インベーダー
ドォン!!と通常では考えられない大きい音がした。
「……え?」
逆光に照らされたシルエットは、ここにいるはずのない人物のものであった。その通常ではなかなか見ることのない高い身長に、一房だけ長く伸ばした髪、こんな特徴的な人物は何人も存在していないし、私がこの人を見間違えるはずがない。この数年間、何度も思い描いていた人物だからだ。
「こんにちは。いいお天気ですね。」
しかしこんな登場だとは微塵も思っていなかった。というか、出会い頭にこんなに怒りを爆発させることがあるだろうか。ドアを蹴り壊すほど怒り狂っているのに、表情や声色はにこやかなのだから更に恐ろしい。目が笑っていない。私はそのチグハグな言葉にソウデスネ、としか返すことが出来なかった。
◇
少し昔の話をしようと思う。私は元々この世界の住人ではない。4年前、ひょんなことからツイステットワンダーランドという、耳を疑うような不思議な世界に飛ばされて、ナイトレイヴンカレッジという魔法士養成学校のオンボロ寮の監督生になったのだ。しかし異世界から来た私は魔法が一切使えない。そのため、魔獣でありながら魔法士を目指すグリムと一緒に特例で、元の世界に帰る手段が見つかるまで、学校に通わせてもらっていた。
しかし魔法が全く使えないのに魔法学校に通うというのは中々無理があった。まず実技は全てダメだ。これは基本見学で、グリムや友達が受けているのを見ながら、時折雑事などを手伝うくらいしかできなかった。他にも動物言語や錬金術なども、一部は出来るところもあったが、根本魔力を必要とするため肝心な所で全て躓いてしまった。それでもここに置いてもらっている以上、何かを吸収して、ここに通う彼らに何か一つでも誇れるものが欲しい。そう考えるようになるのに時間はかからなかった。そして、うんうんと今日受ける授業を悩んでいる時に、先輩の一人がこう言ったのだ。
「魔法薬学に必要なのは魔力よりも知識です。魔力が皆無のあなたにぴったりの学問では?」
それは選択肢に入れていなかった学問だった。素人にとって薬というのは非常に敷居が高い。さらに魔法薬学の先生は錬金術と同じクルーウェル先生だったため、これも魔力を必要とすると思い込んでいたのだ。
「ジェイド先輩!」
先輩の言っていた通り、魔法薬学には一切の魔力を必要としなかった。学ぶことに何も弊害がないというのは思っていた以上に快適で、私はどんどん魔法薬学にのめり込んでいった。
「おや、監督生さん。どこか分からないところでも?」
ジェイド先輩は出会いこそ結構なトラウマを植え付けられたが、それ以降は優しかった。魔法薬学はジェイド先輩の得意分野らしく、基礎がほとんどできていなかった私に甲斐甲斐しく教えてくれたのだ。私が先輩に懐くのには時間はかからなかったし、先輩と過ごす時間が自然と増えていった。
ジェイド先輩と過ごした時間は賑やかで、穏やかだった。双子のフロイド先輩や、オクタヴィネル寮長のアズール先輩が時折勉強会に混ざってきたり、勉強の後にモストロ・ラウンジで一緒に夕食をとったりした。彼らは多少性格に難はあったが、魔法が使えない私のことを馬鹿にはしなかったし、魔法薬学を学びたいという気持ちに真摯に向き合ってくれたのだ。
「…これ、何の薬ですか?」
その日は閉店後のモストロ・ラウンジでジェイド先輩といつもの勉強会をしている時だった。先輩がそろそろ一息つきませんか?と言いながら紅茶を持ってきてくれ、一緒に飲んでいる時だった。
「海中で息が出来るようになる薬です。」
「前にみんなでアトランティカ記念博物館に行った時に飲んだやつですか!」
「ええ。この薬、あなたももうお分かりかと思うんですが、上級魔法薬なんですよ。」
魔法薬には初級、中級、上級とランクがある。上に行けば行くほど、調合に技術と知識が求められるのだ。初めて飲んだ時はその希少さに気づかなかったが、この薬は本当に高度な技術を使った薬だ。私なんかではまだ作れないほどの。
「この薬を見本として差し上げますので、これが調合出来るようになったら、僕と一緒に海底に行きませんか?アトランティカ記念博物館以外にもあなたにお見せしたいものがあるんです。」
ジェイド先輩の右手がテーブルの上に置いていた私の左手に乗せられる。目元をみると少し頰が赤くなっている。どうやら照れているようだった。
「み、見たいです。」
一瞬言葉に詰まってしまった。顔が燃えるように熱い。嬉しくて顔が緩む。うまく笑えているだろうか。
「私、頑張ります。一緒に海底に行けるように。」
「でしたら僕も、早く一緒に行けるように頑張って教えなければなりませんね。」
先輩が嬉しそうに笑った。その笑顔は普段のような何か企んでいるような余裕ある笑みではなく、少し照れた普通の人ような笑顔だった。私はこの瞬間、彼への恋心を自覚した。
私たちの関係は決して淡白なものではなかった。きっとそれは私の思い込みではないだろう。ジェイド先輩も恐らく、少なくとも私を憎く思っていたとは思えない。しかし、ぬるま湯のような優しい関係は突如として終わりを告げた。
