Every day is a new day


「おい」

ホットケーキの最後の一口を食べようとしたその時、頭上から聞こえた低い声に、反射的に身構えてしまった。

「な、何…っ!?」
「ペットボトルは可燃ゴミに入れんなって、何度言ったら分かんだよ」

空のペットボトルを持ちながら、怪訝そうに私を睨み付けるその顔は、普段通りの爆豪勝己であり、昨夜起きた"あの出来事"は、神様が見せた奇怪な夢だったのではないかと、そんなことを思ってしまった。

「あ、あぁ…うん。ごめん」
「ったく、一体今までどんな生活しとったんだ。この箱入りがよ」

深いため息を吐き、ペットボトルをまとめて入れているらしいゴミ袋にそれを捨て直すと、爆豪はソファにどかっと座り込み、自分のスマホをいじり始めた。食事が終わると大抵自室に戻る彼だが、今朝はなぜかそうする気配がなく、小さなディスプレイをいつもの仏頂面で眺めていた。

「今日の星座占いのコーナー!今日一番運勢がいいのは〜?」

朝食を食べる前になんとなくつけたテレビからは、情報番組の占いコーナーのポップな音楽と、それに合わせた軽快なナレーションが聞こえてきた。仕事がある日のこの時間は、既にもう家を出ていることが多いので、なんだか少し新鮮な気分だ。ちなみに今日、私の星座は7位らしい。なんとも微妙な順位である。まぁもともと占いなんて微塵も興味がないので、それ自体は別にいい。そんなことより。

なんで今日に限って、あんたも休みなのよ…!!

心の中でそう叫んでみるが、当然それを伝えたい相手には届くはずもなく、爆豪は依然としてスマホの画面を見つめたままだった。せめて彼が今日仕事であれば、その間にメッセージなり、書き置きなり、何かを残して部屋を出ていただろうが、休暇で家にいるとあっては、その方法は使えない。昨夜の一件で気まずいとはいえ、本人が家にいるのであれば、何も言わずに部屋を出るというのは、いくら何でも失礼すぎるだろう。

せめて、ちょっとの間でも良いから、どこかに出かけてくれればなぁ…。

「ね、ねぇ」
「あ?」
「その、今日、休みよね…?」
「あぁ」

私のその問いかけに、爆豪は顔をこちらへ向けることなくそう答えた。

「ど、どっか出掛けたら?天気もいいことだし…」
「休みの日に俺がどう過ごそうと、俺の勝手だろ」
「それはまぁ、そうなんだけど…」

叩きつけられた正論に、頭を抱えそうになった。爆豪の言うとおり、彼の休日をどう過ごそうと、それは本人の自由だ。しかしそれならば、もう少し昨日の一件について、何かひと言声をかけるとか、フォローするとか、もう少し然るべき対応があっても良いのではないだろうか。人の唇を無理やり奪っておいて、その翌朝の第一声が「おい」なのも、全然納得がいかないし、こっちの動揺などお構いなしに、彼自身がいたって普段通りに振る舞っていることには、さらに納得がいかない。

もしかしてあれは、新手の嫌がらせの何かだったのかしら…。

ある一つの可能性が浮上し、怒りと似ているようでどこか違う、複雑な心境にかられた。お互いの恋愛遍歴など当然知る由もないが、黙っていればまぁそこそこな見た目だし、少なくとも家の事情で恋愛どころではなかった私より、爆豪の方がそういう経験はきっとあるだろう。彼にとってはもしかすると、キスの一つや二つ、大したことではなかったのかもしれない。あの一件が嫌がらせ目的だとすれば、確かに彼がそれについて何も言及しないことも、振る舞いがいつも通りなのも、まぁ一応筋が通るといえば、通るような。いや、どうなんだろう。だんだん分からなくなってきた。


「荷物の整理は終わったんか」

悶々と思考を巡らせていると、爆豪がふとそう私に尋ねた。向こうからその話題に触れてくれたことは、正直言ってありがたい。この流れで「じゃあさっさと出て行け」と言ってくれれば、心置きなくこの部屋を出て行けるからだ。

