2日目

オクタヴィネル寮への引越しは思った以上にスムーズに終わった。昨日の時点でジェイドとアズール、そして寮生の何人かがほとんど準備を終わらせてくれていたので、監督生とグリムは部屋を移動するだけで引越し終了したのだ。人魚になってしまった彼女はもちろん歩いて移動できないので、ジェイドが準備してきたテラリウムに使うような丸い水槽に移されて運ばれた。魔法がかかっているようで、ふわふわと宙に浮いており、中の水はどんなに揺れてもこぼれることがなく、彼女は少しはしゃいでいた。

「すごいですね!シャボン玉に入ってるみたいです!」

不思議と顔は出せたので、胸下まで水に使って運んでくれているジェイドに話しかける。元々宙に浮いているので、運ばれても体重などを気にせず、気さくに話しかけることができた。これが抱えていくとかであったら、申し訳なさで何も言えなくなる。

「ええ、現代では基本的に使わないんですけどね。昔と違って人魚のまま陸に上がることはほぼないので。」
「昔は人魚のまま上がってる人もいたってことですか?」

ジェイドは良くぞ聞いてくれました、と言わんばかりの悪い笑顔を向けてきた。ギザギザとした歯がちろりと見え、口角は三日月のようにぐっと上がる。彼女はいらないことを聞いてしまったと直感で感じた。

「ええ、人魚は陸では珍しいようで…商品として捕獲されてたんですよ。これはその商品を運ぶ時に使用された人魚運搬方法です。」
「降ろしてください!!!」

彼女は声を上げた。なんてものに乗せたんだ。今はないにしても何となく嫌だ。とんだ嫌がらせじゃないか。

「ふふ、さてこちらのかわいい人魚さんはどうして差し上げましょうかねぇ。」

そう言って笑う様はまさに人魚を捕まえた奴隷商人のそれだった。

「うっ、売られる…!」
「まさか。オクタヴィネル寮で大事に大事に可愛がって差し上げますよ。」
「めっちゃ労働させられるやつじゃないですか!」
「はは。」

ジェイドは曖昧に笑ってごまかした。これはもしかして何かしらあるかもしれない。例えば、モストロ・ラウンジで見世物にさせるとか。もしそうだとしたら、やってることがほぼ奴隷商人である。

そうこうしているうちにオクタヴィネル寮の彼女とグリムがこれから生活する部屋に着いた。部屋は彼女たちが使用しているオンボロ寮と同じくらい広かった。そういうと普通に聞こえるが、彼女たちはオンボロ寮の一番広い部屋を居住スペースとして使用しているため、それと同じということは、おそらくここは寮長クラスの部屋であることがわかる。

「こんな大きいお部屋いいんですか…?」
「ご迷惑をおかけしたのはこちらですから。ちなみにこの部屋はアズールが手配しております。」

今回の件はモストロ・ラウンジの総責任者であるアズールも申し訳なく思っているらしい。部屋の中にも色々な調度品で整えられており、すぐにでも生活が始められそうだった。

「オクタヴィネルは他の寮よりバスルームが広いので、オンボロ寮のバスダブよりは過ごしやすいと思いますよ。」

そう言って通されたバスルームはオンボロ寮とは比べものにならないくらい広かった。バスダブがとにかく大きいのである。これなら尾ヒレを存分に伸ばして座れるし、少し頑張れば、彼女くらいの身長なら寝転がれそうだった。

「すっごい広い!」
「ふなー!オンボロ寮とは比べものにならないんだゾ!」

すでにバスダブには少量の水が入れられており、彼女はすぐにバスダブに降ろされた。今度はひっくり返ることなくちゃんと座ることができた。もちろん昨日かしてもらったエアピローたちも持ってきてある。簡易テーブルも用意されているので課題なども出来そうだ。ここまでくるとちょっとした部屋である。

「僕たちみたいな人魚でも入れるように大きく作っているんですよ。オクタヴィネルは人魚が多いので。」

確かに、以前彼らの人魚姿を思い出す。とても長く、体格も大きかった。あの状態のまま普通のバスダブに入ったら尾ヒレのほとんどがはみ出してしまうだろう。人魚と一概に行っても体格の大きいものから小さいものまで様々なので、バスルームは広めに取ってある設計らしい。