「帰る方法が、わかった…?」
それはこの学園に通い始めて一年が通過しようとした3月のことだった。朝一番に学園長に呼び出され、告げられた。それは私がずっと願っていたことだった。
「おや、思っていたより喜ばないんですねえ。私、こんなに頑張ったのに。」
ヨヨヨ…とこれ見よがしに悲しむ学園長を見て、正直ぶっ飛ばしてしまいたくなった。帰る方法がわからなければ、ずっとこのぬるま湯につかることができたのに。
「鏡の間である呪文を唱えれば術式が発動して元の世界に帰れます。どうしますか。」
「どうしますかって…。」
そんなの、帰るに決まっている。これは私の悲願でなければならないのだから。やっと勉強が楽しくなってきたのに。まだジェイド先輩との約束を果たせていないのに。いいや、だめだ。帰ります。学園長に言わなくては。私は帰りますと。しかし意思に反して体がまるで凍ってしまったかの様に動かなかった。
「…この一年、あなたはよく頑張りましたね。」
「えっ。」
体が反射的にびくりと動いた。顔を上げると、学園長はどこか慈しむような目で私を見ている。少しむず痒かった。
「最初は魔法の使えない一般人を置くのは非常に心配でしたが、あなたは魔法が使えないなりに一生懸命学び、そして学友たちを導いてくれた。私はそれがとても嬉しいのですよ。トラブルを何個も持ってこられた時は困りましたが…まぁ、よく学び、よく遊べということにしておきましょう。」
そう言うと学園長はデスクに歩み寄り、引き出しから一枚の紙を取り出した。
「だからね、私はあなたに帰る以外の道も提案したいんです。生徒に新しい進路を教えるのも教師の務めですからね。」
そう言って取り出した紙を私に差し出す。とっさに受け取って内容を見ると、そこには推薦書と書いてあった。
「こ、これは…?」
「名門女子高等学校の推薦書です。魔法が使えない良家の子女が通うスクールですよ。あなたにはここを卒業してほしい。」
書類をよくよく見ると、推薦者の欄にはクルーウェル先生の署名が、そして保護者署名欄には学園長の名前が署名されていた。事態を把握してきて、手のひらにじんわりと汗をかく。これは。
「あなたの在学中の魔法薬学の成績は見事でした。気づいていないかもしれませんが、魔法薬学の単位の成績だけ見ると、この名門と呼ばれるナイトレイヴンカレッジの中でも特に優秀です。これはクルーウェル先生からもお墨付きです。こんな逸材を逃すのは魔法界としてもとても惜しい。あなた、魔法薬学士を目指しませんか。」
「ま、魔法が使えなくても、なれるんですか。」
「ええ、元々学者の数は少ない上に、魔法が使えない人間にとっては非常に狭き門ではありますが。」
そのためのこの学校です、と学園長は書類を指差した。謎の緊張と焦りで心臓がばくばく言っている。しかし、嫌な感じはしなかった。むしろ逆だ、私は新しい可能性の前に高揚している。
「この学園は魔法が使えないと学べないことが多すぎる。もしこの世界に残るというのなら、まずは普通の高校に行ってこの世界のことを正しく学びなさい。そして卒業後にクルーウェル先生の研究室に助手として入り、実際に魔法薬学を学びながら研究論文を発表して、魔法薬学士になるルートがいいでしょう。もちろん許可はもらっています。」
青天の霹靂である。まさか、この世界に残れる選択肢が突然出てきたのだ。元の世界でやり残してきたことや未練が山のようにあるのと同じで、この世界にもまだやりたいこと、未練になる人がある。私はこの時どちらかを選ぶことができなかった。しかし、まだもう少しいれるのなら。
「わ、私、」
目指します、この世界にもう少し残って頑張りたいです、そう言おうとした瞬間、学園長はピッと人差し指を立てて私の言葉を制した。
「よく考えるといいでしょう。この機を逃したら、あなたは二度と元の世界には帰れなくなる。」
「えっ」
「鏡の術式が作動する準備はもう出来ているんですが、これは準備が整うと二度と元の状態に戻らない魔法なんです。あなたにも分かりやすく言うと…爆弾みたいなものです。後は火をつけるだけですが、時間が過ぎると火薬が湿気って火をつけても爆発しなくなる。」
都合のいい展開というのは訪れないものだなと思った。先ほど話を聞いて頑張りたいと思っていたはずなのに、二度と会えない元の世界の人たちのことを考えるとその気持ちにブレーキがかかる。そして、私のこの新しい進路を与えてもらえるきっかけになったジェイド先輩。やはり私はこの場ですぐに選ぶことはできない。
「急で申し訳ないとは思うのですが、明日までに考えて来てもらえますか。」
「……分かりました。」
私は書類を改めて見た。力が入っていたせいか、少しシワになってしまっている。こんな軽い紙のはずなのにとても重く感じた。
「……進路に迷うのは学生の務めです。そして進路を決めなければならないのは学生の定め。あなたは他の人と比べるとほんの少し大きな選択をしなければなりませんがね。」
そういうと学園長はぽんと私の頭に手を置いた。なぜか目頭が熱くなる。