「……一応は」
「じゃあ、ちょっとツラ貸せ」
「は?」

予想外の言葉に間の抜けた声を上げると、爆豪はようやく私の方を見たかと思えば、眉間のシワを深めながら、小さく舌打ちをしてみせた。

「な、なんでよ…」
「どうせ暇だろ」

彼はそう言うと、スマホをポケットにしまい、続け様に反対のポケットから取り出した何かを私に投げつけた。咄嗟に手を伸ばしてそれを掴み取ると、握りしめた手の中には、彼が普段持っているこの部屋の鍵があった。

「支度したら来い。俺は先に車行ってる」

もはや彼に付き合うことは決定事項のようで、行くとも行かないとも返答していない私を余所に、爆豪は帽子をさっと被ると、そくささと玄関へ足を進め、静かに部屋を出て行った。

「……何なのよ、一体」

投げ渡された部屋の鍵を見つめながら、彼の行動の真意を考えるも、当然その答えは出ない。そんな私を嘲笑うかのように、少しだけ広くなったような気がするその部屋で、もはや何の役目も果たすことのないテレビの音が、ただ虚しく響いているだけだった。







「ねぇ」

いつものことながら、私はその行き先を告げられていなかった。

「んだよ」
「どこに向かってるの?」
「しつけぇな。行きゃ分かるって言ってんだろ」

心底面倒くさそうに、爆豪はそう吐き捨てた。素直についてくる私もどうかと思うが、急に人様を連れ出しておいて、相変わらず勝手な男である。

まぁ、こいつのことだから、意味のないことはしないんでしょうけど…。

立ち寄ったコンビニで買ったミルクティーを飲みながら、運転する爆豪の方をちらりと見る。よくよく考えてみると、この一週間で随分不思議なことが起きたものだなと思う。お世辞にも友好的な関係とは言えなかった私たちが、成り行きかつ期限つきとはいえ、一緒の部屋で暮らすことになって、こうして車で出かけているというのだから、人生というのは本当に何があるか分からないものだ。まぁ、行き先は聞いてないけど。

「一応、変な勘違いする前に言っとくが」
「変な、勘違い…?」
「てめぇをどっかに連れ込んで、どうこうしようってわけじゃねぇから安心しろや」

その言葉の意味が分からないほど、さすがに私も子供ではなかった。

「○%×$☆♭#▲!?」

しれっと放たれたとんでもない言葉に、飲んでいたミルクティーを思い切り吹き出しそうになった。何とかそれは堪えたものの、変なところに流れ込んでしまったのか、その苦しさにしばらく咽せ返る羽目になり、そんな私に一瞥くれると、爆豪は馬鹿にしたように笑ってみせた。

「ゲホッ、ゴホッ、…っ、ば、バッカじゃないの!?そんなこと、これっぽっちも思ってないわよ!!この変態!!」

ありったけの力を込めて、爆豪の二の腕に平手打ちをくれてやると、さすがの彼もその痛みに顔を歪め、「何しやがんだこのアマ!!」と怒声を放った。

「つーか、運転中に叩くんじゃねぇって言ってんだろうが!!」
「あんたが変なこと言い出すからでしょ!?」
「マジな感じで受け取ってんじゃねぇよ!!アホか!!」

その言葉が放たれた瞬間、先ほどの疑念はやはりそうだったのかと、確信めいたものを抱く。つまりは、お前のことなんかそんなふうに見るわけがねぇだろタコが、勝手に意識してんじゃねぇよというのが、向こうの言い分なわけだ。

何よ。やっぱり嫌がらせだったんじゃない。馬鹿馬鹿しい。っていうか、私のファーストキスを返せ。このクソ野郎。

喉まで出かかった言葉を、急いでそのまま飲み込んだ。あれが人生で初めてのキスだったなんて、死んでもこいつに教えてやるものか。ただでさえ思い出すのも恥ずかしいのに、さらに恥の上塗りなんて、絶対にしてなるものか。

「…なんでそこでダンマリなんだよ」
「別に」
「別にってツラかそれが」
「うるさい黙って話しかけないで。この変態。女の敵。死んじゃえ」
「あ!?」

その後も時折話しかけてきた爆豪に、全て無視を決め込むと、彼は深いため息をつきながら、やれやれといった表情を浮かべた。ため息をつきたいのはこっちの方だし、何ならもう一発張り倒しても、お釣りがくるくらいのことはされている。

