4日目

4日目の夜。監督生はモストロ・ラウンジにいた。人魚になってからこの時間に出歩くのは初めてだ。それだけでも心踊るというのに、普段賑わっているラウンジに今日は人が誰もいない。貸切状態である。人がいないだけで見慣れたモストロ・ラウンジがガラリと非日常な空間と化す。

「皆さんに見せつけても良かったんですけどね。」

ジェイドが冗談めいて言う。今日の移動も寮の引っ越しの時にも使用したシャボン玉のように宙に浮く水槽を使ってもらった。ジェイドは彼女の部屋からラウンジまでの距離はそこまで遠くはないので抱きかかえて行きたかったのだが、彼女がそれを全力で拒否した。乙女は体重のあれこれが気になるのである。ちなみに今日、グリムはフロイドの部屋に連れてかれていた。存外意気投合していたが、フロイドはやはりフロイドなので、ソーセージなどにされていないといいが。

「見世物じゃないですか…。」
「ふふ、人聞きの悪い。シーサイドが好評いただいているので、見世物になるのはあなただけじゃないですよ。」

ジェイドは移動式水槽をカウンターの裏に仕舞うと、そのままシェイカーを取り出した。彼女には一応肌を守る防御魔法をかけたので、そのままカウチに座ってもらった。彼女がラウンジに来る時は基本カウンターに座るのだが、万が一椅子から転がり落ちたりでもしたら怖いので、今回はそっちにした。いつもよりジェイドと距離が遠く、不思議な感じだった。

「ですが勿体無いので人払いを。今日はあなたの貸切です。」

ジェイドは手慣れたようにカクテルグラスを取り出すと、氷、オレンジジュース、パイナップルジュース、グレープフルーツジュースを次々とシェイカーに入れ、最後に複数のベリーを使用しているグレナデン・シロップをほんの少し入れると、蓋をしてシャカシャカとシェイカーを振る。彼女はいつもより遠い距離でその音を聞いていた。バーといえばシェイカーを使うイメージが強いが、意外とシェイカーを使うカクテルは少ないというのはここに通うようになってから知った。そもそも、モストロ・ラウンジでは意外にもアルコールを提供していないから、ノンアルコールカクテル、つまりモクテルだけになってしまうと必然的にシェイカーの出番はさらに少なくなる。しかしオクタヴィネルの寮服を着てシェイカーを振っているジェイドというのは想像以上にさまになっていて、もっとその姿を見たい下心で、以前アルコールを提供しないのかこっそりアズールに聞いたことがある。しかし、

「僕たちはルール違反なんてリスクは取りませんよ。」

とあっさり言われてしまった。そもそもよくよく考えたら、彼らはこっそりルール違反をして楽しむよりも、ルールの穴を突いて楽しむタイプなのだ。グリムたちをイソギンチャクにした時の事件などまさしくそうである。後からフロイドが、アルコールは提供していないが、ジェイドが育てた酩酊した気持ちになれるきのこは言えば提供していると追加で教えてくれた。そっちの方が法に引っかかりそうなものだが、恐ろしいことに合法で、きちんと学園にも届出を出しているらしい。

「どうぞ、プッシーキャットです。」

とりとめもないことを考えていたら、いつの間にかシェイクを終えたジェイドがモクテルをすっと差し出してきてくれていた。カウンターから遠いカウチにいるので、グラスに注ぐ所が見れなくて残念である。あの仕草もとてもかっこいいのに。

「ありがとうございます。かわいい名前ですね。」

差し出されたカクテルは深みのあるオレンジ色で、グラスにスライスオレンジとスライスグレープフルーツの乗った可愛らしいものだった。名前も見た目と同じく随分とかわいい。

「子猫のように可愛らしいあなたへ、と言ったらキザでしょうか。」
「少しだけ。」

ジェイドは彼女の辛口な返事に困ったように苦笑した。しかしそうは言ったが、彼女は純粋に嬉しかった。そしてこの雰囲気も相まって、とてもロマンティックな気持ちにさせられる。彼は雰囲気を作り上げるのにとても長けているようだ。

