京都姉妹校との交流会。
交流会と言えば聞こえは良いが、実際には殺し以外なら何をしてもかまわない模擬的な呪霊の討伐戦である。教員の監視のもとではあるが本物の呪霊が敷地内へと放たれ、索敵に始まる戦闘は現場でやることと変わりない。そこに人間の思惑がどう影響するかは別として、にはなるが。
生徒同士が競い合う呪霊討伐戦は想定外の襲撃を受け一時的に中断を余儀なくされた。
実際の呪霊が敷地内へと放出される模擬討伐戦から、特級呪霊が二体も、加えて呪詛師も来襲してきたのだ。予想だにしない討伐実践への転身である。各々が腹に何を抱えども味方なのだ、敵の掃討を第一優先とするのは決まりきっていた。
急襲は嵐だった。
荒く吹き荒れる風が我が物顔で多くのものを破壊していくように、交流会の参加者だけではなく、高専内の職員にも犠牲者が出た。そこに非戦闘員への配慮はない。
被害は人的なものに留まらない。厳重に保管されていたにも関わらず呆気なく強奪された呪物もある。
ゼロとは言えない被害は、しかしながら相手の悪さを考慮すればずっと少ないものだった。
最強のカード五条悟が使えない状況だった。限られた手札はけして弱くない。東京校学長も京都校学長も実力は折り紙付き、引率の教員や雇われの監視員とて半端な腕はしていない。
高専内の職員も非戦闘員を含めども本拠地たる場所で働く者たちだ、当然緊急時において無能であるはずがない。真人という特級呪霊を相手とることになった職員たちは、敵わない相手に戦略的撤退、英断からの外部への救助要請という判断が早かった。
呪術師にとっての本拠地と呼ぶに相応しい設備と役割機能が整った場所である。外敵からの襲撃への対応は優先事項だ。最優先とされた救援要請のおかげで、校内に残る呪霊の掃討や建築物の修復を含め後処理はスムーズに済んだ。
怪我人の治療には反転術式を他者に用いることができる家入もいる。全体が回復するまではそう長くなかった。
奮闘によって最小限に抑えられたであろう被害は、ただし犠牲がなかったことと同義ではない。来週の爪痕が色濃く残る空気に、あわや中止になるかとも思われた交流会であったが、学生の熱望により続行が決定される。
では交流戦の内容をどうするか。
盛り上がりに欠けつつも淡々と続行に意見が重ねられている最中、様子を眺めていた五条の懐で電子音が鳴った。新たな交流会の内容を熱く語る話声を背景に、スマホに出てみれば、伝えられた言葉に五条は教え子の名を呼んだ。
「悠仁」
軽い手招きとともに「お姉さん、目が覚めたって」と告げると、悠仁は一も二もなく駆け出した。
ベッドサイドに腰掛けた悠里は、ひどく思いつめた表情をしていた。
動く姿を見て泣きそうになっていた悠仁は、涙が引っ込むくらい驚いて、慌てて傍に寄った。痛いところはないかと尋ねると「ない」と答えるし、息苦しいのかと尋ねても「違う」と答える。
だったら何があったんだと問おうとして、
「ばっかじゃないの?!」
湿った声音で浴びせられた口舌に、
(ああ、聞いたんだな)
悠仁は理解した。
呪いのことも、両面宿儺のことも、悠仁こそが渦中に身を置く騒動を、悠里に知られたんだと理解した。
「悠仁は悪くない」
事情を知っての断言だとすれば、それは盲目染みた優しさだった。
思いやりとは反対に強張った身体を抱きしめれば、鼻につく消毒液と、それから命の匂いがする。
「なのに、ねえ、なんで?」
抱え込むように両腕を背に回せば、
弱い力で胸元を叩かれる。
「どうして悠仁が戦わなくちゃいけないの?」
抵抗にも満たない動きに、
今度こそ生きているのだと感じさせられる。
「どうして悠仁が死ななきゃいけないの?」
紡がれた言葉は悠仁を思ったものに他ならなくて、ただただ、悠里が帰ってきたんだなあと、落ちた心が明るく浮かんでくる。
「悠里」
と、悠仁は家族の名を呼んだ。
悲しい思いをさせる。辛い思いをさせる。分かっていて、決めたことだ。
悠仁にしかできないことだった。後悔はしたくないからと、祖父の遺言であること以上に、自らの心が決めさせた選択だった。
(でも、……――)
今だけは。
「痛いのなんて嫌いだ」
「うん」
縋っても。
「悲しいのも、辛いのも、寂しいのも、情けないのも、……本当は、全部嫌なんだ」
