3日目
3日目、彼女はそろそろこの状態に慣れてきた。人はどんな異常事態にも3日もすると慣れてくるのだなあ、なんてどこか他人事のように考えた。順応は生きる為に必要な進化なので良いことだろう。しかし、慣れた頃こそ、厄介なことは起こるのだ。
「小エビちゃ〜ん、遊びにきたよぉ〜。」
フロイド・リーチである。まさに嵐の襲来と言っていいだろう。フロイドは彼女の返事も聞かずズカズカとバスルームに入り込むと、ジェイドが用意していった椅子をガタガタとバスダブに寄せると、どかっと座った。そして不遜に足首を自分の太ももに置くように足を組むと、行儀悪くバスダブの縁に肘を置いて顎をついた。体格も大きければ態度もでかい。ほぼ同じ見た目なのに、仕草が違うだけでもう一人とは受ける印象が全く違うのは面白い話だ。
「暇して無茶して昨日ジェイドを怒らせたんだって?ウケんね。」
フロイドは頬杖をついてる手とは反対の手をジャバンと水に突っ込んだ。ジェイドもここで話すとき、手持ち無沙汰なのかよく水に手を突っ込む。人魚はみんな水を見ると触りたくなるのだろうか。そんなどうでもいいことを彼女は考えてしまった。
「そうなんです、すごい怖くてびっくりしました。やっぱりフロイド先輩のご兄弟なんですね。」
「んん〜?」
フロイドが笑顔で首をキュッと締める仕草をした。彼女は素直に謝る。フロイドは見逃してやった。そして彼女の青い尾ひれを見るとすぐに興味がそちらに移った。
「あれ、もう大人になったんだね。」
「え?」
フロイドは彼女の尾ヒレを指差した。
「昨日ジェイドは透明だって言ってたからぁ、まだ稚魚なのかなって思ってたけどぉ。」
ほら、とフロイドに示されるままに自分の尾ヒレを見ると、なるほど確かに尾ヒレの先が昨日まで透明だったものが鮮やかな青に変わっていた。意外と自分の体の変化には疎いものだ。
「小エビちゃんがなっちゃった種は成魚になると尾ヒレの色が変わるんだよ。よかったねぇ、明日には泳げるよ。」
「知らなかったです…。ジェイド先輩は何も…。」
「その前に人間に戻ると思ってたんじゃね?」
「あっ確かに。」
彼女は器用にバスダブの中で尾ひれを折りたたむと、正座のような座り方をした。
「個性的な座り方すんね。」
「ずっと同じ座り方してると腰が痛くて…。」
彼女は腰をさすった。ずっとバスダブに背中をつけて座っていると尾てい骨あたりが痛むのだ。ジェイドのくれたエアクッションで少しは楽になるが、それでも取れる姿勢の数には限界がある。
「カワイソー。そっか、普通に座るにもここじゃ深さが足りないもんね。」
フロイドは彼女の腰ヒレがある場所を見た。本来人魚は彼女が着ているシュミーズのような長い服を着ない。煩わしそうだなぁ、なんて見ていて思った。
「ずっとそれ着てんの?」
「は、はい。やっぱり服がないと落ち着かなくて…。」
「腰ヒレ変形してっかもね。そんな服着てヒレ痛くねーの?」
ジェイドからもらったシュミーズは非常に軽いのでそんなことは気にしたこともなかった。
「ええと…。」
「ま、いいや。ジェイドに見てもらいなね。」
今ここで彼女のスカートをひっくり返してみても良かったが、そんなことをして泣かれでもしたら、ジェイドにどやされる。フロイドもそうして泣かせるのは本意ではない。
「てか、俺、小エビちゃんは小エビちゃんになると思ったのになぁ。」
エビの人魚ということだろうか。しかし、イマイチ甲殻類の人魚というのは彼女には想像がつかなかった。正直この世界に来なければ、人魚にも色々種類があるということを知らなかっただろう。
「エビの人魚っているんですか?」
彼女は正直に聞いた。フロイドの返事は即答だった。
「そんなの俺が知るわけないじゃん。」
「ウツボとエビって共生してるんじゃないんですか?」
今度はフロイドが驚く番だった。自分は彼女を小エビと呼んでいるが、そんな大昔の人魚の生活様式を彼女が知っているとは思わなかったからである。彼女はそれを知ってなお、このあだ名を受け入れているのだろうか。しかし、フロイドはそこまで彼女に興味があるわけではなかったので、その質問をしまった。これはジェイドに面白おかしく報告しようとは心に決めたが。
「よくそんな昔のこと知ってんね。」
「前にジェイド先輩が言ってました。てっきり今もそうなのかと思いました。」
なんだ、ジェイドの仕業か。ジェイドも存外彼女の小エビ呼びは気に入っていたみたいだから当然と言ってしまえばそうだろう。タイミングが違っていれば、自分から教えていた未来もあったと思う。兄弟で思考は似てくるのだ。
「へ〜。魚類はまだそうみたいだけどぉ、人魚類は普通に家族で暮らしてる。ハウスキーパーとかを雇う家はあるだろうけどねぇ。昔は魚類と人魚類ももっと距離が近かったみたいだけど、今は共生とかないよ。人魚数少ねぇし。」