ジェイドはきちんと自分の分も作ってきたようで、手にはプッシーキャットとは別のモクテルを持っていた。恐らく前に気に入っていると教えてくれたブルーハワイのモクテルだろう。すっと彼女の隣に腰掛けると、またもキザッぽく、置いていたカクテルグラスを鳴らし、一口飲んだ。彼女も出されたモクテルに手を伸ばすと、口をつけた。

「あ、美味しい。」
「お口に合って良かったです。」

出されたモクテルはさっぱりとした酸味が心地よく、気持ちをすっきりとさせた。青い内装のモストロ・ラウンジとオレンジの色のカクテルのコントラストは、目が覚めるように華やかだ。

「今日、本当にありがとうございます。すごく楽しみだったんです。」
「僕も楽しみにしていました。」

彼女が笑いかけると、ジェイドもつられたように微笑んだ。結局、今日になっても彼女の体は元に戻る兆しは見えなかった。そのおかげで今日の約束が実行できるのだが。計算高いジェイドにしては珍しく賭けのような約束だったな、と彼女は思った。今日体が元に戻らなくて良かったなんて、少し不謹慎な話だが。しかし今日が楽しみだったのは本当なので、無事に決行できて良かったと思う。

「実は戻っちゃったらどうしようって思ってたんです。」

ジェイドは片眉を上げた。

「おや、そんな風に思っていただけていたとは。光栄です。」

彼もフロイドとアズール、そして寮生にも手伝ってもらって今日の準備をしていた。この日を楽しみにしていたのはジェイドだって同じだ。彼女からそういってもらっただけで今までの努力が報われるといった気持ちである。

「あなたの美しい尾ヒレを水の中で見れるのが楽しみです。」

ジェイドはグッとモクテルを飲み干すと、すっと立ち上がった。

「水槽の準備をしてきますので、少しだけ待っていてください。」

ジェイドは長い身体を折り、彼女の耳元にグッと顔を近づける。プッシーキャットを飲みきるまでには戻ります、と囁くと、彼女は思いもしなかったジェイドの行動に羞恥で顔を赤くした。片割れではないが、その様はまさに小エビのようだ、とジェイドは思った。彼女は今は『小エビ』ではないというのに。いたずらが成功した子供のように笑うと、ジェイドは颯爽と大水槽の方へ歩いて行ってしまった。

「こ、小悪魔だ…。」

年上の先輩にそんな評価はどうかとも思ったが、自分を翻弄する姿はまさに小悪魔のようだった。あまりからかわないで欲しい。人間に戻る前に死んでしまう。

手持ち無沙汰になった彼女はブンブンと尾ヒレを揺らした。水のないところで自分の尾ヒレをまじまじと見るのは、二日目の脱走事件以来だ。この尾ヒレにもだいぶ慣れてきたせいか、前よりも落ち着いて見ることができる。尾ヒレの先は確かに初日では透明だったが、今ではすっかりキレイな深い青色に染まっていた。この短期間で稚魚から成魚になるなんて不思議な話である。ラウンジで提供していたシータイムを飲んだ学生がそんな風になったとは聞いたことがなかったが、本当は長時間使用することで成魚になる薬なのだろうか。それともみんな稚魚のまま泳いでいるのだろうか。そんなことを思いながら、ぼんやりとあたりを見回す。まだ水槽は灯りが点いておらず、中の様子を見ることはできなかった。ジェイドの準備とは一体なんだろうか。カクテルグラスは大きなグラスではないので、それを飲みきるまでとなると、そんなに時間がかかるとも思えないが。

「わっ!」

そんなことを思った瞬間、ラウンジの照明が一気に全て消えてしまった。薄暗い照明だったとはいえ、灯りがないと何も見えない。しかし、その心配はすぐに吹き飛んだ。

「わぁ!」

360度取り囲むように設置している水槽が、一気にライトアップされたのである。底の方では貝殻の形をしたランプが輝いており、水を漂う海藻も電球のようなもので飾り付けられていた。いつもとは違った水槽の様子に、彼女の気分は高揚した。無数の小さな光が水槽の中で降り注いでいる。まるで海の中に星を散りばめたようだ。

