Wear yourheart on your sleeve


『行ってきますね』

落ち着いた低い声でそう私に語りかけながら、優しく私の頭を撫でるその人は、時折私の夢に現れた。その大きな手が遠ざかり、背中を向けて歩き出すその人は、まるで光に飲み込まれていくように、いつも最後は消えてしまう。
そして目が覚めると、その人の顔はもう思い出せなくなっていて、あの大きな手の温もりだけが、微かに残るだけだった。







「おい。さっさと起きろ」

いかにも機嫌の悪そうな声に重い瞼を開けると、フロントガラスの向こうに海が見えた。朝陽に照らされた水面がキラキラしていて、その眩しさに思わず目を細める。
ここはどこだろうと周囲をきょろきょろと見渡すと、広い駐車場の奥に売店のような建物が見えた。

「いつまで寝とんだ。この役立たずがよ」
「失礼ね!誰が役立たずよ!」
「その歳で免許も持ってねぇ上、人が運転してる横でぐーすか寝てる奴なんざ、役立たず以外の何物でもねぇわ」

ぐうの音も出ない正論を叩きつけられて、言葉に詰まる。免許を持っていないことについては、今さら言ったところでどうにもならないことではあるが、運転している爆豪を余所に、いつの間にか眠ってしまったことについては、非常にしゃくだが私の方が明らかに悪い。

「それは…ごめん」
「素直に謝ってんじゃねぇよ気色悪ぃ」
「きしょ…!?あんたねぇ、じゃあ私が何て言ったら満足なのよ!」
「とりあえず、これでなんか食うもん買ってこい」

爆豪はそう言うと、私の顔に向かって思い切り自分の財布を投げつけた。すんでのところでキャッチ出来たものの、顔面に当たったらそれなりに痛そうな彼の財布をまじまじと見つめた。女の顔を狙ってくるって、どんな神経してんのよ。

「食べ物くらいなら、別に私出すけど」
「なんで俺が、てめぇなんぞの施しを受けなきゃなんねぇんだ」
「あんたね、これでも一応申し訳ないと思ってるから言ってんのにそんな言い方…っ」
「うるっせぇな!!こっちは徹夜で運転して疲れてんだよ!!ピーピー耳元で騒ぐんじゃねぇ!!」
「いや、どっちかっていったら、今うるさいのはどう見積もってもあんたの方なんだけど」
「黙れカス!!いいからさっさと行ってこい!!」
「だからうるさいのはあんただっての!わかったわよ!行けばいいんでしょ!行けば!」

助手席のドアを勢いよく閉めてやると、車内にいた爆豪はいかにもイライラした顔つきで、私に向かって中指を立ててみせた。
その態度に少し、いやかなりムカついたものの、イラついたその表情の中に浮かび上がる疲労の色を見て、私は反撃の手をぐっと抑えた。彼の車に背を向けて、おそらく売店などがあるであろう建物の方へ向かって、私は足を踏み出した。







車を出る前に、何を買ってくればいいか聞かなかったことを少し後悔した。爆豪が辛い物好きということは知っているが、それ以外の食の好みについてはほとんど知らない。ひとまず適当に色々買ってしまったが、もしもミスチョイスだった場合、「てめぇは買い物も満足にできねぇのか」とまたあのムカつく呆れ顔で罵ってくる未来が容易に想像できる。
互いに連絡先は一応知っているので、電話をすればいい話なのだが、電話をしたらしたで嫌味を言われ、また言い合いに発展しそうな気がして、迷った末に結局私は電話をかけなかった。

「一応適当に色々買ってきたけど、」

車に戻り、助手席のドアを開けながら口にしたその言葉の続きを、私は飲み込んだ。外からは気づかなかったが、やはり一晩中運転していて疲れたのか、爆豪は腕を組みながら静かに寝息を立てていた。
彼を起こさないよう、先ほどとは逆になるべく静かに助手席の扉を閉め、買ってきたものをひとまずダッシュボードの上に置き、袋の中からおにぎりをひとつ取り出して開けた。家を出るまではこういったものを買ったこともなくて、高校に入学して初めてコンビニのおにぎりを食べた時は、ほんの少しだけ泣きそうになったのを覚えている。周囲の友達はそんな私をいろんな場所へ連れて行ってくれて、あの頃は目にするもの全てが新鮮で、今は日常となってしまったその風景でさえ、まるで宝探しをしているかのようで、とても眩しい毎日だった。
おにぎりを食べ終え、顔を運転席の方に向けると、相変わらず爆豪は寝息を立てて眠ったままだ。いつもなら深く刻まれている眉間のシワが無く、鋭く釣り上がった真っ赤な瞳も、今は閉ざされた瞼のむこうだ。何の因果か彼と過ごすようになって、今日で5日目。寝るところが別々なのだから当然といえばそうなのだが、初めて見る爆豪の寝顔からは、いつもの粗暴さは感じられず、まるで別人と相対しているような、不思議な感覚に私を陥らせた。