「納得できる進路を選びなさい。時間を用意してあげられなくてすまないね。」
私は小さく首を振った。この人には本当に困らされることも多かったが、ものすごく良くしてもらってきたのだと改めて実感した。
◇
一度オンボロ寮に戻ると、誰にも見られないように書類を引き出しの中に仕舞った。なんとなく色んな人に見られるのは良くないような気がしたからだ。まぁこのオンボロ寮に来る人なんて限られてはいるが。
私はまず、オンボロ寮の部屋の中を掃除し始めた。グリムはタイミングがいいのか悪いのか出かけていた。私がどちらの道を選ぼうと、この学園とはお別れになるのだ。私物を処分していっても問題ないだろう。一年も暮らしていると部屋に物が増えていく。これらは私がここで過ごしてきた証なのだ。
「ふぅ。」
掃除を一度すると楽しくなってきてしまい、存外熱中してしまった。一つの現実逃避ともいう。もう少しでまた一枚溜まり切りそうなモストロ・ラウンジのポイントカードや、グリムのリボン、マジフトのディスクなどはまとめて大きい箱に入れておいた。グリムは来年も通えるように手配すると学園長が言ってくれていたので、この辺の物はまとめておけばグリムが使うだろう。それかエースやデュースがちゃっかり使うかもしれない。元の世界に帰るなら何も持っていけないだろうし、転校するにしてもあまり多くは持ち込めまい。次の学校は魔法学校ではないのだから。
すっかり日は昇り切り、昼を過ぎていた。部屋は見回すと随分と小ざっぱりした。後はグリム用の箱を部屋の隅に移動させて一旦完成だ。この分なら後処理が楽だろう。最後にジェイド先輩からもらった魔法薬を手に取った。
「完成は出来なさそうだな…。」
実は半分は完成していた。それも従来の物より長く海の中で呼吸ができる魔法薬を。しかし残りの調合で行き詰まっている。
「おや、諦められてしまうんですか?」
「ぎゃっ!」
心臓が跳ねる。耳元で突然声がしたからである。それも吐息が耳にかかるくらい近くで。耳を押さえて振り向くと、案の定想像していた人物が立っていた。
「ジェイド先輩!」
「お邪魔しています。」
全く気配がなかった。まだ心臓がばくばくいっている。そして耳には生々しい吐息の感触が残っていた。
「すいません、何やら忙しそうだったので。ちゃんとノックはしましたよ?」
オンボロ寮はチャイムが壊れているからノックするしかない。しかし色々片付けたり考えていたせいか聞こえなかったみたいだった。
「だからっていきなり背後に立たないでください…心臓出るかと思いましたよ。」
ジェイド先輩はそれは困りますね、とクスクス笑った。しかし、どことなくいつもと雰囲気が違う気がした。目が笑っていないのだろうか…、いや、そんなことはない。とりあえずそんな近い距離に居られると心臓がもたないので椅子を勧めた。
「先輩、よければお茶出すので、あちらの椅子に…。先輩?」
「……。」
ジェイド先輩はニコニコとこちらを見たまま動こうとしない。私より約30センチ以上大きい身長から至近距離で見下ろされると、いくら慣れたとはいえ圧迫感がすごい。
よくよく見ると先輩の視線は私が握り締めていた魔法薬に注がれていた。先ほどのつぶやきを聞いていたからだろうか。
「あ、あの、魔法薬を作るの諦めてないですからね、ただ今日は無理だなって思っただけで…」
言い訳としては苦しいか。どうだ。
「……そうでしたか。てっきりもう作るのをやめてしまうのかと思いましたよ。色々お掃除もしているようだったので、捨てられてしまうのかと。」
「まさか!」
自分でも驚くくらいそんな考えはなかった。確かに元の世界に戻るのならこれは持っていけない。でもこの世界に残るのなら、せめて完成させたいと思う。たとえ海に行くことが叶わなくても。
「随分と色々整理されたんですね。…まるでお引越しされるかのようだ。」
すっとジェイド先輩が目を細める。この人は嫌になるくらい察しがいい。
「年度も変わりますしね。思い切って掃除してみました!」
こういう時は思いっきり気づいていないふりをするのが一番だ。ジェイド先輩はなんだかんだ甘いので、例え気になっていることがあっても私が聞かないでオーラを出すとそのままにしてくれるところがあった。好奇心旺盛な性格であるのに、私を優先して好奇心を抑えてくれるのだ。そんなところも好きだなと思う。
「…そうでしたか。でしたら一緒に昼食はいかがですか?前に言っていた魔法薬学の研究論文を持ってきたので、よければ簡単に解説しますよ。」
「いいんですか!」
ほら、やっぱり優しい。彼は身を引いてくれた。
「ええ。」
ジェイド先輩は綺麗に笑うと私を扉の外にエスコートしてくれた。そしてその後の昼食でも、何度か何か言いたそうな顔をしていたが、ついぞ聞かれることはなかった。
◇
正直に言おう。私はこの時ほんの小さな賭けをしていたのだ。もし、彼が何か私に聞いてくれたら学園長に持ちかけられた話を正直に話そうと。そしてもし、引き止めてもらえたらこの世界に残ると。結果は惨敗。私は自分から言いだす度胸もなく、あっけなく賭けに負けたのだ。ジェイド先輩は昼食の間も何度か何かを言いかけて…口を閉ざした。いつものように優しく、ぬるま湯のように甘やかしてくれたのだ。その優しさに甘えきった罰だろう。