「お待たせしました。いかがですか?」

カウンターの奥の方からジェイドがひょっこり顔を出す。彼女の歓声が聞こえたのだろう。その声は自信に満ち溢れていた。

「すごいキレイです!これも魔法ですか!?」
「ええ、連鎖術式を使ったものです。今度種明かしをさせてください。」

それまではロマンティックな魔法を使える男でいさせて欲しい。ジェイドは存外夢見がちな男なのだ。

「さて、今からがメインです。一緒に来てくれますか?」

雰囲気というのは恐ろしい。ここに来てから、ジェイドのエスコートは彼女を非日常的な気分にさせるのに十分だった。彼女も夢を見てしまったのだ。まるで自分が映画のヒロインであるかのような。そのため、普段では口走らないようなことを言ってしまったのだ。

「ジェイド先輩が連れてってくれますか?」

抱っこをねだるように両手をジェイドに伸ばす。さっきは散々抱き上げられるのは嫌だとごねたというのに。わがままな話だ。

「っ、ええ、もちろん。」

悪女だ。ジェイドは思わず確信した。この女は悪女だ。あの瞬間、彼は思わず生唾を飲み込んだ。もちろん、水槽までは彼女を抱き上げてエスコートしようと思っていた。しかし、ここまで来てもらう時に彼女は抱き上げられることをなぜか相当嫌がっていた。ついでにそのやりとりを見ていたグリムにまで女心の分からない男だと謗られた。心外である。そのため、なんとかうまく騙して抱き上げてしまおうとか色々作戦を立てていたというのに。腹立たしい女だ、たった一言で彼女は自分を翻弄する。

しかしそこで悟らせるジェイドではない。彼はすっと彼女に近寄るとそのまま抱き上げる。彼女の体に手を回す瞬間、顔をグッと近づけたが、彼女から首に手を回され、さらに顔を寄せられてしまったので、仕返しは失敗に終わってしまった。悔しい。してやられている。彼女からなんかいい匂いがした。

「どうぞ。」

ラウンジから水槽まで距離はそんなにあるわけではない。大水槽脇にある階段を上り、水槽を囲むように作ってある足場をそのまま進み、彼女を縁に座らせた。

「準備はいいですか?」
「ま、まってください。先輩は入ってくれないんですか?」

彼女のシュミーズは水の中でももちろん平気だが、オクタヴィネルの寮服はそうもいかないはずだ。前に見たときも人魚姿の時は服を着ていなかった。

「入りますよ。安心してください。」

しかしそうは言われてもこんな深いプールになど入ったことがない。人間であった時も、どこまでも泳げるほど泳ぎが得意というわけでもなかった。それに、呼吸だって本当にできるのだろうか。どうしても自分だけでは踏ん切りがつかなかった。完全に困ってしまい、もう一度ジェイドの方に向くと、その瞬間、目の前を何かが横切った。一拍おいてざばん!と水の音が聞こえてくる。

もちろんその正体はジェイドだ。いつの間にか彼は服を脱ぐと水槽に飛び込んでいたのだ。パッと水面に顔をだすと、鬱陶しそうに前髪を掻き上げる。そして彼女に向かって手を差し伸べた。

「さぁ、僕が付いています。」

彼女はゆっくりジェイドの手を取った。そして、少し体重をかけて恐る恐る水に体を沈めようとした。しかし。

「あっ!?」

ジェイドはその瞬間手をグッと引くとそのまま水の中に彼女を引き込んだ。ばっしゃん!とさっきよりも大きい音がした。ぶくぶくと彼らを取り囲むように白い泡が体を撫でていく。彼女の手を掴んだまま、底へ底へと沈んでいった。彼女のシュミーズの裾が海面に戻ろうとするように翻る。

ふと彼女を見ると、彼女は目をぎゅっと瞑っていた。ジェイドはくすりと笑った。口から気泡が出てきて、また海面へと飲まれていく。少し微笑ましくなり、彼女に声をかける。

「目を開けても大丈夫ですよ。」

水中で声が聞こえたことに少し驚いたようだ。しかし、ジェイドの言う通り、恐る恐る目を開く。水中で彼女と目が合ったのは、以前彼女と海底で対峙した時を数えると二回目だ。あの時はまさかこんな近くまで近寄れる仲になるとは思ってもいなかったが。