「うん」
甘えても。
「許されたい」
「うん」
そんでもって。
「……いきたい」
まだ、もう少しだけ。
ううん。もっと、たくさん。
もしも誰にも望まれなくたって。
「もっと、ずっと、生きて、たいなあ……!」
そうして、腹の底からの本音を許されたのなら。
矛盾した心の在り処を否定されなかったのなら。
「でも俺にしか出来ないっていうなら、俺は、俺自身の意思で成し遂げたいって思うよ」
実行はされなくても、誰かに肯定してもらうことができたのなら。
――悠仁はこの先の未来も、きっと生きていける。
たとえ両面宿儺の器としての側面を持って、地獄への道を歩むことになるのだとしても。
(……でも、一人は寂しい)
悠仁がいなくても世界が回るように、友人である伏黒や釘崎だって前を向いて歩いていけるのだ。良いものではない思いを飲み込んで生きていくことは薄情さではなく、紛うことなく強さである。
それでも寂しいものは寂しい。
悠仁のことを大切にしてくれる悠里だって、本当はひとりで生きていけるのだ。悠仁とともに生きてくれることは、けれど悠仁以外の人のために生きていけないことと、けして同じ意味ではない。
だから。
「あのさ、悠里……――」
ぐずぐずと鼻を啜ると、じわじわと視界が滲んだ。
小さな身体をぎゅうぎゅうと抱きしめると、やっぱりとても温かかった。
「悠仁」
と、悠里は家族の名を呼んだ。
少し身動ぎするだけで、背中に回された両腕からはするりと抜けられた。すぐに解けるほど優しい拘束は、温かな性根をそのままに象徴しているようで、残酷な道を歩まされてなお誠心を失わない真っすぐさに泣きたくなる。
幸せであってほしいと願いながら、けれど未来を思えばこそ、悠里はその柔らかな心を刃で切りつける覚悟がある。
「怪異、……じゃなかった。呪いというものが、普通に生きてたら見えないはずだってことは知ってた。黙っていたけどずっと前から知ってた」
呪いのこと。
「色々あって吉野君にも簡単に説明を受けたよ。何事かと思った」
両面宿儺のこと。
「あとは……さっきの保険の先生、なのかな? 女の人から悠仁の事情についても伝えられた」
虎杖悠仁の身に起きたこと。
架空の物語として、あくまでも知識としては知っていた。
今回は関係者から
正しい説明を受け、生々しい現実が五臓六腑を焼いていくようだった。
(知っていたのに)
何もできなかった。悠仁以外の悲劇を見捨てておいて、なのにたったひとりすらも救えなかった。
戦う力はなかった。悠仁のような天性の身体能力はなく、多少人より体が頑丈なだけで、最低限の肉の盾にもなれそうになかった。
自分に呪いを祓う力がないなら、そもそも両面宿儺の指を取り込ませなければいい。そう思って、小さな頃から拾い食いをしないだの自分を優先することだのを、言い付けのように言葉にしてきた。結果は言うまでもない。悠仁は呪いを飲み込んだし、自分以外の誰かを優先した。
誰も悪くはない。悠里は運命の強制力とも呼べる予定調和に勝てなかった、ただそれだけのことだ。
(知っていて邪魔もできなかった。だから、……こんなにもこわい)
大切なひとが、明日にでも死ぬかもしれない。
こわかった。何もできなかった自分が惨めで、途方もなく情けなくて、そのせいで家族を喪うかもしれない。かつて自らを襲った絶望よりも、無力よりも、悲嘆よりも、自棄よりも、ずっとずっとこわくて仕方なかった。
だからせめて、地獄への切符を片手に歩く悠仁に向けて言葉にする。
「ありとあらゆる存在が悠仁を狙うように」
同時に、
「たぶん私も狙われる」
悠里が狙われてひどい目に遭いでもすれば、悠仁が傷付いてしまう。
自惚れではなく、大切にされているという自覚があるからこその思考だった。身体だけではない。悠仁の心を守るためには、悠里とて自らを守らなければならなかった。
どうして「悠里が狙われるんだよ?」と悠仁が尋ねたから、なぜなら「私が悠仁の家族だからだよ」と悠里が答える。
「呪いを飲み込んだ悠仁はさ、千年に一度の逸材なんだって聞いた。普通の人なら死んでしまうような代物を飲み込んで、なのに無事に生きてて、だからこその執行猶予つきの死刑だって……。しかもその呪いは? 界隈で王とも呼ばれるような凶悪なもので?」