「何をどうしたところで、てめぇがブスなのは変わりねぇが、とりあえずガキの前でそのツラすんなよ」
「え?」

前半の失礼極まりない発言はさておき、後半部分の「ガキ」というワードが引っかかり、せっかく無視を決め込んでいたのに、思わず彼の方を見て返事をしてしまった。爆豪はそんな私を余所に、慣れた手つきでハンドルを切ると、目の前にある交差点を左に曲がり、しばらく道なりに進んでいく。道沿いにある他の建物と比べ、かなりの存在感を放つ白い建物があり、そのすぐ脇の駐車場を見つけると、彼は迷うことなくそこへ入り、適当な場所へ車を停めた。

「え、ここって」

建物の雰囲気から、ここが何の施設であるかはなんとなく想像がつき、そしてそれはすぐに確信へと変わった。停められた車の窓から見上げたその先に、"区立総合病院"と書かれた、紺色の文字が見えたからだ。
どうしてここに連れて来られたのだろう。それを聞こうと隣に視線を送るも、いつの間にかそこにいた人物の姿はない。すると助手席の窓をコツコツと叩く音が鳴り、反対側への顔を向けると、そこにはいかにも「さっさと降りろ」と言いだげな表情でこちらを見下ろす、爆豪の姿があった。







「…で。なんで私は、こんなところに連れてこられたわけ?」

ようやくその質問を口にすると、爆豪はスマホをディスプレイを見つめたまま、手に持っていた缶コーヒーを飲んだ。病院独特の薬品の匂いがする待合室は、さすが総合病院というだけあって広々としており、時折通り過ぎる医師や看護師などの職員は、それが良いことなのか悪いことなのか、全員が忙しそうにしているように見えた。

「すぐ分かる。いいから黙って待ってろ」
「……なんかあんたって、いっつもそればっかりよね」
「あ?」
「一人で勝手にどんどん進んでいっちゃうから、なんかムカつく」
「てめぇ、喧嘩売ってんのか」
「後になって、あぁそっか…ってなるけど、それまで何にも言わないんだもの。最初から言ってくれれば、もっとシンプルで分かりやすいのに。絶対それで人間関係損してるわよ。あんた」
「うっせぇわ。実の親と散々拗らせてた奴に言われたかねぇんだよ」
「な、何よっ。それ以外のところだったら、私の方がよっぽど人付き合い上手いじゃない」
「はっ、ただヘラヘラして、愛想振りまいてるだけだろうが」
「振りまく愛想もない奴よりマシでしょ」
「てめっ」
「出来るもんならニコニコしてみなさいよ。ま、無理でしょうけど?」

そう吐き捨てて、逃げるように顔を背けると、次に聞こえてきたのは爆豪の怒声ではなく、病院には少し不釣り合いな、待合室に響き渡るほどの元気な子供の声だった。反射的に声のする方へ顔を向けると、そこに立っていた人物は嬉しそうな表情を浮かべがなら、こちらに向かって大きく手を振り上げた。突然のことに少し理解が遅れたが、その人物には確かに見覚えがあった。火の手が迫るビルの中、大粒の涙をぽろぽろと流していた、あの少年だったのだ。

「君は、昨日の…」

昨日会った時とは違い、満面の笑みでこちらに駆け寄ってくる姿に、思わず顔が綻んだ。無事だと聞かされてはいたが、実際にこうして元気にしているところを見ると、それだけで救われたような気持ちになる。

「ママ、昨日のお姉ちゃんだよ!ヒーローのお姉ちゃん!」

突然駆け出した息子の後を追い、少し足早にやって来たタクヤくんのお母さんは、私と爆豪の姿を見るやいなや、深々と頭を一度下げた。

「お姉ちゃん、なんでここにいるの?」
「え、えっと…それは…」

ここに来た目的を一切聞かされていない私が答えに詰まっていると、そんな様子を黙って見ていた爆豪が、タクヤくんの目線に合わせるようにして屈みながら、「実はな」、と口を開いた。

「この姉ちゃん、頭がちょっとアレでな。診てもらいに来たんだ」
「あんた覚えておきなさいよ」

病院を出たら、絶対に一発殴ってやる。そう固く心に誓いながら、冷ややかにそう言い放つ私を見て、心なしかタクヤくんとお母さんの顔が引きつっていたように見えたが、きっとそれは気のせいだ。