「蛇口がいっぱいついてるんだゾ!お湯と、水と…これはなんだ?」

グリムが黄色の蛇口と緑の蛇口を触る。ちなみにお湯は赤、水は青の蛇口だ。全部で4つの蛇口が付いており、全てひねればバスダブに中身が入れられるようになっている。

「そちらの黄色い蛇口からは淡水が、緑の蛇口からは海水がでます。水の調節などは基本僕がするので大丈夫だとは思いますが、間違えないようにしてくださいね。」

人魚にも淡水に住む人魚と海水に住む人魚がいる。海水に住む人魚のほうが圧倒的に多いが、水の違いは命にかかわるので、オクタヴィネルは両方の水が出るようにしているのだ。

「間違えるとどうなるんですか?」
「あなたの場合長時間淡水につかるとむくみます。」
「むくみ。」

思ったより酷いことにならないようで安心した。

「いいえ、怖いので気をつけてください。小さい魚は、水が違うとあっという間に死にますから。」

お返事は、と促される。ここは言うことを聞いておいたほうがよさそうだ。なんて言ったってジェイドは人魚の先輩でもある。事実、水の間違いで普通の魚は死ぬし、魔力を持たない人魚だと長時間浸かっていればやはり死に至る。これは人間が海水を飲み続けたら死んでしまうのと同じことだ。ジェイドやフロイド、アズールのような人魚であれば、魔法である程度調節できるので、プールでも何でも泳げてしまうが。

「それにしても、剥がれてしまった鱗も元に戻りそうで良かったです。」

ジェイドは彼女の鱗をうっとりと眺めた。自分やフロイドにも鱗はあることにはあるが、皮膚に埋もれてしまっているので、こうして鱗らしい鱗を見るのは陸に上がってから久しぶりだった。それに彼女はまだ稚魚のせいか、鱗は一枚一枚がつやつやと輝きを含んでおり、先のヒレも透き通っていて美しかった。それに加えて、自分が贈ったシュミーズが彼女に幼稚さと華やかさを加えている。あとは鱗が全て回復すれば完璧である。

「薬がすごく効いて、全然痛くなくなりました!本当にすごいんですね!」
「なんていってもフロイドのお墨付きですから。」

彼女が動くたびにシュミーズの裾が水の中でふわふわと揺れる。まるで水の中に降る光のようだ。ジェイドは何となく裾に手を伸ばそうとした、その時。

「おーーーい!!もう引っ越しは終わったかー!?」

モストロ・ラウンジのスタッフである同級生三人が乗り込んできた。ジェイドはさっと手を引っ込め、彼らに向き直る。タイミングの悪い連中だ。

「わー!来てくれたんですか!」

彼女も無邪気にブンブンと手を振った。スタッフたちはズカズカとバスルームに上がり込むと彼女をバスダブ越しに囲みだす。

「一昨日は本当にごめんな。」
「本当に気にしないでください、事故ですし…。」
「いや、一昨日のドリンク俺だったんだよ、本当に申し訳ないことをした…。ジェイドも、本当にありがとうな!」

彼は非常にサバサバとしたラウンジのスタッフで、彼女もよく利用した時に話していた生徒だった。今回のことはドリンカーをやっていた彼にも責任があった。

「いいえ、副寮長として当然のことをしたまでです。」

もう一人のスタッフがそっと彼女に耳打ちした。

「とか言って、お前がシータイム飲んだかもしれないってなった時、真っ先に向かってたんだぞ。」
「えっ」
「聞こえてますよ。」

ジェイドは地獄耳だった。彼らは自分の圧にも屈しない上に彼らは面白おかしく自分を語るので、彼女に自分のイメージを崩されそうで嫌だ。そうは言うがオクタヴィネルで生きてくには、ジェイドの凶悪さにひれ伏してばかりではやっていけないということだ。

「おおこわ、これ以上余計なこと言ったら”絞められる”ぞ」
「あはは」

普段モストロ・ラウンジに行くといつもジェイドが相手をしてくれ、ジェイドがいない時だけ彼らが相手してくれていたので、彼女はこうしてジェイドが同級生と話しているのを見るのが新鮮だった。

「あなたまで…。」
「すいません、つい。でもジェイド先輩も楽しそうだったので。」

ジェイドはついと片眉を上げた。そんな風に見えていたとは思わなかったからである。

「そういえばお詫びにならないとは思うけど、色々使えそうなものを持ってきたからちょっと見てくれない?」

スタッフの一人が持っていた紙袋を掲げる。どうやら今回のバスルーム生活のために彼らなりに準備してきてくれたらしい。彼女は受け取り、中身を見るとそこにはお菓子や本、ボードゲームなどが入っていた。

