純潔に潜んだエゴイズム

つめてーな、と呟かれた言葉と共に、右手の指先から熱が伝わりだす。酷く冷えた私の指先は赤く染まっており、無抵抗に彼の体温を受け入れた。とりあえず中入るか、と何処か早急に見える彼に手を引かれて夜の街を彷徨う。流れる人々の顔色を横目で伺いながら、この人たちはどういう関係なんだろう、なんて。

「入るかんな」
「うん」
ちゃんと合意してしまえば、半ば勢いで適当なホテルに連れられる。こんな高校生でも簡単に入れちゃうんだ、なんて意外と緩い大人の世界に緊張が少し解けるのを感じた。無駄に落ち着いたメロディとパネルから流れるアンバランスな電子音を聴きながら、慣れた手つきで選択を進める千冬を眺めていた。

「わ、なんかラブホって感じ」
「何だよそれ…」
入った部屋には大きいテレビに大きいベッド、天井には無駄に豪華な装飾が施されていて、いかにもな室内だった。物珍しく感じる空間に、色々な所を見て周る。

「っねえ!お風呂おっきいよ!てか、スチームサウナついてる!アメニティも!」
「おーおーはしゃぎすぎな」
「…千冬って結構慣れてるよね」
「女とは来たことねえけど、野郎とノリで来たことあるぐらい」
「そっか」
別にそれが本当だろうが嘘だろうがどうでもよかった。前の人のことなんてどうにかできるわけじゃないから。今でさえも、どうにかできていないから。
街ゆく人々の関係が気になったのは、今の私たちの関係もよくわからなかったからだ。




社会科準備室はやっと見つけた最高のサボりスポットだった。もう殆ど使われていないような地球儀や書類ケースには埃が被っており、この部屋がどれ程手入れされていないのかがわかってしまう。多少の整理整頓をし、自分のスペースを作る。少し硬い床に座って、自宅から持ち込んだ小説を読みながら時間が経つのを待つ。この一連の動作が高校二年の頃にはルーティンとなっていた。単位の問題もあるためそれほど頻繁に通っていたわけではないけれど、居心地の良さは間違いなかった。
そして千冬との出会いは、この最高の領域に踏み込まれたことから始まる。

黒板に書かれた自習の二文字に、私は嬉々として社会科準備室へ向かった。意気揚々と扉を開けば、大振りなピアスに、カーテンから差し込む光を一身に受ける金色。大きく見開かれた猫目はユラユラと揺れていた。
「、あ」
不良だ。漫画読んでた。せっかくのサボり場が。邪魔しちゃった。怖い。
そんな収束できない感情が頭の中に溢れていく。
とにかく早く閉めないと−−

「ご、ごめんなさ」
「入れよ」
「…はい?」
淡々と伝えられた言葉と共に、彼の視線は手元の漫画へ移る。入れよ、と言われた手前このまま逃げることも難しく、怯えながらもゆっくりと扉を閉め中に入る。隣に座れと言わんばかりにスペースを作られた。ここまできたら半ばヤケになる所もあり、大人しく隣に座って本を開いた。こっそりと横目で彼の手元の漫画を確認する。
「矢沢あい、?」
知ってる名前と意外なチョイスに思わず声に出してしまう。知ってんのか?と少し嬉しげな返答に、先程まで何処か固まっていた表情が綻んだ。
あ、話しやすいタイプの不良だ。
そう感じてしまえば単純なもので、ここから私と千冬はサボり仲間になっていった。バイトをしたいという千冬に、自分が働いているペットショップを紹介したり、ことある毎に遊びに誘ったり。会う回数が重なる度に募る好意を自覚しないわけもなくて。そんな私の気持ちを知ってか千冬がその誘いを拒否したことは一度もなかった。