「昨日は、本当にありがとうございました」

安心しているような、どこか申し訳なさそうな、そんな複雑な表情を浮かべながら、タクヤくんのお母さんはもう一度私に頭を下げた。「少し二人で話がしたい」と、そう言われた時は驚いたが、こうしてわざわざ声をかけてもらえたことを、ほんの少しだけ誇らしく思った。

「いえ、そんな…むしろすみませんでした。大口叩いておいて、ちゃんと息子さんを送り届けられずに…」
「とんでもないです。それよりも、敵から息子を庇って、足を怪我されたと伺いましたが…」
「ちゃんと治してもらいましたから、この通りピンピンしてます!」
「なら良かったです…タクヤも私も、少し気になっていたので…」

私の足にちらりと視線を向けながら、彼女はホッとしたような顔を浮かべた。先ほどから申し訳なさそうな顔をしていたのは、きっと私の怪我に対して負い目を感じていたからなのだろう。

「あの、ばく…同期の彼から、タクヤくんは軽傷だと聞かされていたのですが、今日病院にいらしたのは…」
「ここに来たのは、昨日の怪我のことではなく、定期健診で…」
「健診、ですか?」
「実はあの子、赤ちゃんの頃からひどい喘息持ちなんです」

そう言うと、彼女は少し遠くの方へと視線を移した。その視線の先には、中庭の花壇に腰掛けながら、何やら爆豪と楽しそうに話をしているタクヤくんの姿があった。爆豪の方は、相変わらずの仏頂面だが。

「喘息、ですか」
「はい。成長と共に少しずつ症状も軽くなってきてはいるんですが、今もたまに発作が起きることがありまして…。なので、定期的にこちらの病院で健診を受けることにしてるんです」
「そうだったんですね」
「あなたには、本当に感謝しています」
「え?」
「症状が軽くなっているとはいえ、喘息の子にとっては、煙は些細なものであっても、発作を起こす原因になりかねないんです。もしもあなたが助けて下さらなかったら、敵の存在がなかったとしても、あの子は発作を起こして、そのまま動けなくなっていたかもしれません。ですから」

ゆっくりと私の方へ向き直すと、彼女は再び口を開いた。

「息子の命を救っていただき、本当にありがとうございました」

タクヤくんのお母さんは、もう一度深く頭を下げると、「失礼します」と一言だけ残し、中庭にいる息子のもとへと足を進めた。それに気づいたからか、タクヤくんは嬉しそうに母親の元へ駆け寄り、私に向かって大きく手を振った。小さくなっていく二人の姿を眺めていると、それとは反対に、私の方へ向かってくる人物が現れて、いつしか私の視界には、その人物しか見えなくなった。
どうしてなのかは分からない。しかし、その瞬間は不意に訪れた。

あぁ嫌だ。知りたくなかった。

そう思った時には、既に遅かった。彼がここに私を連れて来た理由は、あの親子に会った時から、何となく気づいていた。そして今、私の方へと近づく彼の顔を見て、それが確信に変わった。そして気づいてしまった。

自分が今、誰に対して、どんな感情を持っているのかを、私は理解してしまったのだ。







ひどく動揺している。絶対に気づいてはいけないその感情に、気づいてしまったことに。

部屋に戻り、ここにいる間の寝床でもあり、いつもの定位置でもあるソファに腰掛けた。一方爆豪はというと、今朝とは反対にダイニングの椅子に腰を落とし、何やらパソコンで一人仕事をし始めた。特に何もすることがない私は、リビングのテーブルに無造作に置かれたテレビのリモコンを、朝と同じようになんとなく手に取る。そのまま適当にボタンを押し、適当な番組をつけてみたものの、当然その内容は頭に入るはずもなかった。
何もすることがないのなら、既にまとめた荷物を持って、さっさとこの部屋から立ち去るべきなのだが、先ほど不本意ながら自覚してしまったその感情に、やはり昨日の一件の真意を確かめたい気持ちに駆られてしまったのだ。病院に向かう道中、あれはきっと嫌がらせだったのだろうと一度はそう思ったが、人の気持ちというものは、正面から向き合わなければ、その本質には辿り着けないもので、私はそのことを、もう痛いほどよく分かっている。

