I feel something for you


「いつまで寝とんだてめぇは」

目覚めて最初に浴びたその声は、相変わらずとても不機嫌そうだ。爆豪がリビングのカーテンを勢いよく開けると、朝の光が部屋の中に溢れ、その明るさに目眩が起きそうになる。

「今、何時…?」
「8時」
「ちょっ、なんでもっと早く起こしてくれないのよ!」
「ガキかてめぇは。それくらい自分で何とかしろ。それともあれか?オジョーサマは自分一人じゃ起きられませんってか」
「お、起きれるわよ!普通に起きてるとこ見てるでしょ!」
「記憶にねぇな」
「このトリ頭!」
「あ!?起こしてやった恩人に向かって何だその口の利き方は!!つーかさっさと支度しろや!!」

そう怒鳴りつけながら、彼は私が普段使っている化粧ポーチを、私の顔面めがけて思い切り投げつけた。

「った!ちょっと…中身結構固いのに…」
「うっせぇわ。さっさと着替えて化粧しろやグズ。俺まで遅刻すんだろが」

「グズ」という言葉に、反射的に開きそうになった口を咄嗟に噤んだ。今の言い方だと、まるで爆豪が私の支度を待っているみたいな、そんなニュアンスに聞こえる。つい数日前までは、別々に家を出て、それぞれで事務所に出勤していたのに。

「んだよ。そのツラは」
「あ、いや…待っててくれるんだなって、思って」
「遅刻してぇなら、もう行くわ」
「待って待って!10分で支度するから、車乗せてって!」

文字通りソファから飛び降りて、先ほど投げつけられた化粧ポーチと、今日着る服を抱えて脱衣所に駆け込む。バタバタと走る私の背中に向かって、「10分経ったら置いてくからな」と、なぜか少し上機嫌に言う爆豪にムカついたが、昨日は急に休みをもらってしまった手前、今日は絶対に遅刻するわけにはいかない。
顔を洗い、歯を磨き、着替えと最低限のメイクをして、宣言通り10分以内に一通りの支度を済ませてから、脱衣所の扉を勢いよく開けると、玄関で靴を履いていた爆豪が、軽く舌打ちをしてみせた。

「ふふ、早いでしょ?」
「威張ってんじゃねぇよ」

彼はそう言うと、いつも使っている黒いキャップを深く被り、玄関の鍵を素早く締めた。少し緩んでいた靴紐を結び直す私を余所に、彼はスタスタとエレベーターの方へと足を進める。すぐに追いつくことは出来たものの、一向に来る気配のないエレベーターに、爆豪は本日二度目の舌打ちをした後、階段へ続くドアを乱暴に開けた。




「ご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした」

深々と頭を下げると、所長はいつもの穏やかな声で、謝らなくていいよ、と口にした。

「大丈夫。報告はちゃんと受けているから。お母さんとはちゃんと話が出来たみたいで、良かったね」
「あ、はい…まぁ、ヒーローを続けることにはまだ納得していない様子でしたけど…」
「事情が事情だからね。そこはゆっくり分かってもらうしかない」
「そうですね」
「まぁ立ち話もなんだし、座って少し話そうか」

そう言うと、所長は部屋の中央にあるソファセットの方へと視線を送った。本来であれば来客用のソファのため、少しそこに腰を下ろすことに躊躇いがあったものの、私は彼の意図を汲み取り、大人しくそこに座ることにした。

「既に聞いているとは思うけど、君のお父さんと僕は、この事務所の同期だったんだ」
「はい。伺いました」
「彼は僕なんかよりずっと優秀でね。今も生きていたら、所長は僕じゃなくて、彼がなっていたはずだ」

僕は今ひとつ頼りないから、と笑いながら、所長は落とすように笑った。

「喋り方はすごく丁寧で穏やかなんだけど、なかなか辛辣なことを言う奴でね。容赦なく正しいことを言うから、僕は泣かされっぱなしだったなぁ」
「似たようなことを、母も言っていました。だから最初は、父のことがあまり好きではなかったと」
「付き合う前も付き合ってからも、よく喧嘩してたからね。まぁ、僕にはいちゃついているようにしか見えなかったけど」
「母が喧嘩、ですか…?」
「うん。もうしょっちゅう」