その血縁者ともくれば結果は火を見るよりも明らかだ。
「利用価値なんて腐るほどある。喉から手が出るほど欲しいと思うよ」
なにせ悠里は望むが望むまいが、虎杖悠仁の弱点である。しかも虎杖悠仁よりはるかに弱い存在で、邪魔さえ入らなければ捕獲にも手間取らない。
「悠仁は私が人質にでも取られたら何が何でも助けたいと思ってくれるでしょ? 逆の立場でもそう、私だって悠仁のことを助けたいと思うけど。私の命を盾に取って言うこと聞かそうとしたりとか?」
手中に収めればどうとでもなるのだ。脅迫で命令に従わせることができるなら一番手っ取り早い。あとは。
「母胎としての役割とかかなあ」
「ぼたい……」
説明を受ける際に、簡単にではあるが呪術界のことも説明された。
呪いを祓う特別な才能を術式と呼び、その才能欲しさに無理も無茶も通すような、あまつさえまかり通ってしまう世界があることも。悠仁が巻き込まれて命の危機に、しかも級友さえも絡めとってしまったことも。
今も昔も権謀術数渦巻くようなところで生きてきたわけではないが、残念ながら悠里は無垢な子どもではない。良識はある、ただし情緒は大きなお友達だ。おそらく普通に生活していれば想像もできないような、けれどその道にとってはありふれた選択肢のひとつとして、数多くの最悪の未来を考え付くことができる。
心躍らせた架空の物語としての知識。
史実に残る絢爛な生活の裏側の知識。
この世界に生まれたからこその知識。
どこで得ようが知識は知識だ。自分が持ち得る前世過去今生現在のすべてを混ぜ合わせて総合的に考えてみる。
「千年に一度の逸材足る人間の縁者、だから生まれてくる子もまた同じではないか、ってね。そうなると相手は呪術師のお偉いさんとか? 悠仁の手綱が取れる家の的な? 他は純粋に能力とか? 遺伝子組み換えの要領で優良と優良の掛け合わせで最優が生まれるかもしれない、みたいな」
「そんなのおかしいだろ?! 強制されることじゃない……!」
「意志ある少年少女より、自分のこともままならない赤子を教育するほうがよっぽど勝手が良いように育てられるだろうからね。もしくは、……――悠仁と生せなんて選択肢もあるかもしれないよ」
「……姉弟なのに?」
「血の繋がりがあるからこそ、だろうね」
より強力に、より強固に、同じものを混ぜ合わせて、純粋な濃いものを作り出す。
それはそれとして「未来は枝分かれする」のである。
「命乞いする間もなく殺される未来
「利用価値を見出されて攫われる未来
「攫われた先で洗脳される人質として取られて脅迫の道具にされる未来
「情報を聞き絞ろうと拷問にかけられる未来
「どさくさに紛れてお偉いさんに殺される未来
「望まぬ結婚に望まぬ妊娠、果ては望まぬ出産を強制される未来
「監禁されて永遠に日の目を見られない生活を送る未来
「虎杖悠仁の血縁者として死刑される未来」
あるかもしれない可能性を語る声音は、事実確認のための書類を読み上げるように淡々としていた。列挙される未来は希望に満ちたものではなく、反吐が出るほど陰鬱としている。
何も知らないふりをして。
何もかもなかったことにして。
そうして逃げてしまえればどれほど良かったことか。温かな優しい手を握り締めて、どこか遠くの場所に隠れてしまえればどんなに良かったことか。
本当はこうして生きていることだって怖い。
「未来を思うと足が竦む」
痛いのは嫌いだ。怖いのも嫌。
恐ろしいものからは逃げたいし、危険からはなるべく離れておきたい。
「でもね」
そういう見たくない側面も全部ひっくるめて、――傍にいたいと思った。
他の誰でもない、悠里の心を掬い上げた悠仁の傍から、何が起ころうとも離れがたいと、そう思ったのだ。
たとえば心ときめかせた物語のなかに迷い込んだとして。
たとえばそれが血沸き肉躍る物語であったのだとして。
――一般人から変わることないままであれば、いったい何ができるのだろう。
喧嘩の作法は知らない。刃物はカッターや鋏、あとは包丁くらいのものが、普通の用途として扱えるだけ。銃火器は本やテレビで見たことのある程度の知識。霊視ができるわけでもなし、お祓いだのお清めだの言葉として知っているぐらいだ。
なのに肩を並べて一緒に戦う?
