったのに、それを言ってくれなかったこともそうだし、そもそも自分がそれに気づけなかったことが、なんか悔しかったんだ」
「僕も何となく分かるかも。その気持ち」
「それから、なんとなくあいつのことが気になって、自分から話しかけるようになって」

何かを思い出したのか、轟君はくすりと笑って、再び口を小さく開いた。

「そしたら、気づいた時には好きになってた」

愛おしそうに、懐かしむように、彼はそう口にする。大事で仕方ないのが明白な、穏やかで優しげなその表情は、広い世界でただ一人、みょうじなまえという存在だけが、引き出すことが出来るものなのだろう。

「素敵な話だね」
「まぁでも、話しかけるようになった最初の頃は、すげぇ戸惑ってたけどな」
「え、そうだったの?」
「一緒に帰ろうって言っただけなのに、何かの罰ゲームなのかって聞かれた時は、どうしようかと思った」
「あはは、それは初耳だったなぁ」

苦笑いを浮かべる轟君に、声をあげて笑ってみせると、彼は少し俯きがちに、そんなつもりじゃなかったんだと、意外な言葉を口にした。

「最初は…もっとこいつを知りたいっていう、なんつーか、単純な興味だった」
「うん」
「けど、時間が経てば経つほど、今まで知らなかったなまえを知れば知るほど、他の誰にもあいつを取られたくないって、そう思うようになったんだ」
「独占欲ってやつだね」
「好きなんだって、自覚しちまえばなんてことはねぇが、今までそんなことなかったし、そういう自分に気づいた時は、正直すげぇ戸惑った」
「へぇ、じゃあ轟君も初恋だったんだね」

僕がそう言うと、轟君は俯きがちだった顔を勢いよく上げ、なぜか驚いたように目を見開きながら、僕の顔をまじまじと見た。

「え、何…」
「それ、どういう意味だ」
「は?」
「今言ったろ。俺"も"初恋だったって」
「え…だってみょうじさんも、君が初恋の相手でしょ?」
「そうなのか?」
「いや、そうなのかって…聞いてるでしょ?本人から」
「聞いてねぇぞ」
「そうなの!?」

勝手に共通認識だと思っていたその話は、彼にとっては寝耳に水だったらしい。それを耳にした轟君は、そっと右手で口元を覆い、再び視線を俯かせた。その目尻がだいぶ下がっているところを見ると、おそらく、いや間違いなく、かなり喜んでいる。

「なまえが、言ってたのか?」

口を覆ったその手をおもむろに退かすと、緩みきったその口で、彼は僕にそう尋ねた。

「うん。轟君のことでたまに相談されることがあって、その時に…」
「なんて言ってたんだ」
「一字一句は覚えてないけど、確か『中学までほとんど男子と話したことがなくて、今まで人を好きになったことがなかった』みたいな感じのことを…」

僕がそこまで口にしたところで、轟君は項垂れるように、テーブルに額を押し付けた。

「ずりぃだろ…なんだよそれは…」

彼にしては珍しく、消え入りそうにそう言うと、轟君は何を思ったのか、そのまま顔を横に向けると、机に置かれたスマホを手に取り、じっとそれを見つめてみせた。

まぁ、これから何を言い出すかは、なんとなく想像ついてるけど…。

「……どうしたの?」
「やっぱ今すぐ会いてぇ」
「言うと思った」

予想通りのその言葉に、僕はひと言そう返す。何気なく僕がリークしてしまったその情報が、彼の溢れる恋人への想いを、ついに爆発させてしまったらしい。

「まぁでも、もうすぐ21時だし、そろそろお開きになる頃じゃないかな。二次会とかがなければ」
「二次会なんて絶対ダメだ」
「僕に言われましても…」
「酒が入って調子に乗る野郎がいるかもしれねぇ。絶対ダメだ」
「いや、だから僕にそれを言われても…。心配なら、電話してみたら?」
「それでまた怒られたりしたら、どうすんだよ」
「じゃあ、我慢するしかないんじゃないかな…」
「…………同窓会なんて、やっぱ行かせるんじゃなかった…」

心の底から悔しそうに、彼はぽつりとそう呟く。手にしたスマホのディスプレイに映し出された、愛しいその女性を見つめながら、轟君は悩ましげな表情で、深いため息をひとつ落とした。

「ただでさえ可愛いのに、最近さらに可愛くなってんだぞ…放っておかねぇだろ普通…俺なら絶対引き止めるし、あわよくばそのまま連れて帰っ」
「話がどんどん変な方向に行ってるよ。焦凍くん」