私次第ではすぐに片付くって言ってたけど、一体どういう意味なんだろう。

部屋を出る前に爆豪が口にした言葉が、ずっと引っかかっていた。私にすら見えていない、この確執にまつわる全容が見えているような、あの言い方。彼は何を根拠にそう言ったのだろうか。窓ガラスにもたれかかり、私の及びのつかないところで回る彼の思考を想像してみるも、当然その問いに対する答えは出るはずもなく、幸せそうに車に乗り込む見知らぬ男女を横目に映しながら、私はもう一度目を閉じた。







「てめぇは一体、何時間寝りゃ足りんだよ?」

呆れたように、かつ馬鹿にしたようにため息を吐く爆豪に、顔の熱が一気に高まるのを感じた。

「だ、だって、何もすることなくて暇だったんだもの。そしたら知らぬ間に…」
「はっ、呑気なもんだな。これだからお嬢様はよ」
「ちょっと、その言い方やめてよ」
「あ?だって本当のことだろうが」
「あのね、別に私だって、好きであの家に生まれた訳じゃ───」

爆豪の方を睨みつけたその瞬間、妙に懐かしい気持ちになった。彼に対してではない。彼の横顔の向こう側に見える、窓の外の景色に対してだ。私はこの景色を知っている。少しずつあの頃とは変わっているけれど、街路樹としては珍しい林檎の木が道路沿いに植えられていて、ここが何処なのかを気づいたその瞬間、懐かしさと同時に背中に嫌な汗が伝うのを感じた。

「ば、くご」
「あ?」
「今から行く場所って、もしかして」
「今気づいたのかよ。どんだけ呑気なんだてめぇは」

この林檎の街路樹を抜けたその先は、ずっと息が詰まりそうだった、"あの場所"だ。

「や、やだ…っ!私行きたくない…っ」
「そうやって、てめぇはまた逃げんのか」
「だって、家に戻ったら、もう」
「言っただろ。それはお前次第だ」

動揺する私を余所に、ずっと引っかかっていたその言葉を、彼はもう一度口にした。

「昨日もそう言ってたけど、それってどういうことなの…?」
「俺が説明してやったところで、どうせお前は信じねぇ」
「何の話?」
「てめぇとババアの問題だ。本人に直接聞けや」

彼の言葉の本質が何一つ汲み取れず、頭がただただ混乱する。爆豪は一体、何を言っているのだろう。母に直接聞けというのは、何についてなのだろう。あの人がまだ、私に話していないことがあるとでもいうのだろうか。

「腹括れ。これを乗り越えられなきゃ、てめぇら一生そのまんまだぞ」
「でも」
「俺は勝ち目のねぇ賭けはしねぇ」
「知ってるわよ。みみっちいもん、あんた」
「だから信じろ」

その言葉を口にして、彼はついにその場所の前でブレーキを踏み切り、車を停めた。

「今だけでいい。俺を信じろ」

目も合わさずにそう言うと、彼はシートベルトを外して車を降りた。そしてずかずかとこちらへやってきて、私の座る助手席のドアを開けた。未だに思考の整理がつかず、助手席に座ったままの私の腕を取り、爆豪は半ば強引に私を車の外へと連れ出した。

「想像以上にでけぇ家だなぁ、オイ」

彼が見ている視線の先に、恐る恐る顔を向けると、そこにあるのは予想通りの光景だった。高く白い塀に囲まれたその場所の中心には、仰々しく存在感を放つ大きな門があり、もう長らく足を踏み入れていないその場所に、胸が不快にざわつく。そんな私を余所に、爆豪は我が物顔でその場所へと一歩一歩近づいていき、私は咄嗟にそれを追いかけようとするものの、足がその場から動かない。彼の言う通り、ずっと逃げているだけでは何も変わらないとわかっているのに、足を動かすことが出来ず、代わりに指先が震え始めた。どうしよう、怖い。

「ビビってんじゃねぇよ。自分の家だろ」
「だ、だって、足が、動かなくって」

正直にそう打ち明けると、爆豪は再び私のところのやって来て、私の手を引いて歩き始めた。物理的に引き寄せられた身体は、何とか足を踏み出すことが出来ているものの、胸の内側にある不安と恐怖は、そこへ近づく度に増していく。
そんな私を見透かしたかのように、爆豪は未だに震えが止まらない私の手を、ぎゅっと思い切り握りしめ、それに縋り付くことしか出来ない私は、その手を思い切り握り返した。