ずっと知らなかった、父のこと。知っているつもりになっていた、母のこと。まさかこんな穏やかな気持ちで、自分の両親の話を出来る日が来るなんて、思ってもみなかった。

「君が生まれた時のお父さんといったら、もう、見るに耐えない親バカっぷりでね。『将来絶対美人になる』って周りに言いふらしてたよ」

写真で見た父からは、そんな雰囲気は全く感じられなかったのだが、これまでの所長の話から推察するに、どうやら母とは違った意味で、なかなか厄介な人だったようだ。

「……なんと言いますか、父がもし生きていてくれたとしても、仲良くやれてたかどうか、ちょっと疑わしいです」
「あはは、まぁそう言わないでやってよ。それに彼の見立て通り、なかなかチャーミングな女性に育ったと僕は思うよ」
「からかわないで下さい」
「あはは、ごめんごめん。でも久しぶりだ。こういうのは」
「え?」
「僕も結構な年齢になって、同期は大体独立してるから、こんなふうに昔の友達の話をする機会は、なかなかなくてね」

穏やかに、けれど少しだけ寂しそうに紡がれたその言葉に、気づいた時には頬を涙が伝っていて、そんな自分に戸惑った。悲しいとも、悔しいとも違う、名前のない気持ちから溢れたもの。言葉に出来ないその感情を抱えていると、所長はそんな私の頭にゆっくりと手を置き、ぽん、ぽん、と何度か軽く叩いてみせた。

「君さえ良ければ、また話そう。君のお父さんや、お母さんの話をね」

あまりにも優しく、あまりにも穏やかなその声と手に、私はただ泣きながら、何度も頷くことしか出来なかった。




「そういえば、爆豪君といつから付き合いだしたの?」

とんでもない爆弾発言に、口に含んだコーヒーを思い切り吹き出した。情けなく泣き出してしまった私を落ち着かせようと、わざわざ所長自らコーヒーを振る舞ってくれたというのに。

「ちょ、ちょっと待ってください…!!なんでそんな話になってるんですか!?」
「え?違うの?だって君たち、今一緒に暮らしてるんでしょ?」
「誰から聞いたんですかその話!!」
「事務所で結構噂になってるみたいだよ」
「は!?」
「今朝も一緒に来てたって、事務員の子達が騒いでたし」

終わった。私の人生完全に終わった。というか、いつの間に噂になってたの。

「まぁ僕としては、君たちが仲良くなってくれたのは嬉しいけどね」
「ち、違います!!元々住んでいたところが改装工事をすることになったので、その間だけ厄介になってるだけです!!」
「え、そうだったの?それなら言ってくれれば、僕が住むところを手配したのに」
「いやまぁ…それも少しだけ考えたんですけど、色々ご面倒をおかけしているので、さすがに、と思いまして…」
「僕は全然構わないんだけどね。…でもそっか。それで爆豪君のところにね」
「まぁ、背に腹は代えられないので」
「またそんなこと言って…」
「良いんです。どうせ向こうだって、私のことが嫌いなんですから」
「本当にそう思う?」

所長は私の言葉を遮ると、穏やかな彼にしては珍しく挑発的な目で、私にちらりと視線を送った。

「な、何がですか…」
「彼の性格は、君の方がよく知ってるだろ?本当に嫌いな子を、わざわざ自分の家に置くようなタイプにはとても見えない」
「……弱みを握りたかったとかじゃないんですか。どうせ」
「今回の件に関してもそうだ。君とお母さんを和解させるために、車で実家に連れて行ったり、君のお父さんのことを僕に聞いて、昔の写真を送らせたり。そんな面倒なことまでして、嫌いな女の子を助けようとするかな?」
「それ、は…」

それ以上の言葉を返すことが出来ず、そのまま黙ってしまった私に、所長は吹き出したように笑い始めた。

「ちょ、何で笑うんですか!!」
「あぁ、ごめんごめん。本当によく似てるなぁって、思って」
「何がですか!!」
「君と爆豪君が、結婚する前の君のご両親にそっくりだからさ」
「絶対に似てません!!」
「お似合いだと思うんだけどなぁ」
「あんな奴、絶っっっ対にお断りです!!」