透き通るようなその声は、僕にも聞き覚えがあった。向かいに座る轟君が、バッと勢いよく顔を上げたことで、確認せずとも確信した。その声の主は、今この世界で僕と彼を救うことの出来る、たった一人の人物だ。

「なまえ」

轟君が静かにその名を口にすると、一体いつからそこにいたのか、店の出入口のすぐ側に立っていたみょうじさんは、困ったように笑ってみせた。

「だいぶ酔ってるね。結構飲んだの?」

僕らの席に近づきながら、そう問いかけたみょうじさんに対し、轟君もゆっくりとその場に立ち上がり、吸い込まれるように近づいていくと、その長い両腕を伸ばし、強く彼女を抱きしめた。

やっぱり、貸切にしておいて正解だったな。
ファインプレーだぞ。僕。

僕らの顔は世間に知られているし、話す内容が内容だけに、人の多い店は使いづらい。だからこうして、行きつけの店を貸切にしてもらったのだが、目の前に広がる光景を見て、僕は自分のその選択が正しかったことを、今改めて実感した。

「なまえ、なまえ」
「はいはい。ちょっと痛いから、力弱めてね…」

何度も自身の名を呼ぶ恋人の背中を軽く叩きながら、彼女は少し顔を顰めて、諭すようにそう呟いた。人前で恋人が抱きついてきても一切動じないその姿は、まさにさすがのひと言である。

「ごめんね、緑谷くん。迷惑かけて…」

自分にまとわりつく轟君の頭を撫でながら、みょうじさんはちらりと僕の方を見て、申し訳なさそうにそう言った。背丈だけなら、頭ひとつ分ほど轟君の方が高いのに、目の前の二人の様子はまるで、小さな子供とその母親だ。

「全然いいけど…みょうじさん、なんでここに?」
「焦凍くんにお店の場所聞いてたの。二人がまだいたら、一緒に飲もうかなって思って、少し早めに抜けてきたんだけど…この感じだと無理そうだね…」

つい先ほどまでは、なかなか饒舌に話していたと思うのだが、最愛の恋人と会えたからなのか、轟君は相変わらずみょうじさんに抱きついたまま、彼女の肩に額をぐりぐりと押し付けて、ぶつぶつと何かを言っていた。

「来てくれて助かったよ。轟君、ずっとみょうじさんに会いたい会いたいって言ってたから、連れて帰ってあげて」
「夕方まで、普通に家にいたんだけどね…」
「なんか…思うところが色々あったみたいで」
「思うところって、何のはな」
「なぁ、なまえ」

僕らの話を遮るように、轟君がもう一度、愛しいその名を口にした。明らかに不機嫌そうなその声色は、早く俺の相手をしろと言いたげで、そんな彼に苦笑いを浮かべながら、みょうじさんは僕に向かって声には出さず、ごめんねと口を動かした。

「どうしたの?焦凍くん」
「どうしたのじゃねぇ。さっきから呼んでるのに、無視するなよ」
「今緑谷くんと話してるから、ちょっと待ってて」
「嫌だ」

ひと言そう吐き捨てて、彼はゆっくりと顔を上げると、すぐ近くにあるみょうじさんの白い頬に、ちゅ、と軽くキスをした。僕のことなどお構いなしに、場所を変えながら何度も口付けを繰り返す轟君に、さすがの彼女も恥ずかしいのか、顔を真っ赤に染めあげた。

「ちょ、っと…!恥ずかしいからやめてよ、この酔っぱらい…!」

彼の肩を押しながら、少し強めにそう口にしたみょうじさんに、轟君は動きを止めた。拒絶されてショックなのだろうかと、そのまま様子を伺っていると、一体どうしたことなのか、彼はその頬をさらに緩めながら、彼女にふっと笑いかけた。

「やっと構ってくれた。可愛い。好き」

いや、さっきから構ってもらってたじゃないか。
この彼女馬鹿め。

思わず口に出かけたそのツッコミを、僕はぐっと飲み込んだ。そんなものは"今さらだ。轟君がみょうじさんのこととなると途端に知能が低くなることは、今に始まったことではない。

「もー…焦凍くんは…」
「なまえは?なまえは俺のこと好きか?」
「それ…もう何度も言ってるじゃん…」
「好きか?」
「いや、だからね」
「好きじゃねぇのか…?」

わざとらしく首を傾げながら、轟君はみょうじさんに向かって、しょんぼりした様子でそう尋ねてみせる。そしてその瞬間、僕は察した。おそらくだが、彼はそんなに酔っていない。酒で頭が回らないフリをして、ここぞとばかりにわがままを言い、自身の欲求を満たそうとしているのだ。そしてたぶん、彼女もそれには気づいている。
しかし惚れた弱みなのか、みょうじさんはそんな轟君に困ったような顔を浮かべつつも、観念したように小さくため息をついてから、躊躇いがちに口を開いた。

