思うこと
母は美しかった。
容姿の話ではない。在り方の話だ。
困った人がいたら見捨ててはおけない、生粋のお人よし。その反面で強かな顔も併せ持ち、他人に何を言われても流されず、どんな手を使ってでも自らの意思を貫き通す面があった。あとは見事なまでの巻き込まれ体質だろうか。何かと面倒事に引きずり込まれては、けれどお湯で氷を溶かすみたいに問題事を解決してしまって、いつの間にか輪の中心で笑っている。
台風の目のなかに飛び込んだ、太陽のような人。
そんな母のことが大好きだった。心の底から尊敬もしている。ただ同じようにはなれないこともわかりきっている。あくまでも憧れているだけだ。
『不思議な世界の話をしようか……――』
母の語る物語が好きだった。
胸を高鳴らせるほどに。夢にまで見るほどに。
鏡の向こう側、魔法が使える世界のこと。
魔法士を育てるための学校があったこと。
七つの寮、七つ信条、七人の若き統治者たちのこと。
手のかかる相棒のこと。気の置けない友人のこと。
どこぞの児童書でも読み上げるような現実離れした話に、幼い頃は心をときめかせたものだ。将来の夢は「魔法士になりたい」だなんて夢見事をのたまっていたほどで、どれだけ異世界の話に魅了されていたかを窺えるエピソードである。
もちろん今でも異世界や魔法の存在は信じている。
他人からすれば滑稽かもしれないが、そもそも考えてもみてほしい。魔法などという非現実的なものを、分別ある大人になってまで「存在する」と主張し続ける意味はないだろう。たとえばそれが、事実でもない限り。なにより母が必要のない嘘を吐くはずがないのである。だからだろう、夢のような話をいい年にも関わらずに信じている。
好きなひとの話をする母が好きだった。
忘れられないほどに。宙で描けそうなほどに。
銀の髪、空色の瞳。
泣きボクロが印象的な、恐ろしいほど整った顔立ち。
自他ともに厳しい努力家。
好きな食べ物、好きなこと。
嫌いな食べ物、嫌いなこと。
お世辞にも素敵だとは言えない出会い。好きになったきっかけ。
丁寧に積み重ねられるそれらは、絶え間なく湧き上がる泉と同じだった。
情を表現することに、母は言葉と時間を惜しまなかった。声音に滲む慈しみ、遠くを見つめる瞳に浮かぶ愛しさ、節々に表れる仕草は言葉と並んで雄弁だった。
(本当に好きなんだなあ)
溢れんばかりに心を傾ける母に、そう幾度となく思った。
子どものように頬を染めて語る様子は恋する乙女の姿そのものである。そりゃあもう可愛らしかった。砂糖を吐きそうなほどの惚気っぷりに何度苦みのある食べ物や飲み物を求めたことか。
だと言うのに。
母の愛する男は、傍にいない。
聞くところによると、予期せぬ別れだったらしい。抵抗らしい抵抗もできないまま、二人は突然に離ればなれになってしまったのだという。
(大事なら、その手を離さなければいいのに)
母が愛を紡ぐたびに胸の内で悪態をついた。
今さら何を言おうと意味のないことだし、八つ当たりめいてもいるとも思う。理解はしていても一度考えてしまったことは頭にくっついて回るものだ。
だって、母はこんなにも愛しているのに。
相手は何をしているんだろうか。
姿も見えず、声も聞こえず、思いを伝えることさえできず。一切の寄る辺もない距離を隔ててなお果てぬ愛は、きっと空よりも高く、この世に存在するどの海よりも深いのに。
女手ひとつで育てられたからには、この現代社会においてシングルマザーでいることがどれだけ苦労するものなのかを骨身に染みて知っている。若い母のことだ、お洒落だってしたかっただろう。友人と気兼ねなくランチだってしたかっただろう。子どもという重荷がなければ、享受できた幸せが数えきれないほどあったはずだ。なのに文句を言うこともなく、無償の愛だけを注いで育ててくれた母を、贔屓目に見てしまうことは仕方のないことで。
やはり傍にいない、けれど母が愛している男に対して少しばかり厳しいのだ。
そんな母の性根には似てもつかない少女は、同時に愛し合った二人の証明である。
なぜなら少女は――母と、その母が愛した男との間にできた子どもなのだから。