「わー!すごい!」
「時間潰しのものはいくらあっても困らないかなって。あとこれが俺ら一番自信あるアイテムなんだけど…。」

そう言ってスタッフの一人が彼女の持っている紙袋に手を突っ込んでゴソゴソと漁る。そして何かを掴むとズボッと取り出した。

「じゃん!光るアヒル!!」
「わーーーい!!!」

彼女は思わずテンションが上がってしまった。あのお風呂に欠かせない、定番の形をしたアヒルがまさかこの世界で見れると思っていなかったからである。

「やっぱり陸の女の子が風呂の時に、アヒル欲しがるのは本当だったんだな!」
「しかも見てくれよこれ、光るんだぜ!マジックチャージ式だから、光らなくなったらグリムの上にでも置いておけば、また光るようになるからな。」
「俺様に乗せると光るのか!?」

みんなでワイワイとアヒルを囲む。水に浮かべるとアヒルは色とりどりに光りだした。赤、青、黄色、紫、オレンジ、ピンク、黄緑…となんともエレクトリカルだ。これが魔法で動いているとわかってはいるが。今もらったものの中で一番謎にテンションが上がってしまった。

ひとしきりアヒルで遊ぶとスタッフたちは次の授業があるからと退散していった。そのついでにグリムはスタッフたちに運んできた自分のベッドを設置させていた。なんと図太い魔獣である。さすがナイトレイヴンカレッジの生徒というべきか。

「バカみたいにはしゃいじゃいました…。」
「そうでしたね。」

ジェイドに話しかけて彼女は少し違和感を感じた。いつもと同じ笑顔であるが、なんというか、張り付いた笑みなのである。しかしこれくらいではもう怯まなくなってきた。この感じは可愛く言えばヘソを曲げているのである。

「もしかして、さっきの先輩方と実は仲悪かったりします?」
「はい?」

ジェイドは固まった。まるで見当違いなことを言われたからだ。ジェイドもわかっている、これは非常に子供っぽいことであり、彼女は何も悪くないのだ。そして、彼女とは親しくない仲ではないので、こうして感情を出してしまう。これが商売相手や何か利害のある人相手であればジェイドは全く感情を露わにしない。

「…すいません、あまりにも彼らのプレゼントに喜んでいらっしゃったので。」

僕が渡した時はそんなにはしゃがなかったのに。さすがにこの言葉は飲み込んだ。あまりに子供っぽい嫉妬だった。自分だけが彼女を喜ばせたかったのだ。

「ジェイド先輩が色々してくれたので、余裕ができたんです。」
「えっ。」

我ながら現金な男だと思った。しかし、今の一言で確実に自分の機嫌は好転した。

「人魚について色々教えてくれて、こうやって環境も整えてくれたので、アヒルちゃんにはしゃぐ余裕ができたんです。本当にありがとうございます。きっと昨日の朝のままだったら、はしゃぐどころじゃなかったです。」
「…そうでしたか。」

ジェイドはにっこりと笑った。彼女の手のひらで踊らされている感じがまた、なんとも心地よかった。もちろん彼女にそんな意図がなかったとしても。

「僕のしたことが迷惑なっていなくて、良かったです。」
「迷惑なんて思わないです!」

彼女は思わず食い気味に答えてしまった。それくらいジェイドのサポートは万全だった。

「なんでもできるジェイド先輩でも、心配になるんですね。」

彼女はちょっと可愛いとさえ思ってしまった。なんだか人魚になってから、ジェイドの新たな一面が見れているような気がして嬉しかった。

「おやおや、買いかぶりすぎです。僕は意外と心配性なんですよ。」

オクタヴィネルの寮生が聞いたら大ブーイングを食らいそうなことを平然と告げていると、ベッドの設置が終わったグリムも帰ってきた。

「ジェイド〜、お前は次授業ないのか?」

次の授業は本来であれば、監督生とグリムは魔法史が入っていた。今回珍しくグリムはちゃんと出席するようだ。昨日の約束を果たしてくれるらしい。

「ああ、僕も実践魔法が入っています。」
「あっじゃあもう行かないと着替える時間無くなっちゃいますよ。」

寮からグラウンドは近いようで遠い。特に一度更衣室に行くとなると、今からでないと間に合わないだろう。

「そうですね。ではグリムくん、途中まで一緒に行きましょうか。」
「しかた無いから行ってやるんだゾ!」

彼女におとなしくしてるんだゾ〜!なんて親分ぶりながらグリムはバスダブを出る。ジェイドも授業が終わったらまたお伺いしますので、くれぐれも無茶しないように言い渡してグリムを追った。どれだけ信用無いのだろうか。