「ば、くご」
「んだよ」
「どっか行かないでよ…?」
「行かねぇわ」
「絶対?」
「しっつけぇなてめぇ。行かないっつってんだろ」

そう言うと、彼はぴたりと足を止めた。目の前には先ほどよりも高く、大きく感じる冷たい門と、それに不釣り合いなサイズのインターホンが右側に一つ。彼の手を握る反対の手で恐る恐るそのボタンをゆっくりと押すと、いつもならすぐに応答があるはずなのに、インターホンからは誰の声も聞こえてはこなかった。
しかし私がここに来たことは"あちら"も認識したようで、応答する声はないものの、代わりにガシャン、と大きな音を立てて、その重たい扉が静かに開いた。







「た、ただいま……」

屋敷の扉を恐る恐る開けると、幼い頃から顔なじみの執事やお手伝いさん達が、嬉しそうな顔を浮かべて、私たちのもとに駆け寄って来た。

「お嬢様、お帰りなさいませ!」
「まぁ、すっかり大人になられて……お元気にしていらっしゃいましたか?」
「う、うん。元気だよ。ありがとう」
「また少し背が伸びられましたねぇ」
「まぁ、伸びたって言っても、だいぶ周りより小柄なんだけどね」
「可愛らしくていいじゃないですか!」

お手伝いさんの一人がそう口にすると、隣に居た爆豪が吹き出すように笑ってみせた。

「ちょっと、何笑ってるのよ」
「笑うしかねぇわ。てめぇのどこに可愛らしさがあんだよ」
「な、何よっ!うるさいわね!あんたに言われたかないわよ!」
「おーおー、その調子で自分のママともお喋りできるといいもんだな」
「あんたねぇ…!」

思わず爆豪に掴みかかりそうになったところを、一人の執事が私を呼び止めた。

「お嬢様…!もしやそちらの殿方は…お嬢様の恋人でいらっしゃいますか!?」

目をキラキラさせてそう尋ねる執事に、数秒間の沈黙が走る。そちらの殿方というのは、まぁ当然爆豪のことだとして、それが私の───

「はぁ!?そ、そんな訳ないでしょ!!何で私がこいつなんかと!!」
「違うのですか…?」
「当たり前でしょ!!ただの同期よ!!誰がこんな愛想もデリカシーもないような男なんかと」
「も、申し訳ございません。その、何と言いますか、てっきりそういったご関係なのかと……」

執事はそう言いながら、先ほどから繋がれたままになっていた私と彼の手にちらちらと視線を送った。他のお手伝いさん達も同様のことを考えていたようで、その視線に居た堪れなくなり、思わず爆豪の手を思い切り振り解いた。

「こ、これは別に……そう!そうよ!おまじない的な!そういうあれよ!」
「何言ってんのか意味わかんねぇぞ、オジョーサマ」
「あんたは黙ってなさいよ!!」
「一応言っておくが、俺はてめぇらのオジョーサマがビビって足が動かねぇっつーから、仕方なくここまで連れて来てやっただけだからな」
「だから、黙っててって言ってるでしょ!!」
「本当のことだろうが。なぁ、オジョーサマ?」
「あんたいい加減にしなさいよ!?」

爆豪に向かってそう叫ぶと、周囲にいたお手伝いさん達はどっと笑い出す。こういう雰囲気は久しぶりだ。ここで暮らしていた頃は、こうしてお手伝いさん達と話をする時だけが、唯一楽しい時間だった。




「随分と賑やかね」

その声が耳を掠めると、包まれていた暖かい空気が途端に凍りつくのを感じた。少し離れた階段の上から私たちを冷たく見下ろす母の目は、相変わらずとても冷たく感じられて、咄嗟に爆豪の後ろに身を潜めた。

「執事とメイドは下がりなさい」

母がそう言うと、お手伝いさん達は私たちのことを心配そうに見つめつつも、それぞれの持ち場に戻っていく。相変わらず、この家では悪い意味で、彼女の存在は絶対的な力があるらしい。
靴音を鳴らしながら、母は階段をゆっくりと降りると、私たちを交互に見てから、呆れたように溜息をついた。

「家に戻って来たのは、賢明な判断ね」
「別に、戻って来た訳じゃ」
「じゃあ、なぜここに来たの?」
「それ、は……」
「何をどう言い訳しても、ヒーローは辞めてもらいます。女の子は、女の子らしい人生が一番幸せなんです」