そう、痛いほど思い知っている。だけど。

そうは思っていても、やはり実際に確かめるとなると、二の足を踏む。尋ね方は色々あるだろう。たぶん。でもそれを言葉に出すということは、爆豪の返答によっては、私自身が手酷い痛手を負うことになる。しかしこうして黙っていても、状況が何も変わらないことは確定しているわけで。

「ね、ねぇ…!」

咄嗟に口を開くと、パソコンの画面を見ていた爆豪が、驚くほど素直にこちらに顔を向けた。

「んだよ」
「え、えーっと…」

私のことどう思ってるの?なんでキスしたの?私のこと好きなの?…エトセトラ。いざ聞こうとしたいくつかの質問が、どれも口に出すにはハードルが高すぎて、不自然なほどに視線が泳いでいるのは、自分でも気がついている。

いや、無理むりムリ。
だってこれを聞くこと自体、こっちから告白してるようなもんじゃない。

「だから、なんなんだよ」
「あの…お」
「お?」
「お腹空いたんだけど!」
「は?」

私の言葉は予想外のものだったのか、爆豪は珍しくぽかん、とした表情を浮かべた。そして今この瞬間、私は私という人間が、自分で思っているよりもずっと臆病であることを知った。気持ちの上では既に逃げ腰だが、物理的にも逃げ出したい衝動を抑えながら、テレビから聞こえる笑い声が虚しく響くその部屋で、私は爆豪の言葉を待った。

自分の飯くらい自分でどうにかしろ。つーか出てけ。とか、言うんだろうな、たぶん。

「……何が食いてぇんだよ」

爆豪にとって、先ほどの私の言葉は意外なものだったのかもしれないが、耳に届いた彼の言葉は、私にとっても意外すぎるものだった。

「え…」
「だから、何が食いてぇのかって聞いてんだよ」
「えっと…」

適当に口から出たその言葉が、受け入れられるとは夢にも思っていなかったため、返答に詰まる。

「早くしろ」
「…じゃ、じゃあ、シチュー!シチュー食べたい」
「好きだなてめぇ。言っとくが、コーンは入れねぇぞ」
「え、爆豪が作るの?」
「出かけるのめんどくせぇだろ」

作るのもそこそこに面倒くさいと思うのだが、それについては価値観の違いだろうか。

「ウインナーは?」
「入れねぇ」
「えー…」
「文句があんなら食うな」
「食べるけども」

爆豪は軽く舌打ちをすると、座っていたダイニングの椅子から立ち上がって、キッチンの方へと足を進めた。一人暮らしにしてはそこそこ立派な冷蔵庫を開けると、迷いのない動きで材料を取り出し、冷凍保存していた肉のパックを電子レンジに入れた。解凍を待つ間の時間に鍋やまな板など、必要な調理器具を用意して、手始めに玉ねぎの皮むきからシチュー作りに取り掛かった。相変わらず男にしておくのが惜しい、見事な手際の良さである。
全然違う方向へ話が進んでしまったが、結果的に昼食を食べるという、この部屋に留まる目的は出来たというわけだ。とはいえ、料理をしている爆豪に対して、先ほどの質問をぶつけるのもどうかと思い、実はそれとは別に、もう一つ気になっていたことを尋ねてみることにした。

「ねぇ、どうやってあの親子のこと調べたの?あんた最初から知ってたんでしょ?」
「あー…」

まな板の上で一定のリズムで玉ねぎを切りながら、爆豪は何とも締まりのない声を上げた。

「調べたのは俺じゃねぇ」
「え、じゃあ誰が調べたの?」
「所長」
「所長?」
「てめぇが寝とる間に、俺のところに電話がかかってきたんだよ。あの親子のことはそん時に聞いた」
「なんであんたのところにかかってくるわけ?」
「知るか」

タクヤくんが喘息であること、そして彼があの病院で定期検診を受けていて、その受診日がたまたま今日であったこと。どこからそんな情報を入手したのかは分からないそうだが、所長は調べ上げたその情報を、なぜか爆豪と共有していた。

たぶん所長、私が落ち込むって、読んでたんだろうなぁ…。

おそらく爆豪から上がってきた報告を見て、あの親子のことを調べてくれたのだろう。そして本人達から直接感謝の言葉を伝えさせることで、私の自信回復を促そうと、そう考えたわけだ。