時刻はもう22時を指していた。もう少しで今日が終わる。
あの後ジェイド先輩と別れて、これはこれで良かったのではないかと思ってきた。この甘っちょろい関係を壊したくなかったのは本音であるし、告白して苦い思い出にはしたくなかったのだ。このまま別れてしまえば、あの時は良かったといつか大人になった時に穏やかに懐かしむことができるような気がした。それにあの人は人魚で私は魔法も使えないただの人間である。むしろ今日までよくしてきてもらったことが奇跡だ。考えれば考えるほど、今日の結果はベストな気がしてきた。今日私は不思議なほど吹っ切れたのだ。
それならこの思い出を胸に、この世界で頑張ってみよう。そんな思いがすとんと胸の中に落ちてきた。せっかくジェイド先輩が教えてくれた道だ。それに元の世界でもこんなに評価される何かを持ったことはなかった。ならば、一度死に物狂いで頑張ってみたいと思ったのだ。そうと決まれば早いほうがいい。できるなら今晩中に動きたい。あの人の顔を見たら意思が揺らいでしまうから。
「帰ったんだゾ〜!」
グリムはなんとタイミングのいいことに、私が進路を決意したすぐに帰ってきた。帰って早々で申し訳ないが、彼に声をかけ、今日の出来事を伝えると、なんとグリムもあの後学園長に呼び出されて私が持ちかけられている話を聞かされたらしい。今日妙に会わないと思っていたが、私のために考える時間をくれたようだった。ちなみにグリムもこの一年の頑張りを認められて、来年からも学校に通えるとのことだった。これでもう未練はない。私はグリムと一緒に学園長室に向かうことにした。
私の進路を教えた時、グリムは素直に喜んでくれた。
「ならお前が帰ってくる頃には俺様は大学生ってことになるな!」
「グリム大学行くの!?」
「そりゃそうだ。俺様は大魔法士を目指しているから、少なくとも学士号はないと魔法士にはなれないんだゾ!」
そうか、グリムもこの一年、自分がどんな道を選んでいくかきちんと考えていたのだな、と思った。彼も実力でこの世界の居場所をつかんだのだ。
「そっか、じゃあ、私も卒業したらクルーウェル先生の研究室で魔法薬学士を目指すから、競争だね。」
「ふなーっ!相手にとって不足なしだなんだゾ!」
グリムと話していると学園長室の扉が見えてくる。遅い時間だったが、学園長はまだ部屋にいるようだった。
「行ってきます!」
「行ってこい!」
私は学園長室の扉を開けた。ここからまた始めるために。
◇
と、まぁ、回想はいい感じに終えられたが、部屋のドアは壊されているし、目の前のジェイド先輩は未だかつて見たことのない、恐ろしい雰囲気を醸し出していた。
「あなたはいつも、僕といてもどこか上の空でしたね。扉を蹴り開けても動じないとは恐れ入ります。」
めちゃくちゃ動揺していて現実逃避していただけです。と気軽に言えたらどれだけ楽だろうか。しかしそんな軽口を言い合えるような関係はとうの昔に終わっていた。
「お、お久しぶりです。先輩。」
「ええ、お久しぶりです。」
飛び散った木材をぱき、ぱき、と踏み折りながら、先輩は私の方へと距離を詰めてくる。ちょっとしたホラーだ。私も近寄られた分後ろへ下がる。なんとなく今、彼に捕まるべきじゃないと思ったのだ。
「こんな感動の再会につれないじゃないですか、監督生さん。僕から逃げた生活は楽しかったですか?」
かつてのカレッジでの呼び名で呼んでくる、その甘い声にぞぞぞっと総毛立つ。今私は彼の隠す気のない殺気を身体中に浴びていた。何かと物騒な世界だが、ここまでの殺気を私にぶつけられたことはない。恐怖で体が竦んだ。
「まさかあなたが嘘までついて逃げ出すとは思いませんでした。…優しくしすぎてしまいましたかね。」
嘘。そう、ナイトレイヴンカレッジから飛び出す時、私は学園長に一つお願いをしていた。みんなには元の世界に帰ったと言っておいて欲しいと。中途半端なことはしたくなかったからだ。名門・ナイトレイヴンカレッジの生徒と知り合いというだけで、転校先では浮くだろうし、彼らは懐に入れた人間に対して甘いところがあるから、私を助けてくれるだろうと思った。ここに通っている生徒はなんであれ、魔法界を担うエリート達になるだろう。そう考えると、私が踏み入れようとしている世界は、ナイトレイヴンカレッジにパイプがあるというだけで随分有利に働くだろう。しかし、せっかく私の努力を見込んでくれた先生方に報いるためにも、そうやって甘えるのは何か違うような気がしたのだ。
だから一切の縁を切ろうと思った。自分の力でこの世界を生き抜けるように。そして今日は記念すべき初研究室入室の日だった。まさかアパートに帰った瞬間こんなことになるとは思ってもいなかったが。
「あなたはいつも何も言ってくれませんね。」
「わ、私たちってそこまでの仲じゃないじゃないですか。」
失言した。しかし口から飛び出した言葉は戻らない。ジェイド先輩がすっと目を眇める。体感温度が3度は下がった気がした。