お似合い?どこがよ。
あんな野蛮で、口が悪くて、デリカシーの欠片もないような男とお似合いなんて、冗談じゃない。

「もうお話がないようでしたら、これで失礼します!!」
「そんなに怒らなくても…あ、そうそう。言い忘れてたけど」
「……今度はなんですか?」
「午後のパトロールだけど、ちょっとシフトに変更があってね」

所長はいつもの穏やかな顔に、ほんの僅かな含み笑いを見せた。なぜだろう。嫌な予感しかしないのは。所長のその言葉の続きが、手に取るようにわかってしまった。

「君は今日、爆豪君とペアだから、宜しくね」

予感というものは、それが嫌なものであればあるほど不思議と当たるのはなぜなのだろう。そもそも宜しくされたくない相手だというのに、こんな話をした後に一緒にパトロールだなんて、殊更嫌だ。嫌すぎる。

「ちなみに所長命令だから、誰かと替わってもらうのはダメだよ」

ダメ押しのその言葉に、私は今日、入所して初めて所長を殴り飛ばしたいと思ってしまった。




「またてめぇかよクソが」

あからさまに嫌そうなその態度に、さっきの所長の言葉でチラついたその可能性を、私は全力で否定した。

所長。やっぱり、こいつに限ってそんなこと、絶対ないと思います。

「ちょっと、現場での第一声がそれって、あんまりじゃないの」
「そのツラ見飽きてんだよ。こっちは」
「その言葉、そっくりそのままお返しするわよ!それにあと一日もすれば、どうせ元に戻るんだからいいでしょ!」

私がそう言うと、爆豪は眉間のシワをさらに深めて、本日三度目の盛大な舌打ちをしてみせた。

「とりあえず、パトロールを進めましょ。私は東、あんたは西。2時間後に一旦ここで合流。どう?」
「……おう」
「え?」

少しの間があったものの、いつもの彼なら絶対にあり得ない素直な返答に、思わず呆気に取られてしまう。いつもなら、「命令すんな」とか、「指図すんな」とか、そう言ってくる場面なのに。

「何間抜けヅラしとんだ」

私がそれ以上何も言えずにいると、爆豪はすっと手を伸ばし、私の頬に左手を添えると、自分の方へと向かせるようにした。相変わらずの人を馬鹿にしたようなムカつく笑みを浮かべながら、私を見下すようにして覗き込むその顔に、心臓が突然大きく跳ねた。

「は、離して…っ」

彼の手から逃げるようにして後退りすると、爆豪は特にそれ以上何も言わず、そのまま踵を返して西の方へと足を進めた。
その場に留まる理由もないし、そろそろパトロールを始めなくては。未だにドクドクと大きく脈打つ心臓の音は、きっと何かの間違いだ。自分にそう言い聞かせるようにして、彼の向かう先とは反対の方角へ足を踏み出した。

「なんなのよ、もう…」

触れられた頬が、まだ熱い。私を見るあの目を思い出すと、心臓がうるさい。あぁ嫌だ。あんな奴のことなんて、1秒だって考えたくもないのに。それもこれも、全部ぜんぶ所長のせいだ。

"お似合いだと思うんだけどなぁ"

そんなことはない。断じてない。まぁ確かにここ数日はそれなりに会話も増えたような気もするけど、顔を合わせれば嫌味と罵詈雑言の応酬を繰り返している。それが私たちだ。
同期なのに、いつだって偉そうに上から目線で、それなのに実力は間違いなく折り紙付きで、私には見えないものが見えている。そんなあいつが、いつも鼻について嫌いだった。

「嫌い、だった…?」

"だった"って、何。なんで過去形になってるのよ。私は、今だって───


しかしそんなことを巡らせていた思考は、次の瞬間真っ白になった。向かうその先で突如聞こえた大きな爆発音に、それどころではなくなったからだ。音のする方へ咄嗟に振り向くと、この辺りで一番大きなショッピングセンターのある周辺から、煙が立ち上がっているのが見えた。

さっき頭に浮かんだものは、ひとまず今は閉まっておこう。今の私はヒーローだ。
もう顔を隠す必要も、何かに怯える必要もない。胸を張って人を救けるために、この一歩を踏み出すことが出来るのだ。