「あのオッサン、時間と病院の場所だけ俺に言って、『あとは宜しくね』って電話切りやがって」
「まぁ、割といつもそんな感じよね…あの人は…」

彼を巻き込んだのは、半分がたぶん信頼だ。所長がその意図を告げずとも、爆豪ならそれを汲み取れるであろうという、信頼。残りの半分は、おそらくただの趣味だろうが。
色んな意味で、あの人の思い通りになっているのがちょっと、いや、だいぶ悔しい。

「で。吹っ切れたんかよ」

さっきは「知るか」と言っていたくせに、やはり正しく意図を理解しているであろうその口調に、彼の能力の高さを改めて思い知る。その意図を知っていて、つまりは、それが"私のため"だと分かっていて、あえてそこに時間を割いているその意味を考え、先ほどの疑問がまた湧き上がる。

「まぁ、おかげさまで…」
「そりゃ結構だな」

バカにしたように笑うその顔に、不覚にも少しときめいてしまった。眉間にシワを寄せず、普通にいつもそんなふうにしていれば、もう少しモテるだろうに。そんなことを考えてしまうあたり、いよいよ私も重症だ。

こいつに対して、こんなことを思う日が来るなんて。

行動から察するに、嫌われてはいないのだろう。おそらく。それに加えて、昨日の一件もある。自分の気持ちを自覚してから少し時間が経ち、この一週間の出来事を振り返ると、そう思ってもいい根拠はいくつかあるし、実際に何度かそう思うこともあった。所長の言葉を借りるのであれば、この男が自分にメリットのないことに首を突っ込む理由があるとすれば、それ以外に思い当たる節は今のところ思いつかない。直情的なように見えて、彼は意外と合理的だ。リターンのないものに手間と時間をかけるほど、爆豪勝己という男は、博愛主義者ではない。

勝算はある、と思う。しかし勝負に出れるかどうかは、また別の問題なわけで。

そんなことを考えていると、キッチンの方からいい香りが漂ってきた。まろやかなミルクの優しい香りに、ほんの少しだけ溶け込むガーリックの匂いに、自然と足がダイニングの方へと向かう。さすがは人間の三大欲求である。

「ほらよ」

ゴト、という鈍い音が鳴り、目の前には白い湯気が立ち上がる。

「あ、ありがと…」

スープ皿の脇に添えられたスプーンを手に取り、盛られたシチューをひと掬いすると、最初はよく見えなかったが、黄色い小さな粒が入っているのが見えた。

「あれ。コーン入れないって、言ってたのに」
「思ったより野菜なかったんだよ」
「ふーん…」

不覚にも、またうっかりときめいた。この男が冷蔵庫の中身を把握していないわけはない。実際今朝も、ホットケーキに使う牛乳を出した時、今ここには入っていないブロッコリーがあったのを、確かに見た記憶がある。

「美味しい。ムカつく」
「ひと言余計なんだよ。素直に褒めろ」

味のことじゃないわよ。馬鹿バカばーか。

「あの、さ」
「あ?」

私が好きだとここで言ってみたら、こいつはどんな顔をするんだろう。怒る?困る?それともほんの少しは、照れてみせたりするのだろうか。
知りたい。でも知りたくない。聞きたい。でも聞きたくない。お前は面倒くさい女だと、爆豪はよく私に言う。私はそれをいつも否定するけど、今日はたぶん、彼が正しい。私は面倒くさい女だ。

「やっぱり、なんでもない」

そっちから言ってくれれば、私だって言えるのに。

そんなずるいことを考える私は、世界中の誰から見ても、とても面倒くさい女なのだ。







「私、そろそろ出ようと思うんだけど」

再びパソコンで何か作業をし始めた爆豪にそう話しかけてみると、彼は顔色一つ変えることなく、「そーかよ」と小さく呟くだけだった。もしかしたら引き止められるのではないかという、ほんの僅かな期待は、見事に打ち砕かれた。まぁ、予想はしていたが。

「一週間、どうもお世話になりました」
「きめぇ」

ありきたりな感謝の言葉を告げると、彼はいつものように、無粋な言葉でそれを返上した。

「そう言うと思ったわよ。でも本当に感謝はしてるから、あえて伝えてあげたんじゃない」
「清々しいほどに上から目線だな」
「そっくりそのまま返すわ、その言葉」
「アホか。居候の時点で、てめぇは俺より下なんだよ」
「あーはいはい。そうですねー」
「棒読みしてんじゃねぇよ」