ある日特別な力が手に入る?
そんなのは無理だ。そんなのは嘘だ。
特殊能力に恵まれるのが当然だとしたらどうして悠里は持つ側ではなかったというのだ。
確かに人間は与えられた環境に適応性を持つし、才能のある人間だって存在する。でも万能ではない。
クラス替えのとき、新しい顔ぶれのなかに馴染めるか心配だった。一人暮らしになったとき、出迎えてくれる誰かがいないのが寂しかった。働き始めた部署で仕事に慣れてきたと思った途端移動になったとき、いちから始める仕事と人間関係に不安になった。
日常にあり溢れたそれらを、ちっぽけな悲観だと笑いたければ笑えばいい。
臆病者と指さされてもいい。
だけど、ただでさえこんなのにも怖いのに。
新たな環境が世界を跨いだものだったなら、価値観も常識も違う世界に放り込まれたものだったのならば、きっと悲観は――絶望に姿を変えることだろう。少なくとも自分にとって、死と隣り合わせの世界に生まれ目覚めたことは絶望でしかなかった。
前世に惑い、絶望の海に溺れて自分を見失っていた■■■を、悠仁が引き上げてくれた。
名前を呼んでくれたときの凍りついた心が溶けたような。
手を引いてくれたときの空っぽな心が満たされたような。
抱きしめてくれたときの雁字搦めな心が解かれたような。
心に響くどんな物語よりも優しかった体温を、生涯忘れることはない。
希薄だった存在を生かすのは、もしかしたら悠仁でなくたって良かったのかもしれない。名前を呼ぶのも、手を引いてくれるのも、抱きしめてくれるのも、与えてくれたのが別の人間であったのなら、ひょっとしたら悠里が慕う相手は違ったのかもしれない。しかし悠里を助けたのは他の誰でもなく悠仁だった。その事実だけは、――未来永劫変わることはない。
偽りでもいい。存在しない記憶だってかまわない。
植え付けられた過去で良かった。刷り込みの優しさだって良かった。
物語でしかなかった現実で。
たったひとり、悠仁だけが。
――絶望に満ちた悠里の世界に春をもたらしてくれた。
寂しさに凍える悠里に、温かな光が差し込む世界を教えてくれた。理解も受容も何もかも諦めていた物語のようだった現実で、生きていてもいいと思わせてくれた。
それだけで良かった。それだけで、確かに悠里は救われたのだ。
だからこそ。
たったひとりで、死なせなどしない。
「ねえ、悠仁」
大勢に囲まれて死ね、と祖父は言い遺した。
物騒な言葉の裏には悠仁が寂しくないように、という願いがあったのだと思う。結局は悠仁の命を脅かす事態を招いた要因のひとつになった遺言に、恨みさえ覚えることもあるけれど。
こう死んでほしいという願いは、こう生きてほしいという願いと同義だ。
きっと祖父は悠仁に幸せになってほしかったのだろう。生きて、普通の生活を営んで、ご近所さんに可愛がられて、たぶんそんな穏やかな日常のなかで幸福を手にしてほしかったのだ。
(なのにひとりで地獄への道を歩ませるなんて、……――)
してたまるものか。
認めてはなるものか。
しがみついてでも、みっともなく駄々を捏ねても、悠仁が生きることを諦めてたまるものか。
「言っとくけど、私は弱いからね?」
胸を張って。
そう宣言する。
「風が吹けば飛ぶような
手弱女とは言わないけど、悠仁みたいな身体能力はないし。私を殺そうとした人の形をした呪霊にだってこんな状態だし」
人より多少頑丈ではあるかもしれない。
無駄に知識と記憶がある分、精神もそれなりに図太いほうだろう。
しかしながら肩を並べて前線で戦うことはできず、悠仁の身に宿った呪いの王を祓うこともできない。呪いと相対するには、どう逆立ちしたって「弱い」の単語で終わってしまうのだ。