女の子は、女の子らしく。それは呪いの言葉だ。家を出て、この人と距離を置いていたこの数年間の間も、その言葉だけは頭の片隅にこびりついていた。

「私の幸せを、勝手に決めないでよ」
「ちょうどあなたにいい縁談が来ているの。貿易会社の社長のご子息で、学歴も」
「私の話を、ちゃんと聞いて!」

今は三人しかいない広いエントランスに、私の声が響く。母は眉間にシワを寄せ、怪訝な顔つきで私の方に視線を送りつつも、珍しくその言葉の続きを待っているような素振りを見せた。

「私、ヒーローは辞めないよ。確かに大変な仕事だけど、すごくやりがいを感じてるの。上司も先輩もみんな優しいし、同期は…ムカつくけど」
「てめぇ、その同期様が隣で聞いてるのを忘れてねぇだろうな?」
「うるさいわね。事実でしょ。……今日は、それを言いに来たの。この家に戻るつもりも、結婚もするつもりもない」

例えそれが母の望まない結果になったとしても、誰かに与えられた人生を生きるより、用意された幸福をただ享受するより、自分らしい人生を生きる方が、ずっとずっと幸せだと思えるのだ。

「何を言い出すかと思ったら…馬鹿馬鹿しい」

母は再び呆れたようにため息を溢すと、今度は私ではなく、なぜか隣にいる彼に目を向けた。

「ヒーローなんて、関わらない方がいいのよ」

そう口にした彼女に、妙な違和感を感じる。爆豪を見るその目は、確かに彼を見ているはずなのに、彼自身ではなく、別の誰かを見ているような、そんな雰囲気をなぜか感じた。少し悲しそうな、そして何かを諦めているような、不思議と胸が締め付けられるその感覚に、私は言葉が出せなかった。

「随分な言い方っすね」

隣にいる人物がぽつりと呟いたその言葉に、母は眉間のシワを更に深くした。

「何なのあなたは」
「人の仕事にあーだーこーだケチつけんなや」
「あなたが不快に感じたのなら謝ります。けどヒーローなんて危険な仕事、この子が関わるメリットはひとつもありません」
「へぇ。あんたの旦那も、ヒーローだったのにか?」

低く呟かれたその問いかけに、私も、そして母も、ハッとしたように爆豪を見た。

「な、何を言って」
「あんたの旦那は、ウチの事務所に所属してた、こいつと同じ個性持ちのプロヒーローだよな?」

爆豪の質問に、母は目を見開いたまま、時が止まったかのようにその場に立ち尽くした。

「爆豪、それ…本当なの?」
「事務所に入ったばっかの頃、過去の案件リストを片っ端から全部見た」
「あ、あんな膨大な量を全部見たの?あんた」
「その中に、てめぇと同じ水を生成できる個性のヒーローの記録があった。そいつは今の所長の同期で、21年前に敵との戦闘で殉職してる」
「21年前、ってことは…」
「当時のお前はいくつだ」
「……1歳」
「てめぇの親父が事故で死んだっつーのも、お前が1歳の時っつったよな?同じ個性持ち、かつ死んだ時期も同じ。さすがに偶然じゃない気がした」
「そ、そんなのこじつけよ…っ!!」

冷静に自身の分析を淡々と語る彼に対し、母はひどく取り乱した様子で叫んだ。こんなふうに動揺している母の姿を見るのは、記憶の限りでは初めてで、爆豪の言葉にも驚いたが、それ以上に動揺した母の姿にとても戸惑った。

「極めつけは、所長がお前の家のことを知った上でお前を採用したって話だ。普通ならそんなリスクの元凶になる奴は採用しねぇ」
「た、確かに、そう言われれば…」
「けど殉職したヒーローと所長は同期で、お前がそいつの実の娘なら、その採用もまぁ合点がいく。所長とお前の母親との接点も出来る。そう考えれば、全部辻褄が合うんだよ」

そう言うと、彼はポケットに入っていたスマホを取り出して、私の母に向かって何かを見せた。

「確かにこいつの見た目はあんたに似てるみてぇだが、目の色だけは父親譲りだったみてぇだな」

爆豪が母に見せたその画面を見ると、今より少し若く見える所長と母、そして母の隣には、私と同じ目の色をした、とても優しそうな若い男の人が映っていた。三人それぞれがとても幸せそうに笑うその写真に、急に目頭が熱くなった。