また一歩下がると、私の背中がテーブルにとん、とついて下がれなくなってしまった。それに合わせてジェイド先輩が歩みを止め、ゆっくりと後ろのテーブルに両腕をついて私を閉じ込める。その間、私は1ミリも動くことができなかった。まさにウツボに睨まれた小エビである。
「冷たいことです。少なくとも嘘をついてどこかに行くような浅い関係ではなかったでしょう。」
ウッディとタバコが混ざった香水の匂いが強くなる。そうだ、彼は在学時代、スパイシーな香水をよく好んで使っていた。彼がとびきり優しかったあの日々を思い出す。同じ香りなのに、まったく違う彼。まるであの関係を壊しにきているような、目の前のジェイド・リーチが憎くなってくる。
「でも、全てを打ち明けられるような深い仲でもありませんでした。」
ここまでくればヤケだ。そんなに怒られることだろうか。ジェイド先輩だってあの関係を壊してまで踏み込もうとしなかった。ずっと優しいままだった。決して私に歯を立てようとしなかった。私も歯を立てられることを望まなかった。いいや、恐れていたのだ。心の内を暴かれることが。
だから綺麗なままに宝物として閉じ込めて置いたのに。今彼は私の宝物を取り上げて、最悪の形で壊そうとしているのだ。
「もうお話は終わりですか?私今から荷ほどきしたいのでまた今度でもいい…!?」
がっと大きな右手で乱雑に顎を掴まれ無理やり上を向かされる。190センチの大男を見上げる形になり、息が苦しくなり顔が歪む。しかしそんなことも御構いなしに、ジェイド先輩は私にキスをした。ふにゅっとジェイド先輩のそれが押し付けられる。先ほどの荒さとは裏腹に、唇と唇を合わせるだけの可愛らしいキスだ。
「キスだってしました。これでも深い関係ではないと?」
キス。ジェイド先輩は私にキスをした。この男は本気で今、この四年経った今、あの日の関係を壊しに来ているのだ。
「キスをしたら深い関係になれるんですか。」
腹立たしかった。しかし、それ以上に腹立たしいのは、今のキスに喜んでしまった自分自身だ。壊されようとしている思い出が蘇る。ジェイド先輩に求められたい、踏み込まない優しさじゃなく、踏み入れる暴力が欲しかったあの日々を。今まさに、かつての私が欲しかったものが目の前にぶら下がっているのだ。
「なら、誰とでもすると?」
「どうでしょう。」
怖い怖い怖い。確かに荒れ狂う嵐のような感情が欲しかったが、こんな形ではない。慣れない殺気に足が竦む。表情は未だにこにこと朗らかなのに瞳孔が開いているのが迫力を倍増させた。あまり本気で怒らないで欲しい。怖いから。怒っているジェイド先輩は在学中に何度か目にしてはいたが、直接私にぶつけられることはなかったので、正直甘く見ていたのだと今になって気づく。もしかしたら、先輩が意図的に見せないようにしていたのかもしれない。それが今、遠慮なくぶつけられている。膝が笑いそうになるのを必死に耐えた。怯えていると思われたくない。だって、死ぬほど怖いが、このキスは嫌じゃなかったのだ。でもそれを認めるのは嫌だった。この侵略者を赦したくないのだ。
「……誰とでもすると?」
「ジェイド先輩以外としたことないです!」
だめだ負けです。掴まれている下顎骨を砕かれるかと思った。誇張でもなんでもなく、ミシっと軋む音が体内に響いていた。
「僕はね、怒っているんですよ。僕とあなたの時間を壊したあなたに。」
その意外な言葉に、私は目を丸くした。今まさに壊しにきている先輩が何を言っている。
「壊したのは先輩じゃないですか…んむ」
「いいえ。あなたに壊されたので、今新しく作り直しにきたんですよ。」
またキスをされた。
「あの時、僕の手の中にいる内は優しくしてあげようと思っていたんですけどね。んっ…あなたが望むような、分別を分けた優しい先輩として振舞ってあげるくらいには可愛がっていたのに。んっ……あなたが逃げるから。」
「に、っん、逃げてな…」
ふにゅ、ふにゅ、と話の途中に何度も唇を押し付けられる。言い返したかったが、もう私はそれを抵抗もせず受け入れていた。抵抗したらどんな目に遭うかわからないというのもあるが、もう抵抗する気にならなかったからだ。
「おや、いい子にもなれるんですね。優しくしてほしいですか?」
こくこくと頷く。話したところで唇を塞がれるのはわかっていた。顎を掴まれているからあまり動かなかったが。
「いいですよ。」
やっぱり。またキスが落ちてくる。私が抵抗しなかったせいか、先ほどよりも気配が優しくなっていく。目も先ほどより怖くない。しかしこの男は優しくとんでもないことを言いだした。
「ではまず、今付き合っている男と別れてください。」
「は!?」
今の今まで女子校にいたのだ。そんな男はいない。
「知らないとは言わせませんよ。デヴィット・クルーウェルです。」
「はい!?!?」
なんて恐ろしいことをいうのだ。クルーウェル先生と私が付き合っている?何をどうやったそんな考えに行き着くのだろうか。
「ごまかそうとしても無駄ですよ。裏は取れてますから。」
まじ?