いつもと同じ表情、同じ口調。昨日までは何とも感じなかった、普段通りの彼の言動に、胸の辺りでちくちくと針で刺されるような痛みを感じた。

「じゃあ、改めてですが、お世話になりました」

帰りたくないとそう言えば、あるいは。頭の中で一瞬よぎったけれど、そんなことは出来るはずもない。私は面倒くさい上に、初対面の犯罪者にまで可愛げのなさを忠告された、筋金入りの可愛くない女だ。
来た時よりも、随分重たく感じるスーツケースを引くと、あっという間に玄関に着いてしまう。リビングの方から聞こえるテレビの音が、余計に寂しさを掻き立てて、鼻の奥がツン、とした。ドアの内側の鍵を回し、ドアをゆっくりと前に押すも、それを阻むものは何もない。スーツケースを先に出し、外に出てその扉が閉まると同時に、両目からボロボロと涙が溢れて来て、それを拭おうと、肩にかけたショルダーバックの中に手を入れてみたが、目的のものはそこにはなかった。

ここにいたい。帰りたくない。

女の子は、女の子らしく。母の言っていたことは、やっぱり正しかったのだろうか。自分のアイデンティティを崩壊させかねないようなことを考えてしまうほど、どうやら私は今、ひどく傷ついているらしい。

「引き止めてくれたっていいじゃない…っ。ばくごーのばか…っ」

ドアに向かって、負け惜しみのようにそう呟く。どうせ今頃、うるせぇ奴がいなくなって清々したな、とかそんなことを考えているのだ。いや、ひょっとすると、私のことなど考えることもなく、先ほど進めていた仕事に夢中になっているのだろうか。

「ばかばかばかっ、あほっ、はげっ」

俯きながら感情に任せてそう言うと、次の瞬間、頭にそこそこの衝撃と、鈍い痛みが走った。

「いっ!?」

咄嗟にその場にしゃがみ込み、痛む頭を押さえていると、視界の端に黒い靴が映った。

「誰がハゲだこのアマ」

恐る恐る顔を上げると、ドアを片足で押さえながら深いため息をつき、呆れたように私を見下ろす爆豪の姿があった。

「引き止めて欲しいなら、素直にそう言え。めんどくせぇ女だな」
「だ、だって…っ」
「んだよ」
「『帰れ』って言われると思ったんだもん…!」
「言ってねぇだろ」
「いつもは…すぐ出てけって言うもん」
「今日は言ってねぇわ」
「そんなの知らないよ…!」

泣きながらそう言うと、彼はしゃがみ込む私の腕を掴み、ぐいっと身体を引っ張り上げた。

「あー…めんどくせ」

私の腕を掴んだまま、爆豪は気怠そうにそう口にすると、勢いよくもう一度腕を引いて、自分の部屋に私を引き入れた。混乱する私を余所に、彼は私の肩を掴み、今閉ざされたばかりの玄関の扉に私を追いやって、じっと私を見下ろした。射抜くように私を見るその目は、これで二度目だ。少し怖いくらい真っ直ぐな視線とは裏腹に、頬にそっと左手が添えられて、ゆっくりと近づいてくるその顔に、自分が何をされるのかを悟った。

「ちょ、ばく」
「うるせぇ」

突然のことにパニックになっていた昨日とは違い、明確にその行為の行き着く先が分かっている分、余計に恥ずかしくなる。どんどん近くなるお互いの距離に、ドクドクと心臓が鳴り、息をするのも苦しい。昨日の私は、一体これをどうやって受け入れていたのだろう。

というか、普通にキスするみたいな流れになってるけど、肝心な"その言葉"を私は結局聞いていない。

「や、やだ…っ」

両手が自由だったのは幸いだ。あと数センチで咄嗟に肩にかけていた鞄で顔を隠すと、爆豪の口からくぐもった声が漏れた。

「……何しやがる」
「だ、だって!まだ言われてないから!」
「あ?」
「爆豪は、私のこと、好きなの…?」

ここに来て、爆豪が初めて少しだけ困ったような顔をしてみせた。いつもなら打てば響くように返ってくるほど、それなりの語彙力を持つこの男が、言葉に詰まるのはかなり珍しい。