千冬から貸してもらった漫画を読んでいると、自分にとって未知の世界であるベッドシーンが出てくることがよくある。流れるような動作もあれば、互いに固くなりながら緊張していたものもあった。殆どに共通していることとして、基本的に愛する人とできていることに幸福感が満ち満ちているということだ。自分の周りの友人からは、そこまで好きじゃないけど流れでした、という話も割と聞くため、やっぱり漫画だと理想的に描かれてるものなのかな、なんて。私は好きな人と幸せな気持ちでしたいな、なんて。高校生の時間は足早に過ぎていき、進路も決まり、さあ次は何しようってなったから。
千冬との関係も二年近くになりそうな高校三年の一月、私は目的を果たすために行動に移した。




集合時間の20時。普段買わないような甘ったるい下着を隠す甘ったるい服に顔を埋めれば、甘ったるい香りがした。如何にもなデート服で着た私に何か反応してくれるかな、とか。そんな期待も虚しく10分ほど遅れてきた千冬は、今日集合遅くね?なんて気だるげだった。
シフト入ってたから…なんて適当な嘘をついて誤魔化す。千冬は高二のときに突然バイトを辞めていたから、この嘘は通じるはずだ。本当は朝から気合い入れて準備していたけど。千冬は、ふーん、と特に気にする様子もなく歩き出した。
こんなにいつもと雰囲気違くても、何も言われないんだなあ。本当に嫌いな人相手には人は無関心になる、という言葉が頭を過ったが無視だ無視。嫌われてるって段階までいってたら、こんな呼び出しに応じることだって無いでしょ。
これからのことを考えると、変にネガティブになってられなかった。

「で、なんで呼び出したんだ?」
「あ、そうそう。ちょっとラブホテルに入ってみたくて」
「なるほどな…って、は?」
「寒い。とにかく連れてってよ」
ノソノソとした歩みは止められ、驚いた顔が向けられる。しかし、少し思案した後に驚いた様子は無くなり平然とした様子で歩き出した。



話は冒頭に戻り、私たちは無事にラブホに辿り着いてしまっていた。一通りはしゃぐと、段々と見るものも無くなり二人の間に沈黙が流れる。だいぶ気まずいな、なんて。部屋に入ってからは恥ずかしくて千冬の顔すら見れなくなってしまったし、とにかくこの場から逃げ出したくなってしまう。

「、こういうのってシャワー浴びるべきなんだろうけど、お風呂入ってきたし汗かいてないし…今が一番ベストな状態なんだよね」
「…?」
「だから、このままでいいかな」
「??」
「は、恥ずかしいから電気は消させて?」
「ちょっと待て」
心底よくわからない、という表情で語気強めに制止の声がかけられる。電気を消したい気持ちが理解できないってこと?普通は電気を消さないの?それなら仕方ないけれど、このまま脱ぐしかないのか。個人的に想像していたのは、この可愛い服を脱がされることだったんだけどなあ、なんて。
羽織っていたコートをハンガーにかけ、千冬の上着ももらう。ありがとう、と言ってはいるけれど常に何してるんだ?という表情を隠そうともしていない。この行動もおかしいの?女性らしいワンピースのボタンを一つ一つ外していき、服が床にずり落ちたところで腕を捕まれ行動を制限された。

「だから、ちょっと待てって!」
「え、これも間違ってた?」
「…?いや、何しようとしてんだよ」
「セックスだけど」
その言葉を放った瞬間、今まで見た事ない程に大きく目が見開かれた。聞き間違いを尋ねてくるぐらいには言われた言葉に信じられない様子だ。
「だから、私は今日千冬に抱いてもらうために」
「、いや、え、は?そんなん聞いて…」
「千冬も、入るかんなって確認してきたから
する前提でラブホ入ったと思ったんだけど、」

もしかして、全くその気無しに?
じゃあ今下着姿で必死に話してる私って、どんな風に…状況に気付けば急激に体温は上昇していき沸騰しそうな勢いだ。こんな恥ずかしい格好で立っていられる訳もなくて、崩れるようにしゃがみこむ。さっきまでの私の威勢の良さは何処に行ったんだか。ラブホ連れてってくれる時点で、てっきり相手にもその気がある、なんて思っちゃったじゃん。