しかして暇である。まだ借りた本はあるが、よくよく考えなくても昨日からずっとバスルームにいるのだ。体も人魚になってしまったので好きに動かすことも出来ない。なんというか、飽きてしまったのだ。飽きたからといって人魚を辞められる訳でも無いのだが。

ちなみに、ジェイドとグリムが授業に行った後にアズールが様子を見にきてくれていた。

「このたびはこちらの不手際で多大なご迷惑をおかけしてしまし申し訳ございません。」
「も、もう本当に大丈夫ですから…!!」

会う人会う人に謝られて、そろそろ彼女の方が申し訳なくなってきてしまったのだ。もう事故なので諦めている。死ぬ訳でもない。こう考えられるようになったのも、ジェイドが万全の環境を整えてくれたからというのはあるが。

「ですが…。」
「この部屋用意してくれたのってアズール先輩ですよね!本当にありがとうございます!オンボロ寮ってバスルームも結構年季入っているので、本当に助かりました!体もすごく楽になりましたし!なのでもうお詫びは頂いてるので大丈夫です!!」

彼女が身を乗り出してまくし立てると、アズールは勢いに押されて少し仰け反った。アズールに始まった話では無いが、意外とこの世界の住人は押しに弱い。普段はグイグイ押す側なので意外と押され慣れていないのだ。

「あなたがそこまで言うのでしたら…。」

アズールはメガネをついと指で上げた。これは彼がよくやる癖である。

「それに私も気づかずに飲んじゃったので…。あの後大丈夫でしたか?先生に怒られたりとか…。」
「ああ、それはもちろん監査が入りましたよ。ですが、今回はあまりにイレギュラーな話でしたので、特に制限とかはなかったです。」

それを聞いて彼女は安堵の表情を浮かべた。シーサイドの売れ行きは中々良いと聞いていたので、自分のせいで販売中止になったら申し訳ないと心配だったのだ。

「でも、不思議ですよね。私今まで小さくなる薬とか普通に飲んで使ってたんですけど、その時は特に変なことは起きなかったのに…。」
「ですから変身薬は注意深く扱わないといけないんです。」

何かに干渉する魔法というのは得てして難しい。瞬間移動やすり抜け、物質変化がそれにあたる。魔法でも難しいのにそれを魔法薬で…となると、思っている以上に高度なことをしなければならないのだ。何かに干渉するにはリスクが出てくる。そのため、強度の変身薬は禁薬なのだ。アズールはすらすらと説明してくれる。さすがとしか言いようがないだろう。

「とは言ってますが、僕も偉そうに何かを言える立場ではありませんね。こうして事態を起こしてしまったのですから。ですがこれ以上は言いません、約束ですので。」

アズールはそう言いながら一枚の紙を取り出した。

「ですので、別件のお話に移りたいのですが…。」
「この紙なんですか?」

濡れた手で触ってもふやけない、つるっとした紙を渡される。開いてみると、中にはモストロ・ラウンジのメニューが書いてあった。

「あなたのお食事です。ここにいる間はお好きなだけ食べてもいいですよ。もちろん代金は要りません。」
「いいんですか!?」

いつもならお代を要らないなんて言われたら身構えてしまうが、今回ばかりはわかる。これもきっとお詫びの一つだろう。

「どこにも行けないあなたに食事をするな、なんてこと言えません。せめてお食事だけでも楽しんでいただけたらと思いまして。」

メニューを見ると以前自分が好きだと言っていたものばかりだった。なんてことだ、いつまでこの姿なのかはわからないが、人間に戻れた時に太ってしまうかもしれない。

「もちろんグリムさんのお食事メニューも用意しています。ジェイドが来るでしょうから、その時に申しつけていただくか、グリムくんでも派遣してください。」
「忙しいのにすいません…。」
「あなたとグリムくんの賄いなど負担にもなりませんよ。遠慮なくご利用くださいね。」