それでも。
「傍にいることはできるよ」
いついかなるときも、なんて非現実的なことは望まない。
だって悠仁には仲間がいるし、もたれ掛かることのできる大人がいる。もしかしたら。修羅の道を往くと決めた悠仁には、悠里がいることこそが重荷になるかもしれない。どころか必要のもないものなのかもしれない。
だからこれは悠里の我儘だ。
呪術師としての帰る場所が高専であるのなら。呪術師としての頼る場所が友人や先生であるのなら。
(おこがましいのかもしれないけど)
疲れたときとか、もう何もかも嫌になったときとか。そんなときに、ふと立ち寄る場所になるくらいはできるんじゃないだろうか。
家族として子どもに戻れる場所が自分であればいい、と心の底から願った。
「悠仁、おかえり」
両腕の檻から抜け出た小さな身体で、なのに今度は悠仁を抱きしめるのだ。
胸元に埋まるように頭を預けると、悠仁より一回り二回りも小さな手が、労わるようにゆっくりと撫でた。瞼を閉じると、肉と骨越しに心臓の音がするのがよく聞こえた。それがあまりにも心地良くて、なんだか震えそうになる。
そうして。
傍にいると言った口で。
「頑張ったね」
すぐにそうやって甘やかすから。
「偉かったね」
すぐにそうやって許すから。
やわっこい温もりは、何物にも代えがたくなるのだ。
長く触れることのなかった家族だ。本当に存在するのかが不安になって、抱き着いた腕に思わず力がこもった。確かな感触に命があるのを感じて、込み上げてくるものがある。
失いたくない。
奪われたくない。
代替品のない、たったひとり残された家族。もしも血の繋がった家族でなくたって、これほどまでに心を砕かれ、溢れるほどの思いやりを注がれたのなら、誰だって他人事ではなくなるはずだ。
なのに優しいはずのそのひとは。
悠仁の縁者というだけで穏やかな幸せを望めないのだと言う。
生きたいように生きられない歯痒さを宿儺の器になってから知った。溺れるよりも息苦しくて、火傷よりもじわじわと鈍く痛むような、そんな不可視の束縛だ。反省はしても、後悔はあっても、自分で決めたことだ。周囲を巻き込んだことだけは後悔しているけれど、自らの選択に今さら意義を唱えることはない。
纏わりつく重苦しくて仕方ない枷ですら、器用な悠里であれば折り合いをつけて生きていけるのだろう、と悠仁は思う。
でも、嫌だ。
だって不条理を押し付けられるべきひとじゃない。
器用に生きられるのと、不自由を強いられるのとは違うからなおのこと。それに窮屈なのを悠里は好かない。寂しがり屋なくせに束縛が嫌いで、あと理不尽に対してけっこう怒る。
そんな悠里が、だ。
最悪な未来の可能を、顔色ひとつ変えず、声音ひとつ震わせず語った。
他でもない悠仁のためだった。
悠仁のことなんて、面倒事を引き連れて来たのだと気付いたはじめの瞬間に、さっさと見捨てておけば良かったのだ。そうすればこんなことにならなかったし、少なくともこれから先の平穏を、表面上であったとしても享受することができたのに。
(悠里のバカ、アホ、ワガママ)
胸の内で、小さく呟いてみる。
届くことのない訴えは本心で、けれど憎まれ口以上に。
(なんで巻き込まれるのわかっててノコノコ近寄ってきたのさ。しかもそんな前から知ってたんなら言ってくれれば良かったんだ。……と言うか、とっとと縁でも切れば良かったんだ)
救いようがないのは、嬉しいと感じてしまった自分だ。
悠仁のせいで自由に生きることができないのなら。自由を手放すほどに悠仁のことを大事に思ってくれているのなら。
おずおずと、悠仁は願いを口にした。
「俺のために死んでくれる?」
そんな言葉を。
虎杖悠仁という人間から聞くことになるとは。