「わかっています、僕にこれ以上怒られたくないんでしょう?ふふ、可愛いですね。んっ…このことに関しては別れるなら許してあげますから、正直に言いなさい。」
またふにゅふにゅと唇を重ねながら、怖くありませんからと言い、ジェイド先輩は空いた手で私の頭を優しく撫でてきた。それが怖いのだが。というか、こんなとんでもない勘違いを持ってくること自体が怖い。
「だ、誰ですかそんなデマ言ったの!!先生とは手紙でしかやりとりしていないですし、今日が転校以来初めて会う日ですよ!?」
確かに転校先でも魔法薬学の勉強ができるように、クルーウェル先生には個人的に手紙を出していた。高校卒業から本格的に学ぶとはいえ、独学でも勉強は続けていたかったのだ。先生もその気持ちを汲んでくれ、課題を出してくれたり、躓いている所を教えてくれていた。
「嘘をおっしゃい。このアパルトメントがクルーウェルの所有なのは割れているんですよ。」
「これは先生が新しいおうちに引っ越したから譲ってもらったんです!まだ私未成年なので、名義そのままで住ませてもらってるんですよ!」
「えっ」
もしかしてこの人、私がクルーウェル先生のアパルトメントに引っ越したのを見て、そんな飛躍した勘違いをしたのだろうか。ジェイド先輩は信じられない物を見るような目で私を見ている。私が信じられないのはジェイド先輩のこのとんでもない勘違いの仕方だというのに。
「ぼ、僕はてっきり…僕から逃げた挙句、クルーウェル先生とだけ連絡を取り合い、あまつ手を出され同棲したのかと…。」
「どんな悪女ですか私は。」
ものすごい勘違いのシナリオが先輩の中で完成していたらしい。というか、それで怒り狂ってドアを壊したのか。色々突っ込みたい所が多いが、何はともあれわたしは先輩から逃げた訳ではない。……いいや、逃げたか。あんなに建前を言っていたが、わたしはこの人から逃げたのだ。
「あなたはあの時からずっと悪女でしたよ。僕の手の中にいるふりをして、自分の望むように僕を操っていたでしょう。」
「い、言い方もっとなんとかなりませんか…。」
踏み込んでくれなかったなんて、とんだわがままを思ったものだと思う。確かにわたしは彼の優しさに付け込んでいた。わたしが何も言わずに何処かへ行ったらどう思うかなんて考えもしなかった。
「先輩、私がいなくなって寂しかったですか。」
少し自惚れてしまう。キスだってされたし。彼は本気で私のことを思ってくれているのではないかと。ドキドキしながら口に出した。もし、もし寂しかったと言われたら、ちゃんと謝って、それで…。
「いいえ、そんなこと考える暇はありませんでした。」
台無しである。また私はバカな賭けをしようとしてしまった。今の出来事から何も学んでいない。
ジェイド先輩は私の考えなど知らずに、私の肩をがっちりと掴んできた。私はびくりを肩を震わせようとしたが、それすらも押さえ込まれる。
「必ずあなたを見つけだして……痛い目に合わせてやろうと。それしか考えていませんでしたよ。」
まるでフロイド先輩のように、語尾にハートでもつきそうなくらい甘く囁きながらうっとりと私を見つめると、ジェイド先輩は私の首筋に顔を寄せた。嫌な予感がして身じろぎをしようとしたが、体はがっちり掴まれていて動かない。
「いっっっっ!!!!」
信じられえないことに、がぶりと首筋を噛まれた。先輩のギザギザした歯が皮膚に食い込んで、ありえないくらい痛い。血が出ているのではないだろうか。噛まれた所が痛みでどくどくと鼓動を打ち始める。肉を抉られていないことだけを願った。
「痛いですか。」
「痛いに決まってるじゃないですか!」
「そうですか。あなたが逃げた時、僕はもっと痛かったです。」
そう言いながらも、頰は紅潮し、少し息が上がっている。どう見ても彼は興奮していた。また噛み付かれる。ジェイド先輩の歯が離れる度に、ついた唾液が空気に触れ傷口がすっと冷え、一拍おいてジンジンと熱を持って痛みだす。濃厚なウッディとタバコの匂いと、傷口の熱さ、肌に触れる少し湿った吐息と、彼と私の服が擦れる音で頭がおかしくなりそうだった。
「っん…ふ…、あ…。」
声が漏れる。慌てて奥歯を噛み締め押し殺したが、ジェイド先輩にも聞こえてしまっているはずだ。声が漏れた瞬間、先輩は静かに鼻で笑った。
「痛がっているような声ではありませんね。」
「痛いです、やめてください…。」
もはや痛みと羞恥と緊張で涙目だ。まばたきをしたら涙がこぼれ落ちてしまいそうで、こぼれないようにぐっと目に力を入れる。目の前の先輩はハァっと熱っぽく息を吐いた。
「痛いなら、もっと僕に縋って。」
気づかないうちに私は先輩のジャケットの裾を握りしめていた。先輩は私の固く握った拳を優しく開かせると、先輩の背中に誘導した。同時に体がぴったりと密着し、ジェイド先輩に抱きつくような形になってしまった。