気が向いからマジカメにアップして宣伝してくれると嬉しいです。そんなことを言って、アズールは他にも用事があるらしく、早々にバスルームを出て行ってしまった。

そんなわけで、夜は楽しみが出来たのだが、そうなるとやはり日中は暇である。基本誰が来るわけもないし、ずっと一人だ。マジカメを見るにも限界があるし、よくよく考えれば今の楽しみが食べることだけって結構やばくないか…?何てことも思ってきてしまった。これは運動を、多少の運動をしなくては。

暇な生き物というのは時に不思議な行動をとる。彼女はあろうことか、バスダブから出てみようと思ったのだ。バスダブの縁からタイルまで、そこそこ高さはあるが、かといって極端に高いわけでもない。もしやばそうだったら早々に戻ればいいだろうと思った。少しこの尾ヒレの使い方も覚えたほうがいいだろうし。

「ほっ。」

バスダブから身を乗り出すと、腕だけバスダブの外に出して、タイルに手を伸ばす。ゆっくりゆっくり尾ヒレで上半身を傾けさせると、手のひらが完全にタイルについた。少しひんやりとしている。そして今度は腕を足のように動かして徐々にバスダブから遠ざけていく。そして腰までバスダブの縁に来たところで、胸をタイルにぺたりとつけ、うまくバスダブの外側を使いながら魚部分をずろっと引き上げた。

「あいて」

最後勢い余ってペチンッとまた尾ヒレが叩きつけられたが、昨日と比べたら全然痛くない。うまいことバスダブから這い出ることに成功したのだ。この不思議な達成感。なんなら感動もしている。出ようと思えば出れるのだ。みんなここから出ない前提で話していたが、もし多少バスルームを動き回れるのなら、何か気分が変わる気がした。

彼女は起き上がると、体を確認した。特に動いても最初の時のような鱗や粘液が剥がれるような感じはしない。大丈夫そうだった。また、ジェイドから贈られたシュミーズが粘液を保護してくれているようだ。ずり、ずりと体を起こしたまま腕と尾ヒレを使ってバスルームを動き回る。これはいい運動になりそうだ。

「あれ?」

多少動き回って思ったが、このシュミーズは本当にすごいもののようだ。こんなに動き回ったのに、床に粘液がついたりなども一切ない。正直、多少染み出して、ナメクジの跡のようになると思っていたのに。

ここで魔が差した。これなら汚さないからバスルームから出てもいいかもしれない。万が一のため、バスルームのドアは開け放していたので、特に何の苦労もなく出ることができる。せっかくオクタヴィネルに寮に泊まるのだ、部屋散策でもしよう。

オクタヴィネルの部屋というだけで新鮮だったが、視界がだいぶ低いことも相まってより新鮮に映った。ソファは元の世界で言う所のローテーブルのような高さだし、テーブルは思った以上に巨大に見えた。まるで、立つことを覚えた子供のような目線だ。特に目的はないので部屋の中をノロノロと移動した。久しぶりの運動だ。たまに肩がパキパキなるので、やはりずっと同じ姿勢は体に良くないのだろうなぁ、など呑気なことを考えた。

結構な時間をバスルームの外で過ごした。あえて本を持ってきてソファに寄りかかって読んでみたり、床に寝転んで転がってみたり(この世界に来てから全てが洋式だったので、部屋の床に寝転ぶというのはものすごく懐かしい感情を呼び起こした。)、カーテンを閉めてみたり。意外とこの姿でもできることは多かった。とにかく圧倒的な開放感。それが彼女の要らないチャレンジ精神を呼び立てた。

最後に少し廊下とかも見てみようかな、そもそもドアって開けられるのかな、そんなことまで考え出した。ドアを開けるということはまだやっていなかったので、試してみたくなったのだ。ずりずりとドアまで移動する。ドアノブは膝立ちすれば鍵にも届くし、ドアノブも回せそうだ。そもそもこの部位を膝と表現していいのかはわからないが。ドアノブに右手をかけて、少し体重を乗せると、左手で鍵を開けようとした。

「うわっ!?!?!?」

しかし、それは思わぬ形で失敗を遂げる。突然鍵が開き、ドアが開いたのだ。突然ドアを引かれて支えるものが無くなった彼女はべしゃっと前に倒れこむ。手がコツンと何かに触れた。革靴だ。