既に現場に到着していたレスキューによると、どうやら爆発は事故によるものではなく、誰かの個性によって意図的に起こされた可能性が高いということだ。平日の昼時に突然起こったその出来事に、辺りは当然パニックになっていて、多くの人々の驚愕と畏怖の声が、あらゆるところから聞こえてきた。爆発があったのは1階奥にある吹き抜けのイベントスペースで、ちょうど子供向けのヒーローショーが終わり、スタッフが片付けをしている最中の出来事だったという。
燃え盛る火の手は、もう入口の付近まで近づいていたが、爆発の衝撃によってあらゆる場所に通気口となる亀裂が出来たためか、突入前に最も懸念していた煙の充満がなかったことは、不幸中の幸いだ。
瓦礫を掻き分けながら中へ進むと、この惨状を目の当たりにした恐怖からか、自分の身体を守るように座り込み、動けなくなっている少年の姿が見えた。瓦礫を退かすその音に気づいたからか、その少年は私の方に視線をゆっくりと向ける。こちらが笑って手を振ってみせると、彼はその無垢なふたつの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙を流し始めた。

「はじめまして。"タクヤくん"だね?」

多くの人が逃げ惑う中、火の手が上がる建物の中へと走っていこうとする一人の女性を見つけ、慌ててそれを制すると、彼女は私にしがみつき、「中にまだ息子」がいると叫んだ。爆発の直接的な被害は免れたものの、逃げる際に人の波に飲まれて息子の手を離してしまったと、自分を強く責めていた。そんな彼女をレスキューに預け、私は急いで中に突入することになったわけだが、見たところ大きな怪我もみられないタクヤくんの様子を見て、ひとまず胸を撫で下ろした。

「お姉ちゃん、誰…?」
「ヒーローのハイドランジアといいます。私と一緒に外に出ましょう」

そう言いながら差し出した私の手に、拓也くんが手を伸ばそうとした時、少し離れた場所から、微かな敵意を感じた。拓也くんの手が触れるその前に、彼の身体を抱き抱え、その場を立ち去ろうと個性を発動させると、それとほぼ同時くらいのタイミングで、背後で二度目の爆発が起こった。爆風に煽られた身体で、拓也くんを庇いながら受け身はきちんと取れたものの、爆発の影響で上層階から降ってきたコンクリ片によって、左の足首が砕かれる嫌な音が聞こえた。

「…っ!!」

あまりの激痛に声も出せず、その場にタクヤくんを下ろして屈むと、「あーあ」と呟く残念そうなテノールが響いた。

「この辺りの管轄は、ダイナマイトって聞いてたんだけどな」

よく知る名前を口にしたその人物は、私と同じか少し年上くらいの若い男だった。青白い肌とぎょろりとした目が特徴的なその男は、残念そうなセリフとは裏腹に口元に笑みを浮かべていて、なんとも言えない不気味さを放っていた。

「……タクヤくん、平気?痛い所とかない?」
「僕は平気。でも……」

タクヤくんは私の左足にちらりと視線を送りながら、その先の言葉を噤んだ。

「これくらい平気だよ。それより危ないから、早くここから出ないと…」

立ち上がろうと膝を伸ばすと、それを阻むように左の足首に激痛が走った。

これはたぶん、骨いってるな。

「お姉ちゃん、大丈夫…?」

私の顔を覗き込むようにして見つめるその眼差しは、不安と恐怖に揺れている。入口の方に目をやると、二度目の爆発のおかげか、先ほどよりもずっと入口に近づいている。直線距離で目算して約100メートル。さっきの男の言葉が聞き間違いでないのなら、一般人であるこの子には興味はないはずだ。

「君は先に行って。あとはここを真っ直ぐ歩いて行けば、入口に着くわ。外にはレスキュー隊の人がいるはずだから、隊員の人に保護してもらえる」
「お姉ちゃん、は…?」
「私は大丈夫。歩けなくても、暫くは一人で持ちこたえられるよ」
「一人じゃ危ないよ!」
「拓也くんは優しいね。……どっかの誰かさんとは大違いだわ」
「え?」

不思議そうな顔をする彼の頭に、ぽん、と軽く手を乗せて、精一杯の笑顔を見せた。

「外でお母さんも待ってるよ。君のことをすごく心配してたから、早く戻ってあげなきゃ」

さぁ行って、と声をかけると、タクヤくんは少し躊躇いながらも、私が指を差す方へと駆け出した。その楊子を目の当たりにしても、男はその場を動こうとせず、相変わらず不気味な笑みを浮かべたまま、その場に立っているだけだった。