「!」

彼女は目を開けてみて驚いた。水の外にいた時と同じように視界が開けていたからである。水の中独特の歪みやぼやけもなく、目の不快感も一切感じない。

改めてジェイドを見ると、彼は完全に人魚の姿に戻っていた。最初見た時はあまりまじまじと見るまで気が回らなかったが、こうしてみると彼は綺麗だった。水に揺らぐ髪も、ヒレ耳も、自分とは違う色の肌も、全てが輝いて見える。神々しいというのはこのことをいうのだろうか。

ジェイドも、彼女からの視線を大いに感じたが、その瞳には嫌悪感や不気味さを感じなかったのでそのままにさせた。そして繋いだ手をそのままに、大水槽を旋回するように泳ぎ始めた。

「まずは僕が引っ張ってリードしますので、ついてきてください。泳ぎ方は水が教えてくれます。」

彼女はコクンと頷く。ジェイドは一度ぎゅっと手に力を入れるとそのままスピードを上げる。彼女は必然的に彼の少し後ろをついていくように引っ張られた。

目の端をジェイドの尾ヒレがふわふわと漂う。改めてジェイドは体格の大きい種族なのだな、と思った。尾ヒレの形が自分とは違うにしても、大きかった。胴回りなど自分の2倍はありそうだ。尾の長さも入れると、おそらく自分の倍はありそうである。

ジェイドが手を引っ張ってくれているおかげで、あまり頑張らなくてもグイグイと早く泳ぐことができた。恐ろしいのは、一緒に引き回されているうちに、何か言われたわけでもないのにヒレの使い方がなんとなく分かってきたことである。ジェイドが言っていた通り、水が教えてくれたのだ。肌を撫でる水が心地よい。柔らかなシフォンで撫でられているようだ。今まで過ごしやすいように色々環境を整えてもらってきたが、今この瞬間が一番心地よい。やはり人魚は水に生きる生き物なのだ。

しかし、さすがの彼女にも限界がきた。息が続かない。確実に人間だった時より長く息を止めていられたが、やはり苦しかった。彼女は繋いでいない方の手でジェイドの手をつついた。とんとん、と二回叩いたが気づいていないようだ。とんとんとんと今度は何度も突ついてみた。

「おっと、すいません。気づかなくて。どうしました?」

頬を膨らませ、指で口と海面を交互に指差した。ジェイドはすぐにピンときた。息が続かなくなった陸の生き物がこの動作に近いことをよくやるからだ。

「あなたは息ができますよ。」

今、彼女は人魚なのだからわざわざ海面に上がらなくても呼吸できるのに。しかし彼女はブンブンと首を振った。事実、何度か息をしようとしたが、鼻に水がガッと入ってくるだけだった。あのまま吸っていたらまた鼻がツーンとするだろう。

もうだめだ、息がもたない。彼女はやり方は後で聞こうと思い、とりあえず海面に行こうと思った。すいませんと心の中で謝ってジェイドの手をパッと離すと、一目散に海面を目指す。泳ぎは最初に比べると格段に上手くなっていた。ラウンジの天井が水面越しに見えてきた。思った以上にこの水槽は深い。後少しで出られる、と思った瞬間、体が水の底に引っ張られていった。

「なっ!?」

思いもよらない衝撃でパニックになり、右手が水面に出たが虚しく宙をつかむ。驚いた時に空気が全て口から出てしまい、先ほどとは比べものにならない程の息苦しさが彼女を襲う。引きずり込まれている振動と苦しさで視界が安定しない。どんっと硬い何かにぶつかり、抱き絞められた。こんなことをするのはジェイドしかいない。

「僕を置いていくなんて、酷いです。」

ジェイドは彼女から手を離されて傷心していた。長い尾ヒレで彼女の体をきゅうっと絞めると、空いた両手で彼女の顔を包む。彼女は見るからに苦しそうで、ジェイドの言葉など聞こえていない。そのまま顔を引き寄せるとジェイドは彼女にキスをした。