子どもの願いというにはひどく残酷なようで、けれど悠仁のひととなりを知る悠里にとって、それはどんな望みよりも尊かった。
他の者ばかりを優先するひと。
自らをないがしろにするひと。
自己犠牲の自覚すらない優しいひとが望んだ、自分自身のための願いを、どれほど聞きたかったことだろう。
嬉しかった。別に悠仁が聖人であるとは思わないが、他人のことを慮ることに長けた子で、そんな面を目の当たりにするたびに歯痒かったから。本当に、本当に嬉しかったのだ。
何か言いたいのに。唇が震えて小さく息がこぼれるだけで、喉の奥がつっかえて音にもならなかった。
筆舌しがたいこの感情を、なんと呼べばいいのかわからない。
(だけど)
嗚呼。
きっと、私。
許されるなら。
「――……うん」
ずっと前から、あなたに。
自分自身のためだけの願いを。
そうやって口にしてほしかった。
「お疲れサマンサー!」
家族水入らずな空間に明るい声が入り込んだ。
場所に馴染みはないのだが、一息抜けたところに飛んできた賑やかな声に、つい立ち上がる。
「二度目ましてだね、虎杖悠里」
いつぞや宮城の実家を訪れた怪しい格好をした教師だった。
正体が凄腕の呪術師であろうが悠里にとっては家族を連れ去った人間である。悠仁の決めたことであると知っていても、あるいは必然という予定調和であるのだとしても、荒ぶる心境は複雑だった。
「五条先生、……でしたよね」
「覚えてくれてて安心したよ。僕みたいな人なんて知りません、なーんて言われるかと思ってた」
なにせ初対面にて宗教家扱いだしね。
ちくちくと恨みがましく続けられるセリフは聞かなかったことにする。
悠里とて必死だった。うら若き乙女の情緒を汲み取って不問にしてほしいものである。
「お世話になっていますから」
「礼儀正しい子は嫌いじゃないよ。若いのにしっかりしてるね」
「それほどでもありません」
事実なまじ社会人としての常識を知識として抱えているのであるのだから、むしろこの程度のことはできて当然だった。先のお帰りください出口はあちらです宗教家、なやり取りのほうが無礼だったのである。
煽ったことに反省はするが後悔はしていない。持たざる者のささやかな仕返しは許されてしかるべきだろう。
「……悠仁ともども、お世話になっていますから」
感謝の言葉とともに頭を下げた。
ちょっとばかし大人気なかった実家での対応への謝罪と、これまでの安全な日常のために手を尽くしてくれたことへの、正式な礼だった。
両面宿儺を宿した者の縁者として送るには過ぎたる平穏な生活に、誰かの手が回されていないはずがない。
利用価値だけは万金に値する悠里が穏やかに暮らせていたのは、きっとそうであれと願った悠仁のおかげで。同時に、悠仁の優しい願いを実行に移した者がいることは、少し考えればわかることだった。
(重鎮だとかいうお偉いさんなわけがない)
むしろ積極的に取り込もうとする側だろう。もしくは殺されてもおかしくない。
(そもそも
呪霊を見かける機会が少なくなったことだって、無関係と考えるほうが無理な話)
悠仁が宮城を離れてから呪霊の気配が極端に減った。
本来であれば不可視である存在を、
周囲に併せて見えないふりをするのは、いくら理解があろうと疲れるものだ。常日頃から感じていた煩わしさがあのタイミングで消えたのだ、手が回されたと思うほうが妥当だろう。
(だとすれば、……――)
呪いを知り、両面宿儺を知り、虎杖悠仁を知り、――そして、上層部を黙らせるだけの権力を持つ存在――それは五条悟において他にいないだろう。
もう一度、悠里は「本当にありがとうございます」と深く頭を下げた。
ノック同時に入室。