「先輩って興味あることに突っ走るタイプだから、ラブホも社会科見学的なやつかって思ってたん、だけど」

そこまで女として見られてなかったんだ、私。
ただラブホ入るだけなら女友達と行くよ。まあ、私の適当な口実が下手くそ過ぎたんだなあ。ラブホ入ってみたい、だと勘違いされても仕方ないよなあ。

「もうこの際、これ以上恥ずかしいことってないから言っちゃうけどさ。
私は、めちゃくちゃする気満々で今日千冬呼び出したわけ」
半ばヤケになりながら、言葉を繋げていく。
「シフト入ってたってのもウソで、凄く時間かけて準備してたし、夜だったら流れでホテル行けるかな、とか思っての時間設定だった」
「で、どうしてセックスしたくなったかって言うと、私むかしから千冬のこと好きで、初めては千冬に貰って欲しかったからで」
「、頼むから一回整理させてくれ」
「え?うん、いいけど」

言葉足らずにならないように沢山話していたけれど、一旦舌を休める。少しの沈黙に心音が響いた。

「…、俺のこと好きなの?」
溜めて溜めて出てきた言葉に拍子抜けしてしまった。そんなん聞かれるまでもなく好きってさっきも、
「あれ、好きってまだ」
「伝えられたことねえのに、サラッと言われた」
「うわ」
もう相手も私の好意を認識してる前提で、全てのことを進めてしまっていた。あからさまに、やらかしたという顔をしている私を見て、千冬は少し笑った。

「なんつーか、そういうのって俺から言いたかったんだけどな」
「…えっ!」
俺から言いたかった、?つまり?
しゃがんでいる私と目線を合わせて、とびきり優しい声音で続く言葉を放つ。

「好きだ」

シンプルに伝えられた言葉は、私が何よりも欲しかったもので、処女卒業よりも何よりも目標にすべき言葉だった。目頭が熱を持ち出し、慌てて引っ込める。今日は完璧なビジュアルにしてるんだから、勿体ない。でも…
「ほ、ほんとに嬉しい。わたし、ほんとにだいすきで」
言葉にすると同時に目から大粒の雫がとめどなく溢れていく。そんな私の姿に千冬も慌てていて、私も止められない涙を止めようと必死で。そんな姿に互いに笑みが零れた。

「私、ほんとに順番間違えまくってたね
馬鹿なことしちゃった」
「いや、俺もホテル入ったのちょっとは期待してた」
「なんだ、ちゃんと女として見られてて良かった」
「、当たり前だろ」
「ふーん、じゃあ」

どうする?なんて腕を広げてみる。
隠していた身体を解放し視線が重なってしまえば、それは始まりの合図となった。



「付き合ったその日にしちゃったねぇ」
「あんな風に誘われて、あそこで辞められるやつこそ男じゃねえだろ」
「確かに、あそこで拒否られてたらって考えると泣ける」
「結構葛藤したけどな」
「千冬って意外とちゃんとしてるよね」
「一言余計だわ、たこ」
「たこ…」

抱きかかえられてベットの上に移ったときには、少しだけ怖くなった。それは、野性的な熱の篭った視線を受けたからか、腕を頭上で抑えられて抵抗すらも許されないキスをされたからか。ただただ身を任せ、味わったことの無い感覚に酔い、自分の知らない自分を知るような。こんなものを知ってしまった後じゃ、もう以前の自分には二度と戻れないんだろうな、と漠然と理解する。挿入された異物に耐え忍ぶようにしていたら、優しく声をかけてくれる彼が、これ程に愛おしいのだ。冬場なのに汗ばんだ身体を必死に抱きしめ、一身に千冬の重さを受け取ってしまえば、もう離れられる気がしなかった。愛されながら名前を呼ばれたときには、私の初めてがこの人でよかった、なんて心から思ってしまったのだから。

初めては絶対に私の好きな人としたい、そんな純潔に潜んだエゴイズムを受け入れてくれた彼を、私は一生忘れることができないだろう。

目次

悲劇のヒロイン症候群