「何を、しようとしてたんですか?」

彼女はその声を聞いた瞬間、一気に総毛立った。胃の腑のあたりがすっと冷えていく。恐ろしくて顔を上げられない。その声はよく知った声であったが、今までに聞いたことのないくらい、冷たかったからだ。

その人物はすっと跪いた。彼女の視界に彼の体が映る。そしてそのまま彼女を優しく抱き起こす。仕草は優しいのに、空気が冷たい。初めて、バスルームから出て寒さを感じた。外界とはこんなに寒いものだろうか。

目を合わせてはいけないと、本能が告げている。というか恐ろしくて目なんて合わせられない。そう思っていたのに、優しく顎を持って目線を合わさせられる。とてもじゃないが逆らえなかった。視界いっぱいにその人物の顔が映る。もう逃げられない、ジェイドが帰ってきたのだ。

「だんまりではわかりませんよ。何をしようとしていたんですか。」

ジェイドの表情はスコンと抜けていた。普段携えているような微笑も、獲物を見つけた時のような凶悪な笑みも、困ったような様子も、何もない。感情が全て抜け落ちてしまったかのように真顔だった。ただ金と鈍色のオッドアイがギラギラと光り、彼女を刺した。仕草は優しいのに、声は冷たい。彼女の脳は混乱しそうだった。震えが止まらない。しかし、答えなければ、よりひどい目にあうだろうということは混乱していてもわかっていた。

「ろ、廊下に、出てみようかなって…。」

彼女の返答を聞くとジェイドはすっと目を眇めた。鮮やかな金色の瞳がギラギラと光っているような気さえした。

「へえ、廊下に。それは残念でしたね、タイムオーバーです。」

にっこりと。笑ったジェイドを見た瞬間、何故かわからないが食われると思った。彼女は反射的に身を引いたが、ジェイドは素早く彼女を片腕で抱き上げると、そのまま空いた手で器用にドアを閉め、鍵をかけた。絨毯がジェイドの革靴の音を消す。彼はそのままバスルームに向かった。這いずって行った時は結構時間がかかったのに、歩いて行くとすぐである。あっという間にバスダブ前に着く。抱き上げられているので、視界が高い。2メートルも地面と距離があるというのは恐ろしかった。まさか、このまま投げ落とされるのではないだろうか。おそらくジェイドは怒っているのだ。恐ろしくなって、投げられないようにぎゅっとジェイドの頭にしがみついた。

「す、すいません…。」
「それは何に対してですか?」
「えっと、」

ジェイドの声は依然冷たく、水を打ったように静かだ。彼女は泣きそうになった。もうどうしたらいいのかわからなかったのだ。ほんの少しの好奇心でこんなことになってしまうなんて。ジェイドに抱きついている手が緊張と恐怖で震える。

「…かわいそうですねぇ、こんな、居たくもないところに戻されてしまうなんて。」
「え?」
「あなたがどんなに嫌がっても、僕は必ずあなたを捕まえて連れ戻します。」
「あの…?」

ジェイドは彼女をゆっくり自分から引き剥がす。彼女は抵抗しなかった。バスダブの中に降ろすと、シュミーズの裾がふわりと広がり、陸では完全に隠れている彼女の鱗がチラチラと見えた。こんな時なのにジェイドは彼女の鱗に見入ってしまった。彼女はそれに気づかない。

「よくここから逃げ出せましたね。」
「待ってください。」

彼女はようやくピンときた。未だジェイドが怒っているのかどうかは良くわからなかったが、ジェイドは自分がここから逃げようとしていると思っているらしい。まさか、どうしてそんな発想になったのだろうか。

「なんですか。」
「あの、逃げてないです。」

ジェイドはこてん、と首をかしげた。今度はジェイドが彼女が何を言っているのかわからなかったのだ。

「ならどうして…。」
「暇だったんです。」
「は。」

思わず間抜けな声が出た。彼女は今何と言ったのだろうか。

「暇で、その、やってみたら出れちゃって…。先輩に迷惑かけたかったわけじゃないんです。」
「…ここが嫌になったわけではないと?」
「まさか!」

ジェイドは彼女をまじまじと見た。嘘をついているようには見えない。自分も間抜けな顔をしている自覚はあったが、彼女もそこそこ間抜けな顔をしていた。そこに恐怖や嫌悪感を感じられない。