「痛かったです、酷い、先輩は酷いです。」
酷いのはどっちだろうか。ぴったりと体をくっつけているせいか、先輩のクツクツと笑う振動が伝わってきた。
◇
「ということがありまして、家にジェイド先輩が来るようになりました。」
「…お前が夜逃げのようにカレッジを出たのはある意味正しい判断だったようだな。」
あの日の一件以来、ジェイド先輩は私の家に通うようになった。最初は何日かおきに来る感じであったが、最近では毎日家に来る。泊まっていくこともあるが、基本的には大学の関係もあって自分の家に帰っているようだ。一応一緒に住むこともそれとなく提案したが、
「今はいいんです。僕はウツボですからね。…ええ、今は。」
となんだか嫌にご機嫌に笑ってきたので、これ以上言うのをやめた。その笑みは大抵ロクでもないことを考えている時の笑みだからである。
ちなみに入居初日に破壊されたドアは、気が付いたらジェイド先輩が修復魔法で直してくれていた。魔法で壊したドアは魔法で直すのが一番手っ取り早いらしい。全く魔法というのは便利なものだ。使えないからどこか他人事であるが、私もその恩恵にいつも預かっていることを、このことで再認識してしまった。
そういうことで一応直ってはいるがドアを破壊されてしまったし、あの部屋は先生から借りている部屋なので報告したというわけだ。
「ですので、すいません。ドア一回破壊されてます…。」
「謝らなくていい。居所を掴まれた俺と学園長の手落ちだ。」
あの日の手続きはなんと学園長と後の保護者となるクルーウェル先生がやってくれていた。そして私のわがままである皆にこの世界にいることを知らせないというのもこの二人の協力があって実現していたのである。
「印象操作魔法をかけていたにも関わらずまさか居場所を掴むとはな。ジェイド・リーチの執念は相当のものらしい。だが…、もしお前が望むなら、また雲隠することもできるがどうする。今回のことを望んでいたわけでもあるまい。」
「それが少し、なんというかこう…。」
恋叶ってもう浮かれてます、とは言い辛い。
「…!まさか、お前…。」
クルーウェル先生は閃いた!という顔で私を見てきた。そうなんです、言い辛いんですが、通ってもらえるようになって離れ難いんです、察してもらえるなら有り難い。
「ジェイド・リーチに無理矢理手を出され、脅されているのか…。」
ばさばさばさッ。手にしていた資料が床に落ちる。
「なっ、なななななな、」
「図星か、やはり今からでも…もちろん法的に裁くことも検討して…。」
「違います誤解です勘弁してください!!」
…違わないです一部は誤解じゃないです合意の上で手を出されてます。ある意味脅されてもいます。でもあまりに意味が違いすぎて思わず否定してしまった。
「ごっ、合意です…。」
なんてことを言わせるのだ。
「…お前もなかなかな趣味だな。」
心配して損したとでもいうようにクルーウェル先生はどかっとこの研究室で一番豪華そうな椅子に座る。そして長い足を乱雑に組むと、いつも着ている毛皮を脱いでいるからか葉巻を取り出した。一緒にいるようになって知ったが、先生は毛皮に葉巻の匂いがつくのを嫌がるので、毛皮を着ているときは絶対に葉巻を吸わない。魔法を使わずわざわざマッチで火をつけ、葉巻に移す。これも先生のこだわりらしい。この研究室では先生が王様だ。
「先生、あれやってください、輪にするやつ。」
一瞬嫌そうな顔をしたが、先生は煙をたっぷり吸うと、薄い唇からモケッと煙を輪にして吐いてくれた。
「おおーっ!」
元の世界でみた漫画のようで、物珍しくて、最近先生が葉巻を吸うたびにお願いしている。これも最近の日常になってきた。はい、現実逃避は終わり。
「はーっ、あんな不安定で腹の底が知れない男、やめておいたほうがいいぞ。」
「私もそう思ってます…。」
先輩の印象はこの短期間で大きく変わった。彼は全然優しくなく、恐ろしく底意地が悪い。あとなんかすごく脅してくる。もはや約束とか契約とかではない。前回のクルーウェル先生と付き合っている誤解を解いた後も、
「今回のことは許すつもりでしたが、次浮気したら浮気相手の男の顔を、あなたが見た時判別付かなくなるくらい殴って懲らしめますので。」
「それって…。」
「ええ、察しが良くて助かります。あなたを懲らしめるために浮気相手を殴ります。…あなたは優しいので、僕にそんなことさせませんよね?」
とにこにこ機嫌良く言ってきた。なにか吹っ切れた顔だった。
しかし惚れた弱みとでも言おうか…そこまで言われてもなお、手放したくないと言われているようで、嫌いになれなかった。そもそも浮気するつもりはない。
「わかっていても止められないってか…難儀な。」
呆れたように煙を吐く。研究室が葉巻の独特な匂いで埋まっていった。