「……そんなん、言わなくても分かんだろ」
「分かんない」
「ガキかてめぇは」
「ガキで結構です」

子供っぽいことを言っている自覚はある。今こうして私がここにいて、彼がしようとしていることを考えれば、先ほどの質問に対する答えは、もう出ている。それでも言葉が欲しいと思うのは、私のわがままなのだろうか。

「ちゃんと言ってくれなきゃ、私には分からない」

もう一度そう呟くと、爆豪は小さくため息をついた。鞄で顔を隠しているので、その表情は見えないが、ハタチも越えた女が何を言っているんだと、きっと呆れられたのだろう。

「ごめん。やっぱり、今の」
「なまえ」

忘れて。そう言いかけようとした時、その低い声が、初めて私の名前を呼んだ。心臓が止まってしまいそうなほど驚いて、手にしていた鞄が元の位置に落ちる。視界が開け、私の目線より少し高い場所に、いかにも不服そうな爆豪の顔があった。彼は私と目が合うと、盛大な舌打ちを一つ落とすも、ゆっくりとその口を開いてみせた。

「…きだ」
「え?」
「だから…!好きだっつってんだろ!!一回で聞き取れや!!」

言えと言ったのは自分なのに、身体のあちこちがむずむずした。何だろう。すごく居た堪れない。名前をつけるとしたら、これは「両思い」というやつなのだろうが、このふわふわした空気が、ものすごく居た堪れない。

「……黙ってんじゃねぇぞ」
「あ、はい。すみません」
「なんだその口調はよ」
「いや、本当に言うと思わなくて…」
「てめぇが言えっつったんだろうが!!」

私を怒鳴りつけると、爆豪は肩を落としながら少し長めに息を吐いた。

「あ、あの」
「これで満足だろ」

彼はそう言うと、今度は私の両腕を掴んで、ドアに軽く押し付けた。両手の自由を奪われた上、元より後ろには逃げ場がない。爆豪はもう一度顔を近づけると、私の顔をじっと覗き込むようにして、自分の額を私のそれに軽く押し当てた。

「ねぇ」
「あ?」

このままキスをしてもいい。でもやっぱり、これを言わないのは、フェアじゃない気がするの。

「……好き」
「知っとるわ」

さらに近づくその顔に、そっと目を閉じると、すぐに唇に柔らかいものが触れた。腕を掴んでいた彼の両手は、私の頬に添えられて、自由になった私の腕は、彼の背中に自然と回された。ちゅ、ちゅ、と角度を変えながら何度か口付けられると、少しずつ力が抜けていって、そんな私の不甲斐ない様子に気づいたのか、爆豪は片方の腕を私の腰に回して抱き寄せると、最後に少しだけ長く口付けて、ゆっくりと私の身体を離した。

「そういう顔も出来んだな」
「……うるさい。見るな」

恥ずかしさのあまり顔を両手で覆い隠すと、彼は吹き出したように笑いながら、私の頭をぽん、と軽く数回叩いた。まるで小さな子供をあやすような振る舞いに、ほんのちょっぴり悔しさが滲む。

「ちょっと待ってろ」
「え?」

爆豪はそう言い残すと、足早にリビングの方へと消えて行った。訳が分からずそのままそこに立ち尽くしていると、およそ1分も経たないうちに、いつもの外出用の帽子を被り、もう一度玄関に戻って来た。

「えっと…出かけるの?」
「あぁ。お前、印鑑と身分証明は、さすがに持ってんな?」
「まぁ、持ってるけど…そんなもの何に使うの?」

純粋な疑問を口にすると、爆豪は心底呆れたような顔をしてから、今日一番のため息をついた。

「やっぱりてめぇはバカなんだな」
「はぁ!?」
「解約しなきゃなんねぇだろうが。前んとこ」

爆豪はしれっとそう口にすると、玄関の扉を開けて、私に外に出るように促した。彼は私と入れ替えるように、外に置き去りにしたままのスーツケースを部屋に入れてから、手早く部屋の鍵を締めた。その光景はだいぶ見慣れたものだが、ほんの少し先の未来で、私はいつもと違う彼を知ることになる。

「おら行くぞ。居候」

不躾な言葉とは裏腹に、とても優しく。彼の骨張った大きな手が、そっと私を引き寄せるまで、あと少し。



HAPPY END


−−−−−−−−−−

2021.10.06

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