「2日もバスダブに座ってるとどうしても飽きちゃって…。」
「なるほど。」

ジェイドも失念していた。水槽の中の窮屈さなど、自分たちがよく知っているだろうに。

「すいませんでした。あなたが、オクタヴィネルを嫌になってしまったのかと思って…。」
「本当に暇だっただけなんです。すいませんでした。」
「いえ、僕の手落ちです。あなたの環境をもう一度考え直した方がいいですね。」

ジェイドは水の中に手を入れ、彼女に乞うようにちろりとみた。もうジェイドからは先程のような雰囲気は跡形もなく消えていた。

「あなたの鱗に触れても?」
「えっ、あっ、はい!どうぞ!」

彼女は少しだけ裾を上げた。海の底のように深い青の鱗が照明の光を反射してきらきらと輝く。指ですっと撫でると、当然だが、鱗の形にぽこぽことした手触りが伝わってくる。

「綺麗ですね、あなたの鱗。」
「そういえば、先輩って鱗あるんですか?前人魚の姿見た時、あまり見なかった気がしたんですけど。」

ジェイドは少し考える仕草をした。なんといえば伝わるか考えているようだった。

「鱗は一応あるんですが、皮膚の下に埋まっています。なので目視はできないかと。」
「そうだったんですね。」
「僕たちの皮膚は厚くて硬い。頑丈なんです。」

彼女は自分の鱗を撫で続けるジェイドの甲を触った。当たり前だが今は人間と変わらない皮膚だった。ジェイドはそのまま彼女にまるで秘密を打ち明けるように耳打ちをした。

「あなたの尾ヒレを見てください。腰ヒレもなんですが…。透明でしょう?」

彼女は自分の尾ヒレを改めてみた。先に行くにつれて青色が薄まり、透明になっていっている。しかし、これがどうしたと言うのだろうか。

「これはまだ、稚魚の証なんです。」
「えっ。」

そうだったのか。彼女はてっきり、人魚のヒレはみんなこんな感じなのかと勝手に思っていた。

「ここで無理をすると、ヒレが変形してしまうんです。それだと困るでしょう。特にあなたのような種の人魚は、僕らと違って脆いので。」
「で、でも」

なんとなく、ずっと人魚でいるような口ぶりに彼女は困ってしまった。やはり早く人間に戻りたい。

「あなたがずっとこの姿でいるわけじゃないのは当然わかっていますが、いつ戻るかわからないなら、なるべく健康な方がいいと思いませんか?人魚にとってヒレの形は死活問題ですし。」

それは一理あると思った。どうせ過ごすなら健康体の方がいいのは当然だ。

「ですが、確かにずっとここに座っているのも不健康ですね。近いうちにどこか出かけませんか?このくらいのバスダブなら尾ヒレの変形の心配はありませんが、飽きたあなたの無茶で体を壊しそうだ。」

ジェイドは笑った。考えたらよくあそこまでたどり着いたものだ。しかも、逃げる為に必死に、というわけでもなく、ただ暇で出来てしまったからという理由で。

「でも私泳げるかどうか…。」
「泳ぎ方ももちろんお教えしますよ。ですが確かに初日から海は危ないですね、潮の流れなどもありますし…。」

そもそも彼女はまだエラ呼吸をしたことがない。まずはそこからだろう。そうなると、できるだけ負担のかからない海水で、急な流れの無い、天敵などの心配のない安心なところで無いと難しいだろう。そうなると選択肢は限られた。

「でしたら、明後日に閉店後のモストロ・ラウンジの水槽にご案内いたしましょう。あそこはラウンジから見えるところ以外にも色々こだわっておりまして。きっとお楽しみいただけると思いますよ。」
「わ、それは楽しみです!」

彼女は無邪気に喜んだ。外出の予定があるだけで気分が大分上向く。明日以降、まだ人魚から戻れなくても大人しくいようと思える位には。ジェイドも自分の提案に疑いもなく喜ぶ監督生に嬉しくなった。もちろん今回は何も企んでいない、ただのお誘いであった。いいや、違う意味で言えば少し企んでいるが、普段の企みと比べれば可愛いものだろう。

「それまではくれぐれも無茶しないでくださいね。僕の心臓が持ちません。」
「あはは…。その節はすいませんでした…。」
「わかっていただければいいんです。」

その後もジェイドとたわいない話をしていると、授業を終えたグリムが乗り込んできた。ちゃんと板書して来てくれたようだ。今夜は今日の授業の復習に時間を割こう。また、長い夜が始まろうとしていた。

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