「!?」

さすがの彼女も自分が何をされているか気付き、苦しくて瞑っていた目を大きく見開いた。目の前のジェイドは笑っていた。そして頬に添えていた親指を無理矢理口の中に突っ込み、口を開かせた。何を、と思った瞬間、再び唇を合わさせられる。

「うぐっ」

彼女はジェイドを悪魔だと思った。彼は彼女の口の中いっぱいに海水を吹き込んできたのだ。それも一回に飲み込み切れる量ではない。吐き出したかったが、ぴったりと唇を覆われているのでそれも叶わない。口の中は塩辛く、鼻の奥がやっぱりツンとする。海水が自分の中に侵入しているようだった。苦しさで体がビクビクと痙攣する。一方的に海水を吹き込まれて声も出なかった。

「はぁっ…。」

解放の時は突然だった。肋骨のあたりから何かがスーッと吹き出す感覚がした瞬間、嘘のように息苦しさが消えたのだ。

「えっ?」

地上と同じように息が吸える。鼻もツンとしない。肋骨あたりに少しの違和感があるが、それくらいだ。最初に感じた塩辛さも全く気にならない。

「初めてのエラ呼吸ですね。おめでとうございます。」

ジェイドは手を彼女から離すと嬉しそうに笑った。

「すいません、多分呼吸の仕方を説明するより、一回でも無理矢理エラを使わせたほうがわかりやすいかと思いまして。」

確かに、海水を大量に体内に取り入れるというのは言われても簡単にできるものではない。おそらく何度も飲み込んで胃の中に海水を送ってしまうだろう。きっと呼吸の仕方を教えるのが難しいのと同じだ。

「いえ、その、…ありがとうございます。」

彼女はさっきのキスが気になってしまったが、きっとジェイドに他意はない。だって今もさっきと変わらずにこにこ笑っている。今までと同じく、世話を焼いてくれただけなのだ。人工呼吸と同じ、助けてくれただけだ。

「ふふ、陸に上がった時はちゃんと肺を使ってくださいね。」
「が、頑張ります。」

そこで彼女はジェイドが未だに自分を長い尾ヒレでぐるぐると巻きついていることに気づいた。決して苦しくはないが、腰から下がちっとも動かない。

「あ、あの…。動けないです。」

ぺしぺしと巻きついている尾を叩く。ジェイドはその様子が面白いと言わんばかりにクスクス笑い、さらにきゅうぅっと締めて、そのまま泳ぎ始めた。

「きゃー!」

彼女もだんだん面白くなってきて笑った。そして締め付けが緩くなった一瞬の隙を見てするりと抜けだすと、彼の前を泳ぎだす。するとまたあっという間に追いつかれ捕まり、ジェットコースターのように縦横無尽に泳がれる。そしてまた抜けだすと今度は簡単に捕まらないようにチョロチョロと泳ぎ回っていく。この時、彼女は自由だった。何も考えず、水の中を泳ぎ回ることができた。

「だいぶ上手になりましたね。」

水の中でも体を動かす原理は同じなので息も上がる。だいぶ泳ぎ回って少し疲弊した頃に、ジェイドが小休止と言わんばかりに声を掛けてきた。

「本当ですか。」

彼女はすいすいと彼のほうに向かって泳いで近づいていった。途中水流に煽られてシュミーズの裾がふわりと翻る。先ほど泳いでいる間も一切気にならず、改めて人魚用の服の機能性の高さに驚いた。

「ええ、きっと人間から人魚になった人の中で一番お上手です。」
「でもジェイド先輩の方がずっと速かったです。」
「何年人魚やってると思うんですか。それに僕は背ヒレもあるので、元々あなたよりも速く泳げる種族なんですよ。」

ジェイドに近づくと、彼は両手を軽く広げてきたので彼女は特に抵抗することなく彼の腕の中に収まった。先ほどのじゃれあいのせいか、もう抵抗はない。彼女も彼の背中に手を回す。すると彼は彼女を捕まえたままゆらゆらと水草のように揺れだした。まるで映画で見たチークダンスのようだった。