「それにしても、リーチ兄も卒業して少しはマシになったかと思ったが…。お前みたいなまだ芸も出来ない仔犬に手を出しているなど不快な勘違いをするとは。学校で何を学んできたんだ。」
「酷くないですか!?」
先生は私を見ながら心底不快そうな顔をした。気持ちはわかるが散々な言い草である。
「リーチに伝えておけ。俺は毛皮を着た年上の美しい女にしか興味が無いとな。」
初耳だったが、なんとなく納得もした。確かに好きそうだ。伝えた所で先輩は興味なさそうだが。
「それ、絶対学校とかで言わないほうがいいですよ。」
「ハン、仔犬共に噛み付かれた所で痛くも痒くもないな。飼い主に歯向かう駄犬は躾直すだけだ。」
嫌な教師だ。
「もしもジェイド・リーチになにかされたらすぐさま報告しろ。俺はお前を学園長から預かっている義務がある。あれは何かと不安定だからな。」
「不安定ですか?」
私が知っている感じでは、先輩ほどぶれない人(ウツボ?)もいないと思うが。
「お前はカレッジから出たあとのことは知らないだろうが、相当荒れたぞ。取り繕ってはいたが、見ていて少し心配になる程度にはな。」
「えっ。」
「男を狂わすとは、お前も相当いい女になったじゃないか。…もし、お前があいつを嫌っていないなら、ちゃんと安心させてやれよ。」
◇
安心、安心か。家に帰ってもクルーウェル先生との会話が頭の中でぐるぐるしていた。先生に言われるくらい取り乱していたなんて、当然私は知らなかった。
「…僕といるのに考え事ですか?」
先輩は拗ねたようにベッドの中でぐるぐると私に絡みついてくる。人魚の姿でないのに巻きつかれているように気持ちになるのは、この大きな体と長すぎる手足が原因だろう。憎たらしいことである。少し身じろいて隣を見ると、先輩はじとっとした目で私を見ていた。
「…先輩のことを考えてました。」
「っ!」
この人は不安なのだろうか。また私がどこかに行ったら、探してくれるのだろうか。しかし、もう私はこの人を置いてどこかに行けないだろうなとも思っていた。あの壊した日々を作り直すように、今までの空白を埋めるように、先輩からは心と感情をもらっていた。この人は行動と態度で好意を示してくれている。
「先輩は、私といて安心しますか。」
一つ、わたしは気になっていることがあった。ジェイド先輩は毎日のようにわたしの家に通ってくれるし、家の中ではこれでもかというくらいぺたぺたくっついてスキンシップをとってくれる。しかし、やっぱり同棲の話は出ないし(このことに関しては少し嫌な予感がするのでもう触れないが。)、何より、わたしもジェイド先輩も好きだと言った記憶がない。やることもやっていて今更なのだが、再会があまりに嵐のようだったので、すっかり抜けていたのだ。
「どうしたんですか。」
「私、気になることがあって。」
ジェイド先輩はきょとんとした顔で私を見ていた。いつも悪そうに笑っていたり、胡散臭く微笑んでいることが多いので、そういう素の表情になると幼く見えた。先輩は特に思い当たらないようだ。その顔をみて私は怖気づいてしまった。もしかして、先輩は私と付き合っている気じゃないのかもしれない。いや、ここまでしておいて…、わからない、未だにこの世界の常識も、海の世界の常識もわかっていない。さっと血の気が引いた。
「なんですか?少なくとも僕は、あなたを安心させられるように努力しているつもりですが…。」
「いや、あの、私の勘違いかもしれなくて。」
私があなたを好きなことって知っていますか。この質問はおかしいだろう。私たちの関係って何ですか。これも違う。少なくとも先輩は私を安心させてくれている。この質問はそんな先輩に失礼な気がした。
「すごく今更の話なんです。でも、重要な話なんです。」
私の意を決したような表情を見て、ジェイド先輩はほんの少し体をこわばらせた。やっぱり、私は先輩を安心させられていない。ならば、これは私から言わなければならないのだ。感情が欲しいと言っておきながら、自分は渡さないなんてフェアじゃない。
緊張で奥歯かカチカチと震えた。手汗もじっとりとかいている。ものすごく今更な話なのに、なかなか言葉が出てこない。しかし、先輩の瞳の奥に、一抹の不安のようなものが見えた気がして、私は意を決した。こんな気持ちにさせたいわけじゃない。
踏み込め。踏み込むのだ。例え踏み込んだ先で傷ついても。無理やりでも内側に入り込まなければ、奪い取ることなんて出来ない。
「ジェイド先輩、私、先輩のことがずっと…。」
でもどうか。私が望むこと答えが返ってきますように。この愛しい侵略者が、願わくば私の侵入を赦してくれますように。そうしたら、また新しい関係が築ける。
今度は、私でも彼でも壊せない関係を。
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