「……あんたね。この騒ぎ起こしたの」

コンクリートの切れ端に立つその男を睨みつけると、私の姿を見るや否や、がっかりしたように深いため息をひとつ吐いた。

「残念だな。彼が来てくれると思って、わざわざここを選んだのにさ」
「あいつに何の用なのよ」
「え、もしかして彼の知り合いなの?」
「残念ながら」
「あはは。そっか」

飄々としたその態度が、この男が会いたがっているその人物とは、別の意味で鼻につく。わざわざこんなことをしてまであいつに会いたがるなんて、随分と物好きな男だ。もしもここに居たのがこいつのお目当ての人物だったのなら、きっと彼はこんな風に笑う時間すら与えられていないだろう。

「腕試しだよ」
「腕試し?」
「俺が個性で作った爆弾と、奴の爆破。どっちが強いか試してみたくて」
「……それだけ?」
「そ。それだけ」
「本当に、どうしようもない奴しかいないのね。そういう野蛮な個性持ちって」
「随分な物言いだなぁ。あんたもヒーローだろ?お仲間じゃないわけ?」
「私とあいつは犬猿の仲で有名なの。というか、それくらい、さっきの返答で察しなさい。頭の悪い男ね」

挑発するようにそう言うと、男が纏っていた空気が明らかに変わる。どうやら察するに、あの男ほどではないだろうが、こいつもなかなかプライドの高いタイプらしい。

「可愛くねぇ女だな」
「生憎だけど、あんたなんかに見せる可愛げは持ち合わせてないの」
「あんた、自分の立場わかってんの?その足じゃ、どうせ満足に戦えねぇだろ」

自分が優位であることを主張する男に、わざとらしく馬鹿にしたように笑ってやると、男は右手から先ほどまで無かったはずの黒い物体を出現させた。次の瞬間、身体がスローモーションのようにゆっくりと宙に浮かび、その数秒後、私は容赦なくアスファルトに叩きつけられた。何度かそれが繰り返された後、その衝撃と痛みに顔を歪ませていると、男は私を見下ろしながら、笑って首元に左手を添えてみせた。お前なんかいつでも殺せると、まるでそう言っているかのように。

「これは忠告だ。もう少し男に媚びれる女にならねぇと、痛い目見るのは自分だぞ」

男のその言葉に、不思議と笑いが込み上げてきた。私が可愛くないなんて、そんなことは百も承知だ。可愛いフリルのついたワンピースなんて、動きにくくて大嫌いだったし、同級生の女の子達が、口を揃えて言う"可愛い"という、その言葉に共感できたことは、申し訳ないけど一度もない。
込み上げた笑いは自嘲の意味ではなく、これが私だ、これでいいんだと、そう思えたことが嬉しかったからだ。母が望んだ女の子にはなれなかったと、かつてはそれを後ろめたくさせていた"呪いの言葉"も、今はもう聞こえてこない。

その代わりに今、私の耳に聞こえているものは───

「……私からも、あんたにひとつ忠告しといてあげるわ」
「は?」
「あいつはね、あんたの百倍厄介で、あんたの百倍強いわよ。手負いの私をこれだけ痛めつけても殺せないないような半端野郎なんか、一万回挑んだって勝てっこないわ」

そしておそらく、この男にはその一万分の一の機会すら、与えられることは無い。

「祈っとけ。来世はもっと、素直で可愛い女の子になれますようにってな」

絶体絶命のピンチだ。けれど少しも怖くない。私が素直で可愛い女の子になれるチャンスは、残念ながらまだ来ない。何故ならば、ヒーローは必ずやって来るからだ。

「おい。そこのクソモブ」

低く地を這うような声に、今まさに私を殺そうとする男は狼狽した。高揚からか、それとも恐怖からかは分からないが、突然現れたように見えるその人物の存在に、男は小さく肩を震わせた。