「楽しんでいただけてますか?」
「すごく。」

彼女は彼の金と鈍色の瞳を見つめた。水の中なのに目が潤んでいるように見える。もう息は収まったのに、その瞳に見つめられていると、また体温が上がってきている気がした。

「あの、本当に初日からありがとうございます。先輩がいなかったら、私あのまま干からびてました。」
「おや、まるで今日が最後のように言うんですね。」
「明日には戻ってるかもしれないですし…。」
「戻らないかもしれない。」

ジェイドは彼女の顎に手を添えると、ぐいと更に上を向かせた。そして反対の手で腰を引き寄せ体をより密着させる。シュミーズ越しに彼女の体温が伝わってくる。

「このままずっと人魚のまま…と言われたらどうしますか?」
「困ります。」

そんなのジェイドだってわかっているだろう。それに飲んだ薬の成分的にも持続性はないと言われている。これはあり得ない話だ。もし本当にシーサイドに入っていた薬が規定通りのものであったら。

「先輩は今も陸にも行けるのに、私を海に置いていくんですか。」

今日この日まで、こんな非常事態でも楽しく過ごすことができたのはジェイドが居たお陰なのは彼女もわかっている。今日だって閉ざされた水槽の中でこんなに楽しく居られるのはジェイドがいるからだ。ここに一人いることになってしまったら、きっとそれは牢獄と変わらない。

「………。」

ジェイドは何かが響いたようで、彼女を見つめたまま考え込んでしまった。しかし、なんとなくその沈黙は苦しくなかった。それは彼の手つきが変わらず優しいことと、何かを迷っているような瞳がそうさせた。

「……すいません、バカなことを言いました。その薬は後少しできっと、効能が消えますよ。」

だから、その先の言葉は泡となって消えてしまった。ジェイドは彼女を更に強く抱きしめた。彼女はそれを受け入れた。その瞳が、まるで置いていかれた子供のようだったからである。自分が置いていこうとしたくせに。そう思ったが、彼女も彼を強く抱きしめる。彼の体温が心地よかった。

再び見つめ合う。ゆっくりとジェイドの顔が近づいてくる。もうエラ呼吸は覚えているというのに。それでも彼女は目を閉じた。一瞬遅れて唇にふに、と柔らかい感触がした。確かめるように何度も、ふにふにと唇を合わせてくる。それがなんだか心地よくて、彼女はそのままジェイドの首に腕を回す。グッと抱き上げられると、ぬるりとしたものが唇を舐めあげた。そして今度はするすると尾びれの先になにかが巻きつく感覚がする。恐る恐る口を開くと、すぐににゅるりとジェイドの長い舌が入ってきた。初めてのキスだが、人間よりもずっと長いということは確信が持てるくらいには長い舌だ。最初は遠慮がちに前歯や上顎を擦ってきたが、だんだんと深くなっていく。

「ん…ふぁ……。」
「はっ……。」

無遠慮に口の中を暴かれていく。そして夢中になっていたせいか、体が水中でゆっくりと押し倒されていた。気づけば緩やかに真っ逆さまに落ちている。体はジェイドの尾ヒレが巻きついていた。今度は逃げられそうにない。とは言っても、彼女も逃げる気などなかったが。たまに肋骨に触れるとき、彼のエラから水流を感じた。もちろん彼も呼吸をしている。この非日常な空間で、彼の生を感じることができた。

「あっ。」

ぎゅうぎゅうと締め上げられていたせいか、キスに夢中になりすぎていたのか、シュミーズの柔らかいゴムで縁取られていた襟首が肩から外れ、その素材のせいかするりと彼女から脱げて行った。下へ下へと落ちていく二人に逆らうように、吐いた泡と一緒に海面に向かって上へと吸い込まれていく。薄い布がなくなっただけなのに、よりジェイドを近くに感じる。ジェイドの尾の隙間から見える彼女の青い鱗と肌のコントラストが美しかった。彼女は今、本当の人魚として完成したのだ。

しかしそんなことはすぐに気にならなくなった。更に深く入ろうとジェイドが彼女の口の中をまさぐる。息をつく暇がない。今度こそ彼女は本当に溺れそうだと思った。それでも、ジェイドに置いていかれたくなくて、彼女は彼に縋り付く。ジェイドも彼女に置いていかれないように更に強く抱きしめた。互いの体温が混ざりきっても、二人はそのまま溺れ落ちていった。

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