それとお決まりの挨拶。
訪問者の存在に気付いた途端、立ち上がって家族の担任に挨拶する、――と見せかけて悠仁を自らの背の後ろに庇った――虎杖悠里の姿があまりにも自然で、目隠しの下で五条は目を眇めた。
(守る動作、か。警戒されてるね)
しかも、あの悠仁が守られる立場に甘んじている。
(これが日常だったのかねえ)
弟を守る姉と言えば聞こえはいいかもしれないが、強さはまったくもって逆だ。悠仁のほうがはるかに強い。にも関わらず違和感がないのは、つまりそういうことなのだろう。
だからこそ厄介だった。
扉越しに本人が言った通り虎杖悠里の身には利用価値が有り余る。悠仁の弱点として、才能を孕むための母胎として、胸糞悪いがあまりにも優秀だった。まさに飛んで火に入る夏の虫。その身が焼かれるものと知ってなお家族の傍にあると決めたのだから、もう説得のしようもない。
無知を装って家族を送り出すしかなかった少女は、今度こそ世界の裏側に浸ることになってしまった。
一般人が普通の生活を捨てる覚悟を、生まれからして特別であった五条には想像もつかなかった。ただ思うことがあるのだとすれば、家族と呼ばれる繋がりは己が命すら懸けられるものなのか、という疑問である。
目の前で崩れることのない笑みを浮かべた少女を見る。
その後ろでばつの悪そうな表情を浮かべた少年を見る。
五条の持つ言葉では形容のしがたい光景に、ほんの少しだけ、心臓が柔らかく絞られるような感覚がする。それはいつかの日に顔を見に行った子どもが、自らの選択によって家族の未来がどうなるかを問うたときの感覚に似ている気がした。
悠仁ともども、と少女は言った。
五条が宮城での生活に手をまわした関係者であることに勘付いている。悠仁が関わった時点で無関係ではいられないと踏んで、さらに自分には値千金の価値があると知って、それでも――優しい家族の願う通りにそ知らぬふりをして生きていたのなら。
「……厄介なことで」
舌のうえで転がした呟きとは裏腹に、五条の口元はゆるく弧を描いて歪んだ。
部屋を訪ねたのは、なにも五条だけではない。
東京校学園長である夜蛾正道、そして京都校学園長である楽巖寺嘉伸も同じく訪問者だった。柔の雰囲気を纏うのが五条であれば、剛の雰囲気を纏うのが夜蛾と楽巖寺である。五条がお喋りをやめれば自然と沈黙が広がり、場の空気が重々しいものに変わる。
息を呑む音も響く静寂を破ったのは自分の名前だった
「虎杖悠里」
楽巖寺の低い呼び掛けは叱咤のようだった。
何を言われるのだろうか。虎杖悠仁の処刑派筆頭であるのなら、その縁者である悠里の存在とて面白くないものに違いない。正直なところ、心当たりがあり過ぎて胃がキリキリとしてくる。
鋭い視線にたじろぎそうになるのを、意地で誤魔化して、笑みを絶やすことを忘れない。ただし反抗的な態度をとるのは得策ではないのもわかっている。嫌味にならない程度の応対をするべきで。
でも。
「コレが何か知っての先の発言か。呪いの王、両面宿儺の器の――」
「違います」
黙っては、いられなかった。
冷たい言葉が無遠慮に逆鱗へと触れて、震えがおさまりそうもない。
「私の弟は
これなんて呼ばれる存在なんかじゃありません。両面宿儺の器なんて名前でもありません」
怒り。悲しみ。屈辱。哀れみ。拒絶。
全身に流れる血液が熱くなって、隅々までを駆け巡るような、激情。
「私の家族の、……――」
否、そうではない。家族ではある。
けれど、それ以上に。
「虎杖悠仁です」
優しい人間で。
真っ直ぐな人間で。
正しくあろうとする人間で。
どこにでもいるようなはずの人間で。
虎杖悠仁という人間は、どこまでも人間であるのだから。