「……好きだよ」
「どのくらい?」
「世界で一番、大好きだよ」

か細い声で彼女がそう呟くと、轟君は満足気に口角を上げ、勢いよくみょうじさんに抱きついた。

「俺も好きだ。世界で一番大好きだ」
「焦凍くん痛い。力弱めて」

目の前で繰り広げられる甘いやり取りに、濃いめのお茶が欲しくなる。口の中に数年分の角砂糖を一気に流し込まれたようなこの感覚は、長い人生といえど、そうそう経験出来ないことだ。

「とりあえず、ここにお金置いとくね。あとささやかだけど、お詫びにこれも良かったら」

財布から現金を出しながらそう口にした後、彼女は手に持っていた小さな黄色い紙袋を、静かにテーブルの上に置いた。

「これは…」
「お土産に買ったシフォンケーキ。甘さ控えめだから、男の人にもいいかなって思って。緑谷くんが嫌いじゃなければ…」
「甘いものは好きだけど…いいの?」
「いいのいいの!いつもお世話になってるし、たぶん今日は、色々迷惑かけちゃったと思うから…」

再び申し訳なさそうに呟くと、みょうじさんは先ほどテーブルにおいた紙袋を、さらに僕へと近づけた。ただ惚気話を聞いていただけなのだが、こんなお土産を貰えてしまうとは、予想外の収穫だ。

「ほら焦凍くん、帰るよ」

依然として自分を抱きしめたままの轟君に視線を移すと、彼女は眉を下げながら、ため息混じりで声をかけた。

「なぁ、俺のは」
「ちゃんと買ってきたよ。後で一緒に食べようね」
「あーんってやつ、してくれるか」
「するする。だからコートを着てください」

そう言うと、みょうじさんは轟君の身体を無理やり剥がし、席に置かれた黒いコートを広げると、優しく彼の肩にかける。大好きな彼女から距離を取られたことに、少し不満げな表情を浮かべつつも、轟君は渋々コートに袖を通すと、再び彼女にまとわりついた。

「帰りはタクシー?」
「うん。お店の近くに結構停まってたから、すぐにつかまえられると思う。緑谷くんも一緒に乗ってく?」
「いや、僕はもう少し飲んでから帰るよ」
「そっか。じゃあ、また今度ゆっくり話そうね。ほら、焦凍くんも挨拶して」
「ん…じゃあな緑谷。世話になった」
「うん。またね」

二人は僕に踵を返し、かたや嬉しそうに寄り添いながら、かたやそれを諭すように押し返しながら、僕を残して店を出た。意図せず轟君にばらしてしまった、みょうじさんの初恋事情は、これから過ごすであろう彼らの甘い時間に、きっと一役買ってくれるだろう。

「はぁ…」

その場でひと息ついたところで、一気に疲労が押し寄せてきた。ただ座って話を聞いていただけなのだが、食べ過ぎた後の苦しさにも似た、そんな疲れが身体に残る。

「お疲れ様でしたね。デクさん」

二人が店を出ていった後、轟君が飲んでいた日本酒のとっくりとお猪口を片付けながら、飲み屋の女将はそう口にした。

「あはは…まぁ、いつものことなんで…」
「何か飲まれます?」

女将の粋な計らいに、僕はメニューを手に取って、ぐるぐると思考をめぐらせた。疲労を吹き飛ばすほどの、強い一杯が欲しい気もするし、この際普段頼まないような一杯を、経験するのもありだろう。しかし。

「決まりました?」

やっぱり、今は"あれ"しかないな。うん。

「とりあえず、濃いめのお茶をお願いします…」

彼らの甘さに麻痺した頭を、正常なものに戻さなければ、僕は日常に帰れない。


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10万打記念リクエスト第4弾。
匿名希望様からのリクエストで、プロヒ設定の彼女が大好きすぎる焦凍くんのお話、でした。第三者の視点で、というオーダーだったので、みんなのヒーロー緑谷くんが、惚気の餌食となりました(笑)
今回のリクエスト企画は、長編や短編の番外編が多い中、ちょっと久々の完全新作で、とんでもなく焦凍くんが彼女馬鹿になっていますが、めちゃくちゃすらすら書けました。すごくどうでもいいですが、タイトルがとても気に入っています。

匿名希望様、大変お待たせしてしまい申し訳ありませんでした。
楽しんでお読みいただけますと幸いです◎

2022.02.12

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