あれ、でもこの人、どこかで見たような───

「一体、どこでそれを」
「ウチの所長は、話のわかる人なんすよ」

母はその写真を見ると、肩を震わせながらぽろぽろと泣き始めた。そしてその瞬間、今彼の口から告げられた話が、概ね正しかったことを悟った。
事故で亡くなったとしか聞かされていなかった、顔も知らなかったお父さんのこと。まさかその話を、母でもお手伝いさんたちでもなく、爆豪の口から初めて聞くことになろうとは。

「いつまでもガキ扱いしてねぇで、話してやって下さいよ。でないとこいつは、一生あんたと分かり合えずに、このままずっと苦しむことになんだぞ」

爆豪がそう言うと、母は溢れ出た涙を袖で拭ってから、私の方をゆっくりと見た。泣き腫らしたその目に胸が少し傷んだけれど、不思議とどこか嬉しさもあった。遠回りして、すれ違って、長い時間をかけてようやく、初めて互いに向き合えたような、そんな気がしていたからだ。







「ちゃんとご飯は三食食べるのよ。カップ麺やインスタントじゃなくて、きちんと栄養も考えたものをね。それから夜はなるべく一人で出歩かないようにして」
「お母さん……それもう何度も聞いたから……」

その後、母とはたくさんの話をした。
かつて今の私たちの事務所で事務員をやっていた母が、同じ事務所のヒーローである父と恋に落ちたこと。家柄の違いから周囲には猛反対されたが、二人はそれを押し切って結婚し、その後私が生まれたこと。
そしてその一年後、父が亡くなったこと。

私を連れて実家に戻った母は、始めこそ物心つく前の私に父の話をしていたらしいが、父の個性が受け継がれたことをきっかけに、私が父と同じ道を辿るのではないかと恐れを抱き始めてしまったという。
母が異常なまでに女の子らしさを私に求めていたのは、ヒーローやそれに近しいものとの繋がりさえなければ、父と同じようになることは無いと思っていたからだと、涙を浮かべながらそう話してくれた。
結果的に、私は意図せず父と同じ道を選びとってしまった訳だが、それでも私が父と同じヒーローであり続けたいことを伝えると、まだどこか受け入れ難い様子はありつつも、やっぱりあの人の子供なのねと、母は困ったように顔を俯かせていた。

「たまには顔を見せに来なさいよ」
「それも聞いたよ!わかったよ!」
「それから」
「もー、今度は何?」
「爆豪さんに、ご迷惑をおかけするんじゃないわよ」
「べ、別に迷惑なんか…まぁ、多少は今回のことで巻き込んじゃったけど、いつもは別にかけてないし。ていうか、そもそも普段は一緒にいないし」
「そうなの?てっきりお付き合いしてるのかと思っていたんだけど」
「付き合ってないから!!」
「彼、なかなか素敵な人だから、早くしないと取られちゃうわよ」
「だから、そんなんじゃないってば!!」

お陰様で少し和解はできたものの、相変わらず人の話を聞かない人だ。

「なまえ」

踵を返し、車の方に歩き出すと、背中に向かって私の名前を呼ぶ声がした。

「いってらっしゃい」

その声は、紛れもなく子供を思う母親の声だった。一体これを最後に聞いたのはいつだっただろう。そう思うくらい久しぶりに聞いたその言葉に、思わず涙腺が緩んだ。

「いってきます」

泣きそうになっていることを悟られないように、振り向くことなく私は車に乗り込んだ。




「もういいんか」

車に乗り込んだ私に、爆豪は静かにそう尋ねた。

「うん。もういいの。また、来るから」
「……そーかよ」

彼は小さく返事をすると、車のキーを挿してエンジンを付けた。ちらりと窓の外に目をやると、私の視線に気づいたのか、母はまた困ったように顔を俯かせた。
今はここまでが精一杯だろう。でも、いつかきっと。

「帰ろう、爆豪」
「家に泊めてください爆豪様だろうが。この家なしが」
「…イエニトメテクダサイバクゴーサマ」
「心が籠ってねぇ。やり直せ」
「……ありがとね」
「あ?また熱かよ?」
「素直にどういたしましてって言いなさいよ!」
「ドーイタシマシテ」

相変わらず口の減らないこの男にムカついたものの、この結末にはこいつの存在が必要だったことは事実で。さらに非常に不本意かつ、非常に悔しいけれど、今日に限っては、ほんの少しだけ彼がいてくれてよかったと思ってしまったことも、また事実で。

「心が籠ってない!やり直し!」
「運転中に叩くんじゃねぇよ!このバカが!!」

そしてもうすぐ、この生活が終わりを迎えることに、ほんの少し、ほんの少しだけ寂しいかもしれないと、そんなことを思ってしまったことは、口が裂けても絶対に言えない。
言わないけど。


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2021.07.14

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