「遅い、わよ」

建物の外から微かに聞こえた規則的な爆発音が、この男のそれだとすぐに分かった。分かっていたからこそ、満身創痍のこの状況で、堂々していられたのだ。

「誰に許可とって、人のモンに触っとんだ」

先ほど見た爆発とは比べ物にならない程の強い光を放ち、爆豪は攻撃を避ける隙も与えることはなく、そしてすぐ側にいた私を巻き込むことも無く、瞬時に男へ一撃を食らわせてみせた。大規模戦で見せる大技ほどの威力はないにも関わらず、それは男を黙らせるのには十分な力を持っていた。被害を拡大させないよう、しっかり計算し尽くされた場所に吹き飛ばされた男の姿を見て、相変わらず見た目に反して繊細な男だな、と自然と口角が上がった。

「何笑っとんだ。ついにイカレたんかてめぇは」

爆豪は私に近づくと、眉間に深くシワを寄せながら、怪訝そうな顔で私を見下ろした。反論しようと動かした口が、なんと言葉を紡いだのか、自分ではもう聞こえない。重たくなる瞼に狭まっていく視界の中で、私に伸ばされたその手のひらからは、ほんの微かに甘い香りがした。




どのくらい意識を失っていたのだろう。瞼を開けると、目の前にはもう随分と見慣れてしまった天井があり、ゆっくりと首を動かしてみると、リビングテーブルの前に腰を落とし、仏頂面でコーヒーを飲みながら、何かの雑誌に読み耽る爆豪の姿があった。

「やっと起きやがったか」

今は何時だろうと、リビングのテレビの脇に置かれたデジタル時計に目をやると、時刻は20時17分。どうやらあれから、かなりの間眠ってしまっていたようだ。

「ったく、現場でもぐーすかぴーすか寝やがって。お陰で俺がてめぇを運ぶ羽目になったじゃねぇか」

迷惑そうに言いながら、爆豪は読みかけの雑誌をため息混じりに閉じた。ソファから起き上がり、いつもの様に両足をフローリングに付けると、私はあることに気がついた。意識を失う少し前まで、動かすだけで激痛が走った左足首をはじめ、ほとんどの傷が治されていた。

「怪我…治ってる…」
「雄英のババアがやったんだよ。わざわざ連れてってやった俺様に感謝しやがれ」
「凄いのね。結構やばそうな傷だったのに、あれをすぐに治しちゃうなんて」
「俺の母校だ。教師もそれくらい出来なきゃ話になんねぇわ」
「あー、はいはい。そうですねー」
「おい。棒読みしてんじゃねぇぞ」

眉間のシワを深めながらそう言う爆豪を無視して、私は自分の左足首に触れる。その刹那、私の足を心配そうに見つめていた、幼い眼差しを思い出した。

「そうだ、あの子は…っ」
「てめぇが逃がしたガキなら無事だ。多少かすり傷はあったが、応急処置だけ済まして、母親と家に帰らせた」
「……そっか…良かった…」

それは本心からの言葉だ。それなのに、心の片隅にわずかな淀みがあるのが分かる。
結局のところ、私は何もしていない。助けると言った子を、母親の元に送り届けることは出来なかったし、不注意で負傷した上に敵に追い詰められて、同期の仕事を増やしただけだ。

「んだよ、そのツラは」
「いや…なんていうか…もっとしっかりしないとなって、思って」

私がそう言うと、爆豪は私の目の前にやってきて、いきなり私の頬を抓った。

「いひゃい!」
「ぶっさいくなツラだなぁ、おい」
「ひよっほ!はなひへ!」

頬をつねる爆豪の手から逃れるように、顔を思い切り背けると、意外にもその手はあっさりと離れて行った。

「そんだけ騒げんなら、まぁ大丈夫そうだな」

爆豪は私の頭に軽く手を置きながら、意地悪く笑ってそう言った。言葉だけを切り取れば、随分と失礼な物言いだが、それに反して触れられた手はとても優しい。そんな些細なことにまたひとつ胸が鳴り、自然と口が彼の名前を呼んでいた。