「そうだったんですね。そういえば、私意外と先輩たちの生活知らないですね。」
「いつかジェイドが教えてくれるよぉ。」
基本フロイドは自分がしたいことしかしない。正直自分たちの生活様式を彼女に教えるのは面白そうであったが、いかに自由奔放なフロイドといえど、自分の片割れの楽しみを取ることはしたくなかった。彼女は今、ジェイドが大事に大事に宝箱に仕舞っているのだ。それを自分やアズールが特別に見せてもらっているだけ。この信頼を裏切ることはフロイドのしたくないことだった。
「ジェイド先輩物知りですもんね。」
「あ〜!まるで俺が何も知らないみたいな言い方、ムカつく〜。小エビちゃんのくせに生意気〜!」
フロイドはわかりやすくむくれて見せた。こんなこときっと出会った当初では考えられないことだ。彼女でなかったら今頃締め上げている。しかし、それくらいの軽口は許せるくらい、彼女もフロイドにとって“身内”に入っていた。
「本当小エビちゃん可愛くなくなったよねぇ、前は話しかけるだけで飛び上がってビクビクしてたのに。」
にーっこり笑いかける。昔はこれだけで小魚のように逃げ出していたというのに。
「あはは、そうでしたね。」
今ではどこ吹く風だ。それこそ、ウツボに絶対の安心を寄せている小エビのようだ。自分を一飲みできるような生物に絶対の信頼を寄せている。それがフロイドにはこそばゆくて、不愉快で、心地よかった。
「先輩は可愛くなりましたね。」
彼女は体を前に起こすと、フロイドの前髪を撫で付けた。これくらいなら許されることを知っているのだ。フロイドもそれを釈然としない顔でおとなしく受け取っている。いつからこの手が不快に思わなくなったのだろうか。こんな小さい手、すぐにでも捻り潰せるというのに。小さくもう一度、可愛くねえの、と呟いた。
◇
彼女にとってまた長い夜が始まったのだろうな、とジェイドはモストロ・ラウンジで締め作業をしながら思った。できることが限られている空間で過ごす夜はきっと酷く退屈だろう。本当は閉店後も会いに行って彼女の身の回りの点検をしたかったのだが、今夜は別件の準備があったために行けなかった。しかしこれも大事な計画の一つなのだ。キビキビ手を動かしていると、それをソファに座ってぼんやり見ていたフロイドが声をかけてきた。
「ねぇジェイド、楽しそうだねぇ。」
「おやフロイド、そう見えますか?」
フロイドはここ最近、機嫌がよかった。ジェイドのきのこ責めがないからである。彼は今小エビちゃんの育成に一生懸命なのだ。最初言われた時はめんどくさいことを…と思ったが、きのこ責めからの解放は思わぬ特典だった。
「隠した方がいいよ。」
「僕としては申し訳ない気持ちでいっぱいなんですけどねぇ。」
ジェイドは困ったように眉を下げた。ここ最近は、モストロ・ラウンジで起きた監督生人魚事件のアフターフォローに忙しい。彼女の世話はせめてもの罪滅ぼしだというのに。そうは言いながら、手にはグラスが握られており、クロスで滞りなく次々と拭き上げている。
「よく言うよ。イシダイせんせぇとかは、今回のことジェイドが仕組んだって絶対思ってるよ。」
彼女の生活のサポートを名乗り出たはいいが、想像以上に学園長とクルーウェルはオクタヴィネル寮にやってきた。もちろん、彼女の様子を見にきているだけであるが、特にクルーウェルが、何かとジェイドを筆頭にフロイドやアズールを何か言いたそうな目で見てくるのだ。
「心外ですね、彼女が人魚になっても何のメリットもないというのに。」
まるでメリットがあれば彼女を人魚にするというような口ぶりだ。そのマイペースな様子が、逆に教師たちを混乱させているのだろう。
「アッハァ、俺、ジェイドのそーゆー所だーいすき。」
「僕もフロイドのそういう所大好きですよ。」
「うまくやってよねぇ、俺も小エビちゃんのこと内側に入れたいとおもってるし。」
「ふふ、フロイドは気が早いですね。」
ジェイドは最後の一個のグラスを拭き上げると、丁寧に戸棚に仕舞った。グラスの数は間違いなく合っていた。これで今日の片付けは終了である。売り上げは裏でアズールが計算しているだろうし、フロイドは多少雑ではあったが店内の掃除を終わらせたようだった。ジェイドの仕事が終わったのを確認するとフロイドは立ち上がって大きく伸びをする。肩がバキバキと鳴った。今日はドリンカーだった為、肩が凝ったのである。ジェイドを横目で見ると、彼はもう、次の仕事に入ろうとしていた。この仕事はフロイドも手伝う約束をしていた。
「ねぇ、ジェイド。でも今回都合よかったって思ってるでしょ。」
「フロイド、それは秘密です。」
言ってるようなもんじゃん、フロイドはそう言って笑いながらジェイドを置いて奥の部屋に向かって行った。
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