「爆豪」
「あ?」
「助けてくれて、ありがとう」

爆豪は驚いたような顔を見せたが、私自身もびっくりするほど、それは素直に口から漏れた言葉だった。

「気色悪ぃわ」
「今日も、あと家のこととか、色々…」
「黙れ。マジで気色悪ぃ」

えぇ、まぁ分かっていましたとも。そう言われるであろうことはね。でもね。

「あんたね、毎回毎回失礼よ!!人の感謝は素直に受け取りなさいよ!!」
「気色悪いモン気色悪いっつって何が悪ぃんだ。そもそも、てめぇからの感謝の気持ちなんざ、これっぽっちも要らねぇわ」
「聞くだけなら別にタダなんだから、受け取っておけばいいでしょ!?」
「あー…そういや明日燃えるゴミだったな」
「何捨てようとしてんのよ!!」
「似たようなもんだろ」

爆豪はそう言うと、ソファのすぐ側に、再び腰を下ろした。人の感謝の気持ちを可燃ごみ扱いするなんて、本当に失礼な男だ。この男は相手の気持ちを考えましょうという、人間としての基本を、義務教育からやり直すべきだ。とはいえ、今そんなことを言ったところで、どうにかなるような問題では無いので、一旦それは置いておこう。

そんなことよりも。

「っていうか、さ…」
「あ?」

起きてしばらく経ったからか、ぼんやりしていた頭が機能を取り戻し、あらゆる記憶が鮮明によみがえってきた。
意識を失う前、微かに聞こえたその言葉は、夢だったのか、それとも現実のそれなのか。自分では全く自信がない。

「やっぱり、なんでもない」
「んだよ。はっきり言えや」
「いや、その……」
「さっさと言え。鬱陶しい」
「……いつから私は、あんたのモンになったわけ」

聞き間違えであって欲しい。そう願う私とは裏腹に、爆豪は少しだけ目を丸くすると、少しの間を置いて口を開いた。

「聞こえてたんか」

コーヒーを一口含み、私とは対照的に、少しも動揺を見せることなく彼はそう聞き返した。あれは聞き間違いでも、夢の中の出来事でもなく、今目の前にいる現実の爆豪本人の言葉であるということが、たった今裏付けられてしまった。

「い、一体なんの冗談なの?あれじゃまるで……私とあんたが、なんか、そういう関係?…みたいに聞こえちゃうじゃない」

恐る恐る私がそう尋ねると、爆豪はその問いに答えることはなく、代わりに盛大なため息を吐いてみせた。

「ちょっと、なんでそこでため息つくのよ…」
「会った時からバカなのは知ってたがよ、ここまで来るといっそ清々しいな」
「はぁ!?」
「聞こえてたんだろ。いちいち聞かずに察しろや」

そう言うと、爆豪は手にしていたカップをテーブルに置き、私が座るソファに座り直した。いつもなら必ず開くはずの一人分の距離が、今はほとんどない。
すると彼は昼と同じように、私の頬に左手を添えてみせた。しかし私を見るその目が、昼間の時とは全然違う。馬鹿にしているわけでも、不機嫌そうにしているわけでもなく、少しずつ大きくなる真っ赤な鋭いその目が、射抜くように私をただ真っ直ぐに見つめているだけだ。そんな彼の視線に、今まで聞いたこともないほどの、大きな心拍音が体の内側に響く。

逸らしたいのに、逸らせない。

そう心で思った瞬間。私は気づいてしまった。彼の目が大きくなったのではなく、爆豪の顔そのものが、私に近づいていることに。

「ば、く」
「黙れ」

低く呟かれたその言葉に、反論する間もなく口を塞がれた。突然唇に触れた柔らかい感触に、すぐ目の前には薄らと開けられた赤い瞳。思ったよりも柔らかなベージュの髪が額に触れ、微かにシャンプーの香りがする。凍ったように動けずにいると、爆豪は私の後頭部にそっと手を回し、私に口付けたまま目を閉じた。
触れる手も、唇も、普段の言動からは想像もつかないほど優しくて、気づいた時には爆豪の背中に腕を回し、彼からのキスを受け入れていた。

「鈍すぎんだよ。バーカ」

ゆっくりと唇が離れると、爆豪はそう言ってニヤリと笑ってみせた。たった今起きた出来事に、自分がそれを受け入れたという事実に、頭の中はパニックだ。そんな私の心を置き去りにして、彼は私から離れると、カップに入ったコーヒーを一気に飲み干して、律儀にそれを片付けた後、何事もなかったかのように、自分の部屋へと戻って行った。


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2021.09.04

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